SLAVIC STUDIES
/
スラヴ研究
ブレジネフ政治局と政治局小委員会
- 対アフガンと対ポーランド外交政策決定構造の比較 -
金 成 浩
Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese
) All rights reserved.
はじめに
ソ連外交がどのように決定されていたのか、その政策決定過程に踏み込んで議論することは従来、資料的制約もあって困難であった。外務省を初めとし
て、軍・党国際部・KGBなど外交にたずさわる機関が複数あったのは確かだが、政策がどのような形で一元化されていったのかはまだ定かではない。
本稿では、ソ連崩壊後、資料的に比較的アクセス可能となったソ連軍のアフガン侵攻(1979年)とポーランドでの戒厳令実施(1981年)をめぐ
るソ連指導部の動きを取り上げ、比較しながら、ソ連の外交政策決定の特色を考察してみたい。その際、@集団指導体制といわれるブレジネフ時代の政治局内
で、どのようにリーダー間のコンセンサスが形成されていたのか ?
A官僚機構間(とくに外交政策に影響をもっているとみられる外務省・KGB・軍・党国際部等)の意思統一はどのようになされていたのか? 以上の2点に留
意しながら、これらの事例研究をこころみる。この時期、つまり、70年代後半から80年代前半は、ブレジネフの健康問題が重大な問題になってきていた時期
でもあるため、書記長のリーダーシップの低下を政治局の他のリーダーたちがどのように補完したかという問題も分析する必要があるだろう。
外交の政策決定過程における最近の研究では、横手慎二氏の1994年の報告がある。氏は政治局の組織的妥協のために「小委員会制度」が存在したと
し、その例として「中国委員会」(1920年代)、「モンゴル委員会」(30年代)、ポーランド問題を討議した「スースロフ委員会」(80年代)の存在を
指摘した
(1)
。また、
96年には富田武氏が30年代のスターリン時代の国内政策決定過程を研究、アルヒーフの調査によって、30年代のソ連政治局の国内問題に関する「小委員
会」の存在とその機能について述べている
(2)
。
本稿でも、ブレジネフ政治局内における外交政策に対するコンセンサスの形成、担当組織間の外交政策の一元化のために、この「小委員会」制度が有効
な機能をはたしていたのではないかとみている。最近刊行されたゴルバチョフの回想録の中にも、以下のように「小委員会」制度について言及している箇所があ
る。「結局のところ、特定の問題に関する解決を見出だすために、常任委員会、臨時委員会合わせて二十以上が設置され、結論をまとめた。政治局はそれを承認
するだけだった。中国委員会 《комиссия по Китаю》、ポーランド委員会《комиссия по
Польше》、アフガニスタン委員会 《комиссия по
Афганистану》、その他、国内問題、国際問題の委員会があった。こうした委員会はすべて中央委員会で開催することが義務付けられていた。中央委
員会以外で開かれることはなかった。その活動をすべてチェルネンコの監督下におくためだった。突き詰めていうと、こうした委員会は政治局、書記局の職務を
代行しはじめた。時間の経過とともに政治局会議はますます生産性の低い会議になっていった」
(3)
。ゴルバチョフは政治局委員会(小委員会)について具体的な内容までは言及していないが、
アフガン委員会とポーランド委員会についてはその他の資料からその内容が明らかになりつつある。
それでは、アフガン、ポーランドの二つのケースをめぐる政治局の動きを概観、そこにおける政治局委員会(小委員会)の役割を考察することによっ
て、ブレジネフ時代末期のソ連外交政策の特色の一面を論じてみたい。
1. アフガン問題における政策決定過程
(4)
(1)介入決定までのソ連政治局の動向
79年12月のソ連軍のアフガニスタン介入にいたるまでで重要な事件は、79年3月のヘラートにおける暴動および79年9月のアミンによるタラ
キ排除の二つの事件である。79年3月、当時のアフガンのタラキ政権に反対する動きがアフガンのヘラート市でおこった。この事件は、当時政権を握っていた
アフガン人民民主党(PDPA)の統治能力に対するソ連指導部の不安を増大させた。79年3月17日から19日にかけて、ソ連指導部は政治局会議において
混迷するアフガン情勢の分析を行っている。この時の政治局の議論の様子は、各政治局員の立場を描くのに有効なので、詳細に見ていきたい
(5)
。
3月17日の会議では、ブレジネフ不在の中、キリレンコが議長を務め審議が行われた。この中で、グロムイコ(外相)は、ヘラート駐在アフガン政府
第十七軍崩壊の報告を現地のゴレロフ軍事顧問団長および代理大使アレクセーエフから受けたとし以下のように述べた。「いかなる場合でも、アフガンを失うこ
とはできない。60年間我々は、アフガンと平和友好関係の中にあった。もし、今アフガンが失われ、ソ連から離れるならば、我々の外交政策に大きな打撃をも
たらす」。
次に、ウスチノフ(国防相)は、アフガン指導部はソ連からの対応を期待していると述べ、アンドロポフ(KGB議長)も反乱勢力へのソ連側からの攻
撃がアフガン側の要望だと続けた。これに対しキリレンコは、「もし、そこに軍を送るならば、我軍は誰に対して戦うのか。反乱勢力に対してか。彼等には、多
くの宗教的ファンダメンタリスト、すなわち、ムスリムが含まれており、その中には一般人も多数含まれているではないか。これでは、我々はまさに、人民に対
して戦争することになる」と反論した。また、コスイギン(首相)は、ソ連軍介入に関してよりもまずアフガンへの軍備の供給を遅らさないことが先決だとし、
アフガンでの状況を正確に把握するため、政治決定のための草案となる報告書を外務省・軍・KGBに準備させることを提案した。さらに、コスイギンはアフガ
ン政府自身がアフガン軍によって問題を解決すべきだと主張した。しかし、ウスチノフは軍派遣を再び主張、ソ連軍を送る場合にソ連軍とアフガン軍は混成すべ
きでないとし、すでに、アフガンにおける軍事行動に関して二つのオプションがあるとしてその具体的内容を述べた。続けて、アンドロポフは「我々は侵略者の
レッテルを確実に張られることを念頭に置きながら、政治決定を行う必要がある。しかし、そのようなレッテルが張られようとも、アフガンを失うことはできな
い」とした。ここで再び、コスイギンは、軍を派遣するならば、世界の世論を納得させるだけの理由が必要だとした。これらの議論のやり取りを受けて、グロム
イコは、「状況が悪化した場合に、我々は何をするか討議しなければならない。今日、アフガンの状況は我々の多くにとって不透明である。唯一はっきりしてい
るのは、我々はアフガンを敵に譲り渡すことはできないということである。我々はこれをどう達成するか考えなければならない。多分、我々は軍を介入させる必
要はないだろう」と述べている。
この17日の会議で注目すべきことは、ソ連軍のアフガン介入に関して肯定的なウスチノフ、アンドロポフと否定的なキリレンコ、コスイギンの対立が
あったことである。この意見の流れを見て、当初アフガン介入に関して曖昧な意見であったグロムイコは、アフガンを手放せないと言明しながらも、介入の必要
性については否定している。また、この日は同時に、対アフガン政策を提言する政治文書の準備を、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ・ポノマリョフに任
せることが決定された。
翌18日の会議では、コスイギンがタラキとの電話会談の内容を報告、ソ連の援助がなければ政権維持できないというタラキの言葉を報告した。また、
