中国農村を対象としたコミュニティ研究者として、筆者は北京、山東、江西、甘粛の各省に「固定観察ポイント」を築いて、そのおなじポイント(村)を 繰り返し訪問することによって、それぞれのコミュニティが過去において、また現在、どういう問題に直面しつつあるのかを観察してきた。外部からみればとて も地味で目立たないが、その場で日々生活するものにとっては非常に重要な問題群、すなわち「コミュニティ・イシュー」と呼ぶべきものを研究の主軸に据えた とき、それは優れて「比較」に馴染みやすい課題となる。とりわけ、コミュニティが地域特有の問題に直面し、対処していくとき、現地住民たちの問題への対処 の仕方や問題解決能力に差があるのは何故か?というのがポイントである。こうした問題意識で、村有野菜卸売市場の設立(北京)やミクロな灌漑施設の維持管 理(山東)、あるいは毛細血管のような村落道路の建設(江西)などをトピックにして、比較の視点から中国の研究を進めてきた。では、同じアプローチでロシ アの農村に向き合ったとき、そこにはどのような特徴が見いだされるのか。
「抽象的な土地」と「即物的な土地」
ズナーメンカ郡スホチンカ村の教会
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新学術領域研究「ユーラシア地域大国の比較研究」の一環としての筆者の調査旅行は2009年9月の前半に実施された。9月1日、成田で松里公孝教授と合流 し、飛行機の中でロシアについて色々とブリーフィングをしてもらう。モスクワに着いた当日の夜行で、一つ目の調査地であるタンボフ州に向かう。翌朝到着し たと思ったら、すぐにタンボフ大学の学生との交流やら地元テレビへの出演などがあり、そうした活動をこなしてようやく、9月3日にズナーメンカ郡に入っ た。ここでは、「中国でいつもやっているように村に定住したい」という筆者のリクエストは結果的に叶えられず、郡庁所在地に宿をとることになった。そこか ら毎日、郡内の村々を郡役所の車で走り回って、村ソビエトで聞き取りを繰り返すスタイルになった。
車で移動する際、車窓には平坦な農地が果てしなく拡がっていた。作物の刈り入れは終了していて、畑にはまったく人影もない。路面はよく整備されているとは 言い難かったし、車も古ぼけた普通の車だったが、運転手の前のメーターをときどき覗き見ると、我々の移動中の「平均速度」は時速120km程度であった。 そもそも信号機というものがないので、一つの村に着くまでまったくストップする必要がない。信号機が無いのは、土地にたいして人口が圧倒的に少ないからだ ろう。人口稠密で農地が稀少な東アジアの農村とは、前提のまったく異なる世界に来たのだ、という感慨が涌いてきた。
村ソビエトに着いて農業の概況などについて聞いてみると、どうやら現地には、中国では普遍的な存在である小農(peasant)というものがおらず、かわ りに大規模な数世帯の農業経 営者(farmer)がほとんどの農地を経営していることが分かった。村落の住民はといえば、集落からほど近いところに家庭菜園を分与されている。「家庭 菜園」というと、箱庭のような小さいものが思い浮かぶが、実はこの農地から上がる収穫だけでも充分に食っていける程度の広さがあるという。ファーマーや農 業企業は、コルホーズ時代の農地と大型農業機械を引き継いで経営を行うが、住民はこの農地について、ただ抽象的な取り分としての「パイ」を分配される形と なっている。1パイはおよそ10haという単なる「面積」あるいは「数字」であって、住民は実際にどこかの区画を分与されているのではない。だがそのパイ に応じて毎年、ファーマーから食糧や現金や家畜の飼料を受け取る。何故「パイ」なのかといえば、ロシアでは広大な農地の一区画を区切って家族経営にされて も、逆に困ってしまうかららしい。中途半端な大きさの農業機械を各世帯で使用しなければならず、非常に経済的でない。これだけ持て余すほどに広い土地があ れば、大規模機械でまとめて一気に耕作する方が効率的、というか、それしかやりようがないのであろう。だから、一般の住民は家庭菜園だけあれば十分なので ある。いつかある研究会で、著名なロシア研究者の方が「ロシアでは土地を所有することは逆に危険である」とコメントされていたのを聞いて、妙に印象に残っ ていたのだが、ようやくその意味するところが飲み込めた気がした。
