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 研究員の仕事の前線

    木村崇さんとSRC


望月哲男(北海道大学名誉教授)


     日本ロシア文学会、ロシア史研究会、日本スラヴ・東欧学会(JSSEES)、ロシア・東欧学会、ICCEES等々の学会でそれぞれ重要な役割を果たされ、センターでも共同研究と運営の両面で長期にわたって多大なご貢献を賜った木村崇京都大学名誉教授(センター名誉研究員)が、本年4月27日に満79歳で亡くなられました。


     木村さんの表情豊かな顔と元気な声に、スラブ研でも学会の場でも接することができないと思うと、実に寂しい気持ちを覚えます。


     SRCと木村さんとの縁は、おそらく筆者が知る以上に長いのですが、正式にSRCの構成員としての役割をお引き受けいただいたのはちょうど30年前、ソ連邦崩壊の少し後のことでした。

    京都でトゥニマノフ教授と(1994年)
                       京都でトゥニマノフ教授と(1994年)
    研究面では、1994年度から2010年度にかけて共同研究員(うち1994~1998年度は部門共同研究員、1999~2010年度は特別共同研究員)を、2011年度以降は名誉研究員をお務めいただきました。運営の面でも、同じ1994年度から2007年度にかけて運営委員(2006~2007年度は拠点運営委員)をお願いしています。

     つまりはスラブ世界の大きな変化を受けた「重点領域研究 スラブ・ユーラシアの変動」(皆川修吾代表:1995~97年度)に取り掛かろうとするときに参画をお願いしたわけで、木村さんはこの地域の研究の新展開を目指すセンターの取り組みにおいて、頼もしい助っ人と厳しい審判員の両方の役を果たしてくださいました。1996年の点検評価に寄せられた文章では、SRCが小さな組織ならではの細やかな合意形成の努力によって果たしてきた従来の機能・役割を積極的に評価する一方で、今後部門が増えて組織が拡大した場合に、いかに部門間の合意を作り、さらに内外の組織や機関との連携を形成・維持していくかという、本質的な課題を提起されています。また、先立って点検評価を担当された川端香男里・西村可明両氏の発言を受けて、センターのような組織の宿命である専門性と学際性の両面での有機的進化について、個々の研究員の努力だけではない長期的なビジョンを求めておられます木村崇「センターへの評価と提言(2)」『スラブ研究センターを研究する』1996年.  https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/tenken/1996/kimura.html  


     木村さんは文学の専門家として、同じ重点領域研究で行っていた「文芸における社会的アイデンティティ」という新時代の文学を中心としたロシア文化研究にも、関心を寄せてくださいましたが、これに関しても、主旨は評価しながら、重要な批判的提言を寄せてくださいました。社会のアイデンティティを論ずる以上、ロシア人論・ロシア社会論への展開が必須であり、その際、知識人の世界観とは重ならないところの多い大衆の意識を無視すべきではない。「すぐれた文学作品」や「新傾向の作品」の研究だけでなく、サブカルチャー的なものを含むマスコミ文化、ポップアート的なものにまで対象を広げていかなければ、一知半解に終わりかねないという指摘で木村崇「スラブ研究の未来 ―文学―」『スラブ・ユーラシアの変動 : 自存と共存の条件』スラブ研究センター, 1998年, 151-153頁.、これは短期間のプロジェクトではにわかに対応できなかったものの、その後の私たちの共同研究に確実に影響を与えました。


     もちろん木村さんの本領はこうした事後的なコメントよりも、むしろ共同作業の現場での生の声としての力にあり、一番その存在を感じたのはシンポジウムなどの議論の場でした。1994年度冬期シンポジウムにおけるウラジーミル・トゥニマーノフ教授(ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所)の報告「レスコフとロシア文学」に対するコメントが筆者の印象に残っていますが、そこには、時代によって偏った扱いをされ続けてきたこの19世紀作家のテクストに対するトゥニマーノフ教授の真摯でフェアな解釈への敬意と、木村さん自身深い縁と思い出のあるロシア文学研究所の良質な香りを放つ(しかもカフカスとも縁の深い)優れた人文学者(= наш человек)との、極東の地での幸福な出会いを喜ぶ気持ちがあふれていたように感じられます。ほかに1996年度冬期シンポジウムのエヴゲーニー・アニシモフ教授(ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所)の「ロシアの帝国的思考の根源」、1997年度夏期シンポジウムのボリス・ミローノフ教授(同前)の「18世紀―20世紀初期のロシアにおける民族問題」といった国家意識・民族意識に関連したロシア論の場でも、文学・歴史・思想を時間・空間感覚と結びつけてとらえる木村さんのコメンテーターとしての本領が発揮されていた感じがします。今整理してみると、くしくもすべてペテルブルクからの外国人研究員との対話でした。センターはいろんな人を媒介にいろんな場所とつながってきましたが、木村さんを介したペテルブルグの人文学者たちとの親密なつながりも、とりわけこの90年代において大きな意味を持っていたように思います。


