地球上のほとんどの人は日本を良く知っていますが、トゥヴァを知っている人はごくわず かです。そのため、地図で日本列島をわざわざ探すには及びませんが、トゥヴァを見つける のは簡単ではありません。
トゥヴァはアジア大陸の真ん中に位置し、面積は17 万5,500 平方キロメートル。人口31 万人(2002 年国勢調査)。南側の国境でモンゴルと接する。1911 年まで清の支配下にあっ たが、清の崩壊後はロシアの保護下に入る。1921-1944 年トゥヴァ人民共和国。1944 年 10 月、ソ連邦に編入され、1991 年ソ連崩壊後、トゥヴァ共和国としてロシア連邦の構成 主体となる。
以上の情報が与えられれば、大きな世界地図のなかからこの小さな共和国を見つけ出すの が少しは簡単になるでしょう。
センターのシンポジウム・レセプションにて
向かって右から2人目が筆者 |
日本と聞いて誰もが連想するのは、すばらしい自動車、エレクトロニクス、コンピュータ 技術、武士道、相撲、生け花、茶の湯、庭園などでしょうか。しかし、「トゥヴァとは何ですか、 どんなものが有名ですか。」と一般人に質問したとしても、まずまともな答えは得られない でしょう。そして、「トゥヴァは次 の3つのものを誇っています」と 答えられるのはよほどの物知りぐ らいでしょう。ちなみに、3つの もののうち、1つ目は古切手です。 トゥヴァ人民共和国時代に発行さ れた切手は後に非常に稀で価値あ るものとされ、収集マニアの垂涎 の的となって高値が付けられてい ます。2つ目はその稀有な能力で 有名になったシャーマンです。彼 らは未来を予言したり、過去を視 たり、雨を呼んだり、降雪を止め たり、霊魂と交信したり、灼熱し た鉄を舐めることができるのです。 また、自分の体に短刀をつきさしてもケガひとつしません。3つ目はトゥヴァ伝統音楽の特 別なジャンルである、喉歌です。専門家によるとその技法はきわめて複雑で、外国人を含む 多くの人が、その名人芸の習得を試みましたが、ものにするのは今のところ難しいようです。
トゥヴァ人の相撲と日本人の喉歌
日本とトゥヴァは一見何のかかわりもない、お互い遠く離れた国々のように思えます。何 よりもトゥヴァは外国からの列車の乗り入れが無く、航空便の運行も途切れがちで、外国と の接触がさかんとは言えません。しかし、それにもかかわらず日本とトゥヴァの結びつきは かなり以前から確立されており、ますます発展しつつあります。
トゥヴァでは日本と何らかの関わりのある3人のトゥヴァ人がよく知られています。まず 1人目はトゥヴァ・ドラマ劇場のソ連邦人民芸術家、マクシム・ムンズク。彼は日本人の高 名な映画監督・黒澤明の映画『デルス・ウザーラ』で、主役を演じました。
2人目の地位を誇るのはアヤス・オユンです。1990 年代の初め、そのときまだ18 歳だっ たアヤスはパスポートもビザもお金も持たずにトゥヴァから日本への旅行をやってのけたの です。前代未聞の出来事だったので、多くのロシアの新聞が記事にしました。東京の成田空 港に着くと、この若者は、航空券も持たず不法に国境を越えた旅行者として警察に引き渡さ れました。取調べにおいて彼は、子どもの頃から日本に行くことを夢見ており、とうとうそ の宿願を実行に移すことにしたのだ、と率直に告白しました。日本政府はこの不法入国者が 未成年であり、ひたむきに「日出ずる国」に惚れ込んでいることに好感をもち、経費を負担 して若者を故国へ送還することに決定したのですが、その際、次回は必ず合法的な手段で日 本に来るように、と彼から約束を取り付けたのです。アヤス・オユンはほどなく日本に戻り、 京都に住んで日本語を学び始め、「宿願の国」に10 年間住み通しました。現在この「日本のトゥ ヴァ人」は祖国に戻っており、トゥヴァ社会で自分の居場所を模索中です。ともあれ、トゥヴァ の人々の多くは、彼が昔とった行動を肯定的に捉えています。人々は心から彼が果敢に目的 の実現を目指したことに感動したのです。
