エスノ・ボナパルティズムから
集権的カシキスモへ
―タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998―
(1)

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はじめに

 タタルスタンがロシアの民族共和国の中でも傑出した存在であることは議論の余地がないだろう。タタルスタンは、T.ロシア連邦と事実上の国家連合的関係にあり、U.石油産出地であり、しかもこんにちではロシアから独立して石油輸出を行い、直接、外貨を獲得している(2)。V.軍事産業が集中し、しかもこんにちではモスクワの統制を離れて独立して武器輸出を行っている(3)。W.旧体制下でも強力な農業リージョンであったが、シャイミエフ政権の特殊な保護主義のおかげで1992年以降も農業生産力をかなりの程度維持している。X.カザン大学と独立した共和国アカデミーに代表される学術・科学技術上のポテンシャルを有している(4)

 本稿は、こうしたタタルスタンに注目し、そこにおいて機能している政治体制およびその形成過程を考察する。本稿の趣旨は、次の3点にまとめられるだろう。T.タタルスタンにおける政治体制は、1996年共和国大統領選挙において現職シャイミエフが97.1%という共産主義時代を彷彿させるような得票を得たことが西側を驚愕させたためか、独裁的、あるいは典型的な権威主義体制であると考えられている。タタルスタンの政治体制を扱った労作は多くはないにもかかわらず、「タタルスタン=独裁体制」というステレオタイプが比較政治学を席巻しつつあるのは問題である。本稿は、タタルスタンの政治体制を、中位エリート、つまり郡(raion)・市レベルの政治ボスが大きな役割を果たすという意味で寡頭制的な体制であると論じる。U.比較政治体制的には、中位エリートの隠然たる影響力に特徴づけられるこの体制は、ロシア連邦のロシア人州において機能している権力分散的な(deconcentrated)政治体制と中央アジア諸国において機能している単一主権的な(unitary)な政治体制の中間型、「集権的カシキスモ」とでも呼ぶべき体制である。V.タタルスタンとロシア連邦の関係は、「ロシアのアンチポドとしてのタタール」といった理解に代表されるように、過度に対立的に紹介されている。これは、ロシアというハイブリッドな文明圏を理解する際の問題点<補注>、エリツィン体制の構成要素としてのリージョン権力の理解の不十分さ、そしてタタルスタン政治における対モスクワ「外交」と内政(特に民族間関係政策)との間の緊密な結びつきを無視するところから起因する考え方である。本稿はこれらの問題点を克服することをめざす。

 上記の目的を達成するために、本稿は、比較の対象として扱う空間が広い方から狭い方へと節を配列する。次節において、ポスト共産主義諸国全体の比較におけるタタルスタンの位置を考察する。第3節では、主にロシアの他の民族共和国の比較の中でそれを位置づける。第4節、第5節は、タタルスタンの内政と対モスクワ政策のケース・スタディを通じて、第2節、第3節で議論されたことを肉付けする。第4節、第5節は時系列とは逆の配列になっており、第4節で現在のシャイミエフ体制を特徴づけてから、第5節で、その形成過程(1990-1995)を見るという方法がとられている。なお、本稿の表題が生みかねない誤解を予め防いでおけば、「エスノ・ボナパルティズムから集権的カシキスモへ」と言っても、両概念が対をなしたり、相互排他的であると私が考えているわけではない。タタルスタンについては、エスノ・ボナパルティズムが衰退した時期と集権的カシキスモが確立された時期が、たまたま重なった(1994-95年頃)だけである。理論的には、両属性を兼ね備えた体制が成立することは全くあり得る。

 タタルスタンは、資本主義への移行において、ポピュリスト的・家父長的な住民保護政策を構成要素とする「市場経済への軟着陸」路線をとったリージョンの一例である。この点で、タタルスタンは、ウリヤノフスク州やリペツク州などと同類である。ただし、1990年代の後半、「資本主義への軟着陸」路線が行き詰まると同時にウリヤノフスク州やリペツク州で政権が弱体化した(5)のとは対照的に、シャイミエフ体制は、1998年8月の金融危機以降も盤石の強さを発揮している(6)

 タタルスタン研究は、学際的であることを特に強く要求する。言い換えれば、他の民族共和国と比べて、タタルスタンにおいては民族学的・歴史的・言語的な要因が政治に影響する度合いが大きいのである。概して、エスニック・ファクターが政治に影響する度合いはフィン・ウゴール系の共和国よりもチュルク系の共和国の方が大きく、後者の中でもタタルスタンが抜きんでている(7)。これは、ロシアへの併合以前の国家形成の度合い(いわゆる歴史的民族であるか否かの問題)、その言語がロシア革命以前に文章語として確立されていたか否か(概してフィン・ウゴール系の言語はソヴェト時代に文章語となった。これは、当然、当該民族のロシア人に対する貸借勘定に影響する)、世界宗教であるイスラム教への自負心(原始宗教=iazychestvoを奉じていたフィン・ウゴール系の民族の方がキリスト教化は容易であった)などに規定されていると考えられる。なお、タタルスタン住民の民族構成は、タタール人が48.5%、ロシア人が43.3%、チュワシ人が3.7%、ウクライナ人が0.9%などである(8)

