エスノ・ボナパルティズムから
集権的カシキスモへ
―タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998―

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3. 集権的カシキスモ:1994-1999

3-1. 首長任命制をめぐるディスコース

 既述の通り、タタルスタンにおける市長・郡長任命制の動機は、エリートの団結に支えられた集票マシーンの一体性を保持することであり、特に、2001年大統領選挙におけるミンチメル・シャイミエフの勝利を確保することである。行政機構が現職候補のための集票マシーンと化す現在のロシアの選挙「慣行」の下では、市長・郡長の任命制こそが現職大統領の勝利の最大の保障なのである。現に、1996年共和国大統領選挙における唯一の候補であったシャイミエフは、彼が信任された場合の任期の終わり(2001年)までに市・郡の自治体化、市長・郡長公選制の導入を検討することを公約していた(43)。ところが、シャイミエフ大統領の2期目の開始後、明らかに彼の3選を目指して、1992年タタルスタン共和国憲法にあった大統領3選禁止条項を国家会議が削除した(44)のと併せて、市長・郡長公選化の検討という公約も棚上げされてしまったのである。考えてみれば、1995-96年にエリツィンが知事・市長・郡長公選化にあっさり同意したのは、(健康問題から)いずれにせよ彼には3期目はないということを本人も取り巻きも自覚していたからである。もしエリツィンが2000年のロシア大統領選挙に少しでも関心を持っていたら、ロシア連邦における首長公選化はあれほど容易には達成されなかっただろう。エリツィンとは違って、シャイミエフは年齢のわりには強健であり、2001年の選挙に野心満々なのである(45)

 もちろん、公式には、2001年大統領選挙が首長任命制の存続理由としてあげられているわけではない。シャイミエフ政権が首長任命制を正当化する第一の論拠は、既述の通り、首長が共和国および地方代議員選挙への立候補を義務づけられていることである。タタルスタン指導部は、この条項をもって、タタルスタンの市長・郡長は、事実上、公選されていると主張するのである(46)。しかし、i)市長・郡長が市・郡代議員として当選したとしても、それは当該市・郡内の一選挙区における信任にすぎず、市民・郡民全体が意思表示をできるわけではない、ii)代議員としての信任と、首長としての信任とでは性格が異なるという2点からだけでも、こうした主張が混乱したものであることは明らかである。概して、モスクワがタタルスタンに事実上の治外法権を認め(47)、また国際社会のタタルスタンへの監視が弱いために、国家建設や地方自治問題に対するタタルスタンの政治指導者のアーギュメントは稚拙、ときとして幼稚でさえある。これは、1996年から1998年にかけて、市・郡の国家化をめぐって、欧州連合、ロシア大統領府、ロシア連邦憲法裁判所などに袋叩きにあったウドムルチヤ共和国の政治指導者が、国家建設・地方自治問題について、ただならぬ理論的深まりを披露するのとは好対照である。

 タタルスタンの政治指導者が首長任命制を正当化する第二の論拠は、行政管理上の妥当性である。たとえば、カザン市ソヴェト副議長であるリュドミラ・アンドレーエワ(タタルスタンでは行政府長官がソヴェト議長を兼任する「極端に強い首長」制が採用されているので、「副議長」は、実際には代議員団のリーダーである)は、そもそも市・郡レベルの権力形成に選挙原則を適用した1995年連邦地方自治一般原則法のシステムそのものが、統治効率を低下させ、市・郡のボス支配を蔓延させた点で誤りであり、しかもこれが誤りであったことが、たとえばボリス・ネムツォフのような著名な政治家も含め、ロシア全国で承認されつつある。逆に、「選挙を住民に近づける」原則を採用したタタルスタン・モデルが模範となりつつあるのである(48)。また、タタルスタン共和国国家会議アパラート・地方ソヴェトとの連絡部長であるリュドミラ・リヴォワは、「他のリージョンとは違って、タタルスタンでは、犯罪者が市長に当選した例はない。この事実からだけでもタタルスタンの制度は正当化される」と述べた(49)。さらに、ウラジオストク市政をめぐるスキャンダルが、タタルスタン・モデルを正当化する論拠として、しばしば言及されている。

 以上のような首長任命制擁護論は、「民主主義とは選挙民が過ちをおかす権利である」という一般原則がわかっていない点をひとまず措くにしても、地方自治を専ら住民自治(住民の行政への活発な参加)の視点から捉え、団体自治(国家=上位権力に対するカウンターバランスとしての自治)の発想がない点で旧体制的・伝統的なものであると言える。実は、この傾向(基層自治またはコミュニティ自治を「奨励」して広域自治を抑圧すること、その理論的な背景として住民自治を理想化し、団体自治を排除すること)は、ウズベキスタンからポーランドに至るまでの脱共産主義空間における単一主権主義者に共通するものである(50)

 そもそも、タタルスタンで首長公選制が導入されたとしても、沿海地方のような状況が起こることはあり得ないのであり、しかもタタルスタンの政治指導者はそれをよくわかっている。私がこれまで繰り返し論じてきたように、リージョン指導部とリージョン首都指導部の極端な対立が起こるのは、1.リージョン首都がリージョンに占める人口的・財政的比重が極端に高い場合、かつ2.旧体制下エリートの「第一階梯」が民主革命期に根絶された場合に限られている。タタルスタンはその両方の要件を欠いている。ただし、沿海地方の状況がしばしば言及されるのは、タタルスタンの政治指導者がエリート内部の分裂を、強迫観念に駆られるかのように恐れていることを示しているのであり、その点では興味深い。

 なお、アンドレーエワのような、百万都市(カザン市)の市議会のリーダーが、自分の市が自治体の地位を欠いていることを擁護しているのは奇妙に感じられるかもしれないが、主要産業である軍事産業の不況に喘ぐカザン市は、共和国財政から手厚い援助を受けざるをえない状況にあり、共和国には逆えない力関係にあるのである。対照的に、石油産出地帯の中心都市である南東部のアリメチエフスク市の指導部は、市が自治体の地位を有していないことに不満であり、市の自治体化を隠然と要求している(51)。この点では、カマ自動車工場がある共和国北東部のナベレジュヌィエ・チェルヌィ市の前市長ラフガト・アルトゥンバエフも同様であった(後出)(52)。カマ自動車工場の経営そのものは、こんにち破局的な状況にあるが、1970年初頭に全連邦から知性の精華を結集して工場が建設され、またその後、運営されたことの権威の余韻が残っており(53)、またアルトゥンバエフの個性も相まって、ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市は、カザン市とは異なって、共和国指導部に対する一定のオートノミーを享受してきたのである。

