Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.
序論 |
1.クリーヴランドへのハンガリー王国からの移民 |
2.ハンガリー系エスニック集団の形成 |
3.ハンガリー系エスニック集団とクリーヴランド |
結 論 |
注 |
要約 |
(1) 19世紀クリーヴランドと東欧移民
(2) 移民とその生活世界
クリーヴランドは、中央部を流れるカイヤホーガ川を起点として東西にイースト・サイドとウエスト・サイドが広がっている。ハンガリー王国からの 移民は、こ の両サイドに居住拠点を有していた〈図2〉。 1880年代、ハンガリー王国からの集団移民の増加に伴い、イースト・サイドの中心部であるヘイ・マーケット付近、エリー湖東岸に居住していた初期の移民 は、同サイド南東部へと移動した。その地区は大規模な製鉄・鋳造工場が建ち並ぶ一大工業地帯となり、集団移民を非熟練労働者として大量に雇用した。 1881年に設立されたエーベルハルト製造会社では、ボヘミア諸州出身の鋳造部門監督の下、ハンガリー王国からの移民が多数働いていた (25) 。集団移 民の大半が居を定めたバカイ・ロード地区は、ハンガリー王国からの移民が、ボヘミア諸州からの移民と共有する居住区であった (26) 。そし て、その周辺には、工場で働く住民向けの商店、診療所、外貨交換・送金、船切符を手配する代理店等が立ち並んだ。これらの大半は、蓄財をし、事業を始めた 初期の移民やその子弟によって経営されていた (27) 。 集団移民は、負債精算、家の改築、土地購入等の蓄財を目的とし、多くが単身で訪れた。数年での帰国を予定していたため、より良い雇用条件を求めて頻繁に移 動を行った。移民は、まず親族や同郷の知人を寄宿先として頼ったが、そのような手だてがない者は通じる言語いかんによって他の東欧移民と同じ宿舎に宿を求 めた。初期に到着したハンガリー王国からの移民の中には、旧ポーランド地域、ボヘミア諸州出身、あるいはドイツ系移民によって経営されていた宿舎に宿を探 した者もいた (28) 。 他方ウエスト・サイド側には、1870年代までに到着したハンガリー王国からの熟練職人が、ドイツ、ボヘミア諸州からの熟練労働者と共に居住していた (29) 。ウエス ト・サイドには、アバウイ‐トルナ県出身で後に商工会議所の会員となったクンツの工場があった。クンツは小規模な作業場から始め、工場の規模拡大に伴い出 身村や近隣から熟練職人を呼び寄せた (30) 。 ウエスト・サイドには、イースト・サイドに見られたような王国からの移民が集住した通りや地区は形成されなかった (31) 。 両サイドのハンガリー王国からの移民は、ほとんど相互交流もないままに各々の生活圏に居住していた (32) 。両者 は、熟練労働者、非熟練労働者という当該時における職種の相違以外にも、移民前にも熟練職人、小農、農業労働者という異なった社会階層に属し、生活様式や 価値観も異なっていた。その上、異なるルートによりクリーヴランドに到着し、各々の職場周辺に居住していたため、相互の交流は生じなかった。初期の段階に おいて、ハンガリー王国からの移民の居住区における社会的結合関係は、言語や「民族」を単位としたものではなく、同郷の人々の繋がりと移民後の生活の共有 によって形成されていた。しかし、この関係はより良い生活や雇用条件を選択し、移民によって社会的上昇を目指す人々の政治の場でもあり、階層間の対立も内 包されていた。やがて移民が増加し、教会、相互扶助組織、文化団体活動が形作られていく過程において初めて、特定の言語や文化を掲げる諸集団が次第に明確 な輪郭を持って出現したのである。
(1) 教会、相互扶助組織、文化団体活動
