SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

19世紀から20世紀初頭にかけての
右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター


松 里 公 孝

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.

− 注 −


  1. P.A. Valuev, Dnevnik P.A. Valueva Ministra Vnutrennikh Del, Moskva, 1961, II, p. 33.

  2. 本稿においては、帝政期の行政区画における「南西地方」、すなわちキエフ、ポドリヤ、ヴォルィニ3県を指すものとする。1832年、この3県 を対象としてキエフ・ポドリヤ・ヴォルィニ総督府が形成され、それは第一次世界大戦の開戦直後(1914年10月)まで存続した。同総督は、「南西地方長 官」とも呼ばれた。本稿では、後者の呼称を用いるものとする。なお、西部9県という場合、みぎの南西3県に、北西地方長官の管轄下にあったヴィリノ、グロ ドノ、コヴノ3県およびヴォテプスク、ミンスク、モギリョフの白ロシア3県が加わる。

  3. 「レーチ・ポスポリータ」(ポーランド語では「ジェチポスポリタ」)とは、直訳すれば「共通の事柄」という意味であるから、「レスプブリカ」 「コモンウェルス」等と同義語である。レーチ・ポスポリータそのものの歴史については次に概略あり:井内敏夫「シュラフタ共和国とポーランドのお国柄」 『講座スラブの世界/第3巻/スラブの歴史』弘文堂、1995年、99-125頁。

  4. ナターリヤ・ヤコヴェンコの研究をはじめとする最近の家系学的研究は、レーチ・ポスポリータ下で右岸ウクライナ、白ロシア、リトアニア、プリ カルパート・ウクライナ(ハリチナ)などに形成されたシュリャフタ層は、ポーランド本土からの移住・植民によってではなく、在地エリートのポーランド化に よって生まれたと指摘している。本稿においても、「ポーランド人」「ポーランド系」という言葉は、民族学的な意味でのポーランド人ではなく、「ポーランド 化された人々」という意味で用いられる。次を参照:N.M. Iakovenko, "Ukrains'ka shliakhta z kintsia XIV do seredyny XVII st. (Volyn' i Tsentral'na Ukraina)," Avtoreferat dysertatsii na zdobuttia naukovoho stupenia doktora istorychnykh nauk (Instytut istorii Ukrainy, NAN Ukrainy, Kyiv, 1994).

  5. 本稿付録〈表1〉参照。1897年人口調査に基く内務省の試算によれば、西部9県におけるユダヤ人の対県人口比は、約12%(ヴィテプスク、 モギリョフ県)から約18%(グロドノ県)までのいずれかの値をとった。次を参照せよ:Tsentral'nyi derzhavnyi istorychnyi arkhiv Ukrainy (TsDIA Ukrainy), f.442 (Kantseliariia Kievskogo, Podol'skogo i Volynskogo general-gubernatora), op. 656, spr. 132, ch.1, ark.185.

  6. 本稿では、この語を、当時の用語法に従って、大ポーランド主義あるいは「ポーランド的なるもの」という意味で用いる。

  7. 本稿第2節参照。

  8. ウクライナ民族主義者にとっては耳の痛いこの問題を扱った研究として次を参照:V.B. Liubchenko, "Teoretychna ta praktychna diial'nist' rosiis'kykh natsionalistychnykh orhanizatsii v Ukraini (1908-1914)", Ukrains'kyi istorychnyi zhurnal (UIZh), 1996, No. 2, pp. 55-65; Leonid Heretz, "Ukraine and the Origins of Russian Nationalism, 1900-1921," Paper presented at the First Annual ASN Convention, held at Columbia University (New York), April 26-28, 1996.

  9. 例として次を参照:N.N. Leshchenko, Krest'ianskoe dvizhenie na Ukraine v sviazi s provedeniem reformy 1861 goda (60-e gody XIX st.), Kiev, 1959.

  10. 本稿の著者はポーランド語が読めないので、ポーランドの史学史については次のウクライナ語文献を参照した:N.M. Iakovenko, Ukrains'ka shliakhta z kintsia XIV do seredyny XVII st. (Volyn' i tsentral'na Ukraina), Kyiv, 1993 の序章(s. 5-24)および、後出のダニエル・ボヴォアの著書のウクライナ語版に添付された Iaroslav Dashkevych による解説 "Daniel' Bovua ta vyvchennia istorii pol's'ko-ukrains'kykh vidnosyn" (s. 3-48)。

