北海道再訪
セルゲイ・アルチュウノフ
(ロシア科学アカデミー民族学研究所
カフカズ研究部門部長/センター外国人研究員)
1960年夏 緩やかに進む連絡船「小樽丸」は、夜を徹してほとんど6時間も、日本の本州とその北隣の島北海道とを分かつ津軽海峡の浅波を乗り越えていった。函館港に接岸して、板張りの歩行橋を渡るや、もうそこは列車が北海道の広野を疾走する。この島は残余の日本から高々100キロを隔てるに過ぎぬのに、ここでは昔の記憶が踏襲されて、残余の日本は依然として内地、すなわち本国と称される。だが、何という違いだろう。内地では、切り立った山腹に貼り付いた平地の小片がいずれも開墾され、菜園や田畑に変えられているのに、ここは森や湖沼の原野、潅木の生い茂る広大な空間、緑の山並の柔らかな起伏、ポプラのピラミッド状樹列が展開する。典型的な日本の農村に見られる美しい瓦屋根や藁葺き屋根の暗灰色の集積に代わって、ここでは開拓村や、赤いトタン葺きの屋根裏部屋を有する木造農場とサイロが、時たま散見されるのみ。ここは比較的最近に開拓された新しい土地で、集落のたたずまいからすれば、日本というよりむしろ米国のカンサスやネブラスカを思わせる。
米国の西部から招聘された教師たちの指導のもとに、日本人の植民者が計画的に北海道に入植していったのは、前世紀も80年代のことに過ぎぬ。それ以前に島の大部分に居住していたのは、日本人でなくてアイヌの人々であった。なるほど17世紀以降は、松前家の日本人藩主が島の南岸部を既に統治し、かつては独立していたアイヌの諸部族を自らの貢納者に変えてはいた。にもかかわらず19世紀末までは、アイヌが島の内陸部の主人であった。北海道の現人口600万のうち、アイヌのそれはわずか1万5千に過ぎない。この小さな民は、植民者の流入によって自らの固有の猟場から遂い出され、身に付けた生業の道からも叩き出されて、絶滅に瀕している。この民とともに、人類の移住史において最も混迷を極め、かつ最も複雑な問題の一つ、すなわちアイヌの起源の問題を、最終的に究明する可能性も消えるであろう。この問題の研究では、人類学や民族学を専攻する幾百という世界の大学者が、多くの歳月を費やして、多巻の著作を公刊しているにもかかわらずである。
数千年前のいつか、アイヌはどうやら日本の全土に居住していたらしい。日本人はその後(隣接する朝鮮半島からの渡来者と東南アジアの島嶼部からの出身者との混淆によって)その国に登場した。列島の最南端に生まれ、急速度で成長してゆく日本国家は、中世の初頭までに、北海道を除く到るところでアイヌを駆逐してしまった。とはいえ18世紀にはまだ、アイヌ系の個々の家族が本州北部には住んでいた。
アイヌはそのすべての隣人たち、すなわち北のシベリアの諸民族とも南の日本人とも、まず第1にその相貌を異にしている。ほとんどすべての者には、幾世紀にもわたる混淆の結果、若干のモンゴロイド的特徴が認められるとはいえ、よく発達した、しばしば波状を呈するその毛髪、肉質の広い鼻、幅広く密生した顎髭によって、彼等は極東のすべての民族の間では依然として鋭く際立っている。アイヌの最も際立った特徴は恐らく、いわゆる第3次被毛、もっと率直に言えば身体の多毛性であって、その度合に関してアイヌに比肩しうる集団はない。ヨーロッパの学者の過半はアイヌのこれらの特徴を次のように説明してきた。すなわちアイヌは、エウロポイドあるいは「白色」人種の分派であって、大昔に何らかの理由で日本列島に到達したものである、と。この理論を立証するためとして、アイヌの老人の写真とレフ・トルストイの周知の肖像との類似が、特にしばしば言及された。若き日のトルストイの顔の特徴には「アイヌ的なもの」が皆無であったという事実は、いまだに注目されることがない。
