金融危機以降のタタルスタン経済の悪化については次を参照。Andrei
Susarov, "Tatarstan v 1998 g.," in Nikolai Petrov, ed., Regiony Rossii v
1998 g.(Moscow, 1999), pp.251-257.
この論文を要約すれば、石油収入を基盤とした欧州債券市場での投機活動が失敗したこと、公式には民営化されているタタルスタン石油会社の資金を共和国政府が流用することに代表される同社のコーポレイト・ガヴァナンスの欠如が露呈したことが経済悪化の主な要因である。
たとえば、タタルスタンにおいてはタタール語がロシア語と並んで国家語の地位を享受しているが、バシコルトスタン憲法によればバシキール語は国家語ではない。これは、バシキール人が共和国人口の21%しか占めておらず、しかもその21%のうち本来の母語であるバシキール語を使えなくなってしまった人の割合がタタルスタンのタタール人におけるよりも大きいという現状を鑑みての現実的措置である。1998年共和国大統領選挙の選挙法は、ロシア語とバシキール語の双方を使えることを立候補要件としたが、バシキール語が共和国憲法上の地位を享受していない以上、これは、バシキール人である現職大統領ラヒモフを有利にするための政治的措置と見られてもやむを得ないだろう。なお、バシコルトスタンのバシキール人のうち5%は、タタール語を母語と見なしている。次を参照:
Damir Safargaleev, Sergei Fifaev, "Res-publika Bashkortostan: gosudarstvennoe
i politicheskoe razvitie v 1990-e gody," in Kimitaka Matsuzato et al., eds.,
Regiony Rossii: khronika i rukovoditeli /t.8/ Occasional Papers on the Elite of
the Mid-Volga Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo, forthcoming).
Victor A.Shnirelman, Who Gets the Past? Competition for Ancestors among
Non-Russian Intellectuals in Russia (Washington, D.C.-Baltimore-London, 1996),
pp.7, 22-26.
このような穏健な公式史学を代表する論文として次を参照:"Povolzhskie
Tatary," in Narody Evropeiskoi chasti SSSR, II (Moscow, 1964), 特に
pp.634-639.
金帳ハン国派の主張を代表する著作として次を参照:Rafael'
Khakim, Istoriia Tatar i Tatarstan (Kazan', 1999).
Robert Kern, ed., The Caciques - Oligarchical Politics and the System of
Caciquismo in the Luso-Hispanic World (Albuquerque: University of New Mexico
Press, 1973), pp.7-8.
Kimitaka Matsuzato, "The Meso-Elite and Meso-Governments in Post-Communist
Countries - A Comparative Analysis,"
皆川修吾編『移行期のロシア政治:政治改革の理念とその制度化過程』渓水社、1999年、222-242頁。
タタルスタンの地方制度は、いずれも1994年11月末に成立した「国家権力と行政の地方機関に関する」共和国法および共和国地方自治法によって規定されている。これら2法によれば、タタルスタンにおいては、市・郡・市区レベルの立法・執行権力は自治体ではなく国家(共和国)機関とされ、その首長は共和国大統領によって任命される。地方自治体は、村管区および都市部の小区域にのみ存在していることになっている。しかし、これらコミュニティ・レベルの「地方自治」は、その指導部が民主的な選挙で形成されていることは事実としても、自立した予算を形成しない(そもそも、平均人口数百人という規模からいって自立した予算を形成することが合理的とは言えない)程度の統治主体なのであって、地方自治体と言うよりも、ロシアの用語法では「領域的・社会的自治(TOS)」、日本風には部落会・町内会と呼んだ方がよい代物である。なお、ウクライナの地方制度については次の拙稿参照:Kimitaka
Matsuzato," Local Reforms in Ukraine 1990-1998: Elite and Institution,"
Osamu Ieda, ed., The Emerging Local Governments in Eastern Europe and Russia -
Historical and Post-Communist Development (Hiroshima, 2000).
モルドヴィヤ共和国の政治史については、次を参照:Sergei
Polutin, "Khronika politicheskikh sobytii (1989-1998gg.)," in Kimitaka
Matsuzato et al., eds., Regiony Rossii: khronika i rukovoditeli /t.7/ Occasional
Papers on the Elite of the Mid-Volga Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo,
forthcoming).
V.Ya. Gel'man, S.I.Ryzhenkov, I.V.Egorov, "Transformatsiia regional'nykh
politicheskikh rezhimov v sovremennoi Rossii: sravnitel'nyi analiz," in
M.N.Afanas'ev,ed., Vlast' i obshchestvo v postsovetskoi Rossii: novye
praktiki i instituty (Moscow, 1999), p.90.
前出 Gel'man et al., "Transformatsiia," pp.88-91.
また、次のディスカッション・ペーパーも参照:Vladimir Gel'man,
"Regime Transition, Uncertainty and Prospects for Democratization: The
Politics of Russia's Regions in a Comparative Perspective,"
Wissenschaftszentrum Berlin fuer Sozialforschung gGmbH (WZB), P99-001.