アフガン軍制服着用のソ連軍タジク人戦車搭乗員を派遣してほしいというタラキの要請に、コスイギンは、ソ連軍人の参戦を隠し通すことは不可能ですぐに国際
世論の非難にさらされるとし断っている。また、ウスチノフは、PDPAナンバー2のアミンとの会談の模様を報告した。ここでウスチノフは、アミンからヘ
ラートへのソ連軍配備の要請があったとし、アフガン革命の運命はソ連に全面依存しているとして、再度介入を臭わせる発言を行った。しかし、アンドロポフ
は、ソ連軍の派遣について真剣に考慮したと前置き、アフガン革命はレーニンの教示するタイプのものではなく、ソ連側の銃剣によってのみアフガンでの状況を
打開できるとしても、そのようなリスクを犯すことはできないとして、介入に前向きだった前日の姿勢から態度を変えた。これを受けて、グロムイコは、アンド
ロポフの意見を完全に支持すると前置き、アフガンではソ連軍は侵略者になるだろうし、誰に対して一体戦うのかと介入に対して疑問を呈した。さらに、近年の
デタント、軍縮の努力が無駄になること、中国にも「すばらしいプレゼント」になること、さらには介入によって、すべての非同盟国諸国が反対にまわり、深刻
な結果が予想されることを介入否定の理由として挙げた。また、さらに、グロムイコは、軍を送るには法律的な観点からも正当化されなければならないとし、国
連憲章の規定を挙げた。国連憲章では、当該国が侵略にさらされ援助を求める場合にのみ軍を派遣できるので、したがって、アフガンはこのケースに当てはまら
ないとグロムイコは述べている。これらの議論の流れを受けて、キリレンコは、昨日はアフガンへの軍派遣に議論が傾いたが、今日は軍派遣否定の立場に我々は
あるとして、総括を行った。このため、介入に肯定的だったウスチノフも「軍派遣はただ排除するのみだ」として、最後には介入否定の方向に姿勢を転換した。
そして19日の会議では、ブレジネフが参加、前日18日の不介入方針を正しいものとして承認した。その後、グロムイコは、軍事介入のリスクを負う
ことはプラスよりもマイナスの方が多いとし、再び、西側諸国との関係悪化の可能性とチALTU交渉で達成してきたデタントの流れを無駄にしてしまうことを
不介入の理由に挙げた。最後に、ウスチノフは他の政治局員と同様に軍派遣の考えをもっていないことを強調するものの、ソ連・アフガン国境で軍事演習を行う
ことを要求している。
以上、17日から19日の政治局の議論の流れを概観したが、注目すべきことは、ブレジネフは自分の不在中に開かれた前日の政治局の議論を追認した
のみであったこと、またアンドロポフは共産主義理論に照し合わせてアフガンでの革命の状況を判断、軍事介入のみでしかこの状況は鎮圧することはできないと
認識していたにもかかわらず、軍派遣は容認できないとしたこと、またグロムイコは介入否定の理由にデタント政策への影響をあげていることである。さらに、
ウスチノフは介入に賛成であったものの、政治局全体の議論が不介入の方針に向くにつれてその立場を変えたことである。また、アフガン四月革命の「成果」を
守りアフガンを敵に渡すことはできないという認識は共通して政治局員にあったものの、介入に関してはソ連の国益が計算され介入はソ連にとってプラスよりも
マイナスが多いと判断されたことも重要であろう。
4月1日にはアフガン情勢の詳細な分析とその対応策が、グロムイコ・ウスチノフ・アンドロポフ・ポノマリョフ(党国際部長)の4人によって政治局
に報告されている
(6)
。
ここでは、ソ連軍不介入方針の決定は正しかったとされ、その理由として、「…反政府反対活動の内部的性質のため、アフガニスタン反革命の鎮圧にソ連軍を使
用することは、ソ連の国際的権威をひどく傷付け、軍縮プロセスを後退させることは明らかである。加えて、ソ連軍の使用は、タラキ政権の弱点を露呈させ、さ
らに高いレベルでの反政府攻撃を招き、国内においても国外においても反革命の範囲を拡大させることになるだろう…」と述べられている。
続く6月28日には、先の4名が再度政治局へアフガン情勢の分析と提言を行った
(7)
。ここでは、アフガン情勢がますます悪化していることが報告され、アフガン側にソ連側から
「対反革命闘争の強化と人民の権利強化」に関する提言を行うとされた。さらにバグラム空港のソ連飛行中隊の防御に飛行整備技術員の服装に扮したパラシュー
ト部隊を派遣、またソ連大使館の警備のために、大使館サービススタッフとしてKGB特殊部隊を、特別重要政府施設の警備のためにGRU特殊部隊を配備する
ことも提言されている。これはソ連正規軍の派遣ではなく、アフガン内にいるソ連人もしくはソ連大使館の防衛目的に限定されたものであった。
さらに、7月19、20日にはポノマリョフがアフガンを訪問しタラキおよびアミンと会談、この時アフガン側からソ連正規軍2個師団の派遣要請がな
されたが、ポノマリョフは断っている
(8)
。
この時点までのソ連側のスタンスは、3月に決定された軍事介入否定の政治局方針の延長上にあるものだった。そのようなソ連のスタンスを変えた事件
が、79年9月のアミンによるタラキ排除であった。これはPDPAナンバー2のアミンがタラキに対する不信から反旗を翻した事件であるが、タラキに代わっ
て政権についたアミンに対して、ソ連指導部は信頼をおかなかったようである。
9月15日に、グロムイコ・ウスチノフ・ツヴィグーン(KGB副議長)により政治局に出された提案書は、アミンによるタラキ排除事件の詳細を分
析、アミンの政治的姿勢を見極めるためにアミンとの接触は続けるべきとしている
(9)
。さらに、グロムイコは、9月15日に電文をカブール駐在のソ連代表たち(ソ連大使・
KGB代表・軍事顧問長)に打ち、アミンとの接触を続けるよう命令している
(10)
。
この後の9月20日の政治局会議で、ブレジネフは、アフガンでのソ連の立場を維持しそこでの影響力を確保するためにさらなる行動を取る必要がある
と述べた。さらに、彼はアフガン政策がデリケートで難しいものになると予想した
(11)
。
10月29日にはグロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ・ポノマリョフの4人によって党中央委員会へ報告書が書かれている。この報告書では、アミ
ンと米国との接触について言及、西側に傾斜しようとする「バランス外交」をアミンが実施しようとしていると指摘された。さらに、ソ連がアミンを信頼せず関
係を持つことを望んでいないことをアフガン側に悟られないことが大切であるとし、アミンの態度の変化に対してソ連側から追加的措置が必要とする提案を行っ
ている
(12)
。
アミンが自主的な外交政策をとりはじめ米国との接近も考慮しはじめたことや、アフガン国内情勢がいっそうの悪化に向かっていくにともない、さらに
はチALT
II条約の米国議会での批准が疑問視されることと合わさり、ソ連指導部はアフガン不介入の立場から軍事介入の立場へとそのスタンスを移行し始める。10月
29日から12月初めまでの一カ月程の政治局の動きは不明であるが、12月4日にはアンドロポフとオガルコフ参謀総長により、すでに6月に提案されていた
政府重要施設の防衛のためのGRU派遣が再度提案され、6日には承認されている
(13)
。また日付は定かではないが、12月初旬には、アンドロポフからブレジネフにメモが渡さ
れた。ここでは、アミンが秘密に米国側と接触し始めていること、ソ連の政策を非難する秘密会議をアフガン側が開いていること、このままでは、春には反政府
