アエロフロートが東京モスクワ 便上での個別ビデオサービスを止 めてしまったのは、映画館に通う 時間がないために機上での鑑賞で 映画ファンとしての最低限の要求 を満たしている身には本当に腹立 たしい。同様のサービス低下はア メリカン・エアラインなど他の航 空会社にも見られるので、コスト 高なビデオサービスは止めるよう 大手航空会社間で闇カルテルでも 結んだのかもしれない。ただしア エロフロートの場合、東京モスク ワ便に就航していた機体を中国便 のそれと入れ替えたようだ(トイレの注意書きが簡体漢字である)。「東京モスクワ便はアエ ロフロートのドル箱」などと呼ばれて1 日2 便も飛んでいた時代もあったのに、日本の衰退、 中国の台頭を象徴するような事態である。
ムルシダバードの駅前通り |
映画なしで東京―モスクワ、モスクワ―デリーを飛び、いい加減退屈してコルカタに向か うためにキングフィッシャー航空の飛行機に座ると、なんとアエロフロートにはなくなった 画面が前の座席の裏についている。いままで私は世界最高のキャビンアテンダントはアシア ナ航空のそれだと思ってきたが、容姿だけとればキングフィッシャー航空も劣らないかもし れない。ただ、インドは女性が他人にサーヴする職業に就く習慣がない(その点ではムスリ ム諸国と同じである)うえに、カーストも上の方の人がリクルートされるのではないだろうか、 人当たりはあまりよくないように感じた。離陸する直前に、キングフィッシャー財閥オーナー のビジェイ・マリアが画面に出てアジるが、「キャビンアテンダントはすべて私が直接面接し て選びました」などと言って胸を張っている。ビールで稼いだ金で航空業界に乗り込んだ気 概を誇示しているわけだが、こういうセリフは欧米では問題になるかもしれない。いずれに せよ、インドの資本主義は、松下幸之助や本田宗一郎がまだごろごろいる段階なのだろう。
まる1日の空の旅を終え、3 月9 日朝8 時半にコルカタに着いた。疲れすぎてホテルで横 になる気がしないし、丁度、マウラナ・アブル・カラム・アザド記念アジア研究所の恒例の 国際シンポが始まる日である。この研究所とSRC は親交が深く、一昨年には宇山氏と長縄氏 が、昨年には私がこの国際シンポに招かれている。今年のテーマは、「インド近隣諸国の政治 変動のダイナミクス」というもので、まさにタイムリーである。この研究所は私たちには縁 遠い南アジア・東アジア・シベリアの人脈を持っており、アフガニスタン、ブータンからモ ルジブまで、欧米の学会では会えないような研究者の報告が聞ける稀な機会である。その直 後に控えた、新学術「地域大国比較」の一環としての西ベンガル州ムルシダバード郡での調 査の準備のため2 日間フルに動かなければならず(官僚大国インドでは汽車の切符を買うた めにも書類を埋めて提出しなければならず、大変である)、大半のセッション、特にアフガニ スタンとパキスタンのセッションを欠席してしまったのが心残りであった。
3 月10 日の夜、いよいよ汽車でムルシダバードに向かう。今年の1 月、黒龍江省のハルビンからジャムスィまで汽車旅したときもそうだったが、普通の汽車の普通の車両に外国人が 乗ると、大変な好奇の対象になる。ムルシダバード郡を調査対象に選んだのは、西ベンガル 州の中でムスリム比率が最も高い郡だからである(62%)。ところが調査してみると、伝統的 にワハビ派が強い郡であること、それにタブリグ(Tablig)というデリーを拠点とする新興 イスラーム団体が挑戦している状況にあることがわかった。昨年はコルカタ市とその郊外の みでムスリム宗務行政の調査を行ったが、やはり大都市の中だけでは何も見えないし、自分 らしさが発揮できない。今年は初めて郡部に出、また東大の田原史起氏と進めている地方自 治の露中印比較のため、イスラームだけではなく世俗の地方行政も調査した。アジア研究所 の短期フェローとして、研究所が車とガイドをつけてくれた昨年とは違い、今年はアポ取り も足の手配もすべて自分でやらなければならない。インドの地方都市内での移動は通常リキ シャ(自転車タクシー)だが、隣町に遠征するとなると車が要る。地方には車のタクシーは ほとんどないので、バスターミナルなどに行って車を持っている若者を捕まえて白タクをお 願いしなければならない。英語がほとんど通じないので交渉は大変である。ただ、インドでは、 路上で外国人が英語能力のない人と話が通じなくて困っていると、英語能力のある人がどこ からともなく近付いてきて通訳してくれる社会慣習がある。これは大変ありがたい。