日本を知らしめることに寄与した3 人目のトゥヴァ人は、アヤス・モングーシュ。相撲の 選手で、ヨーロッパ大会のチャンピオンです。彼はトゥヴァにおける相撲の創始者とみなさ れています。なぜなら彼の後に続こうとする少年達の数は、年を追うごとに増加しているの ですから。
トゥヴァにおいてよく知られた日本人は時期に よって異なります。もっとも初期に名を知られたの はジャーナリストの鴨川和子さんです。1980 年代初 頭のトゥヴァは外国人にとって完全に閉ざされた地 域だったのですが、彼女は奇跡的に入ることに成功 し、クズル市の研究所の協力を得て民族学の分野で 学術調査をおこない、トゥヴァの資料を用いて執筆 した論文で博士候補号の学位を取得した最初の日本 人となりました。彼女の学位論文のコピーは日本― トゥヴァ間の学術交流の証拠としてトゥヴァ人文学 研究所の書庫にきちんと保管されています。
1990 年代の終わりごろ、モンゴル研究者として有 名な田中克彦教授がたびたびトゥヴァを訪れました。 時代が変わったので、鴨川さんの時のように公安機 関の厳しい監視を意識することなく、彼は自由に国 内を動き回り、現地人と交際することができました。 彼は知的な会話やすばらしいユーモアのセンス、粋なお世辞で特に女性たちに人気があった ようです。記者たちは彼のインタビューを取ることを名誉なこととみなしていました。ラジ オとテレビの最新ニュースは次のフレーズで始まったものです:「今日、日本の東京の有名な 田中教授が定期的学術調査のためトゥヴァを訪れました」。
浴衣を着てくつろぐ筆者
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3人目は、2000 年初頭からトゥヴァに「住民登録」したナオキさんと言う方です。この若 者はすこぶる自然にトゥヴァ社会に溶け込んだので、人々は彼のことを「日本のトゥヴァ人」 と呼んでいます。彼は外見上何らトゥヴァ人と変わることがないうえ、トゥヴァ語の自在な 会話力を身につけました。ナオキさんは生物学者で、トゥヴァの動植物の研究をしている関 係上、人里離れ文明から遠ざかった、自然に隣接した寒村にしばしば滞在します。
今年、私は幸運なことに、日本―トゥヴァ間の学術交流の一端を担う光栄に浴することに なりました。2年続けて北海道大学スラブ研究センターの外国人研究員プログラムに応募し、 ついに日本に行きたいという長年の夢を実現させたのです。日本の研究者と交流して過ごし た3ヵ月間は、非常に有益で実り多いものとなりました。私がここで得た物事について熟考し、 理解するにはまだ少々時間がかかることではあるのですが。正直言って、センターの方たち がトゥヴァについて本当に良くご存知だったのが、驚きであり、うれしいことでした。ここ で私はある日本人について教えられました。その方は東京在住で、何年間か真剣にトゥヴァ の喉歌を修行し、一定の水準にまで達することができたというのです。こんなことは予想も していませんでした! トゥヴァの娘である私にとって、これはほんとうに思いがけない「プ レゼント」です。日本人の中から喉歌の名人が出てくるのも、そう遠くない未来のことかも しれません。
現在、トゥヴァの人々はロシア連邦の政治家として活躍する2人のアジア人をとても誇り にしています。ロシアでもっとも活躍中の大臣と目される、現ロシア非常事態相のセルゲイ・ ショイグは父方がトゥヴァ人です。また、有名な女性政治家のイリーナ・ハカマダは父方が 日本人です。ショイグ氏とハカマダ氏の間には、政治上もプライベート上も何のあつれきも ないどころか、むしろお互い好意を抱いているということが、おびただしい報道によってよ く知られるところです。なにせ、ロシアの政界では、アジア系の人間はそんなにいないので すから。
トゥヴァ人の目から見た日本
