SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

サハリン州と南クリル地区の 自治制度(ローカル・オートノミー)


中 村 逸 郎

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

問題の提起
1.サハリン州の立法・行政制度
2.南クリル地区の自治制度
3.サハリン州の財政制度と移転資金
結 論

要約

問題の提起

ソ連の崩壊後、ロシアでは連邦秩序が崩壊し、混迷が深まっていった。そうしたなかにあって、分権化という流れが1993年頃をピークに急速に強ま り、連邦 政府と連邦主体(州、共和国など)の関係は、ロシア連邦制を理解する手かがりとなった。
しかし、「連邦政府」対「連邦主体」の枠組みでロシア連邦制を分析するのは、いわば圧力団体化している連邦主体の動きに焦点を当て、連邦の政策決 定要因の 一つを解明するのに役立つ反面、その側面を強調しすぎると、連邦主体の下位単位である地区と市レベル(サブ・リージョナルな主体)にみられる自立的な動き を見過ごしてしまうことになる。連邦主体の内部はいくつかの地区と市に分割されており、それらの一部は連邦主体にたいして一定の独自性を確保しようとして いる。これにたいして連邦政府に向けては分権化を唱え、地域の統合性と一体性を掲げる連邦主体であるが、その内部の地区と市の自立的な動きには歯止めをか けようとするのである。
じつは、地区レベルにまで踏み込んでロシア連邦制を研究しようというアプローチは日本人にとって、たいへん重要なのである。というのも日本とロシ アの間に は懸案の、いわゆる「北方領土」問題があり、「北方領土」を構成するクナシリ、シコタン、ハバマイからなる南クリル地区はサハリン州に一方的に従属してい るわけではないからである。南クリル地区は、日本との間の独自の関係樹立の可能性を視野に入れながら、サハリン州との関係調整を連邦政府に委ねるやり方も もくろんでいる。こうした思惑にたいしてサハリン州は、南クリル地区が連邦政府と連携し、サハリン州の頭越しに領土交渉を進展させるのに警戒感を強めてい る。サハリン州は一方ではサハリン州の統合性が損なわれる危険性を危惧しているが、他方では孤立化を回避するために連邦政府との関係改善の方法を模索しよ うとしているのも事実である。
本稿では、連邦政府とサハリン州と南クリル地区の相互に利害が交錯する現実を念頭に入れ、サハリン州と南クリル地区の行財政制度について考えてみ た。とは いっても、自治を制度面から論じるには限界がある。そもそも自治というのは、人々の日常生活でのルーティーン化された問題解決方法や習慣の実態、さらには 住民の政治関心の高さなどについての調査を踏まえて議論すべきであって、本稿のように制度面だけから判断するのは早計である。にもかかわらず敢えて制度を 扱うのは、資料収集の点で大きな制約があるからである。サハリン州政府を訪問すると、領土問題にたいする日本政府の対応に不信感を募らせる職員が多く、特 に1997年11月の日ロ首脳会談以降は北方領土にかんする文書、資料、統計の閲覧が拒否される場面にしばしば直面する。北方領土への自由な訪問はロシア 側も日本側も認めておらず、必要とする資料が十分に利用できなかった。本稿では、サハリン州政府で入手したとはいえ基礎文献を扱うにとどまってしまうこと を予め記しておく。 日本でのロシア地方政治研究は、ロシアやアメリカと比較すると圧倒的に遅れている (1) 。なかでもサ ハリン州についての政治研究は、日本ではおこなわれていないのが実状である。極東地域ではソ連崩壊後の秩序形成に向けた新しい制度構築の試みがようやく本 格化してきた段階にあり、政治的に安定していないのが大きな理由のようである。

1. サハリン州の立法・行政制度
本論に入るまえに、サハリン州の人口・社会状況と住民生活の実態を簡単に紹介しておこう (2) 。州の総人口は1995年1月現在673,700人である。人口の推移を年代別 にみると減少傾向にあり、1994年1月の699,200人と比較すると25,500人、1989年の710,200人と比べると36,500人少なく なっている。人口構成の内訳で注目されるのは、1995年には60歳以上の人口が65,400人、全人口に占める割合は9.7%で、1979年の2倍に なっている点であり、高齢化が進みつつあることがわかる。
〈図1〉連邦機構とサハリン州の政治制度

注1 大統領付属のの委員会の正式な名称は「ロシア大統領付属連邦主体の憲法・法律的改革を実現するための連邦国家機関と連邦主体国家機関の相互 関係委 員会」、ロシア政府の委員会の正式名称は「地方発展のための国家支援政府委員会」
注2 サハリン州レベルに開設されている政府関連機関としては外務省、民族省、対外経済関係省などの14代表部をはじめとする中央銀行関連の支 所、さらに は各地区レベルの税務署、税関などを含めると州全体では約100機関を超える。ただし、司法、国防・保安関係機関を除く。
1995年1月の就業者数は286,200人、前年同月と比較すると55,600人減少している。これにたいして未就業者数は40,500人(そ の なかで州政府に登録している失業者数は38,800人)、前年同月よりも8,200人増加している。生活水準では、サハリン州政府が定めた最低生活費を得 ていない人は1995年1月現在で421,400人、全人口の62.5%にも達している。こうした厳しい経済・生活環境は犯罪数の増大の一因にもなってお り、1995年の犯罪者総数は23,697人、前年比で450人増加した。その総数のなかで殺人罪に関わった人は200人、もっとも多かったのは窃盗の 12,126人であった。このようにサハリン州は、人口の減少と高齢化、未就業者数の増加と生活水準の低下、さらには犯罪数の増加という深刻な社会問題に 直面している。

