世界戦争とネオ・スラヴ主義
―第一次大戦期におけるヴャチェスラフ・イワノフの思想―

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はじめに

 本稿が主要な考察の対象とするのは、シンボリズムの詩人、ヴャチェスラフ・イワノフの第一次世界大戦期における思想である。戦時期のいくつかのテクストを読み解きながら、イワノフの戦争論とその背景にある思想を批判的に検討することが本稿の目的である(1)。だがイワノフの戦時期の思想を問題にするのであれば、それを中心にしてさらに二つの方向に視野を広げておくべきだろう。つまりイワノフの戦時期の思想を、第一に同時期のロシア思想と関連付けること、第二に彼自身の思想全体と関連付けること、この二つである。とりわけ第一の問題に関して言えば、それは付加的な課題であるよりも、むしろ本稿の不可欠の前提であると言わねばならない。なぜなら、イワノフが思想家としてはあくまで傍系に属するにすぎない以上、イワノフを思想家として取り上げるにはそれなりの根拠を示す必要があるからだ。そこであらかじめこの点を簡潔に述べておくなら、彼の思想は当時のロシア思想の主要な一傾向である「ネオ・スラヴ主義」と共鳴するものだと言えるのである(2)。後に明らかにするように、イワノフの思想はネオ・スラヴ主義のある種の傾向を明瞭に表出しており、この潮流の一事例として検討するに値するのだ。逆にいえば、われわれはイワノフの思想を検討することで、これまであまり研究の進められていなかったネオ・スラヴ主義にも一定の照明を与えることができるはずなのである。イワノフの思想を検討しつつ、同時にネオ・スラヴ主義を解明する手掛かりをつかむこと、本稿ではそのことを念頭において論述を進めていくことにしたい。 

またもう一方の問題、イワノフの戦時期の思想と彼の思想全体との関係については本文で取り上げることができないので、ここで簡単に説明しておきたい。本稿が扱うのはイワノフの戦時期の思想であり、国民論や戦争論がその中心となるわけだが、戦前のイワノフの思想の中心は美学であった。だが彼の美学と政治学の間にはそれほどの断絶はない。

イワノフの美学は国民主体の創出を意図した政治的なものだったからである。たとえば彼の美学が試みるのは、国民の無意識を言葉に変換するような詩人を産み出すことであったり(3)、個人を解体するディオニュソス的な悲劇によって国民という集団的主体の生成を促すことだったのである(4)。国民の問題はイワノフの思想全体に貫流する問題であり、それによって戦前の美学と戦時期の思想もつながっているのだ。だが戦時期の国民論はより深められている。戦前の美学の国民論は分裂した国民の統一という内的な問題でしかなかったが、戦時期にはロシアの国民主体の創出によって西欧の普遍主義に対抗するという外的な問題も加わることになるのだ。そしてこの深められた戦時期の国民論から振り返ってみると、戦前の美学の理解もより深められることになる。この点をもう少し説明しておこう。 イワノフの美学は国民主体の創出を意図する政治的なものであるが、彼の美学が政治化するのには理由がある。それは、合理化された社会の中では芸術のみが合理化の過程から取り残された領域であるがゆえに、彼が芸術にのみ、合理的な社会を変革する可能性を見出していたからである(5)。ただ、これによって彼の美学が政治化する理由が明らかになるとしても、その政治的な志向がなぜ国民主体の創出と結びつくのかは不明のままである。合理的な社会の変革と国民主体の創出には何ら必然的な関係はないからだ。だが先に指摘したように戦時期の思想から振り返って見て、国民主体の創出が西欧の普遍主義に対する対抗意識と不可分であることを考慮に入れるなら、この問題は解明できる。結論を言えば、イワノフは芸術によって合理的な社会を変革しようとするわけだが、彼はその合理的な社会を、合理性を普遍化しようとする西欧の表象と結びつけているのだ。また逆にその反照として、合理性の外部である芸術は、西欧の合理性の外部であるロシアの表象と結びつけられる。イワノフの無意識的な観念連合の中では、西欧は合理的な社会の代理表象であり、ロシアは合理性の外部である芸術なのである。芸術による社会変革が国民主体の創出と結びつくのはこのためだ。芸術によって合理的な社会を変革することは、イワノフにとっては西欧の合理性の外部であるロシアの国民主体を確立することと別のことではないのである。こうしたことは、戦前の美学を検討するだけでは明らかにはならない。国民の問題はイワノフの思想のいたるところに現われる問題であるが、それを完全に理解するには、戦時期の深められた国民論を検討することが不可欠なのである。以下の論述ではこうしたことを考慮に入れ、さまざまな点から彼の国民論を検討することにしたい。 

戦時期のイワノフの思想を解明することは、以上のような二つの課題――ネオ・スラヴ主義に照明を当てること、イワノフの思想全体に貫流する国民の問題を明らかにすること――にも応えるものなのだが、そのことを確認した上で、以下の論述の主要なポイントをあらかじめ提示しておくことにしよう。第一節ではイワノフの思想と同時代の思想の関係を明らかにするため、ネオ・スラヴ主義について考察する。第二節ではイワノフの西欧の普遍主義に対する批判を考察するとともに、それと不可分に現われるロシアのナショナル・アイデンティティーの探求について検討する。また、第三節ではイワノフの普遍主義批判が諸国民の平和共存というイデーを産み出していること、しかしそうでありながら、そのイデーが独自な普遍主義に転化する危険性を孕んでいることを明らかにする。第四節ではイワノフの思想をかつてのスラヴ主義と比較し、両者が同様の傾向を持ちながらも、ある点で決定的に異なっていることを明らかにする。そして最後に第五節ではイワノフの戦争論を二つの全体性という鍵概念を中心として検討する。以上のような諸点から、イワノフの思想のネオ・スラヴ主義的な特徴を明らかにするとともに、彼の普遍主義批判や国民論、そして世界戦争論を批判的に検討していくことにする。

1.ネオ・スラヴ主義

 まず最初に、イワノフの思想との共通性を明らかにするため、ネオ・スラヴ主義に関して一定の考察を行なっておくことにしたい。もちろんここでネオ・スラヴ主義の全体像を提示することはできないが、本稿の主題である世界戦争との関係をもとに、ネオ・スラヴ主義に最低限のパースペクティヴを与えておきたいと思う。そうした作業を行なう上では、世界戦争開戦後まもなくの1914年10月6日に開催された、モスクワ宗教哲学協会の講演会を参照するのが効果的である。この講演会ではイワノフのほか、セルゲイ・ブルガーコフ、エルン、ラチンスキイ、エヴゲーニイ・トルベツコイといった当時の一流の思想家たちが世界戦争をテーマとする報告を行なっており、それらの報告はセミョーン・フランクの論評とともに雑誌『ロシア思想』に掲載されている(6)。ここではこれらの報告とフランクの論評を手掛かりに、ネオ・スラヴ主義のいくつかの特徴的な傾向を導き出しておきたいと思う。

1-1.フランクのブルガーコフ、エルン批判

 この講演会での報告を整理するには、フランクの論評が良い手掛かりになる(7)。フランクによれば、ロシアは図らずも現在の戦争に巻き込まれてしまったが、「国民意識の本能」によってそれを不可避のものとして受け入れた。だがそうであるがゆえに、ロシアはなぜ戦争が行なわれているのかという「戦争の客観的、全人類的な意味」を見い出さなくてはならない。しかもそれは対立する両者が納得するものでなければならず、一方を悪、他方を善とするような考えはあらかじめ排除されねばならない。フランクはこのように述べた上で、ブルガーコフとエルンを批判する。「主にブルガーコフとエルンの講演で展開されている戦争のスラヴ主義的概念化は、この点で基本的な欠陥を持つように思える」。フランクは二人の講演をスラヴ主義的な戦争解釈と見なし、その特徴を、戦争を善悪の二項対立によって概念化する傾向に見ているわけである。このフランクの指摘を明確にするため、まずはブルガーコフとエルンの論文を簡単に紹介しておこう。 

まずはブルガーコフであるが(8)、彼にとってこの戦争は何よりも近代そしてヨーロッパの終焉を意味する出来事である。ブルガーコフによれば、近代ヨーロッパの原理は「新しい人間」である。それは世俗的なプロテスタンティズムの産物であり、教会からの分離、生活の合理化によって、個人が利害関係の交差する座標軸上の点、ホモエコノミクスへと転化することで産み落とされる。そしてこの「新しい人間」による近代化は、国民固有の教会的な過去を軽蔑すべき「中世」として葬り去り、そこに啓蒙主義という超国民的な近代ヨーロッパ文明を接ぎ木することによって遂行される。だがこの接ぎ木された文明は国民文化の表層を覆っているにすぎず、諸国民は今や腐敗しつつあるこの超国民的な文明から、国民固有の文化に回帰しようとしている。ブルガーコフはこうした認識に立って戦争を意味づける。この戦争はドイツを敵とするものだが、それはドイツがこの近代化をもっとも徹底した国だからであり、その他の国は、実はドイツの「精神的な軛」を掛けられていたにすぎないのである。したがってヨーロッパ文明を終焉に導くこの戦争は、ドイツにとっては審判だが、他のヨーロッパ諸国にとっては解放なのである。そして西欧化か国民文化かを決定できず、常に西欧化に失敗してきたロシアは、今やその選択によって新しい時代を確定する使命を担っているのである。 

一方エルンの論文は(9)、「カントからクルップへ」という標題に見られるように、カントの批判哲学からクルップの新型の武器製造までを一つの線で結ぼうとする。つまり、現在のドイツの軍国主義の根源を、ドイツ哲学の伝統に見出そうとするわけである。それによると、カントのように経験の対象を現象界に限定し、人間は可想界を経験できないと見なすなら、人間は真の存在者、神との接点を失い、世界は正義も神の摂理も失って力と権力の場になってしまう。ニーチェは神は死んだと言い、力への意志を唱導するが、実は神殺しはカントにまで溯るのであり、それ以降のドイツ哲学はカントの現象論を継承発展させただけなのだ。それに「汝なすべし」とは言っても、何をなすべきかを言わないカントの定言命法は、軍国主義に対して何もなしえない。こうして絶対的な正義も、道徳的な命法も持たないドイツは、力への意志に従って侵略的な軍国主義の道を不可避的に進んでいく。クルップの武器は、ドイツの国民精神に基づくドイツの国民的創造物なのである。 

ブルガーコフとエルンの論文は以上のようなものだが、フランクはここに「戦争のスラヴ主義的概念化」を見出すのである。それは戦争を善悪の二項対立と見なす傾向にあるわけだが、それは自国を善、敵国を悪とするありふれた態度の問題ではない。問題は、彼らがドイツの軍国主義をドイツ国民に本質的に備わる悪と見なしている点にある。フランクにとってドイツの悪は歴史的なものであり、ドイツは本来の国民性から逸脱しているだけなのだ。フランクに従えば、ブルガーコフのように崩壊しつつあるヨーロッパ文明をゲルマニズムと同一視したり、またエルンのようにカントからエックハルトまで溯ってドイツの理念そのものを否定するなら、この戦争でドイツ国民そのものを滅ぼさねばならないという「」な結論に陥ってしまう。悪の歴史性を見ず、国民性そのものを善悪の二項対立に解消する態度、それがフランクの批判する「スラヴ主義的概念化」なのである。

このようなフランクの立場は、彼自身は指摘していないが、講演者の一人ラチンスキイの立場に近い。ラチンスキイの主張はこうである。つまり、諸国民は神の摂理によって生きており、その摂理を国民の理念として理解し、それを文化として表現する(10)。換言すれば、国民というのは神的な起源を持つ共同体であり、国民文化は神に与えられた国民理念の表現であるということだ。それゆえラチンスキイは、ロシアはドイツの軍国主義やブルジョア的エゴイズムとは闘っても、ドイツ古来の文化とは闘わないという。軍国主義やエゴイズムという歴史的な悪は取り除かねばならないが、ドイツの本来的な国民文化は神の摂理の表現であり、それさえも否定することは不可能なのである。フランクの主張もこれと同じである。例えば、「この[悪の]起源は、どれほど奥深くに埋め込まれたものであろうと、われわれの敵の国民性の根源、その形而上学的基礎と同一視することはできない」。「国民存在の根源がその国民固有の独自の宗教的心情において表される以上、それはそれ自体すなわちその集団的精神において、やはり単なる誤りや悪ではありえない」。フランクにとってもドイツを含むすべての国民性の本来的な「形而上学的基礎」は、過誤のありえない神聖なものなのである。そしてフランクによれば、イワノフとトルベツコイも彼と同じ立場に立っている。「イワノフとトルベツコイの講演の中では、異なった観点からではあるが、全体として同じように正しく、この悪の精神的な起源が指摘されているように思われる」。この二人もフランクと同じようにドイツの悪を歴史の逸脱に見ているというのである。

1-2.トルベツコイの戦争論

 フランクの観点に立てば、こうして宗教哲学協会の5人の講演者を分類する一つのパースペクティヴが開かれる。一方(ブルガーコフとエルン)がドイツの軍国主義をドイツの本来的な国民性に帰するのに対して、もう一方(ラチンスキイ、トルベツコイ、イワノフ、フランク)はそれを歴史的な逸脱と見なし、国民性を神聖視する。ここで後者の傾向をもう少し具体的に把握するため、その内の一人トルベツコイの講演を紹介しておこう(11)。 

