キルギス共和国における 急進主義的構造改革と企業行動* −制度分析−

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はじめに

 キルギス共和国(1)は、リベラルな改革方針を掲げるアカエフ大統領の下で、他の旧ソ連諸国に先駆けて急進的な社会・経済改革に着手したことから、国際金融界及び一部の先進国政府より「民主化・市場化のパイオニア」ないしは「市場経済化の最前線」という肯定的評価を得ている(2)。また近年は、金保有量世界第8位(930万オンス)を誇るクムトル金鉱開発事業への外国資本の参画が功を奏し、金の顕著な輸出拡大を実現したことから、近未来の有力な金供給国として注目されるなど、経済発展の将来的展望にもようやく明るい兆しが見えてきている(3)

 しかし、このような前向きな評価にも拘わらず、EBRDの比較分析は、他の旧ソ連諸国との比較において、改革当初注目されたキルギスタンにおける市場経済化政策の「先行性」が失なわれつつあることを明瞭に示している(表1)。また、同国の急激かつ抜本的な制度改革とインフレ抑制型マクロ経済安定化策の貫徹は、未曾有の経済危機と市民生活の混乱を招いたが(4)、かかる諸困難の代償として切望された企業改革の早期完遂が実現されたとも、また改革の進展に伴って国内企業の経営状況が目覚しく改善されたとも言い難い状況にある。特に、工業部門における企業再建の大幅な遅滞は、産業政策上の重大問題と見なされている。

 多くの旧ソ連諸国を巻き込んだ長期的構造不況が企業改革の桎梏となったとする主張は、傾聴すべき論点を含んでいる。しかし経営環境の危機的悪化は企業経営者や資産所有者に対して抜本的再建策を迫り、より効率的な経営組織への転換を促す効果を持つことも否定し得ない。従って、企業改革が遅滞する要因を、マクロ経済の危機的状況にのみ帰着させる議論は必ずしも首肯できるものではなく、むしろその原因は、同国が歩む体制移行経路の内実から究明されるべきものと思われる。

 そこで本稿では、マクロ経済の危機的状況に留意しつつ、同国における経済体制転換過程それ自体が内包する諸問題を制度論的観点から考察してみたい。即ち、市場経済化端緒期(1991-97年)に遂行された構造改革が生み出す新たな制度配置状況を検証し、これとの係わりで企業の経営再建活動を遅滞せしめる諸要因の析出を試みる。

 本稿の構成は次の通りである。

 第1節では、キルギス共和国において急進的改革理念が採用される経緯と、それに基づいた構造再建策の基本方針を整理すると共に、市場経済的企業活動の実質化を企図した構造改革の成果を検討する。第2節では、企業私有化の進捗過程で生成した新しい産業組織の構造を分析する。第3節では、産業組織と共に進化する政府−企業間の相互関係を論じる。第4節では、企業行動に関する実証分析に基づき本稿で展開される議論の妥当性を吟味する。そして結語で筆者の結論を要約する。

1.企業活動の自由化に向けた構造改革

1.1 「急進主義」改革理念の確立と企業再建策の基本方針

 1990年秋の共和国大統領選挙での勝利を契機に、学者から政治家へ転身したアカエフ大統領は、翌91年末のソ連邦解体から体制移行端緒期の数年間を通じて中央アジア諸国の中で「最も野心的な」経済改革を推進したと評されている(5)。大統領は、政権樹立後一貫して民主主義及び市場経済化を自らの政治的信念とし、官僚支配の打破や企業活動に対する国家の中立性を提唱すると共に、中央集権型統制経済へ国家を回帰させる可能性を持つ漸進主義や開発独裁は、キルギスタンが採用する改革戦略の選択肢から排除すべきとの姿勢を堅持した(6)。このような思想の論理的帰結として、アカエフ大統領は、「キルギスタンにとって正しい唯一の道は、ラディカルな改革であると確信する」に至る(7)。急進主義の貫徹を掲げたこの声明は、94年1月に実施された大統領信任投票を通じてその是非が質されたが、大統領は、経済危機の深刻化とそれに伴う社会的緊張の高まりにも拘らず、有権者の圧倒的支持(投票率95.9%、信任率96.3%)を獲得し、急進主義的改革理念もまた国民の信託を得る形となった(8)