勢力からの攻撃が活発化して、1978年のアフガン四月革命の成果を失いかねないこと、さらに、アミンが自分の立場保持のために西側に急接近しかねないた
め、アフガンでのソ連の立場が脅威にさらされる可能性が報告された。また、PDPAの内部紛争から国外に亡命していたカルマルとサルワリにKGBが接触
し、カルマルらが反アミン旗揚げを意図しており、ソ連に軍事を含む最大限の援助を要請しているとも報告された。また、このメモで、アンドロポフは、すでに
カブールにソ連側から二つの部隊を派遣(12月4日に提案された部隊派遣によるものと推測される)しているので、カルマルとサルワリの計画を成功させる能
力は十分にあるが、予期せぬ出来事に備えてソ連・アフガン国境に軍を配備しておくべきと提案している
(14)
。
79年12月8日、スースロフ・グロムイコ・ウスチノフ・アンドロポフの4人によって侵攻について事前討議された。この事前討議の内容は公式資料
からは判明していないものの、ロシアの研究者リャホフスキーは以下のように述べている
(15)
。「12月8日、ブレジネフの執務室で党中央委員会政治局のごく限られたメンバーが参加
して会議が行われた。参加したのは、アンドロポフ、グロムイコ、スースロフ、ウスチノフであった。彼等は長い間アフガンとアフガンを取り巻く状況を審議
し、ソ連軍介入によるプラスとマイナスの要因をすべて拾い上げた。アンドロポフとウスチノフは介入の必要性の論拠として、以下の内容をあげた。米国CIA
がソ連南部の共和国を含む『新大オスマン帝国』を創ろうとしていること、ソ連南部の防空システムが完全でないため、米国のパーシングミサイルがアフガンに
配備された場合バイコヌール宇宙基地を含む多くの重要施設が危機にさらされること、パキスタンやイラクによってアフガンのウラン産地が利用される可能性が
あること、アフガン北部での反対運動の発生やパキスタンにこの地域が併合される可能性があることなどである」。
続く12月12日に、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフの3人にアフガン問題を一任する決定が行われ、この時介入決定の決議もなされたとみら
れる
(16)
。判明して
いる公式文書には結論のみ記され意見交換の状況は記載されていないが、この会議に参加した党国際部第一代理ウリヤノフスキーはこの時の模様を以下のように
回想している。「グロムイコがその会議の議長を務めた。長テーブルの上座に座るグロムイコの横にウスチノフがいた。アンドロポフは後ろの壁に沿って側面に
座った。10人−11人の中央委員会の顧問たちは反対側の壁に沿って距離をおいて並んでいた。何人かの顧問たちからの30分の報告の後、グロムイコから何
度か促されて、ブレジネフが足を引きずって入ってきた。ブレジネフがそこにいる全員を抱擁するためよろよろ歩くので、グロムイコはブレジネフの手を掴んで
支えた。何度かブレジネフはつまづきかけ、その時グロムイコはブレジネフを席に座らせるのを手伝い、アミンがどれだけ悪く、どれだけ冒険主義者で、どれだ
け予測不可能な男かを示す新しい情報をブレジネフに耳打ちした。ブレジネフは、突然立ち上がり、机の上を握りこぶしで叩き、『汚い男』と小声でいった。そ
して、その部屋を出た」
(17)
。
次に、判明しているのは、12月26日、別荘において、軍事介入実施に対する最終的確認がブレジネフ・ウスチノフ・グロムイコ・チェルネンコ・ア
ンドロポフの間で決定されたことである。別荘で会議が開かれたことは、ブレジネフの健康問題と関連していたとみられる
(18)
。
この26日の介入実施確認を受けて、12月27日にソ連はアフガンに軍事介入を行った。この27日には、関係各機関へ行うソ連軍介入の説明の草案
が中央委員会名で決定されている
(19)
。
この時、東側諸国駐在ソ連大使館・その他のソ連大使館・駐ニューヨークソ連(国連)代表・TAチチ通信・ソ連共産党各組織・非社会主義諸国共産党労働者党
の以上六種類の機関に向けての説明が決定されているが、それぞれ説明の調子には差異がある。とくに、ソ連共産党各組織への説明では、介入決定理由として、
@アミン政権の腐敗と統治能力の低下、A78年12月のソ連・アフガン条約によるカルマルからの軍事援助要請が挙げられている。また、介入決定に際して
は、ソ連中央アジア各共和国と国境を接し、中国とも近接しているアフガンの喪失がソ連の安全保障を脅かす可能性をもつと判断されたともしている。また、帝
国主義諸国とそのマスコミから予想される否定的反応および友好国からの不理解も同様に考慮されたが、アフガン情勢の急転回が介入を止めなかったとも説明さ
れている。
その後、12月31日には、アンドロポフ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフ名による「1979年12月27日−28日のアフガンでの出来事
に関して」という報告書が政治局に提出された。ここでも、アミン政権の腐敗と米国接近が指摘され、介入の理由として、「…四月革命の成果とわが国の安全保
障上の利益が危険な状態にさらされる極めて複雑な状況の中で、前アフガニスタン政権が要請した以上の、さらなる追加的軍事援助をアフガニスタンに供与する
必要性が生じた。…」と記されている
(20)
。
9月20日の政治局会議以降の資料に述べられている理由をまとめると、@四月革命の成果の喪失、Aアミン政権の腐敗と統治能力の低下、Bアミンの
米国接近によるアフガンでのソ連の立場喪失の可能性、C78年12月のソ連・アフガン条約にもとづくカルマルからの軍事援助の要請、Dソ連中央アジア各共
和国および中国と近接するアフガンの喪失がソ連の安全保障を脅かす可能性、E「帝国主義諸国」からの否定的反応および友好国からの不理解も考慮されたが、
それをも越えるアフガン情勢の急転回。以上六つの理由であった。
次に判明しているのは、介入から約3週間後の80年1月17日の政治局会議の模様である。この会議では、引き続きアンドロポフ、グロムイコ、ウス
チノフ、ポノマリョフを成員とする政治局委員会(以下、中央委員会との混同を避けるため政治局小委員会とする。小委員会の詳細は次節参照)を継続すること
をブレジネフが提案している
(21)
。
つづく1月27日にはこの4名によって政治局会議へ報告書が送られているが、この報告書は、アフガンを取り巻く国際的非難についてふれ、とくに米
国・中国が反ソの方向でパワーバランスを変更しようとしていることを指摘した
(22)
。
1月31日から2月1日にかけて、アンドロポフはカブールを訪問、カルマルを初めとするアフガン指導部と会談を行った。この模様をアンドロポフは
2月7日のソ連政治局会議で報告、アフガン情勢は安定に向かっているとしたが、ウスチノフはアフガン安定化のためには一年ないし一年半は必要で、それまで
は軍の撤退はありえないとした。それに続いて、ブレジネフとグロムイコも撤退は時期尚早とする意見を述べている
(23)
。
以上が現段階で判明している介入をめぐるソ連政治局の動きであるが、それでは、政治局小委員会は一体どのような役割を演じていたのか次にみていき
たい。
(2)政治局アフガニスタン委員会
政治局内で小委員会が組織されていたことを示す公式文書としては、介入の前日すなわち79年12月26日に別荘で開かれた会議の議事録があげられ
る
(24)
。その文書は
以下のようになっている。(なお、資料本文中の下線は筆者による)
79年12月12日付 NoП176/125 опに関して
1979年12月26日(別荘において−Л.И.ブレジネフ、Д.Ф.ウスチノフ、А.А.グロムイコ、К.У.
