SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

シルダリヤ下流域の自然環境保全と潅漑農業
- クズルオルダ州を中心に -

野 村 政 修

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

はじめに
1.農業部門をとりまく経済状況と生産の動き
2.水資源の利用状況
3.自然環境保全のための善後策について
おわりに

はじめに
中央アジアに位置するアラル海の縮小とそれに伴う自然環境劣化については既に多くの報告がなされている。アラル海縮小の主な原因はシルダリヤとア ムダ リヤの流域における潅漑開発である。しかしながら、これらの流域の潅漑農業について具体的に分析した報告は少ない。
本稿では、シルダリヤ下流域(カザフスタン共和国のクズルオルダ州と南カザフスタン州南西部)における灌漑農業の現状を説明し、現状維持のままで は将来 的には農業生産が停滞することを述べる。さらに、農業発展と自然環境保全のための善後策として用水節約の可能性について考える。用水節約によって、北アラ ル海とシルダリヤ・デルタ保全のための流水量を増加させることができる。なお、ここでは資料の関係から善後策のための事業計画の費用便益分析は行わず、善 後策の可能性を示唆するにとどめる。

  

1. 農業部門をとりまく経済状況と生産の動き
旧ソ連解体にともなう共和国間経済関係の崩壊および急激なインフレーションのために、1990年代におけるカザフスタンの経済実績は悪化した。農 業部 門では生産の停滞現象がみられた。さらに、農産物と鉱工業生産物における価格上昇率の乖離すなわち農産物と鉱工業製品との価格格差が大きくなった。例え ば、1992年末と1993年末の卸売価格水準を比べてみると、石炭8.7倍、石油製品5.7倍、天然ガス12.5倍、機械製造業製品17.7倍に上昇し た (1) 。他方で、 1993年に収穫された穀物の価格は1992年の水準の5.2倍であった。さらに、それ以前の農産物全体と鉱工業製品全体の価格指数を比較しても上昇率に 大きな乖離がみられた。1990年を100として、農産物は1991年196、1992年1,032、鉱工業製品は1991年293、1992年 2,469であった (2) 。 このように、燃料、潤滑油、機械部品など農業生産の経費となる品目の値上がりに比較して主要農産物である穀物の値上がり幅は小さい。鉱工業生産物の価格上 昇は農業生産において経費の増加をもたらした。これは、農場経営の収益を圧迫する要因である。市場経済への移行過程における混乱は、個々の経営体と農民に 大きな損失をもたらした。その結果、農業生産性は低下した。生産性上昇のためには設備投資が必要とされる。
さらに、農業生産は周期性をもっているために、年間の収入と支出が季節により大きく変動する。支出と収入の季節格差は銀行からの融資によって相殺 される。 しかし、旧ソ連時代に頻繁に見られたような農工銀行からの融資は現在では困難になった。さらに、急激なインフレーションのために農場の実質収入は減少を続 けた。しかも、農業部門では上級機関から必要に応じて資金不足を補なう財政援助が旧ソ連時代のように受けられるという利点はなくなった。
クズルオルダ州の主な産業は農業と建設業である。少々古い資料であるが、1989年の生産国民所得でみると、州全体の66,850万ルーブルのう ち、農業 43.9%、建設業39.7%を占めていた (3) 。 農業生産の動向がクズルオルダ州全体の経済活動を左右するといえよう。しかし、農業部門は他の産業部門に比較して労働者一人当りの所得が小さい。1993 年10月の時点で月平均賃金を比較すると、工業部門409.7テンゲ、建設部門392.5テンゲ、運輸部門494.8テンゲに対して、農業部門158.7 テンゲであった (4) 。 農業が主要な産業であるクズルオルダ州では、住民の所得増加が市場経済化における社会経済政策の課題となる。
農業部門の不振に加えて、環境災害地域(Zona Ekologicheskogo Bedstviia)に指定されていたようにクズルオルダ州では自然環境悪化という要因が経済危機をより深刻な状態にする。その要因とは、アラル海の縮小 とそれによるシルダリヤ・デルタの乾燥化、塩類集積による土地生産性の低下である。これらの要因は、農業における土地利用と播種構成および生産性に影響を 及ぼすことになる。また、クズルオルダ州では米が主要な農産物の一つであるが、今までその大半は州外に移出および輸出されていた。しかしながら今後の世界 市場との関連を考慮すれば、従来から慣れ親しんだ作物の栽培に依存することは農業経営体に損失をもたらすことにもなりかねない。かといって、クズルオルダ 州では気象条件の制約から土地生産性の点で有利といわれる綿花栽培に転換できるわけではない。この点で、クズルオルダ州は南カザフスタン州よりも農業生産 構造の転換において不利な状況下にある。
さらに、潅漑が行われているにもかかわらずクズルオルダ州の農産物の収穫率はそれほど高くない。1990年以降は停滞傾向にあるといってよい。そ の理由に は、潅漑排水システム自体の不備、農業経営形態の問題がある。今後の農業発展を展望するために以下ではこれらの問題を見よう。
一部の綿花栽培農場では、地下水位上昇を抑制するために垂直排水法を導入している。これは多孔質の管を垂直に埋設して地下水を流入させ、ポンプに より水を 汲み上げることで地下水位を安定させようというものである。しかし、垂直排水法は水平排水法よりも建設と保守点検の費用が高くなるというマイナスの側面が ある。しかも、1990年代の急激なインフレーションにより保守管理用農業資材の購入が困難になると、ポンプの稼働率は低下せざるを得ないのであった。こ れも経済危機が農業にもたらした影響の一つであった。地下水位上昇を抑制するための設備も経済危機により機能を十分に発揮できないのであった。
シルダリヤ下流域の耕種作物栽培と畜産は、現在のところソフホーズ、コルホーズといった従来からの経営形態および株式会社、個人農場という企業形 態の混在 した状態で行われている。株式会社は、かつての国家注文システムの時代と比べて、農場管理において耕作面積、栽培作物の選択、販売に関して自ら決定する権 利を持っているといわれる。しかしながら、その決定は各州の農業諸機関の意向に強く依存しているのである。それは、社会的な必要量の供給を確保するために 政府農業省による国家需要(gosudarstvennye nuzhdy)という形での統制が残っているためである。生産の他にも、灌漑農業において重要な水の配分は国家水資源委員会によって管理されている (5) 。さらに、灌漑の 現場では巨大な農場経営体が実質的な力を持っている。配水を管理する各農場の水管理技師(gidromeliorator)が灌漑網を経由して圃場へ水を 割り当てる際に、従来の経営体から分離した小さな個人農場を優先するかどうかは確かではない。シルダリヤ流域では、渇水の年には水資源が逼迫し、灌水量不 足の状態が出現する。その時、個人農場が水不足のストレスに弱い従来とは異なる農作物を栽培していたとしても、十分な灌水量が確保されるかどうかは不明で ある。さて、シルダリヤ下流域には約379,000haの灌漑耕地があり、それは次のような分布を示している。
〈表1〉シルダリヤ下流域の灌漑耕地面積(ha)
南カザフスタン州     