(1) サハリン州の存立基盤

サハリン州ではソ連邦崩壊後に経済・社会的な混乱が生じ、根本的な立て直しが緊急な課題となった。そのための基本政策を採択する州議会とそれを執行する州 行政機関の新しい権限を盛り込み、州の存立基盤を提示する「サハリン州憲章」が州議会で採択され、1996年1月から発効している。州憲章の制定にむけて 本格的に作業が着手されたのは1994年であり、州議会で3回の審議を経て、1995年12月26日に州議会において採択された。州憲章の制定過程は憲章 の論点を解明するうえで大切であるが、本稿では割愛する。この州憲章を基盤として、サハリン州は1996年5月29日、連邦政府との間に権限分割協定を締 結した。以下ではまず、州憲章の特徴を4点に絞って紹介しよう。

@サハリン州の復興と天然資源

州憲章の前文には州を復興させるために、州内の天然資源と土地を有効に利用するという基本方針が掲げられている。サハリ ン州議会 は憲章の採択にあたって、「現在と将来のサハリン住人とクリル住人にたいする責任を自覚」し、「経済発展と住民福祉の改善」のためには「島の特殊性である ところの比類のない豊かな天然資源」が不可欠であると考えた、と記されている。州憲章の本文にも、住民生活と天然資源の関連について触れており、たとえば 「天然資源と土地は、サハリンの住民生活と活動の基盤として利用、保全され」(州憲章72条)、「サハリン州の諸利益は天然資源開発から得られる」と書か れている(州憲章74条)。そのうえで、サハリン州は「天然資源開発にかんする協定の作成と入札に参加できる権利」を有し、利益の一部を獲得できることに なっている(州憲章74条)。サハリン州の領土と天然資源にたいする州住民の意識を強めようというのが、憲章の基本的なねらいである。
連邦政府との「権限分割協定」では、天然資源や土地、対外経済活動を中心に連邦と州の間でのそれらの利益の分割にかんする基本的な枠組みが定 められ、さ らに細かく分野別に「合意書」が交わされた (3) 。 土地の分割に関して、サハリン州土地資源と耕地整理委員会のローセフ議長は、州総面積の84.99%が連邦所有地(国防省の関連地は州総面積の 3.31%)で、州所有地は11.29%、自治体所有地は1.94%、私有地は1.76%の割合であると、1998年3月に述べた (4) 。天然資源開 発については、連邦政府との間でプロジェクト別に権限分割の合意を交わすことになり、またサハリン州の利益に関わる問題で、連邦政府が外国と結ぶ条約と協 定では、それらの草案の段階からサハリン州政府は参加できることになった。

Aサハリン州境界線の変更

サハリン州憲章の二つ目の特徴は、州境界線の画定方法に見られる。サハリン州の面積は8万7000平方キロメートルに及 び、そ れを取り囲む州の境界線の変更については州憲章のなかで厳しい規定が設けられている。問題の焦点は、州の境界線を連邦政府が一方的に変更できるかどうかで ある。州憲章には「サハリン州は、サハリン島とマーラヤ・クリリスカヤ・グリャダー(ハバマイ群島とシコタンのことム筆者)を含むクリル諸島から構成され ており、州の境界線はロシア連邦が締結する国際条約とロシア憲法、連邦の法令に従って規定される」と記されている(州憲章3条)。国際条約とは連邦政府が 諸外国と交わす条約のことであり、サハリン州の境界線は、こうした国際条約に拘束されることになっている。サハリン州が連邦を構成する主体である以上、国 際条約はサハリン州にたいしても効力を有すると考えられるからであろう。
しかし州の境界線の変更には、たとえ国際条約の締結によるものであろうとも、州民の同意が条件となっており、「サハリン州境界線の変更につい てのサハリ ン州としての同意は、州民投票の実施で表明される」と明記されている(州憲章3条)。サハリン州は、州の境界線が外国、おそらく日本の国境線と接している ことを念頭におき、それが日本とロシアの両政府間のなんらかの国際条約で一方的に変更されることにたいして歯止めをかけようというのである。州の利益を無 視するような日ロ政府間の外交交渉の決定には、州民投票で対抗しようとする考えである (5)
サハリン州は州憲章の発効とほぼ同じ時期の1996年1月31日、「サハリン州民投票にかんするサハリン州法」を採択している。州民投票の発 議には、三 つの方法がある。一つは、州議会議員の3分の1以上が加わる議員グループが発議し、3分の2以上の議員の賛成が得られた場合(州法11条)。二つめは、州 知事が州議会にたいして提案し、議員の3分の2以上の賛成があった場合(州法12条)。三つめは、50人以上から構成される市民グループが州の有権者の 10,000人以上の署名を集めた場合。ただし、この署名活動では最低条件として、州都のユジノサハリンスク市で2,000人以上の署名が条件となってい る(州法13条)。たとえば北方領土のある南クリル地区といった特定の地域に片寄って署名が集中しないようにしており、州政府のあるユジノサハリンスク市 での一定の署名数を課すことで、署名活動にたいする州政府の影響力を強めようというのであろう。州民投票が成立するには、州内の有権者の50%以上の参加 が必要であり、その結果は投票数の過半数で決定される(州法36条)。ということは、全有権者の4分の1以上で採択されることになる。州民投票で採択され た決定は、「全住民を拘束するものであり、いかなる国家機関の承認も必要としない。州民投票で採択された決定は、新たに州民投票を実施せずに修正、無効に することはできない」ことになっている(州法38条)。

