19 世紀後半、発足後まもない明治政府は、北の国境線の画定を進める一方で琉球王国を日本に統合して南の国境線の画定を試みていました。その後、日清戦争 (1895年)、日露戦争(1905年)を経て、南北の国境がそれぞれ引き直されて以降も、20 世紀を通じて境界線は幾たびも変化してきました。この度重なる国境線の移動は、境界地域に生活する人々に深甚な影響を及ぼしました。
ここでは、19 世紀末から20 世紀にかけて境界線が移動するなかで、境界を越えて往来した人やモノの多様な歴史を、日本列島の南西に位置する島々と海を舞台として紹介していきます。
よりよい生活や勉学の機会を求めて異境へ踏み出す人々がいる一方で、生活の場から引き剥がされるように移動を強いられる人々がいます。
日本、沖縄、台湾の島々を往来した人やモノの痕跡をたどるなかで、境界をめぐる今日的な課題が浮かびあがってくることでしょう。
主な展示物
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ここに展示されている色鮮やかなパイナップル缶詰の原産国は様々です。同じ台湾製でも日本産と中華民国産のものがあります。 |
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沖縄が米軍占領下に入ってから沖縄返還まで、沖縄に本籍がある日本国民は日本本土へ渡
航する際に、その渡航を許可する証明書(「パスポート」)の携行を求められましました。一方、
1972年以前に日本本土の住民が沖縄を訪れる場合には、日本政府総理府が発給機関の「身分証明書」の携行が必要で |
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1895 年5
月、日清戦争の結果として台湾が「割譲」され、台湾の基隆や東部沿岸などに沖縄人の集落が形成されはじめます。台湾在住の沖縄人の数は、1930
年代後半に1
万人を越えます。官吏や巡査のほか、土木人夫、行商、女中、漁業に従事する者が多くを占めましたが、一時的な漁撈や出稼ぎ、家事見習いなどで海を越えて行
き来する人は更に多く、島々は海で繋がれた生活・経済圏域を形成するようになります。大戦後、沖縄出身者は、行政が用意した船や個人の漁船で台湾から引揚
げます。 |
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沖縄炭鉱から独立した丸三炭鉱宇多良鉱業所が
開拓した炭鉱で、昭和10 年代には単独鉱として最大の規模を誇るまでに成長。炭鉱村には小学校、300人収容の劇場、病院、公民館、坑夫の寝泊りする納屋が十数棟もあり、最盛期にはアセチレンガス
が不夜城のように輝いていたといいます。1960年代に採算が合わず閉鎖。 |
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