 無論、以上の経緯は単にカリスマ性を具えたアカエフ大統領の個人的信条にのみ基因するものではない。そこには、政権をして急進的改革路線の採用を余儀なくさせた幾つかの社会・経済的要因があった。第1に、ソ連邦政府による財政移転や経済支援の代替となる物的・金融的資源を確保する必要性が指摘できる。1989-91年の期間において、キルギスタンへの連邦交付金は、国内総生産の約10〜13%に相当しており(9)、連邦解体後、自力で経済改革を始動せねばならない共和国指導部は、改革実施に必要な原資の一部を国際的支援に依存せざるを得ないと判断した。当時、「ショック療法型」構造改革や緊縮型財政・金融政策を勧奨するIMFコンディショナリティの受諾は、国際金融機関が提供する各種ファシリティに加えて、先進諸国の開発援助が発動されるための必須条件でもあり、資金不足に喘ぐキルギス政府に外交的選択の余地は殆ど無かったのである(10)。第2に、政権基盤の不安定性が挙げられる。92年の最高会議補欠選挙でウスバリエフ、アマンバエフ両元キルギスタン共産党第一書記が代議員として返り咲く等、旧共産党の有力政治家が次々と復権する一方で、アカエフ政権を支える民主派勢力は、様々な政治勢力の寄せ集めであるが故の脆弱性を孕んでいた(11)。そこで政府は、経済自由化と国家資産の私有化を急速に推進し、改革派を支持する企業家や資産家階層を早期に育成することで、政治的反動を未然に抑止する、いわば「歯止め効果」を急進主義に求めた。第3の要因は、外資導入の鍵となる国際的信認を獲得する必要である。キルギスタンは、隣国であるカザフスタンやウズベキスタンとの比較においても、外国資本にとって魅力のある地理的条件や資源及び市場規模を具備していない。従って、他の旧ソ連諸国に先駆けて国際機関や先進諸国から優れた「評判」を得ることで、外国資本の誘致を有利に展開したいという配慮がなされたのである。

 以上の諸要因は、アカエフ政権の意思決定に多大な影響を及ぼし、その結果、急進主義が同国の基本的改革理念として確立した。その急進性は中央政府の構造再建策に投影され、1.ソ連期に法制化された市場経済的企業活動の実質化をもたらす経済自由化の早期実現、2.企業私有化の短期遂行による産業組織構造の抜本的転換、3.社会主義的経済管理レジームを代替する新たな政府―企業間関係の構築がその主要目標に掲げられた。そして、このような目標の達成に向けて実施された諸政策が、総体としてキルギスタンの経済構造を急転換し、ひいては企業組織のインセンティブ構造や行動形態を規定する新たな制度配置を創出することとなった。

1.2 市場経済的企業活動の法制化と経済自由化政策

 そこでまず取り挙げるべきは、上記3つの政策分野の内、市場経済的企業活動の実質化を目指す政府の取り組み、具体的には、新しい企業法の制定を背景とする連邦解体以後の経済自由化措置である。

 キルギスタンでは、ソ連期の1991年2月に、「キルギスタン共和国における企業に関する法」(以下、企業法)(12)が採択され、これが92年以降も企業活動の法的基礎となった。7部39条で構成される同法は、総則、企業設立及び登録手続、資産形成、企業管理、企業活動、政府―企業間関係、企業の解散と改組に関する基本手続を内容とする。同法は、中央集権的企業管理をもたらす諸要素の除去を目指した「ソ連邦における企業に関する連邦法」(90年6月成立/以下、連邦企業法)(13)の延長線上に生まれたが、所有原則に基づく企業家活動の保証に向けて、労働集団の自主管理原則を強調する87年改革の影響を受ける「連邦企業法」よりも更に抜本的な制度改正を企図したものであった。