トルベツコイによれば、ロシア社会は領土拡張には無関心であるにもかかわらず、解放者としての使命には熱狂するが、これは政治的に未熟な観念論ではない。ロシアには拡張が不要なほどの領土があるし、また小国の独立はロシアに対する大国の脅威を軽減するため、ロシアにとって有益なのである。あらゆる国民の解放というロシアの宗教的使命は、幸いその地政学的利害に一致しているのだ。それゆえロシアは国民性の原理そのものを擁護し、すべての国民を解放する。スラヴ主義のようにここに人種や宗教の制限を付けるのは誤りだし、この戦争は国民性を擁護する国々と侵略的なドイツの闘いなのだから、これをロシアと西欧の闘いと考えるのも誤りである。またドイツが道を誤った原因は普仏戦争勝利後のショーヴィニズムにあるが、これはロシアへの戒めでもある。ロシアは常に自民族を「神を孕める民」と考えるメシアニズムを抱いてきたが、ドイツの過ちを繰り返さぬよう、こうしたメシアニズムは捨てねばならない。諸国民がそれぞれの独自性を保ったまま、あらゆる精神生活の領域で団結すること、これこそがロシアの理想なのである。

 こうしたトルベツコイの主張には、フランクの論点と響き合うところが少なからずある。何よりトルベツコイも「戦争のスラヴ主義的概念化」に批判的である。トルベツコイが擁護するのはロシアの理念やメシアニズムではなく、国民性一般である。あらゆる国民が解放され、その平等な共存が確立されねばならないのだ。すでに見たように、これはラチンスキイにも言える。彼も国民性を神の摂理に基づくものとして、ドイツも含めたすべての国民の聖性を擁護していたのである。したがってイワノフも含むネオ・スラヴ主義のこの傾向は(12)、世界戦争の対立軸をロシアとドイツとか、ましてやロシアと西欧という対立には設定しない。そのような自民族中心主義的なメシアニズムはロシアをドイツと同じ誤りに導いてしまう。そうではなく、この世界戦争の対立軸はロシアを含む国民性一般と、それに敵対するドイツの侵略性でなければならない。またこの戦争によって確立されるのは、西欧的あるいはドイツ的世界に代わるロシア的世界ではなく、諸国民が自国の聖性とともに他国の聖性をも尊重するような、諸国民の平等な共存でなければならないのである。

1-3.ネオ・スラヴ主義の国民主体の構制―ネオ・スラヴ主義批判―

 われわれはフランクに従ってネオ・スラヴ主義を分類するパースペクティヴを開いたわけだが、あらかじめ断っておくと、それはブルガーコフやエルンを批判してフランクやトルベツコイを肯定するためではない。われわれの目的は、ネオ・スラヴ主義それ自体を批判的に検討することにある。ネオ・スラヴ主義に内在するフランクの視点は、その内側を分類して整理するには有効だが、やはりネオ・スラヴ主義それ自体に対する批判には不十分である。そのためにはネオ・スラヴ主義に対する外在的な視点が不可欠である。われわれは次節以降でイワノフの思想に対して批判的な距離を取るためにも、ここでいったん内在的な分析を離れ、外在的な視点を確立しておきたいと思う。 

ドイツの国民性そのものを悪と見なす態度を批判するのに先立って、フランクは「副次的な問題」としながらも、ブルガーコフやエルンを他の点でも批判している。つまり、「フランスとイギリスがわれわれと同盟を組んでいる戦争が、どうしてロシアと西欧の闘いになるのか」という疑問や、またエルンのようにドイツの内在論や現象論を悪と見なすなら、「われわれの同盟国のイギリスやフランスに見られる、それと同一起源の実証主義や経験論といった特徴と、われわれはいかにして共存できるのか」、こうした疑問にブルガーコフやエルンは答えられないというのである。たしかにこれは「戦争のスラヴ主義的概念化」にとって一つのアポリアである。彼らはこの戦争を西欧とロシアの闘いと見なそうとするわけだが、こうした二項対立を基盤にすると、現実の戦争でロシアがイギリスやフランスと同盟を組んでいる理由を説明できないのだ。ブルガーコフやエルンはこのアポリアを解消しようして、ドイツを西欧的な原理の純粋な代理表象として観念的に構成しようとするわけであり、フランクは「副次的な問題」としながらもそれを批判するわけである。

 フランクにとってこうした批判は、おそらくは揚げ足とりに近い「副次的な問題」なのだろう。だがこの他者イメージの観念的な構成とその反照による自己イメージの構成という問題は、決して副次的な問題ではないし、フランクもそれと無縁ではないのである。というのも、フランクが聖化する「国民」もやはり観念的に構成された想像の産物でしかないからだ。たとえば、酒井直樹は国民共同体の想像的な性格を次のように指摘している。「自己充足的な統一体としての国民共同体の形象は、国際社会における相互関係によって支えられており、自己の国民共同体はつねに他の国民共同体との比較と区別を媒介にしつつ構想される」。「他の「社会」や「文明」を均質で一枚岩的な他者として表象することに見合って、反照的に……自国民、自民族、自人種を、均質で分割不可能な統一体として構想することが可能になる」(13)。国民共同体は先験的に与えられた自律した統一体ではなく、他者の媒介によってしか構想されない、想像的な構成物なのである。そしてさらに、酒井によれば、この他者を媒介とした国民共同体の構成は、近代においては西欧と非西欧の場合で異なっている。あらゆる民族は自民族中心主義の欲望を持ってはいるが、たとえば中華思想が帝国主義に敗北したように、近代においてそれに成功したのは西欧中心主義だけだった。こうした力学のもとで、常に西欧は自己を普遍とし、他者を特殊と見なすのに対して、非西欧はこの普遍の西欧に対して常に自己を特殊として表象してしまう。近代の西欧中心主義のもとでは、非西欧は自己を特殊と見なさざるをえないのである(14)。 

こうした構図は当然ロシアにも妥当する。ロシアもやはり普遍の西欧に対して自己を特殊として表象せざるをえなかったし、またこうした想像的な図式を通してはじめてロシアの国民共同体を「均質で分割不可能な統一体」として構想しえたのだ。たとえば、ボリス・グロイスの「ロシアのナショナル・アイデンティティーの探求」という論文は、ロシアの哲学史に則してこうした事情を明らかにしている(15)。グロイスによれば、ロシア哲学は常にヘーゲル哲学の「意識」や「世界史」の外部に「ロシア」を置こうとしてきた。それはロシアを、ヘーゲルの世界史の内部に収まらないもの、また意識の埒外にあり、かえって意識を規定するもの、すなわち物質的なもの、あるいは無意識的なものと見なそうとしてきたのだ。こうした事態は、ロシアが西欧の普遍に対する特殊として自己規定せざるをえなかったこと、また、ロシアのナショナル・アイデンティティーが西欧の形象(ここではヘーゲル哲学)の反照としてはじめて構成されたということを物語っている。 

このように見てくれば、ブルガーコフやエルンが、西欧中心主義のもとでの主体構制の構図をいかに深く内面化しているかが明らかになるだろう。ロシアとドイツではなく、ロシアと西欧の二項対立が前面に出てこざるを得ないのは、普遍と特殊という構図において普遍の位置を占めうるのが、イメージとしての「西欧」でしかないからである。彼らはもちろん普遍としての西欧に抵抗しているわけだが、その抵抗さえもが西欧中心主義に規制された構図の中で行なわれざるをえないのである。そして彼らを批判するフランクやトルベツコイも、こうした構図から自由ではない。彼らは西欧とロシアというという二項対立に拘泥せず、むしろそれに対して批判的ではあるが、そうした二項対立のもとで想像された国民共同体に対しては、すでに見たように、無批判であるばかりか、それを自然化し、神学化しようとさえするのである。ブルガーコフやエルンとは違った形ではあれ、彼らも西欧中心主義に規制された構図の中で思考していることに変わりはないのである。

 国民共同体を先験的に与えられたものとして自然化しようとする、この「国民共同体の神学化」とでも言いうる思考様式は、これまで言及したネオ・スラヴ主義者の思想の基盤になっている。すでに見たように、ラチンスキイは国民共同体を神的な起源を有するものと見なしていたし、フランクも国民共同体の本来性を擁護しつつ、その「形而上学的基礎」について語っていた。またトルベツコイも諸国民の平等な共存を「国民性についてのキリスト教的教義」と呼んでいる(16)。そしてさらに、フランクに「スラヴ主義的」と批判されているブルガーコフやエルンも、この点は同じである。ブルガーコフは、「国民性は現実の直観的経験、あるいは神秘的体験の中で把握される」としているし(17)、エルンも国民性は外面的な問題ではなく、内面的な問題であるとしている(18)。そしてこれから詳述するように、イワノフもやはり同じ傾向を示しているのである。程度の差はあれ、「国民共同体の神学化」はネオ・スラヴ主義の種差的な特徴の一つなのである(19)

 ネオ・スラヴ主義それ自体を批判的に検討しようとするとき、この「国民共同体の神学化」に対する批判が一つの手掛かりになるだろう。国民共同体を神学化し、それを変更不能な先験的な統一体として表象するとき、すべての矛盾や対立や差異はすべて国民共同体の一体性の下に隠蔽されてしまう(20)。国民共同体はある歴史的条件下で想像的に構成されたものなのであり、われわれはそのことに常に意識的でなければならないだろう。

1-4.ネオ・スラヴ主義とイワノフ

 ここでふたたび内在的な分析に戻ろう。われわれはフランクに従ってネオ・スラヴ主義の二つの戦争論を分類したのであった。フランクの批判する「スラヴ主義的概念化」は、戦争をロシアと西欧の対立と見なし、西欧的世界に代わるロシア的世界を構築しようとする。そしてもう一方の概念化は、国民性一般の聖性を主張し、この戦争によって諸国民の平等な共存を確立しようとする。ただあらかじめ断っておくと、フランクのこの分類は必ずしも厳密なものではない。前者の特徴が後者に見られることもあるし、その逆もある(21)。だがここで重要なのは誰がどちらに分類されるかということではない。重要なのは、フランクやトルベツコイが自己の立場をスラヴ主義とは異なるものとして規定していることだ。われわれはこのことから、ネオ・スラヴ主義が(彼ら自身はそう呼ばないかもしれないが)ある程度明確な輪郭を持つ自覚的な思想潮流であると考えることができるのである(22)。 

これ以降の節で主題的に取り上げるイワノフも、フランクやトルベツコイと立場を共有している。彼はスラヴ主義を否定せず、むしろそれを積極的に評価してはいたけれども、その基本姿勢は明らかにフランクの言う「スラヴ主義」とは区別されるもの、つまりネオ・スラヴ主義的なものである。諸国民の聖性、その平和共存という理念はイワノフにもあり、それは徹底した普遍主義批判、諸国民の特殊性の擁護といった形で現われる。また彼の戦争論は、やはり西欧対ロシアという「スラヴ主義的概念化」とは異なっている。「戦争のスラヴ主義的概念化」は二項対立に基づいて戦争を解釈する限り、聖戦論的な解釈に導かれやすい。イワノフの場合も世界戦争は宗教的に解釈されるのだが、それは明らかに聖戦論とは異なる独自なものである。以下の論述では、ここで明らかにしたことをもとにイワノフのネオ・スラヴ主義的な思想を考察していくことにする。

2.スラヴのアイデンティティー

 ここからイワノフの思想の検討に移ることにし、まずはイワノフにおける普遍主義批判を考察する。すべての国民性や国民文化を神聖視しようとするネオ・スラヴ主義の志向は、イワノフにおいては徹底した普遍主義批判となって現われる。それは一つの原理を世界化しようとする普遍主義が、諸国民の国民性や国民文化の多様性を抑圧し、それらを隠蔽してしまうものであるからだ。だが普遍主義に対するこうした批判が正当であるとしても、それに対抗するものとして国民を神聖不可侵の共同性と見なすなら、今度はその国民が変更不可能な本来性となり、それには回収されない多様な差異が抑圧されることになる。イワノフの普遍主義批判の問題は、それが常に国民の特殊性を神秘化し、本質主義化する特殊主義の要素を伴っていることにある(23)。ここではそのことを念頭に置きながら、彼の普遍主義批判とその裏面である特殊主義を考察していくことにする。

2-1.ディオニュソスとアポロン

 だがその前に、まずはイワノフが他のネオ・スラヴ主義者と同種の傾向を持っていることを明らかにしておくべきだろう。そのため、ここではイワノフによるスラヴのアイデンティティーの定義に注目して、彼のネオ・スラヴ主義的な傾向を確認しておきたい。イワノフはスラヴのアイデンティティーを定義して次のように述べている。