 このように、アリメチエフスク、ナベレジュヌィエ・チェルヌィが共和国において例外的な有力市だからといって、首長公選の要求において、これら有力市の指導者が、その他の市・郡指導者から浮いているというわけではない。市・郡レベルの指導者層に行われたアンケート調査によれば、彼らの「9割方」が市長・郡長公選制を望ましいと考えているそうである(54)。このような見解の典型を、共和国北東部のエラブガ市・郡統合ソヴェト副議長(繰り返すが、「副議長」は代議員団のリーダーを指している)イーゴリ・ジューコフの次の言明に見ることができる。1990年代の前半、我々は、「市場経済への軟着陸」路線を散々自慢した。ところが「市場経済への軟着陸」路線のおかげで、こんにちのタタルスタン経済は他のリージョン経済より多くの問題を抱えている。「市・郡=国家機関」路線も同じで、自慢していられるのは今だけだ。このシステムの下では、合理的な行政を行っても、それによって節約された財政黒字分が共和国に吸い上げられてしまうので、「よりよく統治しようとする刺激」がないのだ。だから、社会主義経済が行き詰まったのと全く同じ理由で、このシステムも行き詰まるだろう(55)

 共和国レベルの指導者の中でも、たとえば大統領顧問のラファエリ・ハキモフは、首長公選制を導入した方が首長に対する統制はむしろ容易になると述べている(56)。しかし、こうした開明的な見解は、共和国レベルの指導者の中では例外的である。

 私は別稿において、ロシアのロシア人州において地方ボスがリスク(自分の落選の可能性)をも恐れず首長公選制を要求し、逆にウクライナやロシアの民族共和国において首長任命制が定着してしまったことを指して、「ロシアのロシア人州のエリートの行動様式は利益追求的、ウクライナ、タタルスタン、バシコルトスタンのエリートのそれは危険回避的」と論じたが(57)、もし上述のアンケート結果が事実であるとするならば、この説を次のように修正せねばなるまい。ウクライナの首長任命制は、上位エリートと下位エリートの共通の利害関心によって維持されている。任命制下で、上位エリートは下位エリートの自立化を阻みながら下位エリートの集票能力を試すことができ、下位エリートは、みずからが政治的危機に陥った際に上位エリートの保護を当てにすることができるのである。対照的に、タタルスタンの市・郡エリートは、ロシア人州の市・郡エリートと同様に、危機回避的な発想法があまりない(少なくとも、国家機構内に居場所を確保することによって身を守るという発想はない)。その結果、市・郡エリートは、選挙制に付随する自立性により大きな関心を抱くことになるのである。つまりタタルスタンでは、首長任命制は、主に共和国エリートの強請によって維持されており、市・郡の指導者は、それを不承不承受け容れている関係にある。もうひとつ注意しなければならないことは、市長・郡長がシャイミエフの任命下に置かれていると言っても、彼らの代議機関への義務的立候補制の結果、彼らは当該地方議会議長と共和国議会(国家会議)議員を兼任することになる。この地位は、公選されてはいるが当該地方議会議長は兼ねず、リージョン議会の議員でもないような市長・郡長(ロシア人州の市長・郡長のかなりの部分がこれにあたる)と比べてさほど劣るものではない。さらには、シャイミエフと市長・郡長の間に紛争が起こったとき、共和国議会内に強力なオポジションが自動的に形成されることになる。これが現実化したのが、3-3に述べるアルトゥンバエフの反乱であった。

3-2. モスクワとの交渉材料としての集票能力

 2-5で述べたように、タタルスタンにおいては、旧体制下のウルトラ動員型集票マシーンが、現在のそれに連続的に進化した。より重要なことは、シャイミエフ政権が、この卓越した集票能力をモスクワとの交渉材料とする志向を、すでに1993年より持っていたことである。既述の通り、カシキスモの要件は、たんに地方ボスが動員型の選挙を展開することだけではなく、上位ボスと下位ボスの間に集票能力を取引材料とする政治的交換関係が成立することも含むからである。
 1991年3月のロシア大統領職の導入の是非を問うロシア共和国の国民投票は、タタルスタンでは実施されなかった。「革新されたソ連の維持」の是非を問うソ連国民投票のみが行われ、ソ連維持への高い支持が示された(ロシア平均71.3%に対して、87.5%)。その6月のロシア大統領選挙に対しても、共和国指導部が怠業方針をとったため、投票率はロシア共和国平均が76.7%であるのに対して、タタルスタンでは36.6%であった。同日に行われたタタルスタン共和国大統領選挙のみが成立し、唯一の候補シャイミエフが71%の得票で信任された。

 1992年、共和国内政とロシア・タタール間関係が緊張する中で行われたタタルスタンの「主権」、「国際法上の主体」性をめぐる住民投票(後出)には、有権者の82%が参加し、うち61%が上記を支持した。ロシア最高会議、ロシア憲法裁判所、また中央マスコミが常軌を逸した反シャイミエフ・キャンペーンを展開していた中での結果としては、これは驚くべきものである。この結果を受けて、タタルスタンは連邦条約に参加しなかった。

 1993年に入ると、タタルスタンは憲法協議会に参加する一方、連邦権力との権限分割のためのバイラテラルな交渉にも本腰を入れた。ここで、タタルスタン指導部は、自らの卓越した集票能力をモスクワとの交渉材料とするようになった。エリツィンとロシア最高会議の間の力関係を決する4月国民投票(信任投票)までに権限分割条約が締結されなければ、タタルスタンにおける投票結果は保障しないぞ(58)とエリツィンに圧力をかけたのである。結局、国民投票までにロシアとタタルスタンとの間に権限分割条約は結ばれなかったから、タタルスタン指導部は再び怠業方針をとり、全国投票率が64.1%なのに対し、タタルスタンにおけるそれはわずか22.6%であった(59)

