エスノ・ボナパルティズムから 集権的カシキスモへ
―タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998―

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  1. 本稿は、文部省科学研究費補助金・基盤研究B「ヴォルガ中流域民族共和国エリートの比較研究」(平成10-11年度)、同「脱共産主義諸国のリージョン/サブリージョン政治」(平成11-13年度)、および平成10年度学術振興会特定国派遣事業の援助を受けて1999年の1月および6-7月にタタルスタンで行われた現地調査に依拠している。
  2. タトニェフチ、すなわちタタルスタン石油会社は、ロスニェフチ、すなわちロシア石油会社から最初に分離・独立した石油会社のひとつであった。
  3. 私が共和国大統領顧問のラファエリ・ハキモフにインタビューした際、「ところで、手持ちの戦略爆撃機が何機かあるんだけど、日本が買ってくれないか」と冗談を言っていた。
  4. カザンは、モスクワ、デルプト(タルトゥー)に次ぐロシア帝国第3番目の大学都市であった。つまり、1804年創立のカザン大学は、ハリコフ大学(1805年創立)、ペテルブルク大学(1819年創立)、キエフ大学(1833年創立)などよりも古いのである。
  5. リペツク州知事ナローリンは、1998年の州知事選で敗北した。ウリヤノフスク州知事ガリャーチェフは、1996年の州知事選挙で危うく共産党候補に負けるところであった。いずれも州知事選以前の段階で、「赤い州知事」というかつての名声は失っていた。
  6. 金融危機以降のタタルスタン経済の悪化については次を参照。Andrei Susarov, "Tatarstan v 1998 g.," in Nikolai Petrov, ed., Regiony Rossii v 1998 g.(Moscow, 1999), pp.251-257. この論文を要約すれば、石油収入を基盤とした欧州債券市場での投機活動が失敗したこと、公式には民営化されているタタルスタン石油会社の資金を共和国政府が流用することに代表される同社のコーポレイト・ガヴァナンスの欠如が露呈したことが経済悪化の主な要因である。
  7. たとえば、タタルスタンにおいてはタタール語がロシア語と並んで国家語の地位を享受しているが、バシコルトスタン憲法によればバシキール語は国家語ではない。これは、バシキール人が共和国人口の21%しか占めておらず、しかもその21%のうち本来の母語であるバシキール語を使えなくなってしまった人の割合がタタルスタンのタタール人におけるよりも大きいという現状を鑑みての現実的措置である。1998年共和国大統領選挙の選挙法は、ロシア語とバシキール語の双方を使えることを立候補要件としたが、バシキール語が共和国憲法上の地位を享受していない以上、これは、バシキール人である現職大統領ラヒモフを有利にするための政治的措置と見られてもやむを得ないだろう。なお、バシコルトスタンのバシキール人のうち5%は、タタール語を母語と見なしている。次を参照: Damir Safargaleev, Sergei Fifaev, "Res-publika Bashkortostan: gosudarstvennoe i politicheskoe razvitie v 1990-e gody," in Kimitaka Matsuzato et al., eds., Regiony Rossii: khronika i rukovoditeli /t.8/ Occasional Papers on the Elite of the Mid-Volga Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo, forthcoming).
  8. Goskomstat Rossii, Regiony Rossii: ofitsial'noe izdanie (Moscow, 1997), p.143.
  9. Victor A.Shnirelman, Who Gets the Past? Competition for Ancestors among Non-Russian Intellectuals in Russia (Washington, D.C.-Baltimore-London, 1996), pp.7, 22-26.
  10. このような穏健な公式史学を代表する論文として次を参照:"Povolzhskie Tatary," in Narody Evropeiskoi chasti SSSR, II (Moscow, 1964), 特に pp.634-639.
  11. 新ブルガリズムのイデオロギーについては、Shnirelman の前掲書、pp.36-45. なお、ここで依拠した2文献は宇山智彦氏に教示された。
  12. 金帳ハン国派の主張を代表する著作として次を参照:Rafael' Khakim, Istoriia Tatar i Tatarstan (Kazan', 1999).
  13. Robert Kern, ed., The Caciques - Oligarchical Politics and the System of Caciquismo in the Luso-Hispanic World (Albuquerque: University of New Mexico Press, 1973), pp.7-8.