チェルネンコ同志が出席)ウスチノフ・グロムイコ・アンドロポフ同志は、1979年12月12日付ソ連共産党中央委員会決議NoП176/125の実施方
法について報告した。
ブレジネフ同志は一連の希望を述べ、その際、近いうちに同志たちによって予定されている行動の計画を承認した。
中央委員会政治局委員会は、自己の活動の一歩一歩を綿密に考慮しながら、報告された計画の方針と内容で活動するこ
とが適当と認められる。決定が必要な問題に関しては、適宜、党中央委員会に付すること。
79年12月27日
К.チェルネンコ
以上の資料からは政治局小委員会の存在を示す事以外確認できないが、政治局小委員会(別名:アフガン委員会)が形成された時期について、当時の外
務次官であったゲオルギー・コルニエンコの証言がある。彼はヘラート暴動が起こった79年3月の段階ではまだアフガン委員会は非公式のものだったとしてい
る
(25)
。12月26
日の段階ではその存在が上記資料から確認されているので、アフガン委員会が公式化されたのは79年3月から12月26日の間ということになる。さらに、ブ
レジネフは、80年1月17日の政治局会議において、アフガン委員会の成立時期を「数ヵ月前」と述べていることから
(26)
、アフガン情勢が急
転回を見せた79年9月から11月までの間に公式化したのではないかとみられる。
次に、アフガン委員会の構成についてであるが、これも80年1月27日の政治局会議の議事録から確認できる。ここで、ブレジネフは、アフガンの情
勢がまだ日々の観察や政策の擦り合わせを要求しないものになっていないとし、アンドロポフ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフの4人の以前のメンバー
のままで政治局小委員会を継続させることにすると述べている。また、前述のように、他にも政治局に提出されたアフガン問題に関する添付文書に、アンドロポ
フ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフの連名となっているものが複数確認されており、このメンバーがアフガン問題の政策決定に中心的役割を担っていた
ことは確実である。また、コルニエンコは、アフガン委員会は政治局内に設けられていたとし、その参加者として、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ、そ
こに時々ポノマリョフが加わっていたと述べているが
(27)
、
これも先の資料の内容と矛盾しない。
次に、アフガン委員会はどのような役割を担っていたのであろうか。これも先のブレジネフの発言により推定できる。アフガンの情勢がまだ日々の観察
や政策の擦り合わせを要求しないものになっていないとしアフガン委員会を継続させると彼が述べたことは、情報の収集と関係各機関(この場合、外務省・
KGB・軍・党国際部)の政策調整がアフガン委員会の機能であったことを意味している。また、この4人の名による政治局会議への添付文書では、アフガン情
勢に対する綿密な分析と対アフガン政策についての提言が記されており、これをもとに政治局の定例会議が行われていたことがうかがえる。事実、会議では報告
書が事前に配布されているらしく、会議の議論は、この報告書をふまえた上で進行している。
アフガン委員会については、上記以外にも幾つかの資料がある。その一つにアフガン駐在軍事顧問長ゴレロフの証言がある。ゴレロフは政治局アフガン
委員会で報告するため、1979年8月半ばにアフガン駐在代表イワノフとともにモスクワに召還された時の模様をこう語った。「政治局員のグロムイコ、アン
ドロポフ、ウスチノフ、そして参謀総長オガルコフおよび外務第一次官コルニエンコが出席していた。[アフガニスタン]国内と軍の状況についての私の簡潔率
直な報告の後、質問が矢継ぎ早に飛んだ。基本的にそれらはグロムイコとアンドロポフからのものだった。その時は、わが軍の介入については直接的な議題とは
ならなかった」
(28)
。
ここには、この会議の参加者にポノマリョフの名があがっていないが、これはポノマリョフの会議への参加が時々であったとするコルニエンコの証言
(29)
と矛盾しない。
以上、アフガン介入にいたる政治局の動きとアフガン委員会について見てきたが、次に、1981年のポーランドの戒厳令導入に対するソ連政治局の動
向を追ってみる。その上で両ケースの比較に移りたい。
2. ポーランド問題における政策決定過程
(1)戒厳令実施までのソ連政治局の動向
1980年までのポーランド経済情勢の悪化は政府と「連帯」の対立を招き、この対立の構造はヤルゼルスキ政権による1981年12月の戒厳令の導
入につながった。すでにソ連側は80年5月の段階で、グダンスクにおける不穏な動向をキャッチし、グダンスク駐在ソ連領事からの報告を党中央委員会に上げ
ている
(30)
。ポーラ
ンドでの反政府運動が活発となる80年8月には、ソ連政治局内にポーランド問題を討議する小委員会が発足(詳細は次節参照)、ポーランド情勢への対応策の
検討に入った
(31)
。
10月29日には、モスクワを訪問するポーランド統一労働者党第一書記カニアとの会談のための打ち合わせがソ連政治局で開かれているが、すでにこ
こで、戒厳令の可能性を示唆する発言がブレジネフによって行われている
(32)
。しかし、カニアはブレジネフとの会談の際、戒厳令の導入は自制するとして否定した
(33)
。
つづく12月5日にはワルシャワ条約機構首脳会議が開催された。この時、カニアは自己批判し、反革命の要素に対して断固とした攻勢に出、いかなる
譲歩も甘やかしもしないと確約した。また、ハンガリーのカーダール、チェコのフサークは、ともに1956年および68年の自国の例を挙げ、頑強な闘争・強
硬な行政手段を用いたことに言及したが、ルーマニアのチャウシェスクは異論を述べ、自主・主権・内政不干渉を主張した。この内容は後のソ連政治局会議で
スースロフによって報告されている
(34)
。
翌年、81年3月19日にはポーランドのビドゴシチで事件がおこり、情勢が悪化。81年4月2日の政治局会議は、ポーランド指導部の弱腰に対する
非難の場となった。ブレジネフは、この時、「ポーランドの同志たちは、我々の提言を聞いて同意するものの、具体的には何もしていない」と論評、3月30日
に行ったカニアとの電話会談で、ポーランド側に対して「確固たる方策」(おそらく戒厳令を含む強行措置)をとる必要性を説いたと報告した。また、グロムイ
コは、「秩序の回復のためには緊急措置もやむをえなく、さらなる後退は受け入れがたい」とし、ウスチノフとアンドロポフは「流血の惨事もやむをえない」と
