SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

ブレジネフ政治局と政治局小委員会
- 対アフガンと対ポーランド外交政策決定構造の比較 -


金  成 浩

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


− 注 −


  1. 横手慎二、国際日本文化研究センターにおける報告、1994年。

  2. 富田武『スターリニズムの統治構造』岩波書店、1996年、116-126 頁。

  3. Горбачев М. Жизнь и реформы (книга 1). М., 1995. С. 218. (邦訳、ミハイル・ゴルバチョフ、工藤精一郎他訳『ゴルバチョフ回想録(上巻)』新潮社、1996年、273 頁)

  4. 筆者は96年にもアフガン介入決定に関して国際関係理論のパラダイムを援用しながら分析した(拙稿「ソ連のアフガニスタン侵攻 ム 対外政策決定の分析」『スラヴ研究』43号、1996年)。本節はそれ以降入手できた資料をふまえ、政治局の動向に焦点を当て実証的分析を加えたものであ る。

  5. ЦХСД (Центр Хранения Современной Документации), ф. 89 (Коллекция копий рассекречен-ных документов), пер. 25, д. 1, л. 1-25. ЦХСДはソ連共産党中央委員会資料室を前身とする。ф.はфонд(書庫)、пер.はперечень (опись)(目録)、д.はдело(文書)、л.はлист(枚)の略である。

  6. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 4, л. 7. および、 ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 27, л. 7.

  7. Труд. 23 июня 1992.

  8. Пиков Н.И. (ред.). Война в Афганистане. М., 1991. С. 205.

  9. Cold War International History Project (CWIHP), Bulletin, Woodrow Wilson International Center for Scholars,Winter 1996/1997, pp. 154-155.

  10. Пиков Н.И. указ. соч. С. 208.

  11. CWHIP, Bulletin, op. cit., p. 156.

  12. Труд. 23 июня 1992. なお、ЦХСДの資料の中にこの文書は存在するものの、「閲覧不可」になっている。

  13. Там же.

  14. CWHIP, Bulletin, op. cit., pp. 159-160.

  15. Ляховский А. Трагедия и Доблесть Афгана. М., 1995. С. 109. ただし、この12月8日の会議に関して、リャホフスキーは出典を明記していない。

  16. ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 31, л. 1. および、ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 7, л. 2. 12月12日の文書の内容については拙稿(『スラヴ研究』43号)を参照。12月12日前後の日付の公式文書は少ないが、米国の研究者O. A.ウエスタッドは、ノルウェーでの会議 ( The Intervention in Afghanistan: Record of an Oral History Conference, Nobel Symposium 95 ) に参加し、当時のソ連側政策決定者ら(?.ドブルイニン駐米ソ連大使、・ワレンニコフ参謀総長第一代理、・シェバルシン駐テヘランKGB代表、・ブルテン ツ党国際部第一代理、肩書きは当時)とのヒアリングから以下のように述べている。アンドロポフは、アフガンに対して限定的な作戦を想定していたが、ウスチ ノフは7万5千人規模の軍事介入を主張した。ウスチノフの主張は、カブールでのアフガン軍の抵抗の可能性やアフガン・パキスタンやイラン国境の警備の必要 性を想定したものであった。79年12月6日、アンドロポフはウスチノフの計画を受け入れた。12月8日、ブレジネフとグロムイコ、アンドロポフ、ウスチ ノフの会合が行われた。ここで、ウスチノフとアンドロポフは、ソ連南部国境の危険性、米国短距離ミサイルがアフガンに配備されカザフスタンやシベリアの戦 略拠点が狙われる可能性を述べた。ここで、ブレジネフはウスチノフとアンドロポフが提示した侵攻のアウトラインに同意した。12月12日、アフガン介入の 提案を正式決定するために、政治局会議が行われた。その会議はグロムイコが議長を務めた。そして、チェルネンコが手書きで書いた提案同意文書に、会議に参 加した政治局メンバー全員がサインした(CWHIP, Bulletin, op. cit., p. 131)。

  17. Diego Cordovez, Selig S. Harrison, Out of Afghanistan - The Inside Story of the Soviet Withdrawal, New York, 1995, p. 48.

  18. ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 32, л. 1. および、БAЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 7, л. 1.

  19. ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 33, л. 1-25. および、ЦХСД, ф.89, пер. 42, д. 8, л. 1-25.

  20. ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 35, л. 3. および、ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 10, л. 3.