私の目から見るなら、ゲルマン-ロマンス系のスラヴの兄弟たちは自らの精神的・感覚的存在を主にアポロンのイデーの上に築いてきたのであり、それゆえ彼らのもとでは生命力に満たされたカオスの荒々しい諸力を束ねるような体制が、すなわち外的な強制や内的な自己規制によって贖われた調和や秩序が支配的である。一方スラヴ人は太古の時代からディオニュソスの忠実な奉仕者であった。彼らはあらゆる生命力を、ある時には無分別に、軽率に統制からはずし、またある時には霊感に満たされてそれらを解き放ち、その後……それらを集めることができなかった(24)

イワノフはスラヴのアイデンティティーを、ニーチェの概念を用いて規定している。西欧=アポロンは外的な強制や内的な自己規制によって生のカオティックな力を制御して調和や秩序を守るのに対して、スラヴ=ディオニュソスはむしろそうした生の力を奔放に解き放つというわけである(ついでに言えば、国民共同体の想像的な性格をこれほど明瞭に示す例もないだろう。アポロンがなければディオニュソスもないのであって、スラヴのアイデンティティーは他者としての西欧を設定しなければ定義できないのである)。

ところで、イワノフがここでロシアではなくスラヴのアイデンティティーを問題にする背景には、戦時期における彼の汎スラヴ主義への傾斜がある(25)。この時期、彼の関心はスラヴの統一に向かうのである。だがそれは容易な課題ではない。イワノフ自身が言うように、スラヴ世界には「政治的統一も、信仰や教養、それに慣習の統一も存在しない」からだ。そのことを考えれば、イワノフがディオニュソスという実証不可能なアイデンティティーを持ち出してくるのは、政治的・宗教的統一の欠如を埋め合わせるためであるように見える。だがそうではない。イワノフは政治的・宗教的統一の欠如は認めるものの、スラヴには血や言語や心理の共通性はあるのだと言う。だが彼はそうした共通性に基づいてスラヴのアイデンティティーを構築しようとはしないのだ。なぜか。それはイワノフにとってそれらが「経験的諸特徴の共通性」でしかないからだ。真のアイデンティティーは経験的な事実ではなく、「精神に関する直観」が把握する「秘められた精神的な結びつき」に見出されなくてはならない。イワノフのネオ・スラヴ主義的な傾向はここにある。彼が行なっているのは、「国民共同体の神学化」と同じこと、すなわち「スラヴ共同体の神学化」なのである。経験的・現象的な事実ではなく、それを超越したヌーメン的なものに根拠を持つ場合にのみ、共同体は先験的なものとして変更不可能な自然性を獲得しうる。イワノフが「直観」によってスラヴのアイデンティティーを規定しようとするのは、欠如に対する埋め合わせではなく、スラヴ共同体を神学化し、それを自然化するためなのである。 

イワノフが国民共同体を神秘化しようとするネオ・スラヴ主義と同種の傾向を持つことは明らかだろう。ただすでに指摘したように、イワノフは他のネオ・スラヴ主義者たちとは違い、スラヴ主義を積極的に評価する。だがこれは矛盾ではない。イワノフの観点からすればスラヴ主義もやはり国民共同体を神学化しようとする運動だったからだ。イワノフに従えば、「スラヴ主義は何よりもまず、可想的なルーシを聖なるルーシと見なす、国民的自己規定の形而上学」なのである(26)。スラヴ主義はロシアのアイデンティティーを経験的な事実ではなく、可想的なものに求める形而上学的な国民論であったということだ。イワノフは経験的事実に基づく国民論を「現象論」、ヌーメンに基づく国民論を「存在論」と呼び、次のようにも述べる。「歴史的な観点からスラヴ主義について言えるのは、それが国民の現象論に対する最初の執着をそれ自体の内部で弁証法的に克服したということである(この執着は今「地域主義」と呼ばれている)」。イワノフによれば、西欧派やダニレフスキイのような堕落したスラヴ主義は現象論に属するが、真のスラヴ主義は現象論を克服して存在論を確立したのである。それは国民の現象論に固執する「地域主義」(これがフランクやトルベツコイが批判するスラヴ主義のロシア中心主義に該当する)を克服したのだ。フランクやトルベツコイは「国民共同体の神学化」の立場から「現象論」的なスラヴ主義を批判するわけだが、イワノフは同じ立場からスラヴ主義を国民の「存在論」を確立した自己の先駆者と見なし、それを積極的に評価するわけである。

2-2.普遍主義イデオロギーの摘発

 イワノフが典型的なネオ・スラヴ主義者であることはこれで明らかだろう。ここで話を戻し、イワノフの普遍主義批判の具体相を見ていくことにしよう。

 まずは人間主義に対する批判である。一見中立的に見える人間主義も、普遍主義的な志向と結びつくことで植民地主義のイデオロギーとして機能する可能性を持っている。というのも、普遍主義の言説における人間主義はある「人間」についての定義を普遍的なものと見なし、その普遍的な人間性を実現しているのが自国民だと見なすわけだが(27)、そのように普遍化された「人間」の定義は、すべての者が従うべき絶対の規範と見なされ、それに適合しない「人間」、自己の規範から外れた他国民を、普遍的な人間の規範から逸脱したもの、未発達なものとして矯正の対象にしてしまう危険があるからだ。 

イワノフによるディオニュソスというスラヴの定義はこの点で意味を持つ。ディオニュソスと定義されることで、スラヴ的人間は西欧のアポロン的人間とは異なる起源を持つ人間類型とされ、アポロン的人間の未熟な形態と見なされる危険を回避できるからだ。たとえばイワノフは次のように言う。「スラヴの精神は、法の原理を自己自身の内、自律した良心の内に見出すのではなく、ただ生きた神の内にのみそれを見出すか、さもなければどこにも見出さない(根っからのカント主義者であるドイツ人が、スラヴ人を自己抑制や自己支配のできない者、それゆえ物の道理として隷属を定められた者と見なし、軽蔑するのはこのためなのだ)」(28)。イワノフは西欧的人間をカント的主体に見出すのである。それは自己自身の内に絶対的な法を持ち、その内面化された法によって自己を管理する近代的な主体である。西欧はこうしたカント的主体を普遍化しようとするわけだが、それによって本来的にそうした内面の法を持たない(とイワノフが主張する)奔放なディオニュソス的スラヴ人は、自己抑制ができず隷属するしかない未発達な人間として矯正の対象にされてしまう。このような普遍主義の序列化に対抗して、イワノフはスラヴ人のディオニュソス性を本来的なものとすることで、カント的主体から規範性を奪おうとするわけである。ディオニュソス的スラヴ人が存在する以上、アポロン的人間は決して普遍的な規範ではなく、両者は互いに対等な一つの特殊な人間類型だというわけである。イワノフはカント的主体を相対化することで、スラヴ的人間を普遍主義の眼差しから解放しようとするのである。

 イワノフの普遍主義批判は、一見中立的に見える人間主義をも摘発するわけだが、その批判はさらにドイツの「文化」の概念にも向けられる(29)。もちろんネオ・スラヴ主義者としてのイワノフは、フランクが指摘する通り、ドイツの悪の根源をその本来的な国民文化に帰することはない。彼が批判するのは歴史上の逸脱によって変質した現代の「文化」である。だが、たとえばラチンスキイがドイツの軍国主義とは戦ってもその文化とは戦わないと述べて、文化を聖域として例外化していたのに対して、イワノフは変質したドイツの「文化」を新種の普遍主義イデオロギーとして告発するのである。イワノフによれば、ドイツは「文化」という概念を「市民」、「教養」、「啓蒙」といった概念と取り替え、「ラテン系の諸言語の執拗な抵抗に勝利して、それを他のヨーロッパ諸国民にもほとんど強制的に押し付けようとしている」のだ。「市民」、「教養」、「啓蒙」といった概念も普遍主義のイデオロギーになりうる。それらもすべての者が従うべき絶対的な規範として機能し、それに適合しないものを矯正の対象に変えてしまう危険があるのだ。イワノフは、そうしたかつての西欧中心主義のイデオロギーに代え、新興ドイツが「文化」を新たな普遍主義のイデオロギーに仕立て上げようとしていると主張するわけである。そしてこうした彼の告発は、決して過度の猜疑心が産み出した妄想なのではない。西川長夫によると、文明(civilisation)と文化(Kultur)という二つの言葉は、もとは同じような意味で使われていたにもかかわらず、フランスとドイツの対抗関係のなかでそれぞれの国の国家イデオロギーとして発展していったものなのだ。西川によれば、この両概念はフランス革命とナポレオンによるドイツ占領の頃から「明らかな対抗概念として意識され」るようになり、普仏戦争の時代になると、プロイセンの勝利がドイツでは「文化の勝利」として、フランスでは「文明の危機」として受けとめられるほど、国家イデオロギーとして定着していたのである(30)。ドイツが「啓蒙」に代えて「文化」の概念を他国に押し付けようとしていると主張するとき、イワノフはドイツが帝国主義化していく過程で、その「文化」の概念が新たな普遍主義のイデオロギーに転化するのを見逃さなかったのである。

2-3.特殊性の擁護とソボールノスチ

 人間主義や「文化」の概念にも普遍主義の欲望を嗅ぎつけるほど、イワノフの普遍主義批判は徹底している。だがこの批判は、普遍主義の虚偽性、歴史性を明らかにしてその本質主義的傾向の批判に向かうのではなく、逆にそれに対抗して諸国民の特殊性を神秘化するという形で、それとは別種の本質主義を産み出してしまう。イワノフの普遍主義批判には、特殊主義というもう一つの本質主義が常に付きまとうのである。ここではそのことを確認しておこう。イワノフはスラヴの特殊性を擁護して次のように言う。

 それに劣らず恐ろしいのは、スラヴの敵がスラヴの独自の生を骨抜きにし、その精神の翼を切り落とし、その内的なイメージを拭い消そうとしてスラヴ人を誘惑する時に用いる、生気のない魂の抜けた秩序、そして外から取り付け可能な外面的な体制、こうしたものの誘惑である。スラヴ人は自分たちの伝説を熱心に護り、愛情を持って相互関係を深め、何よりも体制を自己自身の内に見出すように努めなければならない(31)  

イワノフは普遍主義がスラヴに押し付けようとする規範を「外から取り付け可能な外面的な体制」とするのに対して、それから擁護しなければならない「スラヴの独自の生」を「自己自身の内に見出」される体制としている。この外と内の対照は、先に見た経験的事実に基づく「現象論」と直観的に把握される「存在論」の対照と同じである。イワノフは普遍主義の押し付ける規範を経験的・歴史的なものと見なして脱本質主義化する一方で、スラヴの特殊性を自己自身の内面に見出されるヌーメン的本質と見なし、逆にそれを本質主義化するわけである。イワノフの普遍主義批判は、スラヴの特殊性を先験的な本質と見なす、特殊主義というもう一つの本質主義を産み出してしまうのだ。それでは、イワノフがスラヴ人の内面に見出されると主張する取り替え不可能な「体制」、直観的に把握されるヌーメン的な本質とは何なのか。

 イワノフにとって、それはソボールノスチである。ローゼンタールによると(32)、「ソボールノスチは本来、イエス・キリストの神秘的な身体の内での全信仰者の結合を含意する教会概念であり、ローマ・カトリック神学の教義でもあった」。だがそれを世俗的な社会理論として応用するのはロシア独自の現象であり、スラヴ主義のホミャコフに始まり、20世紀初頭には「宗教的ルネッサンスの支持者」(33)がそれをさらに急進化させることになる。彼らの理論によると、ソボールノスチとは「そのメンバーが個性を失うことのない、愛と信仰によって結合した自由な共同体」であり、それは「世俗的な社会主義や自由主義に対する、実現可能なオールタナティヴ」なのである。イワノフにおいても、ソボールノスチは何よりも個人主義や社会階級を解体して国民を全体化しようとする共同体概念であり、自由主義や社会主義のオールタナティヴとして機能している(34)。だが戦時期には、ソボールノスチはそうした社会理論としてよりも、むしろ普遍主義に対抗する特殊主義の概念として機能するようになる。たとえばイワノフは次のように述べている。

[ドイツ人のような]強制的な社会を建設することはできないけれども、スラヴ人は、この古来の内訌者は、コーラス的合意の、そして人々の非強制的な交流の神秘を、自らの精神の内に大切に抱いている。そうした非強制的な交流は、世界の中でも彼らの言語にしか自らの名前を持たない、それがソボールノスチである(35)

 われわれにとっては、《ソボールノスチ》という言葉の内には、大昔から直接的に理解されている、血のつながった、代々伝えられてきた、何かあるものが響いているのに、この言葉が外国語にはほとんど翻訳不可能であること、そのことに私は何か約束のようなものを感じる(36)  

イワノフにとって、ソボールノスチは「非強制的な交流」であるという点で優れた社会形態ではあるが、それと同様に、あるいはそれ以上に重要なのは、それが「外国語にはほとんど翻訳不可能である」ということだ。それは「翻訳不可能」、つまり輸出不可能である以上、もはや自由主義や社会主義のオールタナティヴではない。それはすべての国民が採用すべき普遍的な社会体制なのではなく、ロシア人の内面にのみ先験的に備わり、ロシア国民にのみ直観的に了解される、特殊ロシア的な国民的社会体制なのである。逆にいえば、それは外国語には翻訳不可能、つまり外国人には理解しえないのだから、それを他国民に強制することはできない。自由主義や社会主義がロシアには適用できないのと同様に、ソボールノスチもまた他国民にとっては本来性を持たないのである。戦時期のイワノフにとって、ソボールノスチはロシアに起源を持つ普遍的な社会理論というのではなく、そうした普遍性を主張しえない代わりに、他国民には理解不可能なロシアの特殊性を保証するもの、ロシアを普遍主義の規範には回収できないものにするという機能を果たしていたのである。

