移行初期ロシアにおける不平等の固定化と貧困
―賃金支払遅延と第2雇用―

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はじめに

 市場経済への移行以前のソ連時代においては、貧困研究は「生活水準の差」という名の下で部分的に研究されるのみであった(1)。社会主義は平等を原則とし、貧困は撲滅されるというのが建前であったため、社会主義国家には不平等や貧困は存在しえないものとされた。これが、ソ連時代に貧困研究がさかんになされ得なかった事情である。しかし、ソ連時代に不平等や貧困の研究がなされなかったからといって、実際にそれらが存在していなかったということにはならない(2)。1970年代初期には既に、食料供給機能の不全が認識されてはいたが、1989年になってようやく貧困の存在が公的に認められた。そして、市場経済への移行開始の中で、ロシアにおける不平等と貧困に関する研究がロシアの国内外で増えていくことになった。しかし、ロシアにおける不平等・貧困の研究は、上記のような理由により、まだ始まったばかりといえるであろう。
 ロシアの貧困と生活水準に関する最初の組織的分析としては、世銀スタッフ、西側、ロシア側の研究者による研究を集めたクルグマンの編著が挙げられる(3)。この研究は、移行期におけるロシア人一般の厚生の変化の性質と規模を定量化することを目的とした、ロシアの貧困に関する包括的な研究になっており、貧困のプロファイルと傾向の分析、社会支援システムの危機的側面などについて論じたものである。
 一方、クラークは、上記の世銀による貧困研究を、制限的かつ時に疑わしいデータを無批判に利用した結果の過大推計であると批判した上で、ロシア経済の非貨幣化に注目しつつ、貧困の規模、貧困層、貧困形成の要素、社会支援システムなどについて全般的に論じている(4)
 上記2つの研究もそうであるように、ロシアにおける不平等・貧困の研究の多くが、貧困の規模の把握、貧困層の特定化、貧困形成のプロセスに強い関心を示している(5)。本稿もこれらの研究の関心を共有するものである。本稿の目的は、ロシアの人々が直面する不平等とは如何なるものであるのか、そして、貧困形成の原因である所得分配の不平等の固定化がどのように形成されているのか、これらについて考察し、具体的なイメージを捉えることである。貧困は「不平等」の固定化によってもたらされる。よって、不平等が固定化されるプロセスを探ることが、貧困形成の要因を解明することになるであろう。
 所得分配の不平等と悪化を説明するに際し、「獲得される賃金」という概念を導入することにする。ロシアの賃金統計は「支払われる予定の賃金」であるということにその理由がある。このことを考慮するとき、「獲得される賃金」とは、「支払われる予定の賃金」、「支払が遅延している賃金」、「第2雇用(副業)からの追加的賃金(所得)」の3要素に分解されることになる。本稿では、「賃金支払遅延」と「第2雇用」の2要素が、「獲得される賃金」を変動させる不安定な要素であることに注目し、この2要素からロシアにおける「賃金獲得の自由(機会)」の不平等とその固定化について論じることにする。「賃金獲得の自由(機会)」に視点をあてることによって、賃金支払遅延を受けているのはどのような所得階層の人々であるのか、また、追加的賃金をもたらす第2雇用に従事するのはどのような所得階層の人々であるのか、が明らかになるであろう。また、「賃金獲得の自由(機会)」という視点の明確化は、本稿の特徴になっている。
 まず、初めに、代表的な貧困指標と所得分配の不平等指標を用いることから、ロシアにおける貧困と不平等について概観し、さらに、ジニ係数の構成要素のうち、所得分配不平等の悪化の要因が賃金(支払われる予定の賃金)であることを明示する。次に、「獲得される賃金」を変動させる不安定要因である「賃金支払遅延」と「第2雇用」について詳述し、これらが所得分配不平等の固定化のプロセスと貧困層の形成にどのように関わってくるのかについての導入とする。そして、最後に、親戚・友人による情報ネットワークなどを通じて分断される所得階層と、「賃金支払遅延」と「第2雇用」がどのような関係にあるのかを示し、ロシアにおける「賃金獲得の自由(機会)」の不平等と貧困形成について考察することにする。

