研究出張報告

ロシア研究者のデリー滞在よもやま話

大串 敦(大阪経済法科大学)


 

 2011 年3 月11 日から21 日まで、新学術領域研究「ユーラシア地域大国の比較研究」の 一環としてインドの首都デリーに滞在してきた。ご同行くださったのは、上智大学の安達祐 子さんと関西学院大学の三宅康之さんである(現地のホテルで偶然にもスラ研ではおなじみ の伊藤庄一さんとお目にかかった。ロシアで会うならなんとなくわかるが、インドで会うと はなんという偶然であろう)。安達さんと私はユーラシア地域大国の支配政党(優越政党、 dominant party)の比較研究をするつもりで、かつて支配政党だった国民会議派の支配維持 システムや後にその地位を維持できなくなった原因などを調査しに行った。そこで得た学問 的な知見に関しては、私と安達さんは11 月にワシントンDC で行われるスラブ東欧ユーラシ ア研究学会(ASEEES、AAASS から最近改称)にて報告する予定であるので、今回はそこか らこぼれ落ちるよもやま話を書いて、お茶を濁すことにしたい。

 非先進国を研究する地域研究者の多くは、現地調査というものはなかなか当初の予定通り進まないものだ、ということに同意していただけるものと思う。周到に準備をしていたつも りでも、予期せぬトラブルに見舞われることもある。腹を立てたり、困惑したり。それでも、 そうした経験を積み重ねて、研究者は徐々に地域になじんでいく。

 さて、今回の私たちの調査旅行では、最初のトラブルは実は出発以前に生じていた。現地 での諸々の調整をお願いするつもりでいた三輪博樹さんに、諸般の事情によりご同行してい ただくことが不可能になってしまった。完全にインド初心者の我々三人組は、出発前に、さ てどうしようという感じになってしまった。三輪さんに甘えて油断していたのが悪いのであ るが、これでは現地になじむとかそんなこと以前の話である。こうして、私たちの調査は調 査をする以前から暗雲が立ち込め始めたのであった。

 それでも、長い民主制の歴史ゆえだろうか、インドという国はロシアと違って表面的な厳 格さは比較的少なく、あの印象的な緩さゆえなんとか調査も可能になった。私と安達さんが 与党会議派と最大野党のBJP という政党にアポなしで直接訪問した際、これといったセキュ リティーチェックもなく、ろくなパスポートの確認もなく、用件を言うだけであっさりと中 に入れてくれた。ロシアのあの厳格なチェック体制に辟易した経験を持っている人間からす れば、これはちょっとした驚きだった。インドで一番セキュリティーチェックが厳しかった のは、国会の敷地内にある議会博物館に物見遊山に行ったときであった。もっとも、インド では政党政治が政治システム上最重要なものの一つであり、多くの一般人と見受けられる人 が陳情らしきことをしに訪れているので、厳格なセキュリティーチェックなどして人を遠ざ けるのはよくない、という判断が働いているのかもしれない。

 もちろん、入れたからといってその党の高位の人物から面白い話を聞けるとは限らない。 私たちが訪れた時は国会が会期中で、高位の人は多忙であるようだった。与党会議派で話を 聞けたバカボンのパパにちょっと似ているおじさんは、「よしよしおれが答えてやろう」と言 わんがばかりの態度で、彼にかかってきているのであろう電話に返事することなく即座に切 りながら、びっくりするくらい内容のない話をしてくれた(これはこれですごく面白かった のだけど)。しかし、これには当然ながら私たちの責任もある。言うまでもなく現地語の問題 で、先程から、「見受けられる」とか「らしき」とか書いていて我ながら情けないのであるが、 ヒンドゥー語ができないから本当のところは何なのか分からず、このように書くしかないの である。バカボンのパパに似たおじさんにも、ヒンドゥー語であればもっと内容のある話を 聞くことができたのかもしれない。次にインドに行く機会があれば、少しだけでもヒンドゥー 語を勉強してから行こうと思った次第である。ちなみに、会議派でもBJP でも若くていい教 育を受けていそうな人が、かなりきれいな英語を話していた。

 現在、インドでは数多くの地方政党があり、州レベルではもちろん全国レベルでもそれら の動向は無視できない要素になっている。そのような状況で、現地語ができない私が二つば かりの全国政党をちらっと訪れただけの印象で即断するのは全く危険だし、一般的に言うと どちらの党も多くの人は外国からの訪問者に親切であったが、どちらかというとBJP のほう が訪問者への対応などがしっかりしていたように思われた。そこで会ったお兄さん(やや薄 くなり始めたご本人の頭髪を気にしているのか、私たちに日本人の髪の毛についてしきりに 質問してきた。仕方がないので、日本人は海藻を食べるからとかいい加減な返事をしておいた) は、担当者と連絡を取ろうとかなり誠実な努力をしてくれた。