戒厳令導入に弱腰のポーランド指導部を非難した。さらに、この会議では、カニアとヤルゼルスキと会談するために、アンドロポフとウスチノフをソ連・ポーラ
ンド国境のブレストに派遣することがブレジネフから提案され承認されている
(35)
。
この81年4月3日のブレストでの秘密会談の模様は、4月9日の政治局会議議事録から確認できる。ブレスト会談で、アンドロポフとウスチノフは、
ソ連側が準備した戒厳令実施に関する文書にポーランド側の署名を求めた。これに対し、カニアとヤルゼルスキは、署名には議会の承認が必要とし断ろうとした
が、アンドロポフは「今、あなた方、カニア同志とヤルゼルスキ同志が個人的に署名しなければならない。それは、あなた方がこの文書に同意し、戒厳令導入時
に行動するべき内容を認識していることを我々が確認するためなのだ」と説明した。これを受けて、カニアらは4月11日にこの書類に目を通し署名すると返答
している
(36)
。よっ
て、この時すでにポーランドでの戒厳令の導入はソ連側の圧力によって確定的となっていたわけで、あとはタイミングの問題であったのである。
次に判明しているのは、9月の連帯大会の声明後の9月10日ソ連政治局会議の模様である。ここで、ブレジネフは、「ポーランド連帯大会で採択され
た『東ヨーロッパ人民にむけて』を昨日知った。危険で挑発的な文書である。文書の言葉は少ないが、ねらいは一つである。この著者は社会主義国に騒動を呼び
起こし、他の背信者グループを刺激しようとしている」と述べ、ポーランド問題が他の同盟諸国にも飛び火することを懸念した
(37)
。
10月10日、ストがポーランド全土に拡大、10月18日には統一労働者党第一書記がカニアからヤルゼルスキに交代するが、この直後にブレジネフ
とヤルゼルスキの間で電話会談が行われている。この時、ブレジネフは時間を浪費することなく、反革命に対して決定的な手段をとることが重要であるとヤルゼ
ルスキに再度圧力をかけた
(38)
。
10月29日のソ連政治局会議では、いっこうに行動を起こさないヤルゼルスキに対して非難が集中した。しかし、この時、アンドロポフは、「ポーラ
ンドの指導者は兄弟国からの軍事援助について時折話しているが、ポーランドに我軍を介入させないという我々の方針を堅持しなければならない」と述べ、ポー
ランドへの軍事介入を否定した。また同様にウスチノフも「我軍はポーランドに入らないとはっきり言明しなければならない。彼等ポーランド人は我軍を受け入
れる準備がない」と述べている。この時のソ連側の態度は、戒厳令をポーランドに引かせるものの、ソ連軍の軍事介入は行わないとするものであったことがうか
かがえる
(39)
。
ポーランドでの戒厳令の実施は12月13日未明であるが、12月10日に政治局でポーランド情勢について議論があったことも判明している。対社会
主義諸国共産党労働者党連絡部長ルサコフは、「…ポーランド軍が『連帯』の抵抗に打ち勝てない場合に、ポーランドの同志たちは、ポーランド領内への軍事介
入を含む他国からの援助を期待している。これに関して、ヤルゼルスキは、ソ連や同盟国の援助が軍によって供与されるとするクリコフ
(40)
同志の発言を引き合いに出している」と述べ、ヤルゼルスキは戒厳令失敗の場合にソ連軍を含む同盟国軍の介入を当てにしているという報告をした。また、アン
ドロポフは、戒厳令導入作戦を指すとみられるコードネーム『行動X』・『作戦X』をあげ、この作戦は「完全にまるごとポーランドの同志たちの決定によるも
のでなければならない。彼等が決める通りになるだろう。我々はこれに何も主張しないし、意見して止めさせることもない」として、あくまでも戒厳令はポーラ
ンド側によって行われるものとした。さらに、ソ連軍の介入に関しては、「クリコフ同志がもし軍の介入について実際に述べたとするならば、彼は誤ったと思
う。我々はリスクをおかすことはできない。我々はポーランドに軍を介入させるつもりはない。これは正しい立場で、我々は最後までこれを守る必要がある。
ポーランドの出来事がどのようになろうとも私は知らない。もし、ポーランドが『連帯』の手に落ちたとしても、それはそれだろう。もし、資本主義諸国がソ連
に飛びつくならば、彼等にはすでにさまざまな経済的・政治的対ソ制裁の同意が行われており、我々にとってこれは大変な重荷である。我々は自国について、ま
ず、ソ連の強化について心配しなければならない。これが我々の大原則である」と述べ、ソ連軍介入を否定した。また、この意見にグロムイコも同調、ポーラン
ド駐在ソ連大使アーリストフにはっきりソ連軍の介入はないとポーランド側に伝達させるとした。また、スースロフは、「いままでソ連は平和的に数多くの行動
をとってきた。それを変えることは不可能であるし、世界の世論がその立場を変えることを許さないだろう。…もし軍を介入させた場合、それは破局に他ならな
い」と述べ、ソ連軍介入を再度否定した
(41)
。
以上、現在判明しているポーランド情勢をめぐるソ連政治局の動きを概観したが、重要なのは、すでに81年4月の段階で、ポーランド側はソ連の圧力
により、戒厳令の導入を約束させられていたことである。また、クリコフらのポーランドを見捨てることはしないという言葉をヤルゼルスキはソ連軍の介入の示
唆と受け止め、戒厳令失敗の場合にソ連軍の援護を当てにしていたことが確認できたことである。これに対しソ連側は、あくまでも、ポーランド自身が戒厳令を
導入した形にさせ、もし、戒厳令導入が失敗した場合も、ソ連軍の介入は行わないという決定を下していたことは注目すべき点であろう。
次に、80年8月に設けられたスースロフを中心とした政治局小委員会とは一体どのような役割を担っていたか見ていきたい。
(2)政治局ポーランド委員会(スースロフ委員会)
ポーランド情勢を討議する政治局小委員会の存在は、公式文書によってその存在が確認されている。まずは、その文書から検討してみることにする
(42)
。
万国の労働者団結せよ !
ソ連共産党中央委員会
極秘 No П210/П
ブレジネフ、コスイギン、アンドロポフ、グロムイコ、キリレンコ、スースロフ、チーホノフ、ウスチノフ、ジミャー
ニン、ルサコフ、アルヒーポフ、コルニエンコ、ザミャーチン、ラフマーニン同志へ。
1980年8月25日ソ連共産党政治局会議 No 210文書からの抜粋
ポーランド人民民主共和国情勢についての問題に関して
-
ポーランド人民民主共和国内で明らかになりつつある情勢についてのЛ.И.ブレジネフ同志の情報を承認す
る。
-
以下のメンバーで構成される中央委員会政治局委員会を創設する。 :
М.А..スースロフ(議長)、А.А.グロムイコ、Ю.В.アンドロポフ、Д.Ф.ウスチノフ、К.У.チェルネンコ、М.В.ジミャーニン、И.В.