  11. たとえば、ウクライナにおいては、社会主義時代もこんにちも土地制度史学が非常に弱い。土着化政策時代に若干の労作が、また1960-70年 代にM.N.レシチェンコ、D.P.ポイダ(Poida)などによる諸労作が現われた程度であり、独立後も変化の兆しは見えない。マルクス・レーニン主義 が強かった国としてはこれは例外的な現象であるという点をひとまず措くとしても、ロシア革命以前はウクライナ人の大半は農民だったのだから、ウクライナ民 族の歴史を知りたいと思う者にとっては土地制度史は重要なはずである。結局のところ、独立後のウクライナで研究が奨励されているのは、ウクライナ民族運動 に直結した(ように見える)民族生活の諸断片だけではないかという印象を著者は拭えないのである。これは破産必至のアプローチである。ロシアの農民生活や ロシア農業そのものについて知識が浅い人がロシア農民運動を論じても奇怪な農民像しか描けないのと同様である。

  12. 研究の大勢に抗して、多民族空間としてのウクライナという視点から先駆的な研究を発表してきたのは早坂真理である。最近では、井口靖がベラ ルーシ史におけるポーランド・ファクターの重要性を指摘している。次を参照:井口靖「『ベラルーシ的』とは何か ム ベラルーシ研究のためのノート」『海城中学・高等学校研究集録』第21集、1997年、49-58頁。

  13. N.O. Shcherbak, "Natsional'na polityka tsaryzmu u pravoberezhnii Ukraini v kintsi XIX - na pochatku XX st. Za materialamy zvitiv mistsevykh derzhavnykh ustanov." Dysertatsiia na zdobuttia naukovoho stupenia kandydata istorychnykh nauk (Kyivs'kyi universytet, 1995).

  14. ここでは批判的に言及せざるを得なかったが、シチェルバクの学位論文は、こんにちのウクライナで民族問題について書かれたものとしては良心的 な部類に入ると思われる。たとえば、ある若い研究者は、ウクライナを代表する歴史雑誌において、「ウクライナ人とユダヤ人の間に公然たる衝突はなかっ た」、1905年10月宣言直後のポグロムは「『黒百人組』の助けを借りてツァーリ政府が挑発した」ものであったなどと主張している(A.Iu. Podol's'kyi, "Antysemits'ka polityka rosiis'koho tsaryzmu v Ukraini na pochatku XX st.", UIZh, 1995, No. 6, pp. 61 and 63)。これは非常に斬新な見解であろうが、典拠も示さずに主張するには斬新に過ぎよう。対照的に、シチェルバクは、右岸ウクライナの反ユダヤ主義には一 定の大衆的な基盤があり、ポグロムに自然発生性があったことを認めた上で、官憲が見て見ぬ振りをしていたことがポグロムの規模をいっそう大きくしたと述べ ている(s.128 その他)。現実的な見方であると言えよう。なお、1881年のポグロムが、どの程度「組織された」ものであったか、あるいは自然発生的なものであったかに ついての研究史は、次の論文中に要領よくまとめられている:中谷昌弘「1881年ポグロム後の帝政ロシアのユダヤ人問題に関する一考察 ム『ユダヤ人に関する臨時条例』を中心に」『ロシア史研究』No. 61、1997年、2-12頁。最近の研究としては、ヘンリー・アブラムソンが、中世以来の反ユダヤ主義的風刺画などの国際比較を通じて、西欧・中欧にお ける反ユダヤ主義が宗教的な偏見に基づく場合が多かったのに対し、右岸ウクライナにおける反ユダヤ主義は、ユダヤ人が現地で果たしていた経済的な役割に起 因する度合いが大きかったことを指摘している。次を参照:Henry Abramson, "Ukrainians, Jews and the Problem of Anti-Semitism," Paper presented at the First Annual ASN Convention, held at Columbia University (New York), April 26-28, 1996.

  15. 本稿が参照したのは、1996年に出版されたウクライナ語版である:Daniel' Bovua, Shliakhtych, kripak i revizor - Pol's'ka shliakhta mizh tsaryzmom ta ukrains'kymy masamy (1831-1863), Kyiv, 1996.

  16. Witold Rodkievicz, "Russian Nationality Policy in the Western Provinces of the Empire during the Reign of Nicholas II, 1894-1905" (Ph.D thesis, Harvard University, 1996).

  17. John P. LeDonne, "The Geopolitical Context of Russian Foreign Policy: 1700-1917," Acta Slavica Iaponica, tomus 12, 1994, pp.1-23.

  18. Andreas Kappeler, "Mazepintsy, malorossy, khokhli: ukraintsy v etnicheskoi ierarkhii Rossiiskoi imperii," v kn.: A.I. Miller, V.F. Reprintsev, B.N. Floria, Rossiia - Ukraina: istporiia vzaimootnoshenii , M., 1997, pp.125-144.

