SLAVIC STUDIES
/
スラヴ研究
19世紀ロシア文化におけるシューベルト
相沢直樹
Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese
) All rights reserved.
はじめに
1797年にウィーンで生まれた作曲家フランツ・シューベルトは、1828年にわずか31歳で夭逝するまでの短い生涯の間にすぐれた作品を次々と
生み出した。なかでも彼は夥しい数の歌曲を後世に残し、歌曲王とも称されている。生前の彼はその天才を一部の人にしか知られず、その死後のリストによるピ
アノ編曲の演奏会やパリでのシューベルト歌曲の流行などによって、ようやく全ヨーロッパ的に認められるようになった。ウィーンやパリから遠く離れたロシア
の人々がシューベルトを知るのも、このヨーロッパにおける再認識を受けてのことである。
1997年は歌曲王シューベルトが誕生して200年目に当たる年であった。そこで筆者もこれを記念して、19世紀ロシアにおけるシューベルト受容
についての研究を纏めてみようと思い立った
(1)
。
音楽の専門家でもない筆者には荷が重すぎることが予想された上に、このテーマについては先行研究と言えるようなものが極めて少なかった(この年に筆者と同
様なことを目論んでいる研究者がどこかにいる可能性はあるが、そのような論考について本稿執筆中は全く目にすることも耳にすることもなかった)。筆者に許
された方法は、ロシアの文学者たちの作品や書簡、彼らについての回想を片端から繙き、音楽関係の評論や通史からシューベルト関係の出来事を拾って行くとい
うものだった。
ロシア語でその頭文字が ”Ш
になる19世紀の三人の外国人の音楽家の中で、シューベルトはシューマンやショパンと比べると目立たない存在である。しかし、以下に示すように、彼はロシ
アにも熱狂的な信奉者を見出し、やがて一般の人々にもその名と作品が親しく受け入れられていくようになる。一方、文学作品に現れるシューベルトはしばしば
特別な衣を身に纏っている。シューベルト受容の問題の背後には、ロシアにおけるドイツ観念論・ロマン主義の受容と消化というもっと大きな問題が横たわって
いるのだ。それは明治維新以後、西欧文化の摂取に勤しんだわが国における様々な文化現象(例えば日本浪漫派など)とも通底するものを持っているのである。
収集された資料をもとに、本稿ではまずスタンケーヴィチの周辺の人々が初めて歌曲王と出会った時の様子を取り上げ、次にコンサートや音楽評論を通
して彼の作品と名前が認知されていく過程を跡付け、続いて19世紀のロシア文学の世界にどのようにシューベルトが現れているかを検証し、最後に彼をめぐる
ヤースナヤ・ポリャーナほかでのエピソードを紹介する。ここに示されたロシアにおけるシューベルト受容に関する資料は完全と言えるものからはまだほど遠い
が、このささやかな試みを端緒として今後更なる充実を待ちたい。
1. スタンケーヴィチによる発見:ロシア知識人とシューベルトとの出会い
アレクセーエフとアサーフィエフは、ロシア文化がシューベルトに接した最初の時期を扱った論考を同じく1928年にそれぞれ公にしているが、両者
ともニコライ・スタンケーヴィチと彼の周辺の知識人たちの歌曲王との出会いをロシアにおけるシューベルト受容の嚆矢と見なしている点で共通している
(2)
。
スタンケーヴィチがシューベルトを「発見」したのは、歌曲王の死から7年後の1835年のことであった。彼は偶々『魔王
Erlkonig』(D.328)
(3)
を初めて知った時の驚きをЯ.М. ネヴェーロフ宛ての手紙(1835年2月5日付け)の中で、興奮覚めやらぬ調子で次のように伝えている。
どこから始めたらいいだろう? まず初めに、君が僕にシューベルトのことを書いてきた最初の
人であることをとても嬉しく思うとともに悔しくもある。ふたり同時にシューベルトを聴いたとはね!
僕はこの作品をうちのオストロゴシュスクの
地主のサフォーノフの所で、これまで誰も弾いてみなかった音楽雑誌『フィロメーラ』の中に偶々
見つけた。それは昼食の後、巫山戯たりいちゃついたりした後だった。僕はちょっと試してみて、あやうく気が狂いそうになったよ! そうでも言わないと、多
分このバラードを読むとき、ちょうど魔王自身が子どもを捉えるように僕の心を捉える、この幻想的で素晴らしい感情を表現することはできなかったろう。冒頭
から一気にあの暗く謎めいた世界に連れ去られ、 durch Nacht und Wind
駆り立てられるのだ。ねえ君、この点で意見が一致して僕は何とも嬉しいよ。それもわざとみたいに同時になんて! 僕はこのロマンスを書き写しておいた。そ
れは今ベーエロフ家にある
(4)
。
ゲーテの詩に18歳のシューベルトが作曲したこの驚くべき歌曲は、「作品1」という番号を付されて彼の名を西欧中に知らしめる先兵となったが、ロ
シアでも同様の運命が待っていたというのは興味深い。『ロシア音楽史』の年譜は、1829年に出版された『ネフスキイ年鑑』の中にシューベルトの作品も
入っていることを伝えているが
(5)
、
楽譜の出版がそのままその作品や作曲家の認知を意味するものではない。スタンケーヴィチも「誰も弾いてみなかった音楽雑誌」の中に偶々『魔王』を見つけた
のだ。彼が自分が最初にシューベルトを発見したと誇りたく思ったのも無理はなかった。
スタンケーヴィチの熱狂はおさまらず、モスクワでシューベルトの作品を探し求めたり、歌曲王についての情報を求めて、事情通に訊ねて回った
(6)
。やがて彼は
シューベルトの最後の歌曲集『白鳥の歌
Schwanengesang』(D.957)に出会う。それは『魔王』を発見してから2年後のことのようだ。再びネヴェーロフ宛ての手紙(1837年3
月3日付け)の中で彼はこう書いている。
君はシューベルトの "Schwanen-Gesang"
について何か耳にすることはないだろうか? これは彼の死後出版された作品集だ。ひょっとするとオドーエフスキイが君に歌ってくれるかも知れない。僕にこ
れを薦めてくれたのはヴァーニチカの音楽の先生のランゲルだ。〈中略〉僕は 2te Abteilung
[第2部]を買って、プレムーヒノに送るところだ。その中の "Atlas," "Am Meer" と "Doppelganger"
に注目してくれたまえ。もっとも、どの作品も等しく素晴らしいけれど、その種類は様々だ。それにしてもこれは何という傑作だろう! 僕は生まれてこの方、
こんな音楽は聴いたことがない! いいかい、シューベルトはアル中になった上、悪い病気に罹って25歳で死んだのだよ。詩的な魂というものはいつでも放埒
三昧を求めるものだ。すべてか無か、なのだ。だが誤って、それをどこに見出したものか分からずにいるのだ(7) 。
スタンケーヴィチのシューベルト熱は、プレムーヒノのバクーニン家にも伝播して行った。これには彼とミハイル・バクーニンとの交友とともに、当時
彼がリュボーフィ・バクーニナと恋愛関係にあったという事情も大いに与っていた。ネヴェーロフに上の手紙を出す数日前に、若き哲学者はモスクワからプレ
ムーヒノの恋人に宛てて、離れて暮らすスタンケーヴィチの愛に対する不安に悩む乙女を慰める言葉を連ねた後で、次のように書いて寄こしている(2月27日
付け手紙)。
近いうち僕は貴女の許に Schubert's Schwanengesang
をお送りします。これは彼の死後に出された歌曲集です。今それはベーエロフ家の人たちが演奏しています。これは傑作です! ミッシェルは
Erlkonig を一番気に入っていますが、僕の考えでは、こちらの方がすぐれています。こんな音楽を僕は今まで聴いたことがありません!(8)
この後スタンケーヴィチは、シューベルトに関することを逐一リュボーフィに伝えている。3月1日付けの手紙の中で彼は、ベーエロフ家に置いてきた
シューベルトの楽譜をルジェフスキイに託してプレムーヒノに届けさせる旨を告げた後で、『白鳥の歌』の中の個々の歌曲について寸評を加えている。
どれが最もすぐれているかは決めがたいのです。どれもそれなりに素晴らしい。弟に音楽を教え
ている音楽家のランゲルは何よりも Atlas
を高く買っています。実際、これは見事な音楽です。独特の性格の、何という思想を持った作品でしょう…でも、これが Doppelganger
と同様に禁制の範疇に入りはしないかと危惧しています。こちらは幻想的な、魔訶不思議な音楽です! それは実際、cauchemar
