申請者の研究テーマは19世紀ロシア自由主義の政治・法思想であり、その成果を『ロシア自由主義の政治思想』
(1999年、未来社)としてまとめた。
その学術的意義は、第1に本著作が、日本で最初のロシア自由主義の学術専門書であるという点にある。従来日本
のロシア史、ロシア思想研究は、革命思想、宗教思想、スラヴ主義等に限定され、自由主義思想に関してはほとんど言及されることがなかった。ロシア自由主義
がその内部に多様な潮流を含み、19世紀ロシア思想および政治に大きな力を持っていたこと、そしてそれが今日の政治思想にまで影響を与えていることを日本
で最初に検証した点にその意義がある。
第2に、ロシア自由主義の「政策」レベルの分析ではなく、その「考え方」(habit of
mind)を分析の対象とした点にある。従来、主として欧米のロシア自由主義研究においては、その「政策」(農奴解放、立憲主義、司法改革、市民的・政治
的自由の擁護、経済政策等)を西欧自由主義の政策と比較してロシア自由主義の「特殊性」「後進性」を指摘する傾向が支配的であり、そのロシアの政治・思想
状況における固有の意義が軽視されがちであった。本書は知識社会学の方法をロシア自由主義研究に適用したものである。この方法を最初にロシア思想に適用し
たのは、ポーランドの思想史研究者アンジェイ・ヴァリツキであり、筆者も彼に多くを学んできた。しかし、ヴァリツキはともすれば「思想類型論」に陥りがち
であった。本書は彼の欠陥を改善し、思想類型論を克服した知識社会学的思想分析の試みである。なお、筆者のヴァリツキの方法論批判は1992年、ロシア科
学アカデミー歴史学研究所主催の国際会議「20世紀のロシア:歴史学の運命」で報告され、高い評価を受けた。
第3の意義は、ロシア史学史を思想分析の対象とすることによって、ロシア人の自己意識を分析した点である。ロ
シア自由主義の理論的指導者の多くは歴史学者でもあった。本書は彼らの歴史理論を分析し、それをロシアとロシア人に関する新しいアイデンティティ形成の試
みであることを論証した。そしてそれは今日の「ロシア論」「ロシア人論」にも決定的な影響を与えている。この意味で本書は19世紀ロシア自由主義の研究に
とってのみならず、現代ロシア分析にも有効な視角を与えうるものである。
現在、申請者は科学研究費の支給を受けて、20世紀ロシア自由主義の研究をはじめている。この研究によって
20世紀ロシア自由主義の思想的特質が明らかとなるばかりでなく、19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア思想の「転換」(観念論の復活、マルクス主
義の台頭、ロシア宗教ルネッサンス等)を有効に分析しうる視角を提供できると考えている。
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