 その「企業法」の特徴は、次の4点に要約し得る。第1は、資産所有者に対する企業経営権及び財産処分権の帰属原理の強調である。同法14条は、企業所有者に対して、直接ないし権限委任機関を通じて経営権を執行し、企業長を選出・任命する権利を付与し、所有者の企業経営に関する排他的権限を強化している。第2は、労働集団経営参加権の縮減である。同法16条は、労働集団が企業評議会に自らの代表を派遣することにより会社経営に関与する方途を認めているが、労働集団の代表権比率については何ら特別な規定を設けていない上、18条では、企業評議会の構成は、定款の定めにより会社自身が決定し得ると規定されており、「連邦企業法」に見られる強行法規性が事実上翻されている(14)。第3は、企業活動の自立的計画化の容認である。企業は、法的禁止事項を除いてあらゆる経済活動に従事し、かつ経営活動を自主的に計画し、その将来性を決定し得るとされている(1条3項、23条)。また価格決定及び対外経済活動の自由も認められている(26条1項、28条1項)。第4は、取引・契約関係形成の自由化である。同法24条は、あらゆる経済活動における企業、組織、市民との関係は契約を基礎とし、企業は、契約当事者の選択や契約義務、またその他経済的相互条件の決定について自由であるとした。これに加え、これまでの中央集権的企業管理体系の中で、政府機関と企業群との結節点となった企業合同や部門連合への所属について、同法は、自主原則に基づく参加・離脱権を企業に付与し、企業グループ参画の国家的強制を否定した(3条1、4項)。

 このように「企業法」が定める制度変更は、市場主体の形成という観点から極めて画期的であったが、ソ連期においては同法と緊密な関係を持つ諸法令との矛盾や、益々深刻化するソ連国内の政治的混乱のために法的効力を十分に発揮し得ず、その実質化は連邦解体後着手された経済自由化策を待たねばならなかった。1992年に開始されたその経済自由化策は、1.価格の全面的自由化、2.中央集権的資源配分機構の廃止、3.貿易活動と外為管理に関する規制緩和を軸とするものであり、その進捗は極めて急進的なものであった。

 まず、キルギスタンにおける価格自由化政策であるが、これはロシアに2日遅れた1992年1月4日に一斉に着手された。一部の消費財、エネルギー製品及び公共料金を除き、他の全ての国家統制価格が撤廃され、賃金自由化もほぼ同時に実施された。また独占企業に対する政府の利潤率規制も翌93年12月に撤廃された。こうして政府は、95年半ばに価格自由化の完了を宣言している。一方、独占対策としては、国内市場所有率が35%を越える企業を「独占的生産者」とする「反独占法」が94年1月に制定され、これに従い、政府は自然独占企業7社(鉄道、通信、エネルギー産業等)、政府認可独占企業7社(航空業、採鉱業等)、暫定的独占企業31社(機械製造業、織物業、食品工業等)を認定し、特に価格設定力が強い自然独占企業と政府認可独占企業を財務省反独占局の特別監視下に置いた。その後95年半ばには、価格管理下に置かれた独占企業は5社に削減されている(15)

 次に、ゴススナブを中核組織として運営された旧来の資源配分機構は、「企業法」23条2項の規定に準じて1992年に廃止され、商業ベースの自由取引が導入されると共に、国家的必要のために企業が行う作業及び製品供給は、国家と企業との間で結ばれる契約を基礎とする「国家発注制」へ転換された。ついで93年には、上述の価格自由化措置と歩調を合わせ、エネルギー製品等一部の品目を除いて、工業製品の国家発注そのものが全廃された。しかし一方で、特定の国家的必要に基づく農産品及び工芸作物の強制的国家調達は、その後も暫く維持されることとなった(16)。しかし95年半ばには、政府の物資調達活動は、西側諸国で広く採用されている公開競争入札方式へほぼ全面的に移行している(17)