 たとえば、イワノフは論文「レギオンとソボールノスチ」の中で(37)、ドイツが共同生活の最高原理として「文化的組織」=「組織的文化」を普及させようとしているとしたうえで、それにソボールノスチを対置させ、ロシアの独自性を擁護しようとする。ここでイワノフが批判の対象にするのは、オストワルドという人物が提示する世界史の図式である。それによれば人類は三つの発展段階を経験する。まず〈群棲〉の段階、次に〈個人主義〉の段階、最後に〈組織〉の段階であり、ロシアはいまだ第一段階にとどまり、英仏が第二段階から抜け出せないのに対して、ドイツのみが第三段階に立ち、今世界に「文化的組織」をもたらしつつある。イワノフはこの典型的な普遍主義イデオロギーにソボールノスチを対置し、ロシアの特殊性を擁護しようとする。ドイツはバラバラになった個人を外から強制的に結合させ、個々人を専門化、機能化させるために国家の力を著しく増大させるが、その代わりそれは個々人の人格を破壊してしまう。それに対してロシアにはそれとは別の結合様式がある。個々人が本来の独自性や創造的自由を確立しつつ、自己の内面に共同性を見出すような結合、すなわちソボールノスチがあるというわけである。

 ここでのソボールノスチは、ドイツの普遍主義を相対化するものとして機能している。ソボールノスチはロシア国民の内面に先験的に書き込まれているものであって、それはロシア国民にとっては自由主義やドイツの組織と取替え可能なものではないし、したがってそれらの未発達な形態ではない。イワノフはディオニュソスをアポロンに対置したのと同じように、ソボールノスチをロシアの本来的な社会体制とすることで、ドイツが普遍的なものと主張する「組織」から規範性を奪おうとするわけである。戦時期のイワノフにとっては、ソボールノスチはこのように偽りの普遍主義に対抗するロシアの特殊性の原理として機能するのである。そしてこのソボールノスチこそが、イワノフの主張するロシアの特殊性の核心なのだと言える。それはスラヴ人の内面に先験的に備わり、スラヴ人には直観的に了解されるにもかかわらず、外国語には翻訳不可能なため他国民には理解できない。ソボールノスチはスラヴのアイデンティティーそのものなのである。

3.ソボールノスチの特殊と普遍

 われわれは前節で戦時期におけるイワノフの特殊主義について批判を交えながら検討してきた。それに対して批判的にならざるをえなかったのは、イワノフが人間主義やドイツの「文化」概念、またオストワルドの世界史の把握といった普遍主義イデオロギーに対して正当な批判を行なっているにもかかわらず、それに対抗してロシアやスラヴの特殊性を本質主義化しようとするからであった。それは普遍主義の本質主義的傾向を正当に批判しながら、別種の本質主義を産み出してしまっているのである。だが、イワノフの特殊主義は、トルベツコイやフランクの場合と同様、ロシア中心主義を帰結するものではない。イワノフが擁護するのは、ロシアの国民性ではなく、国民性一般である。偽りの普遍主義に対立するのはロシアの特殊性ではなく、あらゆる国民の特殊性であり、戦争によって確立すべき世界秩序は世界のロシア化ではなく、取り替え不可能な特殊性を有するすべての国民の平等な並存なのである。われわれはこれからそうしたことを明らかにしていくが、実はここにも問題がある。イワノフがあくまでも諸国民の特殊性を擁護するのは間違いないのだが、そうでありながら、彼の特殊主義は普遍主義に転化してしまう可能性を孕んでいるのだ。ここではそうした問題点も検証することにしたい。

3-1.諸国民の特殊性

 前節で見たように、イワノフの特殊主義はソボールノスチにおいて最高度の高まりを見せていた。それはスラヴ人には直観的に了解されるものでありながら、外国人には決して理解しえないという、スラヴのアイデンティティーそのものであった。だが皮肉なことに、イワノフの特殊主義が普遍主義に転化してしまうのは、まさにこのソボールノスチにおいてなのである。だが、誤解のないように断っておくが、イワノフは「ソボールノスチ」を西欧の「啓蒙」や「市民」、あるいはドイツの「文化」のようなものに仕立てようとしているわけではない。後者は普遍的と見なされるものであり、他国民にもそれを受け入れさせようとする同化主義的な傾向と不可分に結びついている。一方イワノフの「ソボールノスチ」はあくまでも特殊ロシア的な概念である。それは「外国語にはほとんど翻訳不可能」なのであって、そもそも輸出不可能な、多様な特殊の一つでしかないのである(38)。 

イワノフが決してロシア中心主義を主張していないこと、あくまでも諸国民の多様な特殊性を擁護しようとしていることは、例えば次のような主張から伺うことができる。

 ルーシの秘められた顔は神聖である、これがスラヴ主義の信仰であるが、この信仰の中には国民的傲慢さはない。この信仰は他者の聖物を排除するものではないし、全世界教会の多数の蝋燭を立てた燭台、全教会的=世界的な神人の身体のソボールノスチの中にある、他者の聖なる顔の数々、諸国民の天使たちを否定しはしない。逆にこの信仰は諸国民の顔の数々が持つ神秘的現実性の一般法則を要求することを基盤として立てられたものであり、それゆえそれは論理的にそうした他者を前提としているのである(39)

 スラヴ主義はロシアの聖性を主張するが、それは決して他国民の聖性を否定するものではなく、むしろ「諸国民の聖なる顔の数々」、つまり諸国民の神聖な特殊性を前提とするということだ。確立すべき理想的な世界秩序は、全世界教会の燭台に立てられた多数の蝋燭のように、諸国民がそれぞれの特殊性を主張しながら平等に並存する状態である。それを確立すべく、それぞれの国民は「一般法則」に従って、自己の「顔の神秘的現実性」、つまりヌーメン的な本質を明らかにし、自らの特殊性を確立しなければならない。ロシアが自らの聖性を主張するのも、そうした諸国民の「一般法則」に従っているからなのだ。

 こうしたイワノフの主張は、別の意図を隠し持っているという意味での虚偽意識ではない。たとえば彼は別のところでも(40)、ロシアは自らのキリスト理解を世界に示さなければならないと主張するが、これもロシアのキリスト理解を絶対化し、それを他国民に押し付けようとするものではない。イワノフによれば、キリストの直弟子でさえキリストを様々な見方で見るように、個々の国民にとってのキリストの神的現象は異なっているのだ。イワノフがロシアのキリスト理解に認めているのは、絶対的な真理性ではなく、それが示す「無限の価値を有するある種の特殊性」なのである。それゆえ、ロシアのキリスト理解を世界に示すことは、「他の諸国民からキリストを奪うことにはならない」のである。イワノフにとっては、ロシアの聖性でさえ諸国民の多様な聖性の一つなのである。彼の立場は自国民の特殊を他国民に押し付けようとする同化主義的な立場とは無縁なのである。

3-2.イワノフとトルベツコイ―メシアニズムとミッショニズム― 

ではイワノフの特殊主義はどのような回路を通って普遍主義へと転化するのか。だが、この問いに答える前に、上に見たイワノフの多元主義的な立場を時代の文脈に結びつけ、その思想的な意味をもう少し明確にしておきたい。西欧中心主義に対してロシア中心主義を対置するのではなく、偽りの普遍を排して諸国民の平等な共存を構築しようとする姿勢は、すでに見たように、ネオ・スラヴ主義の種差的な特徴の一つであった。ネオ・スラヴ主義者はかつてのスラヴ主義との差異に基づいて自己同定していたわけだが、その根拠は、スラヴ主義が西欧に対抗するものとしてロシアを特権化するのに対し、ネオ・スラヴ主義が、ロシアに限らずあらゆる国民の国民性を擁護するという点にあったのである。イワノフはそれを政治的というよりは宗教的なタームで語っているけれども、彼の思想は明らかに社会思想としてこうした系譜に属するのである。 

この論点を明確にするため、イワノフの思想をエヴゲーニイ・トルベツコイが「新旧の国民的メシアニズム」(1912)で展開している国民論と比較してみよう(41)。トルベツコイの論文は、この時期に行なわれた国民性に関する論争の一環として書かれたものだが(42)、彼はそこでブルガーコフとベルジャーエフの国民論を批判し、自身の国民論を展開している。トルベツコイが彼らを批判するのは、他でもない、彼らの国民論がスラヴ主義的思考を脱却できていないからなのだ。つまりこうした批判を通して、トルベツコイはスラヴ主義とは異なるネオ・スラヴ主義的思考を純化させているわけである。そしてわれわれが確認したいのは、このトルベツコイの思想とイワノフの思想に一致が見られること、つまりイワノフ自身はスラヴ主義を擁護するけれども、彼も思想的には純粋なネオ・スラヴ主義者だということである。ちなみに、興味深いことだが、トルベツコイにスラヴ主義的と批判されているベルジャーエフは、逆にイワノフを含めた同時代の思想家を「スラヴ主義のエピゴーネン」として批判している(43)。つまり、トルベツコイはベルジャーエフを、ベルジャーエフはイワノフをスラヴ主義的として批判するわけだが、この批判の系列の両端に位置するトルベツコイとイワノフに一致が見られるのである。この奇妙な循環には矛盾があるように見えるかもしれないが、おそらくそうではない。彼らはすべて「国民共同体の神学化」という同一の基盤に立ちながら、スラヴ主義の解釈において見解を異にしているのだ。だがこの問題は一旦置くことにして、今はトルベツコイの論文を検討することにしよう。 

トルベツコイはベルジャーエフにならって「メシアニズム」と「ミッショニズム」という区別を導入する。ベルジャーエフによれば、両者は「しばしば混同され、互いに置き換えられたりするが、それらの間には原理的な差異が存在する」。というのも、ミッショニズムが「あらゆる国民が自己の使命を持つ」と考えるのに対して、メシアニズムはただ一つの国民を「神の選民であり、その中にはメシアが生きている」と見なし、その国民に「唯一的な使命を要求する」からである(44)。つまり、ミッショニズムがすべての国民に等価な使命を見るのに対し、メシアニズムは選ばれた唯一の国民だけに特別な使命を想定するのである。トルベツコイはこの区別を援用してメシアニズムを批判する。かつては「全教会的=世界的理想」(45)が蔽い隠されていたため、ロシア思想は正教的=ロシア的なものを全教会的=世界的なものと無邪気に混同し、ロシアのナショナリズムを世界的使命と見なす、メシアニズムという「古いスラヴ主義的概念」に捉えられてきた。だが全教会的理想とロシアの地方的な理想が同じではないことが明らかな今、メシアニズムは全教会的な意味を失った異教的ナショナリズムにすぎない。今や全教会的理想=ミッショニズムと異教的ナショナリズム=メシアニズムのいずれかを選択しなくてはならないのだ。 

こうした前提のもと、トルベツコイはロシアには三つの道があるとする。そのうちの一つがミッショニズムとメシアニズムを両立させようとする道で、彼によればブルガーコフの国民論がこれに該当する(46)。われわれから見ると、ブルガーコフも国民を意識以前のもの、ヌーメンに属するものとして神学化し、またパトリオティズムとナショナリズムを区別して後者の危険性を指摘するというように、明らかにネオ・スラヴ主義的な傾向を示している。だがネオ・スラヴ主義を純化しようとするトルベツコイは、そこにもスラヴ主義の残滓を見出すのだ。ブルガーコフは意識以前の国民性が意識化されると国民的メシアニズムが産み出されるとしたうえで、それをナショナリズムと差異化するように、そこには禁欲が伴わねばならないとする。だが、トルベツコイにとってそれは矛盾である。メシア的国民は「世界全体を救済する」か「メシアではない」かのいずれかであって、禁欲を伴う「限定的メシアニズム」などはありえないのだ。また興味深いことに、ブルガーコフもイワノフと同様、それぞれの国民はキリストを別様に見ると主張する。そしてトルベツコイもこれは正当だと認める。だが彼はブルガーコフが諸国民のキリスト像(いわば現象としてのキリスト)をキリストそのもの(いわば物自体としてのキリスト)と取り違える過ちを犯していると言う。トルベツコイが言いたいのは、ブルガーコフはすべての国民をメシアに仕立て上げようとしているが、もしも諸国民がそれぞれのキリスト像が真実だと主張し、それぞれのやり方で「世界全体を救済する」と主張しはじめたら、それはメシアとメシアの無限の闘争を導く他はないということだろう。トルベツコイはこうした観点からブルガーコフの立場をミッショニズムとメシアニズムの混合物と見なし、結果的に両者とも死滅させてしまう思想であるとして、これを批判するのである。 