     2000年度夏期シンポジウムのセッション『ロシアとアジア』――【アレクサンドル・ゲニス(ラジオ・リバティ「魂の写真:現代文学の東方戦略」)、スタニスラフ・ラコバ(アブハジア人文科学研究所「フレーブニコフとアジア」)、中村唯史(「90年代ロシア文芸誌におけるコーカサス」)】、および2006年度冬期シンポジウムのセッション『帝国の知:ロシアのオリエンタリズムとポストコロニアリズム』――【中村唯史(「文学と境界:ロシア文学におけるカフカス―O.マンデリシタムとA.ビートフの場合」)、ハーシャ・ラム(カリフォルニア大バークレー校:「象徴のクロノトポス:ロシアとグルジアのモダニズムにおける文化交差的な差異」)、乗松亨平(「19世紀ロシア文学におけるコロニアル表象の条件」)、宇山智彦(討論者)】における、木村さんの「突っ込む」司会者ぶりも、強く印象に残っています。前者については、露文学会会長の中村唯史さんが、同会のウェブサイトに生き生きとした思い出を書かれていますhttps://yaar.jpn.org/?p=2438


     各地で開催されたICCEES東アジア大会の場での、韓国や中国の同僚たちとの活発なやり取りも、また記憶に残っています。


     SRCという「学際的共同研究」の場でお付き合いいただいたせいもあって、木村さんの仕事の専門分野を超えた広がりぶりにはとりわけ強い印象を受けてきました。論文「ロシア文学が「ゆりかご」で見た幻影木村崇「ロシア文学が「ゆりかご」で見た幻影」木村崇・鈴木董・篠野志郎・早坂眞理(編)『カフカ―ス: 二つの文明が交差する境界』彩流社, 2006年, 255-282頁.」を典型例とするカフカスを中心舞台としたロシア人の自己表象と他者表象をめぐる議論は、それ自体ご自身の基軸であるレールモントフ研究の応用編ですが、図式的に語られがちなオリエンタリズム論を文学テクストの解釈レベルで多方向から徹底検証するという点で、大きな時代的な意義を感じさせてくれました。国家・国民の自己表象と他者表象に関する研究は、ロシア文学の領域を越えて広がり、大黒屋光太夫の異文化経験に際しての「記号論的」な態度を論じたものから、二葉亭四迷のロシア観を題材とした比較ナショナリズム論、さらに境界研究の一環として書かれた日本精神史論「日本の近代化が必要とした「国民」鋳造の型」などに至るまで、数々のチャレンジングな仕事に結びついています木村崇「比較文明論的大黒屋光太夫論の試み」『むうざ』12, 1993年, 28-38頁; 木村崇「明治維新前後生まれの日本知識人がイメージしたロシア—二葉亭四迷と内田良平の場合—」下斗米伸夫(編著)『日ロ関係 : 歴史と現代』法政大学出版局, 2015年, 41-67頁; 木村崇「第3章 日ロにおけるナショナリズムと初期相互イメージの共起的生成―同時代人二葉亭四迷とチェーホフの言説をてがかりに」五百旗頭真・下斗米伸夫・A.V.トルクノフ・D.V.ストレリツォフ編『日ロ関係史 : パラレル・ヒストリーの挑戦』東京大学出版局, 2015年; 木村崇(ディスカッション)「日本の近代化が必要とした「国民」鋳造の型」『境界研究』9号, 2019年, 59-89頁.。その一方で、ハルビン・ウラジオストクを語る会(雑誌『セーヴェル』)を主な舞台とした、極東における日本人の活動史に関するきわめて実証的な一連の研究も、我々の印象に残りました木村崇「浦潮日本娼家生成過程解明への手がかり」『セーヴェル』20, 2004年, 12-21頁など多数.。境界研究プロジェクトにおける岩下明裕教授とのコラボは間違いなく相互に大きな刺激となったと思われ岩下教授による木村さんのあふれかえるような思い出の記は、国境地域研究センターの次のサイトでご覧いただけます。http://borderlands.or.jp/Remembering_Mr.%20Kimura.pdf、そこから、ロシア艦によるボロジノ諸島(大東諸島)発見の古事を入り口に、海洋の時代に遅れて参入した19世紀前半のロシアの世界イメージを、当時の海洋地図を参照しながら論じた、独創的な研究も生まれています木村崇「境界なき空間―時代的事象としてのボロジノ―」『境界研究』2号, 2011年, 1-29頁.