     クズルクム潅漑区        72,600

     その他        18,100
クズルオルダ州     

     トグスケン潅漑地区        31,850

     チリ潅漑地区        45,550

     クズルオルダ潅漑地区       114,900

     カザリンスク潅漑地区        40,450

     その他        55,800

(出所) Pravitel'stvo Kazakhstana, Proekt : Regulirovanie Rusla Syrdar'i i Razvitie Del'ty, Almaty,1996, mimeo, p. 35. なお、ここでの灌漑耕地面積とはシルダリヤから送水を受けている地区のみの面積である。南カザフスタン州には、このほかに州の南東部を流れるアルス、ブグ ン、アクスなどの中小河川の流域に20万ha以上の灌漑耕地が広がっている。アルス川は、その流域の灌漑耕地に水を供給した後、シルダリヤに注ぐ。約 0.5km3 の流入になる。
これらは灌漑施設のある耕地の面積であり、毎年その全ての面積に播種されるわけではない。播種されない理由は、灌漑システムの末端および周辺にし ばしば 見られる土壌の塩類集積あるいは沼沢化、灌漑施設の故障、輪作の一部としての休閑地、灌漑システムの再建工事、である。例えば、クズルオルダ州で播種され た灌漑面積は、1990年253,000ha、1991年257,000ha、1992年263,900ha、1993年253,100ha、1994年 214,600haになる (6) 。 クズルオルダ州の播種面積は、灌漑耕地面積の74%から91%を変動していたのであった。
さて、主な灌漑地区の位置を簡単にみよう。クズルクム灌漑地区はチャルダラ貯水湖の下流、シルダリヤの左岸に位置する。クズルクム幹線運河によっ てチャ ルダラ貯水湖から取水しており、排水路の終点はシルダリヤにつながっている。さらに、その下流の左岸にはバイルクム幹線運河が建設されている。トグスケン 灌漑地区は南カザフスタン州との州境近くの左岸に配置されており、その灌漑排水はシルダリヤに環流する。さらに、その下流右岸にはチリ灌漑地区が広がって いるが、灌漑排水は地区の外部に位置する湖に放水される。さて、クズルオルダ左岸灌漑地区は、41.2万haまで灌漑可能の予定で開発された。左岸幹線運 河の長さは82km、灌漑排水はシルダリヤに環流しない。右岸幹線運河は22kmで、この地区の灌漑排水路はシルダリヤまで延びている。さらに下流のデル タに位置するカザリンスク灌漑地区には左岸幹線運河(28km)と右岸幹線運河(84km)が建設されている。排水不良の圃場は塩類集積が深刻である。排 水網はなく、水田からの排水は自然排水としてデルタ内の小河川を経由してアラル海に流れていた (7) 。ここで、クズルオルダ州の農作物の平均収量をみてみよう。