  14. 篠原一『ヨーロッパの政治:歴史政治学試論』東京大学出版会、1986年、17-18頁。ただし、ここでは篠原は、ボナパルティズムをビスマルク体制の上位概念としている。
  15. Kimitaka Matsuzato, "The Meso-Elite and Meso-Governments in Post-Communist Countries - A Comparative Analysis," 皆川修吾編『移行期のロシア政治:政治改革の理念とその制度化過程』渓水社、1999年、222-242頁。
  16. 本稿では、ポーランドの県とrejons、ウクライナの州と郡(raion)、タタルスタンの郡と市を「中位」とみなす。
  17. タタルスタンの地方制度は、いずれも1994年11月末に成立した「国家権力と行政の地方機関に関する」共和国法および共和国地方自治法によって規定されている。これら2法によれば、タタルスタンにおいては、市・郡・市区レベルの立法・執行権力は自治体ではなく国家(共和国)機関とされ、その首長は共和国大統領によって任命される。地方自治体は、村管区および都市部の小区域にのみ存在していることになっている。しかし、これらコミュニティ・レベルの「地方自治」は、その指導部が民主的な選挙で形成されていることは事実としても、自立した予算を形成しない(そもそも、平均人口数百人という規模からいって自立した予算を形成することが合理的とは言えない)程度の統治主体なのであって、地方自治体と言うよりも、ロシアの用語法では「領域的・社会的自治(TOS)」、日本風には部落会・町内会と呼んだ方がよい代物である。なお、ウクライナの地方制度については次の拙稿参照:Kimitaka Matsuzato," Local Reforms in Ukraine 1990-1998: Elite and Institution," Osamu Ieda, ed., The Emerging Local Governments in Eastern Europe and Russia - Historical and Post-Communist Development (Hiroshima, 2000).
  18. 仙石学「ポーランドの『新』地方制度:1998年の地方制度改革の分析」前掲『政治学としてのサブリージョン研究』11頁。
  19. 財政面での私の研究はまだ著しく不十分であるが、中位権力の資産についても同様のことが言えるようである。つまり、ウクライナとタタルスタンにおいては、全国家所有、共和国所有の資産からは独立した州有、郡有財産がかなりの比重を占めており(これらは、中位権力が国家機関であるという建前とは矛盾して、公有=自治体所有=munitsipal'nyeとしばしば俗称されている)、中位レベルでのマシーン政治に資源を提供している。
  20. 前掲「国家権力と行政の地方機関に関する」共和国法第27条。
  21. V.N. Rudenko, "Modernizatsionnye vyzovy i ekonomiko-pravovye otvety ural'skogo regional'nogo soobshchestva." 北海道大学スラブ研究センター1999年度夏期国際シンポジウム "Russian Regions: Economic Growth and Environment"(札幌、7月21-24日)に提出されたペーパー。
  22. 同様の素人人類学は、中央アジアに関しても流布しているようである。これに対する批判として次を参照:宇山智彦「カザフスタン政治の特質について(覚書)」木村喜博編『現代中央アジアの社会変容』東北大学学際科学研究センター、1999年、72-73頁。
  23. モルドヴィヤ共和国の政治史については、次を参照:Sergei Polutin, "Khronika politicheskikh sobytii (1989-1998gg.)," in Kimitaka Matsuzato et al., eds., Regiony Rossii: khronika i rukovoditeli /t.7/ Occasional Papers on the Elite of the Mid-Volga Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo, forthcoming).
  24. V.Ya. Gel'man, S.I.Ryzhenkov, I.V.Egorov, "Transformatsiia regional'nykh politicheskikh rezhimov v sovremennoi Rossii: sravnitel'nyi analiz," in M.N.Afanas'ev,ed., Vlast' i obshchestvo v postsovetskoi Rossii: novye praktiki i instituty (Moscow, 1999), p.90.
  25. これは、1980年代後半にゴルバチョフによって共和国に送り込まれたロシア人の党第一書記がウドムルチヤ人の有力指導者を粛清したことに一因がある。地元の最有力幹部が狩猟の際の人身事故によって失脚するという文字通りの偶発事故も重なった。
  26. Z・R・ワレーエワ(Valeeva)/タタルスタン共和国国家会議副議長からの聞き取り、1999年7月1日、カザン市。また、R・Z・アルトゥンバエフ/ロシア連邦農業大臣代理(前ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市長)からの聞き取り、1999年7月3日、モスクワ市。
