ニュース
- センターニュース
- 英文センターニュース
- 研究員の仕事の前線
- プリンストン大学で新プロジェクト"SovMode: A Series of Annual Workshops"
(2024年9月6日) - 長縄研究員「2024年度大同生命地域研究奨励賞」受賞
(2024年7月31日) - INCSAがダラム大学で立ち上げ
(2024年7月30日) - シンポジウム「学術的および社会的挑戦としての境界研究:日本・ドイツ・ポーランド」
(2024年7月22日) - 木村崇さんとSRC
- 木村崇 著作リスト(試作版)
(2024年7月5日) - 第10回日韓共催シンポジウムの開催
(2024年6月11日) - ロシアのウクライナ侵攻特集
- プリンストン大学で新プロジェクト"SovMode: A Series of Annual Workshops"
- スラブ研究センター・レポート
研究員の仕事の前線
木村崇さんとSRC
望月哲男(北海道大学名誉教授)
日本ロシア文学会、ロシア史研究会、日本スラヴ・東欧学会(JSSEES)、ロシア・東欧学会、ICCEES等々の学会でそれぞれ重要な役割を果たされ、センターでも共同研究と運営の両面で長期にわたって多大なご貢献を賜った木村崇京都大学名誉教授(センター名誉研究員)が、本年4月27日に満79歳で亡くなられました。
木村さんの表情豊かな顔と元気な声に、スラブ研でも学会の場でも接することができないと思うと、実に寂しい気持ちを覚えます。
SRCと木村さんとの縁は、おそらく筆者が知る以上に長いのですが、正式にSRCの構成員としての役割をお引き受けいただいたのはちょうど30年前、ソ連邦崩壊の少し後のことでした。
つまりはスラブ世界の大きな変化を受けた「重点領域研究 スラブ・ユーラシアの変動」(皆川修吾代表:1995~97年度)に取り掛かろうとするときに参画をお願いしたわけで、木村さんはこの地域の研究の新展開を目指すセンターの取り組みにおいて、頼もしい助っ人と厳しい審判員の両方の役を果たしてくださいました。1996年の点検評価に寄せられた文章では、SRCが小さな組織ならではの細やかな合意形成の努力によって果たしてきた従来の機能・役割を積極的に評価する一方で、今後部門が増えて組織が拡大した場合に、いかに部門間の合意を作り、さらに内外の組織や機関との連携を形成・維持していくかという、本質的な課題を提起されています。また、先立って点検評価を担当された川端香男里・西村可明両氏の発言を受けて、センターのような組織の宿命である専門性と学際性の両面での有機的進化について、個々の研究員の努力だけではない長期的なビジョンを求めておられます
木村さんは文学の専門家として、同じ重点領域研究で行っていた「文芸における社会的アイデンティティ」という新時代の文学を中心としたロシア文化研究にも、関心を寄せてくださいましたが、これに関しても、主旨は評価しながら、重要な批判的提言を寄せてくださいました。社会のアイデンティティを論ずる以上、ロシア人論・ロシア社会論への展開が必須であり、その際、知識人の世界観とは重ならないところの多い大衆の意識を無視すべきではない。「すぐれた文学作品」や「新傾向の作品」の研究だけでなく、サブカルチャー的なものを含むマスコミ文化、ポップアート的なものにまで対象を広げていかなければ、一知半解に終わりかねないという指摘で
もちろん木村さんの本領はこうした事後的なコメントよりも、むしろ共同作業の現場での生の声としての力にあり、一番その存在を感じたのはシンポジウムなどの議論の場でした。1994年度冬期シンポジウムにおけるウラジーミル・トゥニマーノフ教授(ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所)の報告「レスコフとロシア文学」に対するコメントが筆者の印象に残っていますが、そこには、時代によって偏った扱いをされ続けてきたこの19世紀作家のテクストに対するトゥニマーノフ教授の真摯でフェアな解釈への敬意と、木村さん自身深い縁と思い出のあるロシア文学研究所の良質な香りを放つ(しかもカフカスとも縁の深い)優れた人文学者(= наш человек)との、極東の地での幸福な出会いを喜ぶ気持ちがあふれていたように感じられます。ほかに1996年度冬期シンポジウムのエヴゲーニー・アニシモフ教授(ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所)の「ロシアの帝国的思考の根源」、1997年度夏期シンポジウムのボリス・ミローノフ教授(同前)の「18世紀―20世紀初期のロシアにおける民族問題」といった国家意識・民族意識に関連したロシア論の場でも、文学・歴史・思想を時間・空間感覚と結びつけてとらえる木村さんのコメンテーターとしての本領が発揮されていた感じがします。今整理してみると、くしくもすべてペテルブルクからの外国人研究員との対話でした。センターはいろんな人を媒介にいろんな場所とつながってきましたが、木村さんを介したペテルブルグの人文学者たちとの親密なつながりも、とりわけこの90年代において大きな意味を持っていたように思います。