さて、夜中近くになってムルシダバードに着いたが、ホテルのフロントでムルシダバード 郡の郡庁所在地がムルシダバードではなく2 駅手前のバランポア(Berhampore)だというこ とがわかってびっくりする。ムガール帝国時代の宮殿や巨大モスクがあることから郡の名前 の起源とはなっているが、いまでは観光以外に取り柄のない小都市になり下がっているので ある。翌日の調査はムルシダバードからバランポアに遠征、結局、その次の朝にバランポア のホテルに移った。しかし食事はムルシダバードのホテルの方がずっとよかった(骨付き羊 肉カレーの味が忘れられない。最良の出汁は骨から出るようである)。ホテルの料金はムルシ ダバードで800 ルピー、バランポアで1400 ルピーであった(1 ルピーは約2 円)。インドで は外国人が泊まるようなホテルではなく、普通のホテルに泊まった方がいい。値段が10 分の 1くらいだし、床が大きな石のタイル張りで裸足になれるのも日本人にはありがたい。よく ないことだが、過剰人口を吸収するかのように沢山いるベルボーイが八方から敏捷機敏に尽 くしてくれるので、旦那になったようないい気分になる。話は先に飛ぶが、ムルシダバード での調査を早めに切り上げてコルカタに戻ってきたとき、丁度、クリケットのワールドカッ プと重なっており、アジア研究所の尽力にもかかわらずリーゾナブルな値段のホテルがとれ なかった。仕方なく外国人用のホテルに泊まったが、チェックイン時に私は思わず声をあげ そうになった。1 泊分の値段が、ムルシダバードでの5 日間の総宿泊費・食費よりも大きかっ たからである。何と歪んだ経済だろうか。
コルカタでは酒を買うのも飲むのも本当に大変だが、地方都市に行けばそんなことはない。 レストランでビールを注文すれば、こっそり部屋に持ってきてくれる。伝票も切ってくれな いので、非合法商売なのだろう。酒が自由に手に入るから褒めるわけではないが、インドは 大都市よりも地方の方がずっといい。三輪博樹氏によればコルカタはインドの大都市の中で もずば抜けて汚いらしいが、歩道の半分を埋めて貧民屈があるのには閉口する。臭気がすご いし、また子供の顔は皮膚病でお化けのようである。地方都市に行けば、人々が単に貧しい だけで、貧民ではない。自分の家や店の前は掃き掃除するようなマナーも生きている。しか も田舎に行くほど、小都市になるほどモラルも健全で、たとえばムルシダバードの駅には乞 食はいないが(外国人に興味をもったインテリ青年は話しかけてくる)、郡庁所在地のバラン ポアの駅になるとすでに乞食が寄ってくる。マハトマ・ガンディーがインド再生のカギは農 村にあると考えたのが納得される。
ギュンター・グラスは「リキシャは21 世紀の乗り物である」と言ったが、交通渋滞ゆえに時間の大半を車の中で過ごすコ ルカタでの調査に比べれば、リキ シャを駆使した地方都市での調査 は能率がいい。ただ、車のタクシー が安いのに比べれば、リキシャは 割高な乗り物である。初乗りがイ ンド人相手で15 ルピー、外国人だ と25 ルピー請求される。せいぜい 1 - 2 キロしか走らないのだから、 これは安い値段ではない。ムルシ ダバードから郡庁所在地のバラン ポアに移動したときにはベルボー イがホテルの4WD 車で送ってく れた。また、バランポアからバン グラデシュ国境沿いのまちラルゴ ラ(Lalgola)に行ったときも上述 のように青年と交渉して乗せても らった。若い人たちは、ポンコツの国産車を運転する中年以上のタクシー運転手とは違った 独特の運転をする。人ごみをのろのろと抜けるときにパワーをため、前方に10 - 20 メート ルほどの空間ができると矢が弓から放たれるようにポンと加速するのである。これは絶対に 人を引っ掛ける、接触事故を起こすとはらはらしながら私は座っていた。インドの汽車は扉 が開けっ放しなので、そこから身を乗り出して景色を見ることができる。窓を通すよりもは るかに視界が広く、いろいろなことに気づく。まさに特等席といえる。