(出所) Pravitel'stvo Kazakhstana, Proekt : Regulirovanie Rusla Syrdar'i i Razvitie Del'ty,
Almaty, 1996, mimeo, p. 41.
以上から、穀物は全体として収穫率が低下しているようである。米の収穫率に関しては1990年から低下傾向にあることが見てとれる。特に、 1993年か ら1994年にかけて低下が顕著である。米についていえば、米作面積が1990年から減少傾向にあるために、単位面積当りの取水量が極度に低下しているわ けではない。それゆえ、米作では用水確保以外の要因、つまり気温、日照、肥料などの不足があったものと思われる。
クズルオルダ州の農産物収穫率の低い理由には、既に述べたように急激なインフレーションにより工業製品が高騰したために、限られた資金のなかでは 燃料や農 業資材が十分に確保できなかったこと、運転資金不足を補うための農場経営体への融資が十分でなかったこと、灌水管理が不適切であったこと、が考えられる。 1990年代に入り、農場レベルでの灌漑施設と排水施設の保守管理は機械および資材の高騰により十分には実施されていない可能性がある。さらに、化学肥料 と除草剤も十分には確保されなかったと思われる。しかしながら、農業融資と農業資材の確保については資料不足のために、ここでは詳しく述べない。
そこで、灌水管理について考えよう。この地域の灌漑の目的は、生育期間中の作物に水を供給するためだけでなく、土壌中に蓄積された塩類を非生育期 間中に洗 浄するためでもある。しかしながら、シルダリヤの無機塩類含有率はチャルダラ貯水湖からカザリンスクにかけて徐々に上昇するといわれている (8)
塩類濃度が高い水を洗浄に使用すると、土壌中の塩類の溶脱には淡水に比べて大量の水を必要とする。そのため、勧告された灌漑基準量を大きく超過す るように なる。さらに、米を輪作の一環として栽培するのは、塩類の土壌中の蓄積を湛水により回避するためである。しかし、その反面、大量の灌水は水田の周囲の土地 の地下水位を地表面近くまで上昇させる。これは、水田に隣接した圃場に生育期間中の灌水を実施することなく大麦やルツェルンの栽培を可能にする (9) 。このため、米作 では生育期間中に大量の灌水が実施される。しかしながら、このような灌漑方法は水路および水田から非米作圃場への大量の水の浸透および移動を生ずる。さら に、排水が不適切な場合は毛管現象により非米作圃場での塩類集積をもたらすことになる。このようにして発生した土壌の塩類集積は作物の生育を阻害する要因 となる。極度の塩類集積の発生した圃場は、洗浄に必要な水量が確保できない場合は、耕作を停止せざるをえない。以上述べたように、不適切な灌水管理および 農業資材不足が小麦と大麦の低い収穫率の原因ではないかと考えられる。
シルダリヤ下流域の米作農場では、4年輪作(水稲−水稲−麦/ルツェルン−ルツェルン)ないし6年輪作(水稲−水稲−水稲−麦/ルツェルン−ル ツェルン− トウモロコシ)が行われている。また、綿花栽培農場は、綿花−綿花−綿花−綿花−麦/ルツェルン−ルツェルン−ルツェルン−トウモロコシ(もしくは休閑) というような8年輪作体系である。
次に、シルダリヤ下流域の灌漑播種面積の構成はどのようになっているのか見よう。
〈表2〉を見ると、クズルオルダ州の播種比率はルツェルン34%、米33%、小麦21%の順であるが、南カザフスタン州ではルツェルン30%、米 26%、 綿花13%の順になっている。ルツェルンと米の比率が大きい。旧ソ連時代は、米の単価が小麦の約3倍に設定されていた (10) 。しかも、米 の単収は小麦の3〜4倍になった。従って、米の単位面積当りの収入は小麦よりもかなり大きかった。これが、政府による米作励奨に加えて下流域で米作の普及 した理由であろう。また、マメ科植物のルツェルンの比率が高いのは、輪作の一環として土壌の肥沃度を回復するためであるが、両州において畜産が盛んである こともその一因である。
畜産は、この地域の住民とくにカザフ人にとって伝統的な産業である。家畜として牛、羊、馬、ラクダが飼育されている。これらの飼育は、ソフホー ズ、コル ホーズ、個人によって行われている。個人飼育として各農家は牛1〜2頭、羊4〜6匹を所有していることが多い。
<表2> シルダイヤ下流域の灌漑播種面積の構成(ha、1994年)