しかるに、ソ連の学者(L. Ya. シュテルンベルグ、M. G. レーヴィンその他)の著作では、異なる仮説が展開された。それによるとアイヌは、かつて東南アジア全域に分布したアウストラロイド人種の分派であるという。増大する人口圧に押されて、これらの古アウストラロイド人の一部はオーストラリアへ移住し、別の一部は鎖状に連なるフィリピン群島と琉球列島に沿って日本まで北上し、そこで彼等は現在のアイヌの先祖ともなった。相対的により寒冷な日本の気候のもとで、移住者の皮膚の著しい明色化が生じたが、彼等の多毛性は維持され、はたまた強化された。総じて言えば、より明色な皮膚の色を別にすると、多毛性に関してもまた顔の特徴に関しても、アイヌは誰よりもまずポリネシア人とよく似ている。
シュテルンベルグの諸著作が示したとおり、身体的な形姿のみならず、アイヌの文化の多くの特徴、すなわち彼等の独特な文様、衣服、弓、いざり機の形、多くの神話、縮れた削りかけで飾った棒であるイナウの崇拝もまた、彼等の南方起源説を首尾よく説明している。科学によって近年開発されたばかりの新しい方法論−血液型、歯の構造特性の研究−のもたらしたデータもまた、この仮説と合致する。これらのデータは、エウロポイドとアウストラロイドをかなり明確に弁別することを可能とする。そしてこの問題は依然として、著しい程度において学問上の論争の対象であり続ける。アイヌの文化的特徴の多く、またほかのどんな言語とも似ていないアイヌ語も、今に到るまで世界のどの地域とも結び付けることに成功していない。
1960年の夏、私は日本における学術研究の一環として、アイヌの現況と生活様式に親しく接するため北海道旅行を試みた。以下はその記録である。
北海道の行政中心地札幌の大学において、私はかなり多くの人々、すなわちアイヌの歴史、形質、言語、文化を研究する専門家および好事家と出会った。アイヌのアウストラロイド説は彼等にとって新奇な学説であった。
「多分、あなたは正しいでしょう。−と、彼等の一人は私に言った−しかしわれわれ日本人は、昔からアイヌを寒冷な雪の北地の住民とみなすことに慣れています。それに、彼等を熱帯の出身者と考えるのには心理的な抵抗もあります。」
札幌や東京の大学では篤学の研究者たちが、極めて豊かなアイヌ・フォークロアや古い習俗、彼等の狩猟・採集のかつての形態に関して、多くの興味深い資料を収集してきた。日本の学者たちの関心は当然ながら、主としてアイヌの過去に、すなわち北海道の植民が本格化する以前の自らの民族の生活様式をまだ記憶する、わずかな数だけ生き残った超高齢者が今語ることのできるような、古えの物語に向けられている。だが、アイヌが今どのように暮らしているか、彼等が現代の情況に如何に適応しているかを知るためには、自らが現地へ赴く必要があった。
私は札幌を発って、アイヌ人口の過半数が集中する日高支庁へと向かった。日高では、北海道ならどこでもそうであるように、久しく農村やかなり大規模な町が成立しており、そこでの住民は日本人が主であって、アイヌの人口はごくわずかである。旅路において私が最初に訪れた町は、湯治場の登別であった。
酷暑の夏の数ヵ月間、幾千もの日本人が全国津々浦々から、より涼しい北の島北海道の山岳避暑地へと押しかける。私を登別の町へと運んだバスは、避暑地へ赴く乗客で超満員だった。登別はその火山性自然で名高い町である。死火山の噴火口には絵のような湖があって、湖面は小さなヨットの帆影で白ずんでいるが、その斜面にできた割れ目からは鼻をつく噴出ガスの煙が立ちのぼる。数百人の観光客が、この光景を眺めるため、またそれを背景に写真を撮るため、柵で仕切られた断崖の縁に集まっている。ここの温かい硫黄泉と大浴場は特に名高い。
しかし私は、湯浴みのために登別へ来たのではなかった。
「登別にはアイヌがたくさんいますか。」と私は、とある土産物屋の主人に訊ねた。その店はアイヌを象った人形や熊の木彫−アイヌの芸術作品−を満載していた。