 共和国首都カザンを歩いていると、その独特の景観に圧倒され、自分のロシア観が変わるような思いがする。つまり、ロシアがスラヴ人の国家ではなく、あくまでスラヴ人とチュルク語系諸民族の連合国家であることを思い知らされるのである。イジェフスクやサランスクのようなフィン・ウゴール系の民族共和国の首都は言うに及ばず、ウファの街路を歩いていてさえ、このような印象に襲われることはない。これと並んで驚かされるのは、資本主義に移行して十年近く経ったこんにち、百万都市カザンに小レストランやカフェがほとんど見られないことである(まちの目抜き通り、すなわちバウマン通りは例外だが、これは宣伝用に共和国政府の肝いりで建設された「ポチョムキン村」である)。この点では、カザン市の景観はウリヤノフスク市のそれに似ているが、鉱物資源を産出しないウリヤノフスク州とは異なってタタルスタンが膨大な石油収入を得ていることを考慮すると、農工業重視・サービス産業軽視(敵視?)の伝統的な経済政策がここではより徹底していることが推察される。

<補注>いわゆる「タタールのくびき」について

 モスクワ・カザン関係が過度に対立的に描かれる原因となっている歴史認識上のステレオタイプとして、「タタールのくびき」があげられる。ロシア側の史学史においてさえ、レフ・グミリョフをはじめとするユーラシア学派の再興により、この概念は説得力を失いつつあるが、現代タタルスタンの歴史認識・史学史においては「タタールのくびき」論の存立余地はほとんどない。この事情をややたちいって考察しよう。

 1944年、こんにちのタタール人の祖先を金帳ハン国とする説はソ連共産党中央委員会決定により公式に否定され、それにかわって、モンゴル侵入以前のヴォルガ流域に高度な文明を築いていたチュルク系のイスラム民族、ヴォルガ・ブルガール人が現代タタール人の起源であると主張されるようになった(9)。独ソ戦を遂行する上で、また戦中戦後のロシア民族主義の高揚の中では、かつてロシアを屈辱的な位置においた金帳ハン国の末裔がロシア共和国の一構成要素となっているとみなすような学説はまずいという判断があったのであろう。しかし、この決定は、それまでヴォルガ・ブルガール人の末裔と自他共に認められてきたタタールの隣人、チュワシ自治共和国との間で本家争いを生んだ。

 戦後、ロシア民族主義が沈静化するにつれて、タタール人の民族起源説として、ヴォルガ・ブルガール人にウェイトを置きつつも、ヴォルガ・ブルガール-金帳ハン国-カザン・ハン国の3者をより連続的にとらえる説が主流となった。つまり、金帳ハン国の被支配民族であったブルガール人が(あたかもキエフ・ルーシ滅亡後の中世ウクライナが、それを征服したリトアニア大公国を正教化してしまったように)金帳ハン国をかなりの程度同化した、そしてこの混合の結果、こんにちのタタール人が生まれたと説明されるようになったのである(10)

 ペレストロイカ以降のタタルスタンでは、このタタール人の民族起源説はいわば両極化した。一方では、こんにちのタタール人をモンゴル侵入以前のヴォルガ・ブルガール人の直接の継承者であると考え、モンゴル・タタール的な要素の混合・介在を否定する、急進的な新ブルガリズムが生まれた(11)。この考え方からすれば、こんにちのタタール人にタタール人という名称が与えられていること自体が欺瞞であり、したがって本来の名称であるブルガール人に復帰しなければならないということになる。実際、彼らは、場合によっては訴訟を起こしてまで、自分のパスポートの民族標記を「タタール人」から「ブルガール人」へと書き換えさせているのである。他方では、タタルスタンの国家性を正当化するために、現代タタール人の金帳ハン国からの継承性を強調する見解がタタルスタン史学において優勢になった。ただし、だからといって、現代タタール人とロシア人が過去の因縁から敵対的に解釈されるわけではない。なぜなら、この金帳ハン国派は、前掲レフ・グミリョフといわば同盟関係にあり、ロシア帝国・ソヴェト連邦を(ビザンツやキエフ・ルーシではなく)金帳ハン国の後継者として考えるからである。以上を要約すれば、新ブルガール主義者は、こんにちのタタルスタンの基幹民族は実は「タタール人」ではないと主張している。金帳ハン国派は、タタルスタンのみならず、ロシアそのものが金帳ハン国の後継者であると主張している。つまり、いずれの立場をとるにしても、「タタールのくびき」という考え方は起こり得ないのである。