 最後の貿易活動と外為管理に関しては、1991年4月に制定された「対外経済活動の一般原則に関する法」8条により、国内法人及び市民に対して、所有形態と活動分野の区別なく対外経済活動に従事する権利が認められた。同法が定めた貿易活動に対する国家独占の放棄は、92-93年における段階的規制緩和を経た94年初頭の大胆な貿易自由化策により大いに促進された。この結果、数量割当制がほぼ全廃され、貿易ライセンス対象品目も軍事品、金、骨董品、医薬品の4品目に絞られた。政府は更に、規制緩和の一環として96年末に輸出税も廃止している(但し、穀物は規制緩和対象外とされた)。他方、外貨取引については、94年に自国通貨ソムと外貨の国内自由交換性が樹立され、続く翌95年には、同年7月に制定された「外貨取引法」4条の規定により、外貨持込み・持出しの自由化がほぼ実現した(18)

 体制移行端緒期において、「急進的」改革戦略の一大方針としてキルギス政府が遂行した以上の経済自由化措置は、自国通貨「ソム」導入によるルーブル圏からの離脱や、緊縮型マクロ経済政策の断行と並んで、国際金融機関から高く評価された。だが、ここに問題点がない訳ではない。例えば、アルシュバエヴァは、1991年に制定された「キルギスタンにおける所有に関する法」(所有法)は、私的所有に対する社会主義的制限や差別を撤廃し、資産所有者による財産の利用及び処分権を保証するが、他方で、土地や地下資源等の広範な国家的所有を緩めなかったため、土地売買や不動産に対する担保権設定の制限等を以って自由な資本移動を阻害していると非難している(19)。また、破産法の制定が93年12月まで先送りされた上に、法律制定後も会社更生事務に特化する裁判機関が整備されないため、市場参入が自由化される一方で、企業退出を円滑化する組織機構が欠如していた点も看過できない。その他、「担保法」制定の大幅な後れ(97年1月)、証券取引所等のインフラの未整備、新税法典と外国投資法の不整合、企業配当金への二重課税問題、会計法近代化の後れも未解決の政策課題とされている(20)。こうした問題は無論重要であるが、キルギス政府が、企業活動の自由化を実質化する制度環境の構築に多大な努力を注入し、そこに一定の前進を見たことは確かである。むしろ、ここで強調されるべき点は、このような制度環境が、競争促進的産業組織と、これを補完する政府―企業間関係によって内実を与えられているか否かにある。そこで、次に考察すべきは、産業組織と政府―企業間関係の進化形態である。

2. 国有企業の私有化と産業組織の進化

2.1企業私有化の規範的枠組

 ところで、体制移行期における産業組織と政府―企業間関係の進化経路を規定する最も重要な要因は国有企業の私有化に他ならない。というのは、私有化政策によって産業組織の中枢を占める国有企業の所有・統治形態が転換され、これと共に政府―企業間関係も根本的変化を余儀なくされるからである。

 その国有企業の私有化政策は、政府により自己調整的市場メカニズムの形成と国民の社会的心理変化を促進する最重要課題と位置づけられたが(21)、IMF等の国際金融機関もその推移に重大な関心を抱き、その途上で数々の政策勧告を行った(22)。このため、企業私有化の規範的枠組は、1991年12月に制定された「キルギスタン共和国における非国家化、私有化及び企業家活動の基本原則に関する法」(以下、私有化基本法)と、94年1月制定の「国有資産の非国家化及び私有化に関する法」(以下、改正私有化法)を基軸とし、更に国際金融機関の勧告を踏まえた諸法令や、個別具体的ガイドラインを定めた国家プログラムの諸規定が付け加わった複雑な体系となっている。その全体的把握は勿論重要であるが、この課題は補論に委ね、ここでは私有化基本二法を中心とする私有化方式の骨子と、「改正私有化法」制定を契機とする広範囲な変更の経緯を概観するに止めたい。