 このように効果的なボイコット方針は、十月事件後、1993年12月の憲法批准国民投票、連邦議会選挙でも繰り返され、タタルスタンでの投票率は何と13.4%であった。再びシャイミエフ派がこの結果をモスクワから譲歩を引き出すための呼水としたことは当然だが、このたびはモスクワの反応が春とは違った。議会砲撃後、とくに連邦議会選挙敗北後の政治危機に苦しむ大統領府には、タタルスタンのような有力リージョンに対して尊大な態度をとる余力はもはや残されていなかったのである。こうして、1993年12月の(最後の)ボイコット戦術のわずか2ヶ月後には、ロシアとタタルスタンの間で権限分割条約が結ばれた。これをうけてタタルスタン指導部は連邦議会に共和国の代表を派遣する方針に転じ、1994年3月に行われた連邦議会の再選挙は、58.5%の投票率で成立したのである。興味深いことに、郡ごとの投票率の動態には、前年12月の選挙とこの3月の選挙との間で反比例的な関係が見られた。つまり、12月において「ほとんど一握りの人」しか投票しなかったアクタヌィシュスキー郡、アトニンスキー郡などにおいて、3月には投票率が90%を越えた(60)。この事態は、タタルスタンの農村部では有権者が主体的な市民ではなく、地方ボスの命ずるままに投票する(あるいは棄権する)羊のような存在であることを示している。

 1993年時点で、タタルスタン指導部が自らの投票操作能力をモスクワとの交渉材料とし、ついに1994年には、このルールにモスクワを同意させたのは先駆的なことであった。たとえば1995年8月にスヴェルドロフスク州知事に返り咲いたロッセリが、知事選で勝ったという事実を振りかざしてエリツィンから歴史的譲歩を引き出し、連邦権力と権限分割条約を締結し、またその対価としてロシア大統領選挙におけるエリツィン支持を約束したのは1996年1月のことである。このように、リージョン指導者が競争選挙において票を動員する能力をもって自分の「強さ」を証明する、連邦権力の側はそれに応じて当該リージョン指導部の処遇(たとえば、州知事選で現職を推すかどうか、推すとすれば、どの程度真剣に応援するか)を決めるというゲームのルールは、ロシア全体としては1996年大統領選挙前後に確立されたのである。このルールが1994年に確立されたモスクワ-タタルスタン関係がいかに「先進的」であったか明らかであろう。

 1996年3月24日に行われたタタルスタン共和国大統領選挙は、シャイミエフ体制の、政治的にも組織的にも完成された形態を示した。1991年、シャイミエフはエリツィンと同日(6月12日)に共和国大統領に選ばれていたから、これは約3ヶ月の任期を残しての改選であった。わざわざ繰り上げ選挙を行ったのは、当時エリツィンの敗色が濃厚であったロシア大統領選の結果がタタルスタンに波及することを未然に防ぐためであった(同様の繰り上げ選挙の試みを、成就はしなかったがサマーラ州知事チトフも行っている)。

 この1996年タタルスタン大統領選挙では、まず候補者登録の段階で、悪名高き「7%条項」が威力を発揮した。概して、タタルスタンにおいて大統領候補者として登録されることは、登録のための署名集めに許される期間が極端に短いため、ロシア人州で県知事候補として登録されることよりもずっと困難であるが、いわばだめ押しとして、ひとつの郡、市、市区に総署名数の7%以上が偏在してはならないとされたのである(選挙法32条)。つまり、立候補を望む者は最低5万人の立候補支持署名を集めなければならないが、その際、人口1万9千人のヴェルフニェウスロンスキー郡でも、人口28万人のカザン市レーニンスキー市区でも同様に、支持署名数が3500人を越えてはならないのである ! この条件を満たしつつ5万人の署名を集めることができるのは、共和国の全ての行政単位に網の目のように支持母体を持っている者、つまり現職大統領以外にあり得ないだろう。現に、シャイミエフ以外の立候補予定者はこの条件下で5万人の支持署名を集めることができず、シャイミエフは、1991年大統領選挙に続いて、2度目の信任投票(非競争選挙)を経験することになったのである(61)

 大統領側にはそれなりの言い分もある。大統領顧問ハキモフの説明では、大統領側は決して無風選挙を望んでいなかった。特にロシア共産党組織は、その気になれば7%条項を満たして候補を立てる力を持っていた。しかし彼らは、候補を立ててもシャイミエフに惨敗することがわかっており、ロシア大統領選挙を前にズュガーノフ候補の勢いを殺ぐような結果を出したくなかったので、タタルスタン大統領選挙から意図的に手を抜いたのだ、とハキモフは述べるのである(62)

 残念ながら、事実の面でハキモフの言い分をそのまま信じるわけにはいかない。シャイミエフでさえ13万5千人しか署名を集めることができなかった(63)厳しい条件の下で、決して強力とは言えないタタルスタンの共産党組織が5万人の署名を集めることができたとは考えられないからである。しかし、ハキモフの説明が明示していることは、大統領側にとって無風選挙=信任投票は自己目的ではないということである。彼らにとって一番望ましいのは、ロシア共産党の候補か、あるいはヤブロコのような抽象的民主主義者が立ち、予想される通りに惨敗してくれることなのである。他方、たとえばカザン、アリメチエフスク、ナベレジュヌィエ・チェルヌィのような有力市の市長、あるいは石油ロビーの指導者のような、タタルスタンのエリートを分裂させかねない有力候補は、立候補してもらっては困るのである。いまのところは文明的(政治的)方法によってエリート内対抗馬を封じ込めることにシャイミエフは成功しているが、万一、エリート内対抗馬が立候補しそうになったらどうするか。バシコルトスタン、モルドヴィヤにおける1998年首長選挙の悪しき先例に倣って、選挙管理委員会が難癖をつけ、個人的なスキャンダルを一斉に攻撃して、立候補そのものを阻止してしまう可能性は、残念ながら否定できない。ここにおいては、強力な対抗馬がたとえ立ったとしても本命シャイミエフを脅かすには至らないだろうという見通しは何の慰めにもならない。「強い共和国」の集権的カシキスモはエリートの内部分裂を極端に嫌うので、ロシア人州であれば(というよりもノーマルな民主体制であれば)理想的な勝ち方である6:4あるいは7:3の勝利に耐えることができないのである。