ラルゴラのナトゥン・ナルダハリ・モスクのイマムで同 時にアル・マハドゥス・サラフィ・マドラサの教師モニ ルル・イスラム氏(向かって左側)と彼の同僚教師。宿 舎はベッドが二つ並んでいるだけで質素である |
昨年と今年、2 度の調査で痛感したのは、インドは現地語ができなければ研究できない国 だということである。これは、北大公共政策の中島岳志氏がいつも力説することである。特 にムスリム指導者はほとんど英語が話せない。西ベンガル州だけで8 千万人人口があるのだ から、ベンガル語を学ぶことは、エストニア語やラトヴィア語を学ぶよりかはるかに費用便 益効果が大きいはずである。生まれ変わってインド研究者になったら、現地語を勉強しよう と思うのである。今回の経験で言うと、まずバランポアの商業区のモスクでインタビューし ようとしたが、イマムも信徒も誰も英語が話せないということで、別のモスクに向かった。 そのモスクはインテリ・中産階級街の中にあり、高齢の信徒のリーダーは、元外科医でイギ リスに留学した経験もある人だった。ラッキーなことに、まさにこの人が、郡におけるタブ リグ運動の創始者だった。このモスクでは若い信徒たちもみな英語が達者で、質問攻めに会っ た。ラルゴラに遠征したのは、バランポア駅のホームで偶然知り合ったばかりの友達がいた からである。この青年はミル・ムハンマド・アリという名で地元のインテリ家系の出であり、 イスラーム学校(マドラサではない、世俗学校である)で数学を教えている。見事な英語で 話し、インド訛りも強くない。彼が2 人のイマムとの面談を組織してくれ、しかも通訳して くれた。2 人のうち1 人は、親譲りの高名なワハビのウラマーであり、非常にためになるこ とを教えてもらった。こうして、バランポアとラルゴラでは幸運に助けられて何とか調査で きたが、ムルシダバードでは全く駄目だった。「イマムがいる、働いているモスクに連れて行 け」とリキシャに何度お願いしても、名所旧跡に連れて行かれるのである。
世俗政府の側も状況はあまり変わらない。インドの自治体は郡、ブロック、村の3 層制な ので、この3 層のそれぞれに行って調査するのが望ましい。しかし、英語で自由に調査でき るのは郡が限界である。郡とブロックの間にあるサブ・ディヴィジョン(これは自治体でなく、国=州の出先として郡とブロックを仲介する機関である)に行った時点で、長は英語で話すが、 長から私の相手を託された代理(ナンバー2)はすでに会話が辛そうだった。ただしインド の役所は、横から覗く限りでは、書類は国家語であるはずのヒンディ語ではなくすべて英語 である。つまり役人の受動英語能力はかなり高いはずで、日本人の英語能力と似たような状 況といえる。この代理も、聞きやすくはないが味のある言葉で話した(もちろん話の中身が いいからであるが)。選挙前で役人たちが忙しそうだったこともあるが、ブロック以下のレベ ルに行っても英語で調査することは難しいだろうと判断し、私は8 日の予定だったムルシダ バード郡での滞在を5 日で切り上げた。
インドの地方自治制度は3 層パ ンチャヤート制と呼ばれる。パン チはサンスクリット語で5 を意味 する。言うまでもなくロシア語の ピャーチ、リトアニア語のペンキ (これも5 を意味する)の源で、さ らにはフルーツパンチやポン酢の 語源であることは『美味しんぼ』 に描かれたとおりである。パンチャ ヤートは「5 人委員会」とでも訳す べきで、リグヴェーダの時代に村 の寡頭指導者が上位権力からは自 立して村の行政を取り仕切ってい たことに端を発している。3 層も自 治体があると権限・機能が錯綜して非能率になるとはよく批判されるのだが、中国と同じく、 人口が多すぎるので行政は多層化する傾向がある。西ベンガル州の人口8 千万は普通のヨー ロッパの国より大きいし、ムルシダバード郡の人口60 万は鳥取県と同じくらいである。面白 いことに、地方議会は自前の執行機関を持たず、国=州政府の出先機関がそれを代行している。 これは、ウクライナの郡(ライオン)自治と同じ構造である。旧ソ連圏の場合、こうした構 造は上意下達しか生まないが、インドの場合、州の出先機関は地方議会の決定にきちんと従 うそうである。西ベンガル州では州政府は共産党だが、郡以下のレベルになると国民会議派 や草の根会議派が握っている自治体があり、政治的に微妙な事態が生まれることは容易に推 察される。しかし、1990 年代の旧ソ連圏に見られたような権力分散や立法・執行権対立には 向かわないようである。
