プーシキンの『コーカサスの捕虜』再考
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1.問題提起−文学批評のアプローチ

 近年、特にサイードの『オリエンタリズム』が出版された1970年代の終りから今日に至るまで、文学作品などの文化的産物と、帝国主義や植民地主義、あるいはナショナリズムなどの政治的趨勢の関わりを論じる文学批評が、盛んに行われてきた。そこでは、今まで無批判に受け入れられてきた、(中心世界による)周縁社会についての記述に懐疑の目が向けられ、そこに何らかの限定性が見出せることが指摘されている。今日では、これは広く社会科学一般の傾向となり、表象に伴う権力の問題、およびそこに描かれる主体性をめぐる問題は、避けて通ることのできない問題となっている。
 このことは、もちろんロシアの古典的な文学作品に対する文学批評においても例外ではありえず、その中でも特に近代ロシア文学の祖であるプーシキンの作品に対して、多くの指摘が為されている。本研究ノートでは、そうした批評を捉えなおし、その十分でないと思われる点を補足したい。
 題材としては、プーシキンの作品群の中でも、特にそうした文学批評の対象として選ばれることの多い『コーカサスの捕虜』を取り上げたい。この作品は、プーシキンのごく初期の作品で、詩人としての成熟度からいっても、必ずしも彼の観点を判断する基準となるようなものではない。しかし、ここでの目的は、今日の文学批評のアプローチに検討を加えることにあるので、必ずしも作家を等身大に映し出すような大作を選ぶ必要は無いと考える。
 今日の文学批評においては、作品の持つ政治性が鋭く指摘されている。例えばレイトンは、プーシキンの作品に描かれている「コーカサス」とは、実際の地理的な空間を指すのではなく、あくまで想像による概念であって、そこでは場所(空間)と、そこに実際に住む人々とが切り離されていることを見て取る (1) 。修辞や比喩などの文学的な手法を駆使して描き出されたこの空間は、当時のロシア知識人たちが抱えていた自己認識の隙間を埋めるものだった。彼らは、ヨーロッパに対して抱いていたアンビヴァレントな感情からくる当惑のはけ口を、アジア的なコーカサスに求めることができた。それは、ヨーロッパに遅れをとったロシアの「代償のナショナリズム」として作用したのである。『コーカサスの捕虜』においても、チェルケス人とロシア人のアイデンティティに類縁性が見出され、それゆえアジア的な気質がロシアの有機的な一部として確認されている。結果的にそれが、ロシアがアジアに版図を広げていくという帝国主義的な文脈の上で浮き彫りになったと、彼女は指摘している。
 レイトンが、アジア的なコーカサスという形で描かれた想像的な空間を、当時のロシアにおける自己規定の重要な要素として指摘したのに対して、ホーカンソンは「民族性」(narodnost') という概念こそが、その決定的な要素であったことを主張している (2) 。この概念は、文化の多様性を表象する能力と同義で、ゴーゴリやドストエフスキーによるプーシキンの評価に見られるように、ロシア人のアイデンティティと重ね合わせて考えられた。つまり、新たに帝国領土に組み入れられた多様な民族についての表象を作り上げることが、そのままロシアの自己規定につながるので、その表象には揺るがぬ権威が付与されることになる。このようなことから彼女は、文学と帝国主義的侵略との間に共犯関係が成立し、それらは互いに相補的に働いたとしている。
 しかしここで銘記しておかなければならないのは、文学作品の政治性というものは作品に所与のものとしてではなく、それが生まれる背景となった現実世界との関係の上に現れてくるということである。いかなる文学作品も、それが生み出される背景とは無関係でありえないので、何らかの政治性を備えていると言える。しかしそれは、決して作品の固定的な属性ではなく、作品を通して表現する作者と現実世界の関係のいろいろな局面に応じて現れてくる特徴である。ここでの場合、作品と帝国主義的な現実との間に関係があることは疑いようの無い事実だが、それを直截的な関係に帰すことはできない。作品のもつ政治性は、それと帝国主義的現実との関係における、あらゆる局面の様相を引き受けた形で現れる。それゆえ、それぞれの局面に現れる関係性の特徴を、個別に分析していくことが求められる。