 こうして、1996年3月のタタルスタン大統領選挙はシャイミエフへの信任投票となり、投票率77.9%、支持率97.1%(!)という、投票率が若干低いことを除けば、ほぼ共産主義時代並みの選挙結果に終わった。

 タタルスタンの屈強な選挙マシーンは、タタルスタン大統領選挙の3ヶ月後に行われたロシア大統領選挙でも活躍した。タタルスタンは、ダゲスタン共和国や隣のモルドヴィヤ共和国にはやや「劣る」とはいえ、大統領選挙の第1回投票における票の出方と決選投票におけるそれとの間の相関関係が極端に不自然だった栄誉ある民族共和国に名を連ねている。第1回投票においては、自分が圧勝した選挙の余韻が醒めやらなかったのであろう、シャイミエフは明らかに油断した。共和国の父である自分がエリツィン支持表明を出せば、従順な子供たち、タターリヤの選挙民はエリツィンに投票するだろうと思っていたのである。ところが、タタルスタンにおける第1回投票の結果は、エリツィンとズュガーノフの間で文字通り真二つに割れた(64)。特にシャイミエフを震撼させたのは、ロシア人地域ではなくタタール人農村でズュガーノフが大得票したことであった。たとえばサハ共和国では、これとは逆の、より自然な傾向性(ロシア人郡・市はズュガーノフを支持し、ヤクート人郡はエリツィンを支持する)が見られたのだから(65)、シャイミエフが面子を潰されたと感じたのも無理はない。彼は共和国の市長・郡長をカザンに緊急召集し、「有権者はエリツィンに反対投票したのではない。あなた方に反対投票したのだ。あなた方が仕事もせずに、コテッジ建設やジープの購入に奔走しているから、有権者は共産党を支持するようになるのだ」と諭した。これはもちろん、決選投票でもこんな体たらくが繰り返されるようならお前を首にするぞ、という警告である。こうした諭しが効を奏して、タタルスタンにおける決選投票では、エリツィンがズュガーノフのほぼ倍の票を得た(66)。言うまでもなく、このようなファンタスティックな投票行動の変易性は、通常の政治学の方程式では説明不能である。

 ここで強調しておかなければならないのは、タタルスタンがロシア連邦において特権的な地位を享受できるのは、1994年に締結された権限分割諸条約の一発永続の効果によるものではなく、決定的な局面では、シャイミエフはエリツィンへの忠誠を死に物狂いで尽くすからであるということである(67)。まさにこれゆえに、シャイミエフは、1994年から1996年にかけてのロシアにおけるカシキスモ建設、つまり、連邦、リージョン、サブリージョン3層のボスが、集票能力を軸として政治秩序を形成する過程を先導することができたのである。

3-3. アルトゥンバエフの反乱

 既述の通り、カシキスモの属性の一つは、上位エリートと下位エリートとの関係が官僚制的な上意下達関係ではなく、両エリート層の利害の一致に基づいた連合的な関係であることである。それを示したのが、1998年5月のアルトゥンバエフの反乱であった。これは、1995年の国家会議選挙と1996年の大統領選挙以来、揺らぐことのないと考えられていたシャイミエフ体制にとって深刻な試練であった。

 1998年春、共和国国家会議議長であったワシーリー・リハチョフ(68)が欧州連合におけるロシア連邦代表としてブリュッセルに派遣されることになったので、新しい議長を選ぶ必要が生まれた。それまでは、大統領シャイミエフ(タタール人)、国家会議議長リハチョフ(ロシア人)、首相ファリド・ムハメトシン(タタール人)(69)という形で民族間バランスが図られていたが、リハチョフの辞任後は、民族間バランスなど吹き飛ばしてしまうような深刻な状況がシャイミエフの幹部政策によって引き起こされた。シャイミエフは、自分の寵児である、当時の財務大臣ルスタム・ミンニハノフ(1957年生、タタール人)(70)を首相に据えるため、1992年から95年まで国家会議議長を務めていたムハメトシン首相を再びその職に戻そうとしたのである。このこと自体、シャイミエフの寵臣の間での官職のたらい回しであり、見苦しいことだが、これは国家会議の中核を占める市長・郡長たちには絶対に受け容れられない人事だった。というのは、財務大臣としてのミンニハノフは、共和国財政制度の集権的な改革を推進し、市・郡エリートの利益を著しく脅かしていたからである。

 これへの対抗として、市長・郡長の中から、「同輩中の第一人者」、ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市長を10年近く務めてきたラフガト・アルトゥンバエフ(71)を議長候補として推そうという動きが出てきた(72)。票読みは極秘の内に進み、シャイミエフが事態を知ったのは、文字通り国家会議の会期前夜のことだった。仰天したシャイミエフは、KGB(タタルスタンではこの名称が残っている)指導者、カザン市選出代議員をコントロールするカザン市長、さらにムハメトシン首相を官邸に招集し、対策を練った。翌朝、国家会議の開会直前、シャイミエフはアルトゥンバエフと個人的に会い、後者に首相職を提起した。アルトゥンバエフは、自分を応援してくれている首長=代議員への信義を優先して、これを蹴った。本会議において、アルトゥンバエフ議長候補は、公約として、共和国内閣法を採択し、カードル人事への国家会議の統制力を高めること、地方自治体の役割を高めること(ここでいう地方自治は、タタルスタン特有のコミュニティ自治ではなく、本来の意味での地方自治である)等を掲げた。つまり、アルトゥンバエフは、市・郡エリートの地位をさらに固める政策を掲げたのである。投票結果は、ムハメトシン77票、アルトゥンバエフ50票で、ムハメトシンの勝利に終わった。シャイミエフが望んだように、ミンニハノフは首相に無事就任した(73)

 この事態にタタルスタンの野党系ジャーナリズムは沸き返った。『夕刊カザン』は、「『タタルスタン共和国大統領選挙』という名の、きたるべきスペクタクルの最初のベルが鳴ったと考えてよい。2001年には、シャイミエフの前には強力な対抗馬が立ちはだかるだろう」(74)と興奮気味に書いた。
 しかし、その後の展開は、こうした期待を裏切るものだった。まず、首相となったミンニハノフは、市・郡エリートに対するそれまでの粗暴な態度を改め、彼らの不安を解消していった。ミンニハノフはガイダールではなかった。彼は、自分自身がそこから育ってきたミリューと一時的に対立したにすぎなかったのだ。彼は、年は例外的に若いとはいえ、カザン農業大学卒業、郡ソヴェト執行委員会議長、やがて郡行政府長官という、典型的なタタルスタン・エリートの道を歩んできた人物なのである。