移民は、生活上の困難に際しての相互支援、職場以外の人的関係の形成、信仰活動の維持を目的として、相互扶助組織、文化団体、信徒団を結成し た。本節では これらの組織が基盤となり、ハンガリー系エスニック集団が形成されていく過程を考察したい。 クリーヴランドにおけるハンガリー王国からの移民初の組織は、1863年に「ユダヤ系」の人々により創設されたハンガリー人援助協会である。この協会は王 国からの移民の交流を深め、後続の移民を支援する目的で結成された。初期の会員の多くは、次第に事業家としての地盤を築き、それに伴い協会の名称も 1881年にはハンガリー人慈善・社交協会へと変わった (33) 。 ハンガリー王国からの集団移民による最初の相互扶助組織は、1886年のバッチャーニ・ラヨシュ伯爵協会である。親類縁者のいない移民男性の死亡により相 互扶助組織の必要性が痛感され、病気の際の援助金、葬儀費用の支援を目的としてこの協会が結成された (34) 。この組 織は職場、宗教組織からは独立して運営され、その後、同種のズリニィ・ミクローシュ疾病協会、コシュート・ラヨシュ協会が結成された。 ハンガリー王国からの移民の間には、移民を多数輩出した地域の宗派の多様性を反映して、クリーヴランドにおいても多様な宗派の信徒団が誕生した。1850 年代以降に到着したハンガリー王国からのユダヤ教徒は、ドイツ系ユダヤ教会に合流せず、1866年に独自の信徒団を結成した (35) 。この信 徒団はハンガリー系信徒団であることを自他共に認めていたが、その信徒団の議事録や信徒団に併設された学校においてはマジャール語ではなく、ドイツ語か英 語が使用されていた。しかし、1900年代初頭までに「ハンガリー文化」やマジャール語を保持、表象する集団へと変質していた (36) 。 東方帰一教会の活動においても同様の傾向が見られた。1891年に東方帰一教会信徒18家族が疾病扶助協会を結成した後、ハンガリーから神父が呼ばれ、3 年後に信徒団が正式に設立された。この教会の主たる成員はハンガリー王国において「ルテニア人」 (37) と称されていたが、信徒団の若者サークルでは次第に「ハンガリー文化」の表現、維持が義務となった (38) 。 さらに、ハンガリー系信徒団の具体的な形成過程をローマ・カトリック教会信徒団に見ることが出来る。1888年、イースト・サイドにおいて、主としてスロ ヴァキア語を話す多数派と主としてマジャール語を話す少数派により信徒団が結成され、間もなく教会堂も建設された。礼拝は両方の言語で行われていたが、あ る相互扶助組織の旗の奉納式をスロヴァキア語で行ったことから紛争が持ち上がり、教会は二つに分裂した。その後間もなく別の神父が呼ばれ、ハンガリー系信 徒団の教会堂が建設された (39) 。 このようにして、当初王国からの移民が形成した単一の信徒団は分裂し、ハンガリー系とスロヴァキア系の二つの信徒団が結成された。信徒の多くが多言語地域 ハンガリー北東部出身者であり、移民の教会では教義自体よりも故郷と同様の礼拝形式が重要視されていたことを考慮すると、彼らがどちらの信徒団に所属した かは、必ずしも主として話す言語に拠っていた訳ではない。理解可能な言語と礼拝形式、そして第1章で考察した移民居住区における社会的結合関係に準じて選 択がなされたものと見るべきであろう。 次にプロテスタント教会信徒団であるが、クリーヴランドのハンガリー系信徒団はアメリカ合衆国において初めて、1890年に結成された (40) 。結成に はドイツ系カルヴァン派教会の支援を受け、公会議の決定に基づき本国から牧師が呼ばれた。その牧師は、当初ウエスト・サイドにおいて教会堂建設を試みたが 信徒の賛同を得られず、イースト・サイドに移り、1894年に教会堂を完成させた (41) 。カルヴァン派教会はハンガリー王国においても、ハプスブルク家のローマ・カトリック教 会に対抗して、ハンガリー国民としての意識を促す場を形作っていたが、アメリカ合衆国の移民コミュニティにおいても同様の役割を果たした。 