Bサハリン州憲章とロシア憲法の関係

サハリン州憲章は州内の天然資源開発と州境界線の変更手続きでは、州の意思を無視する連邦政府の動きに歯止めをかけよう として いる。そこで疑問に思えてくるのは、サハリン州内では州憲章とロシア憲法のどちらが優先することになるかという点である。たしかに州憲章には、「ロシア憲 法や連邦の法律は遵守されねばならない」と明記されている(州憲章6条)が、ロシア憲法と州憲章のどちらが上級法であるかについてはなんの規定も盛り込ま れていない。
これとは対照的に、ロシア国内のほかのいくつかの州憲章には、ロシア憲法と連邦の法律は州憲章よりも優先的な効力を有するという条項が含まれ ている。た とえばレニングラード州憲章には、「ロシア連邦憲法は最高の法的な効力を有しており、その直接的な効力はロシア連邦内のすべての領土で適応される」と記さ れている。またリペツク州憲章には、「ロシア連邦憲法と連邦の法律は、州内では優越性と直接的な効力を有する」と定められている。さらにノヴゴロド州憲章 には、「ノヴゴロド州内においてはロシア連邦憲法と連邦の法律、さらにはロシア連邦大統領令の優越性を承認する」と明記されている。これらの規定は、ロシ ア憲法の条文「憲法は最高の法的効力と直接の実効性を有し、ロシア連邦全領土において適用される」(ロシア憲法15条)を踏まえた内容であり、この点を州 憲章のなかで再確認しているのである。
州憲章と憲法が抵触した場合、サハリン州ではどちらを優先させるかについてなんの規定もない理由としては、憲法がロシア全土で優先的な効力を 有している のは当然であり、州憲章にわざわざ書き込む必要がないと考えられているからだと解することもできる。しかし本当のところは、あえて憲法との明確な関係を規 定せずに、州の自立性をできるだけ広範に打ち出すことができる余地を残していると考えるほうが妥当であろう。連邦との関係で州の立場を明記しているところ があるとすれば、サハリン州は「ロシア連邦の構成主体」であると書かれている箇所だけである(州憲章1条)。
 しかし問題は、むしろサハリン州が連邦の構成員であると記すことにとどめていることである。いくつかの連邦主体では、連邦の一員であることを明記したう えで、連邦からの離脱を明確に否定している。たとえばスターヴロポリ地方憲章には、スターヴロポリ地方は「ロシア連邦と切り離せない部分であり、ロシア連 邦の構成から離脱する権利を有していない」と書かれており、こうした条項はクルガン州憲章やプスコフ州憲章にもみられる。スヴェルドロフスク州憲章にい たっては、明確に自分たちの主権を以下のように制限している。「スヴェルドロフスク州はロシア連邦を構成しており、切り離されることはできない」だけでは なく、「州内では連邦の主権が確立」されている。

Cサハリン州と地方自治体

サハリン州を構成する基本的な地方自治体は、州都のユジノサハリンスク市と17地区である(それらの内部に総数で18の 市、 34の町、65の村に区分けされている)。サハリン州憲章ではロシア連邦地方自治法に従って、18自治体がそれぞれに自治憲章を制定し、そのなかで代議機 関と執行機関の長の権限をはじめとして地区の存立基盤も「独自に」盛り込めることになっている。この立法・行政機関は「国家権力機関制度に含まれない」と 明記されており(州憲章57条)、サハリン州機関と並存することになっている。
しかし、地方自治体が現実に活動するにはさまざまなサハリン州法で制約を受け、独自の地方自治の確立という原則に枠がはめられる。自治憲章の 制定では、 「サハリン州法で定められている手続きに基づいて国家登録」される必要があり(州憲章55条)、自治体の改組や名称の変更、さらに境界線の画定において も、それらの手続きはサハリン州法で定められている(州憲章56条)。州と自治体の関係の中心的な問題は、地方自治体が関与できる専管事項がどのように決 められるかである。「地方自治体と国家機関の権限分割は、連邦の法律とサハリン州法によってのみおこなわれる」ことになっており(州憲章59条)、地方自 治体が自治憲章のなかに自分たちの専管事項を記載しても形骸化するケースも考えられる。後述するが、現実に地方自治体が関わるのは「住民の日常活動」ぐら いである(州憲章58条)。

(2) サハリン州の立法、行政機関

サハリン州は、天然資源と領土保全を州の存立基盤に据え、連邦との関係では曖昧な部分を残すことで逆に自立性を確保しようとしている。以下では州 議会と州行政機関の権限を紹介するが、ここでの論旨は州議会よりも州行政機関の最高責任者である州知事に実質的な権限が付与され、彼を中心に州の復興が図 られる点である。州憲章を採択したのは州議会であるが、皮肉にも州議会よりも州知事のほうがより大きな主導権を握ることになる。

