再訪記
私がハバロフスク大学のV. G. シチェベンコフ教授とともに、半ば啓蒙的な著作『日本最古の民:アイヌ部族の運命』(1992)を著わし、その中でロシアの読者大衆に向けて、この民ならびに彼等に関わる諸問題を紹介しようと試みたとき、アイヌ全般および彼等の現状に関する私の知識の基礎をなしたのは、上記の観察や対話であり、80年代初め以前に日本で刊行された文献であり、また日本研究に携わる私の友人を通じて得た若干の情報であった。前節の叙述はすべて、同書の序文に収録されている。この本の擱筆は基本的に1982年のことであった。しかし恒常的な財政問題のゆえに、同書を東洋文献出版所(ナウカ出版所の支所)から上梓することが可能となるのは、その十年後であった。この十年間に私はほとんど何も付け加えることができなかった。というのも、日本からロシアへ伝えられる情報はかなり不完全であって、西側の同僚の大半にとっては未知であるところの、強度の外国情報入手難症候群に常時苛まれていたからである。
80年代半ばまでは、この症候群が、学者の研究に対する共産党や国家保安委員会(KGB)の側からの執拗なるイデオロギー的統制と結び付いていた。外国からわれわれ個人の許へ、あるいは研究所の図書館に届いた書籍や雑誌はすべからく、Glavlit−ソ連の主要検閲機関−の厳しい検閲を受けた。もしも所与の書籍あるいは雑誌の中の一節に、ソ連およびその外交・内政に関して否定的な論評が含まれていたり、またはそれらに関する不都合な機密情報が伝えられているのが、検閲官によって発見されるや、同書は受取人の許へは届かずに、いわゆる「特別保管」と称される施設に収容されて、それ以降は同書を利用することが非常に難しくなり、多くの者にとっては事実上不可能となった。 M. S. ゴルバチョフが宣言したペレストロイカとグラスノスチ政策の開始とともに、この検閲制度も、一挙にというわけではなかったが、比較的早急に活動を停止した。しかるに、その代わりに新たなる困難が出来した。ロシアならびにかつてソ連邦を構成したその他の諸国において大学教育と学術研究の総体が陥り、今なおその渦中にある深刻な財政・構造危機のために、図書館による外国の学術文献の入手状況は、量的にきわめて減少し、頗る不正規ともなった。
したがって、北海道大学スラブ研究センターが私を1996-97年の客員研究員として招いてくださり、かくて私は再び北海道を訪ね、もはや37年間も訪れる可能性のなかった土地を再訪する機会にも恵まれたとき、私がどれほど喜んだかは理解していただけるであろう。確かに私は1995年10月、北方諸民族のシャマニズム会議(その主催者は煎本孝教授だった)に出席したおり札幌に滞在する機会もあったが、この時の滞在は会議の日程で満杯のわずか数日間に過ぎなかった。今回私に与えられた時間は数ヵ月であり、しかもセンターの研究員や北大の教職員の方々、とりわけセンター長の林教授、配慮の行き届いた私の担当教官にして後見人の井上教授らは総力を挙げて、私のために最も快適な研究環境を創出し、研究会や会議への参加、専門家との出会い、国内旅行を実現すべく尽力してくれた。国内旅行では、私が37年前に訪ねたことのある、日高地方の二風谷村と静内町への旅が最も印象的であった。
二風谷では、二風谷アイヌ文化博物館でおこなわれたシンポジウムに出席し、萱野茂氏と再会した。彼は今(社民党選出の)参議院議員で、時間の大半は東京で暮らしているが、この日はちょうど二風谷の自宅におられた。静内町ではウタリ協会静内支部を訪ねたが、同支部はシャクシャイン会館と、それに隣接するアイヌ民俗資料館を所有する。静内ではまた、佐々木の家族が経営する牧場も訪れた。旧知の佐々木太郎はとうの昔に故人であり、彼の息子も亡くなられて久しく、牧場を現在経営するのは彼の孫の佐々木数馬で、数馬氏は私が1960年に彼の祖父を訪ねた後で生まれている。幸いなことに、先の訪問以来私の記憶に留められていた彼の母と叔母は、お元気に存命であった。 私に頗る深い印象を与えたこの旅のほかに、札幌では道立アイヌ民族文化研究センターを訪問して、谷本一之所長と懇談したほか、開拓記念館で開催されたアイヌ文化シンポジウムにも出席した。これは、20世紀初頭にハンガリーの学者バラートシによって収集されたアイヌ民俗資料コレクションの特別展の開幕に合わせておこなわれたものである。