  19. この考え方を典型的に表現した史料として、次のパンフレットを参照:General-gubernator ili gubernator? (Kiev, 1889)。このパンフレットは、南西地方における総督制の廃止を求める世論が高まった際、それに反論したものである。廃止論の要点は、総督制は「キルギ ス-カルムイク汗国やカフカス山岳民」のような遅れた民族を統治するのに適した制度であり、西部諸県のような文化水準の高いところには、内地と同じ通常統 治機構を一刻も早く導入した方がよいというものであった。対照的に、このパンフレットの要点は、総督制は、大ロシア人の国家理念よりも未発達な国家理念を 有する民族が住む地域と、逆により発達した国家理念を有する民族集団(ここでは、バルト・ドイツ人、ポーランド人貴族とカトリック司祭、ユダヤ人富豪を指 す)が住む地域との双方に存在しなければならないと主張したことである。

  20. R. Pearson, "Privileges, Rights, Russification," O. Crisp and L. Edmonson (eds.), Civil Rights in Imperial Russia, Oxford, 1988, pp. 85-102; here, pp. 86-87, 89-90. ただし、ピアソンは、ウクライナ人と白ロシア人については、ロシア政府がそれを文化的同化の対象とした可能性を排除していない。

  21. これは、19世紀後半のロシア帝国における民族政策の硬化を表現する通説的な定式「行政的同化の時代から(ついには)文化的同化の時代へ」 を、中井和夫が文学的に言い換えたものである(岩波ブックレット No. 265『多民族国家ソ連の終焉』1992年、4-5頁)が、文学的な定式なだけに、ややスローガン的で具体性に欠けるという印象を受ける。中井の専門にも 含まれる右岸ウクライナについて言えば、ツァーリ政府の反ポーランド人政策の結果、この地方には地方自治体(ゼムストヴォ)を導入することが許されず、ま さにそれゆえ、「南西地方の obrusenie のための最大の武器」として政府自身が重視していたところの学校の建設がさっぱり進まなかったところが問題だったのである。

  22. この問題については次を参照:松村岳志「ロシア帝国右岸ウクライナにおけるセルヴィトゥート(地役権)問題」『ロシア史研究』No. 54、1994年、3-21頁。

  23. W. Rodkievicz, "Russian Nationality Policy," pp. 93-94.

  24. 特徴的なのは、ポーランド人、ユダヤ人と直接対峙している現地の大ロシア人がこのような劣等感を抱いていただけではなく、中央政府が右岸ウク ライナの大ロシア人エリートの政治力を全く信頼していなかったことである。

  25. 1906年11月に準備されたある内務省文書は、第二次ポーランド反乱後に導入されたポーランド人の土地取得への制限措置について次のように 述べている。「ポーランド人の力の源泉は、他の民族、特にロシア人の浸透を許さなかった、彼らの不動産所有の社団的閉鎖性にほかならなかった。したがっ て、西部地方におけるポーランド人の優勢を克服し、農民大衆へのポーランド的要素の影響を遮断するためには、西部地方におけるロシア人地主が十分な数に達 するまでの間、ポーランド系の人々が、法に基づく相続以外のいかなる方法によるものであれ、同地方において所領を獲得することを禁じることが必要だと考え られたのである」(TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 656, spr. 132, ch. 1, ark. 182)。

  26. このことは、現代ポーランド人が謙虚になったということを必ずしも意味しない。なぜなら、彼らは往々にして、自分たちの祖先が大帝国を建設し たという事実と一緒に、レーチ・ポスポリータの東の辺境(後には、ロシア帝国の西の辺境)で祖先がどれだけ悪辣なことをやったかという事実も忘却してし まったからである。

  27. 次の労作がこの問題を深く検討している: S.A. Golubev, Russko-pol'skie otnosheniia v poslednei treti XIX - nachale XX veka: konspekt lektsii, Tver', 1993.

  28. たとえば、第二国会において、ポーランド民族主義会派である「コロ」は、「歴史的領土」に依然固執していることを理由に、被支配民族政党の院 内会派の連合体であるところの「連邦主義者同盟」に入れてもらえなかった(N.O. Shcherbak, "Natsional'na polityka," s. 113)。

  29. Edward C. Thaden, Russia's Western Borderlands, 1710-1810, Princeton, 1984, pp. 53-64. なお、ポーランド併合とアレクサンドルI世下の内政改革との関連は、日本においては池本今日子によって研究されている。