  27. 自治共和国の党委員会は、州党委員会(obkom)と呼ばれた。
  28. R.A. Mustafin, A.Kh. Khasanov, Pervyi prezident Tatarstana Mintimer Shaimiev (Kazan', 1995), pp.12-13.
  29. Kto est' kto v Respublike Tatarstan, vypusk II, dopolnennyi po sostoianiiu na 1 iiulia 1996 g. (Kazan', 1996), p.5.
  30. カザン市人口はタタルスタン人口の28%を占めるにすぎない。
  31. ウファ市人口はバシコルトスタン人口の27%を占めるにすぎない。
  32. この経過については次の拙稿参照:「ウドムルチヤ事件とは何か」『タタルスタン、ウドムルチヤにおける国家建設とエリート』(スラブ研究センター研究報告シリーズ No.66/「ヴォルガ中流域民族共和国エリート」研究報告輯 No.1)1999年、15-42頁。
  33. 前出 Gel'man et al., "Transformatsiia," pp.88-91. また、次のディスカッション・ペーパーも参照:Vladimir Gel'man, "Regime Transition, Uncertainty and Prospects for Democratization: The Politics of Russia's Regions in a Comparative Perspective," Wissenschaftszentrum Berlin fuer Sozialforschung gGmbH (WZB), P99-001.
  34. ただしこれは、旧体制エリートの個々の構成員の政治的生存率が高い、つまりこんにちのタタルスタンの指導者が高齢であるという意味ではない。むしろ逆に、エリートの若返りを促進する方向で作用していたノメンクラトゥーラ制を放棄したロシア人州において、政治エリートが、競争選挙に勝ち続ける限りにおいて累々と権力の座に居座り高齢化する傾向があるのとは対照的に、ノメンクラトゥーラ的な幹部政策をも旧体制から継承したタタルスタンにおいては、エリートの計画的な若返りが推進されている。その結果、タタルスタンでは、シャイミエフ自身を最大の例外として、概して指導者は若い。たとえば、1998年に共和国首相に就任したルスタム・ミンニハノフは、1957年生まれである。もちろんこれには、シャイミエフが自分の一つ下の世代(1940年代後半生まれの世代)を自分の潜在的ライバルとして恐れており、40歳そこそこの指導者を重用する傾向があるからだという説もある。同様の現象は、カザフスタンにも見られるようである。宇山、前掲論文、84頁。
  35. 具体的には、沿海地方、スヴェルドロフスク州、ウクライナではオデッサ州とザカルパッチャ州がこのシナリオの例である。
  36. 多元主義的な紛争そのものは十月事件以前にもあった(むしろそれ以後よりも熾烈であった)が、それを選挙に討って出ることによって解決しようという姿勢がエリートに欠けていたのである。そのため、ソヴェト派、大統領派の双方が、1990年春から夏にかけて偶然的に成立した制度的な枠組みにしがみつき、悲劇的な十月事件に至ったのである。選挙で紛争を解決しないことのコストをロシアのエリートに教えた点では、十月の悲劇は無駄ではなかった。
  37. タタルスタンの Who's Who (Kto est' kto v Respublike Tatarstan:前掲)1996年版によれば、記載されている32名の郡行政府長官のうち24名(75%)は農学・獣医学教育を受けている(いわゆる「第2の高等教育」は含まない)。農業人口比率が高い郡においてはこれは自然なことに思われるかもしれないが、管轄人口のうち市域人口が過半を占める郡・市統合行政府の長官11名の中でも7名(64%)は農学・獣医学教育の取得者である。しかも、この7名は、エラブガ市ソヴェトがエラブガ郡との統合の際に郡行政府長官の横滑り就任に必死で抵抗したから7名なのであって(エラブガ市・郡統合ソヴェト副議長イーゴリ・ジューコフからの聞き取り、1999年1月10日、エラブガ市)、そうでなければ11名中8名(73%)が農学・獣医学教育修了者となるところであった。シャイミエフは、自分の生い立ちを振り返りながら、次のように述べている。「私が思うには、最良の、最も期待できるカードルは農村で育ちます。なぜなら、彼らこそが本物の勤労教育を受けるからです。たとえば私などは、物心ついた頃から、これとこれとこれが自分の仕事とかっちりと決まっていました」(前掲 Mustafin, Khasanov, Pervyi prezident..., p.14)。
  38. 補助金を受ける立場にあるタタルスタン農村が共和国エリートの中核部分を輩出し続けていることは、タタルスタンが、ロシアの他のリージョンとは異なって、誰かが誰かを「養ってる、養ってない」論争が起きにくい政治風土を有していることを示している。この事情は、これもロシアの通例とは異なって、首都カザンが「補助金を受ける」都市であることも関係していよう。多くの場合、「養ってる、養ってない」論争は、リージョン首都指導部の挑発によって起こるからである。
  39. タタルスタンの党組織は、1922年の連邦形成時にも、1936年のスターリン憲法制定時にも、さらには1960-70年代にも、タターリヤの連邦構成共和国への格上げを要求した。
  40. Nail Midkhatovich Moukhariamov, "The Tatarstan Model: A Situational Dynamic," in Peter J. Stavrakis et al., eds., Beyond the Monolith: The Emergence of Regionalism in Post-Soviet Russia (Washington, D.C.-Baltimore-London, 1997), pp.213-232. 特に p.216.