 「私有化基本法」及びその関連諸法令は、体制移行期の私有化政策を規定する初めての一般的枠組を提供した(補論S1参照)。これにより、国有企業の私有化政策を総合的に指揮・管理する国家機関として、中央には共和国国家資産フォンド(以下、国家資産フォンド)が、地方には国家資産フォンドの下部機関として州及びビシュケク市国家資産フォンド(以下、地方資産フォンド)が設置された。また、企業私有化の基本的手段として、1.国有・公有企業(23)の何らかの人間集団により所有される企業(以下、集団所有企業)への改組、2.国家が保有する国有・公有企業株式の売却、3.既に賃貸されている国家資産の賃借人による買取り、4.コンクール(契約条件付き競争入札)、5.オークション(競売)、6.国有・公有企業の民間セクターへの経営権譲渡及び7.無償譲渡の7方式が採用され、多彩な私有化形態が整備された。更に、体制転換の利益を一般市民に均霑するために、全国民に「特別支払手段」を配布した上で、「特別支払手段」が投資可能な公開オークション等を通じて国家資産を無差別に売却する「大衆私有化方式」も併置された。

 しかし、「私有化基本法」が定めた私有化方式は、1992-93年の2年間に数々の問題点が指摘された。第1に、国有企業の株式会社化に際して、企業内部者の株式取得が優勢となった。例えば、当該期間に私有化された工業企業の76.1%(201社)が株式会社化を選択したが、企業幹部及び労働集団は、法令の定める優遇条件を活用して自社株式を平均53%獲得した(24)。これに労働集団が全資産を買収したケースを加算すれば、企業内部者が取得した企業(以下、インサイダー所有企業)は、私有化された工業企業全体の88.3%(233社)に達した。このため、当初はインサイダーによる企業の取得を容認していたアカエフ大統領も、彼らによる国有資産のあからさまな取得活動に対し危惧の念を表明した(25)。第2に、国有企業の非公開株式会社化が多発した。株式会社に改組した企業の約3分の1が非公開株式会社に留まったことから、外部投資家による株式取得が事実上封鎖された他、非公開株式を保有したままの離職や解雇が法的に認められなかったために従業員の解雇や転職活動を妨げる等の弊害を生んだ。第3に、国家資産の不当廉売が頻発した。資産評価作業に対する外部監査が機能せず、査定価格が恣意的に下方誘導される事例がマスコミにより多数指摘された他、政府官僚の関与が刑事告発されたり、地方行政府の長が懲戒免職される等の事件が次々と発生した(26)。第4に、「特別支払手段」の利用率が極めて低調に推移し、大衆私有化政策が失敗に帰した。キルギス国民の76%(約360万人)に支給された「特別支払手段」(総額41百万ソム相当)は、93年12月時点で全体の5%のみが利用されたに過ぎず、更に、利用された「特別支払手段」の殆どが住宅フォンドの取得に充当されるという予想外の結果に終わった。「特別支払手段」の低利用率が生じた原因として、1.地方における「特別支払手段」支給事務の遅滞、2.公開オークションの少なさ(27)、3.一般市民に対する情報発信の不十分性等が指摘されており、大衆私有化政策に対する国家の取組みが各方面から非難された。

 上記の諸問題に直面した政府及び議会は、「私有化基本法」の改正によって状況の改善を図った。その主眼点は、1.政策目標の量的指標から質的指標への重点転換、2.行政手続の透明性と客観性の強化、3.国有資産売却プロセスの公開性拡大と一般市民の参加促進、4.インサイダーによる企業支配の抑制にあった(補論S2参照)。具体的改正内容は多岐にわたるが、最も重要な点は、以下3点に要約し得る。第1は、外部投資家による国家保有株式の入手可能性が強化された点である。政府は、1994年以降、国有企業の非公開型株式会社化を禁止すると共に、既存非公開型株式会社の株式公開を義務化した上で、政府機関や経済連盟に分散管理されていた国家保有株式を国家資産フォンドへ集中し(後に詳述)、国家保有株式を一元的に売却する体制を整えた。第2は、国家資産の無償取得権を流動化させると共に、大衆私有化への機関投資家の参加を認めた点である。様々な問題が噴出した「特別支払手段」は廃止され、特殊国家有価証券として国内での自由譲渡性が附与された「私有化クーポン」が導入された。また同時に、自社発行株式と引換に市民から「私有化クーポン」を引き受け、それを再投資する「特別資産フォンド」の設立が認可された。第3は、労働集団に与えられた優遇措置が大幅に削減された点である。政府及び議会は、これまで労働集団に対して排他的に認めていた資産価格割引制等を撤廃した他、株式会社化された国有企業については、労働集団へ無償供与される5%の株式を除いた残り全てを国家資産フォンドへ帰属せしめることで、企業資産売却に係わる政府主導権を強化した。なお、「改正私有化法」の制定以後97年末まで、私有化方式の規範的枠組みには特記すべき変更が行われていない。

