スラブ研究センターニュース 季刊2007年冬号 No.108 index

アメリカ・ロシア滞在雑感

前田弘毅( センター)

 

筆者は、大学教育の国際化推進プログラムに採択された「ロシア・コーカサスにおける 人間の安全保障」研究遂行のため、2006 年10 月半ばより、海外出張中である。今回の在外 研究では、これまで筆者にとって比較的なじみの薄かったアメリカとロシアに関して見聞を 広め、現地の研究者と交流を深めることが大きな目的の一つである。その中間報告もかねて、 現地滞在の感想を弱冠記すことにする。

《アメリカ》

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ISEESSの入居している建物(カリフォルニア大学バークレー校)

アメリカには、10 月半ば から11 月半ばまで、約一ヶ月 滞在した。この間、主にカリ フォルニア大学バークレー校 スラブ東欧ユーラシア研究所 (ISEESS)に所属して研究生 活を送った。11 月に入っても、 日中はTシャツ一枚で過ごす ことができるカリフォルニア の陽気に戸惑いつつも、充実 した時間を過ごすことができ た。

スラブ研究所では、「ソ連・ ポストソ連研究」プログラム の責任者を務めるエドワー ド・ウォーカー氏にお世話になった。バランスの取れた研究者で、目配りの利く人である。 主に現代問題について意見を交わした。ただし、研究所自体はこじんまりとしたもので、時 折開かれる研究会に顔を出す以外は、図書館を利用しつつ、各研究者と個別にアポをとる必 要がある。ロシア文学研究者(Imperial Sublime: A Russian Poetics of Empire の著者)で、近年 ロシアとグルジア文学の関係について興味深い論考を相次いで発表しているハーシャ・ラム 助教授との交歓の中で、研究上の大きな刺激を受けた。インド出身で、オーストラリアでイ タリア文学とロシア文学の学士号を取得した後、プリンストンにおいて博士号を取得した氏 は、グルジア語はおろか、ペルシア語すら流暢に話す。まさにポリグロットを地で行く研究 者を目の当たりにして、アメリカの奥深さを感じた。また、コーカサス言語の専門家として つとに知られるジョハナ・ニコルス女史にも、特に北コーカサスにおける言語環境について、 詳しい話をうかがうことができた。

このように、アメリカにおいても決して数が多くはないロシア辺境・コーカサス研究者を 複数有するバークレーは、実はアメリカにおけるコーカサス研究の中核拠点に育ちつつある。 また、ライバル校(?)スタンフォードは、近年、ロシア・イスラームに関して目覚しい活躍 を見せているロバート・クリュースを迎えた。カリフォルニア大学自体は、当然アルメニア 研究のメッカですべての分校にアルメニア専門家(管見の限り皆アルメニア系)を擁している。 スラ研長期滞在中に帝政期のコーカサス宗教マイノリティー研究に取り組みだしたネヴァダ 大学のポール・ワース助教授も、筆者の滞在中にバークレーで講演し、旧交を温める機会を 得た。ワース氏はユーリ・スリョーズキン教授の主催する院生対象のゼミでも講義を行ったが、 事前に30 分ほどでピザとワイン(!)が振舞われ、その後、各自が読み込んできたワース氏のペー パーを批評する。熱い議論は2時間を超え、ここでは素直に圧倒された。切磋琢磨する競争 社会アメリカの強さを感じた瞬間である。

このほか、バークレー滞在中には、グルジア語を教授しているミヘイル・チコヴァニ、ショ レナ・クルツキゼ夫妻にたいへんお世話になった。高名な民話研究者を父に持ち、グルジア 科学アカデミー歴史民俗学研究所の元民俗学部門長であり、70 年代からグルジアの山岳部で 民俗調査を行ってきたミヘイル氏と、インド留学経験もありアメリカ先住民などにも詳しい ショレナさんには、様々な興味深いお話をうかがうことができた。また、自然散策をこよな く愛するご夫妻は、周辺の自然スポットを案内してくださった。あるとき、金角湾などベイ を一望する丘の上で、夕陽と朧かに浮かぶ月を同時にみるという絶景にも遭遇した。このとき、 偶然、バークレーで日本美術を講ずるグレゴリー・レーヴィン助教授(i>Daitokuji: The Visual Cultures of a Zen Monastery という大著をものしている)と知り合う幸運にも恵まれた。聞き なれない外国語で会話する東洋人を目にして、氏が何語で話しているのか訪ねてきたのがきっ かけであった(専門家に向かって、ミヘイル氏は冗談で「日本語で話しています」といって しまったが)。逆にサンフランシスコでグルジア料理の惣菜を売っている店を夫妻とともに訪 れ、しばらくしてから店員が目を丸くしたことも愉快な思い出の一つである。