私が北海道に滞在した1997年の日々は、道民のみならず日本全体の世論が、百年の歴史を有する「北海道旧土人保護法」にとって代わるべく起草された、日本における少数民族アイヌの地位に関する法案の採択をめぐって、積極的な議論を展開していた。旧法に対する人々の評価は「とうの昔にその命脈は尽きているものの、ないよりはましである」という常套句に尽きている。私は法律家でもまた経済学者でもないから、この法律について、またいわゆる原住民法制全般についても、それが旧ソ連あるいは今のロシアのものであれ、米国のものであれ、オーストラリアやさらにその他のいかなるものであれ、その長所や短所をあげつらうことは私には困難である。法律を読むならば、そこには常に素晴しい語句が記されている。しかし現実を直視するときには、全く別の印象を受けることが多い。30年前にハルミ・ベフ教授は自著『日本の人類学』の中で、日本のアイヌと米国のインディアンとの地位の比較を試みている。それ以降、幾度かの大きな変化が起きてはいるものの、いずれも同じ方向での変化であるから、ベフの比較は今日においても有効である。アイヌも米国のインディアンも、今や無権利でもまた無言でもない。彼等には自らの政治的代表がおり、萱野茂氏も今日は国会議員である。インディアンの間にも、またシベリアの原住諸民族の間にも、やはり自前の政治家がいる。そして彼等がおこなっていることも、決して有益でないわけではない。だが次のことは指摘せねばならぬ。つまり、到るところで経済的諸問題−補償金、特権、助成金の獲得−に格別な注意が払われて、本来の文化的、精神的、宗教的復興をめぐる諸課題は後回しにされるのが通常であること、またこれらの問題が提起される場合も、専ら経済的要求を強めたり、根拠付けるためになされること、がそれである。これらの要求それ自体は悪いことでなく、また公正な要求でもあるが、それらは本来の文化的もしくは精神的復興を実現するための手段、その探求ないしは資金源でなければならぬにもかかわらず、自己目的と化する時だけはよろしくない。
40年前も30年前にも、はたまた15年前ですら、日本のアイヌと北部ロシアの原住諸民族の地位を比較した場合、シベリアの少数民族の困難な諸問題や悲惨をかなり明確に斟酌した上でも、当時の私には依然として、ソ連の社会主義社会における彼等の展望と可能性の方が、日本の資本主義社会におけるそれよりもっと優れていると思われた。何はともあれ、ソ連には民族自治が存在し、行政や文化・学術分野においても民族的要員が養成され、民族教育の諸問題をめぐって研究がおこなわれ、少数民族の言語で新聞や書籍が刊行されてもきたからである。
今日の私が見るところ、それは民族的ならびに文化的建設のための現実の活動というより、むしろ情宣活動家によるそのような活動の見せかけの創出であって、ソ連の崩壊後は、そしてロシアが野蛮な市場と資本の原初的蓄積の渦巻に呑み込まれたのちは、ロシアの少数民族が享受してきた、かのささやかなる特権さえも廃棄されてしまった。これらの民族は今や捨てて顧みられず、市場経済の猛威に対しても各自で対決することを迫られているが、彼等にはその力がない。 今日の私が見るところ、人々の生活の中で保持されるアイヌの伝統文化もアイヌ語も、40年前よりは余程後退している。これまた至極当然である。人々は自らの幸福を求めて、自らの生業の経済的生き残りを賭けて、容易ならざる闘いを進めているのであり、大半の人々は、自らの言語復興の問題に携わるだけの力も時間も持ち合わせないのである。そして私はやはり胸に手を当てながら、今日の日本におけるアイヌの情況は、ロシアのエスキモー、チュクチ、ニヴフ、ケット、ネネツよりも遥かによろしい、と言わねばならない。日本は無論ロシアよりも裕福であり、平均的日本人が平均的ロシア人とは比較にならぬほど豊かな生活を享受していることも事実である。にもかかわらず、問題はそれだけにとどまらない。