ロシアの土地所有が抽象的な面積としてのパイの所有であるとすれば、中国では土地・農地は非常に具体的かつ即物的なかたちでの所有である。共産党の土地革 命が成功したのは、この農民(peasant)たちの土地に対する即物的な愛情を組み込んだ形で、全ての農民がコミュニティの農地を、小さいながらも「実 際の区画として」所有できるようにすること、を政策の主軸に据えたからである。農業集団化と人民公社化はこうした農民の欲求を行政力で抑えつけた側面があ るが、1980年代初頭に人民公社が解体されると、土地は「ファーマー」に委ねられることもなく、極めて均分主義的な原則でふたたびコミュニティの各世帯 に分割されたのである。
都市と農村の「やさしい」関係
もう一つ、中国農村との対比で印象的だったことは、ロシアの都市と農村との間にある、ある種の「やさしい」距離感である。都市が農村を一方的に搾取するの ではなく、相互浸透する関係とでもいえようか。
別荘(ダーチャ)文化はこうした関係をよく物語る。ロシアの都市市民は、金持ちに限らず、農村部に別荘を持つ習慣があるというのを初めて知った。ズナーメ ンカ郡のスホチンカ村は、タンボフ市街まで続く森が始まる場所で、郡の中ではタンボフに最も近いが、人口が流出して多くの空き家ができている。これらの空 き家とその敷地は、300以上を整備して別荘用地としている。実際に、既にここに定住してタンボフに通勤する若夫婦がいるという。都市の住宅事情も絡んで いるのかも知れないが、実際に田舎に住んで家庭菜園を楽しんだり、時には自分の手で別荘を建ててしまい、週末や休暇をそこでゆっくり過ごしたり、という生 活の質をゆとりの中に見いだす姿勢には、やはり文化としての奥行きを感じずにはおれない。ダーチャは都市市民が田園生活を楽しむ文化と結びついており、農 村的なものを基本的には「後進的」として忌避する中国の発想からは生まれてこない行動パターンである。中国でも最近は都市市民の「農村観光」が流行してい るが、これは単にレジャーの一環として農家の家屋で素朴な昼食を楽しむことを主旨としたものである。
さらに、農村内部に「スペシャリスト」と呼ばれる人々―その多くは高等教育の卒業生―が定住していることも、都市と農村のやさしい関係を物語る。教師、医 師、介護士、機械技師、会計、図書館司書、文化宮殿職員、郵便局員などであり、農村の、しかも村レベルにこれだけの高等教育卒業生を受け入れる職場が創り 出されているのが驚きである。一部の大学進学 者は、地元農村の職場に戻ってくることを条件に、州の予算で大学教育を受けている。地元出身者に限らず、スペシャリストはどんどん村レベルに配置されてく る。村長さんの多くも、村外の出身であったり、都市で高等教育を受けたスペシャリストである。
アレクサンドロフカ村博物館の展示の一部。村民の中の戦没者写真コレクション
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こうした結果、農村の文化水準は高くなる。ズナーメンカ郡は人口19000人の小さな郡で、中国でいえば「郷・鎮」くらいの人口規模でしかないが、スポー ツや音楽、美術など実に様々な文化活動が行われている(松里先生によれば、タンボフ州はロシアでも特別な例らしいが)。9月6日の夕方には郡の博物館の ホールで、我々二人のためだけにミニ・コンサートが催された。これはすばらしく贅沢な体験であった。農村に限りなく近い郡庁所在地にこれほどの音楽サーク ルが存在していることは、それだけの人や情報や文化が農村に留まる仕組みがあるということである。9月5日に訪問したアレクサンドロフカ村の博物館長ボン ダリョフ氏は郷土愛にあふれた村史の研究者であり、村の歴史を熱っぽく語って止むことがなかった。村民の家庭で発見された歴史や民俗の資料は、必ず彼のと ころに運び込まれ、価値があるかどうか鑑識を受けるのだという。