     いくつかの仕事はまだ論じつくされておらず、開かれたままにも見えますので、元気でいらしたらそれぞれがどんな形に発展し、相互に関連付けられて大きな樹木に育っていったのかと、想像をたくましくせずにはいられません。またその一方で、現在のウクライナ戦争におけるロシア国家の思考様式や振る舞いに木村さんが極めて深い失望感を抱き、ロシアにまつわる様々なイメージや通念を自ら洗いなおす必要を口にされていていたことも、忘れることができません木村さんがこの戦争から受けた衝撃、あるい「恥辱感」は、次の書評の冒頭によく表れています。木村崇(書評)「沼野充義・沼野恭子・平松潤奈・乗松亨平(編著)『ロシア文化 55のキーワード』ミネルヴァ書房, 2021年」『ロシア語ロシア文学研究』54, 2022年, 131-142頁.


     以上のようにわれわれは木村さんの仕事や活動から多大なものを享受してきたのですが、感謝の裏には反省もあります。大きな問題は上記のことの裏返しで、ポスト・ソ連の変動期に密な関係が始まったことから、ともすれば木村さんの研究の現代的応用や分野を超えた展開の部分にのみ目を奪われ、研究の根幹にあたる19世紀前半の文学研究、とりわけレールモントフ研究の仕事について、きちんと注目し、学び、論ずるのを怠けてきたことです。このたびの訃報に接して、センターニュースの宇山編集長から追悼記事執筆のご提案を受け、ふと自分は木村さんの仕事について何を知っているのだろうかと振り返ってみて、そのことが実感されました。そして遅ればせながら自分用に木村さんの著作リストのようなものを作り(木村さんご本人はそういうことにあまり熱心ではなかったのか、結構大変な作業でした)、代表的なレールモントフ論に目を通してみて、そこにある明晰で、精緻で、かつ情熱に満ちた世界に感動しました。


     未完の散文長編『ワジム』の創作史上の位置と意味を稿本研究によって検討しながら、悪魔的主人公と反乱農民との二つの「復讐」の間の不協和音を析出していく論考木村崇「ワジムの悪魔的性格」『中京大学教養論叢』17(3), 1976年, 719-759頁.、戯曲『仮面舞踏会』の検閲・改訂のプロセスをたどりながら、作中の社会批判的な含意や、プーシキン夫妻をめぐるスキャンダルへの暗示を読み取り、人間の尊厳の擁護という深層テーマを見出していく論考木村崇「戯曲『仮面舞踏会』—作者の構想の表層と深層—」(上・下)『中京大学教養論叢』18(4), 765-789頁, 1978年; 19(1), 101-171頁, 1978年.、連鎖小説『現代の英雄』の執筆順をめぐる議論に踏み込んで、主人公ペチョーリン像と語り手像の形成過程という角度から、説得力のある結論を導いた論考木村崇「『タマーニ』論争」『ロシヤ語ロシヤ文学研究』11, 1979年, 1-14頁.――こんなふうにあげていけばきりがないのですが、木村さんの仕事は、立論の背景説明や資料・方法論の提示が明確なばかりか、これを論じることで何を解明するのかという目的設定がはっきりしています。作品の複数の稿や版の比較検討という地道なテクストクリティークの作業も、原典の確定に終わるのではなく、作品のモチーフや人物像の形成過程の内側からの解明、作者の個人的な経験や時代背景に照らしたその外側からの意味付け、作品をまたいだテーマの継承・発展のあり方の分析へと展開し、究極的には作者の創作を貫く構想や意図の推定へと結びついていきます。結果として、ポスト・デカブリスト時代の重圧のもとで自由を求めつつ短い生涯を終えた、早熟で誇り高き詩人のリアルな像が、立ち現れてくる気がします。