次に、トルベツコイは第二の道としてベルジャーエフの国民論を挙げる(47)。そしてそれを、ミッショニズムを認めず、スラヴ主義的なメシアニズムに固執する立場であるとして、徹底的に批判する。トルベツコイによれば、それは「最新の諸潮流といかなる妥協もせず、まったき純粋性と完全性のうちに国民的メシアニズムを主張する」ものであり、「宗教思想にとってきわめて危険である」。ベルジャーエフ自身の意図は、「メシアニズムとミッショニズムの混合」であるスラヴ主義をメシアニズムに純化することにある。彼にとってはメシアニズムこそが神秘的、可想的なものであり、それは経験的、現象的なナショナリズムとは対立するものなのだ。つまりメシアニズムを主張するベルジャーエフも、実は独自の仕方で国民共同体の神学化を試みているわけである(48)。だがトルベツコイがこうした主張を容認しないのは言うまでもない。彼は言う。「もしもベルジャーエフが、メシア的国民意識こそが『メシアへの信仰に貫かれた』全教会的・宗教的な意識だと考えるのであれば、それは他でもない、彼が変装した異教的ナショナリズムの不敵な欺瞞を見抜けていないことを意味するのだ」。ベルジャーエフは経験的・現象的なスラヴ主義を脱却し、国民共同体を神学化しようとして純粋なメシアニズムを主張するわけだが、トルベツコイにとっては、それはキリスト教的な「全教会的理想」を放棄し、あくまでもスラヴ主義の異教的ナショナリズムに忠実であろうとする反動思想でしかないのである。

 トルベツコイはブルガーコフとベルジャーエフに象徴される二つの道をこうして否定した後、自身の道、第三の道を提示する。それは言うまでもなく、スラヴ主義的なメシアニズムを放棄し、あくまでもキリスト教的な「全教会的理想」、ミッショニズムに忠実であろうとする道である。彼は言う。「偽りのアンチ・キリスト的メシアニズムから解放されることで、われわれは国民性の問題の、よりキリスト教的な解決に導かれることになるだろう。われわれがロシアに見るのは、唯一の選民ではなく、諸国民の中の一国民である。それは自らの貴重な特殊性を、同じぐらい貴重な他のすべての兄弟=諸国民の資質で補完しながら、神の偉大な事業を他国民とともに遂行する使命を与えられた国民なのである」。トルベツコイはスラヴ主義的な異教的ナショナリズムを脱却する可能性を、諸国民の平等な共存を前提とするミッショニズムのうちに見出すわけである。

 最初に言ったとおり、こうしたトルベツコイの思想とイワノフの思想には共通性がある。それらはいずれも偽りの普遍(メシアニズム)を排し、特殊の多性を擁護する思想である。冒頭で取り上げたあの宗教哲学協会の講演会でトルベツコイは次のように主張しているが、それはイワノフの主張に完全に重なる。「それぞれの国民の特殊性を保持しながら、精神生活のあらゆる領域においてそれらを広範に統一すること、すなわち文化の国民的表現の多様性の中で、世界中の文化の統一を実現すること、われわれが志向すべきなのは、こうした理想である」(49)。ミッショニズムに基づくトルベツコイのこの理想――諸国民の多様な特殊性を保持しながら、そこに統一性を確立すること――は、イワノフが「全世界教会の多数の蝋燭を立てた燭台」という比喩で語っていた世界秩序の理想と完全に重なり合う。イワノフはそれをスラヴ主義の遺産であると考え、トルベツコイはスラヴ主義の過ちを排したその対極の思想であると考えた。だがそれにもかかわらず、両者は同じ理想を共有しているのであり、それはネオ・スラヴ主義の一つの典型的な理想なのである。

3-3.特殊主義の普遍主義への転化

 普遍主義を排して諸国民の特殊性を擁護しようとするイワノフの思想は、メシアニズムを排してミッショニズムを確立しようとするトルベツコイの思想と一致する。それは国民共同体の神学化の原理をロシアに限らずすべての国民に適用することで、ネオ・スラヴ主義的思考を純化した時に必然的に現われる思想なのである。そのことを確認して先の問題に戻ろう。つまり、イワノフの特殊主義はどのような回路を通って普遍主義に転化するのかという問題である。その原因は、実はすでに引用したイワノフの主張の中に、イワノフが「全世界教会の多数の蝋燭を立てた燭台」について語っていたところにある。その部分をもう一度確認してもらいたいのだが、イワノフはそこでも「ソボールノスチ」という言葉を用いている。だがそれは前節で説明したソボールノスチとははっきりと異なっている。前節のソボールノスチはロシア固有の特殊な共同体の原理を表す概念であった。しかし先の引用で使われているソボールノスチは、そうした一国民の共同体の原理を表す概念なのではなく、すべての国民共同体が平等に並存する状態、すなわち世界秩序の原理を表す概念として用いられているのだ。ロシアの共同体もソボールノスチであるが、そのロシアも含めたさまざまな国民共同体が平等に共存する世界秩序もまた、ソボールノスチなのである。つまり、同じソボールノスチという概念が、オブジェクト・レベルでも(ロシアの共同体としてのソボールノスチ)、メタ・レベルでも(世界秩序としてのソボールノスチ)用いられるのであり、明らかに論理的な水準の混同が生じているのだ。

 だがこの論理的な水準の混同は、単純な論理の飛躍ではない。イワノフが諸国民の世界秩序をも「ソボールノスチ」と呼んでしまうことには、それなりの理由があるのだ。たとえば次のようなソボールノスチの定義を見てみよう。

 ソボールノスチは、それ[ドイツの組織]とは逆に、結合する諸個人がおのれの唯一の、反復不可能な独自の本質、すなわちおのれの全一的で創造的な自由を完全に闡明し、確定することを得るような結合である。そしてそうした本質は、個々人をすべての者にとって必要な、新しい、語られた言葉に仕立てるのだ。(50)

 これは言うまでもなく、ロシアの特殊な共同体概念としてのソボールノスチの定義である。それは諸個人の人格を喪失させてしまうドイツ型の組織とは違い、諸個人の個性や創造性を保持したまま、それらを結合するような共同体であるということだ。だが、この定義の「諸個人」の部分を「諸国民」に取り替えると、この定義はそのまま世界秩序としてのソボールノスチの定義になる。つまり、「ソボールノスチは諸国民の個性や創造性を保持したまま、それらを並存させる世界秩序である」、というようにである。イワノフが自らの理想とする世界秩序をも「ソボールノスチ」と呼んでしまうのは、論理的な水準の混同を別にすれば、それがまさにソボールノスチそのものであるからに他ならない。

 だが、こうした同一性に基づいた論理的な水準の混同にこそ、イワノフの特殊主義が普遍主義に転化してしまう回路がある。なぜならソボールノスチは「外国語には翻訳不可能」、つまり外国人には理解できないとされているからだ。すべての国民はソボールノスチという世界秩序の中で掛け替えのない存在として平等に共存できるわけだが、そうした世界秩序の原理はロシア国民にしか理解できないのだ。ロシアは決して他国民を同化することはなく、あくまで多様な特殊の一つにとどまるわけだが、それにもかかわらずロシアは世界秩序の原理であるソボールノスチを自己の内面に所有する唯一の国民として特権的な位置を占めてしまうのである。イワノフによる論理的な水準の混同をこのように批判するのは、あるいは揚げ足とりのように思われるかもしれない。だが世界秩序をもソボールノスチと呼ぶことで、イワノフがロシアという一国民の共同体の原理と世界秩序の原理を一致させてしまっているのは事実であり、それはトルベツコイがスラヴ主義に対して批判していた、「正教的なもの」と「全教会的なもの」を同一視するという錯誤とあまりにも酷似している。イワノフは同化主義のようにロシアの特殊性を水平に世界に拡大しようとはしないが、それを垂直に世界秩序と同一視してしまうのであり、結果的にはあらゆる普遍主義と同様、自国民の特殊と世界全体の普遍を混同してしまっているのである。

 だがもう一度確認しておきたいのだが、イワノフの立場はやはり同化主義的な普遍主義とは異なる。同化主義的な普遍主義は自国民の特殊を普遍と見なし、それを他国民に押し付けようとする。だがイワノフは決してロシアの特殊を他国民に押し付けようとしているのではない。それはイワノフの信念に反するだけではなく、彼の思想に矛盾を産み出してしまうのだ。というのも、もしもロシアの特殊が普遍化してすべての国民がソボールノスチを受け入れるなら、そうした世界は、逆にもはやソボールノスチではなくなってしまうからだ。ソボールノスチは多様な特殊がその個性を失わずに並存する共同体の原理なのであって、一つの理念が世界化してしまうなら、そうした世界はもはやソボールノスチではなくなってしまうのである。したがって世界秩序としてのソボールノスチを確立しようとすれば、ロシアの特殊性としてのソボールノスチは決して普遍化してはならず、常に特殊ロシア的なものにとどまり続けなければならない。同化主義的な普遍主義は自己の特殊を普遍と偽ることで世界化しようとする。だがイワノフの普遍主義は、あくまでも自己の特殊を特殊のままにとどめ、さらには他者の特殊を徹底的に擁護することによってはじめて成立するのである。イワノフの特殊主義は、特殊主義を徹底化するという回路を通って、逆説的に普遍主義に転化するのである。

4.イワノフとスラヴ主義―歴史と無意識―

これまでの節で、われわれはイワノフの戦時期の思想における特殊と普遍の相克を見てきた。イワノフの特殊主義は普遍主義に転化する危険を持っている。だがそれは同化主義的な普遍主義とは異なり、あくまでも自他の特殊性を徹底して擁護する逆説的な普遍主義であった。われわれが次に問題にするのは、こうした逆説的な普遍主義からどのような戦争論が構成されるのかということである。だがそれに取り掛かる前に、ここではその伏線となる議論を行なっておきたい。それはイワノフとスラヴ主義の比較である(51)。これまでにもイワノフの思想をネオ・スラヴ主義と関連づけることで、事実上スラヴ主義との比較を行なっているわけだが、ここではとりわけ両者の歴史哲学に焦点を当てる。それは言うまでもなく、歴史哲学が戦争解釈に大きな影響をもたらすからである。

4-1.スラヴ主義と歴史

 カール・マンハイムの知識社会学を援用してロシアの思想史研究を行なっているアンジェイ・ヴァリツキは、スラヴ主義を「保守的ユートピア」と規定し、次のように述べている。

 その意味で、スラヴ主義の哲学は保守的ユートピアと呼ぶことができる。それがユートピアであるのは、それが現存する現実と鋭く対照された社会的理想の包括的かつ詳細なヴィジョンであるからであり、またそれが保守的、あるいは反動的でさえあるのは、その理想が過去に設定されているからである(52)

 スラヴ主義は理想を未来に投影するユートピアの傾向を持つ一方で、その理想を過去に求める保守主義の傾向も持つということだ(53)。過去に理想を見出し、それを未来に投影するという特徴は、イワノフ=ラズームニクも皮肉を込めて次のように指摘している。

 スラヴ主義はチャアダーエフの世界観を裏返しにした。……ロシアの過去に対するチャアダーエフの鋭い否定は、スラヴ主義においては同じぐらい極端なその理想化に変えられる。またカトリックの世界史的意義は、正教の世界史的意義に変えられる。そしてロシアの歴史過程は進歩ではなかったというチャアダーエフの思想は、ロシアの発展の道だけが真の進歩だったというテーゼにすりかえられる(54)

 周知の通り、チャアダーエフは正教を受け入れたがためにロシアは世界史に何の貢献もしなかったし、これからもできないだろうとロシアの過去も未来も否定したわけだが、スラヴ主義はそれを逆転させ、ロシアの過去を理想化し、未来にその世界史的意義を見出していたというわけである。われわれはこの二人の指摘から、スラヴ主義の典型的な、そしてもっとも重要な特徴の一つが、ロシアの過去の理想化と、その理想的ユートピアの未来への投影にあると見てよいだろう。そしてこのことから言えるのは、スラヴ主義の思考様式を成立させる上で「歴史」という要素が極めて重要な役割を果たしていることである。

4-2.保守主義的思考としてのスラヴ主義 

スラヴ主義は現在を否定し、過去と未来を理想化する。そのパトリオティズムはロシアという空間とともに、過去と未来という二つの時間領域を要求する。だがそれはなぜなのか。ロシアの否定的な現状の代償として「歴史」が要請されるというのがその回答の一つだろう。だがそれでは不十分である。かりにスラヴ主義が不幸な現実に対する観念的な逃避というロマン主義的な傾向を持つとしても、それは観念の世界に充足して、現実に対する効果をまったく度外視したものではないからだ(55)。スラヴ主義的思考において「歴史」はそれとは別の機能を果たしている。まずはそうした機能を明らかにしなくてはならない。 