[悪夢]に似ています。貴女には多分、 am Meer
が一番気に入ると思います。これは真実の祈りです。出だしのメロディーは、実に素朴な中にも思いが溢れています。それからその中の "fielen
die Thranen nieder" と "mich hat das ungluckselige Weib"
という所に注目して下さい。並外れた効果をあげています。 Fishermadchen と Abschied
もそれなりの傑作で、きっとアレクサンドル・ミハイロヴィチの気に入ることでしょう。残りの三曲は、どういう訳か分かりませんが、ベーエロフ家の人たちの
注意を引きませんでした。 Das Bild が気に入られないのは、どうやらそれが「涙よ目から流れ出よ」に似ているからのようです。 die
Stadt は、おそらく伴奏の難しさのため、 Taubenpost は余りにも長くて陽気な曲だからでしょう(9) 。
歌曲集『白鳥の歌』はシューベルトの死後に編纂されたもので、全部で14の歌曲から成る:『愛の使い
Liebesbotschaft』、『戦死の予感 Kriegers Ahnung』、『春の憧れ
Fruhlingssehnsucht』、『セレナーデ Stadchen』、『すみか Aufenthalt』、『遠い地にて In der
Ferne』、『別れ Abschied』(以上レルシュタープ詩)、『アトラス Der Atlas』、『彼女の肖像 Ihr
Bild』、『漁師の娘 Das Fishermadchen』、『都会 Die Stadt』、『海辺にて Am Meer』『影法師 Der
Doppelganger』(以上ハイネ詩)、『鳩の便り Die Tabenpost』(ザイドル詩)。
上の手紙からはスタンケーヴィチ周辺の人々の好みが判り、興味深いが、後にロシアでも大変人気を博することになる『セレナーデ』についてはまった
く触れられていない。これは『白鳥の歌』が二部に分けて出版され、彼がやっと手に入れたのが『別れ』から『鳩の便り』までを収めた第2部だったからであろ
うと推測される。
さて、この二日後にスタンケーヴィチは再びリュボーフィに宛てて、ルジェフスキイが楽譜を持っていくのを忘れたので明後日に送る旨を告げ、「貴女
の声でそれらが歌われるのを僕はどれほど聴きたく思うことでしょう。それらを貴女はとても気に入ることでしょう」
(10)
と書きかけた
ものの、体調を崩して動けなくなった。三日後に彼は「シューベルトはやっぱり送れませんでした。ここではシューベルトは滅多に出ないので、みんな売り切れ
てしまいます。それでアクサーコフが火曜まで写させてくれとせがみに来たのです」
(11)
と続きを書いている。
とうとうプレムーヒノに『白鳥の歌』が届いた。恋人に宛てたスタンケーヴィチの手紙(5月1日付け)は喜びに満ちている。
貴女がシューベルトの音楽を気に入って下さって嬉しいです。本当に、どれを最もすぐれている
と呼んだらいいのか、誰にも分からないでしょう。僕は Atlas を非常に気に入っていますが、それもランゲルが演奏するときだけの話です。次は
Doppelganger で、最後は神聖な作品、 Am Meer です。 Fishermadchen と Ade
も傑作で、それなりに好いものです。 Die Stadt は、ランゲルが演奏するとすばらしい作品です。一陣の風と波のざわめきが見事です(12) 。
スタンケーヴィチの好みは随分とランゲルに依存しているように見える。 ・
バクーニン、ベリンスキイ、ボトキンの友人でもあったランゲルは、ウィーンで音楽を学び、ベートーヴェン、シューベルトとも知り合いだったと言われる。一
般にシューベルトの歌曲ではピアノが従属的な「伴奏」の役割を越えて独立していると言われるが、ギリシア神話の巨人に仮託して「世界苦」を歌う『アトラ
ス』も、夢幻的なトレモロが印象的な『都会』もそれぞれピアノ演奏に特徴があり、すぐれたピアニストでもあったランゲルの腕の見せ所だったことだろう。
『影法師』は、自分のもとを去った恋人のかつて住んでいた家の前を訪れると、そこに苦痛に悶えながら虚空を見つめて立っている、自分と生き写しの男(分
身)を見かけたと歌っており、その心理学的に特異な現象とともにこの後ロシアでもよく知られるようになって行く。
スタンケーヴィチから送られて来た『白鳥の歌』にプレムーヒノは沸き立った。特にシューベルトの虜となったのは、自ら作曲もたしなむほど音楽に傾
倒していた「田舎の女夢想家」(アレクセーエフ)、ヴァルヴァーラ・バクーニナだった
(13)
。1837年夏にミハイル・バクーニンが音楽家のランゲルらを伴って帰省する
と、プレムーヒノはベートーヴェン、モーツァルトとシューベルトに明け暮れたという
(14)
。
* * *
ロシアにおけるシューベルトとの邂逅の主役は知識人層、わけてもドイツ観念論哲学を指導理念とし、ドイツ・ロマン主義に心酔していたスタンケー
ヴィチの近くにいた人々が中心となった。「スタンケーヴィチのサークルでとりわけ高く評価されたのはベートーヴェンの作品であったが、30年代半ばから
シューベルトがこのサークルの中で偶像になって行く」
(15)
。
スタンケーヴィチ・サークルと双璧をなすもう一つのサークルを率いていたアレクサンドル・ゲルツェンは、その『過去と思索』の中で1840年から47年に
かけてのモスクワを回想して(第25章)、ドイツ観念論かぶれのロシア人哲学者を揶揄した一節に続けて、皮肉な調子で次のように述懐している。
同じことは芸術においても言える。ゲーテを、とりわけ『ファウスト』第二部を(それが第一部
よりも出来が悪いためか、難解なためかはいざ知らず)知っていることは服を着ることと同じくらい必須のことになっていた。音楽の哲学が最重視された。当然
のこととして、ロッシーニは相手にされず、モーツァルトには甘かったが、幼稚で精彩を欠くと見なされていた。そのかわりベートーヴェンの和音の一音一音に
は哲学的な審査が施され、シューベルトは大変持て囃されたが、思うにそれは、その見事な旋律のためというよりも、むしろ彼がそうした旋律のために『全能の
神』、『アトラス』のような哲学的な主題を取り上げたことによるものであった。イタリア音楽と並んでフランス文学とおよそフランス的なものはみな、そのつ
いでにすべて政治的なものも不興を買っていた
(16)
。
ゲルツェンの戯画に込められた皮肉は割り引いて聞く必要があるが、この時代のロシア知識人層におけるドイツの哲学・文学への傾倒が音楽はじめドイ
ツ文化全般の受容を先導したことは確かである。アレクセーエフは「シラーがある程度まで我々のベートーヴェン理解を準備した、と言えるのならば、ゲーテ、
ハイネとドイツ・ロマン派が我々にシューベルトに達する道を開いたのである」
(17)
と総括している。ただし、ゲルツェンはシューベルトが大事にされた理由を彼の音楽そのものよりも、歌詞が扱っている「哲学的な主題」に帰そうとしている
が、これまで引用してきたスタンケーヴィチの手紙からは、彼を感嘆させ、魅了していたものがむしろシューベルトのメロディーや音楽的効果であったと窺われ
ることを付言しておきたい。
ちなみにゲルツェンの感性は思想上の対立のためにすぐれた音楽に耳を塞ぐほど硬直してはいなかったと見える。彼は1840年4月にモスクワの貴族
会館で行われたコンサートで、ミラノ・スカラ座の歌姫がオーケストラをバックに歌ったシューベルトの『全能の神』を聴いて、「いやこれは本当に、魂を揺さ
ぶる、魅惑的な芸術だ」
(18)
と手紙の中で漏らしている。
また彼は1847年に『同時代人』誌に掲載された『Avenue Marigny
からの手紙』(後に『フランスとイタリアからの手紙』と改題)の「第一の手紙」の前に「"Aus der Ferne..."
シューベルトの音楽」というエピグラフを冠していた。ここで触れられているのは歌曲集『白鳥の歌』の中の メIn der Ferneモ のことであろう
(19)
。ゲルツェン
はこの年モスクワを飛び出してからロシアに戻らず、ヨーロッパ各地を転々とすることになる。祖国への手紙の形を取るこの論文のエピグラフに、故郷を離れ、
異国をさまよう者の不幸を歌った歌曲のタイトルを置こうとしたのは、己の運命を予感したゲルツェンの自嘲なのであろうか。
さて、スタンケーヴィチと親しかった知識人の中でも、В.Г.
