出版物
スラブ・ユーラシア叢書- 1. 国境・誰がこの線を引いたのか-日本とユーラシア
- 2. 創像都市ペテルブルグ:歴史、科学、文化
- 3. 石油・ガスとロシア経済
- 4. 近代東北アジアの誕生―跨境史への試み
- 5. 多様性と可能性のコーカサス-民族紛争を超えて
- 6. 日本の中央アジア外交-試される地域戦略
- 7. ペルシア語が結んだ世界-もうひとつのユーラシア史
- 8. 日本の国境・いかにこの「呪縛」を解くか
- 9. ポスト社会主義期の政治と経済-旧ソ連・中東欧の比較
- 10. 日露戦争とサハリン島
- 11. 環オホーツク海地域の環境と経済
- 12.北西ユーラシアの歴史空間
- 13. 紅い戦争のメモリースケープ
- 14. 北極の人間と社会
――持続的発展の可能性 - 15. 北東アジアの地政治
―米中日ロのパワーゲームを超えて - 16. 日本帝国の膨張と縮小
―シベリア出兵とサハリン・樺太
[スラブ・ユーラシア叢書 12]
北西ユーラシアの歴史空間
――前近代ロシアと周辺世界
「スラブ・ユーラシア叢書」第12巻の刊行 編著:小澤 実・長縄 宣博 2016年3月 北海道大学出版会 (出版社のページへ) ISBN 978-4-8329-6821-9 定価 3600円 + 税 |
目 次
まえがき | |||
序章 | 北西ユーラシア歴史空間の射程 | 小澤 実 | 1 |
北西ユーラシア歴史空間とは | 1 | ||
越境研究と境域の史料 | 7 | ||
本書の構成 | 9 | ||
第一部 | 異文化集団との接触(九世紀から一四世紀) | ||
第一章 | 《総論》 統一国家成立までのロシア | 宮野 裕 | 19 |
一 | 国家形成前夜の東スラヴ地域 | 20 | |
二 | キエフ・ルーシの成立と発展における開放性 | 24 | |
三 | キエフ・ルーシの解体と近隣諸国 | 27 | |
四 | モンゴル支配下のルーシ | 30 | |
五 | モスクワの台頭 | 33 | |
読書案内 | 36 | ||
第二章 | アラビア語史料に記録された北西ユーラシア世界 | 家島彦一 | 41 |
――とくにイブン・ファドラーン『報告書』による―― | |||
一 | 北西ユーラシア世界のダイナミズム | 41 | |
二 | 北西ユーラシア世界に関するアラビア語史料 | 44 | |
三 | イブン・ファドラーン『報告書』に記録された北西ユーラシア世界 | 51 | |
四 | 『報告書』研究の可能性 | 67 | |
第三章 | キエフ・ルーシ形成期の北西ユーラシア世界とスカンディナヴィア | 小澤 実 | 75 |
――ルーン石碑の検討を中心に―― | |||
一 |
ヴァイキング世界の拡大とキエフ・ルーシ | 75 | |
二 | ルーシのエスニシティ生成をめぐる視座 | 77 | |
三 | ルーン石碑と「東方」 | 83 | |
四 | スカンディナヴィア人にとっての北西ユーラシア | 88 | |
五 | 北西ユーラシア境域論の可能性 | 92 | |
第四章 | ロシア ― ビザンツ緩衝地帯の蛮族観について | 草生久嗣 | 105 |
――二世紀ビザンツ史書におけるペチェネーグを題材に―― | |||
一 | ビザンツの歴史叙述 | 105 | |
二 | ビザンツ帝国のロシア観 | 106 | |
三 | ペチェネーグとビザンツ帝国 | 108 | |
四 | ペチェネーグの消滅 | 113 | |
五 | 歴史家アンナ・コムネナのペチェネーグ問題 | 118 | |
六 | ペチェネーグ後の北西ユーラシア | 123 | |
第五章 | コンスタンティノープルのストゥディオス修道院とルーシの修道士 | 橋川裕之 | 133 |
――正教文化の伝播について―― | |||
一 | ベロオゼロから | 133 | |
二 | ペチェルスキーとストゥディオス | 140 | |
三 | 一四世紀のルーシとストゥディオス | 151 | |
四 | 二つの民族と一つの世界 | 159 | |
第二部 | チンギス裔とオスマン朝からの視線(一五世紀から一七世紀) | ||
第六章 | 《総論》 「ロシア帝国」への道のり | 濱本真実 | 175 |
一 | 草原の支配者としてのロシア | 176 | |
二 | 「キエフの遺産」の回復、あるいは征服 | 180 | |
三 | 全正教徒の守護者としてのツァーリ――オスマン帝国との対立へ | 185 | |
読書案内 | 189 | ||
第七章 | 一五世紀ジョチ朝とモスクワの相互認識 | 川口琢司・長峰博之 | 195 |
――ロシア語訳テュルク語文書を中心に―― | |||
一 | 四通のロシア語訳テュルク語文書 | 195 | |
二 | 第一文書 エディゲイからヴァシーリー・ドミートリエヴィチ大公への書簡 | 196 | |
三 | 第二文書 アフマトからイヴァン・ヴァシーリエヴィチ大公への勅許状または書簡 第三文書 ムルトザからイヴァン・ヴァシーリエヴィチ大公への勅許状または書簡 第四文書 ムルトザからヌルドヴラトへの書簡 |
202 | |
四 |
一五世紀ジョチ朝とモスクワの相互認識 | 210 | |
第八章 | ペルシア語・チャガタイ語諸史料に見えるモンゴル王統系譜とロシア | 赤坂恒明 | 233 |
一 | 中世ロシアとの関係が深いモンゴル諸王統 | 233 | |
二 | ジョチ裔に関するペルシア語・チャガタイ=テュルク語系譜史料 | 235 | |
三 | 『ムイッズル=アンサーブ』のジョチ裔系譜情報より | 238 | |
四 | 『勝利の書なる選ばれたる諸史』(『TGNN』)\/のジョチ裔系譜情報より | 241 | |
五 | ロシア系譜書におけるタタール系譜 | 246 | |
六 | 「ハン国」という通説的概念の相対化 | 252 | |
第九章 | オスマン朝におけるヨーロッパ認識の伝統と革新 | 小笠原弘幸 | 261 |
――七世紀中葉以前の北西ユーラシア観を中心に―― | |||
一 | オスマン朝と北西ユーラシア | 261 | |
二 | 北西ユーラシア地域に関する用語 | 263 | |
三 | 古典的ムスリム地理学の継承と総合一六世紀後半における北西ユーラシア認識 | 264 | |
四 | 古典的見解の克服と新しい知見一七世紀半ばにおける北西ユーラシア認識の展開 | 273 | |
五 | 北西ユーラシア認識の転換 | 283 | |
終 章 | ロシア近現代史の視点から | 長縄宣博 | 291 |
一 | 問題発見の場としてのユーラシア | 291 | |
二 | その後の北西ユーラシア――ヴォルガ・ウラル地域と右岸ウクライナ | 293 | |
三 | ロシア帝国とオスマン帝国 | 300 | |
四 | ウクライナ危機によせて | 307 | |
人名索引 | 7 | ||
事項索引 | 1 |