  41. この事情について、タタルスタンのある民族主義的知識人は、急進民族主義者が共和国国家会議から一掃された直後の1995年4月、新聞紙上(Izvestiia Tatarstana, 19 April 1995, p.1)で苦渋に満ちた総括を行っている。彼によれば、親モスクワ民主派の活動は、タタール民族民主派の影響力を押さえ込むことに注がれてきた。そしてこの努力は、支配エリートの願望に完全に合致したものであった。ロシアとの権限分割条約の締結(1994年2月)後、親モスクワ民主派の頭領イワン・グラチョーフは、この条約を手放しで褒め称えた。しかし、まさにこの条約締結後の数ヶ月間、タタルスタンのマスコミは「ノメンクラトゥーラ官僚主義体制」の完全な統制下に置かれたのだ。タタール民族主義運動の惨めな残滓は、1995年の国家会議選挙に向け、1994年秋に「円卓会議」を組織して親モスクワ民主派との選挙ブロックを形成することを試みた。しかしこの試みも、支配エリートが官製民族団体「タタール社会センター」を通じて圧力をかけただけであえなく潰えた。親モスクワ民主派は、タタール民族民主派がタタール社会における唯一の民主的要素であるという単純な事実を忘れている。地方における民主主義は、モスクワの努力によって達成されるものではなく、タタール人の民族的権利をめざす闘いによって、とりわけ民族的権利を真の意味では擁護しようとしない自民族(タタール民族)の支配エリートとの困難な戦闘の結果、もたらされるものなのだ。過去数年間、タタール民族主義運動と呼びうるものは存在していない。それとおぼしきものは、実際には、多種多様の民族主義団体の一握りのリーダーたちにすぎない。タタール民族主義運動は、ほとんど病理的に、二つの能力に欠けている。ひとつは、共和国の諸問題を政治のレベルで検討する能力であり、もうひとつは、政治的な性格を持った堅固で文明的な統一体を創出する能力である。タタール社会においては、政治活動領域は支配エリートによって独占されており、タタール人の社会エリートは未だに形成されていない。なぜなら全ての資源は政治権力の内にあり、民族主義的人士の個人的資産はあまりにも乏しくて、彼らが職業政治に身を投じることを許さないのだ。
  42. このような旧エリートにとって都合の良い固定観念は、ひとつには、それなりに繊細であったソヴェト期の民族政策(たとえば、企業長がタタール人であった場合、ナンバー・ツーである企業党書記には必ずロシア人を任命する。逆もまた然り)に対する住民の信頼がまだ残っているからである。それに加え、シャイミエフ政権が民族間関係・宗派間関係にたしかに気を遣ってきた成果でもある。たとえば、ひとつイスラム教寺院を修復した場合、必ずその近所で正教寺院をひとつ修復するなどである。なお、旧ノメンクラトゥーラ構成員の民族比率については、タタール人がおよそ「5分の3」であるとよく言われる。
  43. Volia i vybor naroda: Vybory Prezidenta Respubliki Tatarstan 24 marta 1996 goda - dokumenty, materialy, itogi (Kazan', 1996), p.162.