なぜロシアの都市=農村関係が「やさしい関係」として印象に残ったかといえば、中国ではそうでないからである。中国では、そもそも農村出身者の大学進学率 はかなり低い。高等教育を受けた農村出身者は、社会のエリートと見なされ、基本的には「村」に帰って来ない仕組みになっている。むしろ、汚くて苦しい 「村」から逃げたすために高等教育を受け、都市のホワイトカラー職や国家機関に就職し、都市戸籍を獲得して都市に永住する、というのが農村出身者にとって 理想的なライフ・コースとなっている。いきおい、農村に人材は残らない。農村内部に大学卒業生が就業することの可能な、「スペシャリスト」向けの仕事が限 られていることも関係しよう。都市が農村を経済的・人的に収奪する、「きつい関係」が特に近代以降の中国の都市=農村関係を特徴付けている。いま、「三農 問題」の重視だの、「和諧社会」の建設だのがいわれているのは、従来の両者のあまりに「きつい関係」を少しでも和らげようという反省に立っている。
高等教育を受けない若者はやはり都市に出るが、それは出稼ぎ者として沿海部の都市、あるいは内陸の中心都市に出て、肉体労働に携わるためである。高等教育 を受けていない者がホワイトカラーとして都市の正規部門に入ることは難しく、都市における出稼ぎ者たちは、都市に何年住んだとしても「二等市民」でしかな い。身体を使った労働なので、40代ともなれば体力的にきつくなり、農村に帰郷して地元で生きる道を模索せねばならない。
総じて、中国農村が「構造的弱者の吹き溜まり」である度合いは、ロシア農村よりも高い。ズナーメンカと同程度の人口規模の中国の郷鎮政府所在地の人民生活 を思い出すと、いままでは「そんなものだろう」と思っていたのだが、その物質主義的な即物性に改めて愕然としないわけにはいかない。村レベルにおいては物 質主義の要素は少し減るが、人材の流出はやはり甚だしい。特に中国の村レベルのリーダー層はほとんど土着の人材で、ロシアのように都市の経験をもっていな い。コスモポリタン的な中立性に欠けるので、地縁、血縁、派閥な どを契機としたローカル・ポリティクスが村レベルに生まれやすい。
ズナーメンカ滞在の最後には、お世話になった郡役場の人々が、美しい湖畔でバーベキュー・パーティーを開いてくれた。ウォッカで火照った身体を、郡議長ら と一緒に湖水に飛び込んで冷ましたのも忘れ得ぬ思い出である。
生真面目なロシア人と腹芸の中国人
さて旅の後半、9月10日から滞在したのは、タタルスタン共和国の首都、カザンから車で1時間ほど離れたカムスコエ・ウスチエ郡チンキ村であった。タンボ フでの調査が行政主導で、郡の役人たちの同行で村々を「広く浅く」駆け回る調査であったのに対し、後半は限られた日数ではあるが「一村定住型」の調査で あった。その代わり我々は、行政の力に頼らず自分たちで調査を進めなければならなかった。しかも、ホームステイ先のホフロフ家は、行政とは縁もゆかりもな い、ボルガ川での漁を生業とする家庭であり、村内における交友関係もあまり多くなさそうであった。
初日は村中を散歩して集落全体の位置関係を把握したあと、二日目、松里先生の意向もあって、村ソビエトを突撃取材することにした。村長のステパーノフ氏 は、事前の紹介者もなく突然訪れた外国人に驚いたようだった。が、「ロシアは上意下達のピラミッド体制なのだから、こういうのは困りますよ」とぼやき、本 当に困ったように「ふーっ」とため息をつきながらも、我々のインタビューを受け入れてくれたのである。そればかりでなく、細かい数値やデータが必要になる と、何度も秘書に命じてパソコンからデータを呼び出してプリントアウトしてくれる。門前払いどころか、アポをとった普通のインタビューよりもむしろ親切な ほどである。