私はトゥヴァ人として責任をもって断言しますが、トゥヴァ人は日本に対して非常に強い あこがれを抱いています。なぜなら日本は経済大国であり、人種的にトゥヴァ人と同じくモ ンゴロイドに属するからです。トゥヴァ人にとって日本は最もエキゾチックで謎めいた国の ひとつでしょう。ユニークな文化、独特な響きと複雑な漢字が特徴の日本語、日本人の独特 の礼儀作法とふるまい方。それらが日本をかぎりなく遠い、理解不能な、とっつきにくい国 にしているのですが、またそれ故に並はずれて魅力的な国にもしているのです。この国へは、 普通の人もビジネスマンもアーティストも政治家も運動選手も巡礼者も、あらゆる人が訪れ たがります。そして興味と魅力のつきない文化と生活の、たとえ片鱗にでも触れたいと願い ます。
1980 年代には、日本女性の着物姿や水着姿が写った鮮やかなフォト・カレンダーが、クズ ル市の多くのアパートの壁を飾っていました。いったいどこから人々は物不足のソ連時代に それらのカレンダーを手に入れたのか、未だにナゾは闇につつまれています。私個人は鴨川 和子さんにカレンダーをプレゼントされ、次の年になってもカレンダーを壁に貼ったままに しておいたのを憶えています。それほどそのカレンダーに写っている女たちは美しかったの です。トゥヴァ女性たちにとって、それは何よりも広く行きわたって入手可能な模倣のため のお手本でした。そのころから日本女性こそが、アジア女性の美の基準とみなされるように なりました。トゥヴァ女性が日本人になぞらえられると、それは単なるお世辞ではなく、彼 女が本当に美人であることの証しなのです。「日本人のようなトゥヴァ女性」―トゥヴァでは 美人をこのように表現します。
1970-80 年代、ソ連で一番有名な日本女性は女優の栗原小巻でした。彼女は2本の日ソ合作 映画―『モスクワわが愛』(アレクサンドル・ミッタ監督)と、『白夜の調べ』(セルゲイ・ソロヴィ ヨフ監督)―で、主役を演じました。ソ連のスクリーンに登場することで、小巻さんは全ソ 連のアジア系女性がかくありたいと願う理想の日本美女のイメージを、ますます確固たるも のにしたのです。私はそのころ学校に通っていましたが、これらの映画の封切後クラスの女 の子全員が栗原小巻の髪型にしたがったのを憶えています。私も例外ではありませんでした。
今年日本に来て、テレビにまさにその栗原小巻が出ているのを見ました。彼女はほとんど 変わっていませんでした。私の世代のロシアの観衆だったらすぐに彼女だとわかることでしょ う。彼女を見たとき、わたしは子ども時代、いかに日本に行くことを強く夢みたか、どんな に芥川龍之介や安部公房や大江健三郎を読み耽ったか、どんなに俳句や短歌に夢中になった かを、ありありと思い出しました。ほんとうに幸せなことに、若かりし日の夢は実現したの です。
東へ駆ける騎士
トゥヴァの現在の国家シンボルの一つは次のような意 匠です。
紋章の水色の背景に、民族衣装をまとった馬上 の騎士が朝日の光線に向かって走る姿が描かれており、 紋章の下部にはトゥヴァ(Тыва)と記されています。ち なみにソ連時代の紋章にえがかれた騎士は東ではなく西 を向いており、その理由はイデオロギー的に説明されて いました。東方には、トゥヴァとは何の共通点もない帝 国主義国家の日本が位置しているため、騎士のまなざし は偉大なロシアの位置する西方へ向いているのだと。ソ 連の崩壊後、騎士は自分のまなざしを再び東方へ向けた のです。トゥヴァ人は古代から、この、日の出の最初の光が射してくる方角を尊んできました。 太陽は大きな日本も小さなトゥヴァも、あまねく照らします。
追記:クズル市中心部の、私が勤める研究所の向かいの建物に、「日本語の通訳・翻訳やり ます」と書かれた看板を、最近見かけました。はじめはナオキさんが会社でも始めたのかと 思いましたが、日本語を完璧にマスターしたトゥヴァ人の若者がいるのだ、ということが判 明しました。トゥヴァの日本への関心は、今も尽きることはないのだ、ということを私は悟 りました。
(ロシア語から大須賀みか訳)