  44. この経過については次を参照 : Nail' Mukhariamov, "Khronika politicheskogo protsessa," in Kimitaka Matsuzato et al., eds., Regiony Rossii: khronika i rukovoditeli /t.7/ Occasional Papers on the Elite of the Mid-Volga Ethnic Republics, vol.3 (Sapporo, forthcoming). なお、1996年の共和国大統領選挙に向けた選挙法には、大統領への立候補資格として65歳以下であることを要求していたが(第3条)、次の大統領選挙に向けた選挙法からはこれもおそらく削除されるであろう。1937年生まれのシャイミエフが2001年に65歳を越えるわけではないが、いかにもぎりぎり滑り込みで立候補しているというという印象を与えてしまうからである。
  45. したがって、シャイミエフが自分に4期目はないということを自覚する2001年にはタタルスタンの民主化過程が始まるだろうというのが、地元有識者の大方の意見だが、タタルスタンの政治指導者の中には、こうした解釈を否定する人も当然いる。前出の国家会議副議長ワレーエワは、「エリツィンとシャイミエフの間の異なる個人的資質」、つまり「シャイミエフの方がはるかに国家主義者(gosudarstvennik)である [国家制度を私物化することなどあり得ない−松里]」ということを論拠に、2001年大統領選勝利こそが首長任命制の狙いという解釈を否定する(上記インタビュー、1999年7月1日)。
  46. たとえば、1996年大統領選挙に際してのシャイミエフ自身の言明を見よ:Volia i vybor naroda, p.162.
  47. 前掲拙稿「ウドムルチヤ事件とは何か」17-21頁参照。
  48. インタビュー、1999年1月10日、カザン市。
  49. インタビュー、1999年1月4日、カザン市。
  50. これに対する私の批判的な見解は、前掲拙稿 "Local Reforms in Ukraine" に示してある。
  51. アリメチエフスク市は人口約14万人。郡部人口は約3万6千人。市・郡のソヴェト・行政府は統合されている。市の景観は、たとえばイジェフスクやサランスクなどよりも遙かに立派であり、どう見ても州都にしか見えない。オイルマネーで建てた東欧最大といわれる壮大なモスクがある。市の自治体化を要求したのは、1992年から98年まで行政府長官を務めたイリドゥス・ガレーエフ(Gareev)であった。なお、石油産出地が自治主義者になる傾向はウドムルチヤ共和国にも見られるが、これは驚くに値しないだろう。前掲拙稿「ウドムルチヤ事件とは何か」38頁参照。
  52. 新聞 Respublika Tatarstan, 12 March 1999, p.2 に発表された彼の論文 "Mestnoe samoupravlenie kak institut publichnoi vlasti" を参照せよ。チェルヌィ市の人口は、約53万人であるが、エラブガ市などのタタルスタン北東部はこの市の経済的引力圏に入っているようである。
  53. A・A・ガリアクベロワ(Galiakberova)/ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市行政府長官代理からの聞き取り、1999年6月29日、ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市。
  54. G・A・イサエフ/タタルスタン共和国国家会議アパラート・社会政治分析および世論研究部長からの聞き取り、1999年1月4日、カザン市。
  55. インタビュー、1999年1月11日、エラブガ市。なお、エラブガ市は、ロシア革命以前にはヴャトカ県(おおよそこんにちのキーロフ州)に属し、こんにちでもロシア人の人口比率が高い市なので、共和国指導部に対して概して批判的になるのである。なお、1993年から98年まで市・郡統合行政府長官であったイリダル・イシュコーフ(Ishkov)も首長の公選を要求していた。
  56. インタビュー、1999年1月5日、カザン市。
  57. 前掲拙稿 "The Meso-Elite"、241頁、注3。
  58. 1993年1月にシャイミエフは次のように語った。「タタルスタンの住民は、どの民族に属すかに関わりなく、皆、国民投票の開始までにロシア連邦とタタルスタン共和国の間の相互関係の性格と定式について、かっちりとした認識を得ることを望んでいます。……つまり、国民投票を形式的に行うことはいくらでも可能ですが、本質においてはそれは成立せず、結果を生まないのです」(前掲 Mukhariamov, "Khronika" 参照)。
  59. 以上の選挙統計は次の文献による。Analiticheskoe upravlenie Prezidenta Rossiiskoi Federatsii, Rossiiskie regiony nakanune vyborov-95 (Moscow, 1995), p.35; 前掲 Mukhariamov, "Khronika".
