この8月、新学術領域研究「ユーラシア地域大国の比較研究」の一環として、中国のイスラーム調査を行った。もともとはウルムチに行くつもりで現地の 同僚と連絡をとっていたが、7月の暴動のため計画を変更せざるを得なくなった。華東師範大学のネットワークに頼って急遽、約200万人の回族が住む甘粛省 の社会科学院の若手研究者である馬東平さん(ご自身も回族)を紹介してもらった。
8月13日の夜遅く、省都蘭州から70キロも離れたところにある空港に着く。市の中心部 まではバスで、その後はタクシーで馬さんが予約してくれた交通大学のホテルまで行く。すでに夜中近くであり、タクシーに乗るのも怖い時間である。交通大学 が市の西端にあるのでなかなか着かない。後部座席で「中国は治安が悪い国ではない」と自分に何度も言い聞かせる。翌日わかったことだが、蘭州市の旧市街 (城関区)は市の東部にあり、両側から山が黄河に迫っているので、市は黄河にへばりつくようにして西に向かって細長く発展したのである。黄河は本当に黄色 い。両側の山並みのかなり高いところに美しいモスクが多く立っている。これは悲しい歴史の名残で、川べりの良い土地は漢族が占拠し、回族は山に追いやった からこうなったようである(ドゥンガン反乱の懲罰というわけでもないらしい)。
臨夏の美しい中国式モスク、老王寺
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言うまでもないことだが、言葉がわからない国で現地調査をする場合、通訳の能力に決定的に規定される。通訳の労働時間が自分の労働時間であり、通訳の仕事 の質が自分の調査の質となる。甘粛ではかなりラッキーで、馬さんの友人の有能な英語教師(同時に大学院で人類学の博士論文準備中である)が通訳になってく れた。英語圏に一度も行ったことがないのに英語が素晴らしく、しかも自分自身が敬虔なムスリムなのでイスラームの用語法にも通じていた。これがないとたと え英語がうまくても役に立たない。ご主人も協力してくれ、しかもご主人は「中国の小メッカ」と言われる臨夏の出身なので、同市に遠征調査した際には家族ぐ るみで助けてもらった。しかし若い女性なのでやはり体力的に私について来れず、また休暇中に乳飲み子と離れてアルバイトするのも辛そうだった。5日間一緒 に働くはずだったが、3日半で彼女との協働は断腸の思いで中断せざるを得ず、最終日はホテルで資料を読んだ。東大の田原史起氏にも言われたが、中国人は朝 11時半を過ぎると昼食のことで頭がいっぱいになってしまう(さすがに宗教指導者はそうではない)。自分が昼食を大切にするだけではなく、私にも沢山食べ るよう主張するので閉口する。私は、特にCISや中国のようなトイレが完備していないところでは、現地調査中は何も食べないからである。
CIS諸国と違って、中国では幹部と会うのは容易ではない。馬さんが自分の知り合いを通じて最大限努力してくれたが、結局、甘粛では共産党と省・市政府の 幹部には会えなかった。会えたのは宗教指導者を組織する社会団体であるイスラーム協会(伊協と略称される)の幹部であり、そのほかはイマームやシェイフな ど在野の宗教指導者と会ったので、政治学というよりもやや文化人類学的な調査となった。8月末にICCEES訪中団の一員として北京を訪問した際(本号別 稿参照)には、中央民族大学の指導的教授で、回族や中国ムスリムの全国的なリーダーのひとりであり日本とも縁が深い胡振華先生に助けてもらったので、回族 が多く居住する北京市海淀区政府の宗教局幹部と会うことができた。
