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1. アジプロ作品? |
2. 確信犯的企図 |
3.なにが起こったのか |
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4.「戦闘的」シュルレアリスト |
5.政治と魔術 |
注 |
要約 |
私にとってこの映画はある種のカタルシスとなっています。スターリン主義のもとで人生を40年間も送ってきたために、自分の なかに蓄積されてしまった緊張を取り除きたいと思いました。そのようにして、この映画は観られるべきですし……理解されるべきなのです。
つづいてシュヴァンクマイエルがたどってきた経歴を、とくに政治的な側面に注目して、年譜にするとつぎのようになる (12)
1945 ファシズムからの解放 1948 二月事件[スターリン主義の時代の到来] 1952 スラーンスキー裁判 1953 ゴットヴァルト(およびスターリン)死去 (1956 フルシチョフのスターリン批判[雪解け=非スターリン化]) 1968 プラハの春/ワルシャワ条約機構軍の侵攻 1969 正常化 1989 ビロード革命
1934 プラハに生まれる。 1950-1954 プラハの工芸大学で学ぶ。 1954-1958 プラハの演劇映画アカデミーで人形劇を専攻。 1957-1964 さまざまな劇場で人形劇の仕事にたずさわる。 1964 最初の映画『シュヴァルツヴァルト氏とエトガル氏の最後のトリック』。 1970 〈チェコスロヴァキアのシュルレアリスト・グループ〉に参加。映画『納骨堂』をめぐって当局側とトラブルが起こり、サウンド トラックの一部が差し替えられる。 1973-1979 映画『レオナルドの日記』をめぐる論争の結果、映画の制作を禁止される。映画スタジオで特殊効果の考案などを手がけ、さまざ まな造形芸術の分野で創作活動を行なう。 1979 古典文学の翻案にかぎって映画制作が認められ、ウォルポールの『オトラント城奇譚』を制作。 1982 映画『対話の可能性』が国際的な映画祭で賞をとるが、チェコスロヴァキアでは上映禁止となる。チェコスロヴァキア共産党中央 委員会イデオロギー委員会で敬遠すべきものの見本として上映される。 1990 ビロード革命ののちに、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』を制作。シュヴァンクマイエルにとってチェコスロヴァキア で最初に一般公開された映画となる。
重要なのは創造者が自分のなかにもっている「蓄え」の内的な力です。自己表現手段は取り替えることができますからね。専門家 の「分業」は、最後には不毛な思考と空虚な「人工主義」に行き着いてしまうので認めません。私がさがしもとめているのは、表現の普遍性なのです。この意味 において私の態度は、「戦闘的」シュルレアリストの態度です。 (15)この発言を手がかりに今後は議論をすすめていくと、わかりやすくなるかもしれない。