最初に指摘したいのは、スラヴ主義的思考が啓蒙主義の合理的ユートピアへの対抗という意味を持っていることである。マンハイムによると(56)、人間なら誰もが備えている「伝統主義」とは違い、保守主義は「社会が階級的に成層化した」近代においてはじめて成立する「精神的構造連関」であり、進歩主義の成立に対する「応答」として、伝統主義が反省的に結晶化することによって生じたものである。保守主義は近代的な思考様式であり、同じく近代的な進歩主義と一対となって現われるということだ。そして、進歩主義が「体系化への傾向」を示すのに対して、保守主義は「具体的なものへの執着」を示す。進歩主義は具体的なものとは切り離された合理的な「体系」を規範として世界を把握し、合理的な規範に適合するように世界を変革しようとする。それは唯一絶対の規範を出発点とする「合理主義的・演繹的思考」なのである。一方、保守主義は「具体的なもの」をそれに対置しながら、そうした思考に抵抗する。「具体的なもの」はそれぞれ固有の由来を持つのであり、それに合理的な規範を「演繹的」に当てはめることはできないというわけである。マンハイムはその例として「成文憲法」に対する保守主義の抵抗をあげる。法が「合理主義的・演繹的思考」の典型であることは言うまでもないが、保守主義者はそうした法の合理性ではなく、その成立過程を問題化するとした上で、マンハイムは次のように述べている。

 それとともに体系的発端と歴史的発端とが分離する、自然法的思考はなおいぜんとして意味発生と現実発生とが同時に生起したという仕方で構成されていた。契約説は意味発生的構成であると同時に現実因果的擬制であった。両者をはじめてはっきりと分離したのはカントである。そしてこれとともに、存在(生成)と法則との関係は、全時代にわたって集合的思考が没頭する活気ある問題になる。

 つまり、自然法のような体系はある歴史的起源を有するにもかかわらず、同時にあらゆる時代、あらゆる事例に普遍的に適応可能な「規範」として機能する。そこにおいては歴史と体系は分離しておらず、歴史的生成物は規範としての意味を有し、また規範は歴史的生成物に演繹的に適応されていたのである。だがこの啓蒙主義的思考に対抗する保守主義的思考は、体系と歴史を分離し、歴史を体系への反抗の拠点とする。つまり体系と見なされているもの(法)も実は歴史的な起源を持つのであり、これを様々な由来を持つ具体的な歴史的生成物に普遍的・演繹的に適用することはできないというわけだ。

 保守主義的思考において「歴史」が極めて重要な機能を果たしていることは明らかだろう。そしてここでスラヴ主義に戻るなら、ここにおいても「歴史」が同様の機能を果たしていることがわかるはずである。たとえば、イワン・キレーエフスキイはヨーロッパ文明の源泉の一つとしてローマ法に象徴されるローマの合理的文明を挙げ、この遺産を継承していないがゆえに、ロシアと西欧の間には越え難い溝があるとするわけだが、ヴァリツキによれば、「キレーエフスキイはその知的発展のスラヴ主義以前の段階においては、この状況を悔やむべきものと見ていたが、スラヴ主義者としての彼は、それを祝福すべきものと見なすようになった」(57)。周知のように、キレーエフスキイは啓蒙思想家として出発し、のちにスラヴ主義に転身する。スラヴ主義者としての彼にとって西欧の合理主義がローマ文明の継承だということは、それが絶対的・普遍的な規範ではなく、明確な歴史的起源を有すること、したがってそれとは別の生成過程を辿ったロシアにはそれを演繹的に適用できないことを意味するわけである。また「歴史」は西欧だけではなく、ロシアにも見出される。リャザノフスキイによれば、コンスタンチン・アクサーコフは「古代の資料から、古代のロシアには自由、調和、それに幸福が豊富に存在していたが、ピョートル大帝以降にそれらが消滅してしまったということを証明しようと、多くの時間と労力を費やしていた」(58)。「歴史」は体系を相対化するのと同時に、歴史的生成物たる文明を複数化する。合理主義的な西欧が規範ではなく一つの歴史的生成物である以上、それとは別の文明が存在するのは当然である。アクサーコフは西欧と対等に共存しうるもう一つの文明がロシアに存在することを、「歴史」に基づいて証明しようとするのである。それは歴史の主体として「国民」を創出することでもある。「歴史」の主体が人類や個人ではなく、国民である場合にのみ、歴史=文明の複数性は確保されるのだ。アクサーコフは「歴史」を参照あるいは創出することによって、ロシアが内なる統一性を持ち、外部との差異を有する有機的な集団的主体であることを確証しようとしていたのである。 

スラヴ主義的思考において「歴史」がきわめて重要な要因として機能していることは明らかだろう。それは西欧中心主義の合理的ユートピアを相対化し、それに対抗しうる集団的主体を立ち上げようとするものなのだ。そしてこのことから、イワノフとスラヴ主義に類似性があることも明らかになる。イワノフも西欧の偽りの普遍主義に対抗してスラヴの特殊性を擁護し、特殊の多性を主張するわけだが、これは、啓蒙主義の規範を相対化し、文明の複数性を主張するスラヴ主義とほとんど同じ図式に則った思考である。だが最初に述べた通り、それにもかかわらず両者の間には決定的な差異がある。それは他でもない、イワノフが「歴史」に対して否定的なことである。

4-3.イワノフと歴史

 イワノフの歴史観については別の所で論じたことがあるので(59)、詳細はそちらに譲りたいが、ここでもイワノフが歴史に対して否定的であったことを簡単に確認しておきたい。 

歴史に対するイワノフの否定的な態度は、ゲルシェンゾーンとの間に交わされた「二つの隅からの往復書簡」に窺うことができる(60)。それは文化をめぐる対話であり、物象化し実定化した文化が今や人間を抑圧しているとして、ルソー的な自然回帰を求めるゲルシェンゾーンに対し、イワノフが、文化の廃棄は何ももたらさない、文化の内には「聖なる記憶」としての文化もあるのだから、文化の廃棄は無神論的なデカダンスに他ならないと述べ、それに反論するというのが基本的な図式である。こうした図式だけを見ると、イワノフはむしろ文化の歴史を擁護しているように見える。実際ゲルシェンゾーンはイワノフを次のように批判する。「あなたには歴史を裁くことが絶えられないのです。……そして歴史に対する私の不遜な反抗があなたを脅かすのです」。だがこのゲルシェンゾーンの批判は的を外している。イワノフが擁護するのは文化の「歴史」ではなく、その中にある「何か神聖なもの」であるからだ。イワノフは歴史を水平な平面にたとえて次のように言う。

水平な平面には幾何学的模様だろうと唐草模様だろうと、何でも描けます。本質的なことはそれが平面であるということです。……あなたに宛てた私の言葉の意味は、垂直の線は、若いか老いているかにかかわらず、文化の全表面のあらゆる点、あらゆる「隅」から引けるということに尽きます。……文化の中には何か神聖なものがあるのです。

 歴史の平面にはどんな模様でも描くことができる。現代の物象化を克服するために過去への回帰を企てるゲルシェンゾーンの試みは、現存する模様を消して新たな模様を描こうとする試みであり、それが彼の言う「歴史に対する私の不遜な反抗」である。だがイワノフに言わせれば、ルソーの自然回帰、トルストイの簡易生活、デカダンの過去の理想化、これら歴史的過去への遡行を企てる試みはすべて、歴史の流れに逆行してそれに対抗しているようでありながら、実のところ歴史の平面を逃走しているにすぎず、決してこの平面から抜け出せないのである。イワノフは言う。「『逃げよう』、あなたはそう誘いますが、私はこう答えましょう、『逃げ場はありません。同一平面上を移動したからといって、平面の性質、移動する物体の性質には、何の変化ももたらされはしないのです』」。

 イワノフが言いたいのは、現代の物象化を克服しようとするなら、歴史の平面それ自体から離脱する必要があるということだ。イワノフにとって歴史とは、その背後にある永遠不変の本質を覆い隠している仮象にすぎないのである。そして物象化をもたらすのがまさにその歴史という仮象に他ならない以上、歴史の平面を水平方向に遡行してもまったく無意味なのである。そうではなく、歴史の背後にある本質へと向けて、歴史の平面から垂直の線を描き出し、歴史の平面それ自体を超出しなくてはならないのだ。彼がゲルシェンゾーンを批判するのもこの点に関わる。ゲルシェンゾーンは表層的な歴史とともに、その中に散在する「聖なる記憶」としての文化をも廃棄しようとするわけだが、「聖なる記憶」としての文化は表層的な歴史に内在しつつ、同時に歴史を超越した永遠不変の本質とどこかでつながっているような文化であり、それは歴史に内在する者が歴史を超越するために用いることのできる、唯一の媒体なのである。そうした文化を廃棄して過去へと回帰しようとするゲルシェンゾーンの試みは、歴史の平面を超出しえないばかりか、歴史を超越する唯一の可能性さえも摘み取ってしまうものなのである。「聖なる記憶」としての文化は、「若いか老いているかにかかわらず」、つまり歴史の新旧に関わらず、歴史の平面の至る所に散在している。現代の物象化を克服するために必要なのは、この内在的かつ超越的な文化を媒介として、歴史の平面の至る所に垂直の線を描きだすこと、そしてこれらの無数の線に導かれて歴史の平面そのものを超越することなのである。

 イワノフが歴史に対して否定的なことは明らかだろう。彼にとって歴史とは、超克すべき仮象にすぎないのである。だがこれをスラヴ主義の「歴史」と比較するには、こうした歴史観が彼の社会思想にどのように反映しているのかを見る必要がある。ここでは階層分化した民衆とインテリの再統合という19世紀以来の伝統的な問題に対するイワノフの独自な対応を見ておこう(61)。簡潔に言えば、イワノフはここでも過去への回帰を批判する。つまり、階層分化したインテリと民衆を統合する方法として、彼はインテリを民衆に回帰させようとする復古的な方法を退けるのである。イワノフはインテリを分裂した「批判的時代」のシンボルと見なす一方で、民衆をいまだ分裂を知らない「有機的時代」のシンボルと見なし、民衆を理想化しているように見えるのだが、それでも民衆への回帰を偽りの方法と見なすのである。イワノフによれば、民衆への回帰を求める復古的な思想は、民衆をロシア国民の「自然=本源」と同一視する錯誤を犯しているのだ。ロシア国民の真の「自然=本源」は、民衆でもインテリでもなく、両者が共有する「無意識」に見出されなければならない。イワノフにとっては、そもそも民衆とインテリという対立自体が現象的・経験的な諸事実の差異に基づいて捏造された対立、つまり歴史のもたらす仮象にすぎないのである。民衆や有機的時代がいかに理想的に見えようと、それらへ回帰することは歴史の仮象を実体化することにしかならない。そうした歴史の仮象を免れているのは、国民一人一人の内面に秘められた先験的な無意識だけである。そしてそうした無意識を参照すれば、歴史のもたらす仮象によって常に隠蔽されてきたもの、個々人の無意識に先験的に書き込まれた「国民の全体性」というイデーが直観的に把握されるはずなのである。すべての国民がこのような自己の無意識を参照するなら、インテリや民衆といった仮象のカテゴリーは消え、「国民」という真の主体が生成するはずである。インテリと民衆の真の統合は、歴史の仮象を免れた先験的な無意識を媒介にすることではじめて可能になるのである(62)。 

ここで語られていることの背景にある歴史哲学は、「二つの隅からの往復書簡」のそれと同じである。歴史的な過去への回帰、この場合にはインテリの民衆への回帰は何ももたらさない。復古的な問題解決は歴史の地平に閉じ込められたままで、そこから抜け出せないのだ。そうではなく、歴史に内在しつつそれを超越している媒体、ここではロシア人の「無意識」を媒介にして、歴史の平面の至る所に、つまりすべてのロシア人の内面に垂直の線を引くこと、それによって歴史の仮象は消え、先験的に定められた本来的な主体である「ロシア国民」という真の主体が生成するはずなのである。

4-4.歴史と無意識

 こうした社会思想を参照すれば、イワノフの志向がスラヴ主義と同一方向のものであることが分かるだろう。それは全人類とか個人とか、あるいは民衆やインテリといった社会階層に基づく偽りの主体ではなく、真の主体、国民という集合的主体を確立しようとする試みである。そうすることによってのみ、一つの規範を演繹的に適用する西欧中心主義の言説から逃れ、世界に多性を導入して、ロシアの独立性を確保することができるのだ。だがこうした共通性にもかかわらず、両者に決定的な差異があることはすでに指摘した通りである。スラヴ主義が国民主体の根拠を「歴史」に求めるのに対して、イワノフは「歴史」を否定し、「無意識」にその根拠を求める(63)。イワノフにとって国民の全体性という理念は歴史的な生成物ではなく、歴史のもたらす仮象によって常に隠蔽されてきたとはいえ、歴史を超越して国民の無意識に常に潜在してきたものなのだ。スラヴ主義が「伝統の創造」によって国民主体を仮構するのだとすれば、イワノフは「集合的無意識の創造」によってそれを行なうのである。われわれが「国民共同体の神学化」と呼んできたネオ・スラヴ主義の特徴は、この「歴史」から「無意識」への転換によってもたらされるのだ(64)。 

