スラブ研究センターニュース 季刊 2008 年冬号 No.112 index
5年前、日本の大学に世界的な 研究教育拠点を創ることを目標と して、文部科学省の肝いりによる 施策「21 世紀COE プログラム」 が始まりました。そして今年度か らはその継承プログラムであるグ ローバルCOE が開始しています。 21 世紀COE プログラムは3年の 募集期間で260 件ほどが採択され、 そのうち文科系は50 件程度でした が、北大からは全体で12 件、文科 系では3件が採択されました。ス ラブ研究センターを核とした「ス ラブ・ユーラシア学の構築:中域 圏の形成と地球化」はそのうちの一つであり、年額1億円、総額で5億円という大型の予算 がつきました。
第一パネルの報告者
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21 世紀COE プログラムは文部科学省の新しい大学再編政策の目玉として、当初から社会 的にも注目された国家プロジェクトでした。したがってその研究教育上の成果は学界だけで なく、広く社会にも還元し、何を達成したのかを公にすることが求められています。スラブ 研究センターは、5年間の事業の締めくくりとして、その成果を社会的に開かれたものとす るため、普段とは趣を変えた企画を立てました。すなわちこれまでの札幌における英語ない しロシア語によるシンポジウム開催ではなく、会場は東京に、そして言葉は日本語による報 告を主とする企画をたてました。一般の市民の方々を含んで、なるべく多くの人に来ていた だけることを狙いとしたのです。
1 月24 ~ 26 日のシンポ当日、会場となった神田の学士会館、そして東京大学本郷キャン パスには朝から100 名以上の参加者が詰めかけ、学士会館では160 名分用意した大会議室が ほぼ埋まるパネルも出るという盛況ぶりでした。普段とは違う東京での開催を考慮して、郵 便で広く開催のお知らせを配布し、事前の電子登録を皆様にお願いしましたが、幸いにも幅 広くご関心を持っていただくことができました。最終的な延べ登録者数は当日分を含めます と、220 名ほどになりました。この場を借りて、皆様方からお寄せいただきました御関心、 並びに御来場に厚くお礼を申し上げます。
5年間の事業目的をあえてひと言でまとめますと、「旧ソ連」、「旧ソ連・東欧」、「旧社会 主義圏」という後ろ向きの言い方をやめ、現実に相応しい名前をつけること、そして、現実 の動向に相応しい分析方法を確立することでした。それが「スラブ・ユーラシア学の構築」 であり、学術的にも社会的にも、これからは「スラブ・ユーラシア」という名前でこの地域 を呼びましょうと提案をおこなっています。
欧米ではこの地域を「移行諸国」と呼ぶことがいまだに多いのですが、これは事実上、「ス ラブ・ユーラシア諸国は欧米型の政治経済体制へと移行するはずだ」という含意で用いられ ています。確かにスラブ・ユーラシア諸国のなかには欧米型の政治経済制度を規範として受 け入れて、それに向けて改革努力をおこなっているところもあります。東欧やバルト諸国がそ の典型ですが、ロシアのように、独自の改革路線を歩む国も少なくありません。つまり単な る社会主義から欧米型資本主義への「移行」では捉えきれない現実があります。その現実を 外にいる政治家や研究者が外在的な価値判断に基づいて評価しても、学問的には価値があり ません。そうではなく、欧米流の「移行論」や価値基準で捉えきれない現実がある以上、そ の現実を出発点として受け止め、そこから相手を見る目を鍛えなおしていく必要があります。
ではその現実とは何か、ということになります。そして、その現実を見る目とは何かとい うことになります。まさにそれが今回企画した3日間にわたるシンポジウムの目指した主題 でした。第1日目である1月24 日の「地域をつくる、くくる、えがく」と題された三つのパ ネルは、5年間におこなってきた研究成果の上にたって、これからのスラブ・ユーラシア研 究の方法論を提起するものでした。つまり従来の「ソ連東欧研究」に代わる三つの切り口が 提示されました。一つ目は地域を生み出す主体の問題、あるいはどのように地域を設定する のかという問題です。これが第一パネルの主題である「地域をつくる」という問題領域です。 つまり地域は予め与えられたものではなく、地域の主体がどの様な空間の中で自らを認識し ようとしているのかが、まず問われるということです。二つ目はそうして出来上がったいく つかの地域がさらに大きな単位として括られていく問題、つまりスラブ・ユーラシアが多様 な地域の複合体であるということを踏まえて、全体としてどのように広域的統合がなされる のかという問題領域です。これは近年において注目を集めている「帝国論」的手法でスラブ・ ユーラシアを分析する方法です。三つ目は「えがく」がテーマです。これは少し硬く言えば、 心象地理といわれる分析視角です。つまり物理的な山とか川とか海の形状から地理的な、あ るいは空間的な認識をおこなうのではなく、人々がある空間、ある地域をどのように思い描 いてきたのかという問いかけです。「イメージ」論と呼んでもよい問題領域です。スラブ・ユー ラシア研究では文学や言語に係わる分析が特段に重要な位置を占めていますが、このパネル ではそれが意識的に追求され、言語学研究における地域研究の可能性にまで話題が広げられ ました。
