今から5年程前、ロシア・ハバロフスクの経済研究所から、研究者の親子2人が北海道大学経済学部にやってきた。父親のレンジン教授は国際交流基金から、息子のデニスは小渕フェローシップから資金を得ることができたため、日本に滞在することになったのである。
レンジン教授は金融論の専門家で、私と同じくロシアの銀行制度を中心に研究していた(ただ、レンジン教授は地方の銀行活動に焦点を当てていたという点で相違はあるが)。同氏は2〜3週間に1度のペースでロシア語で行われる小さなセミナーを開いてくれた。出席者は、主に経済学部のロシア語を母国語とする留学生で、毎回持ちまわりで自分が選んだテーマを発表した。ちょうどこの頃から旧ソ連からの留学生の数が大幅に増え、日本に居ながらロシア語でさまざまな議論が行えるようになっていたのである。
そうこうするうちに2人の滞在期間はあっという間に過ぎ去り、レンジン親子は、日本滞在中にお世話になったので、是非ハバロフスクに来てほしいと我々に言い残してロシアに帰国した。当時、私はハバロフスクには行ったことがなかったのでちょうどいい機会だと思い、2001年の初夏、経済学部金融論講座の濱田教授とともにハバロフスクに調査旅行に出かけることになった。さらに、この話を聞きつけたスラブ研の望月名誉教授も是非同行したいとのことで我々に合流した。少々古い話になるが、この初回のハバロフスク訪問は以後の同地訪問よりもはるかに印象が深かったため、本エッセイではその時の出来事を書き綴りたい。
我々は札幌から新潟へ向かい、そこからハバロフスクへ飛び立った。ハバロフスクの空港ではパスポート・コントロールの煩雑な手続きなどに濱田教授はうんざりした様子。また、日本より西にあるにもかかわらず、同地の時刻が日本より2時間進んでいることに不思議な顔をしていた。到着ロビーではレンジン親子とともに若手研究者たちが我々を迎えてくれた。ご存知の方も多いかもしれないが、宿泊先は研究所の1階を利用して作られたホテルであり、研究所の資金源となっている。食事はホテルを切り盛りしているアンゲリーナさんが用意してくれた。写真からもわかるように、朝から食事の量が極めて多い。彼女はおかわりはいらないかと食事のたびに何度も聞くのだが、その都度、濱田教授が私に「お前食ってやれ」と言うのである。脂分の多い食事のため、帰国の際には体重が3キロ程増えてしまった。
ボリュームのある朝食 |
若手研究員の女性 |
空港ではサハリン行きの便の出発案内がいつまで経ってもなく、何の説明もまま2時間後にようやく手続き開始のアナウンスが入った。待ちくたびれた後、搭乗手続きのためにカウンターで長い行列に並んだが、我々の番が回ってくると、このチケットは再登録が必要で搭乗手続きができない、別の場所で手続きをするように、と係のおばさんに言われた。具体的な場所を尋ねると、この建物の外の向こう側に柱のある建物があるからそこに行くよう指示された。とりあえず私一人が荷物を置いて空港の外に出るが、柱のある建物とはどういうことなのかわからない。引き返してもう一度係の人に聞いても同じ答えを繰り返すばかり。付いて来てほしいと頼んでも、嫌そうな顔をして取り合ってくれない。粘り強く頼んだところ、おばさんが近くにいた若い男の人に私を連れて行くように言った。3分ぐらい右に曲がり左に曲がり歩いて行くとようやくギリシャ神殿風の建物(確かに柱の付いた建物!)に着いた。カウンターで手続きをお願いすると、そのような手続きは知らない、後ろの事務室で聞いてくれと言われた。そこで、後ろの事務室に行くと、電話で長話をしているおばさんがいた。話し終わるのを待って、手続きはここでするのかと聞くと、よくわからないがまあいいだろうとのこと。もう一度カウンターに戻り、手続きをお願いすると、ようやく重い腰をあげて手続きをしてくれた。すると、荷物をここで受け付けるから、持って来るようにと言われた。出発時間が迫っているため、走って元の建物に戻り荷物を持って来てカウンターに差し出すと、もう荷物の受付は終わったので、荷物はすべて機内に持ち込むように言われる始末。
何とか飛行機に乗ることはできたものの、この件のために折角のハバロフスクに対する印象が悪くなってしまった。ただ、将来もう味わうことができないであろう「ソ連風」扱いを受けたのも悪くはないかと思い直し、今ではよく飲み会などのネタとして披露している(ちなみに、中国人の友人にこのことを話したところ、以前は中国でも似たようなことがよくあったそうである)。
なお、経済研究所の若手研究者との交流は今も続いており、彼らが日本に来るときは私の携帯電話に連絡が入ることになっている。