2.2 私有化政策の進捗と産業組織形態の進化

 そこで次に問題となるのは、上記の方式で推進され、1997年半ばの段階で、ロシアに次ぐ民間部門の急速な拡大(28)をもたらした企業私有化の進捗状況と、それが経済構造及び工業部門における産業組織に及ぼした実質的影響である(29)

 まず、経済構造に及ぼした影響であるが、それは次の3点に整理できる。

 第1に、企業形態の多様化が指摘し得る。私有化政策の進展により、1997年末までに生産部門に属する私有化対象企業8736社のうち6417社が所有形態を変換し、企業数をベースとした私有化率は73.4%に達した(30)。また当該期間に売却された企業固定資産の総額は、134億1090万ソムに相当した(31)。生産部門全体の私有化率を上回ったのは、商業・公共外食(97.4%)、サービス業(98.5%)、工業部門(88.2%)であり、逆に農業及び運輸業は50%にも及ばなかった(表2)。これら私有化企業をベースに1139社の株式会社、171社の有限会社、2500社を越える個人所有企業が誕生した。このような既存企業の民営化に加え、民間企業が新規設立されることにより、キルギスタンにおいて企業形態の多様化が促進された。即ち、97年1月1日現在で、国有・公有企業の、労働雇用を伴わない個人企業、農家及び農場経営体を含めた全国内法人数に占める比重は各々1.3%(1647社)、0.4%(497社)となり、国有法人セクターの比重が2%を割り込んだ一方、民間法人セクターは、公開株式会社が1.1%(1403社)、非公開株式会社が0.3%(324社)、有限会社が2.5%(3132社)、追加責任会社(32)が0.1%(110社)、完全同権者組合(Полное товарищество)が5.1%(6412社)、合弁企業が1.2%(1516社)、生産協同組合が1.1%(1424社)と多極化を遂げつつ、その全体的比重を徐々に拡大した(33)

 第2は、労働市場の構造変化である。企業私有化の進展に伴い、労働者の就業構造も大きく様変わりした。国有セクター従事者数の比率は、経済全体で1991年の70.2%から97年には26.0%に、工業部門で89.7%から19.9%に減少した一方、私的セクター従事者は、経済全体で29.2%から69.5%に、工業部門で8.9%から66.5%に増大した。また、合弁企業及び混合企業の従事者も、経済全体で0.2%から3.9%に、工業部門で0.9%から12.6%に増加している(34)

 

 第3は、個人株主及び機関投資家の形成である。先述した「特別支払手段」による無償私有化政策の失敗を受けて導入された「私有化クーポン」の支給規模は、「特別支払手段」との交換分に社会的弱者への支援を目的とした追加発行分等を加え、総額35億4243万ポイントに達した。1994年4月から97年6月の間に国家資産フォンドが組織した237回のクーポン・オークションにおいて、1056社の株式が競売対象となり、この結果、200万人以上の市民が総額9億280万ソム相当の株式を取得した。一方、「クルグズ・インベスト」、 「オシ・インベスト」、 BNC等を代表格とする特別投資フォンド18社(97年9月時点)は、自社株との交換によって6億5480万ポイント分の「私有化クーポン」(全体の18.5%)を収集した。この結果、約13万の市民や法人が特別投資フォンドの株主となっている。なお、政府は、投資フォンドに対して、1社当り25%以上の株式購入を禁止するという規制を適用している(25%ルール)。このため、投資フォンドは、企業長、労働集団ないし政府が支配株を握る私有化企業に対して十分な支配力を発揮し得ないと指摘されている(35)。なお「私有化クーポン」は、資本市場におけるディーラー間取引の対象ともなり、例えば共和国資本取引所において、94年9月1日から97年6月30日までの期間に13622回の取引が成立し、3億9443万ポイント分のクーポンが売買されている。その際、市民の多くが、無償配布されたクーポンをこのようなチャネルで投資フォンドや法人に売却し、その現金化を拙速に行ったために、投資対象として最も魅力の高い基幹産業企業株の取得機会を逸したと政府は政策運営上の問題点を認めている。97年に、「クルグズ・アバ・ジョルドル」、「クルグズエネルゴホールディング」、「クルグズガス」、「クルグズ・マイニング・コンビナート」、「クルグズ・アクル」等の有力大企業9社の株式がクーポン・オークションで売却されたが、一般市民が購入した株式のシェアが4〜15%に止まったのも、この問題が主因とされている(36)。これらの問題を孕みながらも97年下半期には「私有化クーポン」の94.5%が使用済となり、政府は同年10月に大衆私有化がほぼ終了したとする公式見解を発表した(37)