 このことに関連して、ツヴェタン・トドロフはその『他者の記号学』のなかで、一般に他者との関係は、ただ一面的に成り立つものではないことを指摘している。そのため、他者性の問題を位置づけるためには、少なくとも三つの軸が必要だとして、それらを提示している。それによると、第一に他者は良いか悪いか、私は他者を愛するか愛さないかという価値判断(価値論的次元)、第二に、他者に対する接近もしくは隔たりの行為(実践論的次元)、そして第三に、私は他者のアイデンティティを知るか知らないかということ(認識論的次元)の軸が設定できる。これら三つの次元には、それぞれ重なり合う部分もあるが、「厳密な意味での含意関係は一切存在しない。だからそれらを相互に還元することも、一方から出発して他方を予見することもできない」(3)。彼は、この三つの軸に沿って、ラス・カサスをはじめ、16世紀のスペイン人宣教師たちとインディオとの関係性について、分析を行っている。そこでは実際に、それぞれ個別の関係のあり方が浮かび上がってくる。
 彼が述べているように、「これら三つの軸の境界画定と、同じ一つの軸の中で観察される多様性を混同してはならない」 (4) 。ところで、彼の見方からすれば、プーシキンがコーカサスあるいはそこの住民であるチェルケス人を描いた時、そこに現れた「民族性」(narodnost')の問題や、「アイデンティティの類縁性」という問題は、実践論的次元の問題に他ならない。しかしコーカサスの山岳民のような、新たに帝国に編入された(あるいはこれからされようとしている)他者に対して、ロシアの詩人がもった関係の現われ方を広く分析するためには、これとは異なった次元に即した局面からも捉え直す必要がある。ここではトドロフの手法に従い、認識論的な次元と価値論的な次元における関係性のあり方について、以下に論じてみたい。


2.プーシキンの自然認識

 ロシアの周縁社会に対するプーシキンの視点は、彼の自然認識のあり方と大きく関わっている。モンテスキューが説いたような、民族の独自性はその生活環境と直接に対応するという考え方が、当時は一般に広く支持されていた。プーシキンの『コーカサスの捕虜』においても、チェルケス人はコーカサスの自然の一部を成すかのようである。「コーカサスの息子たち」であるチェルケス人は、広野や山を縦横無尽に駆け巡り、そこで生き生きと生活する様は、ロシア人捕虜の好奇心に満ちた視線の対象となっている。
 ただその視線は、荘厳な山々やそこに生息する動物たちと並べてチェルケス人の生活を捉えており、それらを同等に扱っている。この、周縁民族と自然との並列関係は、彼が同じ頃に書いた他の詩の中にも見いだすことができる (5) 。ここで私たちは、「チェルケス人=自然」とするプーシキンの認識論的布置に、すでにその政治性を読み取ることができる。しかしここでは、彼の認識のあり方をもっと深く追究するために、更にその先へ進みたいと思う。 
 では、プーシキンの自然認識はどのようなものだったか。これについて考えるとき、アメリカの文芸批評家ポール・ド・マンの理論は、比較的明快な理解の助けとなる。彼は、文学言語が記号として物と相関性を持つとする「新批評(the New Criticism)」派に異議を唱え、言葉に対する、自然次元にある物の優位性を主張した (6) 。言葉は、物が存在するように絶対的な自己同一性を保って存在することができないため、いくらそれを芸術的に活用して、その実質性を回復しようと試みても、常に失敗に終わる。しかしそれにも関わらず、19世紀のロマン主義詩人たちは、「自然次元の物へのノスタルジア」にかられて、この挫折の冒険をあらゆる形で追体験しているのである (7)