 他方、アルトゥンバエフ支持者は、真綿で首を絞められるように孤立させられた。アルトゥンバエフ自身は、この問題で「直接の圧力を受けたことはなかった」(本人の弁)らしいが、そもそも彼は、1990年以来、ナベレジュヌィエ・チェルヌィ市長(75)の地位にあり、タタルスタンで働き続ける限りにおいては出世の限界にあった。カマ自動車工場の破局的状況のため、毎日毎日が同じことの繰り返し(税収不足、公務員への給料不払い、ストライキ対策)であり、市長として消耗していた。カマ自動車工場の株は欧州復興開発銀行とタタルスタン共和国政府によって保有されており、市は企業経営に口を挟むことができないのである(76)

 アルトゥンバエフがシャイミエフの不興を買ったことを知って、モスクワからいくつかの職の提起があったが、それでも彼は1年近くチェルヌィ市長として踏みとどまった。これはたんに地元に愛着があったからだけではなく、 連邦の内閣が数カ月おきに更迭される状況では中央省庁では働く気がおきなかったためでもあった。結局、1999年春、最初はロシア下院に立候補する意図で市長を辞任し(77)、結果的には、自分の庇護者であったロシア政府第一副首相(当時)アクショーネンコのオファーを受けて、農業大臣次官として、6月にはモスクワに移った。

 アルトゥンバエフが農業次官として働き始めた直後に、私は彼と面談した。アルトゥンバエフは、シャイミエフについては、自分にないもの、たとえば彼の叡知(mudrost')を学びたいという感情を抱きこそすれ、自分を彼に対するオポジションであると自覚したことは一度もないと言った。ただ、シャイミエフの取り巻きのうち幾人かが気に入らないだけであり、「一緒にやろう」というときの「一緒に」のコンセプトが違うだけである。次の言葉は、アルトゥンバエフのみならず現在のタタルスタンの政治哲学を代弁しているように感じられる。「オールタナティヴがないのは悪いことだ。しかしオールタナティヴが自己目的化する(al'ternativa radi al'ternativnosti)のもよくない」。アルトゥンバエフによれば、タタルスタン経済は、他のリージョン経済と比べて悪くない。また、民族間の融和を達成していることも大きな成果である。

 皮肉なことに、アルトゥンバエフは、国家会議が憲法の大統領3選禁止規定を削除した際の主導者の一人であった。様々な不愉快事を経験したこんにちでも、それは正しかったと考えている。シャイミエフは3期つとめるべきだ、自分は2001年の大統領選には出ない、と彼は断言した(78)。以上のような言葉をどこまで信じてよいかは疑問の余地があろう。しかし、シャイミエフについて語る彼の口振りは、まるで息子が父について語るかのようであった。

 アルトゥンバエフの反乱をめぐる顛末は、タタルスタンの政治体制がカシキスモの属性を備えていることを如実に示している。首長任命制にもかかわらず、またシャイミエフの圧倒的な権威にもかかわらず、共和国指導部と市・郡エリートとの関係は、官僚制的な上意下達関係ではなく、あくまで利害の一致を前提とした連合的関係なのである。この利害の一致が脅かされるとき、反乱は起こりうる。逆に、利害の一致が保障されるとき、危機は急速に収束し、エリートの一体性が回復されるのである。

4. エスノ・ボナパルティズムの展開:1990-1995

4-1.「連邦構成共和国への昇格」

 次に、シャイミエフ体制の形成過程を検討しよう。この体制は、1990年以前のエリートが生き残って比類ない結束力を見せていること、その反面、野党に影響力がほとんどないことによって条件付けられている。シャイミエフの対モスクワ政策と国内政策(民族間政策)の相互作用が、このような国内状況を生んだのである。

 なぜ旧体制エリートの延命がタタルスタンでは比較的容易であったか。やや逆説的なことであるが、本稿2-6で触れた問題、タタール民族がその「格」に相応した連邦構成共和国としての地位をソ連体制下で得られなかったことが第一にあげられる。

 歴史的民族(ロシアに併合される以前に国家を形成していた民族)としてのタタール人は、ロシア帝国・ソ連内で、おそらく東方民族としては唯一、「敬われるべき敵」としての栄誉ある地位を占めていたばかりではない(79)。タタール人は、私の用語では、ロシア人、ポーランド人と並んで、ロシア帝国内の3大「帝国民族」のひとつであった。「帝国民族」とは、住民が支配宗教、支配言語、支配文化を受容することによって作られてゆく民族である。つまり、ロシア人がそうであり、ポーランド人がかつてそうだったように、タタール人として生まれるのではなく、タタール人になるのである。もちろん、近年の民族学は、民族とは概して不断に創造されるもの、主に集団心理的な作用の産物であると教えている(80)が、帝国の実在または記憶は、この集団心理に決定的に影響するのである。ここでのポイントは、帝国民族は、(レーチ・ポスポリタやカザン・ハン国のような)帝国そのものが滅亡した後も数世紀にわたって帝国民族であり続けるということである(81)。まさにこの点で、タタール人は、バシキール人などの他のチュルク-イスラム系の民族とも区別されるのである。帝国民族は、その本性からして膨張的であり、周囲の住民を不断に同化してゆく。ここからタタール・ヘゲモニーの問題が起こる。タタール・ヘゲモニーの対象はヴォルガ中流域に限られず、歴史的には中央アジアを含むロシア帝国内イスラム圏の全域に及んでいた。ロシア帝国政府は、タタール人を警戒しつつも、中央アジアを「文明化」するために彼らを利用した。現在でも、タタール人インテリの多くは、「中央アジアの諸民族に識字と民族意識を教えてやったのは我々だ」、「タタール人女性と結婚することは、中央アジアのエリートにとってつい最近まで大変なステータス・シンボルだったのだ」などと公言するのである(82)

