与那国の海 美しい海岸線が続く
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日本最西端の島、与那国。人気テレビ ドラマで一躍脚光を浴びているそうだが、 テレビのない筆者は何の予備知識も持っ ていなかった。しかし、突然「ユーラシ ア秩序の新形成:中国・ロシアとその隣 接地域の相互作用」(科研リーダー・岩下 明裕)プロジェクトの一員としてこの南 国の島を訪れることになった。このプロ ジェクトでは国境を閉ざされた場として ではなく、交流の場として捉えなおすこ とで、成長著しいが不安定でもあるユー ラシア世界の新秩序形成を観察しようと 試みている。おりしも与那国で開催が決 まっていた日本島嶼学会(会長:嘉数啓琉球大学副学長)年次大会にあわせて、この科研の 趣旨に賛同した国境の3つの島を抱える自治体(根室市、対馬市、与那国町)のリーダーが、 胸襟を開いて話し合う「国境フォーラム」が開かれることになったのである。与那国はもち ろん沖縄も初めての筆者にとり、南の海洋空間に目を向けるという点でたいへん勉強になっ た。ここで若干の印象を記す次第である。なお、次号により現地の実態に肉迫した(台風に 接近した)荒井幸康氏のレポートが掲載される予定である。そちらも楽しみにしていただき たい。
旅の始まり
9月14 日、すでに秋の気配漂う札幌を立ち、与那国島に向かった。台風11 号の影響によ り東京で一日足止めを喰らい、朝6時台というとんでもなく早い飛行機で那覇へ向かったの が、翌15 日。その後は、もとの旅行日程に復帰して、国内線ターミナルになぜかデューティー フリーがある那覇空港から石垣を経由して、無事与那国空港に正午過ぎには降り立った。第 二次大戦の戦記などで読む島伝いの南下を思い起こす。飛行機からみる石垣島は拓けており、 後から聞くと人口は5万人近いという。山猫で有名な隣の西表は対照的に森に覆われている。 日本最西端の飛行場、もとい島で飛行機を降りるとすでにそこは南国そのものの国境の島で あった。
宿の迎えの車に乗り込んだのは、筆者のほか、初老の男性二人と若い女性だった。男性二 人は地元の人の風情だが、言葉は まったくの標準語である。後から 聞けば二人とも関東の人で、一人 は定年後に島に移り住み、宿を手 伝っており、もう一人はリピーター の客人だという。後ろの席に座っ た女性は携帯電話で学会の段取り について尋ねている。午後に発表 を控えているそうだが会場も変更 になったなど情報が錯綜していた。 ちなみに北海道から来たというと、 荒井さんって知っていますかとい きなり尋ねられて面食らう。実は このときはまだセンターの荒井幸 康さんが与那国にやってくること も知らなかったため、一瞬何の話かわからなかったが、台風の影響で石垣島宿泊を前夜余儀 なくされた学会参加予定者が石垣島ですでに一杯やっていたらしい。島という空間の持つ線 と人をつなぐネットワーク性を早くも体感することになった。
与那国の民家
邸宅内の石垣と魔よけの獅子(?)がユニーク |
島嶼学会・国境フォーラム
はじめて参加する島嶼学会は、各自の発表ネタは見るも聞くも新しい。とはいえ「辺境」 に関心を持ってきた筆者の興味を駆り立てる報告が相次いだ。また、実践的な研究について の話が多く、南洋諸島の開発と伝統の相克、離島医療の最前線などは大変勉強になった。岩 下科研のメンバーでは、北九州市立大学の田村慶子氏が「“リトル・アセアン”の地域協力~ 2つの『成長の三角地帯構想』をめぐって~」というタイトルで東南アジアの地域協力の進 展とその問題点の話をされた。学会員の関心を強く惹く内容であり、かつ一部アフリカに関 する報告などを除いて、今回は南洋諸島と日本に事例が固まりがちであったため、とても新 鮮な内容に思える。アセアンについて先駆的な業績を残されている嘉数会長が発表後に声を かけられていたのが印象的であった。
国境フォーラムは、対馬市長の欠席が残念であったが、代わりに参加された山田吉彦氏(日 本財団、なんと日本最東端の南鳥島まで滞在経験あり!)の活躍もあり、たいへんな盛り上 がりであった。冷静に生活の場を守るという観点から国境や島の生活を話しあおうという姿 勢が共有されたが、とかく宗教やイデオロギー、民族怨念の対立といった形容がつきがちな 地域に関わるものにとり、個人的にも貴重な体験となった。
思えば、筆者が勉強してきた中東・イスラーム史の分野でも、家島彦一早稲田大学教授の 海洋研究が名高いし、モンゴル軍に追われてカスピ海の孤島で死去したホラズム朝のジャラー ルッディーンの悲話や、世界で湾岸(ガルフ)という言葉を独占するかのようなペルシア湾 岸における現代イラン人憧れのキーシュ島(大挙してバカンスや買い物に出かける)など、 海洋と島嶼空間はユニークな位置を占めている。また、かつて岩下明裕編『国境:誰がこの 線を引いたのか?』の中で、比喩的に諸文明の辺境であり架橋である「陸の孤島空間」とし てのコーカサスの特徴について触れたこともある。これらは連想に過ぎないとはいえ、学会 でも「閉じられた空間」であることが最大の特徴である島嶼空間を開かれたネットワーク結 節の場として捉えなおそうとする問題意識が共有されていたように思う。与那国で開催され た意味はまさにこの点にあったのであろう。