1. ロシアの貧困と所得分配の不平等の概要

1-1 ロシアの貧困:貧困指標からの把握

 まず、ロシアの貧困を数量的レベルから概観することにしよう。表1は、ロシアにおける全国レベルの貧困指標を示したものである。1992〜1995年の推計はRLMS(ロシア長期モニタリング調査)(6)のデータに基づくものであるが、それ以外の年度の推計はロシア国家統計委員会(以下、Госкомстатと記す)のデータに基づくものである。そのため、単純に比較することはできないということに注意する必要がある。しかし、これらの推計から、ロシアの貧困の概要を知ることはできるであろう。以下、移行前と移行後という大きな分類の中で、ロシアにおける貧困の推移を捉えてみよう。

 表1にみられるように、計画経済から市場経済への移行を開始した1990年代に、それ以前と比べて、全国レベルの貧困者比率(HI)、貧困ギャップ(PG)、FGT2の全てが増加した。データの性質の不連続性のため確かなことはいえないが、移行開始後に貧困が増大し(7)、貧困層間の所得分配面も移行開始以前と比較して悪化しているということは少なくともいえるであろう。
 前述したように、貧困とは不平等の固定化によってもたらされるものである。ロシアにおいて、貧困の源泉となる「賃金獲得の自由」の不平等は、どのような要素から形成されているのであろうか。また、その不平等はどのように固定化されているのであろうか。これらのことを探るために、まず、次項において、「所得分配の不平等」に視点を当てることからロシアにおける「不平等」の概要をみることにしよう。

1-2 ロシアの所得分配の不平等:ジニ係数からの把握

 表2は、1992〜1997年におけるロシアの所得分配を示したものである。ジニ係数は所得分配の不平等を表す代表的な指標であり、Госкомстатによって定期的に公式発表されている。しかし、Госкомстат のデータによる所得分配の測定をみる際には、以下のことに留意する必要がある。それは、家計調査(FBS: Family Budget Survey)の標本から上位所得グループと下位所得グループの両方が意図的に除かれているということである(8)。これらを取り除くことは、貨幣所得分配の不平等が控えめに述べられる可能性を意味する。しかし、これらのことを考慮した上でも、1986年には25.1%であったジニ係数が、表2にみられるように、1994年には40.9%にまで上昇した。また、十分位数比(上位10% の所得 / 下位10%の所得)は、1991年には5.4であったが、1994年には15.1にまで劇的に拡大した。そして、上昇と下降の変動こそあれ、移行開始後、ジニ係数、十分位数比ともに、悪化の方向に固定化する傾向がみられる。移行開始前と比べて、移行開始後に、ロシアの所得分配の不平等が悪化しかつ固定化しつつあると想定することができるであろう。
 移行開始後と開始前の相対的水準だけでなく、絶対的水準からみても、移行開始後のロシアにおける所得分配の不平等は大きいといえる。貯蓄面から所得分配の格差を捉えてみると、全人口の約2%が総貯畜の6割を占めていることがわかる(9)。また、国際比較からロシアの所得分配の絶対的水準を捉えてみても、ロシアの所得分配の不平等が大きいことがわかる。ロシアのジニ係数の数値は、ラテン・アメリカやアジアの途上国のそれに類似しており、世銀の分類における中所得国とほぼ同じ状況を示している。世銀の『世界開発報告1996』によれば、ロシアのジニ係数は49.6%であり、同じ中所得経済グループに関しては、エクアドル46.6%、ドミニカ共和国50.5%、コロンビア51.3%、コスタリカ46.1%、タイ46.2%、マレーシア48.4%、メキシコ50.3%であった(10)
 以上のように、移行開始後のロシアの所得分配の不平等は、移行開始前と比べて、相対的水準からみても絶対的水準からみても悪化しており、かつ、所得分配の不平等が固定化する傾向にある(11)。この不平等を形成する要素は何であるのだろうか。次項において、不平等を形成する要素について考察することにしよう。