まとめますと、地域の主体形成、地域の広域的統合、そして地域の心象地理、これが新し いスラブ・ユーラシア学の骨子です。
会場のようす
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2日目の25 日は「次世代の挑戦」と題され、若手研究者が主役でした。現役の大学院生、 大学院を終えたばかりの新進気鋭の研究者たちがパネルを企画し、運営しました。つまりこ れから10 年後、20 年後のスラブ・ ユーラシア研究を担う世代がどの ようにこの地域を捉え、分析しよ うとしているのか、それを若手研 究者自身の企画として打ち出して もらったのです。三つの若手企画 パネルをキーワードでまとめます と、第一パネルは「社会主義時代 における学知」を問うものでした。 二つ目は「跨境」がテーマでした。 つまり国境などの境界線を分断の 視点からではなく、接点として見 なおす方法です。そして最後のパ ネルの主題は「宗教」でした。今日、 宗教がもつ重要性は改めて言うまでもありませんが、このパネルではテーマの現代性を念頭 に置きながら、歴史研究としてイスラーム、ユダヤ、分離派正教徒に関する報告がなされま した。今回の若手パネルの組織者たちはスラブ研究センターのCOE 研究員ないし大学院生 ですが、その出身を大学や大学院でみますと、関西や東京の大学が多くを占めます。スラブ 研究センターは今回の21 世紀COE プログラムで「全国を結ぶ若手研究者の育成」という目 標を掲げましたが、それがこの総括シンポジウムでも大いに達成されました。通常、21 世紀 COE プログラムでは大学院生教育の学内的高度化が目指されるのですが、全国共同利用施設 であるスラブ研究センターは大学の内と外を「跨境」して、全国的に若手研究者を実地にお いて育成する使命を持っています。21 世紀COE プログラムもその方向で若手育成事業の企 画を立案し、今回のシンポジウムでも南は九州から始まり、関西圏、中部圏そして首都圏の 大学で研究に従事している第一線の若手研究者をパネリストに迎えた企画が用意されました。 シンポジウム終了後、多くの来場者から、「若手企画の報告や討論が非常に高いレベルだった」、 「テーマとして、とても興味が持たれた」など、主催者としてうれしい評価をいただきました。 このような評価を踏まえ、今回の成果を何らかの出版物としても皆様の手にお届けしたいと 考えております。
3日目の26 日は会場を東大本郷に移し、小松久男教授をリーダーとする東大のNIHU プ ログラムイスラーム地域研究東大拠点グループ1と共催で、国際シンポジウム「ロシアと中 東の間のコーカサスとその住人たち」を開催しました。このシンポジウムをスラブ研究セン ター側で企画したのは、北海道大学の21 世紀COE 枠で任期付講師採用した前田弘毅氏です。 前田講師は今回の企画で、グルジアを中心としてスラブ・ユーラシアと中東、西アジア、な いしイスラーム世界との接点であるコーカサス地域を取り上げ、多様で複合的な「狭間の世界」 を描きだしました。海外から招聘した6名の専門家はいずれも国際的に活躍している第一線 の研究者ばかりでした。彼らは会場に集まった100 名近い聴衆に感激し、コーカサスという 特殊なテーマでこんなに多くの聴衆が集まるとは予想していなかったと、歓声をあげました。 このコーカサス専門家チームは東京でのシンポジウムのあと、札幌そして京都でも研究会を 開催し、全体として今回のコーカサス企画は日本におけるコーカサス研究の本格的幕開けを 告げるものとなりました。なお東大での開催では小松教授はもとより、東京大学次世代人文 学開発センター研究員の濱本真実さんが会議運営の原動力になりました。また京大での開催 に際しましては木村崇教授のご尽力をいただきました。この場を借りて関係された皆様方に 厚くお礼を申し上げます。
3日目の「コーカサス」プログラムはイスラーム研究との連携を目指すという意味で、と ても重要でした。すなわち今回の21 世紀COE プログラムでは様々な地域の研究と連携をは かることが大きな柱とされました。24 日のパネルでは東アジアや東南アジアの研究者との協 力が実現しましたし、帝国論のパネルでは理論と実証の専門家が相互に踏み込んだ対話をお こないました。「スラブ・ユーラシア学」はスラブ・ユーラシア地域を専門とする研究者だけ で閉じてしまう学問ではありません。隣接する地域や関連する研究分野との共同作業を日常 化する、という問題提起がこのシンポジウムに込められてました。今後も中国研究者、イン ド研究者、中東研究者、ヨーロッパ研究者との連携や共同を不可欠なものとして、スラブ・ユー ラシア学を鍛えていこうと考えています。
最後に、今回のシンポジウム開催に合わせて、スラブ研究センター監修による三巻本シリー ズ『講座スラブ・ユーラシア学』の刊行が始まりました。その詳細については、後の項目で 改めてお知らせしますが、シンポジウム会場の一角で特設のコーナーが設けられ、出版元の 講談社から出来たてホヤホヤのシリーズ第一巻『開かれた地域研究へ:中域圏と地球化』が 販売されました。
総括シンポジウム「 スラブ・ユーラシア学の幕開け」プログラムページ