その後のチンキにおけるインタビュー調査は、いずれも偶然の出会いを利用し、カムスコエ・ウスチエ郡の郡長さんを始め、すべてノーアポか直前のアポで実現 したものだった。それらはすべて、ロシアでのインタビュー活動に熟達した松里先生の一瞬一瞬の判断が実を結んだものである。お陰でとても充実したフィール ド調査となったが、同時に、もしも同じことを筆者が中国で試みたならば必ず失敗するだろう、という感慨もひとしおであった。
中国はある意味、強烈な「関係主義社会」である。個人と個人は何らかの共通項を媒介として、顔と顔でつながっていくが、そうしてつながっていくことは、か ならずしも集団全体としての「まとまり」を生み出すものではない。顔でつながった関係の内部には、濃淡は様々だが信頼関係が存在しているが、私的関係の外 部―あえて「公共領域」と呼ぶこともできよう―に対しては、不信感、冷淡さ、無関心などの態度が現れてくる。ある村のリーダーや一般村民にインタビューを するとしたら、行政のルートでタテ方向に下りていくか、友人・知人関係で横方向に紹介してもらうかである。飛び込みで、万が一、インタビューに応じてくれ たとしても、相手は煙草など吸いながら、目は虚ろに宙を泳ぎ、限りなく曖昧な、無責任な返答に終始するであろう。いずれにしても満足のいく答えをしてもら うためには、何度も通って実際にその相手と親しくなる必要がある。緊密な個人的コネクション無しでは、価値のある情報は獲得できないのが中国社会である。
どうやらロシアではそうでもないようで、情報は赤の他人にも平等なかたちで公開されているかのようだ。相手の質問に生真面目に、できるだけ誠実に答えよう とする姿勢は、前半のタンボフの人々から感じていたことだった。案外、こういうところから、それぞれの社会の構成原理のようなものがよく見えてくるもので ある。
上級の「代理人」としての村
それでは、ロシアの農村住民にとり、「コミュニティ」はどういう意味を持っているのだろうか。これは今回の旅の中心テーマでもあった。筆者が特に注目しよ うとしたのは、村レベルのコミュニティや村ソビエトの働きだった。
ズナーメンカ郡各村やチンキ村でのインタビューで判明したのは、連邦レベルや州・共和国レベルに、かなりの「財政力」があり、コミュニティにとって喫緊の 問題も、住民やリーダーの「自力更生」によってではなく、たいがいは上からの補助金によって解決されている事実だった。そうであるとすれば、コミュニティ 自身の内在的な条件の違いは、直接的にはガバナンスの質に影響を与えない可能性がある。
チンキ村のもと村長、サイノフ氏と
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具体的にいうと、最も頻繁に話題に上った重要なインフラとして、天然ガスのパイプ敷設問題があった。ガス化がなされる以前、冬場の暖房は薪に頼っており、 朝5時に起床してペチカに薪をくべ、暖まるまでには大部時間がかかったという。気温は零下40度まで下がることがあるので、住民生活の改善にとって最大の 問題が暖房であったのもうなずける。タタルスタンでは、ガス化はほぼ10年前に完了しているが、当時の住民負担はほぼゼロで、すべてが共和国財政から支出 されたという。チンキ村で当時村長であったサイノフ氏によれば、全村のガス化は、村内のテリトリーを分割して、6社の請負業者に工事を委託し、それぞれが 郡と契約を結び、工事を進めたという。設計が途中まで進んだところで、共和国側の思惑でガス管が地上型から地下型に変更されるなど、終始、プロジェクトは 共和国、そして郡の強いイニシアチブで進められたようである。村の役割は、末端での工事業者との連絡・調整という、共和国や郡の「代理人」としてのもの だったようだ。前村長のフィティホフ氏を訪問した際、彼が在任であった期間中に成し遂げた仕事について聞いたが、投入費用の大きな「功績」についてはすべ て郡より上のイニシアチブで、上の財源を用いて始められており、その際の村長らの「功績」とは、やはり上の要請に応じて実施レベルで、実務家として働い た、ということであった。村長ら自身がイニシアチブを取ったのは、道路脇の泉から飲み水を汲みやすくするために屋根と壁を付けるなど、投入金額の非常に小 さい項目についてのみだった。