 タタール民族のこうした「格」にもかかわらず、外国境を持っていないが故に、タタルスタンは連邦構成共和国になれなかった。自治共和国という二流の地位は、ソ連下のタタール人にとっては最大級のトラウマであり、自分たちを連邦構成共和国と比較して自分たちの優位を誇るのが彼らの習慣となった。「沿バルト3国の工業力を全部あわせてもタターリヤにはかなわないのだ」、「カザン大学に勤務する博士の数は、中央アジア5共和国の博士の数を全部足したより多いのだ」といった類である。たしかに、ロシア帝国で最も伝統ある大学都市のひとつであり、ヴォルガ中流域と中央アジアを結ぶ商工業中心地であったカザンに代表される旧カザン県のステータスは、ソヴェト政権下での石油開発、軍事産業の育成、巨大自動車工場の誘致合戦に勝ったこと(カマ自動車工場建設)、農業部門の発展などによって、一層強化された。既述の通り、モスクワの側も、タターリヤの指導者と住民の不公正感を、部分的、物質的な特権を与えることによって癒そうとした。
 以上のような歴史的経過から、1988年にソ連において民族主義的な主張が寛容されるようになったときに最初に出てきたのが、「タターリヤの連邦構成共和国への昇格」という要求だったのは当然だった。そもそもこれはタターリヤ共産党組織の伝統的な要求だったから、運動がこれを追求する限り、その主導権を旧体制エリートが握るのは困難ではなかった。現に、タターリヤ最初の民族主義的団体「タタール社会センター(TOTs)」は、1988年秋、前出のハキモフをはじめとする州党委員会指導者の音頭で生まれたのである(83)。周知の通り、1990年6月まではロシア共和国共産党中央委員会が存在しなかったので、タターリヤ党組織は、誰に憚ることなく「連邦構成共和国への昇格」(つまり、ロシア共和国からの離脱)をソ連邦中央に要求することができた。

 こうして、タタール自治共和国の旧体制指導者は、1990年春のビッグバンをさほど困難なく乗り切った。4月11日に招集された新しい共和国最高会議は、ゴルバチョフの兼任方針に従って、州党第一書記シャイミエフを議長に選んだ。得票は、シャイミエフが151票(70.9%)、急進民族派の候補が38票(17.8%)、親モスクワ民主派の候補が7票(3.3%)であった(84)

 「連邦構成共和国への昇格」が争点である限りは党指導部が情勢を容易にコントロールできるという事情が変わったのは、エリツィンがロシア共和国最高会議議長となった1990年5月以降である。ロシアがエリツィン政権の支配下に入ったもとで「連邦構成共和国への昇格」を掲げることは、ゴルバチョフとエリツィンの闘争の文脈でゴルバチョフを支持することになる。これはタターリヤにおける親モスクワ民主派の許容するところではなかったので、彼らとタタール民族主義者の間の関係は極度に緊張した。1990年8月30日に共和国最高会議第2会期での激論の末に採択された「タタルスタン共和国の国家主権宣言」は、二つの要点からなる妥協の産物であった。第一は、タタール語とロシア語の国家語としての同権を宣言したことである。これは、民族主義者の顔を立てたものである。第二は、宣言が「連邦構成共和国への昇格」という伝統的な要求に触れず、その替わりに、「国家主権」なる、如何様にも解釈できる曖昧模糊たる概念を中心に据えたことである(85)。同じ時期に他の自治共和国で採択されていた主権宣言は、当該共和国の遠心的な傾向を反映したものだった。ところが、タタルスタンの場合は、主権宣言は、エリツィンに逆らいたくないという親モスクワ民主派の顔を立てるために、連邦構成共和国への昇格という伝統的な要求から一歩退いたものだったのである。おそらく代議員たちの耳には、ほんの2、3週間前に、エリツィンがわざわざカザンまでやってきて発した有名な言葉、「どうぞ持てるだけ主権を取りなさい」という言葉がまだ残響していただろう(86)

 主権宣言はその後のタタルスタン政治体制の安定的な発展の礎石を置いた。第一に、二国語主義がとられたことで共和国内のエスニック・コンフリクトは顕著に沈静化した。第二に、エリツィン=ロシアとの関係でも「白黒はっきりさせる(vyiasnitユ)」ことに執着することで矛が収められないような状態に陥ることを避けるという、シャイミエフ指導部の一貫した対モスクワ政策を確立した(87)。第三に、1990年春の最初の民主的な地方選挙から8月の主権宣言までの数ヶ月間に、旧体制指導層が、急進タタール民族主義者と親モスクワ民主派の間の非和解的な関係を利用するエスノ・ボナパルティズムに習熟した。その反面では、民族主義野党と親モスクワ民主派の双方が政治的無能力をを露呈した。この無能力は、ときが経つにつれますます一目瞭然となってゆくのである。

4-2. 危機と均衡回復のサイクル

 <図5>が示すように、1990年から1994年権限分割条約までのタタルスタンの政治過程は、「危機(Aフェイズ)→合意形成・危機回避(Bフェイズ)→八月クーデター、十月事件といった外的要因によって「合意」の前提が破壊される(Cフェイズ)」というサイクルを3回繰り返した。
 1990年春の民主選挙の結果生まれた危機(Aフェイズ)は、その8月の主権宣言で回避された(Bフェイズ)。ここで生まれた安定は、翌年6月のシャイミエフの無競争選挙による大統領就任によってさらに固められた。タタルスタンは、ゴルバチョフによる自治共和国の地位引き上げによるソ連邦再編の試みを支持した。しかし、この安定の前提は、8月クーデター未遂事件によって崩れた(Cフェイズ)。

 ソ連再編路線が破綻し、連邦構成共和国の独立志向が明確になると、タタルスタンでも、この機を逃さずに文字通りの独立を達成すべきだと主張する急進民族主義者が従来の民族主義運動から組織的に分化していった。1992年2月、急進民族主義者はクリルタイを招集し、ミリ・メジリス(議会)なるものを選出した(Aフェイズ)。ただし、その実態は、1988年から90年にかけての民族運動高揚の第一波に乗りそびれたマージナルなインテリの運動にすぎなかったようだが。