シベリアの少数民族のもとでは、言語も伝統文化の諸特徴もまだ幾らかは保持されているとはいえ、それらの喪失や消滅が急テンポで進行している。今日、母語を保持するのは人口の10パーセントから高々30パーセントまでに過ぎず、それも基本的には老人世代であって、若者世代の間では母語を全く知らないか、あるいは受動的にわずかを解するのみである。したがって30-40年後には多分、この点で今日のアイヌの情況との差異は、もはや全くなくなるであろう。
われわれが民族語について語るとき、それは口語や文語だけを意味するのではない。文化は総体として、言語のさまざまな表現媒体である。われわれの身に着ける衣服もまた、自らについて周囲の人々に何かを伝える言語である。お膳立ての整った食卓、家の中の装飾も、それによって単なる言葉による挨拶よりもずっと効果的に来客を迎えるところの言語である。そしてこの言語もやはり変化を免れず、変化は必ずしもよい方へ向かうとはかぎらない。母語が、格別の必要もなく借用される外来の流行語で汚されるように、われわれの住居、食物、衣服、芸術、文様、儀礼、行動様式の言語もまた、借用された諸特徴によって満たされる。時にはそれが事実上必然的でもある。しかしそれはしばしば、単に軽率なる流行への盲従であったり、嗜みの良い好みの喪失でもあったりする。
現在、民族芸術に対する関心が世界中で顕著に高まっている。アメリカ大陸のインディアンにとってもエスキモーにとっても、シベリアの幾つかの少数民族にとっても、またオーストラリアの原住民にとっても、芸術品の製作が重要な生業の一つになり、主たる収入源ともなった。各人の才能はまちまちである。ある者は高級な芸術作品を作る一方で、また素朴なる土産物を作る者もいる。そこで全体としては、民芸品生産の占める割合が到るところで高まるものの、芸術文化の水準は低下している、と言うことができる。アイヌのもとでも同じ傾向が観察される。たくさんの才能豊かな芸術家がいて、素晴しい作品を創造してはいる。しかし、これらの作品はしばしば、土産物屋の店頭に溢れる規格品の間に埋没してしまっている。そして再び、アイヌの情況はこの方面でもやはり、シベリアの原住諸民族より良好である。彼等の芸術の独自性保持に対しては、登別でアイヌの老人が私に語ってくれたことの多くが今なお繰り返されているとはいえ、より多くの注意が払われている。
私はアイヌ自身から、言葉は民族の魂である、という意見を聞いた。そこで、芸術家が自らの作品を創造する際に自らの言語で考えないとすれば、その作品からは彼の魂の一部が抜けてゆくのである。彼は昔ながらの文様を複製するものの、細部の多くの意味は既に忘れ去られて、文様の言語も語ることを止める。物が生きて魂を持つためには、芸術家がその物の細部の各々について、名称と意味と起源を知らねばならぬ。したがって、民族がその言語を失うことは、自らの魂の喪失であり、彼の作品全般にわたっての、意味喪失の不可避的増大でもある。
