SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

19世紀ロシア文化におけるシューベルト
相沢直樹

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− 注 −

1 本稿はこの記念の年に執筆され、翌年春に刊行されることになった。
2 Алексеев М. Первые встречи с Шубертом. Из истории русской музыкальной культуры. - в кн.: Венок Шуберту (1828-1928). Этюды и материалы. М., 1928. С. 13-23; Асафьев Б.В. Музыка в кружках русских интеллигентов 20-х - 40-х годов. - в кн.: Музыкознание. Сб. статей. Л., 1928. С. 5-12.ともに1928年に刊行されたのは、シューベルト没後100周年に合わせたものであろう。
3 この歌曲の題はロシア語では 《Лесной царь》(森の王)と訳されてきた。なお、「D. 328」のように示されているのは音楽学者の O.E. ドイッチュがシューベルトの作品を整理したもので「ドイッチュ番号」と呼ばれる。
4 Переписка Николая Владимировича Станкевича. 1830-1840. М., 1914. С. 309-310. "durch Nacht und Wind"[夜を貫き、風を衝き]は『魔王』の冒頭の一部。ベーエロフ家とバクーニン家は親交があり、スタンケーヴィチがミハイル・バクーニンを知ったの もベーエロフ家においてである。両家では音楽の演奏が盛んだった(см.Асафьев.соч.С. 7.)。なお、本稿では原則として日付はロシア暦で示してある。
5 История русской музыки. Т.5. М., 1988. С. 460.
6 アレクセーエフは、不正確ながらもロシアで最初のシューベルトについての伝記が出たのが1841年なので(本稿第2章参照)、スタン ケーヴィチはドイツ語文献に拠ったのだろうと推測している。см. Алексеев. указ. соч. С. 18.
7 Переписка Н.В. Станкевича. С. 372.スタンケーヴィチが読んだ本の記述の誤りであろう。シューベルトはアル中ではなかったし、チフスのために31歳で命を落とした。不正確な伝記的事 実からスタンケーヴィチが思い描くシューベルト像は、どうやら破天荒で破滅型の天才音楽家というイメージのようだ(実際のシューベルトは規則正しい生活を 送る内気で大人しい人物であったが)。ただし、彼が性病を病んでいた可能性が早くから囁かれていたことも事実である。生誕200周年の年にわが国で上梓さ れた書の一つの中で、著者は再び梅毒の可能性を疑っている(喜多尾道冬『シューベルト』朝日新聞社、1997年、第9章参照)。
8 Переписка Н.В. Станкевича. С. 516.
9 Там же. С. 517-518. スタンケーヴィチがリュボーフィに注意を促している『海辺にて』の中の詩句は「(あなたの目から愛情に満ちた)涙がこぼれ落ちた」「あの幸薄い女性が僕に (その涙で毒を注いだ)」という部分で、これは悩める恋人の心の琴線にいたく触れたことであろう。アレクサンドル・ミハイロヴィチ・バクーニンは、リュ ボーフィらの父親である。なお、この手紙を初めスタンケーヴィチの記すシューベルト歌曲の題や歌詞には不正確なところがあるが、引用文中ではそのまま示し た。
10 Там же. С. 520.
11 Там же.
12 Там же. С. 528. "Ade" は『別れ』の冒頭の歌詞。
13 Алексеев. указ. соч. С. 18-19.ちなみに、スタンケーヴィチは後にヴァルヴァーラに恋するようになる。
14 Там же. С. 19.
15 История русской музыки. Т. 5. С. 336 (А.М. Соколова: Концертная жизнь).
16 Герцен А.И. Собрание сочинений в тридцати томах. Т. 9. М., 1956. С. 20.
17 Алексеев. указ. соч. С. 13-14.
18 Герцен. указ. соч. Т. 22. С. 77.(1840年4月6日付けポーフヴィスネフ宛て手紙) チェロ奏者セルヴェも出演したこの時のコンサートでは、シューベルトの「讃歌」も演奏された 模様である。 см. Там же. С. 323.