アルヒーポフ、Л.М.ザミャーチン、О.Б.ラフマーニン。
ポーランド人民共和国で進行する状況に綿密な注意を払い、同国における問題の状況と我々の側からの可能な方策につ
いて組織的に政治局に知らせることを委員会に任命する。必要な方策に関する提案をソ連共産党中央委員会政治局にもたらすこと。
ソ連共産党中央委員会政治局
上記文書で注目すべきこととして、まず第一に委員会(小委員会)の位置が確認できる。小委員会は中央委員会政治局の付属機関である。上記のポーラ
ンド問題に関する小委員会の創設は80年8月25日であるが、これは、80年7月にポーランドの食肉と肉製品の値上げが発表され、8月14日にグダンスク
の造船所でストが発生、8月16日には工場間ストライキ委員会委員長にワレサが就任、政府に21カ条の要求が行われた後である。すなわち、ポーランドの情
勢が不安定になったことを受けて、緊急にこの小委員会は創設された。この小委員会は、外交案件が持ち上がった段階で臨時的に形成されたもので、常設委員会
ではなかったことがわかる。
第二は、小委員会の構成員に関してである。小委員会の議長はスースロフであるため、スースロフ委員会とも呼ばれるようになった。その構成員とし
て、当時の外務大臣グロムイコ、KGB議長アンドロポフ、国防大臣ウスチノフの3人が含まれており、これはアフガニスタンの場合と同じである。また、当時
の政治局員14名
(43)
の内、スースロフ、グロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフ、チェルネンコの5名の政治局員が名を連ねている。党国際部長のポノマリョフの名がないのは不明
であるが、その他のポーランド問題に利害関係のある関連機関の責任者の名はすべて入っている
(44)
。
第三は小委員会の機能である。上記文書にあるように、ポーランド委員会は、ポーランド情勢を組織的に分析し、ソ連の対ポーランド政策を検討、必要
な場合は、政治局に提案することが求められている。「組織的に分析」とは情報の統合調整を指すものとみられるが、対外政策に利害関係をもっているとみられ
る外務省・KGB・軍・党書記局・党国際情報部・対社会主義諸国共産党労働者党連絡部・閣僚会議からの構成員で成り立っているこの小委員会は、各機関の情
報をあつめ、利害を調節し政治局に提言していたものとみられる。これに関して、ゴルバチョフは以下のように言及している。「1970年代末から1980年
代初めにかけて二つの国、二つの民族の間に生じた疎遠な関係を修復する必要があった。こうした状態に陥ったのはかなりの程度に長期にわたってミハイル・
スースロフが指導してきた中央委政治局のポーランド問題特別委員会 《специальная комиссия Политбюро ЦК по
Польше》 の活動の成果だった。委員会とその機関がたえずポーランド情勢の推移を見守り、その評価と勧告を政治局、各省庁、社会組織に与えてきた」
(45)
。さらに、当時のワ
ルシャワ条約統一軍参謀長グリプコーフ元帥の証言がある
(46)
。
彼によると、ポーランドで戒厳令が引かれる1981年12月13日まで、カニア、ヤルゼルスキ、シビツキー、駐ポ・ソ連大使アーリストフ、ワルシャワ条約
軍統一軍総司令官クリコフ、KGB副議長クリュチコフと何回かポーランド情勢が討議された
(47)
。クリュチコフはKGB議長アンドロポフに、アーリストフは外務省に、クリコフはウスチ
ノフという具合に各自が自分の上司にそれぞれ状況を報告していた。ところが、ウスチノフから連絡があった。それは、各報告が矛盾しているため、指導部が
ポーランド情勢について適切な結論を下せないというクレームで、クリュチコフ・アーリストフ・クリコフその他のメンバーが集まって統一的な情報と提言を行
うよう要請するものだったとしている。上記の証言は指導部内に各ラインから集められた情報を統合する部署(おそらくポーランド委員会)が存在したことの傍
証でもある。
次に、ポーランド委員会の政治局への提言は、どのようなものだったのだろうか ?
1981年4月16日に、ポーランド委員会は政治局に「ポーランド情勢の進展と我々からの措置に関して」という報告を行っていることが判明している
(48)
。この報告では、
「連帯」の状況、政府内右派と左派の分析、カニアとヤルゼルスキの指導力の分析などポーランドの政治情勢が言及されており、さらにそれを踏まえてソ連側の
対応が提案されている。提案の要旨は以下である。@カニアとヤルゼルスキへの政治的支持を継続すると同時に、危機克服のために確固たる行動をとることを要
求。A社会主義の敵からの攻撃の的になっている同志を守るためにポーランド統一労働者党内でのリーダーシップの統一と安定を達成しなければならないことを
強く要請。B注意深く統一労働者党大会の準備を進める必要性をポーランド指導部に勧告。C「連帯」の政治活動を限定する一方で、できる限りの生産的解決方
法をとることによって逆に「連帯」を拘束することをポーランド側同志に提言。D「連帯」リーダーたちの分裂を利用することを提言。E反革命を妨害するため
に、ソ連がポーランドに軍事介入するかもしれないという国内反動主義者と国際的帝国主義の懸念を利用すること。Fポーランドに適当な時期に援助を与え続け
ること。
以上七つの対応が提案されているが、目を引くのはポーランド委員会がソ連のポーランド介入に対する脅威感を利用するよう公式的な政策として提言し
ている点である。
以上、アフガンとポーランドの二つのケースについて政策決定プロセスを見てきたが、それでは、これら二つのケースの比較によって、どのようなこと
がわかるか次に考察していきたい。
3. 対アフガン・対ポーランド外交政策決定構造の比較
(1)ブレジネフ後期政治局下の外交に関する小委員会の性格
アフガン委員会とポーランド委員会を比較することによってその共通点と相違点を探ってみる。そこからこの時期の外交政策の決定パターンというもの
が見い出すことができるかどうか検討してみたい。
@両ケースの共通点
両ケースの小委員会とも、問題が緊迫化されつつあるときに形成されたものである。また、小委員会の機能はアフガンにおいてもポーランドにおいても
同じであった。双方とも相手国の情勢の分析とソ連側からの対応を政治局に提言していることにおいて共通点をもっている。
さらに両事件は、ブレジネフの健康悪化が顕著となりつあった1970年末から1980年初めにおこった事件であった。クレムリン・ドクターであっ
たエフゲニー・チャゾフによると、1974年ごろからブレジネフは脳の血行障害にあり、1970年末にはかなり症状も重くなっていた
(49)
。また、ゴルバチョ
フの証言によっても、ブレジネフの健康状態の悪化をかばうためにチェルネンコが苦心する模様が語られているが
(50)
、この時期、小委員
会が政治局会議を代行するほどの力をもってきたとするゴルバチョフの証言もブレジネフの健康状態を考慮すればうなずける話しである。さらに、ゴルバチョフ
はブレジネフ末期の政治局会議の様子についてこう語っている。「ブレジネフ書記長時代の末期には、政治局は想像もつかない状態に陥った。レオニード・イリ
イチを疲れさせないために、政治局会議はわずか15分 -
20分で終了、ということがほとんどだった。つまり、政治局会議で論じる時間より会議室に来るための時間の方が長かった。チェルネンコは事前に政治局員の
了承を取り付け、議題が上程されるたびに、『了解』の声が発せられるのだった。政治局会議に同席を要請された関係者も入室し、数分もしないうちに『もう結
構です。あとは政治局で検討します』と退室をもとめられるありさまだった。まさに国家の重大問題といった案件が政治局会議の討議に付されたとき、すべての
期待はそれを具体化する政府にかけられた。このような討議の際にも本質的な意見の交換が始まることはめったになかった。『本件はすでに同志により検討さ
れ、事前の意見交換もすんでおります。専門家にも諮問しました。何か発言はありますか』という決まり文句で一件落着だった。…」
(51)
さらに、コルニエンコと当時の参謀総長第一代理アフロメーエフは注目すべき発言をしている。彼はその回想録で、ブレジネフの健康問題のために、外
交政策はグロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフに任されたとしている
(52)