与那国の人のおおらかさ
与那国島も島を挙げて学会とフォーラム参加者を歓迎してくれた。島を一周すると最西端 の久部良港がみえた。かつて「密貿易」(復興貿易と呼ぼうとの提案がなされていた)で栄 え、最盛期には繁華街が人混みでまっすぐ歩けなかったという場所である。今回、科研リー ダーには「ナツコ」(奥野修司著『ナツコ:沖縄密貿易の女王』文藝春秋刊)だけは読んでき てほしいといわれ、本屋に走った。そのあまりに濃い内容に歴史研究者として心を打たれた。 歴史は人が作るものであり、地道にテーマを発掘することの大事さをこの本は教えてくれる。 沖縄の人は、戦前はフィリピンに出稼ぎに行くことも多かったという。たしかに地図を開くと、 与那国は台湾と石垣島(那覇ではない)の中間に位置し、沖縄本島から見てもマニラも東京 より近いかもしれない。灯台下暗し。日本という国の空間は外に向かって開かれているのだ と実感する。
懇親会場に向かう途中、うろう ろしているととても大きな瞳の少 年が人懐っこく話しかけてきた。 那覇の空港から驚いたが、沖縄の 子供たちは本当に真っ黒に日焼け している。お店に入って物色し、 その後で明日も営業していますか と尋ねてみると、おばあちゃんの お祝いをしなければならないから 閉めるんですとか、その後お祝い の話になって話が弾む。宴席では、 近くの席に座る初老の婦人と話す と、なんと別海のご出身という。 北海道から30 年前に石垣島に家族 で移住したというご婦人の話を興 味深く伺った。移住当初は「日本人」と呼ばれていたという婦人はすっかり南国に溶け込み、 近年は島の人を連れて出身地北海道との交流もすすめているという。
懇親会で披露された地元の勇壮な踊り
女性の踊りや音楽にも一同酔いしれた |
二日目の懇親会では、たまたま地元の人が多い席に紛れ込んだ。与那国のみで醸造されて いる60 度の泡盛を痛飲し、カラオケで沖縄の唄を皆で熱唱する。聞けば町長にはロンドン大 学で物理を勉強した後、沖縄民謡の研究家になったイギリス人の婿がいるという。開放性と インターナショナルはおおらかな風土とあいまって島の個性を形作っている。
過酷さ
しかし、沖縄はもちろん日本現代史の暗部である地上戦の舞台となった場所である。おり しも教科書検定問題が一日遅れで届く琉球新報の一面を飾っていた。郷土史家として講演さ れた島の長老は本土復帰前には共産党の闘士として東京で活躍したという。沖縄という島嶼 空間の政治性を強く自覚した。「ナツコ」にも米軍を嫌う主人公の姿が描かれていた。カラオ ケでも復帰運動のシンボル歌「沖縄を返せ」が歌われた。復帰(1972 年)前年生まれの筆者 は恥ずかしながら初めてこの歌を聞いたが、近年、その歌詞の問い直しもなされるようになっ たという。アイデンティティとナショナリティの問題の難しさを痛感した。復帰後ある日突然、 車が左ハンドルから右ハンドルに変わったという話を聞くにつけ、国境の生活は政治に直結 していると強く感じざるをえないのだ。今回は、沖永良部島から発信を続ける前利潔氏にそ の発表も含めて特に多くのことを教わった。
日本最西端
天気のいい日には台湾の山々がよくみえるという |
島の過酷な自然環境も忘れてはならない。今回 は、なんともうひとつの台風(12 号)にも襲わ れたが、与那国空港に飛行機が降り立った瞬間、 光景を見ていた食堂は一斉に沸いた。与那国は飛 行機が泊まれない空港なので、飛んできたという ことは石垣まで戻れることを前提として飛んでき たはずだというのである。例外的に人口増加がし ばらく続くとされる沖縄でも一極集中の傾向は顕 著で、何より人口が1700 人を切った(戦前の人 口の半分以下)与那国は「縮小」する日本の縮図 でもある。ここではかつて故千野栄一先生にグル ジア語の勉強会で伺った話を思い出す。いわく、 ソ連時代、山の上のほうに舗装道路が開通すると ダゲスタンでは言語がひとつ消滅してしまう。こ の100 年ほどの人類が積極的に「解体」してきた 文化の多様性は未来への豊かさの担保であり、守 り抜かなければならない。しかし、そのために何ができるであろうか。大きな課題も突き付 けられた。短い滞在ながら、多くの問題を共有できた日本島嶼学会と国境フォーラムの組織 者の各先生方と裏方のみなさんに心から感謝の言葉を申し上げたい。
さて、初めての沖縄旅行には、お土産品の紛失という落ちがついてしまった。なにしろ帰 りも乗換えや足止めなど不測の事態に見舞われたので、思い出すことも追跡も容易ではな い。那覇や羽田は各航空会社や空港運営会社などいろいろなところに電話しなければならな い(もっとも座席まで記録して遺失物を保管しているあたりはさすが日本である)。まさか与 那国で忘れたわけはないよなあと思いながら、最後にあきらめ半分で電話した与那国空港で、 なんと見つかった!後日、届いた荷物には、地元の中学生が空港カウンター近くに残されて いた袋を見つけて届けてくれたことなど記された手紙と与那国馬の絵葉書まで同封されてい た。しかもあきらめていた焼酎入りケーキが思いのほかおいしい。最後の最後まで島の人の 心遣いに酔わされた与那国行となった。