各宗派の信徒団は教会堂建設を目的として結成されたが、その本来の目的を遂げると、信徒団が母体となり相互扶助組織、諸文化団体へと発展した。信徒団から 派生した組織以外にも、非宗教的な合唱団、読書、演劇、運動クラブ等様々なサークルが誕生した。1891年には若者協会と演劇協会が結成された。この若者 協会は、イースト・サイドのハンガリー王国からの移民居住区において、1848年革命を記念する祝典を主催し、ハンガリー系移民集団の文化活動において中 心役割を果たした。演劇協会は合唱団と共に、ハンガリー系諸団体の集会の席上、1848年革命劇を上演し、ハンガリー国歌やフォークソングを合唱した (42) 。ハンガ リー王国からの移民は、これらの協会や集会においてハンガリー各地方のフォークソングを歌い、修得し、各自が元来個別に有していた地域ごとの多様な民俗的 慣習を「ハンガリー文化」として受容し、それを自らのものと認識する感性を育んだのである。 ここで、文化団体活動の場と各宗派の教会堂所在地を確認すると、1890年代以降ハンガリー系移民集団の拠点が熟練労働者が多数を占めていたウエスト・サ イドではなく、非熟練労働者が増加したイースト・サイド側において形作られつつあることがわかる。イースト・サイドには、初期に移民し、社会的上昇を遂げ た商店主や事業主が、ハンガリー系移民諸団体のリーダーとしての役割を担っていた。移民コミュニティのリーダーに関しては、第3章で考察したい。 教会、相互扶助組織、文化団体は、移民を男性、女性、若者別に組織し、従来の親族や地縁的結びつきとは切れた別の社会的関係を形成した。さらに文化活動を 通して各自が移民前に有していた地域ごとの多様な民俗的慣習を「ハンガリー文化」へと置換し、加入した人々の生活上の必要性、故郷へのノスタルジー、習慣 の継続といった素朴で即物的な加入の動機を越えて、ハンガリー王国からの移民を特定の言語や文化を掲げる集団へと結集させることになった。そして、第1章 で述べたように同郷の人々の繋がりと移民後の生活の共有によって形作られた人的関係と社会階層ごとの生活圏に居住していた人々をハンガリー系エスニック集 団の成員へと組織化した。このようなハンガリー系エスニック集団の形成過程は、次節以下で論じるコシュート像建設運動を通してより具体的に見ることができ る。
(2) コシュート像建設運動
クリーヴランドのコシュート像建設運動に先行して、1894年のコシュートの死と前後する時期に、ニューヨークにおいて同種の運動が行われた。 運動を担っ たのは、ハンガリーの1848年革命の亡命者や初期に移民し、すでに中産階級を形成していた人々であった。しかし、彼らはこの運動を集団移民や他の都市の ハンガリー系諸団体へと拡大することも、市の政治リーダーや住民の関心を獲得することもできず、像建設運動は失敗に終わった (43) 。 クリーヴランドにおけるコシュート像建設運動は、ニューヨークにおける運動とは異なり、合衆国全土のハンガリー系諸団体や集団移民に運動を広めると共に、 ハンガリー本国にも働きかけを行い、同時にクリーヴランド市の政治リーダーとも連動して展開された。 コシュートは、1848年革命戦争の敗北後、亡命し、1851年から翌年にかけてハンガリー独立運動への支援を求め、アメリカ合衆国を訪問していた。民主 党内部の「ヤング・アメリカ」派が、翌年の国政選挙に向けて、従来の孤立主義からヨーロッパの共和主義者との連携へと外交政策の転換を訴えており、コ シュートのアメリカ・ツアー全体を通して支持母体となった (44) 。コシュートは合衆国の17州と多くの都市を訪れ、「自由の擁護者」として、ニューヨー クを中心に熱狂的な歓迎を受けた (45) 。 クリーヴランドには1852年1月から2月にかけて5日間滞在し、市が開催した歓迎祝典では大衆的規模の人気を博した (46) 。 