19 ゲルツェンの単なる記憶違いか、あるいは『マリニ通りからの手紙』という自著のタイトルの「〜から 韈 」という語に引っ張られて思わず メAus モ としてしまった可能性がある。なお、このエピグラフは後に削除されている。 см. Там же. Т. 5. С. 398.
20 Белинский В.Г. Полное собрание сочинений. Т. 11. М., 1956. С. 446.
21 Там же. С. 583.
22 Цит. по статье Асафьева. указ. соч. С. 11.
23 Белинский. указ. соч. Т. 6. С. 59.
24 Боткин В.П. Литературная критика; Публицистика; Письма. М., 1984. С. 26.
25 Там же. С. 28.
26 Там же. С. 29.
27 彼が『セレナーデ』を翻訳したのは1840年頃のことと考えられる(см. Алексеев. указ. соч. С. 21.)この翻訳はパナーエフの『アクテオン』の中で初めて公にされた(本稿第3章参照)。
28 Алексеев. указ. соч. С. 21-22.
29 1月10日付け A.B. コリツォーヴァ宛て手紙。 см. Полное собрание сочинений А.В. Кольцова. СПб., 1909. С. 230.
30 Тургенев И.С. Полное собрание сочинений и писем в двадцати восьми томах. Письма. Т. 13-2. Л., 1968. С. 187.
31 Там же. Письма. Т. 1. С. 191.
32 アルフレート・アインシュタイン、浅井真男訳『シューベルト 音楽的肖像』白水社、1996年、465頁。
33 33 Сочинения Василия Петровича Боткина. СПб., 1890, Т. III, С. 29-30 (Цит. по статье Асафьева. указ. соч. С. 11-12.)
34 Одоевский В.Ф. Музыкально-литературное наследие. М., 1956. С. 179.
35 ワルツ 変イ長調 op. 9 (D. 365), No. 2 。セルヴェによる変奏の題は "Le Desir. Valse de Schubert, Fantasie et Variations", op. 4.
36 シューベルトの作であることが判明してからも、一般にはこのワルツは相変わらずベートーヴェンの作と見なされていた。ロシアでも 「ベートーヴェンのワルツ」に詩をつけたロマンスが多数書かれ、「ベートーヴェンのワルツ」はロシアの新聞・雑誌上で1860年代まで繰り返し何度も取り 上げられたと云う。 см. Одоевский. указ. соч. С. 576-577 (Примечания Г.Б. Бернандтом).
37 1867年にはオドーエフスキイはもっと率直になった。この年音楽時評の中で、コッスマンが「有名なシューベルトのワルツ(シューベ ルトの名がほとんど無名だった頃、フランス人がベートーヴェンに帰しかけた)によるセルヴェの幻想曲」を演奏したことを伝えている。
см. Одоевский. указ. соч. С. 317.
38 История русской музыки. Т. 5. С. 344.
39 Алексеев М, Берман Я. Франц Шуберт. Материалы для библиографического указателя. - в кн.: Венок Шуберту. С. 71.
40 『シューベルトへの花冠』の文献目録はこの記事に注釈して、「ベートーヴェンもパリ経由で浸透した!」と記している。(Там же.)
41 Там же. С. 72.
42 Там же. С. 71-72.
43 Там же. С. 71.
44 История русской музыки. Т. 5. С. 499. また同年譜によると、グロッスは翌年のコンサートでシューベルトの『セレナーデ』を演奏している。
45 シューベルトを崇拝するボトキンは「オリジナルの作曲家としては取るに足りないリストは編曲において、分けてもシューベルトのメロ ディーの編曲において極めてすぐれた才能を発揮している」と辛辣ながらもリストの貢献を認めている。см. Боткин. Литературная крити-ка. С. 141.
46 История русской музыки. Т. 5. С. 353-354.