着いた翌日の8月14日、馬さんに案内され、旧市街にあるあるモスク(中国語ではイスラームは清真教、モスクは清真寺という)を訪れる。これは、1937 年、日本軍の攻撃を逃れて河南省から移住してきた回族が創設したモスクである。したがってかつては河南清真寺と呼ばれていたが、様々なムスリム移民が流入 してくるこんにちの蘭州にはそぐわないということで、旅蘭清真寺と改称した。河南ムスリムの特徴らしいが、モスクの近くに支部としての婦 人モスクがあり、婦人イマームと呼ばれるリーダーまでいる。他のイスラーム諸国では、女性の礼拝スペースが同じモスクの吹き抜けの2階であったり、小さな モスクの場合にはカーテンで仕切ってあるだけだったりするが、中国では婦人ムスリムの自立性が高く、モスクと同じ敷地内に小さめの婦人モスクが建てられて いる場合が多い。しかし、別の敷地に経営的にも独立した婦人モスクがあり、婦人イマームまでいるのは、世界的にも稀に見る河南ムスリムの特徴らしい。もち ろん婦人には教義上礼拝を先導する資格がないので、礼拝だけは本モスクからの同時放送で先導している。なぜここまで婦人ムスリムの自立が認められるのかと 質問すると、まずムスリム婦人は男の会話にずけずけ口を挟まないので、イスラームについて知りたいと思うことがあっても簡単に知ることができない。婦人の 中にきちんと勉強した者がいれば、婦人の信仰生活は格段に充実したものとなる。もうひとつは、ムスリムが死んだ際には体を洗わなければならないが、当然、 婦人の体は婦人しか洗えない。婦人モスクがあるおかげで、河南出身者でなくとも蘭州中のムスリムが女性の葬式をこの婦人モスクに頼むことになり、率直なと ころ、かなりの収入になるようである。
河南ディアスポラの婦人モスク管理委員会。向かって私の左が婦人イマーム
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午後、蘭州市イスラーム協会の幹部にインタビューしてその日の調査は終わる。金曜日なので、共産党や政府の幹部に会えるにしても次週のことである(結局会 えなかったのだが)。そこで土日は臨夏に行くことにした。蘭州から臨夏に行くには、ドンシャン(東郷)族(確か松本光太郎氏が研究していたように記憶す る)が住む山岳地帯を越えなければならない。その山道の険しさは、この3月に南オセチアに行った際に越えたコーカサス山脈を思い出させた。それほど険しい 山々が麓から山頂まで見事に段々畑になっている。雨さえ降っていれば世界遺産ものの美しい光景であろうが、いまや赤褐色の「段々砂漠」である。道路には、 「全村退耕」して森に戻せという横断幕がかけてある。実際、かつて畑であっただろうところに苗木が多く植えてある。経済成長で頭が一杯になっているように 見える中国政府が環境問題にここまで取り組んでいることに頭が下がる思いがするが、失礼ながら、雨が降らないところにいくら苗木を植えても植えるそばから 枯れているようにも見える。こうして追い出されたムスリム少数民族は、蘭州など大都市に流入するのである。
CISと同様、中国のムスリムの大多数はハナフィー学派である。中国内地、青海、中央アジアを結ぶバザール都市であった臨夏には、康熙帝時代にカーディ リー派神秘主義が伝播した。今世紀に入ってからは、サウジアラビアからハンバル学派も伝播し、市には4つのハンバル派共同体がある。意外なことだが、ハン バルではなく「サラフィー」を公式の名称としている。さらに意外なことだが、中国当局から迫害も白眼視もされていない。甘粛のスーフィズムは独特であり、 一人のシェイフが10人の弟子に免許皆伝(イジャーザ)することを原則としており、鼠算式にシェイフが増える仕組みになっている。甘粛で数千人のシェイフ がいると本人たちは言っており、確かに至る所に聖廟や飾り立てた墓がある。ちなみにムスリム人口が同じくらいのダゲスタンには16人しかシェイフがいな い。
崇徳女校付属幼稚園。貧困と環境ゆえの難民の子供とは思えないほど清潔で快活である