 南カザフスタン州 
 カズルオルダ州 
穀物       
      (内訳)米 
       小麦  
       その他 
      32,250  
     124,460  
4,060  
9,120  
     127,460  
      91,340  
      44,800  
      10,330  

飼料作物     
   (内訳)ルツェルン 
       その他 
    27,540  
    22,420  
     5,120  
   81,480  
    73,400  
    8,080  
綿花           9,450           
その他の作物    4,860      5,690  
(出所) Pravite'stvo Kazakhstana,Proekt:Regulirovabnie Rusla Syrdar'ii Razvitie Del'ty,
Almaty,1996,mineo,p.37

牛の飼育場は灌漑地域の内部あるいは周辺に位置する。これは飼料となるルツェルンその他の作物が得られやすいからである。羊、馬、ラクダは、灌漑 地域から 離れた半乾燥地域の自然の放牧地(Pastbishche)で放牧される。冬期は越冬用の飼育場で干草を与えられる。それゆえ、干草の確保のために採草地 が必要となる。採草地は、ある程度の土壌湿度が必要とされるので、灌漑排水路の末端、シルダリヤ・デルタなどに配置されていた。しかし、デルタの採草地は シルダリヤの流水量が減少したために縮小傾向にある。また、デルタに残った採草地も春先の自然冠水の規模が小さくなったために、単位面積あたりの干草収量 は低下している。それゆえ、デルタの採草地面積の縮小を補うために、灌漑排水路の末端を放水地として利用することで、採草地面積の拡大と生産性上昇を目指 すことになる。しかしながら、この場合には、灌漑排水がシルダリヤに環流しなくなる、灌漑排水の無機塩含有量が大きいので採草地の塩類集積が進行する、と いう結果をもたらす。
2. 水資源の利用状況
カザフスタンの南西部に位置するシルダリヤ下流域の年降水量は、不安定であり不十分でもある。農作物の生育期間中の降水量不足は収穫率を減少させ る。 それゆえ、農業生産性を高めるためには灌漑が必要不可欠である。農業部門の水資源に対する需要は大きい。1985年、クズルオルダ州では工業用水 0.325km3 、飲料用水0.023km3 、農業用水5.8km3 が使用されていた。しかしながら、1980年代から、この地域の灌漑開発については水資源の制約が懸念されていた。例えば、1986年から始まる旧ソ連の 第12次5ヵ年計画において、カザフスタンは新たに41万haの灌漑耕地を開発する予定であった。ところが、この計画が完了すれば1990年から水資源の 不足が発生し、クズルオルダ州では約3km3 の不足が生ずると予測されていた (11) 。クズルオルダ州は水資源をシルダリヤに依存している。シルダリヤ下流域は、ウズベキス タン国境のチャルダラ貯水湖(最大有効貯水量4.7km3 )からの放水によって水資源を得ている。チャルダラ貯水湖への流入水量は、中央アジア各共和国間によって取り決められる水資源分配量によって規定されてい る。したがって、その割当て量によってクズルオルダ州の取水量は上限を画されている。
ここで、チャルダラ貯水湖における、流入量、貯水量、シルダリヤへの放水、クズルクム幹線運河への放水、アルナサイ低地への放水、をみておこう。
〈グラフ2〉から解るように、ウズベキスタンからチャルダラ貯水湖への流入量は渇水年と豊水年によって大きく変動する。26年間のうち9回が流入 量 12km3 以下であった。この時には、シルダリヤ下流域への放水量は12km3 以下に減少する。また、この貯水湖は過剰な流入量を南西部に広がるアルナサイ低地に放水する構造になっている。これはチャルダラダムが潅漑だけでなく水力 発電も目的としているためである。効率的な水力発電には高い水位が必要だが、ダムの限界貯水量を超える過剰水量はシルダリヤ下流域だけでなくアルナサイ低 地にも放水される。アルナサイ低地では、ゴロードナヤ・ステップ(飢餓ステップ)からの灌漑排水を貯留するアイダルクル湖が形成されている。アルナサイ低 地への放水は、シルダリヤを経由してアラル海へ注ぐ水量を減少させる一因である。このようにシルダリヤ下流域への放水量はチャルダラ貯水湖への流入量に規 定されているのである。1969年前後、1973年、1979年、1988年、1993〜1994年と流入量が多いのは豊水年のためである。
(出所) Tash-Hydroproject-Operation Rules of the Chardara Reservoir,1995.
なお、表示された年次は前年の10月から当年の9月までを表わす。
貯水量は前年の9月の時点の記録である。
計画用水量は、農作物ごとに定められる単位面積当りの灌水基準量と播種面積によって算定される。さらに、農場レベルの灌漑システムの効率を考慮し て、農 場全体の必要水量が算定される。このようにして算定された必要水量は、地区の上級機関において、他の農場のそれと調整される。
通常、必要とされる灌水量の算定は、各地域の農業および水利当局の実体験から得られた数値に基づいている。アラル海流域で実際に行われている灌漑 基準量 の実績値は、農作物の理論上の必要灌水量よりも過大であるといわれてきた。確かに、1960年代および1970年代前半には過大な灌水が行われていた。灌 漑基準量の設定に際しては、勧告された数値と、実際の地元の土壌および気象条件に適合した実験によって得られた数値とがかけはなれている場合もある。ま た、灌水の無機塩類含有度によっても灌水基準量および洗浄水基準量は変動する。それゆえ、学術機関の勧告を適用する場合でも慎重な姿勢が必要である。
ここで、灌漑の効率についてみよう。灌漑の効率は、その対象によって種々に定義される。
送水効率(配水システムへの総分水量/水源からの取水量)
配水効率(圃場の灌水量/配水システムへの総分水量)
灌水効率(蒸発散量/圃場の灌水量)
灌漑システム効率という場合、農場全体を対象とした時の配水効率に相当すると思われる。
以上の灌漑効率を考慮して、配水と灌水の勧告基準量と実際量についてみよう。
<表3> 主な農作物の実際の配水量の平均値(1980〜1982年、u/ha)