ベリンスキイは最も素朴にシューベルトを愛した一人である(もっとも彼の好みはかなり偏っていて、スタンケーヴィチたちのそれとは異なるようにも見える
が)。В.П. ボトキンに宛てた手紙(1840年2月3-10日付け)の中で、「怒れるヴィッサリオン」は随分感傷的である。
時々、僕の魂が音に飢えることがある。君の部屋で ”Leiermann”
を聴くことができるなら、僕はいくら出してもかまわない。街を通りすがりに窓の下で、僕の魂の奥深く刻み込まれた、その霊妙にして優雅な響きを耳にした
ら、僕は慟哭してしまうんじゃないか、という気がする
(20)
。
『辻音楽師 Leiermann』はシューベルトの歌曲集『冬の旅 Winterreise』(D.911)
の最後に収められた歌曲で、村外れに立ちつくし、ドレーライアーを虚しく宙に響かせている孤独な「ライアー回し」の老人の姿を歌った実に寒々とした曲であ
る。ベリンスキイは、同じ年の冬には再びボトキンに「『辻音楽師』のことを思い出すだけで、涙がこぼれてくる。いつかまた聴けるだろうか? ああ音楽狂
よ!」
(21)
と
またしても大袈裟な言葉を漏らしている(1840年12月10、11日付けボトキン宛て手紙)。またチュッチェフも、ベリンスキイが詩人の家で「さあ、僕
のために弾いて下さい」と言う時、それは『辻音楽師』とオペラ『悪魔のロベール』(マイアーベーア)の「地獄のダンス」の催促の意味だったと回想している
(22)
。批評家とし
てのベリンスキイは1842年にストローエフの『1838年と1839年のパリ』を論評しながら、「イタリアでは諸君は〈中略〉、音楽狂になるだろう。た
とえ諸君の耳がグリンカのロマンスとシューベルトの歌曲を、あるいは街の手回しオルガンとオーレ・ブーリを区別できなかったとしても」
(23)
と、さり気なくシューベルトの名に触れている。
ベリンスキイをめぐるこれらの事実は、『白鳥の歌』のみならず『冬の旅』も遅くとも1840年にはすでにスタンケーヴィチ周辺の人々には周知のも
のとなっていたこと、また同じ頃一般の読書人の中でも徐々にシューベルトの名が受け入れられ始めていたことを物語っていると言える。
ベリンスキイは最初の手紙の引用した箇所にすぐ続けて、プーシキンの『西スラヴ人の歌』の中の『イアキンフ・マグダノヴィチの葬送の歌』にランゲ
ルが作曲した曲をオドーエフスキイが弾いてくれたのを聴いた時、憂愁と喜びで胸が締めつけられるようになったと述べ、ランゲルを大変高く評価しているが、
これは手紙の名宛て人によってその前年に書かれた、この曲を批評した文章を踏まえてのことかも知れない。
ボトキンはその評論の中で、詩に音楽を付けること自体はもはや大したことではないが、ランゲルの作品は傑出していて、「偉大で天才的なシューベル
トが創造した、崇高で、芸術的な歌曲の部類に属する」
(24)
と最大級の讃辞を贈っている。この評論家はシューベルトをほとんど崇拝していた。例えば彼は、歌曲で詩よりも音楽の方がすぐれている場合があることを取り
上げ、これは詩人が詩の魂に十分相応しい思想と形式を纏わせられなかったものを、音楽においてその思想と形式から自由になって真実と美を取り戻したから
で、「その最も顕著な例がベートーヴェンの ”Wachtelschlag” [『うずらの鳴き声』]〈中略〉とシューベルトの多数の歌曲である」
(25)
と述べている。そして、ランゲルの音楽がいかに素晴らしいかを繰り返した後、「それゆえ吾人は彼の音楽をシューベルトの不滅の歌曲の部類に入るものと見な
し、読者諸賢の注意を喚起したのである」
(26)
と結んでいる。ロシアにおけるシューベルトの名と音楽の普及には、このボトキンやオドーエフスキイらのような音楽評論家の批評活動に負う所も少なくない
(次章参照)。
スタンケーヴィチを取り巻くその他の知識人たちとシューベルトとの関わりを見てみると、Н.П.オガリョフの名は、シューベルトの『セレナーデ』
(歌曲集『白鳥の歌』)のロシア語への翻訳者として忘れることはできない
(27)
。彼はこの詩の作者レルシュタープと1842年にベルリンで会食した折、この
俗物詩人がシューベルトの曲によって自分の最良の作品である『セレナーデ』の詩が損なわれたと毒づくのを聞いて、「鼻持ちならない奴」、「救いようのない
愚か者」だと切り捨てている
(28)
。
一方、ヴォロネジの妹が流行に遅れないように1841年にА.В.コリツォーフが送った本や楽譜の中に『魔王』が含まれているのは微笑ましい
(29)
。
スタンケーヴィチらの後輩筋に当たるイヴァン・ツルゲーネフは、ベルリン大学留学中の1840年秋にマリエンバートから「ベルリンの兄弟」
А.П.エフレーモフに宛てた手紙の中で、もう一人の「兄弟」ミハイル・バクーニンにジークムント・ゴルトシュミットの歌曲集を入手するように言付けを託
して、この人物が「新しいシューベルト」と噂されている、と伝えている
(30)
。ヨーロッパではすでにシューベルトの名声が広まっていた。ドイツ語を自由に
操り、先輩知識人たちの強い影響の下に一度はドイツ観念論・ロマン主義の洗礼を受けたツルゲーネフは、後まで長くシューベルトを愛好するようになる。ちな
みにスタンケーヴィチがイタリアで客死したのは、この手紙より二月ほど前のことだった。彼の夭折を「我々は我々が愛し、信じ、我々の希望と誇りであった人
物を失った…」
(31)
とグラノフスキイに伝えるツルゲーネフの手紙は、シューベルトの訃報に接した友人シュヴィントの言葉を思い起こさせる:「シューベルトが死んだ。そして彼
とともに、われわれの持っていた最も明るくて美しいものが死んだ」
(32)
。
2. 演奏会と音楽時評:シューベルト音楽の普及
ロシアでシューベルトが広く知られるようになって行ったのには、何と言っても西欧からやって来た歌手やピアニストによる演奏活動に負うところが大
きい。その一人にウィーンのテノール歌手、ヘルマン・ブライティングの名が挙げられる。彼は1837年から1840年までペテルブルグのドイツ劇場などに
出演してシューベルト歌曲の紹介に努め、舞台で最初に『魔王』を歌った歌手との聞こえもあった。もっとも、高踏的なボトキンはロシアの一般の聴衆のシュー
ベルト理解に対して悲観的であった。『1838年の音楽時評』の中で彼は次のように述べている。
ペトロフスキイ劇場のホールでの彼の最初のコンサートが満員とはほど遠かったとすれば、二度
目にはほとんど空だったと言える。神秘的なシューベルトの『魔王』はひとり真の愛好家のためだけに響きわたった。ブライティングのコンサートは、わが国の
聴衆にとってはドイツ音楽はその真の意味においてはまだ存在しないということを証明した。聴衆はブライティングの力強さと熱のこもった歌声を理解できな
かったのだ
(33)
。
ロシアに初めてシューベルト歌曲を広めた一人と目されるこのテノールの活動については、В.Ф.
オドーエフスキイも『ペテルブルグのコンサートについてのモスクワへの手紙』(1839)の中で、成功裡に終わった女性ピアニストのコンサートで、共演し
たブライティングがシューベルトの『魔王』を歌ったことに触れているが
(34)
、この音楽時評の中ではまた、チェロ奏者の A. F.
セルヴェがペテルブルグでのコンサートにおいて「有名な所謂ベートーヴェンのワルツの変奏曲」を演奏したことが伝えられている。『悲しいワルツ』、『熱
望』ワルツ(”Trauer-Walzer”, ”Sehnsucht-Walzer”, ”Desir d’amour”)
等の名前で知られていたこのワルツは、実はシューベルトの作品であった
(35)
。初めベートーヴェンに帰されたのは、楽譜の出版社が無名のシューベルトの作
品としては売れないと考えてベートーヴェンの名を冠したためであろうと考えられている
(36)
。オドーエフスキイはこうした事情を熟知していたからこそ、故意に「所謂ベー
トーヴェンのワルツ」と言ったのであろう
(37)
。
セルヴェもまたロシアにおけるシューベルトの普及に大きく貢献した。彼の演奏活動について『ロシア音楽史』は、「彼の名前は、ロシアの聴衆の
シューベルトの音楽との最初の出会いとも切っても切れない。シューベルトの変イ長調ワルツの主題による変奏曲は彼のすべてのコンサートのプログラムに入っ
ていた」
(38)
(ソコロヴァ)と指摘している。
1840年を過ぎた辺りから、ロシアの新聞・雑誌のあちらこちらにシューベルトに関する記事が現れるようになる。1841年の『北方の蜜蜂』
(No. 44)
誌には、歌曲王に関する恐らくロシアで最初の伝記的事実が紹介された。この不正確な伝記(生没年さえ誤っている)に続けて、記事はシューベルトがフランス
で大人気を博していることを紹介し、彼の曲を知りたければ、翌日に開かれるハイネフェッターのコンサートで好奇心を満たすことができるだろうと呼びかけ、
そこでシューベルトの『さすらい人 Der Wanderer』が歌われる予定であることを伝えている
(39)
。シューベル
トがフランスで流行しているという文句は、ロシア人聴衆の好奇心をくすぐるのにそれなりの効果があったものと見られる
(40)
。
ドイツのオペラ歌手ザビーナ・ハイネフェッターも、ロシアにシューベルト歌曲を広めるのに功績があった。彼女は1841年1月にロシアを訪れ、ペ