 インドは図書館が素晴らしいのでそこで調査するのも有益である、と以前松里先生から伺っ たことがある。私たちが訪れたネルー記念博物館・図書館(要紹介状)では、図書が基本的 にはすべて開架で、細かいパンフレットの類まで整理されていた。まだ私の研究が細かい一 次資料に突入する以前の段階であるため、十分活用できなかったことが惜しまれるが、今後 の調査の際に必要な文献・一次資料の目途を立てることができた。国立公文書館には、省庁の公文書がそろっている(要紹介 状)。ただし政党関連のものはほと んどない。国家と政党の区別は文 書管理に関する限りではかなり厳 格であるように見えた。また、と りあえず行ってみようと言いなが ら行ってみた中央選挙管理委員会 の建物にも独自の図書室があり、 紹介状があれば利用できる。こち らもかなり貴重な資料がそろって いたが、資料はほとんど全て分厚 いほこりをかぶり、保存状態が悪 く痛んでいるものが多かったのが 残念であった。安達さんはここで 写真入りのヨガの教本を発見し(なぜ中央選管の図書室にヨガの本があるのかは不明である)、 興味深げに眺めていた。きっと帰国後の現在、ヨガに目覚めてらっしゃるに違いない。それ はともかく、研究者御用達の書店はもとより、比較的普通の書店に行ってもかなり広いスペー スが政治関係の書物にあてがわれており、選挙などはとても好まれるテーマであるかに見え た。私が手掛けているような政党政治に関しては、資料自体は豊富に存在しており文献調査 だけでもかなりのことができそうである。

研究者御用達の書店通り
研究者御用達の書店通り

 デリーの街で印象に残ったのは、 恐ろしく激しいコントラストであ る。ヨーロッパの中心部にあって も恥ずかしくない立派で近代的な ショッピングモールのすぐ隣には、 比類なくすさまじいと思えるよう なスラムがある。街のどこにでも 物乞いがいるかと思えば、かなり 良く整備されたきれいな公園があ り、人々は楽しそうに散歩したり、 横になりながらトランプに興じた りしていた(その公園の一つ、ネ ルー公園にはなぜかレーニン像が 建っていた。疑似社会主義政策時 代に建てたのだろうか。由来を調べようと思いつつ調べないまま現在にいたっている。誰か 知っている人はこっそり教えてください)。場所によっては臭気も強烈であった。ただ単に汚 物でくさいというだけではなく、それと食べ物と香水などが混ざった、何ともいえない臭気 があちこちに立ち込めていた。ちょっと郊外の道路では新しい車がそれなりのスピードを出 している横で馬車がのんびりと動いている。近代化後発国ではこうしたコントラストが激し くなる傾向があるが、インドのそれは他の国と比べても群を抜いているのではないだろうか。 三輪さんのアドバイスもあり、今回私たちはタクシーを借り上げ、移動はもっぱらそれに頼 ることになったのだが、公共交通機関を使ったらきっともっとこうした激しいコントラスト を体験することになったであろう。

よく手入れされた公園
よく手入れされた公園

 タクシーを借り上げ、と書いた。ロシア研究者は、公共交通機関、地下鉄やマルシルート カを使うのが当たり前である(とりわけモスクワやペテルブルグのような大都市では)。モス クワでは車に乗ってしまったら、渋滞に巻き込まれ、地下鉄ならほんの10 分程度のところに 1 時間近くかかったりするリスクがある。荷物が重たい空港からの移動でタクシーを使うこ ともある程度である。調査旅行でタクシーを使いまくるという贅沢な経験は、今回が初めて のことであった。これは想像以上に楽であった。ただそれでもちょっとした後ろめたさがあっ たのも事実である。庶民の足をまるで体験しないのは地域研究者として失格であるような気 がした。インドになじもうにも、私とインドの間には車の窓ガラスという壁が存在していた。 とはいえ、実際のところ、三人であちこち移動するとなるとリキシャでは手狭だし、たびた びの移動となるとタクシーを借り上げても料金的にも大きな違いがないのかもしれない。ま たいろいろな話を総合するとインドの公共交通機関は治安も良いとは言えず、安定性にもい ろいろ問題があるそうである。事実、タクシーが信号で止まっていると、実に多くの物乞い がかなり激しい勢いで窓ガラスをたたき、金銭を要求する。車の窓ガラスという壁は安全も また確保してくれていたのかもしれない。

 そして、食事に関して。インドで食あたりはしたくなかったので、私たちはかなり慎重に レストランを選んだ。三宅さんはお食事係として活躍してくださった。ちゃんとしたレスト ランで食べたインド料理は申し分なくおいしいものであった。ただ、本場インドカレーのよ うなこってりとしてスパイスの効いたものを毎日食べるというのは、私としてはなかなかつ らいものがある。数日経つと、もっとあっさりしたものが食べたくなったりもした。徐々に 意志も弱くなりイタリアンや日本食レストランにも行った。インド研究者の皆さんは一体ど うされているのだろうか、とふと疑問に思った。やはり時々趣向を変えて、日本料理屋さん に行ったりするのだろうか。それともああいうインド料理をがっつり食べることでインドを 口からも知るのであろうか。

 最初に書いたが、私と安達さんが出発したのはあの3 月11 日であった。成田離陸の数時間 後、大地震が発生した。あと数時間離陸が遅れていたら我々は成田で身動きができなくなっ ていただろう。この偶然は私にはどことなく象徴的に感じられた。トラブルらしいトラブル といえば、インドのトランスパレンシー・インターナショナルが会議を企画していて、私た ちも参加するつもりでいたのが、直前になって会議自体がキャンセルされたことと、安達さ んが現地の携帯電話を買うのにちょっとした面倒があったぐらいだった。もっと大きなトラ ブルで調査がうまくいかなくなる可能性は多分にあったのに、インド初体験としては比較的 円滑に調査らしきこともすることができた。逆に言うとインドになじむところまではまだま だほど遠い、ということだろう。

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