アメリカでは、バークレーの他、ボストンとワシントンDC に短期間滞在した。ワシント ンではおりしもAAASS 年次大会が開かれており、多くの研究者の知己を得ることもできた。 特にコーカサスと銘打たれたセッションでは、ダゲスタンのスーフィー教団研究で著名なミ ハイル・ケンペルの司会の下、ロシア帝国、オスマン帝国、イラン政権の狭間としてのコー カサス史における人の移動に関して、プリンストンのマイケル・レイノルズ、スタンフォー ドのクリュースらがいずれもたいへん興味深い報告を行った。彼らは、いずれも筆者とほぼ 同年代であり、大きな刺激を受けた。Russia’s Orient の編者ダニエル・ブラワーが質問を発し ていたが、本の出版から丸10 年、アメリカの中央ユーラシア研究は、急速に深化の度合いを 増している。また、ハーバードでは、帝政ロシアの政治家として高名なロリスメリコフのトビ リシ・コネクションとして筆者の注目している家系の子孫にインタビューすることもできた。

このように、研究上大きな収穫を得たアメリカ滞在であったが、その他にもいろいろと考 えさせられることが多かった。僅か一月という短い滞在であったが、西海岸を中心にアメリ カで見聞した複雑な「国際的」体験を日本国内で経験することは困難であろう。特に民主党 の牙城として知られるバークレーは、多民族空間を(シニカルにいえば)ハッピーに現出し ている感もある(日本以上の物価高で勝ち抜ける人が享受する社会、カフェでノートパソコ ンを置いて皆外に電話をしにいくような安全・安心感)。そこでは、イラク戦争はほとんど影 も形も感じられなかった。その一方で、新聞でも、CNN などのニュースメディアでも、毎日 のように戦死者のニュースが続いている。

ここで、多少危惧の念を筆者に抱かせたのは、報道の姿勢である。ある有名なニュースプ ログラムでは、「いかにわれわれが憎まれているか」「いかにイスラーム教徒の間ではアメリ カを憎悪するプロパガンダや教育が横行しているか」をしきりと強調していた。たしかにア メリカが閉じこもってはたいへんな事態となろう。しかし、こうした「積極関与」の姿勢にも、 (中間選挙の前後でとりわけ言説が先鋭化していたと思われるが)かねてから指摘されている ような問題点が垣間見える。「他者不在」ないし「他者の乖離」と感じられる状況はこの後訪 れたロシアでも少なからず感じたことである。

滞在中には、まさに西海岸の民主党を代表するペロシ上院議員が初の女性下院議長に内定 し、女性大統領候補や、有力若手黒人議員、初のイスラーム教徒議員、劣勢の中でイラクへ の増派を訴える有力共和党議員などが次々と話題に上るアメリカは政治の季節を迎えつつあ り、たとえコーカサスを研究していてもその動向には目を配るべきであると感じた。余談だが、 ボストンに到着した日に松坂大輔投手のボストン・レッドソックス入りが決まり、発音しに くそうにその名を連呼する放送も忘れがたい。「多民族」社会と「一枚岩」国家のジレンマも、 次に滞在したロシアにも共通するトピックであろう。

《ロシア》

陽光溢れるカリフォルニアから、あわただしく東海岸を回った後、フランクフルト経由で モスクワに向かった。乗り継ぎ先のドイツまで、感謝祭の休暇を故郷で過ごそうとする大量 のインド人に座席が埋めつくされていたのには驚かされたが、ロシアへはそれほど混んでは いなかった。もちろん、アメリカで働くロシア人の数は相当数に上ると考えられる。また、 英語圏のインドと比較することにそもそも無理があるのかもしれない。しかし、現在の異常 なまでの景気のよさが、旧ソ連圏に一時蔓延したように思えるアメリカ志向をすでに打ち消 しているようにも思われた。

モスクワでは、ロシア科学アカデミー東洋学研究所に籍を置くことになった。特にダゲス タンなどのイスラームについて詳しいウラジーミル・ボブロヴニコフ氏に、公私ともどもお 世話になっている。氏は、40 代前半ながら、昨年刊行されたCambridge History of Russia 第 二巻で、帝政期のイスラーム教徒について優れた概説を著し、その実力を世界に知らしめ た。困難な研究環境の中、前述のケンペル、クリュース、ワースら欧米の最新の研究成果も 吸収しながら、地の利を生かして優れた論考を次々に発表している。折りしも、ソ連ではブ レジネフの生誕100 年がノスタルジアもあって大きな話題を集めていたが、「ソ連磐石」と誰 もが信じ、現在も懐古の対象となる1960 年代でも、ダゲスタンではアラビア語でイジャー ザ文書が発布されていたことには素直に驚いた。かつての雑誌の名前をそのまま引き継いだ Кавказский сборник も3号を数え、政治の流れに影響されつつも、ロシアにおけるコーカサ ス研究も体制を立て直しつつある。

