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研究員の仕事の前線
皆川修吾先生を偲ぶ
宇山 智彦(SRC)
2024年がもうすぐ終わろうとしている時に、センターに悲報が飛び込みました。名誉教授の皆川修吾先生が12月18日に亡くなられたというのです。
皆川先生は1939年のお生まれで、1961年に早稲田大学法学部を卒業後、ドイツ、オランダ、イギリスで学び、1975年にオーストラリア国立大学に博士論文Presidia and standing commissions of the federal and republican supreme Soviets in the USSR, 1958–1972を提出して学位を取得されました。この博士論文をもとにした著書は、1985年にSupreme Soviet Organs: Functions and Institutional Development of Federal and Republican Presidia and Standing Commissionsというタイトルで名古屋大学出版会から刊行されました。ソ連政治の研究といえば圧倒的にソ連共産党中央の研究が主であった時代に、ソ連最高会議および連邦構成共和国最高会議に注目し、これらが単なるお飾りではなく限定的ながらも政治的・社会的役割を果たし、ソ連政治の多様化を体現していることを指摘した皆川先生の研究は、21世紀の権威主義体制研究における議会への注目に通じるところがあり、大変先駆的だったと言えます。
皆川先生は帰国後の1977年から南山大学で教鞭をとった後、1990年からスラブ研究センターに教授として在籍されました。1992年から94年にはセンター長を務められましたが、特筆すべき功績は、センター長時代の構想に基づいて、1995年から98年まで重点領域研究「スラブ・ユーラシアの変動:自存と共存の条件」を領域代表者として牽引されたことでした。9つの計画研究班と19件の公募研究から成り、多数の研究者を結集したこの重点領域研究は、74点の領域研究報告輯と6点の全体研究集会報告集を刊行し、その中には現地調査の成果や英語・ロシア語で刊行されたものも多く含まれていました。出版の電子化が始まったばかりの時期で、ほとんどの成果は紙媒体のみで刊行されたため、ごく限られた図書館でしか閲覧できないのは残念です。しかし、この重点領域研究がセンターおよび日本のスラブ・ユーラシア研究の発展に極めて大きく貢献したこと、また「スラブ・ユーラシア」という地域概念自体を創造し広めるという重要な役割を果たしたことは間違いありません。
皆川先生は重点領域研究の中でご自身が担当された計画研究班の成果として、1999年に編著書『移行期のロシア政治:政治改革の理念とその制度化過程』を刊行した後、2001年には定年より少し早く愛知淑徳大学に移られました。翌2002年には単著『ロシア連邦議会:制度化の検証 1994-2001』を刊行し、研究成果をきちんと本にする姿勢を貫かれました。
筆者は大学院生時代の1993年に鈴川基金奨励研究員として初めてセンターに来た時に、センター長だった皆川先生にお目にかかりました。外国生活の経験が長いだけあってダンディで朗らかな先生だというのが第一印象でした。1996年にセンターに着任した時には、2年目に入った重点領域研究の熱気と、先生のリーダーシップを目の当たりにすることができました。先生ご自身が企画する研究はロシア政治の枠内のものでしたが、他分野の研究者への包容力と優しさがありました。そして、風通しのよい定期的な話し合いの場を設け、領域研究のスケジュールを明確に設定して、期間内に成果を出すよう無理なく、さりげなく大勢の人々を導く手腕は、本当に見事でした。
心より御冥福をお祈りいたします。