     米     
     小麦     
     綿花     
  南カザフスタン州         50,000         7,500         11,900  
  クズルオルタ州         44,400         7,000    

(出所) Akademiia Nauk kaz.SSR,Problemy Oroshaemogo Zemledeliia i Sotsial'no-Ekonomicheskogo
Razvitiia Otdel'nykh Regionov Kazakhstana,Alma-Ata,
Nauka,1990,p.8.
両州の数値が相違するのは、気温、蒸発散量など自然条件が違うためである。3年間の調査の結果として勧告された基準量としては、クズルオルダ州の 小麦 の灌水量基準 3,900m3/ha、米の灌水量基準19,000m3/haであった (12) 。したがって、配水効率0.6の下では計画上の配水量は小麦6,500m3/ha、米31,667m3/haに相当すると思われる。小麦に関しては、計画 上の配水量と実際の配水量にはそれほど大きな差は見られないといえよう。しかし米に関しては、1970年代以前には実際の配水量と計画基準量とではかなり の相違が見られた。1980年代前半までは、この相違は縮小しなかった。米栽培のおかげで、州内の灌漑播種面積当りの配水量は計画配水量よりも大きかっ た。たとえば、クズルオルダ州の灌漑の場合、1980〜1982年の3年間の実際の総配水量を全体の灌漑播種面積で割った値の平均値は 26,500m3/haになり、これは採用されていた計画基準量の1.5倍以上であった (13)
クズルオルダ州で1979〜1982年にカザフ科学アカデミーにより行われた実験による水田の水収支をみよう。気象条件によって変動はあるが、4 年間を 平均すると、収入の合計は24,739m3/haであり、その内訳は灌水基準量20,919m3/ha、生育期間中の降水量628m3/ha、播種前の水 田含水量3,192m3/haであった。支出のうち最も大きい項目は地下浸透6,817m3/ha、ついで蒸散5,332m3/ha、蒸発 5,194m3/ha、土中残留3,014m3/haであり、表面からの排水は1,617m3/haであった (14) 。収入水の 27.6%が地下浸透として失われていたことがわかる。灌水量節約のためには、この損失を減少させることが必要である。さて、1980〜1984年のクズ ルオルダ州の取水量その他を〈表4〉にみよう。
〈表4〉では、灌漑システムの効率が全て0.6とされているが、渇水年には若干の上昇がみられると思われる。すなわち渇水年には、シルダリヤの流 水量の 減少が水管理技師および農業技師に認識され、各水利地区で厳格な取水および配水の組織化、ポンプアップによる灌漑排水の再利用、などの合理的水利用が行わ れることが予想される。したがって、1984年の灌漑システムの効率は0.6以上であったと思われる。クズルオルダ州を含めてシルダリヤ下流域では、過去 に驚くほどの水の浪費が行われていた。平均灌漑基準量(取水量/灌漑面積)は1960年代から1970年代前半にかけて非常に大きな値であった。 1966〜1972年は年平均で65,000m3/ha、1973〜1978年は40,000m3/haであった (15) 。その間、灌漑耕地面積は1965年10.5万haから1978年25.5万haに増大していた。灌漑面積と比較して水資源に余裕のあった時期には水の節 約という発想はなかったようである。
<表4> クズルオルダ州の取水量と灌漑面積