@サハリン州議会

サハリン州には、州の重要な政策や法令を審議し、決定する機関としての州議会が設置されており、これが旧来の州ソビエト に 代わって活動を開始したのは1994年4月のことである (6) 。 議員定数は27人、有権者の直接投票によって選出され、任期は4年である。議会が任期中に解散される場合をのぞき、議員は4年ごとの選挙で信任を問われ る。州議会の本会議を開催するための定足数は、「全議員の3分の2以上」となっている(州憲章17条)。改選後の第1回本会議を開催するのは「選挙委員会 議長」であり、「選挙日から16日以内」の開催が義務づけられている。開幕を宣言するのはソビエト時代と同様に、「議員のなかの最高齢者」と決められてお り(州憲章17条)、すぐに議員のなかから議長を選出する (7) 。 州議会内には常任委員会や臨時委員会が開設され、州議会の議事運営の手続きについては、別途に「サハリン州議会規定」で決められることになっている。  サハリン州議会には、さまざまな権限が与えられているが、そのなかでもっとも重要なものは「議決権」である。議決とは、サハリン州としての団体意思を決 定する行為であり、重要な議決権としては「法令の制定」と「予算の決定」がある。この二つは、サハリン州の活動の基本にかかわる意思決定であり、議会の もっとも基幹的な任務である。
しかし予算の決定についていえば、その作成と提案権は州知事の専管事項であるために、議会がどの程度まで詳しく審議し、州知事の提案に修正を 加えること ができるかは疑問である。議員が修正をおこなうにしても、かなり高度な専門知識と情報が必要であり、議会局がどこまで議員に協力できるかにかかっている (8) 。だからと いって逆に、議員が予算修正権を乱用するようなことがあれば、知事の予算提案権が侵害されることになりかねない。あくまでも、知事の提出した予算全体のも つ基本政策を破壊しない程度での修正ということになろう。
そのほかの議決事項として、26項目(州憲章20条)があげられている。それらのなかに重要な事項があるように思えないが、とりあえず目にと まるものと いえば、対外経済活動にかんする協定締結と州財産の処分・管理に関する法令の制定である。議会には先に述べたように、たしかに議決権としての予算の決定な どの権限が認められているが、実施と管理は州知事に委ねられているのが実状である(州憲章28条)。
次に、州議会の権限停止について触れておこう。州議会の実質的な機能はかなり限定されているのとは対照的に、議員の地位は比較的に安定してい る。州知事 には州議会の解散権はなく、議会が解散される方法は二つに限られる。一つは「自己解散」であり、「3分の2以上の議員の賛成」が条件となっている(州憲章 23条)。解散のもう一つの方法は、州民投票である。州民投票実施のための要件についてはすでに言及したように、その発議権は知事と市民グループに認めら れている。州知事の提案が可決されるには、議員の3分の2以上の賛成が必要である。知事と議会が対立した場合、議員たちが知事の提案する解散のための州民 投票の実施に賛成することはほとんど有り得ない。州知事の発意で結果的に州議会が解散される可能性は、かなり低いといえる。このように、いったん選挙で選 出された議員は、自己解散か州民投票によってだけ議会が解散されるというきわめて安定した環境下で活動できるようになっている。

Aサハリン州知事と行政機関

州執行機関は、その最高指導者である知事を頂点に、第一副知事、副知事と各部局から構成される。知事という役職名を「州 行 政機関の首長」と呼ぶこともできる(州憲章25条)。サハリン州知事はソ連邦崩壊後、ロシア大統領によって任命されていたが、1996年10月にはじめて 州知事選挙が実施された (9) 。 いわば、連邦から派遣された官吏のようであった知事は、州民によって選挙されることで、彼らに直接的な責任を負うことになった。州知事の任期は4年であ る。
州知事の地位は比較的安定しており、州議会は「知事をその職から解任するための弾劾を提案し、解任に関する決議を採択」できるが(州憲章20 条)、「サ ハリン州民投票の結果によらずして解任することはできない」規定になっている(州憲章35条)。もちろん知事が任期前に解職されるケースとして、たとえば ロシア国籍を失った場合や裁判所が職務遂行不能に陥っていると判断した場合、さらには辞任といった場合もあるが、州議会から不信任決議を突きつけられこと で、すぐに解任に追い込まれるということはない(州憲章35条)。
このように州知事には安定した地位が保障されているのは州議会の議員たちと同じであるが、両者が決定的に違うのは、知事は現実の活動において 大きな主導 権を握ることができる点である。州知事は「州議会の公開、非公開を問わず本会議に出席」でき、本会議の議事事項をはじめとする「州法案を州議会の審議にか ける」こともできる。こうした権利を保障するために州議会の閉幕している時には、州知事は議会にたいして「臨時会の召集にかんする提案をおこなうことがで きる」(州憲章38条)。さらに州知事には、一定の拒否権も認められている。「サハリン州議会が採択し、知事の署名が必要であるために送付されてきた法令 を、州知事は州議会に差し戻すことができる」(州憲章38条)。議会には知事の拒否権を跳ねのけ、法令への署名を強制できるような権限はない。このように 法案提出権や拒否権をもつ州知事であるが、その反面、州議会の議決事項に拘束され、誠実にそれを執行する責任と義務を負っている。
広範な裁量権が付与されている州知事の重要な権限のなかには、法案と予算案の州議会への提出権をはじめとして法令の署名と公布、州の社会・経 済発展計画 の議会への提出、州議会の臨時会の召集などがある(州憲章28条)。州知事の権限のなかでも、州議会の承認を必要としていない事項にかんしては、知事が独 自の判断で「決定」を発令することができる (10) 。 その政令は署名があった日に、州議会にも送付される(州憲章34条)。
強い立場の州知事は、サハリン州を代表して連邦政府と政治交渉に臨むことになる。ロシア連邦制度では、各連邦主体の行政機関と立法機関のそれ ぞれの長は ロシア連邦会議(上院)のメンバーであるが、サハリン州知事のファルフトジーノフは「ロシア大統領付属連邦主体の憲法・法律的改革を実現するための連邦国 家機関と連邦主体国家機関の相互関係委員会」のメンバーにも加わっている。この委員会には、スヴェルドロフスク州知事のロッセリをはじめとする国内の有力 地方政治家たちが名を連ねている。サハリン州知事は住民による公選制の導入で連邦主体内で政権基盤を強め、連邦と州をつなぐ重要な役割を担うことになっ た。
ところで、州知事の下には数人の副知事、8局、10部、5委員会が配置されている。州行政機関の構成と「割り当てられた予算の配分の決定」は 州知事に一 任されている(州憲章31条)。第一副知事については知事が指名し、州議会の承認を必要としている(州憲章29条)。州知事が不在のときには、第一副知事 が職務を代行することになるが、ただし法令への署名だけは認められていない(州憲章29条)。州知事は職員の人事権を含めた広範な指揮権を有している。職 員を統率して日常の行政業務を安定的、継続的に遂行するところに、行政機関の長としての州知事の重要な責務がある。