 1992年、タタルスタン指導部は、これら急進民族主義者と、ソ連崩壊後、単一主権主義的傾向を強めるエリツィン政権と同時に闘う二正面作戦を展開しなければならなかった。ロシア軍最高司令官B・エリツィンは、2個師団をタタルスタン領から引き上げ、タタルスタンに隣接するウリヤノフスク州やマリ・エル共和国で軍事演習を繰り返した。ロシア最高会議議長ハズブラートフは、ロシア軍がタタルスタンを占領し、エカテリーナ2世がプガチョフに対してそうしたように、シャイミエフを獣檻に入れてモスクワまで引きずり出すだろうと吹いた。これらの挑発に対し、タタルスタンでは、1992年3月21日、再び、曖昧模糊たる「主権」や「国際法上の主体」の是非を問う住民投票が行われた(前述)。ただし、シャイミエフは、これは文字通りの独立を意味するわけではないと明言し、急進民族主義者と一線を画しつつ、不安を強める有権者を慰撫した(88)。この住民投票の結果を受け、タタルスタンは、チェチェンと並んで、連邦条約への参加を拒否したのである。

 1992年6月には、シャイミエフ派の官製民族運動は、世界タタール・コングレスを招集した。これは、タタルスタン・リージョナリズムとは別の(純粋にエスニシティの運動としての)タタール民族主義運動の主導権を急進民族主義者から奪還するためだった(89)。1992年11月には、1年半の大統領制の経験をふまえた共和国憲法が採択された。この憲法はロシア連邦との関係を「連合(association)」と規定し、共和国の国制としては大統領制と議会主権制の折衷形態を採用した。ロシアの大半のリージョン、また民族共和国の中でもバシコルトスタンなどが純粋大統領制を採用する中で、議会が相対的に大きな権力を持つシステムを採用したことは、タタルスタン政治体制の寡頭制的な性格を反映している。いすれにせよ、1992年の終わりには、タタルスタン指導部の二正面作戦は成功し、タタルスタン政局は再びBフェイズに入った。この相対的な安定は、1993年にタタルスタンがロシアに対して強い態度をとることを可能にした。ロシア側がタタルスタンが要求するような水準の権限分割に同意しないことを理由にして、タタルスタンは1993年春の国民投票をサボタージュし、憲法協議会の代表も引き上げた。十月事件と(民族共和国とのそれまでの約束をほぼ完全に反故にした)エリツィン憲法草案発表の結果、タタルスタン政治は再びAフェイズに入った。タタール急進民族主義運動は息を吹き返し、議会との武力紛争を利用して火事場泥棒を働くモスクワからの完全独立を要求した。この危機をシャイミエフ派が動員選挙と現実主義的対モスクワ外交とを結合することによって収束したことは、本稿3-2 に見たとおりである。

 しかし、派手なプロテストの背後では、モスクワとカザンの間のバイラテラルな交渉は、1992年春の「主権」住民投票の前後(90)、また十月事件直後のような極度に危機的な時期も含め、途切れなかった。非対称的連邦制を本音の所では是とするタタルスタン指導部(91)は、連邦条約交渉や憲法協議会のようなマルチラテラルな場は宣言外交の場、実利を追求するのは二極間交渉、と割り切っていたのかもしれない。ロシア、タタルスタン両政府の12の省庁の代表間で12の交渉委員会が組織された(92)。仮に、それぞれの委員会で10人ずつの高官が働いたとすると、120人の両政府高官がコンスタントに交渉の場にあったのである。これでは、チェチェン型の情勢の展開は不可能である。まさに、「憲法問題をめぐる激烈な修辞と法的なマヌーバーは、利益と権限の領域におけるカザンとモスクワの支配エリートの間の相互的合意に基づくインテンシブな活動を覆う煙幕にすぎなかった」(93)のである。

 総じて、1990年から94年までの最も危機的な時期をシャイミエフ政権が凌ぐことができたのは、その対モスクワ政策が、内政、とくに民族間関係政策と密接に結合して展開されたからである。この過程に特徴的なのは、他の共和国においては分離主義的なニュアンスを持った主権宣言が、タタルスタン政治の文脈では、親露民主派を慰撫するためのものであったり(1990年)、タタール急進民族主義者を押さえ込むためのものであったりして(1992-93年)、抑制的(反分離主義的)な機能を果たしたことである。さらに指摘さるべきは、まさにこの「主権」なる言葉の使い方に象徴される、タタルスタン指導部の「能動的・法ニヒリズム」である。権限分割条約には法的には何の意味もない、これはロシア・タタルスタン両指導部の政治的な意志の表現なのだ、といったことをタタルスタンの指導者たちは平気で公言するのである。彼らの関心は権限分割の具体的な内容に向けられたのであり、実利を獲得するために「政治の延長としての法」が駆使されたと言ってよいだろう。実際、タタルスタン指導部は、彼らが求めているのは連邦なのか国家連合なのか、また対称的連邦と非対称的連邦のいずれをより望ましいと考えているのかといった問いかけに、公の場で一義的な答えを与えることはしない。しても一文の得にもならないし、憲法学上のあれこれの理論的純粋性のために後ろの橋を焼き落とすようなことはしないというのが、彼らの鉄則である。これが、沿バルト型とも、チェチェン型とも異なる、タタルスタン型の紛争解決のアプローチの中核である。

4-3.権限分割条約以降―英雄時代の終焉

 1994年2月の権限分割条約締結から翌年3月の国家会議選挙にかけて、シャイミエフ体制は、より典型的な権威主義体制へと移行した。ひとつの原因は、争点が実際に消滅してしまい、エスノ・ボナパルティズムの必要性がなくなったことである。もし急進民族主義者が「主権」-権限分割条約という1994年までに確立された政策枠組みに不満ならば、タタルスタンの完全独立を掲げるしかない。しかし、完全独立というスローガンが選挙民に現実的なものと受けとめられるだろうか。親モスクワ民主派は、権限分割条約によってエリツィンとシャイミエフが仲直りしてしまったおかげで居場所を失った。シャイミエフは、ほんらい左翼的な風土の中で、エリツィンのために必死で票を動員したのである。民主派の立場からシャイミエフを批判するとすれば、ヤブロコのように手続き民主主義的な基準に拠るしかないだろう。これもタタルスタンの選挙民にはうけない。