  60. Izvestiia Tatarstana,16 March 1994, p.1.
  61. 1991年の大統領選挙においても、立候補支持署名を集める期間の不公正な短さが批判されたが、この7%条項はまだなかった。おそらくこの7%条項は、タタール人地域またはロシア人地域にのみ支持基盤を持つ候補の立候補を許すことは民族間対立を助長するので望ましくないとの論拠から導入されたものであろう。たしかに同趣旨の制限は、ロシア連邦レベルでも、また民族・言語集団の空間的偏在が著しいウクライナにも存在する。しかし、本音のレベルでは、7%条項が現職大統領を有利にする制度であることが意識されなかったと考えるのはナイーヴである。
  62. インタビュー、1999年1月5日、カザン市。
  63. Volia i vybor naroda, p.117. なお、シャイミエフは、1991年の大統領選挙では、当時の彼の政治基盤は1996年よりもずっと弱かったにもかかわらず、20万人を越える署名を集めた(Sovetskaia Tatariia, 25 May 1991, p.2)。
  64. エリツィンとズュガーノフが、それぞれ38.3、38.1%得票した(Tsentral'naia izbiratel'naia komissiia, Vybory prezidenta Rossiiskoi Federatsii 1996: Elektoral'naia statistika (Moscow, 1996), p.208. )。しかもこの結果さえ、シャイミエフによる票の大量偽造の結果だとする説もある。次を見よ。下斗米伸夫「ロシア政治の制度化:タタールスタン共和国を例として」皆川修吾編『移行期のロシア政治:制度改革の理念とその制度化過程』渓水社、1999年、215頁。
  65. John F. Young, "The Republic of Sakha and Republic Building: The Neverendum of Federalization in Russia," in Kimitaka Matsuzato, ed., Regions: A Prism to View the Slavic-Eurasian World - Towards a Discipline of "Regionology" (Sapporo, 2000), p.177-207.
  66. エリツィンとズュガーノフがそれぞれ、61.5%、32.3%得票した(Vybory prezidenta, p.208)。
  67. 実際、シャイミエフやロッセリのような、一時はエリツィンと厳しい対立関係に陥ったリージョン指導者こそがエリツィン再選の原動力となったということが、1996年ロシア大統領選挙の最大のパラドックスであった。醒めた見方としては、シャイミエフやロッセリは、エリツィン個人を支持したのではなく、エリツィンとの間で苦心惨憺の末に形成されたゲームのルールを水泡に帰さないためにエリツィン再選のため奔走した(実際、ズュガーノフが勝っていたら、連邦中央とリージョンの間でのゲームのルールの形成という痛苦に満ちた過程をゼロからやりなおさなければならなかっただろう)というものがある。私は、むしろ、シャイミエフやロッセリが、一時的な対立の結果として、エリツィン個人に対してかえって好意と忠誠心を抱いたと考える。エリツィンがカリスマたる所以として、「雨降って地固まる」、「喧嘩するほど仲良くなる」という資質が確かにあると考えるからである。
  68. 父称ニコラエヴィチ。1952年生、1975年カザン大学卒業。法学博士。1978年よりカザン大学助教授。1980年代にギニア・ビサウ、マダガスカルの大学で勤務・講義経験あり。1988年よりカザン州党委員会・部長、1991年から95年にかけて共和国副大統領。1995年より国家会議議長、1996年1月よりロシア連邦会議(上院)副議長。
  69. 父称ハイルロヴィチ。1947年、アリメチエフスク市に生まれる。ウファ石油大学とサラトフ上級党学校卒業。職歴は1963年より。1970年よりコムソモールのアリメチエフスク市委員会で勤務、1972年より同市の党委員会で勤務。1987年、市党委員会第2書記。1988年から89年にかけて市ソヴェト執行委員会議長。1990年には市党委員会第一書記。
  70. 父称ヌルガリエヴィチ。1957年にルィブノスロボドスキー郡に生まれる。1978年カザン農業大学卒業。1986年、モスクワ・ソヴェト商業大学カザン分校を通信教育で卒業。職歴は1978年から。1983年以降、郡消費共同組合に勤務。1990-92年、アルスキー郡ソヴェト執行委員会議長。1992-93年、同郡の行政府長官第一代理。1993年以降、ヴィソコゴルスキー郡行政府長官。趣味として、セミプロ水準のカーレーサーであることがあげられる。もちろんこれは多額の出費を要する趣味なので、それに対する風当たりも強い。
  71. 父称ザキエヴィチ。1948年に自治共和国東南部のレニノゴルスキー郡の農村に生まれる。タタール人。1971年にカザン化学技術大学を卒業、チェルヌィ市で働き始める。共産青年同盟書記を経て1976年より共産党アフトザヴォヅキー市区委員会で勤務。1985年、同市区ソヴェト執行委員会議長。1987年、チェルヌィ市党第2書記。1990年春の民主選挙の後に市ソヴェト執行委員会議長に選出され、現在に至る。市長職の傍ら、社会学修士号、博士号を取得。1995年には、「ロシアで最良の10人の市長」に選ばれる。
  72. 前掲のスサロフ(Andrei Susarov)は、民族政策をめぐる対立がシャイミエフ派とアルトゥンバエフ支持者の間にあった、つまりアルトゥンバエフの方がよりタタール民族主義的だったと書いている("Tatarstan v 1998 g.," pp.251-252)が、これはシャイミエフの言い分をおうむ返ししたものにすぎない。
  73. 前出のアルトゥンバエフからの聞き取り; Vecherniaia Kazan', 29 May 1998, p.2; Kazanskoe vremia, 13-19 January 1999, p.7.