。両事件の小委員会のメンバーとして、ともにこの3人が名を連ねていることは、このコル
ニエンコの証言を裏付けてもいる。
ゴルバチョフは、当該事件に対応して創設された小委員会は、その後もそのまま残存したと述べている。アフガン問題では、介入後もアフガン委員会は
かなり積極的な動きを示しているし
(53)
、
また、ポーランド問題でも、戒厳令が引かれた後の82年1月14日政治局でブレジネフは「ポーランド問題はさらに長期間国際政治の中心になるだろうから、
今までと同様に活発にポーランド委員会に働いて貰わなければならない」と述べ、ポーランド委員会を継続させるとしている
(54)
。これは、いったん
創設された小委員会はその後も存続し、そのため、国内・外交問題を担当する小委員会の数は増大していき、逆に政治局会議はその追認機関にその役割を後退さ
せたとするゴルバチョフの発言を裏付けている
(55)
。
A両ケースの相違点
小委員会の構成において相違点がある。アフガン委員会の構成員は外務省・KGB・軍・党国際部の代表であるが、ポーランド委員会の場合、外務省・
KGB・軍・党書記局イデオロギー担当・党国際情報部・対社会主義諸国共産党労働者党連絡部・閣僚会議の代表によって構成されており、その規模はアフガン
よりも大規模なものであった。これは、ソ連にとってアフガン問題よりもポーランド問題がより重要であったことを反映しているものと思われるが、問題の性質
もその一因になっているものとみられる。すなわち、アフガン介入の場合、直接的な軍事侵攻のみが討議の対象になったため、これに利害を有する機関は限定さ
れた。ポーランド問題の場合、軍事介入のみならず、経済援助や党レベルでの交流強化やマスコミ対策
(56)
、イデオロギー統制まで検討の対象となったため
(57)
、参加機関に閣僚会
議、対社会主義諸国共産党労働者党連絡部
(58)
なども含められたとみられる。
(2)政策決定者の認識の変化
病身のブレジネフをとりまく、主要な政策決定者のアフガン問題とポーランド問題に対する認識はどのようなものであったのだろうか。その認識の変
化を見ていきたい。
@アンドロポフ
79年3月、当初一度はアフガン介入に肯定的にみえたアンドロポフは、次の日にはその理由はあかさなかったものの、介入に反対した。12月には介
入肯定にまわっているが、その理由は定かではない。しかし、介入直前にアンドロポフからブレジネフに渡されたメモに、それを解明するヒントがあるかもしれ
ない。このメモでは、アミンが米国と秘密接触を続けており、四月革命の成果の喪失と同時にアフガンでのソ連の立場の喪失が予期されること、PDPA内部の
内紛で亡命していたカルマルとサルワリが軍事援助の要請をしてきており、アフガン介入の正当化の理由は見い出されることが述べられている
(59)
。
ポーランド問題では、ブレストの秘密会議にウスチノフとともに出向いたことは、ポーランド問題でのアンドロポフの役割の大きさを示すものである。
ポーランド側に戒厳令導入を確約させることが一つの目的であった秘密会談であっただけに、KGBと軍の責任者が選ばれたのだろう。
さらに、アンドロポフはポーランド政府自身に戒厳令をひかせ、自国の問題を解決させるという方針を強く主張したものの、戒厳令が失敗した場合のソ
連軍介入は否定している。この理由として、ポーランドに対する介入はソ連自身の危機になるとの理由をあげているが、この危機認識は、アフガンの場合では見
られなかったものである。ソ連は、81年10月に、東欧同盟国への石油の供給量を減らす交渉をしており
(60)
、この頃すでにソ連経済は衰退の徴候を示しはじめていた。アンドロポフがポーランド問題
の対応で見せた危機意識は、米国および西側の制裁措置を凌げるだけの自国の国力不足という認識に由来したとみられる。
Aグロムイコ
アフガンの場合、グロムイコは79年3月の政治局会議で介入否定の意見を示していた。アフガンを失うことはできないとしたものの、デタントプロセ
スが後退するという理由から介入には反対意見を述べている。外務省が対西側外交で得てきた成果を擁護するため、その省益に沿った理由をあげたのである。し
かし、グロムイコも最後には介入肯定の立場に変わった。資料ではその理由ははっきり読み取れないものの、当時、SALT
II条約の米国議会での批准の見通しが立たなかったことが彼が介入に強く反対しなかった理由であろう。また、12月12日の介入を決めた会議で、グロムイ
コが議長を務めたことはどのように解釈できるだろうか。これをもってグロムイコが介入肯定に積極的な指導権をにぎっていたと断定できないものの、大きな役
割を果たしていたことはうかがえる。
ポーランド問題の場合も、グロムイコはアフガンと同様ポーランドを手放すことはできないとし、ポーランド指導部は断固とした措置を取るべきと主張
している。ポーランドに戒厳令が導入された場合に西側からポーランドへの経済援助が停止される可能性を述べるが、この可能性を心に止めておく必要があると
しかコメントしていない。彼のポーランドへの軍事介入反対理由に関しては明確ではない。アンドロポフの意見に同意するとしか、その理由を述べていないため
である。そのため、さらに資料の収集が必要である。
Bウスチノフ
アフガン問題においては、ウスチノフは、当初から軍事介入に積極的であった。79年3月の会議で、介入に積極的だったウスチノフは、アンドロポ
フ、グロムイコの介入反対意見に押される形で最終的に介入否定に態度を変えた。介入を直接に主張することはなくても、婉曲な言い回しで、軍の出動をねらう
発言が多いのはアフガン・ポーランド両ケースの共通点である。すでに、79年3月の時点でアフガン介入計画の二つのオプションを準備していたことは、用意
周到であった。
ポーランド問題においても、注目すべきは政治局会議で所々にみられる彼の好戦的な発言である。当時ウスチノフはソ連に反対する戦線が開かれつつあ
ると認識しており、アフガン戦線に加えて、米中接近による中国戦線、西側のソ連進出の拠点にもなるポーランド戦線の三つを想定していた
(61)
。しかし、最終的に
はウスチノフもポーランドへの軍事介入否定に回っているが、その理由はポーランド側にはソ連軍を受け入れる準備が整っていないというものであった。これ
は、アンドロポフやスースロフら他の政治局員の発言を覆すことができなかったためとみられる。
Cスースロフ
スースロフは当時準書記長的位置にいたが、その関与の度合いはかなり違っている。アフガンの場合スースロフは小委員会の構成員ではなく、最終的な
決定に際して参加したのみである。しかし、ポーランドの場合は、小委員会の議長になっており、政策決定の初期段階から中心的立場に立っていたことがわか
る。
当時、政治局員候補だったシェワルナゼがそれを裏づける証言を行っている
(62)
。「…当時、私は共産党政治局員のミハイル・スースロフの執務室にいた。だれかが彼に電
話をかけてきて、ポーランド情勢の悪化を報告し、私が理解したところでは、その相手は武力行使に固執していた。だが、スースロフは何度も繰り返した。
『ポーランドへの武力行使など論外だ』と」。
また、ヤルゼルスキは、12月12日にスースロフと電話で話したとし、戒厳令布告はポーランドの国内問題であるので事態が紛糾してもソ連は介入し
ないという保証をスースロフから取り付けたと述べている
(63)
。
以上の証言は、スースロフがポーランド問題において重要な責任をもっていたことを裏付けている。アフガン問題とポーランド問題でのスースロフの関
与の度合いの差はどこに由来するのか、はっきりとした資料的根拠はなく、推測になるが、アフガンとポーランドの重要度の差にその理由があるかもしれない。
(3)政策決定要因
アフガンの場合は、PDPAによる再三の軍事介入要請に答えるかどうかがソ連指導部の関心事であった。前述のように、当初の不介入の理由は軍縮プ
ロセスの後退を招くという理由であったが、米国とのデタント政策が暗礁に乗り上げるに従い、その理由は削除され、アフガン国内情勢のさらなる悪化とともに
介入決定へ方針が転換された。ポーランドの場合、当初経済援助問題とポーランド情勢の安定が焦点になっていた。最終的には、軍事介入の可能性をちらつかせ
た方がよいという判断はなされたが、実際の軍事介入に関しては慎重な姿勢を示している。それではなぜ、ソ連はアフガンに介入し、ポーランドへは介入しな
かったのだろうか ?