タタルスタンの Who's Who (Kto est' kto v Respublike Tatarstan:前掲)1996年版によれば、記載されている32名の郡行政府長官のうち24名(75%)は農学・獣医学教育を受けている(いわゆる「第2の高等教育」は含まない)。農業人口比率が高い郡においてはこれは自然なことに思われるかもしれないが、管轄人口のうち市域人口が過半を占める郡・市統合行政府の長官11名の中でも7名(64%)は農学・獣医学教育の取得者である。しかも、この7名は、エラブガ市ソヴェトがエラブガ郡との統合の際に郡行政府長官の横滑り就任に必死で抵抗したから7名なのであって(エラブガ市・郡統合ソヴェト副議長イーゴリ・ジューコフからの聞き取り、1999年1月10日、エラブガ市)、そうでなければ11名中8名(73%)が農学・獣医学教育修了者となるところであった。シャイミエフは、自分の生い立ちを振り返りながら、次のように述べている。「私が思うには、最良の、最も期待できるカードルは農村で育ちます。なぜなら、彼らこそが本物の勤労教育を受けるからです。たとえば私などは、物心ついた頃から、これとこれとこれが自分の仕事とかっちりと決まっていました」(前掲
Mustafin, Khasanov, Pervyi prezident..., p.14)。
Nail Midkhatovich Moukhariamov, "The Tatarstan Model: A Situational
Dynamic," in Peter J. Stavrakis et al., eds., Beyond the Monolith: The
Emergence of Regionalism in Post-Soviet Russia (Washington,
D.C.-Baltimore-London, 1997), pp.213-232. 特に p.216.
この事情について、タタルスタンのある民族主義的知識人は、急進民族主義者が共和国国家会議から一掃された直後の1995年4月、新聞紙上(Izvestiia
Tatarstana, 19 April 1995, p.1)で苦渋に満ちた総括を行っている。彼によれば、親モスクワ民主派の活動は、タタール民族民主派の影響力を押さえ込むことに注がれてきた。そしてこの努力は、支配エリートの願望に完全に合致したものであった。ロシアとの権限分割条約の締結(1994年2月)後、親モスクワ民主派の頭領イワン・グラチョーフは、この条約を手放しで褒め称えた。しかし、まさにこの条約締結後の数ヶ月間、タタルスタンのマスコミは「ノメンクラトゥーラ官僚主義体制」の完全な統制下に置かれたのだ。タタール民族主義運動の惨めな残滓は、1995年の国家会議選挙に向け、1994年秋に「円卓会議」を組織して親モスクワ民主派との選挙ブロックを形成することを試みた。しかしこの試みも、支配エリートが官製民族団体「タタール社会センター」を通じて圧力をかけただけであえなく潰えた。親モスクワ民主派は、タタール民族民主派がタタール社会における唯一の民主的要素であるという単純な事実を忘れている。地方における民主主義は、モスクワの努力によって達成されるものではなく、タタール人の民族的権利をめざす闘いによって、とりわけ民族的権利を真の意味では擁護しようとしない自民族(タタール民族)の支配エリートとの困難な戦闘の結果、もたらされるものなのだ。過去数年間、タタール民族主義運動と呼びうるものは存在していない。それとおぼしきものは、実際には、多種多様の民族主義団体の一握りのリーダーたちにすぎない。タタール民族主義運動は、ほとんど病理的に、二つの能力に欠けている。ひとつは、共和国の諸問題を政治のレベルで検討する能力であり、もうひとつは、政治的な性格を持った堅固で文明的な統一体を創出する能力である。タタール社会においては、政治活動領域は支配エリートによって独占されており、タタール人の社会エリートは未だに形成されていない。なぜなら全ての資源は政治権力の内にあり、民族主義的人士の個人的資産はあまりにも乏しくて、彼らが職業政治に身を投じることを許さないのだ。
Volia i vybor naroda: Vybory Prezidenta Respubliki Tatarstan 24 marta 1996
goda - dokumenty, materialy, itogi (Kazan', 1996), p.162.
この経過については次を参照 : Nail' Mukhariamov,
"Khronika
politicheskogo protsessa," in Kimitaka Matsuzato et al., eds., Regiony Rossii:
khronika i rukovoditeli /t.7/ Occasional Papers on the Elite of the Mid-Volga
Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo, forthcoming). なお、1996年の共和国大統領選挙に向けた選挙法には、大統領への立候補資格として65歳以下であることを要求していたが(第3条)、次の大統領選挙に向けた選挙法からはこれもおそらく削除されるであろう。1937年生まれのシャイミエフが2001年に65歳を越えるわけではないが、いかにもぎりぎり滑り込みで立候補しているというという印象を与えてしまうからである。
John F. Young, "The Republic of Sakha and Republic Building: The Neverendum
of Federalization in Russia," in Kimitaka Matsuzato, ed., Regions: A Prism to
View the Slavic-Eurasian World - Towards a Discipline of "Regionology"
(Sapporo, 2000), p.177-207.