 論点をはっきりとさせるために、彼はルソー、ワーズワース、ヘルダーリーンの3人の西洋ロマン主義の先駆者による詩文を例にあげて、そこでの「意図的構造」をとらえる試みをしている。そこであげられるのは、すべてアルプスを舞台にした霊的啓示の瞬間を表した文章である。風景の場としてのアルプスは、地理的な面でも、物の存在に対する認識の面でも「上昇への動き」を促すが、それによって「詩的想像力は地上的自然から自己をいわば引き剥がし」、ルソーの言及する観念的な「別の自然」へと移し替える。このことで詩人の「想像力」は、自然と意識との間に全く新しい関係を築き、そこに内面的平安の回復を可能にしていく (8)
 プーシキンの場合、西欧のロマン主義がアルプスに負っていたものを、コーカサスの高峰に負っていた。レイトンが指摘するように、プーシキンをはじめ、ロシアのロマン主義者たちは、コーカサスに詩的インスピレーションの発生を促す精神高揚の作用を認めると同時に、その荘厳な風景とそこに住む「好戦的な」住民とがかき立てる緊張感によって、自由に想像力を働かせ、そこに感情的な意味づけを行っていた(9)。実際、『コーカサスの捕虜』の中では、文明社会に疲弊したロシア人捕虜が、コーカサスの風景に圧倒される。頂を万年雪に覆われ、色とりどりに輝く高峰の偉容、足下に黒くたれ込める嵐の前触れの雲、そして稲妻の間を縫って堰を切ったようにたぎり落ちる雨と、万年石をも動かしながら怒濤となって急坂をかけ下る雨水。これらは、ルソーが『新エロイーズ』において、アルプスの山中にみいだした「自己対立に喜びを見いだすような自然」であり、「別の自然」への移行を可能にするような「上昇への動き」を意味する。
 そして、そこに住むチェルケス人は、コーカサスの自然と同じ効果をもたらす。「驚嘆すべき民」であるチェルケス人は、その身のこなしの俊敏さや、純朴ではあるが激しい好戦性をも持つ性格、またその美しい衣服や装身具、武器などによって、存在の輝きを放つ。
 ただそこでよく指摘されるように、『コーカサスの捕虜』におけるチェルケス人は相反する二面性を持って描かれている。その一つは、特にチェルケス人の娘が体現しているものである。純朴で無垢な心を持つ彼女は、ロシア人捕虜を献身的に看病するうちに、初めて愛に目覚める。彼女は、文明社会の中でロシア人が失ってしまった始源性をしっかりと保持しており、その姿はド・マンのいう「自然の存在論的優位性へのノスタルジア」がかき立てる想像力の産物である(10)。そして彼女に啓発されたロシア人は、自分の始源的な愛の姿である「永遠にやさしい人の姿」のことを想起し、告白する。
  
  我を忘れ、お前に身をゆだねつつ
  そのひそかな幻を胸にいだく。
  その幻に広野で涙をそそぐ。
  幻影はいたるところぼくについて来る。
  そして孤独なぼくの魂に
  暗い憂いを吹き込むのだ (11)

 一方、チェルケス人一般についての記述は、それとは違った様式がとられる。確かに、それは目を見張る数々の長所で精彩を放っているが、それと同時に、旅人やコサックを襲い、殺人や略奪を繰り返す残虐な姿は、ものの存在を無に帰せしめる破壊者として描かれている。また戦いがないときは、怠惰で無為な生活にひたる。
 そして、作品の中では彼らがその一部を成すコーカサスの自然も、それに呼応するように二面性を持つ。コーカサスの荘厳な風景も、ロシア人がチェルケス人の娘との出会いに触発されたような形でその美しさに魅了される以前は、ただ「荒涼たる平原」や「単調な丘の連なり」、「疎遠で陰鬱な道」でしかなく、また娘の愛を謝絶した後は、ひたすら彼が脱出を願って助けを呼ぼうとも、空虚な自然が答えるばかりである。ここでは、自然は人間の意識に対して全く逆の優位性、すなわちその無為的な優位性を発揮する。