コシュートの訪米の目的は、アメリカ合衆国政府と世論に、イギリスと結束して、オーストリア・ハンガリー帝国へのロシアの干渉を防ぐようアメリカ合衆国の 外交政策の転換を訴え、ハンガリー独立運動への資金援助を求めることにあった。しかし、合衆国政府は、南北戦争前夜の複雑な国内情勢下、コシュートを国賓 として歓迎はしたが、具体的な支援を約束することはなかった。さらに、コシュートの訪米は奴隷制廃止論者から大きな期待を持たれていたが、コシュートは合 衆国の内政問題であるとして、奴隷制度に関するコメントを避けた。そのため、奴隷制廃止論者からの激しい抗議と批判を受けたコシュートは失意のうちに合衆 国を去っていた (47) 。 約半世紀後、クリーヴランドにおいてコシュート像建設運動の発端となったのは、国防退役軍人会の1901年7月例会であった (48) 。その会 は、1848年ハンガリー独立革命の亡命者が中心となり、1890年代に結成されていた。例会の席上、コシュートの生誕100周年と訪米50周年を祝い、 クリーヴランド滞在を記念するプレートの設置が提案された (49) 。しかし、資金上の問題のため、クリーヴランドの主要ハンガリー系諸団体に呼びかけ、8 月末、第一回共同集会が開催された。会場には、国防退役軍人会と前節で述べた初期に結成されたハンガリー系社交団体の代表が集合し、クリーヴランドにおい て初のハンガリー系諸団体を統合するハンガリー人団体連合委員会が結成された。選出された会長が記念碑建設の提案を行うが、決定には至らず、1848年革 命記念日である10月6日と3月15日 (50) に資金集めの祝典を開催することだけが決定された。 10月の祝典においてコシュート像建設が決定された。その提案を率先したのは、ハンガリー王国出身者ではなく、来賓の市の選挙委員であるドイツ系弁護士ポ ルナーであった。その弁護士は、クリーヴランドのアメリカ人のサークルにおいて既に話題に上っていることを示唆し、記念碑の建設は「ハンガリー人の名誉に 関わることである」と述べた。それを契機として、コシュート像建設が決定された (51) 。 像建設運動の組織化は中心組織の再編とマジャール語新聞等のメディアを介して行われた。団体連合委員会はコシュート像建設委員会へと再編、拡大され、大委 員会、顧問委員会、実行委員会が設置された。大委員会には、医者、弁護士、前節で述べたクリーヴランド若者協会の初代会長、マジャール語新聞の発行人等ハ ンガリー系中産階級が選出され、像建設運動を総括する役割を担った。顧問委員会にはクリーヴランドの政財界で活躍し、名士層に加わる事業家、商工会議所の 会員、弁護士を選び、委員会に権威を与えると共に、市の政治リーダーとの仲介、スポンサーとしての役割を求めた。そして、教会、文化団体活動のリーダーで あるカルヴァン派牧師、クリーヴランド若者協会、演劇協会の会長を実行委員とした。このようにして、委員会の再編は、コシュート像建設運動を通して階層も 居住区も異なるハンガリー王国からの移民が有機的に編成されていく過程を示していた。像建設運動と市の政治リーダー、市政との関連性については第3章で分 析したい。 コシュート像の資金調達は、運動を担うハンガリー系諸団体や個人からの寄付以外に、マジャール語新聞とパンフレットを介して進められた。マジャール語新聞 「自由」紙の編集長コハーニは、当初像建設運動の方針を批判し、独自の募金活動を開始した。コハーニは、資産家からの寄付ではなく、工場や炭鉱労働者の貴 重な浄財によりコシュート像を建設し、ハンガリー系移民の分断ではなく、相互理解の印とすることの重要性を訴えた。新聞には合衆国全土から数セント単位の 募金が寄せられ、コハーニも募金者の名前を詳細に報じることによって応えた。