2. 南クリル地区の自治制度

サハリン州は州知事に実質的な権限を付与し、行政権力を軸とする州の統合性を図ろうとしている。これにたいして南クリル地区は、州内にあって自立的な動き を保障できる自治制度の確立をめざしている。しかし現実には、地区そのものの規模が小さいために、自治といってもその固有の権限はかなり制約されてしま う。このため南クリル地区は、地区の存立基盤としての領土の保全を最優先の課題に設定するのに全力をあげている。 南クリル地区の立法・行政制度を紹介するまえに、社会・経済状況を概観しておきたい
(11) 。 1995年1月1日現在の総人口は8,302人、前年同月の13,302人 と比較して5,000人減少している。割合にすると、37.5%も少なくなっている。この減少数は、たとえばクリル地区の396人、北クリル地区の301 人と比べて際立っている。
1995年1年間の南クリル地区からの離島者数は3,257人にも達しており、この人数はクリル地区の1,239人、北クリル地区の430人と比 較しても 大きいことがわかる。確かに南クリル地区からの離島者は3,257人と多いが、1994年1年間の総数5,015人と比較すると、1,758人少なくなっ ている。ここで注目すべき点はむしろ、入植者数が増えていることである。1994年の入植者数は343人であったが、1995年には前年の3.0倍の 1,115人に急増している(どの地域からの入植かは不明)。入植者数が増加した理由は、自然災害などで南クリル地区からの離島を余儀なくされた住民たち がサハリン本島などに移住してみたものの、職と住居の確保が困難なために再び南クリル地区に帰還してきたことである。離島者数から入植者数を引くと、 1994年が4,672人であったのが、1995年には2,142人に縮小している。
次に1995年1月1日現在の勤労可能者人口は5,523人で、総人口の66.5%を占めている。この割合はクリル地区、北クリル地区と比較して もほとん ど差はないが、南クリル地区の年金受領者は976人、総人口の11.7%も占めている。クリル地区の6.8%と比較すると1.7倍であり、南クリル地区で は高齢者の人口比率が比較的に高いことがわかる。
次に、南クリル地区の輸出高を見ておこう。サハリン州政府が把握している統計では、1995年の輸出高は1,854,500ドル、前年比で4.1 倍に跳ね 上がっている。この増加率はクリル地区の1.6倍、北クリル地区の2.0倍と比較しても大きい。輸出品目はすべてが魚介類で、もっとも多かったのはエビの 142,400ドル(全体の13%)であった。輸出先については不明であるが、サハリン州政府対外経済関係局のカチェルヌィー副局長は、輸出高の伸びの要 因として日本との経済交流の拡大をあげた (12)