 金帳ハン国派は主張する。こんにちのロシアのどこにキエフ・ルーシの痕跡があるのか。政治システム、文化はもとより、言語でさえも違うではないか。キエフ・ルーシがどれだけ貧しく混乱した国であったか忘れたのか。いったい誰のおかげで大国になれたと思っているのか。あなた方ロシア人が金帳ハン国から多くを学んだおかげではないか、と(12)。強調に値することだが、シャイミエフの政治路線に哲学的な基礎を提供しているのは、チュルク・イスラム民族解放闘争的な発想ではなく、ロシア史そのものを金帳ハン国からの連続性において再解釈しようとする立場なのである。

1. 集権的カシキスモの概念について
―ポスト共産主義体制比較におけるタタルスタン

 まず、本稿の基本概念であるカシキスモについて説明する。カシキスモとは、地方ボスが中央政府と地域社会とを媒介するブローカーの役割を果たしている体制である。これらボスは、恩顧と選挙時の票動員との交換関係を秩序形成原理として、中央−リージョン−地方の位階制を形成する。カシキスモの語源となっている「カシケ(酋長)」は、中南米征服の際にスペイン人たちが現地語・アラワカン語から採取した言葉である。カシケの位階制からなる先住民の政治体制は、植民地経営のための間接支配にも利用された。やがて、カシキスモという概念は、南欧諸国の政治システムを表現する概念へと転用された。したがって、カシキスモという概念は、文化人類学の概念が政治学に転用されたという点でも、また植民地の先住民の政治システムを表現する概念が宗主国の政治システムを表現する概念へと転用されたという点でも特異な運命を辿ったと言える。注目すべきなのは、この政治システムが、伝統的な部族社会が(インカ、マヤなどの)高度な官僚国家に発展する過程、またこの高度な官僚国家が解体する過程で発生したことである(13)

 近代化論の概念としては、カシキスモは、ビスマルク体制に代表される官僚国家(Beamten-Staat)と並び、またそれに対比されるセミ・ポリアーキー(準民主制)の一形態とされる(14)。よく言われることだが、官僚国家においては鉄道は(技術合理性の観点から)まっすぐ引かれ、カシキスモの国々では(地方ボスの要求に応じて引かれるため)グニャグニャ曲がるとされる。日本の鉄道政策史は、日本の近代化が官僚国家とカシキスモの折衷形態であったことを示しているのであろう。文化人類学、政治学の用法に共通しており、また本稿にとっても重要なのは、カシキスモがウェーバー的な上意下達の位階制ではなく、あくまで上位者と下位者の間の利害の一致に基づく連合的な位階制である点である。脱共産主義期の政治にカシキスモ概念を適用する前提は、カシキスモの基盤となるボス政治、恩顧政治は、共産党体制下で既に成立していた、脱共産主義過程は、これに競争選挙という決定的な一要因を付け加えたにすぎないということである(15)

 総じて、カシキスモはマシーン政治と近い概念である。しかし、マシーン政治という概念は、北米におけるその発生からして、大都市社会の付随物という含意があるため、農村偏重のエリート補充、農村重視の得票政策に特徴づけられるソヴェトおよびポスト・ソヴェト体制の分析には不適切であると考えられる。

 以上から明らかなように、カシキスモが成立する要件は、リージョンと地方のボス、中位エリートが強いこと(別言すれば、国家権力が分散化していること)である。この点で、私のこれまでの研究は、脱共産主義諸国における中位エリート(16)の強さが、<図1>に示されるような山形をなすことを示している。その具体的な内容は、<図2>に要約されている。つまり、中位エリートは、空間的に見て脱共産主義空間のいわば中央にあるロシア連邦のロシア人州において最強であり、脱共産主義空間の東西の辺境、つまり西におけるポーランドとチェコ、東における中央アジア諸国において最も弱いのである。この3極の典型の中間に二つの中間型がある。私見では、ウクライナは東中欧の単一主権主義とロシア人州の権力分散主義の間の中間型1を代表しており、ロシア人州と中央アジア諸国の間にある中間型2を代表するのがロシアの民族共和国、特にタタルスタンである。そして、中位ボスが首長公選制に支えられた自立性を享受しているロシア人州においては典型的なカシキスモが成立し、中間型の諸国では、中位ボスが一見、上位権力に服属するように見えて実は自立性を保つ集権的カシキスモが成立するのである。