1-3 「支払われる予定の賃金」と「獲得される賃金」―何が貧困形成の説明変数か―

 表3は、移行開始前と開始後のジニ係数の変化を要素分解した計測結果を示したものである。みられるように、他の移行国と比べてロシアにおいては、所得構成の変化が不平等削減に大きく寄与しており、1994年の所得構成が1989年のそれよりも平等という観点では望ましいということになる。しかし、ジニ係数全体の変化は+23.6と極めて大きく、ロシアの所得分配は全体として悪化しているといえる。また、ロシアにおける賃金集中係数は+17.8と非常に大きく、これがジニ係数全体の悪化に大きく影響していることがわかる。つまり、所得分配の不平等の悪化に関して、賃金の変化が最も重要な要因になっていると思われる。
 図1は、1970〜1997年の主要産業部門別賃金分布を表したものである。示されているように、1990年以降、ソ連時代にはほぼ平準化されていた賃金にばらつきが生じ始めた。このような産業部門間の賃金のばらつきは、所得分配の不平等の一因になっていると思われる。
 しかし、ここで注意すべきことは、ロシアの賃金統計の「賃金」とは、雇用者に対して「支払われる予定の賃金」であって、「獲得された賃金」ではないということである。1990年以降、ロシアは大規模な移行不況に陥り、1996年にいたるまで、GDPの成長率はマイナスから脱することができなった(12)。このような移行不況の中で、表4にみられるように、1992年に急激に実質賃金が低下した。農業部門における実質賃金の回復は1995年から生じたが、その他の産業部門においては、1993年から実質賃金の回復が観察された。実質賃金は1991年の水準まで回復してはいないが、上昇の方向へ向かっている。生産力の回復のみられない中で賃金が上昇するというのは極めて不自然な現象である。このことからも、「賃金」は「支払われる予定の賃金」であって、実際に「獲得された賃金」ではないことがわかる。ロシアの所得分配の不平等を捉えるためには、「支払われる予定の賃金」のばらつきではなく、「獲得された賃金」がどのように形成されているのかをみる必要がある。

 ロシアにおける「獲得された賃金」は、次のような要素から構成されていると定義できるであろう。つまり、「支払われる予定の賃金(+)」と「支払が遅延している賃金(−)(13)」と「第2雇用(副業)からの追加的賃金(所得)(+)」の3要素である。「支払われる予定の賃金」に関しては、主要産業部門別の「賃金」をみることから、1990年以降、「賃金」のばらつきが生じていることを既に概観した。このような「支払われる予定の賃金」のばらつきは富める者と貧しい者とを生み出す可能性をはらむが、「貧困の源泉となる不平等」の固定化の説明変数としては、後者の2要素がより説得力をもつと思われる。何故ならば、「支払われる予定の賃金」は「獲得された賃金」の核ではあるが、後者の2要素は、「獲得された賃金」を変動させる不安定な要素であるからである。また、以下で明らかにされるように、低所得者層と高所得者層の獲得する賃金のばらつきを拡大させる要素にもなっているからである。さらに、「獲得された賃金」をマイナスに変動させたりプラスに変動させるという点で、これらの2要素は、より快適な生活を獲得する「自由(機会)」に関わる要素である。「自由」を持つ人はより快適な環境を維持する(あるいは得る)ことができるかもしれないが、「自由」を持たない人はより快適な環境を維持することができないかもしれない。次節以降において、移行開始後のロシアの特徴ともいえる「賃金支払遅延」と「第2雇用」について詳しく考察し、これらの「自由」がどのように不平等を固定化し、貧困へとつながっていくかをみていくことにしよう。