 以上のような企業私有化の進捗が、経済構造に及ぼした諸変化は確かに見るべきものがあるが、先に触れた工業企業私有化率(88.2%)の直感的印象とは裏腹に、国有企業の私有化が工業部門の産業組織に与えた影響には否定的な側面が含まれている。それは大別して次の2点に要約できる。

 第1に、私有化方式改正後もインサイダーによる企業資産取得の趨勢が抑制されなかった。1994年以後も、競争入札及びオークションの対象となった工業企業は僅か27社(私有化工業企業全体の5.7%)に止まった(表3)。また制度改正により、株式会社化した工業企業が発行する株式の95%が現金ないし「私有化クーポン」による売却対象となり、外部投資家による株式取得率の向上が大いに期待されたが、実際には無償供与分5%に加え、売却済株式の殆どが企業長ないし労働集団の手中に落ちた。事実、1992年、94年及び96年上半期の状態を示す工業企業289社に関するマイクロデータ分析(38)によれば、1992-94年上半期の間に国家的所有に残存したか、ないしはインサイダー所有企業以外の所有形態へ移行した企業の多くが、1994-96年上半期の間にインサイダー所有企業への転換を遂げており、結果として、標本集団に占めるインサイダー所有企業の比重が1992-96年上半期を通じて3.5%から55.0%へ急増したことが確認されている(図1)。

 私有化方式改正以降もインサイダー所有化傾向に歯止めがかからなかった要因として次の5点が指摘できる(39)。第1に、平均月収と勤務年数をベースに支給額が決まる「特別支払手段」制は、平均賃金が他の部門よりも遥かに高い工業企業従事者に最も有利に作用したが、この優位性は、「特別支払手段」が一律のレートで「私有化クーポン」へ機械的に交換されたために「私有化クーポン」移行後も全く是正されなかった。第2に、「私有化クーポン」の流通性を利用して、自社資産の取得に必要なクーポンを企業内部者が外部から調達する方途が開かれていたにも拘らず、国家規制が何ら発動されなかった。第3に、工業企業に関する財務内容の情報公開が進まず、インサイダーと外部投資家との情報の非対称性が十分には除去されなかった。第4に、体制転換の途上で私有化対象企業の多くが経営危機に陥り、投資対象としての魅力を欠いた(40)。第5に、私有化が待望された有力大企業は、政府主導の抜本的経営再建策が講じられる長い間に渡って株式売却の目処が明らかにならなかった(41)。特に第3点及び第4点の影響から、公開オークションにおいて多数の工業企業株が売れ残り、それら未売却株が国家資産フォンドに残留したことも、結果として私有化企業のインサイダー所有比率を押し上げた。

 産業組織上の第2の否定的側面は、固定資本ベースで測定された企業私有化率が、企業ベースのそれと大きく乖離した点である。企業数を基準とした私有化率の高さは、工業固定資本の所有状況に着目したコザルジェフスキの調査結果により、その虚構性が解明された(42)。即ち、これまでに指摘した諸事実を踏まえて、当該調査結果を整理すれば次の通りである。