  21. CWHIP, Bulletin, op. cit., pp. 162-163.

  22. Ibid. p. 163.

  23. Ibid. p. 165-166.

  24. ЦХСД, ф. 89, пер. 14, д. 32, л. 1. および、ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 7, л. 1. 会議の参加者としてアンドロポフの名があがっていないが、報告者として彼の名が記載されているため、アンドロポフはこの会議に参加していたとするのが妥当 とみられる。なお、書類最後のチェルネンコの署名と、他の文書の彼の署名とが同一であることは確認した。

  25. Корниенко Г.М. Как принимались решения о вводе советских войск в Афганистан и их выводе // Новая Новейшая История. 3. 1993. С. 109.

  26. CWHIP, Bulletin, op. cit., p. 162.

  27. Корниенко Г.М. указ. соч. С. 109.

  28. Красная Звезда. 18 Октября 1989.

  29. Корниенко Г.М. указ. соч. С. 109.

  30. ЦХСД, Ф. 89, пер. 67, д.3, л. 1-3.

  31. ЦХСД, ф. 89, пер. 66, д. 1, л. 1. ヤルゼルスキは以下のように叙述している。「…モスクワ指導部は九月以来、危機管理グループを作っていた。これをわれわれはその後『ポーランド・クラブ』 と呼ぶようになる。…」(ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ、工藤幸雄訳『ポーランドを生きる ムヤルゼルスキ回想録』河出書房、1994年、192 頁)ヤルゼルスキは9月としているが、この危機管理グループの創設の正確な日時は抹槍の資料によると8月25日である。

  32. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 34. л. 2.

  33. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 35, л. 3.

  34. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 59, л. 1-2. ヤルゼルスキはその回想録で、12月5日の前日4日には、ポーランド抜きの秘密「小委員会」が開催され、カダールとチャウシェスクの軍事介入反対の姿勢に よって、ブレジネフは計画を断念したとしている。また、12月5日の会議後、個別交渉のカニア・ブレジネフ会談で、カニアが「血にまみれたソ連」というイ メージを説き、それに対して、ブレジネフは「よろしい、入らない。ただし、ことがこじれれば、…入る。入りますよ」と答えたとしている。(ヤルゼルスキ、 前掲書、195-196頁)また、カニア自身は読売新聞ワルシャワ特派員のインタビューにおいてこの時の会議の模様をこう答えている。 「─会議では結局、軍事介入は決めなかったか ?
    カニア: 介入の時間はセットしなかったが、決定の雰囲気は作り出した。
    ─あなたは会議後、ブレジネフと会った。
    カニア: ソ連共産党のルサコフ書記だけが同参した。通訳はなくロシア語でしゃべった。数時間かかった。ポーランドは侵攻されるべきではな いと私は主張した。それがソ連の利益でもあるからだ。ポーランドはチェコやアフガニスタンではない。国民の蜂起を考慮しなければならないと言った。

    ─チェコではないと言った時、ブレジネフは激怒したのではないか。
    カニア: 国際政治の場で相手が笑っているかどうかは重要ではない。問題は互いの利害だ。ブレジネフが言った言葉は今も耳に残っている。会 議の終わりに、彼はあの雷のような声で、『ハラショー、ニェ・ワイジョム(よし、おれたちは行かないよ)』と言ったのだ。」
    (読売新聞社編集局編『20世紀のドラマ ム 現代史再訪I ム』東京書籍、1992年、269-270頁)

    しかし、今のところ、これらポーランド側の証言を裏付けるソ連側の公式文書はみあたらない。

  35. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 39, л. 2-8.

  36. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 40, л. 3-4.

  37. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 46, л. 2.

  38. ЦХСД, ф. 89, пер. 66, д. 4, л. 2.

  39. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 48, л. 4.

  40. クリコフは、当時のワルシャワ条約軍統一軍総司令官。

  41. ЦХСД, ф. 89, пер. 66, д. 6, л. 4-11. ヤルゼルスキの主張は、ソ連の介入を止めるために戒厳令導入に踏み切ったというものである。しかし、ヤルゼルスキが戒厳令失敗の場合にソ連軍の介入を期待 していたことはソ連政治局議事録によって証明されている。ヤルゼルスキはモスクワニュース (Московские Новости. 37. 12 сентбря 1993. С. 14 ) とのインタビューでソ連軍出動の徴候があったと反論しているが、軍の出動体制は万が一の事態を想定してとられるものであるため、軍の出動体制があったから といってソ連軍の介入可能性が100%あったとするのは論理の飛躍であろう。まして、ヤルゼルスキは軍人であり、軍がどんな状況に対しても対応できるよう 出動体制を整えることは理解できていてよいはずである。当時のソ連の戦略はソ連軍介入の可能性をちらつかせ、状況を有利にもっていこうとするものであった ため(本文参照)、ソ連軍の出動体制はポーランドの反体制派を含め西側への牽制という目的があったであろうし、いっこうに強硬手段を打たないポーランド指 導部に圧力をかける意図もあったとみられる。アフガンの場合、ソ連国防大臣ウスチノフは、すでに79年3月段階で介入作戦を立案している。これは、いかな る状況になっても素早く対応できるよう軍の出動体制を整えるところまでは、国防大臣の権限で政治局の許可なしでも行えたことを示している。ポーランドの場 合もウスチノフの権限内で政治局を通さず出動体制が取られた可能性が高いため(もしくは政治局に 報告はされていたかもしれないが)、出動体制が取られた事をもってソ連政治局が介入の決断を下したと見るのは早急である。さらに、81年4月のブレストで の秘密会談でソ連側が用意した戒厳令実施に関する文書に署名を約束したことをヤルゼルスキがその回想録で言及していないことは(彼は会談があった事実は認 めている)、ヤルゼルスキが自分の主張に都合の悪い事実を意図的に隠蔽していることを物語っている。