2. 貧困の源泉を形成する不平等―賃金支払遅延と第2雇用―

2-1 「賃金支払遅延」の拡大

 計画経済から市場経済への移行過程において、ロシアでは賃金支払遅延が拡大した。賃金支払遅延は、計画経済から市場経済への移行に際し、拡大してきた現象である。筆者の試算によれば、賃金支払遅延は、工業・農業・建設業・輸送業の4部門において、1994年に実質タームで約3億7,500万ルーブル、95年に約8億9,500万ルーブルになり、金融危機後の98年9月には、約105億5,300万ルーブルに達した(14)。また、表5は、雇用者1人当たりへの月平均賃金支払遅延額を主要産業部門別に実質タームで示したものである。みられるように、1人当たりのレベルでみても、移行開始以降、いずれの産業部門においても賃金支払遅延が拡大していったことがわかる。経済全体では、実質タームで1993年に1人当たり0.6ルーブル/月であった賃金支払遅延は、1997年には1人当たり98.4ルーブル/月に増大した。このような賃金支払遅延は、どのような人々に降りかかっているのであろうか。次項において検討することにしよう。

2-2 「貧困の源泉となる不平等」と賃金支払遅延―誰に賃金支払遅延は降りかかるのか―

 表6は、支払われる予定の賃金額に対する賃金支払遅延額の比を主要産業別に示したものである。この表が示しているように、移行初期に、主要産業の4部門全てにおいて、支払われるべき予定の賃金に対する賃金支払遅延の比が年々増加し、1997年には経済全体で0.63にまで達した。つまり、賃金支払遅延の水準は高かったといえる。また、賃金支払遅延の規模は、産業部門間でのばらつきが観察され、かつ、ばらつきの構造は、農業、工業、建設業、輸送業の順にほぼ大きさが固定されていた。
 表7は生存水準に対する平均月給の比を示したものである。この表から、生存水準を基準にした各産業部門の賃金水準を知ることができる。表7にみられるように、賃金水準には産業部門間でばらつきが観察され、さらに、輸送業、建設業、工業、農業の順に賃金水準の大きさが固定されていた。

 表6と表7を合わせて考慮するとき、賃金水準の低い産業部門ほど支払われるべき賃金に対する賃金支払遅延額の比率が高いことがわかる。つまり、賃金水準の低い産業部門ほど賃金支払遅延を受けている。また、表8は、所得階層別の賃金支払遅延の分布状況を示している。示されているように、所得階層別のRatio1(月当たりの賃金支払遅延額 / 支払われた賃金)とRatio2(月当たりの賃金支払遅延額 / 支払われるべき賃金)のいずれの数値も所得階層が上昇するにつれて小さくなっており、所得水準の低い階層ほど賃金支払遅延を被っているといえるであろう。
 以上のように、移行開始時に、賃金支払遅延がロシア全体で生じたが、賃金水準の低い産業に属する人々、さらには、所得水準の低い人々に偏った形で賃金支払遅延が拡大していった。すなわち、賃金支払遅延は、経済的に弱い人々である低所得者層に降りかかっていったのである。

2-3 第2雇用の全体像

 1989年には全雇用者の13%が基本給以外からの稼ぎを得ていたが、93年には全雇用者のうちの14-20%、94-95年に18-20%、96年に20-21%が第2雇用に従事した(15)。また、労働者は、国営あるいは新たに民営化された大・中規模企業において長期的仕事に就いている一方で、インフォーマルな活動(16)に益々参加する傾向にある。また、新しい私的セクターの企業において、フォーマル、半フォーマル、あるいはインフォーマルな仕事に就いていることもありえる(17)。公式に登録されてはいないが、多就業がかなり拡大しており、賃金の低下を相殺する収入源の多くが、第2雇用からの収入によって賄われている可能性があるとも想定される。また、表9ВЦИОМ(全ロシア世論調査センター)(18)調査にみられるように、副業に従事していると答えた回答者(N=271)の56%が私的セクターにおいて追加的就業を得ており、第2雇用先の半数以上が私的セクターにおけるものであった。