(1) 私有化政策導入時(1991年)における工業固定資本の国有化率は、部門全体で81.5%であった。この時点で政府は、冶金業、化学工業に対するほぼ完全なコントロールを有し、また燃料・エネルギー産業、建設資材業に対する資産所有率もそれらを幾分下回るものの高水準にあった。一方、木材加工・製紙業及び機械製造・金属加工業においては、労働集団の資産所有率が比較的高いものの、部門全体で見れば、労働集団のシェアは僅か6.5%に過ぎなかった(表4)。

(2) 1996年末までの期間に所有形態を転換した企業が、工業部門全体に占める比重は、企業数で47.7%、固定資本で29.7%に相当した(表5)。従って、この値と前出の表2とを照合すると、私有化目標設定時に私有化対象外とされた工業企業が約410社存在したことが判明する。更に、96年末までに私有化された工業固定資本は、部門全体の17.8%に過ぎず、その中で労働集団が追加的に取得した固定資本は7.7%足らずであったことも認められる。

(3) 私有化企業の96年末時点での所有構造を見ると、国家株式保有率が25%を下回る企業は全体の70.8%に達している。しかし、固定資本ベースで見た国有比率は依然として40.2%の水準にあり、特に燃料・エネルギー産業及び冶金業に至っては、極めて高い国家所有率(80.9%、79.8%)が保持されている(表6)。

 以上の議論を敷衍すると、キルギス工業の産業組織は、次の特徴を有する構造へ変容したものと推定し得る。第1に、資産売却が進んだ工業企業の大多数は、小規模企業か資産価値の低い中規模企業が中心であり、企業長や労働集団が主体となるガバナンス構造はこれら企業群に限って優勢である。工業企業の所有形態別平均規模に関するマイクロデータ分析もこれを裏付けている(表7)。第2に、中・大規模企業の多くは公開型株式会社へ転換しているが、インサイダーや投資フォンドが取得した株式を除く大部分が国家資産フォンドの管理下に残存し、このカテゴリーにおいて「資産所有者としての国家」が一掃されていない(43)。第3に、97年初頭の時点で国内法人数の1.3%を占めるに過ぎない国有企業集団(1647社)の中に、資産価値の極めて高い超大規模企業が多数含まれている。このためキルギスタンにおいては、1.企業長及び労働集団の支配下にある中小企業層、2.政府とインサイダーとの混合的支配下にある中・大企業層、3.ほぼ完全な国家管理下にある基幹産業や超大規模企業群という、大別すれば3つの統治形態から成る産業組織が工業部門に創出された。そしてこのために、所有と経営の未分離、経営責任をソフト化する国家への依存性が、工業界全体で払拭されていない恐れが高いと考えられる。また、赤字企業を清算するケース以外には、独占企業を解体する試みが殆ど実施されなかったために、結果として集中度の高い生産構造が放置され、企業間競争の促進という市場経済化の目標達成を危うくしている点も問題点として指摘できる。

 かかる産業組織の形成は、ソヴェト工業配置政策が創出したキルギス工業の構造や地域展開状況とも密接な係わりがある。即ち、キルギスタンの工業部門は、他の中央アジア諸国と同様に比較的大型の生産単位で構成される産業組織を有し、中でも超大型工場は地方各地へ分散配置され、現地住民の雇用や、住宅、教育機関、集中暖房設備等の社会資本の維持に大きな役割を果たした(44)。このような前提条件の下で、中小企業の私有化を性急に進める一方、経営破綻を招けば地域社会への多大な影響を免れない国有大企業の改革が先送りされ、かつ燃料・エネルギー産業、冶金業等の資本集約的な「戦略産業」や、一部の超大規模企業を市場経済化当初から改革対象外とする戦術を用いれば、その後私有化政策をどんなに果敢に実施したとしても、大部分の工業固定資本が国家の手中に残るのは必然であったと考えられる。

 以上の様に、工業部門の産業組織構造の中で、政府の存在と役割は決して小さくなく、工業企業群を指導・監督する政府諸機関と企業との相互関係が、産業組織の変容と共に如何なる進化を遂げたかが看過し得ない問題となる。これが次節の検討課題である。


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