 この、すべての存在を無に引きずり込む自然の性質については、やはり同じ頃に書かれた詩「私は見た、アジアの不毛な国々を」(1820年)などがよく表している(12)。しかし、ここで、プーシキンが自然に対するこのような認識を、アジアの(すなわちロシアの周縁地域の)自然に限定して抱いていたとするのは早計である。実は、それはもっと広い範囲に関わる、彼の終生にわたる大きな関心事だった。
 ネボリシンは、ゲーテが『ファウスト』の前狂言で詩人の口述に与えた自然の概念──果てしもなく長い糸を冷ややかに紡ぎだし、無理矢理糸巻きに巻き付ける──に照らし合わせながら、「冷淡な自然」に対するプーシキンの視点を明らかにしている (13) 。その中で彼は、プーシキンの「自然」概念においては、個人の意識や社会的な問題までをも含めた自然的な不可抗力、つまり良きも悪きもお構いなしで無自覚のまま運命として受け入れてしまう無力感を生み出すものとの重ね合わせがあることを見いだし、この不可抗力に対する彼の絶えざる抵抗を指摘する。それは、人間の能力を超えた自然の不可抗力に対する、人間の意志による抵抗、すなわち、自然の無為的優位性に対する抵抗である。
 自然の存在論的優位性をあくまで強調するド・マンによると、自分の言語に対する忠誠心がきわめて強かったマラルメでさえ、物の本質的優先権に対する確信を失わず、それに挑戦を仕掛けるようなことはしなかった。このことはプーシキンにおいても当てはまる。『コーカサスの捕虜』でチェルケス人の娘がかき立てる「永遠にやさしい人の姿」は、結局挫折感しか生み出さない。しかし、こと自然の無為的な優位性に対してはあくまで抵抗し、挑戦的な姿勢を崩さない。
 そこでは、もはや空間の移動はさほど問題ではなく、むしろあらゆるものを無に帰せしめる自然との対峙が、より重要なテーマとなる。たとえば、「悪魔」(1823年)、「さわがしい街筋をさまよい行こうとも……」(1829年)、「私の名前の何が君にいるのだろう……」(1830年) (14) ではこのテーマと真っ向から取り組んでいるが、そうした中でも特に、そのような自然の無為な作用に対する詩人の姿勢を端的に示すのが、「夜、眠れぬ時に書かれた詩」(1830年)(15)である。寝付かれぬ夜に明かりもなく、周囲の闇から聞こえてくるかすかな音に耳を澄ます。と、聞こえてくるのは単調な運命の女神のささやきとも、眠れる夜のわななきとも聞こえる時計の音やネズミの奔走。そうした、闇の中の無為な時間の流れが詩人を苦しめ、それを理解したいと欲し、意味を見つけたいと願う。
 たとえ違う空間に身を置いたとしても、そこではもはや空間の移動による「上昇への動き」が問題なのではなく、無為に流される自然の無目的な力に対して抗うことこそが問題なのである。プーシキンが二度目にコーカサスを訪れたときに書いた、「コーカサス」及び「雪崩」(1829年)(16)の二編の詩は、そのことを端的に表している。そこで彼は、コーカサスの山岳民を象徴して、荒々しく流れるテレク川がより大きな力によって抑え込まれる運命にある様を描き出す。ここで詩人は空間的に移動し、「自己対立に喜びを見いだすような自然」であるコーカサスに身を置いているものの、「上昇の動き」は抑制されている。その代わりに、その場を支配する無為的な自然に真っ向から対峙している。そこでは、無為に流れる自然とそれに抵抗する大きな力(「無言の巨漢」あるいは雪崩)との対立の構図が明らかにされる。
 ここで、「コーカサスの山岳民=テレク川=無為な自然」とする構図に、明らかに権力的な図式が認められるのは事実である。ただこれは、プーシキンの認識における構造が、一つの局面において政治的な側面を持って現れたものと見ることができるのである。
 『コーカサスの捕虜』の悪名高きエピローグにおいて、コーカサスにおけるロシア軍の功績をたたえる勇ましい言葉に並んで、次のような一節がある。

  ちょうど抜都汗国の民のように、
  コーカサスは先祖たちを裏切り、
  戦いに飢え渇いた声を忘れ、
  勇ましい弓矢をも捨ててしまうだろう(17)