 ВЦИОМ調査によれば、1994年4月時点において、第2雇用に従事している回答者全体の84%が、追加的労働を持つ動機として「収入を増やしたいから」と回答した。年齢別、職務上の地位別、企業所有形態別に得た第2雇用従事者の回答に関しても、同様の回答が圧倒的に多くなった(19)。筆者の試算によれば、1996年2月現在、追加的労働から得られる収入は1ヶ月当たり302,400ルーブルであった(20)。Russian Economic Trendsによれば、96年2月現在の支払われるべき平均賃金は684,400ルーブルである。つまり、その約44.2%に相当する額を追加的労働から獲得していたということになる。「隠れた失業」の広範な存在を考慮するとき、第2雇用から得られる所得が、本業における所得の低下を補完する重要な「追加的収入」であることは確かである。
 次に、副業とは具体的にはどのような形態のものであるのか、また、副業従事先の規模に関して若干みていくことにしよう。
 表10は、副業を持っていると答えた回答者が持つ追加的労働の種類の分布状況を示している。1994-95年に、他の企業・組織での兼務が一貫して大きな割合を占め、また、建設、修理、縫製サービスや家庭教師、個人授業、掃除、炊事などの個人サービス業が増大している。また、セクター別にみると、国有セクターでは、兼務が40.7%、サービス業が24.9%を占め、半国有セクターでは、サービス業が48.6%、その他の労働が20.2%、私的セクターでは、サービス業が42.5%、兼務が37.5%を占めた。さらに、部門別にみると、行政部門以外は、サービス業と兼務が追加的労働の大半を占めた。つまり、セクター別にみても部門別にみても、兼務とサービス業という形態の追加的労働が大半を占めている。
 さらに、表10にみられるように、副業はごく簡単な職種のものが多く、28%の人々が副業は専門的知識を要しないと回答し、37%が本業よりも容易と回答している。
 また、副業従事先の企業規模はどのようであるのか。1995年のRLMSのデータによると、「さらに何らかの仕事をもっている」と答えた回答者の中で、4分の1以上が従業員数10人以下の企業で追加的労働をしており、約半数が従業員数20人以下の企業で、約5分の4が従業員数100人以下の企業で、ほんの7%が500人以下の大・中企業で追加的労働に従事していた(21)。つまり、副業従事先の多くが零細な企業であった。
 以上のように、一般に、「私的な零細企業において、兼務とサービスという形態の簡単な追加的労働に従事する」のが第2雇用(副業)の全体的像になるであろう。次項においては、第2雇用に従事できるのはどのような人々であるのかを具体的にみていくことにしよう。

2-4 「貧困の源泉となる不平等」と第2雇用
―第2雇用に従事できるのは誰か―

 第2雇用に従事できる人々はどの所得階層に位置する人々なのか。表11-1は、1994年10月現在の、本業の賃金額別に分類された労働者の第2雇用の分布状況を示している。Russian Economic Trendsによれば、1994年10月現在の平均賃金は264,961ルーブルであり、平均賃金よりも高い賃金を獲得している労働者、つまり、本業の賃金が高い層ほど追加的労働に従事する労働者が多いという傾向が見て取れる。これが意味することは、収入の高い層ほど副業に従事しているということである。また、表11-2は、本業と第2雇用の賃金の関係を示したものである。みられるように、低所得者層は第2雇用からの追加的賃金を合わせても、平均賃金にも満たないことがわかる。それに対し、高所得者層は副業においてもより高い賃金を享受することが多い。

 また、表12は、回答者のグループ別追加的雇用の分布状況を表している。男性、若い層、高等教育を受けた人、社会・専門的地位の高い人、私的セクター所属者、高収入獲得者などが追加的労働へのアクセスがしやすい傾向がみられる。この傾向は、定期的な追加的雇用を含めた場合においても、ほぼ同様である。

 以上のことから想定されることは、本業においてより恵まれた地位・条件にある雇用者、言い換えれば、一部のより賃金の高い層が追加的労働へアクセスしやすいということである。一方、賃金の低い層は第2雇用へのアクセスの機会が少なく、移行初期に拡大した「隠れた失業(不完全就業)」の影響を直接的に受けていると考えられる(22)。つまり、追加的労働による所得は「隠れた失業」の拡大による賃金低下の補足的役割を果たすが、追加的労働に従事することのできる層は「高所得者層」の方に偏りがあり、「低所得者層」は追加的労働に就く機会は少ない、ということになるであろう。