「答えるのが難しいね。大抵の者は和人化してるから、自分をアイヌとは思っていないのさ。あんた、公園の外れにおこなってみなさい、小さな家があるから。−と言って、彼は付け加えた−あそこでは石川[仮名]さんの家族が働いてるよ。」
「働いているのですか、それとも住んでいるのですか。」と、私は聞き返した。
「いや、住んでるのは駅の近くさ、バラックの一部屋を間借りしてるよ。生活はほかの和人と同じで、公園にいない時は和人と同じ服を着てるよ。だけど、自分がアイヌであることを隠さないのさ。もっとも、何で隠す必要があるかね。アイヌであるというのは彼等のビジネスなのに。大抵の者は自分を和人に見せようと懸命さ。」
「何故ですか。」
「さあてね、御存知かどうか知りませんが、なんてんたって土人ですから。」
回転木馬とアイスクリーム店の屋台の彼方の公園の外れで、私は実際に、茅造りの大きな小屋と、そのすぐ脇に立つ頑丈な丸太組みの檻を発見した。かつてはこのような檻の中で、アイヌは、神々へ犠牲に捧げるため捕えた熊を飼っていた。しかしこの檻の中には、かなり毛の抜けた小さな熊の剥製が立っていた。小屋の中で私を出迎えたのは、立派な顎髭のアイヌの老人と、のちにその娘と判明した中年女性で、どちらも、多彩色のアプリケで装飾を施した樹皮布でこしらえたアイヌの民族衣装を身に着けていた。最初のうち、私をアメリカ人の観光客と勘違いした彼等は、無論一定の支払を前提とした上でだが、アイヌの歌を聴かないかとか、小屋を背景に彼等の写真を撮らないかとか、またアイヌの衣装をまとった私を撮影しましょうと、次々に提案した。しかし私がアイヌを研究しており、彼等の習俗を承知していることを知るや、老人は程なく私と率直かつ真剣に話し始めた。
「石川さん、あなた御自身はどちらの出身ですか。」と、私は老人に訊ねた。
「えっ、私は遠くから来ました、阿寒の出身です。あそこの村には私の息子がいます。」
「息子さんのお仕事は何ですか。きっと魚を獲っておられるのですね。それとも狩りをしておられますか。」
「いや、とんでもありません。阿寒にはもはや魚がほとんどいないのに加えて、湖は禁漁となりました。遡河魚は、大手の漁業者が河口で捕獲してしまいます。狩りについては何をか言わんやですよ。それは今や、金持ちのスポーツです。北海道全体でも熊の棲息数はわずか3千頭に減ったと言われます。ここ登別では、ロープウエーの上の駅へ登ってゆくと柵囲いが見えますが、これは熊の飼育場です。そこでは今、約20頭の熊が飼われています。以前はもっと多くいたのですが、先頃15頭が逃げ出したのです。それは大変な見物でした。確かに、ほとんどすべてが直ちに山へ逃げ込みましたが、2頭は銃で仕留められてしまいました。」
「それではきっと、祭がおこなわれたのでしょうね。かつては熊が仕留められる毎に、祭が挙行されたと言うではありませんか。」
「よく覚えてます、私が子供の頃は、村でもしばしば熊が仕留められたのを。それは本物の祭でしたよ。濁酒を醸して、歌に踊りの数日間でした。それが今では何の楽しみもありません。熊の頭骨は儀式にしたがって、しかも鼻面には皮が残る形で保存せねばなりません。肉は食べ、毛皮では寝具をこしらえました。それが今や、すべてを売却します。お金の方が有用なのです。鼻面の部分を欠いた毛皮は、たとえ半値でも誰も買わぬでしょう。私は、白老のトラオが1年間ほどで3頭の熊を倒したことを覚えていますが、すべて売ってしまいました。彼の場合は、家族内に働き手が足りているから、狩りをする時間があります。私の息子は一年中農作業に縛られて、背中を伸ばす暇もありませんけど、大抵の者は皆同じです。われわれはキャベツと馬鈴薯を作っていますが、いつも不作です。われわれアイヌは野良で働くことを知らず、日本人並みには習熟していません。無論学びとることは可能なものの、われわれの土地はそれ自体が不良なのです。優良農地は、和人の入植者が50年前に移住してきた時、彼等に渡してしまったのですよ。そこで、自分を見世物にして客から金を取り、日銭を稼がねばならぬのです。」