     19世紀から1970年代までのレールモントフ関連文献約2000点を、7項目に分類して収録した『レールモントフ文献目録』(1981年)木村崇「М. Ю.レールモントフ関係類別露文文献目録」『中京大学教養論叢』21(3), 1981年, 563ー813頁.も(もちろん全体にはとても目を通せませんでしたが)、間違いなく瞠目すべき仕事で、序文にはレールモントフ研究の専門家を日本に増やして研究のレベルアップを図りたいという希望が、はっきりと刻まれています。ソ連科学アカデミー・ロシア文学研究所での一年弱の滞在研究の成果ですが、インターネットどころかワープロもなかった時代だったこと一つを考えても、その仕事の熱と迫力が伝わってきます。

     このような仕事に見られる自由で可能性に満ちた詩人レールモントフへの敬愛は、旧ソ連の文学研究を徐々に支配していった権威主義的な作品解釈への反発と、表裏一体となっています。『さよならむさくるしいロシアよ』という短詩の原テクストをめぐる論考木村崇「「定説」に対する異議—『さよなら、むさくるしいロシア』の原テキストについて—」『中京大学教養論叢』22(3), 1982年, 635-697頁.では、ソ連科学アカデミーの重鎮ヴィノグラードフの定説を、複数の版の比較検討の手を抜いているとして正面から覆し、同時にロシア・ソ連の言論界における「民衆(ナロード)」という概念の、曖昧さゆえの呪縛力に警鐘を発しています。さらに叙事詩『ムツィリ』を論じた論文Такаси КИМУРА. Грузинский вопрос в поэме М. Ю. Лермонтова «Мцыри» // Japanese Slavic and East European Studies, vol. 3, 1982, pp. 57-72.では、レールモントフがロシア帝国によるグルジア併合を歴史的に不可避かつ必然の、正しい現象とみていたというソ連・レールモントフ学の伝統的な見解が批判され、またバラード『論争』をめぐる論文木村崇「レールモントフのバラード『論争』の争点」『中京大学教養論叢』27(3)、1986年, 689-723頁.では、東西文明の間に立つロシアの使命への積極的な承認をレールモントフに押し付けようとするソ連の「文化帝国主義的史観」の悪弊が、複数の優れた研究者の惜しむべき迷妄をあげつつ批判されていて、こうした一連の仕事が、90年代以降のオリエンタリズムをめぐる議論の基盤になっていたことがわかります。


    札幌の居酒屋で親しい仲間と
                             札幌の居酒屋で親しい仲間と

     なお、ヴィノグラードフの定説を批判した1982年の論文の末尾には、SRCの先輩で同じく優れたレールモントフ研究者だった出かず子さんによる北大所蔵資料提供への謝辞が述べられていて(所属は「北大スラブ研究所」と書かれていますが)、このころから木村さんとSRCは研究レベルでつながっていたのだと、うれしい気持ちで認識した次第です。


     前記の「反省」に戻れば、90年代の共同研究の場でも、ここに一部例示したような木村さんの仕事の中核部分にまでさかのぼって議論の俎上にあげていたら、また別の「現代ロシア文化研究」が展開できていたかもしれないと感じた次第。もちろんそれは過去の仮定の話だけではなく、これからの現実的な課題でもあるのでしょう。


     このような雑駁な振り返りで木村さんの研究の何が概観できたのかは分かりませんし、そもそも遠隔地に住むちょっと年齢差のある後輩の目に映ったプロフィールを書いてみたに過ぎないので、木村さんにふさわしい追悼文になっているのかも疑問です木村さんのご経歴についてはSRCにかかわること以外触れていませんが、それについては上掲の中村唯史、岩下明裕両氏の追悼文をご参照ください。。もしもご本人の目に触れたりしたら、君の話は相変わらず思い付きと材料ばかりで分析も結論もあいまいだと、夢枕に立って一喝されるかもしれませんが、それはそれでまた、うれしいような気がします。


     

    脚注


     

    木村崇 著作リスト(試作版)


     

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