  74. Vecherniaia Kazan', 29 May 1998, p.2.
  75. 旧称ソヴェト執行委員会議長、現在の正式名称は市行政府長官。ただしアルトゥンバエフは「市長」を僭称し、また市行政府を市庁と呼ばせた。
  76. これについては、新聞 Vremia i den'gi (3 March 1999) に発表されたアルトゥンバエフ自身の論文を参照せよ。
  77. Vecherniaia Kazan', 9 April 1999, p.1.
  78. 前掲インタビュー、1999年7月3日、モスクワ市。「でもシャイミエフは3期目の終わりには70歳近くになってしまうではないか」と私が言うと、「韓国の大統領はいったい幾つだ」と彼は応じた。「東アジア人の老化は遅いのだ。あんたたちとは比較にならん」と私が言うと、「我々だってアジア人だ」と彼は答えた。
  79. たとえば、ソ連軍将校団において、タタール人はロシア人、ウクライナ人に次いで第3の民族集団であったが、ロシア人、ウクライナ人に比べて、大佐(polkovnik)から将軍(general)への昇進が難しかった、そのためタタルスタンの退役軍人の中では大佐比率が不自然に高い、と言われる。1992年にロシア・タタルスタン関係が極度に緊張したとき、「共和国軍を創設すれば、(ソ連時代の昇進差別に恨みをもつ)大量の大佐を基礎にして立派な将校団ができる」という笑い話が聞かれたほどである。
  80. 前掲書 Shnirelman, Who Gets the Past..., pp.8-12.
  81. 私は、革命前右岸ウクライナのポーランド人貴族のケーススタディを通じて、帝国民族について考察した。「19世紀から20世紀初頭にかけての右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター」『スラヴ研究』No.46、 1998年、101-138頁。
  82. もちろん、これはタタール側の認識であって、中央アジアのエリートがこうした認識に同意するわけではなかろう。タタール・ヘゲモニーが中央アジアでどの程度の効果があったかも本稿からは独立した課題である。本節が課題としているのは、タタール人の主観的な歴史認識がタタルスタン共和国指導部の政治戦術にどのように影響したかを明らかにすることである。
  83. ソ連共産党タタルスタン州党委員会プロパガンダ・アジテーション部の機関誌『アジテーターの言葉』(Slovo agitatora)は、「タタール社会センター」の創立テーゼを直ちに掲載した。前掲 N.Mukhariamov, "Khronika" 参照。