ここでは、コーカサスの山岳民の伝統的な生活が、消失せざるを得ない運命にあることに対するぼんやりとした予感がある。ここでのテーマに関して、その最晩年に彼自身が発行した雑誌の中のある論文で、彼は再び取り上げている。幼い頃にインディアン(アメリカ先住民)にさらわれ、その社会で30年以上暮らしたアメリカ人の手記を紹介するこの論文「ジョン・テネー」 (18) では、まずプーシキン自身が、アメリカ人の手記に関心を持ったいきさつが書かれている。それによると、近年アメリカの事情がヨーロッパで話題になることが多いが、そのほとんどがアメリカ人社会の「民主主義」の欺瞞と、先住民に対する非人道的な関係を告発する内容である。プーシキンは、そのような政治的あるいは価値論的な議論とは距離を置き、未開社会は文明の光が差し込めば滅び去る運命にあるのが、避けて通ることのできない鉄則だと言い切る。さらに彼は、先住民の悲劇的な運命を小説に描いたシャトーブリアンやフェニモア・クーパーは、真実を想像の絵の具で飾り立てているとして批判し、彼らよりも真実味のあるアメリカ先住民についての記述をジョン・テネーの手記に見いだす。そこで紹介される先住民の狩猟生活やどんちゃん騒ぎ、喧嘩、敵意などに関する文章は、プーシキンによると「単調で、脈絡がなく、思考が全く欠如して」いるが、しかしそれらは「アメリカ先住民の生活について何らかの理解を与える」ものとしてとらえられている。
 これらのことから、プーシキンがその生涯を通して持ち続けた関心というのは、あらゆる自然の無為な流れに、どのように抵抗していくかということにあったといえる。そこには、放っておけばただ流れ去り、消えて無くなってしまうかすかな音、それだけでは意味を成さない音に対すると同様の「理解したい、意味を見つけたい」という強い意志が働いていた。
 ただ、そのような意図的構造は、彼の周縁社会に対する態度の中に、最も端的な形で現れた。そこでは、対象となる社会の主体性はもとより認められていないことは言うまでもなく、それは自らの意志を持って運命を変える余地のない無為の自然として捉えられている。『コーカサスの捕虜』を書いた頃の若いプーシキンにとって、このような無為の自然に対して「伝説」を作り上げることによって抵抗することは、必須の課題だったのだろう。しかし晩年になるに連れて、そのような行為が無条件に肯定できるものではないという認識に至る。このことは、例えば「コーカサス」及び「雪崩」において、無為な自然を抑え込む「大きな力」の扱いが、否定も肯定もしない曖昧なものに終わっていること、また、「ジョン・テネー」において、先住民の生活を美化して作品に仕上げたシャトーブリアンやクーパーのことを批判しながら、結局、テネーの手記の継ぎ接ぎというぎこちない形で評論の体裁を整えざるを得なかったということに表れている。

3.自由の二つの概念

 次に、プーシキンが理解・表象の対象となる社会と向き合う際に、価値論的な次元では、それらをどう捉えていたのかということについて、考えてみたい。
 彼が『コーカサスの捕虜』を執筆した当時――そしておそらくは生涯を通じて――人間の持つ最も重要な価値として考えていたのは「自由」という概念だったということは、それが「捕虜」にまつわる筋書きであることからも想像できる。彼は捕虜という自由を拘束された存在を通して、自由の価値の何たるかについて問いかけを行った。
 ここで、この問題について論じる前に、まずは『コーカサスの捕虜』という作品が持つところの「自由」に関する様々な側面について触れてみたい。

1)作品自体の自由
 当時ロシアの文学界において、この作品が従来の文体からの刷新を実現するものであったことは、作品のヴャーゼムスキーによる批評から伺うことができる。そこでは、フランスの古典主義文学のような重厚な伝統的スタイルを離れ、自由で独立した内面のインスピレーションに従って表現することが称揚されている(19)。 この批評に対しては、プーシキン自身も非常に感激的な調子で肯定している (20) (ヴャーゼムスキーは更に別のところで、新しいスタイルにおいては文体だけではなく、それが取り扱うべき内容も政治的領域からは独立した、純粋に詩的なものでなくてはならないとして、問題の作品のエピローグを批判している (21)