  30. D. Bovua, Shliakhtych, s. 88-91.

  31. D. Bovua, Shliakhtych, s. 84. なお、右岸ウクライナの地主によるウクライナ人農奴婦人への性的抑圧の事実は、前出のレシチェンコにより以前から指摘されている。

  32. 経済史の見地から領地台帳改革を検討した最近の論文として次を参照:松村岳志「右岸ウクライナにおける領地台帳改革(1847-48)の歴史 的意義」『社会経済史学』第61巻第6号、1996年、27-54頁。

  33. 次の本がこの問題を深く検討している:Ol'ha Tarasenko, Stanovlennia ta rozvytok istorychnoi osvity i nauky u kyivs'komu universyteti u 1834-1884 rr., Kyiv, 1995. 特に s. 125-126 に注目。

  34. N.N. Leshchenko, Krest'ianskoe dvizhenie, s.186, 225; Vin zh (M.N. Leshchenko), Klasova borot'ba v ukrains'komu seli v epokhu domonopolistychoho kapitalizmu (60-90 roky XIX st.), Kyiv, 1970, s. 241, 258.

  35. このような路線転換の試みを典型的に表現するのは、西部諸県へのゼムスキー・ナチャーリニク制の導入を建議した内務省農民局(Zemskii otdel)の1901年4月14日付文書である(TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 617, spr. 244, ark. 4-)。なお、ゼムスキー・ナチャーリニク制が西部諸県で導入されなかったのは、在地の「ロシア人」貴族がごく少数であるこの地方に制度を導入すれば、ゼ ムスキー・ナチャーリニクの一定数をポーランド人貴族からリクルートせざるをえなくなると考えられたからである。ゼムスキー・ナチャーリニクは、同じく西 部諸県に導入されなかったゼムストヴォと比べても意義・自立性において劣る下僚にすぎなかったが、「ポーランド人の搾取から『ロシア人』農民を解放する」 という、この地方におけるロシア帝国支配の正当化根拠に照らせば、ゼムスキー・ナチャーリニクとなったポーランド人貴族がツァーリの名の下に現地農民に対 して影響力を行使するのは許しがたい事態だったのである。

  36. 異族(inorodtsy)とは、全帝国的には、ユダヤ人およびアジア系の民族を指す語として用いられたが、南西地方においては、非「ロシア 人」(東スラブ人以外の民族)という意味で用いられる場合があった。つまり、異族という言葉がポーランド人やドイツ人を含む場合があったのである。

  37. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 642, spr. 497, ark. 3-3 ob.

  38. I.I. Butenko, "Sil's"kohospodars'ka kooperatsiia pivdnia Ukrainy druhoi polovyny XIX - pochatku XX stolittia,モ Dysertatsiia na zdobuttia vchenoho stupenia kandydata istorychnykh nauk (Kherson, 1994), s. 114-115.

  39. W. Rodkievicz, "Russian Nationality Policy," p. 94.

  40. ドイツ人のヴォルィニ県への入植は、エカテリーナU世下の1787年、メノー派新教徒が二つのコロニーを開いたことに始まる。1830年代以 降、政府はドイツ人の入植奨励策をとった。1870年代以降、国境地帯にドイツ人が増えすぎることを政府は危惧するようになったが、彼らの入植は止まらな かった。チェコ人の移住が活発化したのは1867年以降、政府が彼らに徴兵免除の特恵措置を与えたためである。1874年の軍政改革施行と共にこの特恵措 置は廃止され、チェコ人の入植も緩やかとなった(Pervaia vseobshchaia perepis' naseleniia Rossiiskoi imperii, 1897 g., tom 8, SPb., 1904, s. viii; W. Rodkievicz, "Russian Nationality Policy," pp.115-116)。

  41. 次を参照:Fedir Savchenko, Zaborona ukrainstva 1876 r. Do istorii hromads'kykh rukhiv na Ukraini 1860-1870-kh r.r., Kyiv-Kharkiv, 1930, pp.13-32. ただし、南西地方長官までがウクライノフィルに宥和的であることは、キエフ学区副視学官M.ユーゼフォヴィチらの危惧を呼んだ。彼らがペテルブルクと内通 することによって、南西地方長官の知らないところで有名なエムス布告が準備されたのである。

  42. 政府の公式見解ではないが、おそらくそれを代弁したものとして次が参考になる:A.V. Storozhenko, Proiskhozhdenie i sushchnost' ukrainofil'stva, 2-e izd., Kiev, 1912.