 タタルスタンとウクライナを例としながら、この事情を詳しく見てみよう。たしかに、ウクライナ、タタルスタンのいずれにおいても、中位レベルの行政単位(ウクライナの州、郡、キエフ市、セヴァストポリ市;タタルスタンの郡、市)は国家化されており、その行政府長官は大統領または州知事によって任命される仕組みとなっている。地方自治は、ウクライナにおいては基層レベル(市町村)、タタルスタンに至ってはコミュニティ・レベル(村、町内会)にしか認められていない(17)。このように中位エリートの自立性は制限されているが、その反面では、ウクライナやタタルスタンの中位エリートは、典型的単一主権主義のポーランドの中位エリートと比べれば、それなりの自立性を享受している。たとえば、ポーランドにおいて県予算が存在しておらず、全国家単一予算制が採用されている(18)のとは対照的に、ウクライナの州、郡権力、タタルスタンの郡権力は、自前の予算を形成する。これは、これらテリトリーの代議機関、そしてそれに依拠する地方エリートが地方国家行政府を統制するそれなりの梃子を有していることを意味している(19)。知事と地方行政長官が任命制下におかれることは、ポーランド、ウクライナ、タタルスタンに共通しているが、ポーランドにおいて知事が自分の地元・政治基盤とは関係なく中央から派遣される存在である(この点で、ポーランドの県知事制は戦前日本の県知事制に近い)のとは対照的に、タタルスタンとウクライナにおいては、知事、地方行政府長官は、原則として地元の指導者の中から選抜される。このように、国家権力は実態的には在地のボスたちに分与されているのである。ウクライナの官許憲法理論においては、ウクライナの国制は「権力分散的単一主権国家」と定義されているが、これは単なる詭弁ではない。

 国家権力の分散性は、ウクライナ、タタルスタンにおける中央-地方関係の政治面(非公式面)に目を向ければ、一層顕著となる。ウクライナ、タタルスタンの知事、地方行政府長官は、あれこれの行政上の実績のみならず、自分の管轄域内の選挙結果に責任を負うのである。たとえば、1998年にウクライナで行われた最高会議選挙の直後、クチマ大統領は、当時の親大統領派政党であった人民民主党の得票率が低かった一連の州の行政府長官(知事)を解任した。タタルスタンにおいては、ミンチメル・シャイミエフ大統領によって新たに市・郡行政府長官(以下、市長・郡長と略)に任命された者は、間近に行われる国家会議(共和国議会)と郡・市ソヴェトの補選に出馬して住民の信を問う義務を負っている(20)。これら候補者予備軍には、簡単に代議員空席が見つかる仕組みになっている。というのは、シャイミエフによって解任された前任の市長・郡長は、それと同時に代議員職も辞する「慣行」となっているからである。もし、新任の市長・郡長が共和国、郡・市の代議員補選の双方あるいはいずれかに敗れた場合、シャイミエフは、住民の十分な信任を獲得できないような人物を市長・郡長に任命したことを誤りと認め、彼を即座に解任するのである。つまり、タタルスタンの中位エリートは、行政府長官職が被選挙職ではないにもかかわらず、選挙時の票動員能力によって自らを正当化する義務を負うのである。もちろんこのような制度は、首長任命制の非民主性を覆い隠すための姑息な手段にすぎないが、この制度のおかげで、シャイミエフは選挙制の利点と任命制の利点とを同時に追求することができる。つまり、下位ボスの票動員能力を試しながら(これは、共和国大統領3選を目指すシャイミエフにとって大きな関心事である)、同時に権力の分散化を防ぐことができるのである。以上のように、首長任命制の外見とは裏腹に、タタルスタンやウクライナの中位エリートのあり方は、ウェーバー的な意味での官僚からはほど遠い。むしろここには、上位ボスと下位ボスの間における集票と恩顧の交換関係という、カシキスモの重要な属性が観察されるのである。

 こんにちのタタルスタンの政治体制のあり方を前提とすれば、市長・郡長が共和国また地方代議員に当選するのは難しいことではない。したがって、市長・郡長にとってこれら選挙への出馬は通過儀礼にすぎないかのように感じられるかもしれない。しかしそれは競争民主制を前提とした発想である。タタルスタンにおいては、1996年の共和国大統領選挙におけるシャイミエフ自身がそうであったように、指導者たる者、100%近い、ソヴェト時代並みの得票を達成することが理想とされるのであって、したがって、これら選挙は新任の市長・郡長にとって深刻な試練である。総じて、首長任命制が採用されているにもかかわらず、政治体制がきわめてエレクトラルであるというタタルスタン、ウクライナのパラドックスは、以上のように説明されるのである。

 このような選挙制と任命制の折衷形態、集権的カシキスモは、1996年以前のロシア連邦ロシア人州においても機能していたことを想起すべきである。また、これらロシア人州においては、1996年の首長公選制への移行が市長・郡長の過度の自立化を生んでしまったという認識から、また、本音のところでは有権者に対するコントロールを強めるために、ここ2、3年、市長・郡長任命制の再導入を求める知事の声が強まっている(21)。このように、脱共産主義諸国には、空間的にも時間的にも、集権的カシキスモが効果的に機能し得るような、あるいは効果的に機能するとみなされ得るような広大な領域が存在するのである。タタルスタン研究が脱共産主義諸国の比較政治的考察にとって有益なのは、まさにこのためである。