 本節において、「獲得される賃金」を変動させる不安定要因である2要素(賃金支払遅延と第2雇用)とはどのようなものであるのか、また、どのような不平等を形成しているのかをみた。最後に、次節において、これらの2要素が所得分配不平等の固定化と貧困層の形成にどのように関係していく可能性があるのかについて考察することにしよう。

3. 所得分配不平等の固定化のプロセスと貧困層の形成

3-1 賃金支払遅延と第2雇用からの追加的所得:不平等の固定化への説明

 前節でみてきたように、賃金支払遅延を受けやすいのは低所得者層であり、追加的所得の源泉である第2雇用へアクセスしやすいのは高所得者層である。これらの経路を通じて、ロシアにおいては所得分配の不平等が生じている。しかも、この所得分配の不平等は固定化されると想定することができる。その原因の1つを、どのようにして人々が職を得るのか、という就職方法に求めることができるであろう。

 図2は、ジョッブ・サーチ方法別の失業者の分布状況を示している。失業者は、複数のジョッブ・サーチ方法をとるため、ジョッブ・サーチ方法の比率の合計は100%を超えている。図2に示されているように、失業者は、ジョッブ・サーチの方法として、コネを利用する場合、国家雇用局を利用する場合、経営者(雇主)に直接照会する場合が多く、1995年10月末には、それぞれ、失業者のジョッブ・サーチ方法の41.6%、38.6%、28.0%を占めていた。
 一方、表13は、現在の職をどのような経路を通じて獲得したのかを示している。みられるように、「親戚、知人、友人」を通じて現在の職を得ている人々が極めて高い比率を占めている。このことから、失業している場合、国家雇用局やコネの利用、雇主への直接照会によるジョッブ・サーチ方法がとられることが多いが、実際に職を得ることができるジョッブ・サーチ方法は、コネを利用する場合である可能性が高いということが想定できる。つまり、コネという情報ネットワークを利用して職に就くことが圧倒的に多い(23)
 また、ロシアの労働移動率は高いが、これらの移動は労働市場の階層ごとのネットワークに応じてなされる水平的な移動であり、その主体は競争力のある労働者、コネのある労働者であると想定できる。他の移行国と比較して、ロシアにおいて労働移動率(新規雇用率と離職率の和)は比較的高い水準にある。Госкомстатによれば、経済全体の労働移動率は、93年に46.2%(新規雇用率21.1%、離職率25.1%)、94年に48.2%(新規雇用率20.8%、離職率27.4%)であった(24)。これに対し、他の移行国の労働移動率は、例えば、ルーマニアが92年に24%、ブルガリアが93年に32%、ポーランドが93年に42%であった(25)。移行初期のロシアは深刻かつ長い移行不況に直面しているにも関わらず顕在失業が漸進的に増加しているということを考慮するとき、労働移動率が高いということは、競争力のある労働者の移動が主であることを意味していると思われる。翻って、第2雇用にアクセスしやすいのは高所得者層であったが、これも、よい情報ネットワークを持っていることに起因すると思われる。そして、競争力がなく、コネもない、交渉力もない労働者が、企業に留まり(主に国有セクター)、解雇されるよりも賃金支払遅延を受け入れるという構図ができあがっている。
 以上のように、情報ネットワークの有無によって、所得階層が分断されている。また、ロシアの労働市場の構造は労働移動率が高いという点でフレキシブルではあるが、所得階層が分断されているために、労働移動はより高所得者層に偏って生じていると仮定できる。これらのような背景によって、所得階層の下層に位置する人々が上層へと移動することは困難である。そして、このような所得階層の分断を通じて、所得分配の悪化とその固定化が生じると考えられる。