  43. 西部9県全体では、ポーランド人の対人口比が5.8%にすぎなかったのに対し、カトリックは何と人口の35.4%を占めた(TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 656, spr. 132, ch. 1, ark. 183)。

  44. Pervaia vseobshchaia perepis', tom 8, s. xi.

  45. ウクライナ語で学校教育が行なわれなかったことがウクライナ人の識字率に否定的に影響したかどうかを判別するには、論理的には、大ロシア諸県 のうち左岸ウクライナと同程度のゼムストヴォ学校普及率を持っていた諸県を選んで、それらと左岸ウクライナ3県の識字率を比較すべきである。残念ながら、 本稿はそこまで到達しなかった。

  46. Pervaia vseobshchaia perepis', tom 8, s. xiv.

  47. Orest Subtelny, Ukraine: A History (2nd edition), Toronto-Buffalo-London, 1994, p. 272. キエフ大学学生総数に占めるポーランド人学生数の比率は、当該時の差別政策の強弱により変動したが、概して20%弱であったと考えてよい。南西地方「ロシ ア化」(脱ポーランド化)の砦として設立されたキエフ大学であったが、ポーランド人のそれへの対民族人口比での入学率は、「現地ロシア住民」(ウクライナ 人)の対民族人口比入学率の20倍以上だったのである。

  48. たとえばミハイロ・ドラホマーノフは、帝国地理協会南西支部開設(1872)の前夜、ハリチナの急進的なウクライナ民族運動との論争におい て、次のように述べた。「ロシア帝国内のウクライナは、民族としてはまだ立ち現われておらず、自分自身をまだ知らないのです。ウクライナには、自分を認識 するために、学術的、文学的な仕事が必要なのです。扇動、しかも国外からの扇動は、この仕事を害するだけです。いまやこの仕事は、地理協会のようなものを 組織することで政府自身が援助しようとしているのですから。…私のメッセージをどうかリヴォフに伝えて下さい。彼らが次のように問題設定するように。彼ら が自分にマッツィーニの力を感じ、キエフに若いイタリアを見るとき、まさにそのときにのみ、ロシアに抗して立ち上がり、誰はばかることなく革命を呼びかけ るように、と」(Savchenko, Zaborona ukrainstva, p. 18)。

  49. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 656, spr. 132, ch. 1, ark. 183.

  50. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 50-51.

  51. これは、ボブリンスキー伯、シュヴァーロフ伯、テレシチェンコ家などの「ロシア系」大貴族が資本主義的経営に成功していたからである。

  52. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 38-39 ta 50-50 ob.

  53. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 38 ta 53-54.

  54. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 54.

  55. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 45 ob ta 51-52. これはかなり偏向した批判である。同じ史料(ark. 52)によれば、ポドリヤ県において地方経営委員会(選挙制ゼムストヴォの前身)の指導下、「ロシア人」地主は21学校・18病院の建設を援助したのに対 し、ポーランド人地主は11学校・6病院の建設しか援助しなかった。同じくキエフ県ではロシア人地主が28学校の建設に参加、これに対してポーランド人地 主が建設を助けたのは6学校にすぎなかったとされる。確かに両者の社会事業への熱意には有意な差があるが、そもそも自分の子弟を母語で教育する権利を奪わ れていたのだから、これも無理はなかろう。

  56. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 54.

  57. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 15.

  58. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 22-23.

  59. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 60 ob.

  60. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 642, spr. 497, ark. 8 ob.

  61. TsDIA Ukrainy, f. 442, op. 637, spr. 545, ark. 18-20.

  62. A.N. Iarmysh, "Karatel'nyi apparat samoderzhaviia na Ukraine (1895-1917)," Avtoreferat dissertatsii na soiskanie uchenoi stepeni doktora iuridicheskikh nauk (Ukrainskaia iuridicheskaia akademiia, Khar'kov, 1991), s. 19.

  63. D. Bovua, Shliakhtych, s. 108-110.

  64. Shiro Sasaki, "Segmentary Hierarchy of Identity - The Case of Yakuts and Evens in Northern Yakutia," K. Inoue & T. Uyama (eds.), Quest for Models of Coexistence: National and Ethnic Dimentions of Changes in the Slavic Eurasian World, Sapporo, 1998, pp. 317-337.

  65. ペレストロイカ下で蔓延した現象の一例を挙げよう。ロシア共和国はリトアニアに飼料穀物を供給する。そのかわりリトアニアはロシア共和国に適 正価格で乳製品・肉類を供給する義務を負うはずであるが、それらを西側に輸出してしまう。同様に、ロシア共和国はラトヴィアに木材を供給する。ラトヴィア は、その木材から作られた家具をロシアにではなく西側に輸出する。いずれの場合にも、リトアニア、ラトヴィアは、ソ連価格で原料を仕入れ、国際価格で製品 を売って大儲けをしたわけである(Sovetskaia Kuban', 4 aprelia 1990, s. 1)。


45号の目次に戻る