スラブ研究センターニュース 季刊2006年春号 No.105 index

ロシアへ

大武由紀子(北大文学研究科博士課程)

 

 白黒のはっきりしない灰色、それもグラデーションをなす灰色。この領域は白がよりすぐっているけれど、だけどこちらの領域は黒がまさってい る・・・ピリリと絹を切り裂くようにはどうにも分けられない「あわい間」になぜか心惹かれるたち性質のようだ。私の研究テーマであるアヴァンギャルド芸術 家であり、他方スターリンの翼賛ポスター画家として第一人者であったG.クルーツィス(1895-1938)は、「芸術」と「政治」の「間」をどのような グラデーションでその後半の人生をくぐりぬけたのだろうか。

Otake Postet
G. クルーツィス「五カ年計画を4年で遂行しよう」ポスター/1930
『サンクトペテルブルグロシア国立図書館所蔵 ポスターのユートピア:ロシア 構成主義のグラフィックデザイン』(発行:アートインプレッション、2003 年)から

第一次大戦中のペトログラードに皇帝軍兵士として召集された22歳のラトビアの青年クルーツィスは、ここでロシア革命に遭遇し、一気に革命の波に乗りラト ビア狙撃兵部隊の一員としてモスクワに移り、43歳で「粛清」されるまで終生モスクワを舞台に先鋭的な芸術家としてソヴィエト史の中枢を走りぬけた。モス クワに移って以後、彼は一度もラトビアには戻っていない。

昨夏7月から8月にかけて1ヵ月間、21世紀COEプログラム海外渡航制度によって調査のためにモスクワとリガを訪問する機会を得た。多作の画家であるク ルーツィスの最大のコレクションを持つのがラトビア国立美術館である。アヴァンギャルド芸術運動が潰えるすれすれの時期までそれに挺身、というよりアヴァ ンギャルド的手法とも言えるフォトモンタージュに最後まで執着したクルーツィスの作品は、アヴァンギャルドゆえに弾圧を受け、彼の没後初めて展覧会が開催 されたのはスターリン批判後の58年、この国立ラトビア美術館でであった。この展覧会開催をことのほか喜んだクルーツィスの妻クラーギナ(彼女も画家で あった)は、その終了後に100点余りの作品をここに寄贈したのであり、それらは主にプロパガンダポスター画家として活躍する以前の20年代に創作された 作品群である。

他方、ソヴィエト時代に発行された政治ポスターは、当時さまざまな検閲を通過し完成されると、その複写物2枚を中央委員会に送付することが義務付けられて いた。これらのポスターは現在モスクワのロシア国立図書館(旧国立レーニン図書館)造形部に40万枚ものコレクションとなって保存されており、クルーツィ スの作品もその一部となっている。彼の場合5ヵ年計画の開始が政治的プロパガンダポスター画家としてのデビューに重なり、ここに保存される作品もほぼ27 年以降のものになっている。


21世紀COEプログラムによる海外渡航制度に応募し、あっという間に合格の通知を頂いたものの、その後が難産であった。私が現在勤務する高校を1ヵ月間 離れて国外に出ることについて校長(教育委員会)から難色が示され、紆余曲折の末に最終的に許可が出るまでにまるまる1ヵ月がかかった。もちろん年休で行 くものの、1ヵ月も海外に出ることは夏休みで授業が無いとはいえ「職務に支障をきたす」ことであるから期間を短縮すること、生徒に何か問題が生じた場合は 即刻帰国、帰国の翌日から通常通りの勤務と申し渡された上でやっと実現したことだった。管理職との長丁場の複雑なやり取りと梅雨時の湿っぽさに意気阻喪 し、調査旅行にむけて準備するでもなくフラフラしている間にあっという間に7月になってしまった。指導教官に書いていただいた紹介状に得意の自転車操業で 作成させた見学希望の作品リストを添えて5ヵ所の美術館にファックスし終えたのが出発の1~2週間前だった。出発直前にラトビア国立美術館から返事が届き 「非常に遅すぎる問い合わせであり、通常であるなら断るところだが、北大スラブ研究センターに敬意を表して特別に閲覧を許可する」と書かれてあり赤面して しまった。

ビザを取るにも十分な時間がなく、ロシア語教授とホームステイがペアになって、ビザが確実に取れるという旅行会社のプランにのって押し出されるようにして の出発となった。ファックスは一応全部の美術館に送ったものの、それが美術館に届いたとして、管轄の部署に果たして届くものだろうかと半信半疑で、5ヵ所 のうち半分でも見学することができたら御の字と考えながらロシアへ向かった。