 

アクターの戦略 妥協 強制力

アクターの立場

妥協

強制力

ある派が支配的 「カルテル」型 「勝者が全てを取る」型
勢力均衡あるいは不確定 「ルールに従った闘争」型 「万人の万人に対する闘争」型

図3 ウラジミール・ゲリマンらによるロシアのリージョン政治体制の類型化

2. 民族共和国の政治体制比較におけるタタルスタン:比較の諸基準

2-1.エスニックな要素

 既述の通り、基幹民族のエスニックな言説が共和国建設に果たす役割はタタルスタンで最大であり、その他のチュルク系民族共和国がこれに続き、フィン・ウゴール系の共和国が底辺をなす。チュルク系の共和国においてエスニックな言説が能動的な国家建設原理となっているとすれば、フィン・ウゴール系の共和国においては、それはいわば「拒否権」機能を果たすにすぎない。つまり、フィン・ウゴール系の共和国においては、基幹民族の言語、歴史、文化を敬わないような指導者には出世の道が絶たれているという意味でエスニック・ファクターは重要なのである。

 エスニックな言説が能動的な国家建設原理とされる場合、国家が基幹民族の利益に従属させられたり、民族性が人権などの普遍的な価値を否定する口実とされたりする危険性が高いから、チュルク系の民族共和国においては権威主義体制が発生する蓋然性が高いと一応は言える。さらに、チュルク・イスラム系の民族文化にはハンの観念が生得的にあり、そのため独裁者を受容しやすいなどと言われる(22)。このような素人人類学は、タタルスタン、バシコルトスタン、サハ、トゥワなどチュルク系共和国で権威主義体制建設が先行していた2、3年前まではそれなりの説得力を持ったものであった。しかし、フィン・ウゴール系のモルドヴィヤ共和国やコミ共和国がタタルスタンに追いつき追い越せとばかりに権威主義体制建設を進め、そればかりかロシア人州の知事たちまでがタタルスタン・モデルを賞賛するに至ったこんにち、エスニックな言説の機能と権威主義体制発生の蓋然性とを直結する議論は説得力を失いつつあると言える。

 しかし、それでもなお、モルドヴィヤ共和国の権威主義化の動機は、タタルスタンの場合とは異なる。メルクーシュキン体制は、1990年代前半のモルドヴィヤ共和国内政が対立に明け暮れたこと、またその結果として、一旦導入された大統領制が廃止されるなど行政管理上の混乱が生じたこと(23)への反動として形成されたものである。ロシアの政治学者ウラヂーミル・ゲリマンらは、ロシアのリージョン政治体制を、エリート諸派間の力関係、エリート間の関係を律する手段が妥協的か、強制的かという二つの基準から<図3>のように四分した。その上で、一部のリージョンでは「万人の万人に対する闘争」型の政治が長引いたあげく諸党派が疲弊し、その結果、あまり野心的でない、危険でないとみなされた人物のいずれかに、諸党派が権力を自発的に委譲・集中してしまう場合があることを指摘した。ここで権力を集中された人物がそれをフルに活用し始めた場合、長期的な闘争に疲れた諸党派はすでに抵抗力を失っており、「勝者が全てを取る」型の体制が成立する。ゲリマンらは、サラトフ州におけるアヤツコフ体制の成立をこのパターンの典型例としてあげている(24)。これは、「制度疲労による権威主義化」とでも名付けられうるパターンだが、私見では、メルクーシュキン体制もこの例に数えられる。

2-2.指導者個人の役割

 エスニックな要素がもつ重要性といわばトレード・オフの関係にあるのが、指導者個人の役割である。ウドムルチヤにおいてさえ、先述の「フィン・ウゴールは独裁を受け容れない」という見解がある一方で、1990年代初頭のウドムルチヤには、たまたまシャイミエフ、ラヒーモフに匹敵する「玉」がなかっただけだ(25)、また1990年代中盤に大統領の座を狙ったアレクサンドル・ヴォルコフは、(たとえばモルドヴィヤのメルクーシュキンとは違って)ロシア人でしかも地元出身でなかったことが災いして大統領になれず、そのため独裁が阻まれたのだという見解もある。体制選択偶然説とでも呼べるだろう。

 実はこれは、タタルスタンの政治指導者にも広く見られる考え方である。彼らによれば、タタール民族運動の歴史は、分裂と内紛に特徴づけられる。これは、情動的・独善的・自意識過剰といった、タタール人の民族性の負の側面を表している。シャイミエフ体制は、このような民族的伝統に反して成立したものである。体制転換の決定的な局面で、慎重、実務的、妥協志向が強く、このランクの指導者としては例外的に自己愛に溺れることの少ないシャイミエフのような人物が共和国の舵取りをしたことにより、また彼が自分と同じタイプの幹部を自分の周りに集めたことにより、タタルスタンは、その国家性を保障しうる安定的な政治体制を得たのである、と説明されるのである(26)