2000年度夏期シンポジウムのセッション『ロシアとアジア』――【アレクサンドル・ゲニス(ラジオ・リバティ「魂の写真:現代文学の東方戦略」)、スタニスラフ・ラコバ(アブハジア人文科学研究所「フレーブニコフとアジア」)、中村唯史(「90年代ロシア文芸誌におけるコーカサス」)】、および2006年度冬期シンポジウムのセッション『帝国の知:ロシアのオリエンタリズムとポストコロニアリズム』――【中村唯史(「文学と境界:ロシア文学におけるカフカス―O.マンデリシタムとA.ビートフの場合」)、ハーシャ・ラム(カリフォルニア大バークレー校:「象徴のクロノトポス:ロシアとグルジアのモダニズムにおける文化交差的な差異」)、乗松亨平(「19世紀ロシア文学におけるコロニアル表象の条件」)、宇山智彦(討論者)】における、木村さんの「突っ込む」司会者ぶりも、強く印象に残っています。前者については、露文学会会長の中村唯史さんが、同会のウェブサイトに生き生きとした思い出を書かれています
各地で開催されたICCEES東アジア大会の場での、韓国や中国の同僚たちとの活発なやり取りも、また記憶に残っています。
SRCという「学際的共同研究」の場でお付き合いいただいたせいもあって、木村さんの仕事の専門分野を超えた広がりぶりにはとりわけ強い印象を受けてきました。論文「ロシア文学が「ゆりかご」で見た幻影
いくつかの仕事はまだ論じつくされておらず、開かれたままにも見えますので、元気でいらしたらそれぞれがどんな形に発展し、相互に関連付けられて大きな樹木に育っていったのかと、想像をたくましくせずにはいられません。またその一方で、現在のウクライナ戦争におけるロシア国家の思考様式や振る舞いに木村さんが極めて深い失望感を抱き、ロシアにまつわる様々なイメージや通念を自ら洗いなおす必要を口にされていていたことも、忘れることができません
以上のようにわれわれは木村さんの仕事や活動から多大なものを享受してきたのですが、感謝の裏には反省もあります。大きな問題は上記のことの裏返しで、ポスト・ソ連の変動期に密な関係が始まったことから、ともすれば木村さんの研究の現代的応用や分野を超えた展開の部分にのみ目を奪われ、研究の根幹にあたる19世紀前半の文学研究、とりわけレールモントフ研究の仕事について、きちんと注目し、学び、論ずるのを怠けてきたことです。このたびの訃報に接して、センターニュースの宇山編集長から追悼記事執筆のご提案を受け、ふと自分は木村さんの仕事について何を知っているのだろうかと振り返ってみて、そのことが実感されました。そして遅ればせながら自分用に木村さんの著作リストのようなものを作り(木村さんご本人はそういうことにあまり熱心ではなかったのか、結構大変な作業でした)、代表的なレールモントフ論に目を通してみて、そこにある明晰で、精緻で、かつ情熱に満ちた世界に感動しました。
未完の散文長編『ワジム』の創作史上の位置と意味を稿本研究によって検討しながら、悪魔的主人公と反乱農民との二つの「復讐」の間の不協和音を析出していく論考
19世紀から1970年代までのレールモントフ関連文献約2000点を、7項目に分類して収録した『レールモントフ文献目録』(1981年)
このような仕事に見られる自由で可能性に満ちた詩人レールモントフへの敬愛は、旧ソ連の文学研究を徐々に支配していった権威主義的な作品解釈への反発と、表裏一体となっています。『さよならむさくるしいロシアよ』という短詩の原テクストをめぐる論考
なお、ヴィノグラードフの定説を批判した1982年の論文の末尾には、SRCの先輩で同じく優れたレールモントフ研究者だった出かず子さんによる北大所蔵資料提供への謝辞が述べられていて(所属は「北大スラブ研究所」と書かれていますが)、このころから木村さんとSRCは研究レベルでつながっていたのだと、うれしい気持ちで認識した次第です。
前記の「反省」に戻れば、90年代の共同研究の場でも、ここに一部例示したような木村さんの仕事の中核部分にまでさかのぼって議論の俎上にあげていたら、また別の「現代ロシア文化研究」が展開できていたかもしれないと感じた次第。もちろんそれは過去の仮定の話だけではなく、これからの現実的な課題でもあるのでしょう。
このような雑駁な振り返りで木村さんの研究の何が概観できたのかは分かりませんし、そもそも遠隔地に住むちょっと年齢差のある後輩の目に映ったプロフィールを書いてみたに過ぎないので、木村さんにふさわしい追悼文になっているのかも疑問です
脚注