 ロシア人州においてガイダール改革が政治の季節を吹き飛ばしてしまったのとは対照的に、タタルスタンでは1994年まで熱い政治の季節が続いたのである。そろそろ飽きがきても不思議はない。やや人種主義的な見解だが、政治に飽きたことで、タタール人の民族的な伝統である「お上崇拝」が頭をもたげ始めたという説もある。1995年3月の国家会議選挙においては130の議席が争われた。この選挙を前にして、シャイミエフ派は、この数ヶ月後にチェルノムィルヂンが「我らが家ロシア」の名の下に全露規模で打ち出すことになる「経験ある指導者(krepkie khoziaeva)を支持せよ」なるスローガンをまるで先取りするかのようなキャンペーンを行った。これは、それまで批判はしつつもシャイミエフと共に働いてきた共和国最高会議の野党部分(親モスクワ民主派と急進民族主義者)を「デマゴーグ」「ポピュリスト」「仕事のできないお喋り屋」として名誉毀損することと結びついていた。周知の通り、「経験ある指導者を支持せよ」キャンペーンは全露的には失敗したが、タタルスタンにおいては、共和国レベルでも、市・郡レベルでも、無惨にも成功した。共和国選挙管理委員会は、親モスクワ民主派の指導者(イワン・グラチョーフ)には、彼が連邦下院議員であることを理由に(連邦下院議員である以上は現住所はモスクワのはずだという理由で)共和国国家会議への立候補資格を剥奪した。急進民族主義者のシンボルのような存在であったファウズィヤ・バイラモワは、国家会議に落選した。結局、国家会議には、野党からは親モスクワ民主派1名、急進民族主義者1名、ロシア共産党3名しか当選しなかった。繰り返すが、議席総数は130である。他方、既述の市長・郡長の義務的立候補システムの結果、国家会議代議員の約半数は、自動的に執行権力の代表者によって占められる仕組みになっているのである(94)

 1990年に選ばれた共和国最高会議が任期を終えたとき、アーカイヴを議会から文書館に移すのにトラックが列を連ねたそうである(つまり、それだけ仕事をしたのである)。そしてこの聞き分けのない議会こそが、シャイミエフの政治手腕を最も輝かせたのであった。アルトゥンバエフの反乱に示されたように、1995年に成立した議会も、その代議員構成から予想されるよりは重要な、共和国大統領に対するオールタナティヴとしての役割を果たす潜在能力を有している。それでもなお、共和国大統領府公務員局セクター長レナール・ムサエフの次の述懐は、公正なものだろう。「1990年に成立した議会は、より面白く、より選択肢を持ち、よりバランスのとれた決定を下した。何よりも、代議員に傑物が揃っていた。今の議会は、より与し易く、具体性志向が強く、魅力的な代議員に乏しい。というのも、いまの代議員は、自分の職務上、代議員になった人ばかりだからだ」(95)

5. まとめ

 本稿の分析は、「エスノ・ボナパルティズム」「集権的カシキスモ」という二つの基本概念がタタルスタン政治の現実の展開を説明する能力を有していることを示した。また、タタルスタンのセミ・ユニタリーな体制が、脱共産主義諸国の政治体制を比較する上で、いわば臍のような位置にあることを示した。

 タタルスタン・リージョナリズムの発展という視点からは、次のようにタタルスタン政治史を時期区分することが可能だろう。1.「連邦構成共和国への昇格」(ロシア共和国からの分離)という伝統的な要求が掲げられた、1988年頃から1990年8月の主権宣言まで。2.続いて1991年8月クーデターまで。タタルスタン指導部が主権宣言により伝統的な要求から後退しつつも、ゴルバチョフの「自治共和国の地位の引き上げ」路線に積極的に呼応していた時期。このときは、ソ連国家の構造そのものが流動化していたので、「自治共和国の地位の引き上げ」は、ロシア共和国からの離脱を必ずしも意味しなくなっていた。3.8月クーデターから1994年権限分割条約まで。この時期には、まず、共和国指導部の交渉相手がソ連指導部からロシア指導部に替わった。共和国指導部は、曖昧模糊たる「主権」「国際法の主体」を掲げてタタール急進民族主義派の完全独立路線を押さえ込みつつ、ロシア連邦指導部に対しては最大限の権限委譲を要求した。4.権限分割条約から1996年まで。モスクワ・カザン関係の安定化と並んで、この関係を律する原理がロシア全土に普及した。それは、マルチラテラルな場はタテマエ、本音は二極間交渉で実現するという交渉技術であり、第二に、リージョン指導部の集票能力が、中央から譲歩を引き出す上で決定的な政治資源となるということである。こうした規範を供給したがために、タタルスタンの政治体制は文字通りの「モデル」となったのである。タタルスタン・モデルは、非対称的連邦制をロシアに定着させる方向で作用し、1996年のエリツィンの歴史的勝利を保障した集権的カシキスモ形成を先導した。このように、連邦構成共和国への昇格(ロシア共和国からの分離)に始まったタタール・リージョナリズムは、エリツィン政治体制に中核的な原理を供給することによって完成された。結果の良し悪しは別として、またしてもロシアの政治体制は、「タタールから学ぶ」ことによって発展したのである。

 1994年の権限分割条約は、タタルスタン政治における親モスクワ民主派とタタール急進民族主義者の存立余地を狭めた。それと併せ、選挙干渉をはじめとする抑圧措置が共和国指導部によってとられたことは否定できない。1995年に成立した議会は、1990年のそれとは比べようもない、無惨な代物となった。1994年権限分割条約から1995年国家会議選挙にかけてエスノ・ボナパルティズムは衰退し、こんにちのシャイミエフ体制は確立された。この体制を支えているのは、エリートの社団的一体性、屈強な単一の集票マシーン、首長任命制の三位一体である。エリート外の党派、つまりタタール民族主義者、親露民主派、ロシア共産党などの挑戦によってこの三位一体が突き崩され、タタルスタンの政治体制がより多元主義的になるなどということは、当面考えられない。問題は、シャイミエフがしだいに高齢化し、また中道的経済政策がますます行き詰まる状況下で、支配エリート自身が割れることがあるかどうかである。アルトゥンバエフ反乱の顛末は、少なくとも2001年大統領選挙までは、その可能性がほとんどないことを示している。


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