3-2 所得分配不平等の固定化と貧困層の形成―貧困に直面しているのは誰か―

 図3は、所得分配悪化の固定化のプロセスを示したものである。賃金支払遅延と第2雇用はある一定の所得層に偏った形で分布し、賃金支払遅延を受けやすいか否か、第2雇用へのアクセスの機会の有無によって、獲得所得の格差が生じ、所得分配の不平等につながっている。また、親戚・友人などの情報ネットワークを通じて所得階層が分断されることよって、所得分配の不平等の悪化が固定化し、貧困層が貧困から抜け出すことが難しくなると考えられる。

 表14は、1人当たり所得水準別・雇用地位別に分類した雇用者の分布状況を示している。雇用地位別に1人当たりの所得水準をみると、国有企業・私的企業ともに、労働者・下級職員、ホワイト・カラーといった上級・中級経営陣以外の層が貧困化する傾向にある。低所得者層に属する労働者が貧困化する傾向にあるのは、賃金支払遅延のほとんどが、低所得者層に偏在していること、第2雇用に関するよい情報ネットワークを持っていないことと関係していると想定することができる。また、低賃金の労働者は、解雇された場合、新たな仕事を見つけることができないかもしれない。このような背景を抱えて、低賃金の雇用者は賃金不払いを受け入れ、高賃金の雇用者よりも不払いの影響をより強く受ける傾向にある。そして、賃金支払遅延は、極めて持続的現象であり、異時点でも同じ人々に降りかかってくる傾向にある(26)。低賃金労働者にとって、賃金支払遅延の意味するところは貧困と絶望がより起こりうるということに他ならない。また、全雇用者の分布状況が示しているように、1人当たりの所得水準に関する雇用分布がピラミッド型になっており、「貧しい」、「かなり貧しい」という所得水準の低い状況にある雇用者の数は多く、全雇用者の68.4%が「貧困」に直面している。

 低所得者層に属する人々は、家計維持のあらゆる収入源(27)をかき集めることによってどうにか生計を維持している。郊外のダーチャ(菜園付き別荘)での畑仕事から得られる野菜などで食料を調達していることもあるであろうし、それを売買することから収入を得ることもあるであろう。また、友人・親類からの私的移転などを得ている場合もある。RLMSによれば、窮状にある人々は私的移転に益々依存するようになった。私的移転は、93年に全家計の総貨幣所得の平均4.7%であったのが、96年には7.1%に上昇した。RLMSのデータをもとにしたクラークの試算によれば、私的移転は、93年には獲得された貨幣所得の20%に相当した。また、v・撃フ調査によれば、困ったときに何を頼りにするかという質問に対し、5%が政府機関、42%が友人と家族と回答している(28)

おわりに

 国家による社会的支援の伝統的システムそのものは概ね損なわれていないが、徴税能力の欠如の結果、中央政府と地方当局は財政危機にみまわれ、事実上機能不全に陥っている。自治体は、社会的支援を政策的に維持するだけの行政能力も資金もないのである。年金、児童手当、失業手当を支払う際にも、手当が不払いになる、あるいは、削減されたり、現物支給になることがある。さらに、最も困窮している地域が問題を解決するための資金を最も持ち合わせていないというのが現状でもある。そのため、ロシアの人々は、貧困を凌ぐために政府の役割を期待することができず、親戚・友人の私的移転に頼るなど、その場をどうにかぎりぎりつくろっている。
 ロシアにおける不平等の固定化を取り払うことは至難の技ではない。しかし、本稿で示された「獲得賃金の自由(機会)」の不平等の固定化が貧困形成の要因であると考えるとき、雇用の安定と創出が極めて重要であることに異論はあるまい。また、所得階層の分断化によって、低所得者層が貧困から抜け出すことが不可能になるため、低所得者層が所得を得ることのできる自由(機会)をより創出していく必要があるということにもなる。そのためにも、政府が、雇用支援プログラムを推進し、連邦雇用局(職業紹介所)を信用あるものにしていくことも必要である。