モスクワに到着した翌日の朝10時きっかりにロシア語教師であるラリーサが笑顔もなく私の部屋に入ってきた。背丈は小さく、ふくよかな体つきだが醸し出さ れる存在感は圧倒的で、私と同年代であると聞いていたものの一緒に並んでいると大人と子供といった趣だった。それは体つきからくる存在感だけではなく、実 際に行動を共にすると、その行動力も知力も抜群だった。時差ぼけの頭に鞭打ち、彼女に今回の渡航の目的を細心の注意をこめて伝えた。紹介状を美術館宛に ファクスしてあること、それぞれの美術館に行って、当該の部署の長に面会して作品見学のアポイントをとること。ラリーサはそのことを聞くと、すぐ私に外出 の準備をうながし早速初日からモスクワの街に繰り出した。メトロを何度も乗り換えて美術館に直行し、入り口でガードマンに話をつけ、窓口で説明し、そこか ら当該の部署の長に電話をかけさせ、そして私を引き連れて長い廊下を進み、ドアをノックする。そうすると、まさにそこにその長が鎮座しているのだった。議 論するように声高の調子でその長と言葉を交わすと、瞬く間にアポイントが作られた。その判断の的確さ、押しの強さ、それに体力、さすがロシアの女性だっ た。そして私との別れ際にこう言うのだ。「ロシアのインテリは小さなお土産が大好きなの。高価なものはだめ、本当のインテリならそれは受け取らない。何か 日本から持ってきた? あなたが首に巻いているスカーフのようなもの」、「絶対に遅刻しないこと。私は附いて行かないから、後はあなたの問題よ」。こうし てモスクワでの3つの美術館の見学アポイントはモスクワに到着して1週間のうちに完全にとれてしまった。当日言われるままにお土産を持ち、時間厳守で現地 に行くと、そこには職員が日本からファックスした紹介状と作品リストを手にもち、リストに挙げられている作品をきちんと準備して待っていてくれたのだっ た。

レーニン図書館では、毎日朝10時から夕方4時半までポスターを見学し、資料を写した。私の担当に当たったのがユリアだった。青の作業衣を着、髪を無造作 に引っ詰めにした彼女が、蚕棚のように棚が立ち並ぶ薄暗い保存庫からポスターをストレッチャーに乗せて運んでくる。ポスターはテーマ別に20枚ほどの束に なってたとうがみ畳紙のような大きなフォルダに入れられていた。ポスターは屋外に貼られた筈のものなのに保存状態が驚くほどよく、破損も色あせもなく新品 のように見え不思議だった。

Otake Photo
レーニン図書館造形部ユリアさんと 著者

「このポスターの裏を見て。ガーゼのような布で裏打ちされているでしょ。これは実際に貼られたもの。でもこっちは紙のまま。これが政府に提出されたも の」。中央に提出予定のポスターは、外に貼られることがないために検閲後下刷りの状態のまま裏打ちなしで送られてきたのだという。
1つの畳紙をあけて見学するのに優に1時間はかかった。ユリアは大きなポスターを代わる代わる机上に広げて説明する。1日に4~5つの畳紙をあけるのが精 一杯だった。私は必要なことをメモにとる。そのノートの間に挟んであった写真がユリアの目に触れたときだった。「あなたの家族?」。写真に写る夫などはど うでもよく、3人という子供の数に単純に感動した風であった。それ以後ユリアが私に示してくれた親愛感はこの3という数に由来しているとしか思えないの だった。造形部の職員であるN.バブリーナが新たに出版した書籍を購入したい旨を彼女に伝えると、わざわざ地下鉄を乗り継いで1時間もする郊外の出版所ま で連れて行ってくれたりもした。

「今度くるのはいつ? その時のために今後使う予定のポスターの資料番号を控えておきなさい」「アメリカやイギリスそしてイタリアから研究者や学生は来る けど日本からはあなたが初めて。とても難しいテーマだから・・・」ユリアがそんなことを言いながらポスターの内容を私に説明していると、同室にいたもう一 人の女性職員がはにかんだような微笑をみせながら「ちょっと前の私たちの生活よね」とユリアに声をかけた。それは納得のいく言葉だった。


図書館閉館後の夕刻、図書館内で書き写した資料を持って授業のためにラリーサのクバルチーラに通った。様々な外観のアパート群が立ち並ぶ街並みは、時代別 アパート博物館という風情で、ラリーサは道々「これはフルシチョフ時代。ただ箱を組み立てただけ」、「これはブレジネフ・・・そしてホラ、これがスターリ ン様式」と説明する。私は以前に読んだフルシチョフ時代の建築物についての雑誌論文を思い出しながら憑かれるように観察してしまう。ある時などは、ラリー サの住むアパートのエレベーターに一人で乗りこんで少し下がったとたんに最上階とその下の階の中間部分で止まってしまい、30分余りもエレベーターのなか に閉じ込められてしまった。人の声は聞こえても助けを求める私の叫び声を認める人は一人もおらず、頭のなかが真っ白になるような恐怖の体験だった。やっと のことでかけつけてくれたエレベーター監視員の男性は「これがロシアさ、ノーマルな」といって笑うばかりだった。ラリーサは「これがブレジネフ期のアパー ト!」とまじめに説明してくれるのだった。

しかしラリーサのブレジネフ・アパートの真向かいにあった深い木立のなかに建つ画家ヴァスネツォフの屋敷(美術館)の美しく装飾された大きな木枠の窓は、 ガラスの表面が微妙に歪み、そこに映る樹木の影が大層ロシア的で美しく、それも授業に通う一つの楽しみだった。

ロシア語と英語で行う資料の読み合わせの授業は、そのスピードと馬力で刺激的だったが、ラリーサの説明もまた逸品だった。「スターリンは女性が肌を見せる のを好まなかった。学校では女生徒のスカートの長さは暗に決められていて短いものはだめ、そして決して胸元をこんな風に深く開けてはいけなかったの。ス ターリンはそれを望まなかったから」と言って自分でセーターの胸元をグット勢いよく下げるのだった。同年代の私たちは、地球上の同じ空気をソ連と日本でそ れぞれ吸いながら小学校や中学校に通ったのだ。そしてソ連の学校では暗黙の服装検査があったという。

このような女同士の些細な会話が、職場での長いバトルにめげずにロシアに来て本当によかったと思う瞬間だった。


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