<補注>ミンチメル・シャイミエフ大統領について

 シャイミエフ、ミンチメル・シャリポヴィチは、1937年にタタルスタン自治共和国アクタヌィシュスキー郡の小村のコルホーズ議長の家庭に生まれた。9人兄弟の8番目(男子としては6番目)であったが、最初の4人の男児は全て死亡していた。そのため、両親は、彼の一つ上の兄と彼とに、生き延びるようにとの祈りを込めて、タタール語の「鉄(timer)」に由来する名を与えた。1942年には、父は前線で重傷を負って帰ってきた。ミンチメルは、この世代の常として、学校に上がる前から家畜を追い、農作業を手伝った。1959年、若きシャイミエフはカザン農業大学を卒業、農機技術者となる。1967-69年、タタルスタン州党委員会(27)勤務。1969年、32歳の若さでタタルスタン自治共和国土壌改善・治水灌漑大臣に抜擢され、1983年(46歳)までの14年間、この職にあった。これは明らかに出世の停滞を意味しているが、有力指導者の「引き」もなく、学歴も低かった彼にとってはやむを得ないことであっただろう。ただし、この大臣職にある間、シャイミエフは郡レベルでの指導者との面識を得、郡レベルでの統治システムを熟知したと言われる(28)

 1983年にようやく自治共和国副首相に昇格、その後、州党委員会書記を経て、1985年から89年まで自治共和国首相。1989年、それまでの州党第一書記グメル・ウスマノフがソ連共産党中央委員会書記に抜擢された後を継いで党第一書記となる。1990年4月、ゴルバチョフの兼任方針に従って、タタルスタン最高会議議長を兼任した(29)。経歴から明らかなように、シャイミエフは典型的なテクノクラート、経営型指導者であり、「イデオロギーは私の守備範囲ではない」と公言する。対照的に、自治共和国党第一書記として前任者のウスマノフは、原則主義的な「典型的党指導者」であり、もし彼があと1、2年、タタルスタンの指導者の地位に留まっていたとしたら、民族運動に癇癪を起こして、タタルスタンの政治情勢はさらなる危機に瀕していただろうと言われる。

2-3.社会経済構造

 理論的には、分化した社会経済構造(様々な産業分野がバランスよく発達している、リージョン首都以外にも有力な都市がある、優れた大学・研究機関があり、マスメディアが発達している等)は、エリート、すなわち社会各セグメントの利益代表者の間の多元主義的共存を促す傾向がある。既述の通り、タタルスタンがこの例であり、この共和国では農業、製造業、資源採掘業の各分野が発達し、共和国の人口・財政に首都カザンの占める割合は相対的に小さく(30)、強力な大学とアカデミーがあり、反シャイミエフ的なマスメディアが営業する余地も大きい。このようなリージョンで、エリート内の分裂が少なくとも表には出ないような体制が成立したということは、エリート内の利害調整のメカニズムが非常に発達していることを示している。バシコルトスタンも首都の比重の低さという点ではタタルスタンと同様だが(31)、産業面では石油関連産業に全面的に依存しており、また学術教育機関とマスメディアは弱い。バシコルトスタンでは、社会経済構造そのものが一極集中的なのである。これは、タタルスタンとバシコルトスタンの間の、黙過されがちな相違の背景をなすと考えられる。

 もちろん、ロシア・ウクライナの諸リージョンにおけるリージョン首都への一極集中が、かえってリージョンレベルでの支配党派に対するカウンターエリートを育てる場合が多いことはよく知られている。ウドムルチヤがその例であり、首都イジェフスクがガリバー的存在であり(人口・税収の約40%は首都に集中)、しかもそのイジェフスクの指導者が共和国指導部に対する野党の中核をなしたことにより、この共和国では、たとえば市・郡の国家機関化が実現されなかったのである(32)。ところが、この首都の独占的地位は両刃の刃であり、首都が独占的な地位を占めるリージョンで、リージョン指導部が首長任命制を導入し、首都指導部の自立性を根絶することに成功した場合には、リージョン政治体制の権威主義化は容易かつ急速に進む(首都サランスクを国家化してしまったモルドヴィヤがその例)。