47 Ризенкампф А.Е. Воспоминания о Федоре Михайловиче Достоевском. - в кн.: Литературное наследство. Т.86. М., 1973. С.329.4月9日に始まったというのは、リーゼンカンプの記憶違いかと思われる。「ほとんど一つも聴き逃さなかった」というのが本当ならば、ドストエ フスキイはシューベルト歌曲のピアノ編曲をリストが弾くのを直接聴いていたと考えられる。
48 Тургенев. указ. соч. Письма. Т. 1. С. 237.余談だが、当時のロシアには歌曲王と同姓のチェロ奏者・指揮者がおり、このカルル・ボグダーノヴィチ・シューベルト氏はヴィアルドー夫人の出演し た慈善コンサートなどで何度か指揮を務めている。
49 「ロシアにおけるシューベルト」を主題とした本稿では、国外に活動拠点を移してからのツルゲーネフについては詳述を控えることにし た。彼のシューベルトに対する思い入れには、青春時代に先輩たちの感化の下に影響を受けたドイツ・ロマン主義と、もう一つヴィアルドー夫人との関係という 二つの大きな要素があるように思われるが、これらの問題についてはいずれもっと纏まった形で論じるつもりである。
50 Алексеев, Берман. указ. соч. С. 72.
51 Одоевский. указ. соч. С. 213.
52 История русской музыки. Т. 5. С. 502.
53 см. Алексеев. указ. соч. С. 16.
54 取り上げられたテーマから主なものを挙げると、シューベルトの伝記(1850,1858)、シューベルトの未刊の手紙(1863)、 シューベルトとその友人シュヴィントについて(1865)、シューベルトの日記からの断片(1865)、シューベルトとドイツの民衆音楽(1848)、 シューベルトのオペラ(1851,1866)、シューベルトの宗教音楽(1866)等である。
см. Алексеев, Берман. указ. соч. С. 72-73.
55 Христианович Н.Ф. Франц Шуберт // Русский вестник. 12. 1863. С. 669.
56 フリスチアノーヴィチが ≪Баркаролла≫ (ママ)と呼んでいる曲については確証が得られなかった。『小舟の歌』と推定した根拠の一つは、後で見るように、彼がスコットの『湖の美人』に関わる一連 の作品に触れていることである(彼は『湖の美人』シリーズと同様に歌曲集『冬の旅』を知るのは一部の人だったとしながら、人気曲リストの中に後者から2曲 の名を挙げている)。ただしこれは合唱曲であり、厳密には歌曲とは呼ばれない。その意味では、以前別稿で推定したマイアーホーファー詩による『ゴンドラの 船頭 Gondelfahrer』(D.808、男声四重唱曲は D.809)や、あるいは『水の上に歌う Auf dem Wasser zu singen』(D.774) などの可能性も考えられる(拙稿「さすらい人のうたム『ルーヂン』とシューベルトム」『SLAVISTIKA』第11号、1995年、133頁参照)。
57 Христианович. указ. соч. С. 669.オシアン詩とされているものの多くはマクファーソンの偽作で、シューベルトはハロルド独訳の『イストニアの乙女』、『オシアンの「ナトス戦死の後 に作れる歌」』、『ローダの幽霊』などに作曲した。「海辺の乙女」とはスコットの『湖の美人』の中の詩(シュトルク独訳)に作曲した歌曲、合唱曲を含む一 連の作品のこと、「ミュラーの歌曲:水車小屋の娘と旅人の歌」とは歌曲集『美しき水車小屋の娘』と同『冬の旅』のことであろう。
58 История русской музыки. Т. 6. С. 351. 以下この項でのコンサート、雑誌論文等についての記述は『ロシア音楽史』の年譜と『シューベルトへの花冠』の文献目録に拠っている。История русской музыки. Т. 6 (С. 321-376), Т. 7(С.413-468), Т. 8 (С. 467-520); Алексеев, Берман. указ. соч. С. 70-79.
59 Тургенев. указ. соч. Письма. Т. 5. С. 229.