「あなたはどうして、ほかならぬここへ来たのですか。」
「わが阿寒では多くの人が、私や娘よりもずっと上手な歌い手や踊り手が、この商売に従事しています。かくて、他の人々のいないここへ落ちのびて来たのです。私はさして多くのことができるわけではありません。無論、恥ずかしながら、あなたには白状します。客の前で2-3篇の伝説を語ると、それ以上はもう覚えてませんから、口から出任せを語って、でたらめな舞いを踊りまくります。二風谷の萱野は−もし二風谷へ行かれたら、必ず彼と話をなさい−若い青年とはいえ、そのことで私を叱りました。習慣はすべて正しく実行する必要がある、と彼は言います。だが、観光客にとってはどうでもよいことではないか、そこに何の意味も認めないのだから。客は退屈を紛らすため珍しいことが眺められれば、それで十分じゃないか。昔話ばかりでなく、阿寒では祭すら新しいものが考えだされています。」
「それはまたどうして、なぜ新しい祭なのですか。古いものでは足りませんか。」
「まず第1に熊祭は、自分たちの楽しみのためではなくて、芝居として、ただ見世物のために挙行されるのが普通です。もしお客がたんと集まるならば、よい稼ぎになります。唄も歌いましょうし、舞いも踊りましょうが、真の楽しみはそこになくて、それはあくまでもお金のための仕事なのです。阿寒では今や到るところが禁漁で、マリモ祭のような祭が幾つか挙行されています。」
「マリモとは、食べられない球状の水草ではありませんか。」
「はい、おっしゃる通りの食べられない水草です。しかし禁漁区ではマリモが観光の対象とされて、観光客を惹き付けています。私たちは古風な舟に乗り湖に漕ぎだしてマリモを採集し、しかるのちに歌や儀式とともにそれを水中へ帰すのです。和人の神主もやって来て、それなりの祈祷を唱えます。われわれの神々と和人のそれは全く違いますから、これはもはやアイヌ式からほど遠いものです。われわれアイヌのもとでは、食べられない物に対して祈ったり儀礼を施すことは決してありません。そこには、楽しみも意味もないことは勿論ですが、観光客が集まって来るのです。このようにして銭を稼ぐのは異常なことですが、何らかの方法で生きる算段はつけねばなりません。以前のわれわれは熊の木彫りで生計を立てましたが、この生業ももはや成り立ち難いのです。」
「私は土産物屋でたくさんの熊の木彫りを見ましたが。」
「それはわれわれの作品ではありません。東京の目はしの利いた人たちがそれらの木彫を工場で作りだして、製品をこちらへ搬入して店頭に並べているのです。アイヌの彫り師が店内に座って実演し、その場に仔熊が鎖に繋がれている場面もしばしばありますが、店頭にある木彫の大半は工場の製品です。木彫師と工場が競う場合、彫り師に勝ち目はありません。かくて祭もやはり売り物と化すわけですが、祭の工場は恐らく誰も見抜けぬでしょうな。ハ、ハ、ハ。」と、年老いたアイヌは陰気な笑い声を上げた。
「石川さん、どうも有難う。私はたくさんの興味深いお話を伺いました。」と、別れ際に私は老人に礼を述べた。
石川老人と娘さんは、私を小屋の戸口まで見送ってくれた。私たちは低い姿勢で抱擁を交した。通りの外れまで来たところで、私は振り返った。彼等のもとには既に散策客の一団が近付いて、彼等とともに檻の脇で記念撮影をおこなっていた。 私は登別から二風谷へ向かった。それは、北海道に残されたアイヌの集落では最大のものである。現在の戸数100戸のうち、アイヌのそれは80戸であった。二風谷で喜ばしげに私を迎えてくれたのは、エネルギーに溢れ、知的な風貌の40歳の農民、萱野茂だった。