シェワルナゼは、ポーランドがソ連からの軍事介入を防ぐことができた理由としてアフガニスタンの経験をあげている
(64)
。「…成功の第一の
理由はアフガニスタンの経験であった。1979年以前、ソ連の武力行使は比較的低額の、政治的・軍事的・経済的出費で近隣諸国の情勢安定に役立った。しか
しアフガニスタンでは『手早い』解決ができなかった。この国への侵攻は、ソ連国内と外国で強い拒否反応を生み、その反発は日々増大していった。1968年
のプラハへの武力侵攻に対してソ連国内であからさまに抗議した人はごくわずかだったが、1979年のアフガニスタンの事件に対しては国民の過半数が間接
的、直接的に有罪を言い渡したのだ。こうした環境のもと、当時のポーランド指導部は、ソ連のポーランドへの行動の危険性をはかりにかけなければならなく
なった。多くの者が、武力で押さえ込むのは不可能であることをだんだん察知していた」。すなわち、アフガン介入においては、「ラーニング(学習)」する事
件はなかった。それに対してポーランドはアフガンからの「ラーニング」が働いたということである。
さらに、ポーランド問題を討議した議事録は、当時の指導部の認識を示している。アンドロポフはポーランドに介入した場合、西側の経済的・政治的制
裁がソ連にとって重荷になるという理由をあげているし、またスースロフは、軍の介入は破局を意味するとしている。これは、アフガン介入による西側の世論や
対ソ経済制裁の政策が、ポーランド問題におけるソ連指導部の判断に影響を与えた事を物語っている。さらに、もう一つ重要なことは国防相が政策の初期段階か
ら最終決定に至るまで関わっていたことである。そのため、小委員会が小規模であったアフガン委員会ではウスチノフの好戦的な態度に歯止めをかけることので
きる人物がいなかったのであろう。当初介入に反対していたグロムイコもデタントの破綻が見えるに従ってその姿勢を変え、介入反対には固執しなかった。しか
し、ポーランド委員会においては、準書記長的位置にいたスースロフの存在が、ウスチノフに対する歯止めになったようにみえる。
それではこの両ケースの比較から当時のソ連の外交政策決定要因は何であったと言えるのだろうか。二つの事例とも政策の判断の基準で大きな位置を占
めていたのは米国の動きであった。アフガンでは、米国との軍縮プロセスへの影響やアミンの米国への接近が介入判断の基準の一つとなったし、ポーランドに対
する介入否定も米国からの制裁がソ連にとって大変な重荷になると判断したことがその要因の一つであった。
(4)ブレジネフ後期の危機管理
従来のソ連外交に対する見解は、地域別に中心担当機関が違うというものであった
(65)
。具体的には、西側外交は外務省ないし党国際部、東欧に対しては対社会主義諸国共産党労
働者党連絡部、第三世界諸国は党国際部がそれぞれ中心的役割を担ってきたという説明がなされてきた。しかし、ブレジネフ後期に起きたアフガンとポーランド
問題のような国家の安全保障に関わる重要な問題の場合、この見方は適合していない。国家の安全保障に関わる問題が生じた場合、一つの機関のみに外交政策が
委ねられるのではなく、政治局内に小委員会がつくられることがわかった。そのプロセスは、以下のようなものであった。
@ソ連の安全保障に対する危機に際して、まず、当該国への外交に関連する機関や情報を持つ機関などの大臣または次官クラスから構成される小委員会が政治局
内に結成される。
A小委員会の構成機関は、現地駐在員からの情報または機関からの代表者派遣によって収集された情報を統合する。そして、各機関間の意見を交換し調整し、政
治局会議に情勢分析や対応策の提言が送られる。
B政治局会議には、外交に携わっていない政治局員も出席。小委員会のメンバーからの情報と提言にもとづき審議される。特別異議が出ない場合は承認、決定、
実行に移される。
以上は、アフガン・ポーランド問題に対する対応を共通項でくくり、その政策決定過程を単純化したものであるが、危機管理以外でも軍縮交渉の場合に
このような過程を経ることが確認されている。たとえば、SALT交渉をめぐっては、軍縮委員会が創設、ここには軍縮問題に関係する、軍・外務省・KGB・
党中央委員会・閣僚会議・科学アカデミーの代表者が参加し、その提言を政治局に送っている
(66)
。
では、一見合理的に見えるこのシステムの欠陥は何であったろうか。1973年以降は政治局員に外務大臣、KGB議長、国防大臣が昇格した。そのた
め、外交政策は、外交政策形成の段階の小委員会に参加し、かつ政治局会議にも参加しているこの三機関の長の意見に左右される傾向をもった。さらに、ブレジ
ネフ後期は書記長の病気のために、政治局のチェック機能が有効に働かず、外交政策にチェックを与える政治局会議は、その他多くの議題を扱う必要性もあっ
て、小委員会からの提言の追認機関に堕する傾向を持ったのである。
最後に幾つかの今後の課題を述べて本稿を閉じたい。
本稿はアフガンとポーランドの二つのケースについての分析であるが、その他のケースはどのようなものだったか。ゴルバチョフがその回想録でも指摘
しているように、この時期の外交関係の小委員会ではその他中国委員会の存在が浮かび上がっているが、その実態はどのようなものであったかまだ定かではな
い。また、この時期の国内問題の小委員会についても指摘されているが、その内容はどのようなものだったか。外交に関する小委員会と内政に関する小委員会の
違いや常任小委員会と臨時小委員会の違いなどさらに検討すべき事項がある。また、憲法にその存在が記載されている国防会議と政治局小委員会の関係も考察が
必要だろう。国防会議の具体的な内容は、いまだ不明な点は多いが、ゴルバチョフは以下のように述べている
(67)
。「…後年、肉体的に衰えを見せると、ブレジネフは軍事問題に対し以前ほど関与しなく
なった。『国防会議』の開催さえも次第に頻度が少なくなり、やがてまったく開催されなくなってしまった」。ゴルバチョフは、前述のように、アフガン委員会
やポーランド委員会など政治局小委員会についても別の箇所で述べているため、国防会議と政治局小委員会は別のものと見た方がよいであろう。また、自ら70
年代の軍縮交渉にたずさわったアレキサンドル・サヴェリエフとニコライ・デチノフの研究によると、国防会議はソ連軍の強化などのような総合的問題のみを討
議し、個別的、具体的問題は軍縮委員会で討議されたとしている
(68)
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