テルブルグのコンサートでシューベルトの作品を披露した。特に彼女の歌う『さすらい人』は評判だったと見えて、「ザビーナの歌」とさえ呼ばれたという
(41)
。同年の『文
学新聞』(No. 113, 114)
は、バルトゥの短編小説『シューベルトのセレナーデ』に付した編集部の注釈の中で、フランスでは歌手アドルフ・ヌリの功績でシューベルトがドイツにおける
よりも有名になったと伝えた後、「我々ロシア人にシューベルト歌曲の気高い詩情を紹介してくれたのは、優れた歌手のヘルマン・ブライティング
とハイネフェッター女史である」と述べている
(42)
。
またこの年にはシューベルトの『セレナーデ』や『アヴェ・マリア』の楽譜がロシアで出版されたことを伝えるニュースが『北方の蜜蜂』などに掲載さ
れている
(43)
。
『ロシア音楽史』の年譜にはこの年グロッスがシューベルトの交響曲を演奏したという記述が見えるが、委細は審かでない
(44)
。
そして翌1842年、ついにフランツ・リストがロシアの聴衆の前に姿を現した。彼のロシア公演はまさに「事件」だった。リストは4月8日のペテル
ブルグの貴族会館でのコンサートを皮切りに翌月末まで精力的な演奏活動を続け、数次に及ぶ各種の公開演奏会でその天才的テクニックを披露してロシアの聴衆
を瞠目せしめたのみならず、オドーエフスキイほかの貴族の邸のサロン・コンサートに招かれて一躍「時の人」となった。
すでにリストは『魔王』をはじめシューベルトの歌曲を自らピアノ曲用に編曲した作品をヨーロッパ各地で演奏し、シューベルト再認識のきっかけを
作っていたが、このロシア公演においてもそれらを披露した
(45)
。
これによってロシアの聴衆の目と耳に、天才ピアニストの神業とともにシューベルトの名が深く刻みつけられたことは想像に難くない。「リストは、作品がやっ
と演奏会のレパートリーに入りはじめた偉大なロマン主義者、シューベルトの芸術の宣伝普及に熱心だった。彼がロシアの聴衆にシューベルトの創造した最良の
もの、すなわち彼の霊感に満ちた歌曲を示したのは当然のことだった。ロシアで彼はセレナーデ、『魔王』、 Ave Maria と『鱒』を演奏した」
(46)
と『ロシア音楽史』(ソコロヴァ)は伝えている。
ちなみに、この頃バレエやコンサートに通い詰める日々を送っていた陸軍工兵学校生のドストエフスキイも、リストのエポック・メイキングなコンサー
トを訪れていた。当時のドストエフスキイを知るリーゼンカンプは「1842年4月9日に天才的なリストのコンサートが始まり、5月末まで続いた。チケット
が前代未聞の高さだったにもかかわらず〈中略〉、私とフョードル・ミハイロヴィチはそのコンサートをほとんど一つも聴き逃さなかった」
(47)
と回想してい
る。
翌1843年5月にリストは2度目のロシア公演を行った。また、この年の秋にはポーリーヌ・ヴィアルドー=ガルシアをプリマ・ドンナに戴き、テ
ノール歌手ルビーニを連れたイタリア歌劇団が巡業に訪れた。スペイン生まれの歌姫とツルゲーネフはこの時初めて知り合った。ヴィアルドー夫人はこの後繰り
返しロシアを訪れるようになるが、シューベルト歌曲を十八番としていた彼女もまた、ロシアにおけるシューベルト歌曲の普及に貢献した一人と考えられる。イ
タリア歌劇団の公演の翌春、夫人の「親衛隊」の一人であったツルゲーネフ青年は、欧州巡業中のヴィアルドー夫人にペテルブルグからラブコールを送っている
(5月9日付け手紙)。
私たちが様々なことを思い出していることは言いますまい。私たちは何ひとつ忘れてはいないの
ですから。でも私たちは思い出を繰り返し語り合うことに喜びを見出しているのです。特に私は Pizzo
とお喋りしています。<中略>私は声が完全に枯れるまで彼に歌わせました。すべてをですムロメオの最後の場面も、 ”Die Stadt” も…。
(48)
作家としての名声を確立してから国外で暮らすことが多くなったツルゲーネフの後半生の手紙からは、巡業先で『影法師』などのシューベルト歌曲を歌
うヴィアルドー夫人を見守る姿が偲ばれる
(49)
。
1844年3月にはヌリの弟子でパリ・オペラ座のテノールだったヴァルテル (Wartel, P.-F.)
が、ロシアの聴衆の前で『アヴェ・マリア』と『セレナーデ』を披露した
(50)
。ちなみにオドーエフスキイは、この年のある音楽時評の中でピアニスト、カー
ル・マイヤーのコンサートの予告をしながら、「おまけにこのコンサートで我々は、今やヨーロッパ中で国民的なものとなっているシューベルトのメロディーを
初めてパリに紹介した、テノール歌手のヴァルテルを聴くことができるのである」
(51)
と彼の共演を誘い文句にして宣伝している。同じ頃クララ・シューマンが夫ロベルトを伴ってロシアを訪れたが、彼女のコンサートの演目の中にもシューベルト
の名が見える
(52)
。
またこの年、奇才 H.W.
エルンストがリストの顰みに倣って『魔王』をヴァイオリン用に編曲した作品を自ら演奏している。『レパートリーとパンテオン』誌はこの曲の「想像を絶した
効果」を驚愕をもって伝えている
(53)
。
1847年にはリストの3度目の公演がロシア各地で行われた。
以上、ブライティングをはじめとした多くの外国人音楽家たちの演奏活動を通して、ロシアにおいて次第にシューベルトが認知されていく様を跡づけて
きたが、彼らの演奏活動を陰で支えていたのは新聞・雑誌の力である。ボトキンやオドーエフスキイのみならず、今日では無名の記者や批評家の手になる様々な
演奏会の案内や批評記事、作曲家の伝記などを紹介し続けたこうしたジャーナリズムが、ロシアにおけるシューベルトの名前と作品の普及に寄与したものは少な
くない。すでに触れた『北方の蜜蜂』や『文学新聞』などの他、例えば雑誌『短篇小説家』はしばしばシューベルトを特集した付録を付けている
(54)
。
1863年の『ロシア報知』誌に、ロシアにおける最初の本格的なシューベルト論の一つと見なしうる ・
フリスチアノーヴィチの論文『フランツ・シューベルト』が発表された。この論文の中で彼は、歌曲王についてその生涯から作品までを縦横に論じている。室内
楽から歌曲、歌曲集、劇音楽を解説した後で、彼は「シューベルトの歌曲の数は膨大である。我らがロシアの聴衆には、そのうち40曲までが知られている。だ
が、この40曲のうち全てが有名であったと言うのは到底無理である。有名だったのは10曲ムあるいは15曲かもしれない」
(55)
と述べて、
13曲までを実際に名指している。彼が挙げている歌曲の名前からシューベルト歌曲の原題を推定してみることができる(別表参照
(56)
)。
フリスチアノーヴィチのリストの中の『魔王』、『さすらい人』、『アヴェ・マリア』、『子守歌』、『鱒』などは今日でも非常にポピュラーな名曲で
ある。歌曲集『白鳥の歌』からは『別れ』だけが、歌曲集『冬の旅』からは『幻日』と『郵便馬車』が挙げられており、本稿第1章で見たスタンケーヴィチらの
好みと若干のずれがあることが判る。若い女性の胸の奥が描かれた『糸を紡ぐグレートヒェン』、『ズライカ』、『若い尼僧』が見えるのは、外国の歌姫たちの
熱唱に負うのであろうか。ゲーテの詩になるものが多いほか、シラーの詩による『期待』がランクされているのには、ドイツ文学に親しんでいた当時のロシアの
文化状況が改めて感じられる。
フリスチアノーヴィチは13曲を挙げた後で「オシアンの歌曲、ウォルター・スコットの歌曲:獅子心王リチャードと海辺の乙女(その中の一曲が有名
な Ave Maria
である)、ミュラーの歌曲:水車小屋の娘と旅人の歌、の存在を知っていたのはわが国の一部の音楽家と少数のドイツ音楽愛好家だけである」と述べているが
(57)
、当時のロシ
アでも一世を風靡したはずの『セレナーデ』はなぜか彼のリストから漏れ、ここでも一言も触れられていない(彼の趣味に合わなかったのであろうか)。
* * *
19世紀も半ばを過ぎると、ロシアのコンサートでシューベルトが演奏される機会が増しただけでなく、演奏曲目が歌曲にとどまらず次第にジャンル
を拡げて行った。1858年3月10日にはペテルブルグの貴族会館で、シューベルトの『ハ長調シンフォニー』がロシアで初めて演奏された(アリブレフト指
揮フィルハーモニー協会)
(58)
。
やがて交響曲のみならず、四重奏などの室内楽、合唱曲、劇音楽なども演奏されるようになって行く。
これに関しては、ルビンシュテイン兄弟と彼らに率いられたロシア音楽協会の演奏活動の意義を特筆すべきだろう。ロシア音楽協会はアントン・ルビン
シュテインによって1859年に創設され、翌年には弟のニコライがそのモスクワ支部を起こした。ロシア音楽協会はペテルブルグとモスクワで、兄弟の指揮に
よる交響曲や四重奏のコンサートを定期的に開いたが、そのレパートリーの中にシューベルトの作品が含まれていた。
その一つ、1864年にペテルブルグで行われたロシア音楽協会の交響曲大会(アントン・ルビンシュテイン指揮)ではシューベルトの女声のためのセ
レナーデと交響曲が演奏されているが、このコンサートをツルゲーネフが訪れている。彼はヴィアルドー夫人に宛てた手紙(2月8、9日付け)の中で「先日私
はコンサートでシューベルトの女声五重唱のセレナーデを聴きましたム素敵でした」