なるほど北海道では14箇所にアイヌ語教室が設けられており、そこでは、一部は子供のためであるものの大半は大人向けに、アイヌのみならずアイヌの生活に関心を抱く日本人をも対象として、アイヌ語の教育がおこなわれている。アイヌ語の新聞の発行も始まるようであるが、この新聞を読み、フォークロアのテキストを理解し、アイヌ語で何かを話すことのできる人の数がたとえ増えたとしても、またその数が今日のように数十人ではなくて数百人、はたまた数千人に達した場合でさえ、この言語がどのような社会的機能を果たしうるかは、依然として定かではない。もしアイヌの伝統宗教が一つの体系としてはもはや存在せず、あるのはただ個々の儀礼のみという前提に立つならば、それは儀礼と儀式の言語として残るのが精々ではないか、と私には思われる。
イスラエルのユダヤ人はヘブライ語を民族の口語として復活させるのに成功したが、これは少なからぬ資金と強力な政治団体を有する数百万の人々の事業であった。言語の復興で一定の成果を上げているのは、アイルランド、ウェールズ、ブリトン、バスクの諸言語である。しかし、これらの民族の人口は、アイヌやシベリアの少数民族のそれを数桁も上回っている。その上、シベリアにはお決まりのように、北海道のアイヌの間に現存するような、比較的微力で余り効果的ではない母語教育制度さえも欠如する。辞書や教科書に関しても、事態は遥かに劣悪である。そして勿論、チュコトカにもネネツ、タイミル両民族管区にも、ましてや公式の自治すら存在せぬニヴフやナーナイのもとではなおさら、アイヌのために札幌に存在する、当局の支持と資金によって運営されるアイヌ民族文化研究センターのような施設はない。博物館はあるものの、それらは惨めな状態で、札幌はおろか、二風谷、静内、網走、および北海道のその他の町や村に到るまで見出される博物館とは、全く比べものにならぬ。シベリアの少数民族が仮に、北海道のアイヌのために用意されているものの全てを今日享受するとしたら、それが全ての問題の解決にならぬのは無論としても、著しい一歩前進ではあったろう。ロシア国庫の貧しさは、口実にも値しない。この国の国庫には、まず1993年にモスクワのホワイトハウス(ロシア政府のビル)を燃やして、次にはそれを新たに修復して豪華な輸入家具を備えるために費やした数百万ドルがあった。1995年にはチェチニャの町や村を根こそぎ破壊し、いまや同じ金額を無謀にも、事実上ほとんど実効の見込まれぬそれら町や村の復興に投ずるために要する数百万ドルがあった。これらの金額のほんの一部ですら、少なくとも日本政府と北海道庁がアイヌのために拠出しているのと同額を、シベリアの全ての少数民族へ供与するのには十分であろう。アイヌに対する一定の差別が残っていることは私も承知しており、これは感心できない。日本人の間で生活扶助料の受給率が1-2パーセントであるのに対して、アイヌの間ではそれが3-4倍であることも承知している。しかし同時にまた北海道の都市では、シベリアやカフカズの原住諸民族、およびその他の少数民族の出身者がロシアの大都市で体験しているような(生活上の差別は言うまでもなく)警察関係や行政面での差別が、その片鱗すらないことも私は承知している。貧困についてはもはや喋々すまい。それは、当局と独占企業が石油と天然ガスの採掘から莫大な収益を上げている、ヤマロ・ネネツ、ハンティ・マンシ両管区の住民が話題となる場合でさえ、まさに比較にならぬ事柄である。シベリアにおける石油、ガス、その他の有用鉱物の採掘は、ソ連政府に軍拡競争のための資金を提供し、今日では採掘企業の所有者や経営者らに個人的蓄財の可能性を創出しているが、ロシアの平の勤労者には現実の福利をかつて与えた試しも、また与えることも一切なく、ましてや北方諸地域の原住民に対しては、ひたすら災害をもたらすのみである。タイガやツンドラ、河川、湖沼よりなる広大な空間は生態学的に畸形化されて、もはや猟場としてもトナカイ牧地としても役立たず、そこで獲れる石油臭を帯びた魚は有毒物質で汚染され、人間にとっても有害な寄生虫に侵されている。