  42. ЦХСД, ф. 89, пер. 66, д. 1, л. 1.

  43. 当時の政治局員は以下である。ブレジネフ、コスイギン、スースロフ、キリレンコ、グリシン、シチェルビツキー、ウスチノフ、クナエフ、ペリ シェ、アンドロポフ、グロムイコ、ロマノフ、チェルネンコ、チーホノフ。

  44. 各構成員の役職は、ジミャーニン:中央委員会書記(イデオロギー担当)、アルヒーポフ:閣僚会議副議長・党中央委員、ザミャーチン:党中央委 員会国際情報部長・党中央委員、ラフマーニン:対社会主義諸国共産党労働者党連絡部第一代理・中央委員候補となっている。

  45. Горбачев М. указ. соч. (книга 2), С. 338-339. (邦訳:ゴルバチョフ、前掲書(下巻)、401 頁)

  46. Грибков А.И. ォДоктрина Брежневаサ и польский кризис начала 80-х годов // Военно-Истори-ческий Журнал. 9. 1992. С. 48.

  47. 現地でソ連大使・軍代表・KGB代表がそろって交渉および情報収集にあたるという形式はアフガンの場合と同じである。

  48. ЦХСД, ф. 89, пер. 66, д. 3, л. 1-8.

  49. Чазов Е. Здоровые и Власть: Воспоминания Кремлевского Врача. М.,1992. С. 152.

  50. Горбачев М. указ. соч. (книга 1), С. 202. (邦訳:ゴルバチョフ、前掲書(上巻)、 255頁)

  51. Там же. С. 217. (邦訳:同上、271 頁)

  52. Ахромеев С.Ф. Корниенко Г. М. Глазами Маршала и Дипломата. М., 1992. С. 15.

  53. CWHIP, Bulletin, op. cit., pp. 167, 170, 172.

  54. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 49, л. 3.

  55. Горбачев М. указ. соч. (книга 1). С. 218. (邦訳:ゴルバチョフ、前掲書(上巻)、273 頁)

  56. ЦХСД, Ф. 89, Пер. 46, Д. 81, Л.1-2.

  57. ЦХСД, Ф. 89, Пер. 46, Д. 59, Л. 1-5.

  58. たとえば、党連絡部長のルサコフは社会主義諸国を訪問し、ポーランド問題を討議している。

  59. CWHIP, Bulletin, op. cit., pp. 159-160.

  60. ЦХСД, ф. 89, пер. 42, д. 48, л. 2-3.

  61. 61 Московские Новости. 37. 12 сентября 1993. С. 14.

  62. Шеварднадзе Э. Мой выбор. М., 1991. С. 205-206.(邦訳:エドアルド・シェワルナゼ、朝日新聞外報部訳『希望』朝日新聞社、1991年、189 頁)

  63. Московские Новости. 37, 12 сентября 1993. С. 14. ヤルゼルスキは「保証を取り付けた」と述べているが、これは正しくない。実際は、ヤルゼルスキは事態紛糾の際のソ連の軍事介入をあてにしていた。

  64. Шеварднадзе Э. указ. соч. С. 205. (邦訳:シェワルナゼ、前掲書、189 頁)

  65. 例えば、秋野豊「対外政策 ム リアリズムとイデオロギー」『もっと知りたいソ連』袴田茂樹編、弘文堂、1988年、173-177 頁。

  66. Aleksandr- G. Savel-yev and Nikolay N. Detinov, The Big Five - Arms Control Decision-Making in the Soviet Union, Westport Connecticut, 1995, pp. 16-17.

  67. Горбачев М.указ.соч.(книга 1).C. 206. (邦訳:ゴルバチョフ、前掲書(上巻)、274 頁)

  68. Aleksandr' G. Savel'yev and Nikolay N. Detinov, op. cit., pp. 20-21.

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