(59)
と報告している。
1867年12月16日にはモスクワの貴族会館でのロシア音楽協会の交響曲大会で、ニコライ・ルビンシュテインの指揮によって『未完成交響曲』が
記念すべきロシアでの初演の日を迎えた。翌年3月にニコライはロシア音楽協会を指揮して、シューベルトのオペラ『フィエラブラス』序曲を演奏している。翌
1869年2月22日には『未完成交響曲』がペテルブルグでも初演された(バラキレフ指揮ロシア音楽協会;於貴族会館)。1870年11月にはモスクワの
ロシア音楽協会がシューベルトのミサ曲の断片を、ペテルブルグのロシア音楽協会がジングシュピール『ロザムンデ』から序曲と間奏曲を演奏している。また、
協会の地方支部で開催された連続コンサートでも、キエフ(1876年)、トボリスク(1878年)、サラトフ(1885-86年)、ハリコフ(1886
年)などでシューベルトの作品が演奏されている。
この頃になると、新聞・雑誌上でも交響曲や四重奏、劇音楽などを論じた記事が目立って増えている。ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキイは
1872年に「シューベルトの四重奏(ホ短調)」についての評論を、1874年には「シューベルトの『ミリアムの凱歌』」論と「ハ長調交響曲.シューベル
ト」論を『ロシア通報』誌に寄せている。翌1875年にフリスチアノーヴィチの『ショパン、シューベルトとシューマンについての手紙』が単行本として上梓
された。1876年にはキュイが『ペテルブルグ通報』の音楽時評でシューベルトの四重奏を論じ、1877年と79年にラロシュが『声』誌の中で、シューベ
ルトの交響曲ハ長調とロ短調(所謂「未完成」交響曲)をそれぞれ取り上げている。1882年の『国外報知』誌にはオペラ『アルフォンゾとエストレルラ』論
(トリフォーノフ)と『ハンガリー風ディヴェルティスマン』を論じた記事が掲載された。
1886年にはシューベルトに捧げられた「歴史的交響曲コンサート」(アントン・ルビンシュテイン指揮)において、合唱曲『自然の中の神』、『森
の中の夜の歌』、『この日の祝福』、交響曲ハ長調とロ短調、『ロザムンデ』から二つの間奏曲が披露されている。『音楽展望』誌はこのコンサートを取り上げ
たり(同年)、シューマンによるシューベルトの『即興曲』論
(60)
を紹介している(1888年)。
アントン・ルビンシュテインは、すぐれたピアニストとして彼個人のリサイタルでも好んでシューベルトのピアノ曲(『魔王』、『楽興の時』、『即興
曲』等)を演奏する一方、ペテルブルグ音楽院で教鞭を執る教育者の顔も持っていた。1889年にはシューベルトのピアノ曲についての彼の講義が『バヤン』
誌に掲載され、同年キュイは「シューベルト解釈者としてのアントン・ルビンシュテイン」を論じた記事を『週』誌に発表している。そして1897年には、
シューベルト生誕100周年を記念した論文が目白押しである。この年はペテルブルグ、モスクワは言うまでもなく、オデッサ、カザン、バクーなどの地方都市
でもシューベルト記念コンサートが開かれている。翌々年の1899年の『ロシア音楽新聞』はシューベルトのジングシュピール『家庭騒動』がペテルブルグで
上演されたことを伝えている。
もちろんこの間も、すでに演奏会のレパートリーとしての地位を確立していたシューベルトの歌曲やロマンスは、あちらこちらの劇場やサロン・コン
サートで歌われ続けていた。ヴィアルドー夫人に宛てた手紙(1871年2月14、15日付け)の中で、ツルゲーネフは夫人の娘ルイーズがセローヴァ夫人邸
での夜会で『影法師』と『糸を紡ぐグレートヒェン』などを歌ったことを報告している
(61)
。また、1893年にペテルブルグのマリインスキイ劇場で行われたフィグネル
夫妻のコンサートを批評した小文をアントン・チェーホフが物している。「ツァーベル氏のハープ、ヴァルター氏のヴァイオリンの伴奏でフィグネル夫人が歌っ
た ”Ave Maria” にもまた大きな感銘を受けた」
(62)
3. 文学作品における反映
ロシア音楽界にデビューを果たしたのと相前後して、シューベルトは文学の世界にも登場している。音楽評論を通して早くからシューベルトをロシア
に紹介していたオドーエフスキイがここでも先鞭をつけている。彼が『1838年の文芸年鑑』の中に発表した『孤児』(1838)に早くもシューベルトの名
と作品が顔を出している。
『孤児』は当初『棺桶屋の手記』という題の下に計画されていた連作短篇小説のうち最初に発表された作品である
(63)
。この短篇小
説の語り手が棺桶屋と知り合う場面にシューベルトの名と作品が登場する。なお、この作品は現在刊行されているオドーエフスキイの各種作品集には収められて
いないので、実際のテクストに当たることはできなかった。この作品に関する記述は、もっぱらサクーリンの研究に拠っていることを予めお断りしておく。
サクーリンの紹介する粗筋によれば、語り手と棺桶屋が知り合ったのは次のような訳である:鬱ぎの虫に取り付かれ、雨のペテルブルグをさまよい歩い
ていた若者が張り出した屋根の下で雨宿りしているうち、ふと見上げると棺桶屋の看板が目に止まり、彼は衝動的にその家の中に入って行った。すると中は心地
よく、色々な絵画やゲーテの肖像が飾ってあった。彼の心理状態を察した棺桶屋は身内のエンヘンに何か歌うよう求めた。彼女はピアノの伴奏で「美しい澄んだ
声でシューベルトの有名なアリア Das Glocklein
を歌い出した」。この歌は「どこかの未完成の墓場」を舞台に「人生でめったに出会わない瞬間、絵描きが捉え、詩人の魂にいつまでも残り、日々の生活の闇の
中で詩人のために光り輝く瞬間の一つをなしていた」。棺桶屋と若者は互いに名を名乗り、友人になった
(64)
。
ここで『鐘 Das Glocklein』と呼ばれているシューベルトの歌曲は、J. G. ザイドルの詩による『臨終の鐘 Das
Zugenglocklein』(D. 871)
のことであろうと考えられる。棺桶屋と「臨終の鐘」とはいかにもあざとい取り合わせであるが、そもそもオドーエフスキイは疾風怒濤詩人の顰みに倣って、シ
ラーの『鐘の歌 Das Lied von der Glocke』のエピグラフ ”Vivos voco, mortuos plango”
[我は生者を呼び、死者を悼む] をそのまま自分の『棺桶屋の手記』のエピグラフとして冠するほどだった
(65)
。自作短篇へ
のシューベルト歌曲の逸早い導入は、ドイツ観念論・ロマン主義に傾倒し、西欧音楽への造詣が深く、『ベートーヴェンの最後の四重奏』(1830)や『セバ
スチアン・バッハ』(1835)などの短篇小説まで物している、この多芸多才で異色の公爵ならではの一種の衒いだったのかも知れない。
* * *
И.И. パナーエフは中篇小説『アクテオン』(1842)の中で地方の地主貴族の生態を滑稽かつ批判的に描き出したが
(66)
、この作品で
は不幸な男女の心の拠り所としてシューベルトの歌曲が、彼らをめぐる物語の中で極めて重要な役割を担っている。
首都ペテルブルグから生まれ育った村に移り住み、時とともに正真正銘の田舎の「旦那」に変貌して行く夫と異なり、意に染まぬ結婚を強いられたオリ
ガ・ミハイロヴナは田舎の生活になじめず、姑はじめ周囲の人々とも折り合わず孤独でいる。彼女の唯一の慰めはシューベルトの音楽の響きであった。作中では
彼女が『セレナーデ』を歌う場面で、オガリョフによるロシア語訳が初めて公にされている
(67)
。彼女にとってシューベルトは、二度と戻らぬ人生で最良の日々の思い出と堅く
結びついていた。早くに両親をなくした彼女は娘時代をモスクワの伯母の家で過ごしたが、そこで知り合った大学生の家庭教師にシューベルトの手ほどきを受け
たことがあり、彼が歌曲王について認めた長い手記をずっと大切にしまっていた。「長いこと私は貴女にシューベルトについて少しお話ししたいと思っていまし
た」と書き出すその手記は「シューベルトは現代の天才的芸術家です。いつの日か19世紀が彼のことを誇るようになるでしょう」と最大級の讃辞を惜しまな
い。教師によれば、「シューベルトは歌曲しか書きませんでした」が、まさにこの点に彼の天才性が現れており、彼は素朴な歌を極めて芸術性の高いものにまで
高めた。「それらはム彼のこれらの歌曲はム人間精神の言葉にならないような極めて奥深い、秘められた内面性の発露に満ちています。<中略>そしてまさにこ
の神秘的な感情をシューベルトはその底なしの深みにおいて捉え、それをその聖なる暗がりから抽き出し、結晶化させ、白日の下に晒したのです」
(68)
。続いてベー
トーヴェンとシューベルトが比較され、もし前者の音楽が歴史的精神の偉大な現象を捉えているとすれば、「シューベルトの歌曲は、歴史から隠されたままの人
間精神の謎めいた側面を尽くそうとしているのです」。ベートーヴェンは勝利者としていつも勝ち誇っているが、「シューベルトにおいて表現されたのは人間の
生の悲劇的な側面、その秘められた、内面の真心の世界です」として、彼はさらに筆を進める。
しかしながら、これはシューベルトの天才の様々な側面のひとつにすぎません。彼の歌曲に優勢