生態学的問題は無論、北海道にもある。二風谷の村域内から、たとえ様もなく美しい山岳景観を背景に、沙流川ダムとそれに付設された、押し付けがましく、かつかなり不格好な建物からなる奇妙な建造物を眺めるとき、私は物悲しい気分に襲われた。後になって、二風谷のアイヌらの抵抗にもかかわらず、大きな生態学的損失を招くばかりか全く無益な代物であることも判明した、この畸形物を建造するために、如何に莫大な金額(700億円)が投ぜられたかを知った。 そして、北海道のアイヌがこの種の思慮不足の事業計画から被る生態学的損害もやはり、シベリアの諸民族の災害と比較するなら、さほど大きなものではない。シベリアにおけるダムは、その規模にして数十倍、冠水面積は数千倍に達し、シベリアの原住諸民族にとって最良で、極めて貴重かつ必須であった土地が水没してしまった。新しいダム建設計画は今なお作製され続けて、新たなる災害の脅威をもたらしている。オビ、イェニセイ両河の水を中央アジアへ転流させるという途方もない計画は、幸いなことに、ソ連崩壊後の今やその現実性を全く失っており、もはや決して実現されることがないように見える。だが、バイカル湖南岸のパルプ・コンビナートの方は、世論の抵抗にもかかわらず建設されて、それが事実上利益を全くもたらさず、われらの衛星においてユニークな、この美しい湖を汚染し尽くす危険があるにもかかわらず、それを閉鎖に追い込むことがどうしても出来ない。 ロシアのさまざまな社会団体が、独占企業と軍産複合の暴挙に対する闘争において挫折を重ねるのを見るにつけて、日本における社会団体の活動、とりわけアイヌならびにアイヌに共感する日本人のそれは、大きな成果を上げているように私には思われる。生態学の領域でも、実践ならびに社会意識の両面で著しい進歩が認められる。
恐らく「ウタリ協会」の活動は、多くの人々が望んでいるほどには効果的でないかもしれぬ。しかしロシアには、そのような協会もない。少数民族の組織には、民族単位のものや、民族横断的あるいは全ロシア規模の団体や協会が各種存在するものの、いずれもその活動資金は取るに足らぬほど僅かであって、たとえ個人的利害や陰謀、競合といった団体活動を麻痺させる要因は脇に置いた場合ですら、その実効性は大きくない。
私は静内において、シャクシャイン会館の素晴しい建物、およびそれに隣接する素晴しい博物館、そして最も肝心なことは、シャクシャインその人を顕彰する壮大な記念碑を見た。彼は、日本人に対するアイヌの蜂起を指導した人物である。しかるに、今日の日本人は全体として、彼の記憶が永久に残されることに異を唱えない。ロシア史にあっても類似した蜂起あるいはロシア人に対する軍事的抵抗の企てが、カフカズの諸民族は言うに及ばず、ネネツ、チュクチ、およびその他のシベリアの諸民族の間でも勃発している。10年ほど前までは、これらについて記すことが学術文献においてすら全面的に禁止されていた。かかる禁令は今やなく、これらの蜂起の英雄を取りあげた論文や書籍が登場し始めたが、記念碑はまだ見られない。しかし、このような記念碑を建立しようという声が上げられた場合には、今日のロシアに頻発するような、大ロシア排外主義者の示威行動の大暴発は必至、と私は考える。
日本では現在、北方領土問題をめぐって多くの発言が聞かれる。この問題に関して、私は当初から独自の見解を堅持してきたが、今日では萱野茂も、またその他の多くのアイヌの人々も私と同意見であることが判明して、同慶の到りである。北方領土すなわちクリル諸島は、ロシアの土地でもまた日本の土地でもない。それは、原初的にはアイヌの民の土地であった。したがって、これらの領土の命運を決する席には、日本とロシアの外交代表のみならず、アイヌ民族の代表もまた招聘されねばならない。私が最善の解決策と考えるのは、これらの島々に対して日露共同統治を実現するとともに、アイヌの代表機関に特別の権利を付与するという案である。(ロシア語から井上訳)
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