2-4. 強制力への依存

 こんにちの民族共和国はもとより、盛時のガリャーチェフ体制(ウリヤノフスク州)、ナローリン体制(リペツク州)、また中央アジア諸国や中国についてよく言われるように、「資本主義への軟着陸」路線は、権威主義的な政治手法・制度建設と不可分であると考えられている。実際、タタルスタンは、既述の首長任命制をはじめとして、やがてロシア全土に影響することになるタフな制度と意思決定のモデルを早期に形成した共和国であった。前掲の政治学者ゲリマンたちも、タタルスタンの政治体制を、<図3>において最も権威主義的と言える「勝者が全てを取る」型に含めている(33)。ただし、ゲリマンらはタタルスタンにおいてエリート間の競争が強制力によって解決されていることを示す事実を挙げていない。これでは、ゲリマンたちもタタルスタンに対する先入観を免れていないと批判されてもやむをまい。私の見解では、タタルスタンは、<図3>におけるエリートの「カルテル」型の典型である。つまり、エリート内の分裂を回避するメカニズムが非常に発達しているところが、シャイミエフ体制の特徴である。エリート内の分裂がそもそも起こらないのだから、強制力を使う(政治に警察力・検察・司法機関を引き入れる)必要がないのである。

 そもそも、政治に警察をはじめとする強制力を引き入れるかどうかは、当該政治体制が多元主義的・競争的であるかどうかとは関係がない。競争的な政治体制においても、たとえば沿海地方、ウクライナのザカルパッチャ州のように政治闘争解決の手段として強制力が用いられる(別言すれば、司法機関が支配党派によって政治利用される)プラクティスが常態化している例もあるし、スヴェルドロフスク州、ウドムルチヤ共和国のように、そうでない例もある。非競争的な政治体制においては、バシコルトスタンのように強制力が用いられる場合もあれば、タタルスタンのようにそうでない(その必要がない)例もある。概して非競争的な政治体制の場合、強制力への依存は、むしろその政治体制の弱さを反映しているように考えられる。つまり、ラヒーモフ体制がシャイミエフ体制よりも暴力的なのは、前者が後者よりも弱いからである。

2-5.エリートの生存率と一体性、選挙マシーン

 タタルスタンは、ソ連共産党州委員会第一書記であったシャイミエフが中核となって、旧体制下の政治エリートが新体制に引き継がれた例である(34)。これは、エリート間の相互理解と妥協志向を促進し、また権力と富の社団的独占(仲間内での分配)への志向を強める。ウドムルチヤは、ロシア、ウクライナにしばしば見られる、その逆の典型例である(35)。つまり、党委員会系のエリートが1990年春の民主ソヴェト選挙で根絶され、それにかわって台頭してきた旧体制エリートの「第2階梯」(A・マゴメードフ)が、自分たちの間での新しいゲームのルールをなかなか作れない。特に、リージョン指導層とリージョンの首都指導層の間に深刻な対立が生まれ、そのまま、ロシア国家建設の剣が峰とも言える1990年代中盤のリージョン・サブリージョン間の権限分割作業に突入し、これが火に油を注ぐ結果となるというシナリオである。

 旧体制エリートの再編過程と密接な関係を持ちながら現在のリージョン政治体制の性格を規定した要因として、現在の体制が旧体制から引き継いだ集票マシーンの性格変化があげられる。多くのリージョンでは、旧体制下のウルトラ動員選挙が1990年から93年にかけて弛緩したが、1993年末の連邦議会選挙いらい行政権力による投票動員が再強化されることにより、現在のマシーン政治、行政府党カシキスモが成立した。しかし、この弛緩期が存在したということが重要な意味を持った。というのは、旧体制下では一枚岩的であったエリートが分裂することと、同様に旧体制下では一種の軍隊的組織であった集票マシーンがエリート内諸グループ間で分割されることとは、いわば相乗関係にあったからである。つまり、エリート内分裂の結果生じた少数派も、自分なりの集票マシーンを創出することさえできれば、自分の政治的な地歩を固めることができる。他方、自前の集票マシーンさえ創出できれば多数派によって圧殺されることはないという見通しをエリート内不平分子が持つことによって、エリートの分裂はさらに促進される。1993年秋のソヴェト廃絶後(36)、こうした過程が螺旋状に昂進することにより、1996年の州知事選挙、地方選挙までにロシアの多くのリージョンで競争的政治体制が成立したのである。

 本稿3-2で述べるように、タタルスタンでは、1990年春の民主ソヴェト選挙を唯一の例外として、この弛緩期が存在せず、集票マシーンは一貫して、全一的に共和国指導部の手中にあったのである。1994年に確立された市長・郡長任命制は、その制度的表現であった。このシステムにおいては、共和国指導部にたてつく者は、あっという間にマージナライズされてしまう。

 <図4>が示すように、タタルスタンのエリートの一体性は、農村エリートの優位のもとに達成されている。シャイミエフを筆頭とする農村出身官僚、農業教育修了者がタタルスタンの政治権力の中核を担い(37)、カザンを中心とする軍産複合体がその目下の同盟者の地位を占めているのである。奇妙なことであるが、農業や軍事産業のような、こんにちの赤字産業に責任を負うサブグループが、共和国エリートを主導し、経済的にはかろうじて好調な東南部・石油ロビーがこの主導的グループを「養う」形になっている。つまり、経済的パフォーマンスと政治権力の所在との間に不一致があるのである(38)