な性格は、音楽的状態という以外に私には呼びようのなかった精神状態から来ています。この感覚はいつでもメランコリーと溶け合っています。〈中略〉喜びと
いうのは排他的なもので、喜びは喜びしか愛しません。反対に、悲しみは自分の土壌の中で育ちます。それは地下の世界です。〈中略〉悲しみの中では、人はい
つでもすべてをより強く、より深く感じ、より生き生きとすべてに共感することができます。悲しみの中で人はすべてのものを祝福するのです…〈中略〉メラン
コリーは悲しみの最高次の、理想的な側面ですムそれは心を苛む、重苦しくて暗い一切のものを除かれ、ただの芳香と化した悲しみです。メランコリーとはエー
テル、すなわち精神の音楽的状態の内的要素です。そしてシューベルトの創造物はすべてメランコリーを呼吸しています。 ”Alinde”
におけるように明るく素朴な感覚や、あるいは『セレナーデ』におけるように人生享受的な心の昂揚に彼が身を委ねることは稀です
(69)
。
この手記はシューベルト歌曲の本質を深い共感をもって見事に捉えた大変美しい、小さいながらもすぐれたシューベルト論の体をなしている。ただ悲し
みや不幸が強調されすぎる嫌いがあるのは、この小説における女主人公と謎めいた「彼」の悲しくも気高い生き方からの要請であろうか。
さて、二人は偶然再会するのだが、無理解な周囲の人々の流言の犠牲となる。急にイタリアに旅立つことになった教師(彼の名前は終いまで明かされな
い)の前で、もう一度彼女の歌うシューベルトを聴きたいという彼の以前からの願いを叶えるべく、病に落ちて痩せ衰えたオリガは最後の力を振り絞って『さす
らい人』を歌い上げる。この場面にはロシア語に訳された『さすらい人』の歌詞が示されている。これが彼女の「白鳥の歌」となり、女主人公がまもなく亡く
なったことを伝えて小説は終わっている。
* * *
1850年代のツルゲーネフはロシア・インテリゲンツィヤとドイツ・ロマン主義の関係という問題に精力的に取り組んでいた。この時期に彼は、この
問題を背景にした作品を集中的に執筆している。その一つ、短篇小説『ヤーコフ・パースィンコフ』(1855)において、作家は理想に殉じた「最後のロマン
主義者」の姿を深い共感を込めて描いているが、この主人公の周囲にはスタンケーヴィチ・サークルの雰囲気が色濃く滲み出ている。そして、このサークルの人
々同様、パースィンコフもシューベルトに特別な愛着を持っている。主人公がペテルブルクのズロトニツキイ家で過ごす場面に、次のような印象的な一節があ
る。
パースィンコフは音楽を大変愛していました。彼はよくソフィアに何か弾いてくれるよう頼み、
脇に腰を下ろして聴き入っては、時おり感じ入った調子の甲高い声で伴唱していました。とりわけ彼が愛していたのは、シューベルトの『星座』でした。目の前
で『星座』を弾かれると、音と一緒に水色の長い光線のようなものが、高みからまっすぐ胸に流れ込んで来るような気がするんだ、と彼はきっぱり言うのでし
た。私は今でも、雲一つない夜空に星たちが静かに瞬いているのを見ると、きまってシューベルトのメロディーとパースィンコフのことを思い出すのです…
(70)
この作品では「忘れがたきパースィンコフ」を回想する語り手の言葉のそこかしこに、敬愛するスタンケーヴィチへの作家の愛惜の念が響いている。
『ヤーコフ・パースィンコフ』よりも先に脱稿しながら発表の前後した『文通』(1856)は、ロマンチックな田舎の老嬢と「余計者」の間の往復書
簡という形式を借りて彼らの奇妙な恋愛劇の顛末を描いている。ある手紙の中でマリヤ・アレクサンドロヴナは、近隣の人々に奇異な目で見られ、「女哲学者」
と呼ばれたり、男装趣味があるなどという誤解の絶えない自分の不幸な境遇を訴えている。彼女は特に洒落好きを自認する隣人の嘲笑の的にされ、事あるごとに
根も葉もない噂を吹聴されていた。
この方は、私がいつも何か言葉を探していて、いつも「あちら」を目指していると言ってきか
ず、滑稽なまでの熱烈さで「どちらへムあちらへ? どちらへ?」と訊ねるのです。彼はまたこんな噂を広めてくれました。私が夜毎馬に乗って川の浅瀬を行き
つ戻りつしている、それもシューベルトのセレナーデを口ずさむか、ただ「ベートーヴェン、ベートーヴェン!」と言って呻きながら。まったくあの女は実に血
の気の多い婆さんだ! 云々云々、ですって
(71)
。
彼女がいつも「あちら」を目指しているとして「どちらへムあちらへ? どちらへ?」と訊ねるという件は、ロマン主義者の「彼岸」への憧憬に対する
揶揄だろう。一歩踏み込んで、シューベルトの歌曲『さすらい人』のパロディーと見ることもできる。この手紙は虚構とはいえ、ドイツ・ロマン主義に傾倒した
ロシアの知識人がそれと無縁の田舎の人々の目にどのように映っていたかを知る一つの手がかりを与えてくれている。
ツルゲーネフはロシア知識人層とドイツ・ロマン主義の問題に一つの区切りをつけるかのように、最初の長篇小説『ルーヂン』(1856)に傑出した
個性を登場させ、彼のすべてを描こうとした。この作品の主人公はラスンスカヤ邸に現れた最初の晩からすでにドイツ・ロマン主義の唱道者の衣を纏っている。
登場早々ルーヂンがパンダレフスキイに「シューベルトの”Erlkonig” を御存知ですか?」とたずね、『魔王』のピアノ演奏を促した
(72)
のは故なきことではなかった。この瞬間から彼は周囲の人々に特別な魔法をかけたのである。
「ドイツ・ロマン主義三部作」とも呼ぶべきこれらの作品群の中でツルゲーネフはドイツ観念論・ロマン主義がロシアの知識人層に及ぼした魔術的な力を、そ
の美しさも滑稽さもすべて示そうとしたと言える。そしてその舞台に必要不可欠なものの一つがシューベルトの歌曲だったのである
(73)
。
『ルーヂン』に続くツルゲーネフの長篇小説『貴族の巣』(1859)では、ラヴレツキイにやりこめられたパンシンが話をそらそうとして、会話を
「星空の美しさやシューベルトの音楽に移そうと試みた」
(74)
が不首尾に終わっている。ここではシューベルトの名は軽薄な社交界の人々が澄まし顔で口の端に上らせる話題のひとつに過ぎない。
様々なロマンスやオペラのアリアなどが散りばめられた『その前夜』(1860)にはシューベルトは直接は現れないが
(75)
、ベルセーネ
フについて次のような一節がある。ロシア貴族の音楽との関わり方を述べている点で、またこの「哲学者」がスタンケーヴィチ・サークルに属したグラノフスキ
イをモデルにしているとも考えられる点で興味深い。
ロシアの貴族たちは皆そうであるが、彼は若い頃音楽を学んだ。そしてロシアの貴族はほとんど
皆そうであるが、弾くのはとても下手だった。だが彼は音楽を熱烈に愛した。実を言えば彼が音楽の中に愛したものは、わざでもなければ音楽が表現されている
形式でもなく(交響曲やソナタ、さらにはオペラにも彼は気が滅入った)、その本然の力[стихия]であった。音の結合と変化によって心の中に引き起こ
される、あの漠として甘く、対象もなく一切を包み込む感覚を愛したのである
(76)
。
『父と子』(1862)でもツルゲーネフはシューベルトを取り上げた。今度は主人公バザーロフたちの父の世代の愛着物としてである。バザーロフと
アルカーヂイが庭で話をしていると、「ちょうどこの時、ゆるやかなチェロの響きが家の中から二人のところまで聞こえてきた。上手ではないが、感情を込め
て、誰かがシューベルトの『期待』を弾いていた。甘ったるい旋律が蜜のように宙に漂っていた」
(77)
。シューベルト歌曲を心を込めて弾くアルカーヂイの父ニコライとそれを嘲笑す
るバザーロフの姿には、所謂40年代貴族インテリゲンツィヤと60年代雑階級人の価値観と趣味の違いがくっきりと浮かび上がっている。こんな所でも、この
小説は『ルーヂン』と呼応しているのだ。ツルゲーネフは時代を見越したかのように、これ以後の作品ではシューベルトを取り上げなくなる。
* * *
若きトルストイは1856-57年の冬をペテルブルグで過ごし、シェリングの観念論的芸術論を信奉するボトキンらのサークルでの嵐のような芸術談
義の雰囲気の中で、オペラや家庭音楽にのめり込んだ。中篇小説『アリベルト』(1858)には、作家が体験した当時の音楽界の状況が映し出されている。作
中第5章での「古い音楽と新しい音楽」をめぐるアリベルトとヂェレーソフの会話には1850年代半ばに人気を博した音楽と音楽家の名前が登場し、すでに
1843年からペテルブルグを訪れていたポーリーヌ・ヴィアルドーとルビーニの名演も回想されている。
この小説はまた一種の音楽家小説でもある。主人公アリベルトは天才的なヴァイオリン奏者だが、アルコール中毒の性格破綻者でしかるべき仕事に就か
ずにいる。彼の才能を惜しむ貴族のヂェレーソフが彼の面倒を見ようと申し出
(78)
、自分の邸に引き取った翌晩、天才ヴァイオリニストは音楽談義からいつしか自
分が見る幻覚の話を打ち明ける。しばしの沈黙の後、アリベルトは自らも精神の危機を予感しているかのように、”Und wenn die Wolken
sie verhullen, / Die Sonne bleibt doch ewig klar,”
[むら雲に覆い隠さるるとも、永遠に日は輝き続ける]と歌い、続けて ”Ich auch habe gelebt und genossen.”