「学者の方が訪ねてくださる時、私はいつも嬉しく思います。−と、萱野は語る−昨年はスウェーデンの研究者が私の所に滞在されました。彼はそれ以前文献でのみわれわれの言語を勉強しただけでしたが、私たちはアイヌ語で完璧に意思の疎通ができました。私は却って、同じ村の人々とは日本語で話す方が多いのです。こちらでは、自らの民族の過去を知り、その伝統を誇ることのできる人が、余りにも少なすぎます。われわれは何度か、アイヌ語の新聞を発行して、それを核に文化運動を推進しようと試みましたが、当局の支持が得られず、資金不足に加えて、わが民族の人々の大半も生活苦の余り、全く関心を寄せなくなってしまいました。自分の子供たちには、自らの民族を尊敬する心を育てるように努め、自らの起源ならびに言葉に誇りを持つように教えています。しかしこのような家庭が、われわれのもとでは多くありません。大半の人々は、どちらかというとアイヌであることを恥じています。中年の人々は決まって、咄々とではあるもののアイヌ語を話しますが、彼等の子供たちは言葉を全く知りません。ただ老人たちは互いに、とりわけ子供たちに対して隠し事がある時に、われわれの方式で話します。あなたが信じるかどうか分かりませんが、両親がアイヌであることを知らずに学齢を迎えた女の子の例が鵡川にありました。彼女は自分がアイヌであることを学校で友人たちから初めて知らされますが、それは、この気の毒な少女が身投げしかねぬほどのショックを、彼女に与えたのです。」
「萱野さん、あなたの同族者がアイヌであることをやめて、日本人に合流したがる理由は何ですか。」
「戦前には、われわれは土人、野蛮人とみなされてきました。われわれの子供は和人の子供とは別に学びました。われわれは一切の公民権を享受しませんでした。けれども、そのような権利を当時は誰が有していたでしょうか。われわれは今や、完全な権利を有する市民と考えています。しかし、にもかかわらず偏見や差別に遭うことも珍しくありません。都市では企業がアイヌの採用には消極的で、採用される場合も低賃金の仕事のみです。人々は、だから自らの起源を隠し、和人になろうと努めるわけです。私と私の友人たちは、このような風潮と闘うように努めています。われわれは、自らの文化を宣伝し、生活水準の向上に役立つようなアイヌの組織を作りたいのです。例えば、われわれの芸術品−編み細工や刺繍−の販路を組織できたらよいと思います。それは、きっと大した事業でしょう。だが、われわれの情況ではそれが決して容易ではありません。登別で御覧になったものは無論、屈辱的と見えたかもしれません。しかし、われわれに対する観光客の関心も利用することができるのです。われわれが登別にアイヌの家屋−チセ−を建てた時は、昔の儀式をすべて守るように努め、札幌の学者たちに連絡して建設の過程を撮影してもらいました。ところで阿寒では、あちらの事業家らがチセの隣りに−あたかもわれらのイナウが十分に独創的でも、興味深くもないかのように−アメリカ原住民のもとに見られるトーテム・ポールを立ててしまったのですよ。私自身、農民であるだけでなく彫り師でもあります。−と言って、萱野は見事な彫りもので装飾した四角い木皿を幾つか取り出した−これは皆売り物です。私は本物の芸術品を、展覧会や博物館のための作品を作りたいのです。しかし、それは夢でしかありません。」
別の東静内村では、もう一人の同様にアイヌを自認する人物を訪ねた。彼は佐々木さんといって、農場主である。彼は農業のほかに、馬飼育にも従事する。 「われわれには農業よりも牧畜業のほうが合います。−と、佐々木は語る−しかし、私のようにこのような事業を興しうる者はほとんどいません。われわれは大昔から動物を馴らして、自分の家の中で飼ってきました。われわれは動物を愛し、その心が分かり、関わりを持つことが楽しいのです。今日では何か一つのものだけに頼ってはいけません。例えば米が不作だったとしても、馬からの収入が自分を救ってくれることを、私は知っています。だが、アイヌの農民の大半は勿論貧民ですから、このような保障が彼等にはありません。」