60 「アンプロンプチュ」(D.935) が未完成のソナタであるとする説。
61 Тургенев. указ. соч. Письма. Т. 9. С. 18. なお、ツルゲーネフは誤って「シューマンの」歌曲と書いている。
62 Чехов А.П. Полное собрание сочинений и писем в тридцати томах. Сочинения в восемнад-цати томах. Т. 16. М., 1979. С. 268. フィグネル夫人はマリインスキー劇場のソリスト(ドラマチック・ソプラノ)で、『ペテルブルグ新聞』も『アヴェ・マリア』を大成功だったとしている
(см. Там же. С. 522)。
63 オドーエフスキイは13の短篇小説を連作するという構想を暖めていたが、実際に執筆されたのは『孤児』と『絵描き』、『鞅(むなが い)』の三作だけであった。
64 Сакулин П.Н. Из истории русского идеализма. Князь В.Ф. Одоевский. Мыслитель.- Писатель. Т. 1. Ч. 2. М., 1913. С. 140.
65 Там же. С. 139. なお、シラーのエピグラフにはさらに "Fulgura frango" [(我は)雷電を砕く]が続く。
66 好んで牛糞の中に棲むという甲虫の学名(小説のエピグラフに Actaeon Rhinoceros についての博物学的記述が置かれている)に由来する「アクテオン」という名を作中でオリガの夫の綽名にしていることからも、露骨な風刺精神が窺えよう。
67 Панаев И.И. Сочинения. Л., 1987. С. 279-280.ただし、初出の雑誌テクストの中にオガリョフの名前が記されている訳ではない。
см. Отечественные записки. Т. 20. 1842. С. 44.
68 Панаев. указ. соч. С. 289.
69 Там же. С. 290-291.
70 Тургенев. указ. соч. Сочинения. Т. 6. С. 209. 『祖国雑記』誌に発表された初出のテクストでは、この部分は「彼は彼女たちのために本を読んであげました。ソフィアは彼のためにシューベルトを弾きまし た。ヴァルヴァーラは時たま彼に、断片的な質問をしていました」という簡単なものだったが、この作品が『中・短篇小説集』第三部(1856)に収められる 際に、前掲部分は大幅な手直しを受け、ズロトニツキイ家での主人公の様子が紙幅を尽くして詳細に語られるようになった。
なお、ここに登場する『星座』はクロップシュトックの詩になる歌曲 "Die Gestirne" (D. 444) のことであろうと注釈者は推測しているが(Там же. С. 546)、これ以外に『星 Die Stirne』と題するリートがいくつかある。
71 Там же. С. 176.
72 Там же. С. 268.
73 『ルーヂン』におけるドイツ・ロマン主義の問題についてはすでに詳しく論じたことがあるので委細は別稿に譲るが、筆者はこの作品に シューベルトの歌曲『さすらい人』がこだましていると考えている(拙稿「さすらい人のうた…」128-158頁)。
74 Тургенев. указ. соч. Сочинения. Т. 7. С. 233.
75 この作品のテクストの背後に『アヴェ・マリア』が隠れている可能性がある(拙稿「名前のアラベスク、或いはエレーナの時代 ム ツルゲーネフの『その前夜』における〈心理学・神話・音楽〉ム」『RUSISTIKA』第10号、1993年、147-149頁参照)。
76 Тургенев. указ. соч. Сочинения. Т. 8. С. 31.
77 Там же. С. 236.ニコライの弾く『期待』はロマンチックな恋の予感を歌った歌曲 "Die Erwartung" (D. 159) で、当時のロシアで人気があった(フリスチアノーヴィチの証言:本稿第2章および別表参照)。
78 この善意は報われず、束縛を厭うアリベルトは結局邸を飛び出してしまう。なお、作家自身もかつて同じ様に破滅型のヴァイオリニストを 救おうとして失敗した苦い経験を持っている。
79 Толстой Л.Н. Полное собрание сочинений. Т. 5. М., 1935. С. 42-43.
80 см. Мендельсон Н. М. Комментарий к ≪Альберту≫. - Там же. С. 299.
81 Коган Г.Ф. Реальный комментарий к ≪Преступлению и наказанию≫. - в кн.: Достоевский Ф.М. Полное собрание сочинений в тридцати томах. Т. 7. Л., 1973. С. 393.