 ジェリー・ハフいらい度々指摘されているように、ソ連のエリート補充システムは、農村出身者・農学教育修了者を過大代表する傾向があった。というのは、教育のチャンスに恵まれた都市青年には、共産青年同盟の指導員に始まる長い徒弟修行の結果ようやく獲得されるノメンクラトゥーラの地位(しかもその生活水準は、西側で言えば「中の下」程度にすぎなかった)よりも魅力的な進路がいくらでもあったからである。旧体制下のタタール自治共和国は、おそらく、この農村バイアスが特に強いリージョンであった。これはタタール人の何らかの民族的特性によるものかもしれないし、旧体制下のアファーマティヴ・アクションのおかげで、概して農村出身のタタール語使用青年が相対的に有利な位置にあったのかもしれない。

 既述の通り、タタルスタンでは、旧体制下のウルトラ動員選挙が現代的なマシーン政治へと連続的に進化した。概して投票操作・投票動員は都市よりも農村での方が容易であるから、票を稼ぐ能力は農村エリートの方が高く、このことがさらに彼らの発言力を増大させる。これは、日本の自民党が数十年来の努力にもかかわらず、都市政党に脱皮できないのと同様である。こうして、旧体制に起源を持つタタルスタン「農業官僚体制」(N・ムハリャモフ)は、新体制下でかえって強化されていったのである。

2-6.当該共和国が旧体制下で占めていた地位

 容易に推察されるように、もし当該共和国が旧体制下で特権的な地位を占めていれば、それはノメンクラトゥーラの政治的な生存を助け、野党をマージナル化する方向で作用する。この典型がタタルスタンであった。タタルスタンは、その産業上・科学技術上のポテンシャルからいって、旧体制下で連邦構成共和国の地位を与えられて然るべきリージョンであり、共和国の党組織も再三にわたりそれを公然と要求した(39)が、外国境を持っていないが故に、ロシア共和国内の自治共和国という二流の地位に甘んじた。モスクワの側も、これは不公正なことだと認識していたので、現存の政治システムの枠内でタタルスタンにできるだけ高い地位を与えることによってこれを慰撫しようとした。たとえば、タタール自治共和国の党第一書記は、ほぼ常にソ連共産党中央委員であり、同時にソ連最高会議幹部会員だった(40)。これは、タタルスタンの社会経済発展に全ソ的なプライオリティが与えられることを意味している。実利をモスクワから獲得してくる能力があるということは、タタルスタンの旧体制指導者の権威を高めた。これは、党においてもソヴェトにおいても高い地位を与えられなかった、例えばモルドヴィヤ共和国の幹部には垂涎の政治資源だった。タタール自治共和国指導部の高い地位は、マージナルなインテリ層も含めて共和国のエリート・半エリートに、ロビー活動の旨味と、空疎なスローガン政治の弊害とを、すでに旧体制下で叩き込むことになった。こうして、旧体制指導者に対する原則論的野党が活躍する余地は、タタルスタンでは元々乏しかったのである。同時に、統治のあらゆるレベルでロビーイングに長けていることは、こんにちのカシキスモ体制に技術的・組織的前提を提供したであろう。

2-7.民族主義野党と親モスクワ野党との関係

 民族共和国の権威主義化の度合いは、民族主義野党と親モスクワ民主派野党(かつての民主ロシア、こんにちのヤブロコなどがその例)が連合して、共和国指導部に対するカウンターバランスを形成することができるかどうかによって大きく規定される。たとえばウドムルチヤにおいては、両野党陣営間の関係は基本的に良好で、大統領制の導入や郡・市の国家化が争点となるような危機状況下では連合して支配党派=ヴォルコフ派に対抗してきた。

 対照的に、タタルスタンの急進民族主義野党と親モスクワ民主派の間の関係は、旧ノメンクラトゥーラに反対する統一戦線を形成できないほどに険悪である。共和国指導部は、この対立を利用して、両野党を操作するエスノ・ボナパルティズムを展開することができたのである(41)。タタール民族主義者と親モスクワ民主派が(脱共産主義諸国にまま見られるように)人種主義的な煽動をしたというわけではない。いずれも、タタルスタンは多民族空間としてのみ存立しうると主張してきた。しかし、その活動家を見るならば、結局のところタタール民族主義者はタタール人しか惹き付けることができなかったし、親モスクワ民主派はロシア人しか惹き付けることができなかったのである。このような党派のいずれかが万一権力の座に着いた場合、タタルスタンにとって死活の問題である民族間協調はどうなってしまうのかと、選挙民はもっともな不安を抱いたのである。これに対し、旧ノメンクラトゥーラは、旧ノメンクラトゥーラであるという事実そのものによってあたかも民族的にニュートラルである、自己の民族帰属から超然としているに違いないという肯定的な固定観念を住民に抱かれたのである(42)


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