2)作者自身の自由
 プーシキンがコーカサスに追放される以前から、権力者の抑圧からの自由を尊重し、アンドレ・シェニエのような反体制詩人を憧憬していたことは、その名も「自由」(22)(1817年)という有名な頌詩から読み取ることができる。それがあだともなってコーカサスに追放された後は、バイロンの作品に触れたことも手伝って、政治的のみならず個人の精神的な自由も彼の重大な関心事となっている。彼はそのコーカサス滞在期間中に、前作『ルスランとリュドミーラ』のエピローグを書いているが、その中で、この作品の出版に骨を折ってくれた友人たちに感謝して、「お前(友情)は私に自由を守ってくれた/沸き立つ青春の偶像である自由を!」と述べている (23) 。また、『コーカサスの捕虜』においては、その前書きとしてあてた友人ラエフスキーへの献辞の中で、次のような表現をしている。――「ほほえみをもって受け取ってくれ、友よ/自由な詩神の贈り物を」。このような例から判断すると、プーシキンは「自由」という言葉を、誹謗や中傷、祖国からの追放という災厄が自分の身に降りかかる中で、かろうじて守られた個人的内面の砦、詩的インスピレーションの源泉のような意味で用いている。
3)チェルケス人の自由
 作品中、しばしばチェルケス人自体あるいはその行為を形容する表現として、「自由」 (volia, vol'nost')、「自由な」 (vol'nyi) という言葉が用いられている。「チェルケスの自由の防壁」、「自由な身のこなしの速さ」、「怠惰な自由の遊戯」など。これらは、チェルケス人の何者にも拘束されない自然な状態を表現する際に、修辞的に用いられている。チェルケス人自身には自由の自覚は無く、ただ客観的に外部から判断して、「自由」な状態だと性格付けられる。つまりそこには、詩人による、自然の絶対的優位性へのノスタルジアがある。その意味で「自由」 (volia, vol'nost') という言葉には、自然の始源性により近い状況にあるという意味合いが含まれている。
4)ロシア人捕虜の自由
 それに対し、ロシア人は常に自由 (svoboda) を希求している。それは無自覚にではなく、完全に意図的な行為としてである。彼はまず、自分の拘束された状態を「自由でない」と定義し、その状況を打開することを考える。例えば、チェルケス人に捕らえられ、その後自失の状態から意識を回復したとき、「目の前の世界が暗くなった/さようなら、神聖なる自由よ!/彼は奴隷だ」と嘆く。また、彼がコーカサスの地に足を踏み入れた経緯なるものを物語るとき、彼は虚偽や裏切りの渦巻く不誠実な社会を飛び出し、「自由の楽しいまぼろしを胸に抱いて/このはるかな国へ飛んできた」と語っている。さらにそれに続けて、「自由よ!彼はただお前だけを/空虚な世界で探し求めてきた」という心情の露呈がある。そして、娘の愛を拒絶した後は、ただ「いたずらに自由にあこがれた」。これらはいずれの場合においても、拘束、空虚、沈黙などによる支配が先にあり、そこからの脱出を願って意識される。ここでの「自由」は、意図的な意味合いが含まれているという点で、作者プーシキンの視点とロシア人捕虜の主体性が重なってくる。それらは自然(あるいは運命)の無為的な優位性に対する詩人の抵抗の現れである。すなわち、そこでは無為に流されず、本来あるべき姿を見失わずに、しっかりと自己を支えていられることが「自由」な状態として捉えられている。

 以上にあげた、『コーカサスの捕虜』の中における「自由」という概念の四つの側面のうち、本文の中で織り合わさって描かれるのは後の二つ、すなわちチェルケス人の自由 (vol'nost') とロシア人捕虜の自由 (svoboda) である(24)。レイトンによると、それらは共同体のような組織的枠組みによって与えられた諸権利を指す、政治的な意味での自由 (liberty) と、自分の欲するままに動くことのできる能力・可能性を指す、個人主義的な哲学あるいは心理学における意味での自由 (freedom) に、それぞれおきかえられる。後のデカブリストや、プーシキンを含むその潜在的な同調者たちにとって、前者は当時のロシアにおける理想でもあった。この意味での自由の追求と、バイロン流の主人公による後者の意味での自由の獲得願望が、作品の中では同時に起こり、混ざり合って存在していることを、彼女は指摘している (25)