スラヴ主義の国民主体は歴史的に生成したものであり、それは歴史の主体として、西欧が世界史的意義を果たし終えた後、自己の世界史的意義を世界に示す。それに対してイワノフの国民主体は歴史的に生成したものではない。それはいかなる起源も持たない、先験的に与えられた「無意識」に基づくものである。そしてそれに対応するように、この主体の使命は歴史的なものではなく、歴史的な生成変化とは関わりのない、先験的な世界秩序――諸国民が平等に共存するソボールノスチ――を構築することにある。西欧に代わって自国民の世界史的意義を果たそうとすることは、イワノフ的に言えば、西欧の偽りの普遍主義に対して、自国民の偽りの普遍主義を対抗させるものでしかなく、それでは歴史の地平から抜け出せない。重要なのは、偽りの普遍主義を生み出してしまうような仮象の世界秩序を解消させることなのだ。無意識に根拠を置くこうしたイワノフ的思考は、世界戦争に対する彼の形而上学的な意味づけに大きな作用を与える。イワノフが世界戦争をどのように概念化していたのか、次節ではこの点を論じることにしよう。

5.世界戦争の形而上学

 冒頭に取り上げた宗教哲学協会の講演会で、イワノフは《ん褄褊?D 蒟・》(「全教会的=世界的事業」)という標題で講演を行ない、始まったばかりの戦争を形而上学的・宗教的に意味づけている。われわれはこれまでいくつかの面からイワノフの思想に焦点を当ててきたが、最後にこの講演をもとにイワノフの戦争論を検討することにしたい。ここで明らかにするのは、彼の戦争論がフランクが批判していた「戦争のスラヴ主義的概念化」とは異なっていることである。すでに指摘したように、「戦争のスラヴ主義的概念化」はロシアと西欧の二項対立を軸とする思考であり、それゆえ聖戦論的な戦争観を導きやすい(65)。イワノフのネオ・スラヴ主義的な戦争論が、こうした聖戦論の図式には収まらない独自の戦争論を産み出していること、ここではそのことを明らかにする。ところでその宗教哲学協会の講演会について、アレクセイ・ローセフが回想を残しているが(66)、そこでローセフはイワノフの講演の後、トルベツコイがその講演を冷やかし気味に「詩的」と揶揄する光景を想起している。イワノフの講演はたしかにいくぶん現実離れした「詩的」な、またローセフ自身の言葉でいえば「独創的」で「神秘的」な性質を持っている。だがそれを詩人による戦争の「詩的」な概念化として済ませるわけにはいかない。そこにイワノフ特有の「詩的」な皮膜があるとしても、それは間違いなくネオ・スラヴ主義的思考を基盤とする戦争の概念化なのである。イワノフが戦争を自らの「詩的」な世界に取り込んで美学化してしまうことも問題とすべきだが(67)、その前にイワノフの戦争論の内実を正確に見極めておくべきだろう。

5-1.二つの全体性

 イワノフの戦争論は聖戦論ではないと言ったが、それは彼が戦争を宗教的に解釈していないということではない。逆に彼はこの戦争を何よりも宗教的な出来事と見なしており、彼の戦争論は表面的には聖戦論とほとんど変わらないように見える。たとえば、彼は「文化」を人間の最高の価値として唱導するドイツを、無神論的な幸福を約束して諸国民を誘惑する大審問官、アンチ・キリストに喩え、その一方で「われわれはキリストの十字架とともにある」と主張する。そしてさらに、「この神聖なる日々に、我らの祖国は全教会的=世界的な事業を成し遂げつつある」(68)とも主張する。こうした言葉によってイワノフがドイツの普遍主義とロシアの普遍主義をアンチ・キリストとキリストの対立として概念化し、ロシア的原理を世界化することこそがロシアの「事業」であると主張しているのだとすれば、それは聖戦論以外の何ものでもない。だがイワノフの主張はやはり「スラヴ主義的」な聖戦論とは異なる。問題は、イワノフがロシアの「事業」を形容するのに用いている糂褄褊?韜(全教会的=世界的)という言葉にある。それは次のように定義されているのだ。

 現代の出来事の糂褄褊?韜な意義を認めはするものの、私は戦争の旋風が世界の半分を包み込んだとか、その旋風の荒れ狂った息づかいのもとでもたじろがなかった市民共同体がこの地球の全表面にまったく存在しなかったとは言いたくない。 ・?粽驕m世界的]とか、糂褌頏Z驕m全世界的]という巨大な言葉でも抱えきれないような何かを、教会は糂褄褊?韜 という言葉で言い表すのだと、我々に教えてくれた。我々はこの言葉を外面的・空間的な意味ではなく、深層的・精神的な意味で用いる。正当な権利を持って糂褄褊?韜 と名づけられるのは、分裂した宇宙の孤立した諸部分の総和に数量的に関わるものではなく、世界の魂の内面的な生きた総体を超感覚的に意味するものである。糂褄褊?韜な事業という時、私は精神の行為、精神的な事業のことについて述べている。ソボールな統一体としての人類とは、精神と真理の中にある人類なのだから(69)

 イワノフはここで二つの全体性を提示している。一つは ・?粽・あるいは 糂褌頏Z・と名指される全体であり、それは外面的・空間的な全体性を指示する。そしてもう一つの全体が 糂褄褊?韜 という概念で表わされる全体であり、それは深層的・精神的な全体性を意味する。イワノフがここで述べているのは、今行なわれている世界戦争は ・?粽・あるいは 糂褌頏Z・な世界の全体を覆い尽くしたかもしれないが、それには包摂されないもう一つの全体が存在すること、そしてこの戦争におけるロシアの「事業」は、他ならぬそのもう一つの全体、糂褄褊?韜 な全体に関わるということだ。

 イワノフの戦争論がスラヴ主義的な聖戦論と異なるのはここにおいてである。スラヴ主義的な戦争論は、西欧的原理の崩壊の後にロシア的原理が世界化するという構図で戦争を概念化するわけだが、それはイワノフ的に言えば ・?粽・あるいは 糂褌頏Z・な全体、すなわち外面的・空間的な全体の領有をめぐる争いであり、二つの原理はそうした全体を求めて同一の地平で争うのである。それに対してイワノフの戦争論の場合、対立する二つの原理はそもそも同じ地平に立ってはいない。ドイツは外面的・空間的な全体を領有しようと侵略行為を行なっているが、ロシアは空間的な全体ではなく、それとは別のもう一つの全体、「深層的・精神的」な全体、糂褄褊?韜 な全体に働きかけているのである。ロシアはたとえドイツが地球の全表面を領有することに成功したとしても、それでもドイツが取り逃してしまうような、もう一つの全体に働きかけているのであり、ロシアの「事業」はそもそもドイツの普遍主義と対等な立場で対立するものでさえないのだ。イワノフはアンチ・キリストのドイツに対してロシアをキリストと見なしていたが、このキリストはアンチ・キリストと世界の覇権をめぐって争っているわけではない。イワノフの言うキリストとアンチ・キリストは「スラヴ主義的」な二項対立を構成しないのである。

 二つの全体性を想定するイワノフの議論はスラヴ主義的思考には適合しない。それはネオ・スラヴ主義的思考に基づく戦争論なのである。イワノフのネオ・スラヴ主義的な性格はすべての国民の特殊性、直観的に把握される諸国民のヌーメン的な本質を擁護しようとするところにあった。イワノフにとって、すべての国民の本質は可視的・経験的な事実にではなく、先験的な無意識に存在するのであった。そしてそうした自己の無意識的な本質を自覚した諸国民が平等に共存する世界秩序がイワノフの理想であったわけだが、そうした世界秩序は、他ならぬ糂褄褊?韜 な全体にのみ成立しうるのである。先の引用にあるように、空間的な全体は「分裂した宇宙の孤立した諸部分の総和に数量的に関わるもの」でしかない。こうした全体は、可視的・経験的な事実に基づいて恣意的に分割し、境界を変更することが可能であり、そのため、全体を領有しようとする偽りの普遍主義を産み出してしまう。それに対して 糂褄褊?韜 な全体は「世界の魂の内面的な生きた総体を超感覚的に意味するもの」である。それは直観によって把握される先験的な全体であり、それゆえ本来的で変更不可能なのである。それは自己の無意識を自覚した諸国民によって構成されるはずだが、そこにはもはや恣意性が存在しない以上、偽りの普遍主義が生まれることもなく、諸国民は先験的に定められた自己の特殊性を保持しながら、総体としてソボールノスチという本来的な世界秩序を構成するはずなのである。空間的な全体の領有を求めてドイツと争うのではなく、諸国民の平和共存という先験的で変更不可能な世界秩序を確立するため、空間的な全体に代え、それとは異なるもう一つの全体を開示すること、それこそがイワノフの言うロシアの「事業」なのである。二つの全体性を想定するイワノフ戦争論は、歴史を無意識に転換するネオ・スラヴ主義的思考に適合しているのだ。

5-2.世界戦争と世界の全体化

 イワノフの戦争論において極めて重要な意味を持つ二つの全体性を確認したが、ここではそれについてもう少し別の角度から考えてみたい。それを考える上で有効な手掛かりになるのは、世界戦争に関する西谷修の解釈である。ここでは西谷が世界戦争をヘーゲルの「歴史の終焉」との関係で考察している部分を参照する(70)。西谷によると、ヘーゲルの〈歴史〉とは人間が外部の世界を人間的に作り変えていく過程であり、それは〈否定〉の働きによって推進される。周知のように、ヘーゲルの〈否定〉は単なる破壊ではなく、それを通じて対立物を自己の内に取り込む働きである。こうした〈否定〉の働きを通して、人間は外部の世界、とりわけ自然を人間化していくのである。そしてもはや〈否定〉すべきものがなくなり、世界が人間化し尽くされて、人間的な世界が全体化した時、ヘーゲルの言う〈歴史の終焉〉が訪れる。ただ西谷によると、ヘーゲルの見た全体性とは、「現実にはナポレオンの体現したヨーロッパの全体性にすぎなかった」。その時ヨーロッパの外にはいまだ「人間化」されていない外部の世界が存在していたのである。世界の真の全体化は、世界が植民地でくまなく埋め尽くされた時、西欧の〈人間的世界〉が自然を〈否定〉してそれを人間化するだけではなく、非西欧世界の人間をも〈否定〉し、それによって彼らを自己の内部に取り込んで「人間化」した時、はじめて完成するのだ。ヘーゲルから約一世紀の後、世界の植民地化が完了し、ヘーゲルが理念的に完成させた世界の〈全体性〉は、現実においても完成する。だが西谷によれば、これでも〈歴史の終焉〉は訪れない。世界の人間化が完成し、もはや〈否定〉すべきものがなくなった後にも、〈人間〉は何か〈否定〉すべきものを探し求めてしまうのであり、結局完成したばかりの人間的世界そのものを〈否定〉してしまう、そしてそれが〈世界戦争〉だったというのである。 

西谷はこのように世界戦争を解釈する。人間の否定性は世界を人間化し、全体化する方向に働くが、世界の全体が完成した後にも何かを否定しようとして、結局完成したばかりの世界全体を破壊してしまうというわけである。こうした西谷の戦争解釈はあまりにも観念的に見えるかもしれない。だがこの解釈は、膨大な資料を駆使したレーニンの『帝国主義』の主張からそれほど遠くはないように思える。レーニンの主張は、帝国主義化した列強諸国が世界を分割し、それらが世界をくまなく植民地で覆い尽くしていくが、もはや植民地化すべき土地が無くなったとき、つまり世界が植民地によって全体化したとき、その全体化した世界の再分割が要請され、世界全体を巻き込む戦争が不可欠になるということである(71)。細部は異なるかもしれないが、有限な世界が全体化して外部が無くなると、それまで全体化の実現に向けられてきた力が行き場を失い、完成した全体を壊して再編する方向に向かうという基本的な主張は両者に一致している。ともかくここでわれわれが確認したいのは、第一次世界大戦の発生した時代が、近代とともに始まった世界の全体化の過程が完了し、その再編が試みられた時代であったということである。 

ここでイワノフに戻ろう。イワノフが世界の全体化という事態を背景に思考していることは明らかである。彼が空間的な世界とは別にもう一つの全体を切り拓こうとするのは、空間的な世界がすでに全体化してしまったからなのだ。西谷は全体化した世界に対する〈否定〉としてそれを破壊する世界戦争が起こるとするわけだが、イワノフの場合には全体化した世界に対する〈否定〉として現われるのは、他ならぬもう一つの全体なのである。イワノフの糂褄褊?韜な全体も、世界戦争そのものと同様に、〈否定〉すべきものが無くなった世界における、全体化した世界それ自体に対する〈否定〉なのだ。世界の全体化は外部の消失をもたらし、それが世界の再分割としての戦争をもたらすわけだが、イワノフが行なおうとするのは、地球の表面を覆ってしまった空間的な全体とは異なる、もう一つの全体を切り拓くことで、全体化した世界に新たな外部を創出しようとすることなのである。