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蘭州に帰って最後に訪問したのは、ドンシャン族やサラール族など蘭州に流入してくるムスリム移民の娘を教育するイスラーム女子学校(崇徳女校)であった。 これは、回族のある社会活動家の婦人が校長となって、香港の基金から資金を調達して5年前に開校した学校である。移民は夜も昼も働いているので、学校の中 には寄宿施設もあり、住み込んでいる子供もいる。そのわりには校舎は恐ろしく清潔で、匂いもしない。ドンシャン族は早婚であり、ティーンエイジャーでも乳 飲み子を抱えて学校に来て授業にならない場合があったので、一石二鳥を狙って幼稚園(これは共学)も開設した。当初の理想は、生徒であるドンシャン族の中 から生え抜きの教員を育成することであったが、5年たってまだひとりしかその例はない。進んだムスリム民族である回族が遅れたムスリム民族であるドンシャ ン族などを助けるという構図は変わっていないのである。校長は、ドンシャン族の女子早婚習慣を改めなければ、皆、学業を途中で放棄してしまうのでどうしよ うもないと語っていた。
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私が中国のイスラームを研究しようと思ったのは、イスラーム宗教組織論の観点からである。世界的には、ムスリム管理機構はアラブ型(宗務ワクフ管理省)と トルコ型(宗務局)とがある。旧オスマン領(ボスニアも含めて)では概してトルコ型が優勢であり、また旧ロシア帝国領でも、エカテリーナ2世時代にオスマ ンのシェイヒュルイスラーム制を模倣して宗務局を導入して以来、トルコ型が優勢である。中国の宗教管理機構はそのどちらにも入らない。これはイスラームに 限らず中国の他の宗教にも共通だが、中国共産党には統一戦線部、政府側には宗教局という宗教管理の指揮系統がある。宗教者はイスラーム協会(伊協)、カト リック(天主)協会などの社会団体に組織されるが、党や政府とは対照的に、これら協会の各級間に位階制はない。つまり、蘭州市や臨夏市の伊協は甘粛省伊協 に従属するわけではなく、同様に甘粛省伊協は全国伊協に従属するわけではないのである。もっともイスラームの場合はファトワ(法学裁定)を出す必要に迫ら れる場合があり、それは全国伊協の「シャリアー解釈最高委員会」が行うが、総じてイスラームの内部自治的な位階制は存在しないと考えてよい。ソ連がロシア 臨時政府や帝政からモスクワ総主教座やムスリム宗務局を継承し、各宗教の位階制(すなわちオートノミー)を形式的には保障していたのと比べ、この点では中 国の全体主義・社 会の原子化はより徹底しているとみなすことができるのである。
バイク・タクシー。ヘルメットをかぶらないので利用するのはとても怖い
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なぜこのような特徴が生まれたかといえば、おそらく、清朝や民国期にムスリム管理機構がなかったからだと思う。共産党政権が白紙から宗務管理機構を作らな ければならなかったので、「統一戦線部」などという現世的な機構の中に宗教が組み込まれてしまったというのが私の仮説である。実は中国西北部では、スー フィー内の上下関係を背景として通常寺の上級機関としての「海乙寺」というものが最近まで残存していた。しかし、こんにちのムスリム共同体模範定款は、モ スクはその管理委員会(信徒代表)にのみ従属するものと定め、モスク間の主従関係を排し「海乙寺」を一掃してしまった。中国のモスクには必ず「管理民主」 というスローガンが張ってあり、「民主」と言うと聞こえは良いが、実際の狙いは宗教の位階制(内部自治)を許さないということである。
北京市海淀区の馬甸清真寺にてイマームおよび胡先生親子と。商業の中心地にあるため、檀家が
300家族しかない割には非常に豊かなモスクであり、イマームが4人いる。私の目の前でも、百元紙幣の厚い束を喜捨する信者がいた。ただし胡勇氏によれ
ば、回族は来世よりも教育にもっと金をかけるべきとのことである