 しかしプーシキンは、チェルケス人とロシア人捕虜という個別の対象に、それぞれふさわしい自由として、同じ価値を付与したものを考えていたわけではない。そこにはやはり、当時のロシアにおける政治的、社会的関心を反映するするような、価値の不均等な配分が認められる。
 作品の中で、彼がチェルケス人を性格付けるために用いた自由の概念と、ロシア人捕虜の関心事として扱った自由の概念の別は、アイザィア・バーリンが区別して考えた自由の二つの概念と、ある程度符合するように思われる (26) 。そのうちの一つは、個人あるいは個体としての集団が、外部からの干渉を受けずに行動できる領域を確保することに対する願望で、「消極的」自由と称される。それに対して他方にあげられるのは、自分の生活が統制される過程に自分自身も参画し、主体的な自己実現を達成する願望としての「積極的」自由の概念である。この二つの概念は、互いに似ているようで、実はその性質や方向性において全く異なるものである。
 この区別を適用すれば、チェルケス人の自由は「消極的」自由である。そこでは、コーカサスの山々を指す「自由の防壁」という比喩が端的に示すように、自然の絶対的な優位性(始源性)を回復するのに障害となるものから免れていることが、主要命題である。それゆえ、「誰が」その自由を享受するのかという主体性よりも、(西洋文明社会の諸弊害)「からの」自由という性格のほうが前面に押し出される。実際、『コーカサスの捕虜』に出てくるチェルケス人は皆、個人の顔を持っていない。唯一それを持っているのはチェルケス人の娘だが、彼女には最終的に自殺という究極の「消極的」な自由の追求は許されていても、村に残って新たな家庭を築いたり、あるいはロシア人とともに逃亡して新天地に赴くなどの「積極的」な自由を追求する余地は与えられていない。本作品の批評の中でヴャーゼムスキーは、このチェルケス人の娘はただ「愛した」ということ以外何ら確実なものを持たない詩的な存在として描かれていることを指摘しているが、彼はむしろその点を評価している。当時の文学界においては、チェルケス人は自己実現を目指す主体としてよりも、むしろその不確実性がかもし出す詩的な印象のゆえに評価されるべきものだった。
 それに対して、ロシア人捕虜は常に「神聖なる」自由を追求して、ロシアとコーカサスの間を渡り歩いている。それは、自己の実現を図る「積極的」自由を探求する行為である。そこでは常に、「真の」自己のあり方について問い直され、それにそぐわないものは「自由」を束縛するものとして取り除かれなければならない。それゆえに探求心は旺盛である。環境の不誠実さに包まれ、「始源的な愛」を一度失うと、生きることの喜びを感じていた故郷さえも飛び出して、遠い探求の旅に出る。チェルケス人の捕虜となり、鎖につながれている間もその社会を観察することに余念がない。また、チェルケス人に助け出された後も、川向こうから最後にもう一度対岸に目をやり、自分がいた場所を改めて外部から眺めることによって、統括的な状況を把握し理解しようとする。このように、ロシア人は理性的なもの以外のあらゆる束縛から身を解き放ち、より完全な自己支配による自由を獲得することを目指す主体として描かれている。
 しかしその試みは、本来終点が無いために、「真の」あり方についての問い直しは果てしなく続く。プーシキン自身、この作品における情景描写については一定の満足を示しているが、ロシア人の性格描写については、最後まで納得していなかった(27)。あるべき姿の探求は限りなく続くのである。