  1980年  
  1981年  
  1982年  
  1983年  
  1984年  
取水量(q 3
配水量(q 3 ) 灌漑播種面積(ha)
平均灌漑基準量(m 3 /ha) システムの効率
幹線運河の効率
6.514
5.408 231,560
28,100 0.6
0.83
6.486
5.138 230,500
28,120 0.6
0.79
6.07
5.223 237,500
25,550 0.6
0.86
4.967
4.273 241,600
20,560 0.6
0.86
4.856
4.127 245,800
19,760 0.6
0.87
(出所) Akademiia Nauk Kaz.SSR,Problemy Oroshaemogo Zemledeliia i Sotsial'no-Ekonomicheskogo
Razvitiia Otdel'nykh Reginov Kazakhstana,
Alma-Ata,Nauka,1990,p.29. こ こで、幹線運河の効率は
配水量/取水量である。また、平均灌漑基準量は取水量/灌漑面積(m 3 /ha)であ る。
なお、1972年から1994年までのクズルオルダ州の総取水量、配水量、灌漑面積、米作向け取水量は以下であった。
(出所) Pravitel'stvo Kazakhstana,Proekt:Regulirovanie Rusla Syrdar'ii Razvitie Del'ty Almaty,
1996,mimeo,p.57
〈グラフ3〉から、1970年代は取水量の変動が1980年代よりも大きかったことがみてとれる。1980年代は、取水量が5km3 前後で安定しているようである。これは、シルダリヤ上流の水利システムの整備、とくにトクトグル貯水湖(有効貯水量14km3 )が完成したことで流水量調整が従来よりも確実になったからであろう。さらにこの表から、米作向けの取水量は全体の取水量の半分以上を占めていることが見 てとれる。また、1974〜1975年と1986〜1987年はシルダリヤの渇水年であったが、この時には、取水量を制限していたと思われる。他方、豊水 年の1972年、1973年、1979年、1980年、1981年、1983年には大量の取水を実行していた。このように過去のクズルオルダ州では、豊水 年には用水節約という認識はなかったようである。豊水年には取水量と配水量の差は約1km3 にも達していたことがわかる。それだけ水損失量が大きかったのである。
渇水年でも平年並みの農産物収穫率が達成可能ならば、取水量の水準を渇水年の水準にまで削減できるのではないかと考えられる。しかしながら、取水 が抑制 された場合は農作物の収穫率が低下するという結果が生ずる。既にみたように、1994年のクズルオルダ州の米の収穫率は前年の63%の水準にまで低下して いた。また、極度の渇水年とされる1975年の場合は、米の収穫率は前年の60%の水準にまで低下していた。旧ソ連時代の1975年頃は、赤字農場にたい して財政支援が可能であった。しかし、市場経済化移行期の経済危機にある現状では、このような生産量減少による農場の利益減少をどのように補填するかが取 水抑制を成功させる鍵となろう。
シルダリヤ下流域の灌漑播種面積の構成から、計画用水量が概算できる。配水量は、既に述べた勧告に従い、クズルオルダ州の場合、米 31,700m3/ha、小麦6,500m3/ha、その他7,000m3/haと仮定する。南カザフスタン州の場合、米31,700m3/ha、小麦 6,500m3/ha、綿花10,000m3/ha、その他7,000m3/ha、と仮定する。1994年の灌漑播種面積の構成からは、南カザフスタン州 への配水量1.016km3 、クズルオルダ州への配水量3.869km3 という計画用水量になる。クズルオルダ州の1994年の実際の配水量は3.844km3 であったことから、勧告基準量に基づいた用水計画が遵守されていたと思われる。〈グラフ2〉でみたように、1975年の渇水年に抑制された配水量は 1994年の実際の配水量を下回っていたが、1986年のそれは1994年とほぼ同じ水準であった。しかしながら用水計画を遵守した場合は、渇水年と同様 に農作物の収穫率が低下する可能性がある。それゆえ、農作物の収穫率減少による農場の利益減少をどのように補填するかという問題が、灌漑基準量遵守の成否 を左右する。灌漑基準量を遵守する農場に対して補助金を支給する方向を考えても良いであろう。
ここで、勧告された灌漑基準量に従って、シルダリヤ下流域の農産物の水生産性をみてみよう。
1986〜1991年を平均した国際価格を参考にして、農場引渡し価格を米139ドル/トン、小麦68ドル/トン、繰綿817ドル/トンと仮定す る (16) 。 1994年 のクズルオルダ州の水生産性は勧告された配水量を基準にすると、小麦0.0073ドル/m3 、米0.012ドル/m3 である。南カザフスタン州の綿花では0.16ドル/m3である (17) 。施肥量や農業機械などの生産費を考えなければ、綿花栽培が最も有利である。南カザフス タン州は綿花栽培に特化したほうが効率的である。しかし、綿花モノカルチャーの弊害を考慮にいれるべきであろう。