  84. Vecherniaia Kazan', 12 April 1990, p.1.
  85. 主権宣言は、「タタール自治ソヴェト社会主義共和国(TASSR)」の正式名称から「自治(A)」の一言を削ることも宣言したが、これは「連邦構成共和国への昇格」を意味してはいなかった。むしろ宣言の文章から、タタルスタン共和国がロシア共和国の構成要素であり続けることを否定していないことは明らかであった。下斗米が、(おそらく「自治(A)」の文言が削られたことをもって)タタルスタンが「連邦内共和国となった」と述べているのは、連邦構成共和国との混同を生みやすく、誤解を招く。下斗米、前掲論文、200頁。
  86. 下斗米は、「連邦内共和国」(?)への昇格「にとどまらず主権を要求するタタールでは90年8月30日、国家主権宣言がなされた」と述べる(下斗米、前掲論文、200頁)。これは、タタルスタン民族主義の視点からは、曖昧模糊たる主権宣言が「連邦構成共和国への昇格」というそれまでの明確なスローガンからの一歩後退であったという歴史的事実を逆さまに描くものである。現に、主権宣言後も「連邦構成共和国への昇格」というよりラジカルなスローガンに固執するタタール民族運動は、1991年3月の国民投票でも、ソ連の維持を支持して運動したのである。ただし、下斗米が、上記引用と同じ段落の最後で「シャイミエフの主張する主権論は、あくまでロシア・ソビエト連邦の枠内での主張であった」と述べているのは正当である。
  87. タタルスタンは、「ロシア(ソ連)との自発的合同」の論拠となるような事件(王侯がツァーリの保護を求めた、地元の権力がモスクワに代表団を派遣した、住民投票で合同が支持された等)を持たない民族である。イワン雷帝によるカザン攻略は明らかに軍事的併合だったし、ロシア革命後もモスクワの一方的な宣言により、この地域のロシア共和国への帰属は決定された。したがってタターリヤには、「ロシアとの自発的合同...周年記念」というフェスティバルが存在しなかった(Moukhariamov, "The Tatarstan Model," p.214)。逆説的なことだが、まさにこの共和国が、沿バルト諸国に典型的に見られたような「自発的合同」の欺瞞性を暴露することによって独立をめざすのとは正反対の戦略を採ったのである。ロシアとの関係を曖昧なままにしておくという方針は、一見華々しい意思表示、つまり1990年の主権宣言、1992年3月の国民投票、1994年2月の権限分割条約に一貫している。こんにちでは、ロシア・タタルスタン関係が連邦的なものであるか国家連合的なものであるかをはっきりさせないという路線に、それはあらわれているように思われる。タタルスタン憲法と権限分割条約に採用された定式は、(タタルスタンはロシアと自発的に)「連合する(associate, assotsiirovat')」であるが、その法律上の意義は、タタルスタン当局自身が認めるように「無」である。ただし、"associate" という定式そのものは、アメリカ合衆国とプエルトリコとの間で前例があるようである(前掲 Mukhariamov, "Khronika" 参照)。なお、筆者が大統領顧問ハキモフに、「あなた方は武器輸出をモスクワを経ずにやっているのだから、これが国家連合でなくて何だ」と尋ねると、「我々は、国際社会がロシアに割り当てたクォータの枠内で輸出している。モスクワの商売があまりにも下手なので、彼らが撤退した市場を欧米に渡さないために、我々が、その間隙を埋めているだけだ」という回答であった。
  88. 下斗米は、前掲論文の中で、支配エリートが組織した「主権」を問う住民投票と急進民族主義者が組織したクリルタイとを並記して、いずれもタタルスタンの分離主義的傾向を表す例であるかのように扱っている(204頁)。しかし、実際には、住民投票は支配エリートの二正面作戦の一環として、つまり、急進民族主義を押さえ込むことをも目的として組織されたものであった。
  89. ちなみに、常設組織となった世界タタール・コングレスは、1998年に建物を獲得した。それは、カザン市の中心、共和国政府庁舎の斜め向かいにある、床は総大理石張り、全世界のタタール人組織とインターネットで結ばれた文字通りの小宮殿である。言い換えれば、コングレスは、みずからが官製民族団体であることを隠そうともしないのである。
  90. 初期エリツィン政権においてタタルスタンとの交渉に当たったのはブルブリスであった。彼は最初は強面であったが、タタルスタンが求めているのは、連邦の解体ではなく要するに非対称的連邦なのだということがわかってからは態度を軟化させたそうである(前出のハキモフからの聞き取り)。
  91. 我々は、タタルスタンをリャザン州の地位に低めることを是認するものではなく、リャザン州をタタルスタンの地位に高めることを要求するのである、などと「強い共和国」の指導者はよく述べるが、これはもちろん綺麗事である。89構成主体が全てタタルスタン並みの特権を得たら、ロシア連邦が解体してしまうことを、彼らはよくわかっている。
  92. 前出のハキモフからの聞き取り。
  93. Moukhariamov, "The Tatarstan Model," p.221.
  94. なお、代議員の民族構成の点では、74%がタタール人、24%がロシア人である。見ての通り、タタール人が過大代表されており、これ自体問題である。
  95. インタビュー、1999年1月5日、カザン市。もちろん、大統領府の幹部職員がこのようなことをペラペラ喋るところが、タタルスタンの民主化ポテンシャルの大きさを示している。

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