また、モスクワでもスラ研OB シュニレルマン博士のつてで、民族学研究所の研究員とも 意見交換をする機会に恵まれた。研究所のアルチューノフ・コーカサス部門長は、驚異的な 記憶力と言語能力の持ち主だが、1997 年に筆者が修士学生であった時に東京でお会いしたこ とを覚えてくださった。所長は、アブハジア出身の二人の研究員を紹介してくださり、4人 でグルジア語で意見交換をすることができた(ちなみにアルチューノフ先生はグルジア出身 のアルメニア人)。特に、ツラヤ先生は、中世グルジアの宗教文献に関する多くの論考を発表 されており、筆者の中世研究でも収穫を得ることができた。筆者は、寡分にして、その研究 を知らなかったが、それは、教授がアブハジアで教鞭をとっていたこととも関係しているの かもしれない。周知のように、グルジアとロシアの関係は、筆者が訪れる直前の2006 年秋に 急速に悪化したが、そもそもアブハジア紛争以降、グルジアとロシアの関係の本当の意味で の正常化の見通しはまったく立っていないのである。

なお、今回の衝突は、グルジア政府がロシア軍人をスパイ容疑で逮捕した件に端を発したが、 グルジア産ワインと天然炭酸水が禁輸となった2006 年の春には(葡萄収穫時期と関連して) すでに対立激化の種は播かれていた。事件は、経済封鎖による「旧宗主国」による締め付け としても注目を集めている。現在までのところ、残念なことに、しわ寄せは(時には特権付 与もあるとしても)、どちらにも正式に所属できない境界民に発生している。筆者の滞在中に も、送還予定で拘束されていたグルジア人婦人が急死するという悲劇が起きたが、この家族 もアブハジア難民(メグレリ人)ということであった。

モスクワは、正教クリスマスを迎えた1月7日現在も、暖冬が続き、雨が降る始末である。 資源高に支えられ、好景気の続くロシアの首都モスクワは、いまや物価世界一ともいわれ、 マロースも到来をためらっているといったところだろうか。建築ラッシュに沸くバブルのモ スクワでは、ガスプロムのボーナス総額が誇らしげに語られ、近隣への資源外交の話題にも 事欠かない。日本のサハリン2プロジェクトも年末に大きな動きがあった。また、ベラルー シのルカシェンコ政権は年末ぎりぎりに妥結したかと思いきや、通過料徴収を宣言して資源 戦争に決着はいまだついていない。グルジアはといえば、アゼルバイジャンのガスに期待を 繋ぎながら、1千立方メーターあたり235 ドルでとりあえずガスプロムとの契約を済ませた。 その場しのぎの対策を採らずに、いわば「正攻法」で応じたわけだが、経済的な裏づけに事 欠くグルジアがそれに耐えうるかは疑問を抱かざるを得ない。国内価格や外国との供給契約 に大きな問題を抱えているロシアは、ここではグルジアの判断を歓迎していることであろう。 なお、激しい宣伝合戦の裏では、ロシア側もグルジアからの軍撤退作業を冷静に進めている。

2006 年末には、トルクメニスタンのニヤゾフ大統領の急死も大きな話題となった。旧ソ連 諸国が正常な隣国関係に収斂するのか、それともかつての「中心」が強い影響力を発揮する 体制へ移行するのか予測は極めて難しい。いずれにしても、手探りで進んできた「関係性」 がソ連の記憶を排した形で改めて「国」ベースで構築されつつあると考えるのは、楽観的に 過ぎるであろうか。無論、華やかさを増す一方の街の外観とは裏腹に地下鉄では物乞いが絶 えないし、テロルも繰り返し報道され、いまだ「瓦解する帝国」の姿を繰り返し想起させて いる点も忘れてはならないと思われる。未承認国家の問題も、時間を経ても一向に落としど ころは見つからず、先鋭化の兆しすら見せている。

これまで記したように、今回の在外研究では、世界を覆う「帝国」アメリカと復権を目指す「大 国」ロシアにおいて活発化しているコーカサス研究の現況を観察することができた。最後に 訪れる予定のグルジアで、再び混沌とする現地の状況をしっかり観察したいと考えている。

なお、末筆となったが、今回の長期出張でお世話になっている各研究機関の関係各位に深 謝したい。また、COE プログラム運営の最中、約半年に渡る長期不在を許可し、快く送り出 してくれたセンターの同僚にも心から感謝の気持ちを表したい。

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