[我もまた生き、味わいたり]と付け足している
(79)
。
この箇所についてメンデリソンは注釈の中で、第一の引用はヴェーバーのオペラ『魔弾の射手』の中のアガーテのカヴァティーナ冒頭の不正確な引用と
した上で、第二の引用はシラー詩によるシューベルトの歌曲の「疑いのない反映」であるとして『テクラ:霊の声』と『乙女の嘆き』の中のそれぞれ一節を示し
ている。すなわち、前者の第1連の終わり: Hab’ich nicht beschlossen und geendet, / Hab’ich
nicht geliebet und gelebt?
[私は事切れ、身罷ったのではなかったか。私は愛し、生きたのではなかったか]と後者の第2連の終わり: Ich habe genossen das
irdische Gluck, / Ich habe gelebt und geliebet.
[私は現世の幸せは味わいました。私は生き、そして愛したのですから]である
(80)
。愛を失った乙女が聖母に自分を天に召して下さいと訴える『乙女の嘆き』は、
メンデリソンによれば「我が国で特に人気のあった歌」であった。引用された箇所だけを比べると、アリベルトが口ずさむ二つ目の歌は『乙女の嘆き』を反映し
ているとするだけで十分そうに見えるが、注釈者は『テクラ:霊の声』のこの世を離れた魂が恋人に語りかけるという設定に主人公の心情を読み込もうとしたの
かも知れない。いずれにせよ、破滅型の天才の心の闇を映し出す印象的な場面に、トルストイはシューベルトの歌曲を効果的に用いていると言える。
一方ドストエフスキイはリストのロシア公演を訪れており(本稿第2章)、そこで彼はシューベルト歌曲を弾く天才ピアニストの名演を直に目にしてい
るはずだが、彼の作品にシューベルトの音楽の痕跡を探すのは難しい。それでも、30巻全集の注釈者は『罪と罰』(1866)の中でシューベルト歌曲が歌わ
れていると主張しているので紹介する。小説の第5部に狂ったカテリーナ・イヴァーノヴナが橋の上で子どもたちに歌を歌わせたり、踊らせて物乞いをしなが
ら、自分たちの不幸な境遇を見物人に訴える場面がある。彼女が幻覚にとらわれながら歌う ”Du hast Diamanten und
Perlen...” [ダイヤモンドと真珠があるのに……]、”Du hast die shonsten Augen, /Machen, was
willst du mehr ?”
[そんな美しい瞳があるのに、娘さん、そのうえ何がお望みなの?]について、コーガンはこれをハイネの『歌の本』の中の『帰郷』という詩で、シューベルト
のロマンスであるとしている。そしてその傍証として注釈者は、ドストエフスキイはこのロマンスを小説第5部に取り組んでいた1866年の夏にリュブリノ
(ルブリン)で耳にし、その後しばしば口ずさんでいたというフォン・フォフトの証言を引いている
(81)
。
だが調べた限りでは、そのようなシューベルト歌曲は見当たらなかった。また、確かにフォン・フォフトはその回想の中で、作家の前でこのロマンスを
ピアノで弾いて見せたところ、それが大変ドストエフスキイの気に入り、作家自身も歌ったり、『罪と罰』のカテリーナ・イヴァーノヴナに歌わせることになっ
たと述べているが、そこでは「ハイネの有名な詩によるドイツのロマンス」とされているだけでシューベルトのロマンスとは言われていない
(82)
。どうやらこ
れは注釈者の勇み足のように思われる。ドストエフスキイについてはむしろ、初期の特異な作品『分身
・Двойник(1846)がもしかしたらハイネ/シューベルトの ”Doppelganger”
に想を得たのではないか、などと空想をめぐらすことの方が楽しい
(83)
。
* * *
この他いくつかの作品においてシューベルトの名や歌曲が19世紀のロシア文学の世界を彩っている。
ロマン主義を身をもって生きたレールモントフも、やはりシューベルトの歌曲に通じていたようだ。詩人が決闘に斃れる直前に書き遺した未完の作品の
中には、伯爵邸で催された音楽会で外国の歌姫が『魔王』を歌う場面が挿入されている。「彼らの会話はしばらく途切れ、二人とも音楽に聴き入ったようだっ
た。旅の歌姫がゲーテの詩によるシューベルトのバラード『魔王』を歌っていた」
(84)
。この歌姫は1841年にペテルブルグで客演し、シューベルトのロマンスを
歌ったドイツのオペラ歌手ザビーナ・ハイネフェッター(本稿第2章参照) を念頭に置いたものであろうと考えられている
(85)
。
意外なところではゴンチャローフの『オブローモフ』(1859)の中にもシューベルトが歌われる場面が出てくる(第2部第10章)。臆したオブ
ローモフから突然別れを告げる手紙を受け取って一人公園で泣いていたオリガは、彼と話をして誤解が解けた後、胸を昂ぶらせて
走り去り、自室で熱狂的に歌い続ける。
オリガの窓のそばを通った彼の耳に、彼女の胸のつかえがシューベルトの響きの中で解れてゆく
のが、まるで幸福のあまり号泣しているかのように聴こえた。
あゝ! この世に生きるのはなんと素晴らしいことだろう!
(86)
なお、女主人公のオリガは歌が上手で作中で色々な歌を歌っているが、具体的な曲名や作曲家の名前がわざわざ言挙げされるのは稀であることを付言し
ておく。
短篇小説の名手チェーホフにもシューベルトの登場する作品があった。『道に迷った人びと』(1885)という短篇の中で、酔っ払った弁護士のコ
ジャーフキンがラーエフを自分の別荘に連れていこうとして、深夜に森を抜け、別荘群を目指して千鳥足で歩いて行くのだが、酩酊状態のため道を間違えている
ことに気づかず、他人の別荘(誰もおらず鳥小屋になっている)を自分の別荘と思い込んで妻を呼ぼうとする場面である。
「あれあれ大胆不敵な女だな、床に入りながら窓を閉めておらん。(マントをぬいで、折カバン
と一緒に窓から投げ込む)うう暑い! 一つセレナーデでも歌って、あいつを笑わせてやろうじゃないか。……(歌う)『夜空を月がただようて……そよ風がか
すかに息をつく……そよ風がかすかに揺れる。』……歌えよ、アリョーシャ! ヴェーロチカ、君にシューベルトのセレナードを歌ってやろうか? (歌う)
『わ・が・う・たは……祈・り・と・共に・飛び・行かん……』(声はけいれん的な咳に断ち切られる)ちぇっ! ヴェーロチカ、アクシーニヤに木戸を開ける
ように言ってくれよ!」
(87)
コジャーフキンが歌う最初の歌はシロフスキイのよく知られたセレナーデとジプシーの歌『そよ風』の冒頭部で、後に出て来るシューベルトの『セレ
ナーデ』は、酔っぱらいが鼻歌で歌うほど人口に膾炙していた傍証と見てよかろう。御機嫌な弁護士は
《Пе-снь моя-я-я...лети-ит с мольбо-о-о-ю》
と歌っているが、これはオガリョフが訳したロシア語の歌詞で歌おうとしたものであることが判る。この『セレナーデ』は上のジプシーの歌とともに、この作品
の前年に出版された『歌曲愛好家の男女のための黄金のメロディーのアルバム』に収められているという
(88)
。
4. 琴線に触れる響き:ロシアにおけるシューベルト異聞
ロシアの文豪たちの日記や彼らについての回想等を繙くと、遅くとも19世紀後半にはシューベルトが公の演奏会のみならず家庭音楽のレパートリーの
一つとなっていたことが明らかである。とりわけレフ・トルストイの回りではしばしばシューベルトの曲が演奏され、彼自身も好んでピアノに向かっていたこと
が報告されている。
ペテルブルグで文人たちと交友を深めていた1856年11月28日の日記に作家は「アン[ネンコフ]、ボトキン、マイコフの所へ行った。彼女は素
晴らしい声をしている。ム Wanderer。ドルジーニンの所で3時過ぎに素晴らしいパーティーがあった」
(89)
と記しており、シューベルトの歌曲『さすらい人』を歌った女性の声を讃えている
(90)
。作家が短篇小説『アリベルト』を発表したのはこの2年後のことである。
ヤースナヤ・ポリャーナに引っ込んで教育活動に携わるようになってからのトルストイのシューベルトとの関わりについて興味深いエピソードがある。
トルストイの理念に共鳴し、協力者となったエルレンヴェインは1861〜63年を回想して、ヤースナヤ・ポリャーナでの作家の姿を詩的なタッチで生き生き
と伝えている。
バルコニーの開け放たれた窓から、夜のしじまを縫ってピアノの音が鳴り響く。シューベルトの
バラード ”Erlkonig”
を弾いているのだ。トゥ-トゥ-トゥ-トゥ-トゥ-トゥ。ピアノが轟く。レチタチーヴォで歌う誰かの声がする:「あれは誰だ? 冷たい闇の中、馬を駆る者
は」。トゥ-トゥ-トゥ、トゥ-トゥ-トゥ。鍵盤がとどろく。「それは遅れた馭者、幼い息子を抱いて」同じ声が繰り返す。荘厳な……が次第にもっと優しい
調子に移って行く。ピアノの回りを聞き手がひとかたまりになって陣取っていた。ゲーテの詩的な伝説の詩句を砕いて物語りながら、霊感に満ちたシューベルト