コハーニの活動は、教会、相互扶助組織、文化団体活動の諸団体を基盤とする像 建設委員会の方針では擦り抜けてしまう集団移民や諸団体の活動に加わらない人々に募金活動を浸透させた。そして、集団移民の少額の募金に大きな価値を与 え、像建設運動への参加を促したことは、運動の拡大と浸透に大きな役割を果たした。 さらに、コハーニは募金と共に送付された手紙の抜粋を新聞紙上において紹介し寄付を効果的に呼びかけた。これらはコハーニによって弁別的に掲載されたもの ではあるが、集団移民のコシュート観や運動への参加の意義を読みとることが出来る。ある男性は、「我々貧しい移民がハンガリーの首都に先んじて、永遠に残 るコシュートの記念碑を建てることが出来たら (52) 」 と記し、像建設運動への参加は「ハンガリー人の証明」であると表明している。募金を寄せた集団移民は、運動の一方的な受信者ではなく、コシュートを介して ハンガリー国家と繋がり、その歴史と文化を共有する栄光ある「ハンガリー人」であることを表明する機会と見なした。そして、自ら職場や親族の間で募金を集 め、新聞へ投稿をすることによって、運動の発信者としての役割を担った。コハーニの活動は、後に像建設委員会と合流し、ニューヨークにおける運動では顧み られなかった集団移民を運動へと組み込むことに成功した。 像建設委員会はこの運動を合衆国内に留めず、ハンガリー本国にも働きかけを行った。運動の核となるコシュート像は、新たにアメリカで製作されたのではな く、ハンガリーのナジサロンタ (現ルーマニアの Salonta ) の像の型から鋳造され、運搬された。実行委員のカルヴァン派牧師がこの仲介をデブレツェンのカルヴァン派司教に求め、ハンガリーでは独立・48年党党員が 像の搬送を見守った。さらに、委員会はハンガリー全県に回覧書簡を送付し、各県の歴史的に有名な土地から一袋の土を送るよう求めた、トランシルヴァニア地 方の2県を除く全ての県から、1848年革命の戦場の土やハンガリー国民史にその名を記す土地の土が届けられた。各県の知事、副知事からは公式書簡も届い た。その内の一つは、この土が意味するものを示唆している。「コシュートのブロンズ像の下で、自由を愛する二つの国民ハンガリー人とアメリカ人の血で聖化 された土が混ざりますように (53) 」。 別の1848年革命の戦場となった県からは「この土は、ここから遠く引き裂かれた同胞の心へと結びつける留め金になりますように (54) 」という 言葉が寄せられた。像建設委員会は、ハンガリーからコシュート像と土を取り寄せることによって、王国からの移民をハンガリー系エスニック集団として結集す る運動の源泉を、ハンガリー国民の歴史と神話的記憶に求めた。そして、コシュートが指導した革命とコシュートへの崇拝をハンガリー王国の人々と共有するも のとして認識させ、ハンガリーとの繋がりを確認させることを意図した。 像建設へ向けた具体的な作業も進行した。クリーヴランド市の公共事業局長との会談により、像の設置場所には市の中心地パブリック広場が選定された (55) 。像の運 搬と免税措置が市当局、下院議員、アメリカの船会社の協力の下、遂行されることになった。さらに、イタリア領事とドイツ系団体が運動への参加を表明した。 これらのことは、後に市を挙げて盛大に祝われた除幕式のあり方が運動の過程において既に形作られつつあることを示していた。 コシュート像建設運動は、教会、相互扶助組織、文化団体活動の組織、職場、新聞などを媒介にして、移民の時期、出身地、宗教、職業、居住地等が異なるハン ガリー王国からの移民を組織化した。像建設運動は、進行しつつあるハンガリー系エスニック集団の形成過程を可視的なものとして示していた。
(3) 運動への抗議
(1) シンボルとしてのコシュート
典拠:Kende Geza, Magyarok Amerikaban,U,Cleveland,1927,p.222.
(2) クリーヴランド市政と東欧移民