3. 自然環境保全のための善後策について
シルダリヤ下流域の水資源利用の状況に変化がなく、さらに土壌の塩類集積や沼沢化の状態が従来と同じままであるならば、農業生産は停滞を続けるで あろ う。既にみたように用水計画を厳密に実施すれば農業生産量減少の可能性があり、その時、各経営体の利益は減少するであろう。経済危機のために、初期投下資 本をそれほど必要としない方法で、シルダリヤ下流域における用水節約策と農業再建策を考えなければならない。
用水節約策の実施によって、アラル海への流入水量の増大、シルダリヤ下流デルタの自然環境の改善が可能となる。中央アジア5共和国の協定ではチャ ルダラ 貯水湖への流入水量として年間12km3 が割当てられている (18) 。中央アジアでは10年に2〜3回の頻度で渇水年が到来すると考えられていた (19) 。渇水年には チャルダラ貯水湖への流入量は12km3 を下回る場合があった。そのため、その時に取水制限を実施してもアラル海への流入水量は減少する。
豊水年あるいは平水年には、シルダリヤ下流域における使用水量を減少させることができれば、アラル海への流入水量は増大する。流入水量の増減に よって、 アラル海の水位が決定される。それゆえ、どの程度の海抜水位(絶対高度)を自然環境保全の目標とするのかという問題が生ずる。アラル海を40mの海抜水位 (1988年頃)で保全するためには、年間35km3 以上の流入水量が必要である (20) 。灌漑播種面積を1994年の時点で固定して土地利用と農業生産構造を変更することによ り、どの程度の流水量が確保できるか考えてみよう。
前節でみたように、使用水量の点で米栽培用水の占める比率が大きかった。したがって、米作面積の削減は用水節約をもたらす。それにより、アラル海 への流 入量は増加する。そのことはシルダリヤ下流デルタの回復をもたらすであろう。灌漑播種構造の転換は、それほど資金投下を必要としないと思われるので実施が 容易と思われる。
シルダリヤ下流域の農業生産構造変更における代替的な土地利用のタイプには、様々なヴァリエーションが考えられる。例として以下を想定しよう。
(1) 1994年時の現状維持の場合
(2) 米作を停止して休耕地とする場合
(3) 米作の小麦栽培への転換の場合
用水節約策によって得られる便益と費用には、貨幣によって表示できるものと表示できないものとの二つがある。貨幣表示できるものには、耕種農業生 産量 の増減、畜産部門の生産量の増減などである。これらは、対策が実施されない場合と比較して農民の貨幣収入を変化させる。その他、貨幣表示できないものに は、自然環境の改善による便益(アラル海の表面積の拡大、デルタの湿地の回復、生物的多様性の保全、アラル海の景観回復など)がある。
(1)の場合、1994年の灌漑播種構造が勧告灌漑基準量に基づいて維持されるとすれば、シルダリヤ下流域で4.885km3 の配水量が必要とされる。幹線運河の送水効率を0.85とすれば、5.747km3 の取水量が必要となる。チャルダラ貯水湖に流入する水量として12km3 が割当てられていることから、アラル海には6.253km3 が流入可能となる。なお、この概算の数字には各灌漑区域からシルダリヤに環流される排水を含んでいない。また、シルダリヤの河床からの蒸発および地下浸透 による損失は考慮にいれていない。
(2)と(3)の実施によって、直接的には農作物の生産量に変化が生ずる。それは直接の便益あるいは費用として農民の収入の増加あるいは減少をも たら す。
(2)の実施には、米の移出および輸出による収入の減少、食料自給の不安定性、という費用が生ずる。米作農場は赤字となり、農民の所得は激減す る。しか し、(2)の実施によりアラル海には10.44km3 の流入が可能となる。
(3)の実施では食料自給は安定するが、米の移出および輸出による収入が減少するという費用が残される。しかし、(3)の実施により、アラル海に は 9.526km3 が流入可能となる。それゆえ、現状維持と比較して3.273km3の水を追加流入させるための費用は、下流域の米生産量30〜40万トンの代価ということ になる。米の移出および輸出による農場の収入は、農場引渡し価格を米139ドル/トンとすると、4,170〜5,560万ドルに相当すると予想される。こ れが追加流入の費用である。
その他に、クズルオルダ州では米作からルツェルン栽培への転換、南カザフスタン州では米作から綿花栽培への転換というヴァリエーションもある。こ れらの 場合は、畜産部門における便益増加、耕種部門の便益増加が生ずる。しかし、ここでは便益分析について省略する。
以上は、用水節約策による直接の便益あるいは費用である。その他に、自然環境への便益として、デルタに湿潤化がもたらされる。それによる間接的便 益とし て、湿潤化によってもたらされる放牧地の生産性上昇がある。