の音楽を演奏しているのはレフ・ニコラエヴィチだった。〈中略〉「馭者が馬を駆り立て、家にたどり着くと、その腕の中で幼子は死んでいた」という悲劇的な
終局の描写に至って、演奏している本人も描かれた場面の不気味さに捉えられ、筋骨たくましい両の手で思いきり鍵盤を叩くと、音楽は甲高い和音で終わり、バ
ラードの最後の言葉「幼子は死んでいた」がうめき声のように夜のしじまに響き渡る
(91)
。
回想は演奏後静けさを取り戻し、再び眠りにつく自然の描写に続けて、音楽の印象で黙り込んだ人びとの雰囲気を和らげようとトルストイが再びピアノ
に向かう場面を伝えている。作家がお気に入りのメンデルスゾーンを弾こうとすると、たった今聴かされた音楽に恐れをなした子供たちが口々に「『森の精』は
やめて」、「どうして森の精はよその子をいじめたの?」、「自分の子どもがいなかったのかな?」などと色々なことを言っている様が描写されており、微笑ま
しいとともに大変興味深い
(92)
。
エルレンヴェインと同様にトルストイ学校の教師をしていたペテルソンも、ヤースナヤ・ポリャーナで仲間たちとトルストイの話を聞く楽しさを語った
後で、「私にとってさらに楽しかったのは、彼の見事なピアノ演奏を聴くことでした。特に私の記憶に深く刻みついているのは、ジュコーフスキイのバラードの
詩を付けたシューベルトの『魔王』でした」と回想している
(93)
。
音楽に造詣の深かったトルストイの趣味と芸術理念の関係について示唆的なのが、彼のユニークな芸術論『芸術とは何か』(1897-98)である。
その中の音楽を論じた部分で、彼は「新しい音楽家たち」の旋律が無内容で排他的なために「世界的はおろか、民族的ですらない、すなわち民族全体ならぬ一部
の人々にしか容れられないものになっている」ことを批判している(第16章)。そして、芸術に力強い素朴さを求める思想家は、推奨できる音楽として「全世
界的芸術の要求に近づいている」音楽家の行進曲と舞曲、様々な民族の民謡を挙げた後、「専門的な音楽の中からはごくわずかな作品をムバッハの有名なヴァイ
オリンのためのアリア、ショパンのノクターン
Es-dur[変ホ長調]、それからたぶん、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェン、ショパンの作品のうちの曲全体ではなくその部分的な
箇所から選ばれた十ぐらいのものを挙げることができよう」
(94)
と
留保つきで述べている。興味深いのは、当初この中に含まれていたヴェーバーの名前が単行本の校正の途中で削除され、シューベルトの名に代えられたというこ
とだ
(95)
。こ
こには思想家トルストイのシューベルトに対する微妙なスタンスが窺われる。
一方、シューベルトの音楽はまた、育児ノイローゼになったソフィア夫人の心にも不思議な力を及ぼしている。1864年秋にトルストイは落馬して手
を骨折し、治療に専念するためモスクワの夫人の実家ペルス家に留まり、離ればなれになった二人はこの間毎日のように手紙を交わしているが、夫人が夫に宛て
た手紙(12月7日付け)の中に次のような一節がある(この直前まで夫人は病気がちの幼い子どもたちを抱えて塞ぎ込み、自身も体調を崩してひどく感傷的に
なっていた)。
あなたの書斎に座って、泣きながら書いています。自分の幸福を、あなたのこと、あなたがいな
いことを思って泣いているのです。自分のこれまでのことを色々思い出しています。マーシェンカが何か弾きだしたので泣いています。その音楽は私が長いこと
耳にしなかったものですが、私の世界、私が長いことそこから一歩も出られないでいた、子どもたちの、おしめの、子ども相手の世界から私を引っ張り出し、そ
れとは全く別のどこか遠くに連れて行ってくれました。〈中略〉今私は音楽を聴いて全神経が高ぶり、あなたのことを滅茶苦茶に愛していて、あなたの窓越しに
太陽が美しく沈んでいくのを眺めています。私がこれまで無関心でいたシューベルトのメロディーが、今や私の心持ちを全く一変させようとしていて、この上な
く苦い涙に咽ぶのをこらえることができません。それはそれでよいのですけど。愛しいレーヴォチカ、あなたは私のことを笑って、気が狂ったと言うでしょうね
(96)
。
シューベルトの音楽が悲しみや不幸を感じている人の心に沁み入る不思議な力を持っているというのは、国籍や時代を問わないもののようだ。トルスト
イからは外れるが、1881年1月31日のドストエフスキイの葬儀の夜、重苦しい雰囲気の中で友人とともに作家を偲んで過ごした音楽家のチュメーネフは
「私は気分に相応しいベートーヴェンとシューベルトの曲をたくさん弾いた。彼は座って聴いていた」
(97)
と回想している。
ヤースナヤ・ポリャーナでは世紀の変わり目になってもシューベルトの響きが止むことはなかったようである。作家の日記等を繙くと、トルストイ邸を
訪れたプロの音楽家たちによってシューベルトが演奏されていた事実が散見される。1899年1月12〜14日の間に高名なピアニストのイグムノフがトルス
トイ邸で演奏した演目の中に、ショパン、ルビンシュテイン、メンデルスゾーンと並んでシューベルトの名が見える
(98)
。
世紀を越えた1907年4月26日、ヤースナヤ・ポリャーナに高名なピアニストのゴリデンヴェイゼルとヴァイオリン奏者のシボルがやって来た。そ
の晩、モーツァルトのソナタ2曲、シューベルトの作品1曲、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』が演奏された
(99)
。「とても楽
しかった」という作家のメモが残っている
(100)
。
翌1908年8月3日から4日にかけて両人は再びトルストイ邸を訪れ、最初の晩はモーツァルトのソナタ3曲、ベートーヴェン1曲、グリーグ1曲を、2日目
の晩はモーツァルトのソナタ1曲、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』、シューベルトのソナタ、ベートーヴェンのロマンスなどを演奏した
(101)
。作家
は、芸術・文学のあり方について「演奏中、これを最後と色々考えた」と日記に記している
(102)
。
* * *
あまり知られていない話だが、シューベルトはロシア皇帝たちのために曲を書いたことがある。アレクサンドル1世の逝去に寄せたピアノ連弾曲『大葬
送行進曲ハ短調』(D. 859)とニコライ1世の戴冠式のための同『英雄的大行進曲イ短調』(D.
885)である。1825年末から26年にかけて作曲され、どちらも26年に出版されているが、おそらくスタンケーヴィチの夢想だにしなかったことではな
かろうか。アルフレート・アインシュタインはそのシューベルト伝の中で「これは、かつてベートーヴェンが皇帝ヨーゼフの死に寄せる哀悼カンタータと皇帝
レーオポルトの即位に寄せる祝賀カンタータを作曲したのに似ている。<中略>われわれはシューベルトがロシア皇帝たちのことをどう思っていたか知らない
が、彼はおそらく彼らの伝統的な気前のよさを想い出したのであろう。さらにわれわれは、はたしてこの気前のよさが発揮されたかどうかも知らない」
(103)
と述べている。実際、デカブリストの蜂起の後始末に追われてそれどころではなかったかも知れない。
最後に筆者のロシアでの個人的な体験に触れることをお許し戴き、小論の筆を擱くことにしたい。シューベルト生誕200周年に当たる1997年の3
月半ば、2ヵ月に満たないモスクワ滞在の合間を縫って筆者が初めてロシアでシューベルトを聴く機会を得たのは、ポヴァルスカヤ通りのシュヴァーロヴァ館の
小さなホールでのことだった。「シューベルトの夕べ」と題されたこのコンサートでは彼のピアノ・ソナタを2曲と連弾曲も披露されたが、この晩の最大の収穫
はロシアの歌姫によるシューベルト歌曲だった。『糸を紡ぐグレートヒェン』(《Маргарита за прялкой》
と紹介されていた)に始まり、『セレナーデ』、『至福』、『君こそは憩い』、『ミューズの子』、『アヴェ・マリア』がこの日の演目で、すべてロシア語で歌
われた(『セレナーデ』はオガリョフの詩で歌われていたように思う)。19世紀に播かれた種がしっかり根づいているのが感じられた。間近に仰ぐ歌姫ジーロ
ヴァはスラリとした体躯に似合わぬ声量で圧倒したのみならず、聴く者の心の琴線に触れる術を心得ているかのようで、筆者は『グレートヒェン』の冒頭から身
体に震えが来るほど引き込まれ、最後の方は嗚咽しそうになるのを必死でこらえなければならないほどだった。異郷での生活に神経が昂ぶっていたのかもしれな
い。筆者の脳裏にゲーテの詩が、狂気に陥りながらファウストを想うグレートヒェンの声が、糸車を模したピアノの響きとともに目くるめくように浮かんでは消
えて行った…。シューベルトに捧げられた10,000ルーブルばかりのささやかなコンサートに心を洗われる思いで、筆者は会場を後にした。星の美しい夜で
あった。
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