(1) 南クリル地区の存立基盤

@南クリル地区所有地の特定
南クリル地区では、1996年10月に地区憲章が発効している。州議会内でサハリン州行政府を代表する職(サハリン州議 会内州行 政府代表者)にあるヴォーロフの話では、1996年10月の時点でユジノサハリンスク市と約半数の地区が憲章を採択している。筆者はすべての地区憲章を入 手できたわけではないが、便宜上、ユジノサハリンスク市憲章と比較しながら、南クリル地区憲章の内容の特徴を2点だけ浮き彫りにしたい。
まず一つめは、南クリル地区の存立基盤としての領土の特定が地区憲章の冒頭に掲げられている点である。地区の総面積は185,609ヘクター ル(地区憲 章5条)、そのなかの120,920ヘクタール、割合でいえば65.1%が、地区の所有地と定められている。その内訳は「森林」の81,357ヘクタール がもっとも広く、「農業用地」の13,093ヘクタール、「宅地」の2,950ヘクタール、「工業・通信・道路のための土地」の2,518ヘクタールが続 いている(地区憲章5条)。地区憲章には全面積の65.1%が地区所有地と明記されているが、実際の土地分割では1998年4月現在、20.1%(それで も18自治体平均の10.4倍)となっている。連邦の所有地は森林と国防関連地を中心に79.8%を占めている。他方で州の所有地は割り当てられておら ず、私有地は0.08%、私有者数は583人となっている (13) 。 このように連邦の所有地と南クリル地区所有地と私有地を特定する反面、サハリン州所有地を認めないことで、南クリル地区は日本との領土交渉では連邦政府と 連携し、サハリン州に主導権を奪われることのないようにしているのであろう。
南クリル地区憲章の特徴をもう一つ指摘するならば、ユジノサハリンスク市憲章には市は「サハリン州を構成する」と規定されている(ユジノサハ リンスク市 憲章1条)のにたいして、南クリル地区憲章には地区がサハリン州の構成部分と記した箇所はないという点である。加えてユジノサハリンスク市憲章には、「サ ハリン州政府との間で権限分割を盛り込んだ協定と合意を締結」し、「州発展計画の作成と実施に参加する権利を有する」(市憲章69条)と書かれているが、 南クリル地区には州政府との権限分割についても触れていない。このように南クリル地区がサハリン州との関係を積極的に規定しようとしない理由は、サハリン 州の構成体であると明記することで、南クリル地区の自治が抑制されることを警戒しているからである。同時に考えられるもう一つの理由は、日本との将来の対 外関係を見据えてできるだけ、いわば自由な身でいるのが得策とみているからであろう。
A南クリル境界線の画定と地区民投票
地区の存立基盤に領土を掲げている南クリル地区憲章において、地区境界線の画定方法がどうなっているかは興味深いテーマ であ る。地区境界線の変更は「サハリン州国家機関、または地区住民、または地区議会が発意」し、「サハリン州国家機関がおこなう」ことになっている(地区憲章 9条)。州国家機関とは具体的にどの機関のことを指しているのか不明であるが、いずれにせよ「直接に表明される住民の意思を必ず考慮する」と記されている (地区憲章9条)。ここでは確かに住民の意思を確認する方法として地区民投票の実施を条件として課していないが、その実施は制度化されており(地区憲章 14条)、地区境界線の変更問題では以下の二つの要件のどちらかを満たした場合、実施されることになる。一つめは、「地区議会議員の3分2以上が本会議で 賛成」した場合。もう一つは、「地区民投票に参加できる権利を有している市民の2%以上の要求」があった場合(地区憲章52条)。
ここで注意を払いたい問題点は地区民投票への参加者の資格であり、南クリル地区に居住する一般的な有権者のほかに、次の三つの要件のひとつを 満たせばだ れでも参加が認められることである。一つめは「地区内に住んではいなくても、地区内に不動産を有し、不動産税を支払っており、地区行政機関に参加を申請 し、認められた人」。二つめは「独立国家共同体の国籍を有し、地区内の個人所有の家屋、または賃貸アパート、または宿舎に住んでいる人とその家族」。この 場合、「私用または公用での一時的な滞在を除いて、地区内での居住期間に関係はない」。三つめは、ロシアまたは独立国家共同体の構成国の住民でなくても 「申請書を提出し、地区議会の議決があれば」参加できる(地区憲章13条)。
このように地区民投票への参加者をできるだけ多くしようとしており、南クリル地区に駐留する軍人も含まれる(1998年1月現在エトロフも含 む北方四島 には1,300人が駐留)。加えて将来、南クリル地区で土地の私有化が大規模にはじまれば、地区以外の人々の参加者も増えるかもしれない。さらに先の三つ めの規定によれば、旧ソ連諸国以外の外国人、たとえば日本人にも参加の機会が開かれているということになる。もっとも地区議会の許可が必要であり、参加希 望者がどのような意思をもっているかが事前に審査されることになるかもしれない。南クリル地区に住む有権者は6,000人前後であり、この人数は州全体の 有権者数のわずか1.2%を占めるにすぎないために、当面は地区に関わる人をできるだけ多く参加させ、地区民投票のもつ意味を高めたい意向のようである。