 このように、「積極的」(あるいは「消極的」)自由の布置という点に関しては、チェルケス人に対するのと、ロシア人捕虜に対するのとで明らかな不均衡が認められる。自らの主体性を持つ「積極的」な自由は、一方的にロシア人の方に重点を置いて与えられている。しかしプーシキンにおいては、バーリンが警戒していたような、自由の「積極的」な概念が高じて発せられる、理性的な自己支配のためにはただ一つの真の回答しかないというような全体主義的な極論に走ることは、もちろんなかった。ただ、『コーカサスの捕虜』の批評に対する返答として、彼がヴャーゼムスキーに送った手紙や、その中で彼に読むように薦めている「検閲官への手紙」という諧謔的な詩から伺えるように、あまりに言論の自由が制限されていた状態にあっては、自らの意見が全く無きものとされる可能性に、絶えず脅かされていたことは想像に難くない(28)。そこでは、主体性の実現に向けて探求するどころか、それを持つことすら危ぶまれた。そのような中では、作品の自由、作者自身の自由の追求が、作品の中のロシア人捕虜の「積極的」な自由の探求に反映され、強調されたとしても不思議ではない。

4.結論に代えて

 本研究ノートでは、プーシキンの『コーカサスの捕虜』が、今日の文学批評によってどのように分析されているかということから出発し、それが持つ問題点を補足することを目的としてきた。今日の批評家が指摘する作品の政治性の問題は、プーシキンと対象社会との関係のあらゆる局面のうち、ただ実践論的次元における問題に他ならず、そこにプーシキンの観点をすべて帰着させることはできない。そこで、異なる局面からもその関係性を捉える試みが必要であることを指摘した上で、その実践を試みた。
 まず第二節では、プーシキンの対象とする社会に対する態度が、彼の認識論的な次元において作品の中にどのように表れているかということについて述べた。そこでは、特に彼の自然認識(理解)を取り上げ、その中で無為に流れようとする力に対して、あくまで抵抗の姿勢をとろうとする、彼の意図的構造における主要な特徴を見出すことができた。
 ただここで、言うまでもなく「認識する」という行為が持つ性質上、それは一方が他方を認識するという具合に、単方向的なものになりやすい。実際、『コーカサスの捕虜』のロシア人は、チェルケス人の社会を俯瞰的に眺め、それを理解する能力が与えられているが、それはプーシキン本人が志向するところと重なって、常に一方的なものである。ここに、普遍的な理解能力に体現された権力の構図を見て取ることもできる。
 続いて第三節では、今度はプーシキンが、ロシア人とチェルケス人というそれぞれ個別の社会的存在に投じていた、価値論的次元における視点を追った。彼が作品を制作するにあたって、その関心の最も中心的な位置を占めていた「自由」という価値は、ロシア人とチェルケス人という二つの対象に不均等な形で関係付けられていた。後者に対しては、その主体性よりも客観的な属性が重視され、個別の顔を与えられることなく描かれたが、前者に対しては、徹底した主体性の追求が行われた。
 この、認識論的次元における単方向性や、価値論的次元における不均衡などは、いずれも帝国主義的な文脈の中で現れた、作品の権威的な側面である。それらは作品が、現実世界との関係上のいくつかの局面において帯びることになった政治的な特徴である。ただ、この関係は逆ではない。すなわち、作品の持つ政治的な性質が、複数の様相をもって現れるといったものではないのである。関係は単一ではなく、複数の次元で取り結ばれる。作品とそれが生み出された現実世界との関係性を、ただ一つの基軸に基づいて固定的に考えるならば、作品の持つ枠組みを実際よりも狭く設定してしまうことになり、正確な判断がえられなくなる可能性がある。それゆえ、ある文学作品について解釈を加える場合、その作品が現実世界との関係において持つ属性から関係性を引き出すのではなく、あらゆる局面をあわせ持つ個々の関係性から検討を加えて、そこに現れる属性を引き出していくべきである。


注釈