 スラヴ主義は世界史的意義を果たし終えた西欧に代わってロシアが世界史的意義を果たすと主張するわけだが、スラヴ主義の時代にはいまだ世界の全体化は完了していなかった。西欧が進行させつつあった〈否定〉の過程、世界の人間化の事業にロシアも参加する可能性はいまだ存在していたのである。しかし世界の全体化が完了してしまった以上、スラヴ主義の主張を繰り返すことはできない。こうした状況の中では、ドイツのように全体化した世界を「再分割」という形で〈否定〉するのが一つの方法になるわけだが、イワノフはそうした方法を採らない。そうではなく、彼は全体化してしまった世界を「外面的・空間的」な全体に過ぎないものと見なし、それとは別のもう一つの全体を仮構することで前者を〈否定〉するのである。こうしたイワノフの試みはたしかに「詩的」(トルベツコイ)であり、また「神秘的」(ローセフ)でもある。だが彼が世界の全体化という事実を正確に捉え、それを思想的に問題化しえていたことは、強調するに値する事実であろう。

5-3.世界戦争と新たな地平への超出

 イワノフの戦争論の背景には、西欧による世界の植民地化の完了、人間的な世界の完成という歴史的な事実がある。こうした状況の中で、イワノフは世界の再分割を求めてドイツと争うのではなく、もう一つの全体を開示しようとするのだ。では空間的な全体はイワノフにとってまったく無意味だったのかというと、もちろんそうではない。前節でイワノフとゲルシェンゾーンの往復書簡を取り上げたが、そこでイワノフは過去の文化の廃棄を求めるゲルシェンゾーンを批判していた。それは過去への回帰が歴史の平面を移動するだけでそこから超出できないという理由によるのだが、もう一つ、ゲルシェンゾーンの試みが歴史とともに「聖なる記憶」としての文化をも廃棄してしまうからだった。イワノフにとって「聖なる記憶」としての文化とは歴史に内在しつつも、同時に歴史の外部にある永遠不変の本質とどこかでつながっているような文化である。つまり、それは歴史に内在する者には、歴史を超越した本質に触れるための唯一の媒体であり、それを失うと歴史の超克は不可能になってしまうのだ。世界戦争における空間的な全体は、イワノフにとってはここでの「文化」と同じ意味を持っている。諸国民にとっての固有の空間は、諸国民が自らのヌーメン的本質を把握し、それを実現するための不可欠の媒体なのである(72)。したがって、そうした空間を領有しようとするドイツの侵略を阻止することは、イワノフにとってもやはり重要な課題なのである。 

しかしそうであるとはいえ、イワノフにとって重要なのは、やはり 糂褄褊?韜 な全体である。この戦争は空間的な全体の領有をめぐって争われており、ロシアもそれに参加してはいるけれども、ロシアにとっての真の「事業」は、やはりもう一つの全体、糂褄褊?韜 な全体を開示することなのである。イワノフは言う。「世界の運命の最も重要なすべての糸は、今や一つの悲劇的な結び目に結び合わされている。戦争は人間精神の根本的な道を選択するべく行なわれているのだ」(73)。戦争は世界の全体化の帰結であり、この戦争には世界中のすべての国民の運命が結び合わされてしまっている。世界化した戦争は不可避的に一つの国民ではなく、全体化した世界そのものの運命を左右してしまう。そしてその全体化した世界は、いま選択の時を迎えている。空間的な全体に固執し、偽りの普遍による無限の闘争を繰り返すのか、それとも諸国民が自己の特殊なヌーメン的な国民性を自覚してもう一つの全体に移行し、そこに世界秩序としてのソボールノスチを確立するのか。イワノフにとって、この世界戦争は人類が自己の無意識を意識へともたらし、歴史を越えた先験的な秩序を確立するための、一つの契機となる出来事なのである。空間の領有をめぐって争われる戦争にはそれほど大きな意味はない。この戦争を契機として人類が新たな段階を迎えられるか否かが問題なのだ。イワノフは次のように述べている。

 ピョートル・クロポトキンが……言うように、本当に「今日の戦争は新しい歴史を創り出しつつある」。我々はいまだに自分たちがどこにいるのか、我々とともにあるのは何なのかを理解していない。我々はまだ、あたかもすべてがかつての場所に残っているかのように思いなしているが、しかし我々はすでに別の環境に連れてこられているのであり、……新たな空間で活動しているのだ。この三ヶ月という間隔には深淵が横たわっており、あたかも古い時代と新しい時代を分割する時間の穴がそこに開いているかのようなのである。我々が創造しつつある事業はまだ、我々の前に控えている肯定的な 糂褄褊?韜 な事業へ到るための過渡期、ないしは敷居であるに過ぎない。しかし敷居を越えなければ、我々の最終的な使命も果たされることはないであろう(74)

 この戦争は вселенскийな事業へ到るための「敷居」にすぎない。ドイツはいまだ空間的な全体を求めて戦争を行なっているが、われわれはすでに「新たな空間で活動している」のであり、ドイツと闘うことは「われわれの最終的な使命」ではない。ロシアの使命は「肯定的な вселенскийな事業」、つまりはもう一つの全体を開示し、世界秩序としてのソボールノスチを確立することなのだ。ただ世界戦争は「最終的な使命」にとっては過渡期であり、「敷居」であるかもしれないが、それはすべての糸が結び合わされてしまったこと、つまり世界が全体化してしまったことを決定的に明らかにした、きわめて重要な出来事でもある。それゆえ戦争が始まってからの三ヶ月には「深淵」が横たわり、「時間の穴」が開いている。それは単なる時代の分割線ではない。イワノフはクロポトキンの「新しい歴史」という言葉を引用しているが、イワノフ的な思考に従って言えば、それはむしろ世界が外面的な歴史の段階から歴史を超越した段階へと移行することによって生じた「時間の穴」なのである。世界戦争という「敷居」の先には、深層的・精神的な、вселенскийな全体が開かれ、そこに自己の無意識的な本質を自覚した諸国民による世界秩序としてのソボールノスチが確立されるはずなのだ。この段階への移行を実現すること、それこそが、ソボールノスチの意味を直観的に把握できる唯一の国民、ロシア国民の使命なのである。

5-4.戦争論のまとめと批判

 イワノフの国民論は、他のネオ・スラヴ主義者の場合と同様、国民共同体を神学化し、すべての国民を神聖なものと見なすことで「スラヴ主義的」なロシア中心主義に陥ることを回避しようとするものであった。そこから生じる彼の戦争論も、上に見た通り、自民族中心主義の無限の闘争を回避するため、空間的な全体に深層的なもう一つの全体を対置し、恣意的な再分割を許さないような、本来的な世界秩序を構築しようとするものである。だが最初に指摘したように、彼の国民論には問題点があった。つまり、国民共同体の神学化はネーションの差異を絶対化することで、それ以外の多様な差異や矛盾を抑圧してしまうのだ。また諸国民の平和共存というイワノフの理想は、ロシアにのみ固有の共同体であるソボールノスチと論理的な水準を超えて一致してしまうものであり、結果的にロシア国民のみがそれを直観的に把握できるという帰結を産み出す危険性を持っていた。イワノフの国民論が陥ったこうした陥穽は、彼の戦争論にもそのまま現われている。彼は空間的な全体の再分割を、批判というよりはむしろ否認しようとして、神秘化された先験的な全体を仮構するわけだが、それは世界秩序を神学化するという形で、国民論の本質主義を拡大して繰り返しているにすぎない。また彼はロシアに空間的な全体の領有を認めないかわりに、もう一つの全体の開示をロシアの「事業」と見なし、結果的にロシアを特権化してしまっている。イワノフが世界の全体化と再分割という時代状況を思想的に問題化しえていることは認めなくてはならないが、ここにも彼の国民論と同様の問題が付きまとっていることも忘れてはならないだろう。

むすび

 国民論や戦争論を中心に、イワノフの戦時期の思想をさまざまな観点から考察してきた。ここでは結びとして、その個々の点を取り上げるのではなく、その全体を大きな輪郭でまとめ直しておくことにしたい。本稿の論述の全体にわたって重要なポイントになっていたのは、イワノフの思想とネオ・スラヴ主義の間に見られる共通性であった。まずはこの点から問題にしておこう。両者の思想の根幹にあるのは、国民共同体を先験的に定められた変更不可能な統一体と見なそうとする傾向、本稿の言葉でいえば、「国民共同体の神学化」の傾向であった。両者に共通するその他の傾向はここから派生するのである。たとえば彼らが諸国民の平和共存を理想化し、それを侵害する普遍主義やメシアニズムを徹底して批判するのも、彼らがすべての国民共同体を先験的に定められたもの、したがって神聖で変更不可能なものと見ていたからに他ならない。われわれは彼らの思想の根幹にある、この「国民共同体の神学化」の傾向を、第四節ではスラヴ主義の国民論と比較した。そこで明らかになったように、この傾向は彼らが国民的同一性の根拠を「歴史」から「無意識」へと転換したことの帰結として現われたものであった。「歴史」とは経験的・現象的・可視的なものを代表するものであり、「無意識」とは先験的・超越的・不可視なものを代表するものであるが、こうした二項対立がネオ・スラヴ主義、そしてイワノフの思想を貫いている。定式的にいうなら、経験的な歴史を超越するものとして先験的な無意識を想定し、その無意識的な本質の現実態を国民共同体に見出すこと、そうした傾向がネオ・スラヴ主義を方向付けており、またそれがイワノフとネオ・スラヴ主義を同時代の現象としてつないでいるのである。

 われわれが考察してきたイワノフの戦時期の思想は、すべてこうした二項対立に方向付けられている。イワノフが諸国民の特殊性を擁護して普遍主義を批判するのは、諸国民の特殊性がそれぞれの国民の無意識に先験的に書き込まれた本来性だからであるし、また彼の戦争論が二つの全体性を想定するのは、彼が歴史的なものが成立する空間的な全体とは別に、無意識的なものが成立するもう一つの全体を仮構しようとしたからであった。そしてわれわれはこうしたイワノフの思想を批判的に検討してきたわけだが、そのポイントは大きく言って二つあった。一つはネオ・スラヴ主義全体にいえることだが、彼らが国民共同体を先験的な統一体と見なすことで、ネーションに回収されない多様な差異や矛盾を抑圧してしまうことであった。彼らが「国民」を無意識的な本質と同一視することで、逆に歴史的に生成した「階級」を二次的な、あるいは偽りの集団と見なすのはその典型的な現われであるし(75)、またイワノフが普遍主義の本質主義的傾向を正当に批判しながら、同時に特殊主義というもう一つの本質主義を生み出してしまうことも、彼が国民を変更不可能な本来性と見なすことに由来するのである。そしてもう一つの批判は、あらゆる普遍主義を徹底して排除したはずのイワノフの世界秩序の理念が、それにもかかわらず新たな普遍主義に陥る危険があるということであった。イワノフは自国民の特殊を水平に拡大して世界の普遍に転化しようとする同化主義的な普遍主義を批判し、実際にロシアの特殊な共同体の原理であるソボールノスチをあくまでも特殊ロシア的なものにとどめ、それを諸国民に押し付けようとはしないにもかかわらず、そのソボールノスチの原理を論理的な水準の違いを超えて世界秩序にもそのまま当てはめてしまうことで、特殊と普遍を垂直に混同していたのであった。ネオ・スラヴ主義がスラヴ主義的な自民族中心主義を回避しようとしていたこと、イワノフが普遍主義の本質主義的傾向を正当に批判していたこと、そうしたことを認めつつも、上に挙げたような問題点は見過ごされてはならないだろう。 

最後に、本稿では扱えなかった問題を今後の課題として示しておくことにしたい。まず「国民共同体の神学化」の傾向について、本稿ではその主要な特徴に関して考察してきたわけだが、そうした傾向が生じた理由については検討することができなかった。もちろんそれには時代状況が大きく関わっているのは間違いない。第五節で指摘したように、この時代は世界の植民地化が完了し、世界がはじめて全体化を経験した時代である。また、ネオ・スラヴ主義者が国民共同体の超越性を楯にして階級を否認しようとすることからも窺えるように、この時代はロシアで社会の階級化が進み、その対立が先鋭化しはじめた時代でもあった。こうした時代状況が、国民を神聖視する傾向が生じる最も重要な要因の一つであることは間違いないだろう(76)。だが、この問題についての詳細な検討は、ネオ・スラヴ主義の総合的な研究とともに、今後の課題としなくてはならない。また、「はじめに」で指摘したように、イワノフの戦時期の思想は、その普遍主義批判に見られるように、ネーションを国際関係という外的な視点から問題化しており、そのことによって彼の戦前の美学の政治的な志向がなぜ常にネーションの問題に回収されるのかを明らかにしてくれる。だが、イワノフの思想においては美学の政治化だけではなく、政治の美学化も問題にしなくてはならない。本稿で扱った戦時期の思想には、もちろん直接的な形で美学が介入することはないのだが、両者が切り離しえないこともたしかである。たとえば、第五節で扱った戦争論において彼が提示する二つの全体性に関して言えば、経験的な諸事実に満たされた空間的な全体は、当然のことながら自然の必然性を伴っており、主観による自由な構成を拒絶する。それに対してイワノフが新たに仮構しようとするもう一つの全体は、経験的な事実から遊離した全体であって、この全体は主観による美的な構成を許容するものである(77)。おそらくはこうしたところにイワノフの政治の美学化が潜んでいるはずであるが、慎重な検討を要するこの問題に関しても、やはり今後の課題とすることにしたい。


Summary in Russian