用水節約策という点では、これまで述べた土地利用と播種構造の変更だけでなく、灌漑システムの再建という対策も選択肢の一つである。灌漑水路は、 そのほ とんどが素掘りの土水路の状態であり、水漏れ防止のライニングの比率は小さい。そのため、粘土あるいはコンクリートなどのライニングを導入することも考え られる。これにより、灌漑システム効率は上昇し、地下浸透による損失水量は減少する。クズルオルダ州の米栽培の灌漑システムは効率が0.6を超えない状態 が続いていたために、水路の補修および再建を必要としていた。1980年代末で、62,000haの灌漑システムの再建が2000年までに完了するものと 計画されていた。それにより、システムの効率は0.75まで上昇すると期待されていた (21) 。しかしながら、この計画は既に述べた1990年代の経済危機により実行されないまま終 わるであろう。この実行には、資金面で国際機関からの支援が必要となろう。また、幹線運河の送水効率を上昇させることでも、運河からの漏水による損失量が 節約できる。この際、各水利地区における厳格な取水および配水の組織化、灌漑排水の再利用、など渇水年の合理的水利用の経験が役立つであろう。
この他に、洗浄に大量の水を必要とする強い塩類土壌の耕地を放棄するという手段もある。
以上のような用水節約方法により、アラル海への流入量は増大可能である。絶対高度40mほどまで高い水位を必要としないのであれば、節約された用 水を全 てアラル海に流入させる必要はなくなり、一部を播種灌漑面積の拡大あるいは塩洗浄用の追加灌水として使用できよう。これは農業生産量の増加をもたらすので 農民の便益を増大させる。
そこで、既に生じている自然環境の劣化をどの程度まで回復するのかという問題が残される。自然環境を回復するために必要とされる費用が、回復によ る便益 を上回るならば費用便益分析がもともと使用される余地はない。それゆえ、アラル海の存在じたいに大きな価値を付与しなければならないであろう。しかし、 1960年代のアラル海(海抜水位50m程度)という、現在は存在しない自然環境をどのように評価すればよいのであろうか。下流域のかつての漁民は、その 当時の自然環境を知っている。他方、上流域の灌漑地区に住む農民は当時のアラル海を知らないであろう。さらに、回復策の一手段である取水規制は農民の便益 を減少させるが、漁民の便益を増加させる。流入水の増加によりデルタが回復して、魚類の産卵が復活するからである。それゆえ、アラル海の存続あるいは回復 に対する農民と漁民の意思表明には大きな相違が生ずるであろう。漁民人口よりも農民人口がはるかに大きいことから、海抜水位50mほどまでアラル海の高水 位は必要とされない可能性がある。水位の経済的評価を民意によって問うだけでは、アラル海それ自体の価値について過小評価となる (22) 。しかしながらアラル海問題は単なる水位上昇の問題にとどまらず、アラル水系の農業地域の環境にも影響を及ぼす問題でもある。これを踏まえた自然環境保全 の議論が必要である。
おわりに
以上、自然流下式を主流とした現状の灌漑システムに変更を加えないという前提で用水の節約を考えた。これ以外に、近代的灌漑方式としてドリップ式 灌漑 やスプリンクラー式灌漑の導入による用水節約も考えられる。しかし、近代的灌漑方式および灌漑システム再建については、工事に多大な資金が必要であり労働 力や資材など地元での積算の基準が必要となるので、ここでは扱わない。
これまで見たように、シルダリヤ下流域の農業生産構造の転換により年間9〜10km3 の流入水の確保が可能である。この水量をアラル海全域に配分しても水位上昇の効果は小さい。1989年にはアラル海のベルグ海峡は浅瀬になり、そこで南の 大アラル海と北の小アラル海に分断された。小アラル海はクズルオルダ州内に位置している。したがって、シルダリヤ下流域の住民にとっては、ベルグ海峡に堤 防を建設して小アラル海のみの水位上昇を考えた方が現実的であろう。堤防を建設しなければシルダリヤからの流入水のほとんどは大アラル海に流れ込んでしま い現状以上の水位の上昇は難しい。毎年9〜10km3 の流入ならば、小アラル海の2m程度の水位上昇が確保できよう。それゆえ小アラル海だけならば6〜7年で1960年代の水準まで水位の回復が可能になる。 その後、年4〜5km3 の流入量で水位を維持できるだろう。その時、残りの4〜5km3 の水が余分に利用可能になる。この余分の水はクズルオルダ州と南カザフスタン州の農業発展あるいは工業発展に役立てることができる。しかしながら、アラル 海南北分断の考えはアムダリヤとシルダリヤが国際河川であることから近隣諸国の理解を得られない可能性がある。小アラル海のみの保存は、今後の中央アジア の水資源利用の一選択肢として国際協定の課題となるだろう。

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