次に、地区民投票の結果の公表とその効力について触れておく。「地区民投票で採択された決定は、いかなる国家機関、行政官、代議機関の承認も 必要としな い。採択された決定と投票結果は、投票日から5日以内に『ナ・ルベジェ』紙で公表」され、「決定を変更、または無効にするには、新たに地区民投票を実施」 しなければならない(地区憲章52条)。補足であるが、南クリル地区では制度的には地区民投票の実施を認めているのにたいして、ユジノサハリンスク市では その実施を記した規定はない。制度的に地方自治が語られても、ユジノサハリンスク市のように市民投票の実施に前向きでないところもある。
(2) 南クリル地区の立法、行政機関
南クリル地区憲章では地区の存立基盤に領土を据え、地区境界線の変更という重要な政治的な問題では広範な市民を対象とする住民投票を実施でき ることになっている。これにたいして地区の日常的な権限は行政機関の長である地区長が握っているが、専管事項は限られており、住宅問題をはじめとする交通 網の整備、地区道の建設、商業活動の改善といった公共サービスが仕事の中心のようである。
@南クリル地区議会
地区住民の「代議機関」である南クリル地区議会は7人の議員から構成され、任期は2年間である(地区憲章16条)。地 区議会の定例会は通常、「3カ月に1度以上」の頻度で開催され、臨時会も含めて定足数は「全議員の3分の2以上」となっている。本会議の議題については事 前に、「非公開も可能な作業会議」で審議される(地区憲章24条)。議員たちはその時々の状況に応じて「常設委員会」(地区憲章25条)、さらには「議員 グループ」と「任意の政党に従属、または政党の利益に沿った会派」も結成できる。グループと会派を設立するには、「3人以上の議員」の参加が条件となって いる(地区憲章22条)。
議員の基本的な活動は本会議の場で展開され、「地区議会の権限にかかわる事項について決議を採択」する。なかでも「地区予算」「地区税」「地 区公有財 産」「発展計画」「地区法案の提出」は、地区議会の専管事項となっており(地区憲章26条)、その決議は「すべての企業、組織、役職者、市民が執行する義 務を負っている」(地区憲章23条)。議会は地区法の採択という立法機能を有すると同時に、地区法の実施にたいする「監視活動」も行う(地区憲章29 条)。その活動は、「すべての自治機関とその役職者の活動」から「地区内に存在する、さまざまな所有形態の企業、組織、施設の活動にも及ぶ」。監視機能の 強化のために「専門家も加わった特別監視委員会」が創設され、その活動成果については地区議会の本会議で報告されることになっている(地区憲章29条)。
このように地区憲章には地区議会の権限が明記されており、一見、重要な事項が盛り込まれているように思える。しかし後に言及するが、地区予算 の作成や地 区税の制定といってもその規模は小さく、実際には地区議会の役割は大きいわけではない。加えて、議員定数7人という少数議員の間でどれだけの意見の差異が 明らかにできるかは定かではない。推測になってしまうが、全会一致が暗黙の了解事項になってしまい、政策論争という議会の本来の活動は形骸化していること も考えられる。
A南クリル地区長とスタロスタ
南クリル地区の執行機関の最高責任者は、地区長 《мэр района》である。彼は住民の直接投票によってえらばれ、任期は2年間である。地区議会は地区長にたいして不信任を表明できず、彼を解任で きるのは地区民投票だけであり、その指導力は制度的には手厚く保障されている。
地区長の裁量権の特徴は独自の判断で「決定と命令」を発表することができ、さらに「いかなる問題についてでも、議案を地区議会に提出できる権 利」を有し ていることである(地区憲章40条)。注意を払いたいのは「いかなる問題についてでも」と書かれている点であり、「地区議会の専管事項以外」のすべての問 題に地区長の権限が及ぶことになっている(地区憲章31条)。地区長の権限を敢えて厳密に規定せず、逆にその役割を広範なものにしている。これとは対照的 なのが地区議会の権限であり、先に紹介したようにその内容を規定することで、逆に活動範囲を狭めている。
地区長の活動を支えるのは、執行機関である。地区長は自分の権限で副長を任命でき、1996年10月現在で2人が就任している。地区長は自分 の権限の一 部を、副長に委任できる(地区憲章32条)。地区長と副長が執行機関の指導部であり、部局には1996年10月現在24人の職員が勤務しているが、職員の 補充方法についての規定は設けられていない。これにたいして、たとえばユジノサハリンスク市では、職員の補充に競争試験の制度が採用されている。南クリル 地区行政府の部局には、基本的には、「財政経済活動部門」と「日常公共サービス部門」があり、各部局の責任者は地区長が任命する(地区憲章33条と34 条)。執行機関には、地区長または副長の合意のもとでの審議会を創設できる。もし部局の行為が地区議会の決議と地区長の命令に反する場合には、地区議会ま たは地区長はそれを無効にできる(地区憲章34条)。
ところで、南クリル地区はユジノクリリスク町(クナシリ)、クラボザヴォド村(シコタン)、マーロクリル村(シコタン)、ゴロヴニノ村(クナ シリ)の四 つの区域から構成されている。各区域には執行機関が設置されており、その長はスタロスタと呼ばれている。立法機関は設置されていない。「執行機関の内部の 組織構成と担当分野については、スタロスタが住民の利益に沿って自由に」決め、「権限の範囲内で問題を自由に解決」できる。スタロスタには、「南クリル地 区議会への提案権」が与えられている(州憲章36条と37条)。しかしスタロスタの本当の任務は、南クリル地区長の決定が実施されているかどうかを「監督 する」ことにある(地区憲章37条)。