萱野あるいは佐々木のような人も含め、すべてのアイヌは、新しい文化を喜んで受け入れている。二風谷では、昔風に芦の束で覆われた家屋をまだたくさん見ることができる。しかし、その可能性が現われるや各自は率先して−もし資金が許すならばトタン屋根の−便利な住居を建てようと努める。 アイヌの家庭生活も今では、日本人のものとほとんど変わりがないが、いまだに古い品物も屋内には大量に見つけることができる。萱野宅の納屋は、正真正銘の民族博物館である。そこには弓も矢も、猟刀も、古風の文様入りむしろもある。佐々木宅には仏壇の隣りに、縮れた削りかけで飾られた棒−イナウ−を立てて並べた祭壇が作られている。老人らのいる家庭では、小さい子供のためには昔風のアイヌ式揺籠−シンタ−があるべきだ、と彼等は主張し、赤ちゃんの健康のためにはその方がずっとよいのだと考えている。病気の際も、なるべく医者にかかろうとはするが、大量の民族的薬剤−草の煎汁、干した熊胆−のことを記憶し、またこれらを用いる人も少なくない。とはいえ古俗は、アイヌ集落から急速に消えつつある。アイヌもまた、自らの部族的精神文化の退潮を、日本文化から借用することで埋め合わせようと努めるものの、大抵の者は貧しい暮らしだから、この文化は基本的に、大衆雑誌のグラビヤという形でのみ彼等のもとへ到達するに過ぎない。
私は、萱野のような誇り高くて辛抱強い人々に対する深い尊敬の念、ならびに、彼等の努力が実を結ばず数十年が経過すると、独自の芸術やフォークロアといった宝物を有する、この善良で陽気な民族も姿を消し、融解されて無に帰するであろうという辛い自覚とともに、北海道をあとにした。だがその後、萱野や佐々木の子供たちや、また私が出会った他の家族の子供たちの間で認めた、知識欲旺盛で元気な顔の記憶が甦って、ひょっとするとアイヌという古い部族にとっては、まだすべてが失われたわけではないのではないか、という想念が湧きおこった。
私の北海道の旅からは、既に30年以上が経過している。これらの歳月の間に、私は幾度か日本に滞在する機会があったが、北海道へやってくる幸運にはついぞ恵まれなかった。友人たちの話によると、技術の進歩や機械化農業の進展と歩調を合わせて、農村の生活は北海道でもその姿を一変させたという。だが、その本質は変わっていない。以前と同様に、アイヌの多くの者は観光業に携わり、彼等の日本化が進んだとはいえ、一定の差別もやはり残されている。萱野も年はとったが、相変わらず勇敢で、活動的であると伝えられる。小さい頃に私が会った彼の子供たちは、成長して父親の足跡を辿っている。先頃、完全な儀式にしたがって熊祭が挙行された。伝統儀礼の詳細をまだすべて記憶するアイヌたちがそれを組織したので、学者らはその一部始終をフィルムで記録することができた。これは恐らく、北海道でおこなわれた最後の本物の熊祭であったろう。
アイヌの伝統文化は過去のものとなるが、アイヌは存在し続ける。アイヌは小さな民族ながら、自らの問題と自らの願望を抱えている。そしてまた、最終的な解決からはまだ程遠い、アイヌの歴史的問題−彼等の起源と古代史の問題−も残る。その解明は、以前に収集された民族学・言語資料に基づいてなされねばならない。新しい資料の収集はもはやありえない。しかし、まだ不十分にしか研究されていない、考古学と古人類学の資料が存在する。これらを総合的に利用するならば、アイヌの過去を、ひいては東アジアの民族史の全貌をも、もっとよく理解することが可能になるであろう。
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