そもそも、ロシアの村が「地方自治体」となってから、税源が保証されたかわり、村レベル自治体の財政力では明らかに実施できない業務、たとえばインフラ整 備のような領域があることが、自治体自身にとってもはっきりと見えてきたわけである。前村長が述べた言葉を借りれば、「現在のシステムは自主性が高まった 反面、村レベルではいつも危機的状況となっている」のである。村レベルのリーダーは、自らのイニシアチブを発揮して新しいことを始める余地は小さく、その 代わり、州や郡がイニシアチブを取って始めた事柄について、上と密接な連携をとりながら、その末端における実施機関として働く側面が強くなっているよう だ。ロシアの「村」レベルは、すぐ上の郡との関係が密接で、さらに財政的には州レベルや連邦レベルに依存せざるを得ない位置づけにある。村長を郡に集めて の会議は、週1回という頻度で開かれるという。また筆者らがカムスコエ・ウスチエの郡長と知り合うことになった、郡長を交えての住民集会も半年に1回ずつ 開かれる。これだけ頻繁に郡長と接触していては、村リーダーの側も郡の意向を無視して独自に行動することは難しいだろう。
以上のような印象を受けたのは、もちろん、筆者のフィールドである中国のコミュニティ・ イシューが、村レベルや、さらにその下の村民小組レベルや集落単位の自助努力に委ねられる度合いが高いからである。伝統的に「天は高く皇帝は遠い」中国で は、上級政府からの政治的干渉は基本的にピン・ポイントである代わりに、財政的な面でも政府からの補助金は重点投入方式で、したがって「重点」以外の村は 「自力更生」で何とかしなければならない。そこで逆に、コミュニティ・リーダーのイニシアチブや、コミュニティ内部資源の動員が、コミュニティの命運を分 ける重要な条件となりやすいのである。実際に、コミュニティ共有財産の豊富な沿海部のコミュニティと、そうでない内陸部のコミュニティでは、平均的な財政 規模に十倍程度の開きがある。
ここで動員される「資源」とは経済的なものに限られない。ロシアでは今回訪問したどの村でも「年金生活者」が住民人口のかなりの部分を占めていたが、中国 の農村にはそもそも年金制度が存在せず、老人の扶養は息子や娘たちの間で分担されている。そこで、老親の扶養義務を履行しない子供たちに対しては、コミュ ニティの側がそれを「親不孝だ」と指摘することで世論圧力をかけることになる。コミュニティが共有する「規範」という資源が動員されることで、老人扶養問 題は国家の年金に頼ることなく解決されうる、ということである。
旅の終わりに
こうしてみると、ロシアでは、少なくとも中国的な意味合いでの「コミュニティ・ガバナンス」は存立の基盤を持たないように見える。土地と農業の縛りから自 由であり、都市との相互浸透がみられ、文化レベルが高く、コスモポリタン的人材が豊富で、教会があり、政治的・財政的には政府に依存するところの多いロシ アの農村コミュニティは、実際のところ、どのようなガバナンスを展開しているのだろうか。
あと一週間ほどチンキ村に滞在できれば、その一端が垣間見えたかも知れない。が、残念ながらここで時間切れである。9月14日の昼食後、我々はカザンから の迎えの車で村を後にし、当日の夜にはもうモスクワ行き夜行で車中の人となっていた。
今回、「前提」のまったく異なる世界に飛び込んだことで、逆に中国や日本など、アジアの農村を成り立たせている「前提」が余計クリアに見えてきた気がし た。そういう意味では比較研究の醍醐味を味わわせてもらったことになる。はやくも「次の比較の旅は何処へ...」などと、ウォッカで意識がかすんでいく頭 で考え始めるのである。