3.サハリン州の財政制度と移転資金

サハリン州にとっても南クリル地区にとっても問題は、裁量権の拡大の動きを支える財政基盤が確立されているかどうかである。確かに財源をみる と、サハリン州は連邦に、南クリル地区はサハリン州に依存している。サハリン州も南クリル地区も、連邦から完全に独立した財政制度をもつことができるわけ ではない。しかし、税収入が比率ごとに連邦、州、地区・市に配分されるために、納税者にとって上級機関からの財政支援は、自分たちが支払う税金が財源と なっており、それが還元されているにすぎないという意識が強いのである
(14) 。 制度的には上級機関に従属していても、住民は上級機関からの財政支援は当然 と思うのである。
@サハリン州予算
連邦には連邦主体国家財政支援基金が開設されており、毎年、連邦予算の総税収の約15%がこの基金に歳出されている。この基金から各連邦主体に、 財政支 援としての移転資金 ヌ瑙褞 が拠出される。1994年までは連邦からの財政支援は、地方交付金と国庫補助金に分けられていたが、1995年以降は移転資金に統一された。
1996年のサハリン州予算法をみると、州が連邦から受け取る移転資金は、歳入の75%に達している。その割合は年々高くなっており、1994年 にはわ ずか26%であったから、2年間で49ポイントも急上昇したことになる。この移転資金が歳出のなかで占める割合は、76%にも達している。移転資金をのぞ く財源では、歳入に占める割合の多い順に「付加価値税」7.9%、「その他の収入」3.0%、「天然資源使用料」1.4%、「個人所得税」1.0%となっ ており、「不動産税」はわずか0.2%にすぎなかった。天然資源使用料と不動産税が占める割合は全体のわずか1.6%であり、州の権限拡大が財政に反映さ れていない。連邦との権限分割が実際に州に利益をもたらすのは、まだ先のことのようである。
次に、ユジノサハリンスク市と17地区にたいするサハリン州からの財政支援であるが、州予算の歳出項目には地方自治体財政支援基金が設けられてお り、 1996年のサハリン州予算法ではその資金の歳出に占める割合は36%を占めている。この資金は、ユジノサハリンスク市とホルムスク地区をのぞく16地区 に配分されており、総額に占める割合がもっとも高いのはコルサコフ地区の15.3%、南クリル地区に割り当てられるのは全体の1.3%である (15) 。南クリ ル地区予算が不明であるために、州からの移転資金が地区予算の歳入のなかで占める割合についてはわからない。このように州は連邦から財政支援を受け、州は 地区に財政支援をおこなっており、制度的には連邦ム州ム地区という従属関係が生じている。
Aサハリン州と財政支援
問題は、連邦に財政的に従属しているにもかかわらず、なぜサハリン州と南クリル地区は自治の拡大を主張しているかである。サハリン州内で納税され た税金 の一部(14種類の税金)が定められた比率に従って連邦財政に拠出されており(ロシア全土で徴収される税金の約3割が連邦に拠出されている)、州政府はそ れが財源となっている連邦主体国家財政支援基金から移転資金を受け取っている (16) 。さらにユジノサハリンスク市と17地区に歳出される州からの地方自治体財政 支援基金は、1996年予算法によれば連邦政府から州に歳出される移転資金の37%があてられている(その他の財源としては付加価値税の86.5%と所得 税の100%が割り当てられる)。
住民には、こうした移転資金は本来は自分たちのものであるという意識が強いのであるが、連邦政府が約束している移転資金割当が実際に執行されない となれ ば、南クリル地区住民も含めてサハリン州民は連邦政府に反発を強めることになる。実際にサハリン州議会は1997年2月、連邦からの財政支援が実行されて いないことを理由に、連邦政府への連邦税の拠出を停止することを決定した。その議決によれば、連邦中央銀行、連邦出納局、税関のサハリン州各支署にたいし て資金を連邦に拠出するのではなく、州に振り替えることを求めている (17) 。この州議会議決が実行されるには州知事の同意が必要であり、州住民によって 選出されたファルフトジーノフ知事がこの問題にどのように対処するかが注目される。
いずれにせよ、連邦予算への連邦主体からの拠出金の割合を定めた連邦の法律がないのが現状であり、財政にかんする連邦との関係は連邦主体によって 格差が ある。一般的には、州税の80種類が、連邦税と地区・市民税の種類と重複しており、連邦税として拠出する比率は連邦主体ごとに異なっている。そうしたなか でタタルスタンはロシア国内でははじめて、連邦政府との間で各種税収入の連邦への拠出比率を定めた協定を交わした (18) 。連邦税 と州税、地区・市民税をどのように定めるかは連邦と連邦主体、さらには地区・市との関係を考える際の大切なテーマであり、1997年7月に公表された新し い税制法案もこの観点から注目されるのである (19)

結 論

サハリン州では州知事の行政権力を強化することで、州の再建を図ろうとしている。そうしたなかにあって、南クリル地区長が地方自治を推進しよ うとしても、現実にはその大きさはかなり限定的なものになる。地区長の権限はせいぜい住民の日常生活の整備に向けられており、財政的にはサハリン州に従属 している。ましてや南クリル地区長が領土問題という高度に政治的なテーマで、サハリン州知事に対抗して主導権を発揮できる可能性はほとんどないとみるべき であろう。
しかしそれにもかかわらず、南クリル地区が領土問題を含めた重要な政治的争点で独自の動きを展開できる方法があるとすれば、それは住民が自分 たちの意思を直接に表示する地区民投票にほかならない。地区憲章でその参加者を広範に設定している点に南クリル地区の思惑が感じられ、今後の日ロ間の領土 交渉では地区民投票の結果が大きな意味をもつこともありそうである。かりに地区民投票が実施され、州の統一性を損なうような住民のなんらかの意思が表明さ れた場合、南クリル地区長はその意思を背景にサハリン州知事と政治交渉に臨むことになろう。地区民投票の結果が直ちに州知事の政治的な判断を拘束すること はないであろうが、だからといって、州知事が州全体の利益を最優先する立場から、地区民投票に対抗する形で州民投票を断行したり、地区民投票の結果を一方 的に葬り去るような手段を講じることはできないはずである。
州知事は、ロシア大統領による任命職から直接公選される職になったことで発言力を強めたのであるが、逆にその発言力を安易に強化しすぎると、 民意との落差が際立つようになり、再選の可能性までも潰しかねない。州知事は一方では州の統一性を維持するために強い発言力を発揮しながら、他方では民意 に慎重に耳を傾けざるをえないが、いずれにせよ地区民投票の帰趨は、それが(日ロ関係も含めた)どのような政治的な環境下で、そしてどのような設問で、さ らにはどの程度の投票率で実施されるかにかかっているのである。もちろん地区民投票といっても、その法的な整備と並んで、すでに指摘したように経済的、社 会的な基盤の確立、さらには住民の政治的関心の一定の高さが大切であり、地区憲章で認められているからといって、簡単に実施されるものではない。
本稿の冒頭で、ロシア連邦制を分析するには「連邦政府」対「連邦主体」という図式では理解できず、連邦主体の下位単位である地区と市の動向も みておかねばならないと述べた。連邦主体がこれらのレベルの地方自治を抑制しているかぎり、封じ込められる市民の意思が直接的に表示される方向で人々の関 心が高まっていく可能性もある。連邦や連邦主体からみれば、地区と市レベルの住民意思は狭い特定地域のものであるという意味では少数派の見解にすぎないの であるが、国、州レベルの多数派の意見だけを優先すれば、問題が解決するというものではない。ロシア連邦制にとって今後重要な課題は、小さな地域で表明さ れる住民意思をどのように抱え込んでいくかにある。

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