82 Фон-Фохт Н. К биографии Достоевского. - в кн.: Ф.М. Достоевский в воспоминаниях современников. Т. 1. М., 1964. С. 378-379.
83 『未成年』の中でトリシャートフがオペラを書くなら『ファウスト』に取材すると述べている箇所について、作家がシューベルトの「ファ ウストからの場面」に想を得たという可能性をボブロフという研究者が指摘しているようだが、その論文を筆者は未見である。Бобров Е. Достоевский и Франц Шуберт // Русский филологический вестник. 1. 1907. С. 183-186. (см. Алексеев. указ. соч. С. 22.)
84 Лермонтов М.Ю. Собрание сочинений. Т. 4. М., 1958. С. 372.
85 см. Там же. С. 500. この注釈では Гейне-Фехтер と綴られているが同一人物と見なされる。
86 Гончаров И.А. Обломов. М., 1951. С. 277.
87 Чехов. указ. соч. Сочинения. Т. 4. С. 75-76.翻訳は、神西清、池田健太郎訳『チェーホフ全集』第4巻、中央公論社、1960年、99頁。
88 Там же. С. 476.
89 Толстой. указ. соч. Т. 47. С. 102.
90 この女性が誰なのかは注釈者も不明としている。см. Цябловский М.А. Примечания к записям с 21 ноября 1855 г. по 3 февраля 1857 г. - Там же. С. 380.
91 Эрленвейн А.А. Отрывки из воспоминаний о Ясной Поляне. 1861-1863. - в кн.: Л.Н. Толстой в воспоминаниях современников. Т. 1. М., 1978. С. 127-128.なお、引用文中の〈……〉の部分は、エルレンヴェインの回想のタイプ原稿のテクストから元々欠落している部分である。
92 『Erlkonig』は早くから ≪Лесной царь≫ という訳語で通っていたが、ロシアでこの名前が普及したのには、民間信仰の「森の精леший」のイメージの与る所もあって馴染みやすかったのかもしれな い。
93 Петерсон Н.П. Из записок бывшего учителя. - в кн.: Л. Н. Толстой в воспоминаниях современ-ников. Т. 1. С. 123. ペテルソンがトルストイに請われてヤースナヤ・ポリャーナの作家の学校で教えるようになったのは1862年初めである。
94 Толстой. указ. соч. Т. 30. С. 163.
95 Машин В.С. История писания и печатания статей об искусстве и трактата ≪Что такое искусство?≫. - Там же. С. 549.
96 Там же. Т. 83. С. 94. マーシェンカは作家の妹マリヤのことであろう。
97 Тюменев И.Ф. Из дневника. - в кн.: Литературное наследство. Т. 86. С. 342
98 Родионов Н.С. Хронологическая канва жизни и творчества Л.Н. Толстого за 1895-1899 гг. - в кн.: Толстой. указ. соч. Т. 53. С. 412.
99 Гусев Н.Н. Примечания к Записной книжке 1907 г. 1. - Там же. Т. 56. С. 564.
100 4月29日のメモ。см. Там же. С. 193.
101 Гусев Н.Н. Примечания к Дневнику 1908 г. - Там же. С. 508.
102 см. Там же. С. 142.
103 アインシュタイン、前掲書、358頁。イ短調の方は後にリムスキイ=コルサコフによってオーケストラ用に編曲された。

※シューベルトの作品については主に以下を参照した。

アルフレート・アインシュタイン、浅井真男訳『シューベルト 音楽的肖像』白水社、1996年。 フィッシャー=ディースカウ、原田茂夫訳『シューベルトの歌曲をたどって』白水社、1990年。 前田昭雄『シューベルト』新潮文庫、1993年。 出版物ではないが、ウェッブ上で公開されている平石英雄氏の詳細な「シューベルト全作品目録」も大変参考になった(http: //www.bekkoame.or.jp/~nakatac/schubert/)。 また、森田稔氏にはロシア音楽史に関して貴重な御教示を頂いた。

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