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だからといって中国のムスリムがCISのムスリムに比べて不自由だというわけではない。ロシアでは、第2次チェチェン戦争を転機として1990年代 のイスラーム放任主義が反省され、サラフィー主義はダゲスタンでは非合法化され、アラブ諸国でイスラームを学んだ者はFSBの監視対象とされ、国家がマド ラサのカリキュラムに介入するようになった。このいずれも中国では起こっていない。すでに述べたようにサラフィー主義への差別はなく、外国でイスラーム高 等教育を受けることは依然として奨励され、国家はマドラサの教育内容に干渉しない。そのかわり北京を一歩離れると、モスクの壁には「和諧社会」などの世俗 政府のスローガンが似非宗教的な解説付きでべたべたと貼ってある。これはスティーヴン・コトキンが昔から指摘している、全体主義ゆえのバーゲニング資源と いうパラドックスである。つまり全体主義社会で国策に協力するかのような建前を積極的に言えば、民主主義社会で白眼視される独立勢力であるよりもかえって 権力から自由でありうるのである。ここで中国を全体主義と呼ぶのは、言論の自由をはじめ人権が著しく抑圧されているという意味ではなく、中央政府のスロー ガンがいまだに人民を動員する力を持っているという意味である。
実際、今度初めて北京・上海以外の中国地方都市に行ってみて、未だにあらゆるところにスローガンが掲げられているのに驚いた。やはり北京・上海は中国では ない。しかし、「和諧社会」のような政治的意図見え見えのスローガンが多数だとは思わない。私の印象では、一番多いのは「文明」にまつわるスローガン、第 二に多いのは「科学技術を学べ」というスローガン、「和諧社会」はずっと劣ってせいぜい3番目である。「文明」標語が量的に他を圧倒するのは簡単な事情 で、道路わきやトイレに大量に掲げてあるからである。公衆トイレにはほとんど便器ごとに「文明的に使え」と貼ってあるし、おそらくニール・アームストロン グ船長の台詞をもじって、「便器への一歩は小さいが、文明に向かっての偉大な一歩である」というスローガンがトイレにでかでかと貼ってあるのを見ると思わ ず噴き出してしまう。道路の 脇には、「文明的に運転せよ」と掲げてある。誇り高い中国人が、「自分たちのマナーはまだ文明的ではない」と認めるスローガンをあちこちに貼るのは奇妙で ある。ロシアなら、「礼儀正しく運転せよ」という標語はありえても、「文明的に運転せよ」というのはありえない。中国民衆にとっての「文明」は、衛生や産 業社会に必要な行動規範という意味だけではなくて、おそらく先進国の中間層程度の生活水準に追いつくイメージと結びついており、それだけに人気があるのだ ろう。「科学技術」も同様である。
8月末にICCEES代表団の一員として北京を訪問した際は、中央民族大学の胡振華先生に朝から晩まで付き添ってもらい全面援助を得たので、短時間で大量 の資料を仕入れることができた(手続きの段階で華東師範大学の楊成氏と北大院生の劉旭氏に助けてもらったことは記す義務がある)。胡先生とは2年ほど前に 私が中央民族大学でレクチャーした際に知り合ったが、その後、来札の際に北海道スラブ研究会で講演をお願いしたことがある。前述のムスリム共同体模範定款 の起草者の一人といえば、その影響力がわかるだろうか。午後、海淀区政府を訪問した際には、北京農業大学で副教授を務める末息子の胡勇氏まで動員して通訳 をさせてくれた。日本で農業社会学を学んだ胡勇氏のおかげで、私は生まれて初めて自分の母語でインタビューした。前々から、胡先生が4人の子供をすべて日 本の大学院に留学させたことや日本人に非常に親切なのはなぜかと思っていたが、今回、その事情を胡勇氏から聞いた。山東省出身の胡先生は、子供時代を日本 占領下で過ごし、学校では日本語を学ばされた。自分はそのことが嫌ではなかったが、家族から「侵略者の言葉など学ぶな」と言われて悲しい思いをしたそうで ある。かつては遣隋使や遣唐使が中国に来て学び、いまでは多数の中国人留学生が日本で学んでいる。学ぶということを通じてこれほど深く結びついた国民はい ない、自分は日中の架け橋になる責務があるとの思いで、精力的に働いておられるのである。上記の生い立ちから日本語は達者であり、またロシア語もうまい世 代なので、コミュニケーションは楽である。
今回初めて調査目的で中国を訪問し、この国の学術的な価値を痛感した。12月の国際シンポジウムでの報告で、その一端が披露できれば幸いである。