ムルシダバード郡自治体の建物 |
30 年間共産党が支配してきた西ベンガル州ではこの3 層パンチャヤート制の活動が活発で、 所得の再分配がうまくいっていると言われる。10 年前と比べて、乞食や不就学児童、病気に なっても病院に行かない人の数が激減したと役人はみな自賛する。経済が成長しても、3 層 パンチャヤート制がうまく機能しないと富は一部の階層の手から流出しないとも言う。しか し、カリスマ的な婦人政治家であるママタ・バナジーをリーダーとする草の根会議派と国民 会議派の攻勢によって、西ベンガルの共産党支配も終わりそうな気配である。中国のエリー トが、ソ連時代の惰性でいまだにロシアを「兄貴分の国」とみなす傾向があるのにも驚くが、 インドはかつて親ソの国だっただけあって、リベラルの共産党批判も面白い。「レーニン(ソ 連共産党?)は革命後20 年で非識字者を絶滅した、我々の共産党は30 年も政権をとってい るのにまだ大量の非識字者がいる」と言って批判するのである。なお、インド人は銅像を建 てるのが大好きだが、郡庁所在地であるバランポアは本当に銅像が多い。その中には、もち ろんレーニンの銅像もある。
実際、昔の擬似社会主義政策の名残か、エリートが大量に留学していたせいか、インドには、 官僚主義と煩雑な手続き、小額紙幣の絶望的不足、研究協力者のプライドが高くてお金を受 け取ろうとしないこと(携帯電話での通話など実費支出させているのだから、これは本当に 困る)など、かつてのソ連を髣髴とさせる現象が多い。その意味ではシリアにも似ているが、 シリアと違い、拷問の方法はソ連から学ばなかったようである。
貧しい階層に多いムスリムは、伝統的に共産党の票田であった(こんにちでは、草の根会 議派がムスリム指導者を猛烈に切り崩している)。他州に比べれば西ベンガルではムスリムは 優遇され、ヒンドゥ教徒との流血の抗争も起きていない。しかし、上述のミル・ムハンマド と話すと、ムスリム・マイノリティの目には自称世俗国家インドはこう映るのかと考えさせ られる。事実のほどは知らないが、たとえばインドの周辺小国国民のうち、ヒンドゥ教徒で あるネパール人だけがインド軍に勤務することができ、またインドでの不動産取得に制限が ないそうである。このような特権は、宗教を異にするブータン人、バングラディシュ人、ス リランカ人は享受していない。ムルシダバード郡でしばしば問題になるのは、ムスリムによ るバングラディシュへの牛の密輸である。バングラディシュに運んでしまえば牛は食肉にし か過ぎない。インドでは、もちろんそうではない。国境警備兵が牛密輸業者をしばしば射殺 してしまうのである。
なりふり構わず生きることに必死という人々の有様においては、インドは中国に似ている。 コルカタの空港から研究所があるソルトレイクまでタクシーに乗って周りの喧騒を眺めてい るだけで、しだいに自分にパワーが注入されるような感じがする。変に成熟してしまい、は すに構えたロシア人とは違う。その反面、かつて日本やソ連で人々を惹き付け、こんにち中 国人を惹き付けている近代化、文明、衛生、国民教育などの価値体系がインドでは全く説得 力を持たないことに驚かされる。かつて書いたが、中国の公衆トイレの小便器の一つ一つに「便 器への一歩は小さいが、文明への偉大な一歩である」という標語が張られているようなことは、 インド人の理解を超えるだろう。相当リベラルなインテリでも「カースト制は社会の潤滑油 として有益である」と内心思っていることは、たいして注意しなくても気づく。こうしてイ ンドは進化を拒否するが、富国強兵していることは事実である。近代化なき富国強兵という 前例のない実験が十億人規模で展開されているのである。