スラブ研究センターニュース 季刊2005年春号 No.101 index

ウズベキスタン議会選挙監視体験記

宇山智彦(センター)

 

 名うての選挙ウォッチャーである林氏や、ウクライナで「オレンジ革命」を目撃した藤森氏のまねをするわけではないが、私もウズベキスタンで選挙監視に参加してきた。とはいえ、藤森氏のように欧州安全保障協力機構(OSCE)の監視団に参加したのではない。ウズベキスタン政府自らの招聘による「監視」である。この選挙を権威主義体制による単なる茶番と見る立場からは非難されるかもしれないが、私は選挙の内側を見られる貴重な機会と考え、招きに応じることにした。
 ウズベキスタンでは、2003年4月の憲法改正によって、国会(Oliy Majlis)が一院制(定数250人、小選挙区制)から、上院(Senat)と下院(Qonunchilik palatasi)の二院制に変更された。上院は各州などの地方議会の合同会議により地方議員の中から84人が選ばれ、さらに16人を大統領が任命するしくみであり、他方下院は小選挙区制で120人から成る。ただし実際には改憲後も旧国会が任期を全うするために存続し、今回、2004年12月26日の選挙(下院選挙と、上院選挙の前提となる地方議会選挙)で新制度に移行することになったのである。
 憲法改正は、「民主化の深化」「市民社会建設」というカリモフ政権の宣伝の文脈でなされたものである。政治学的にはあまり根拠はないが、「二院制=民主主義」という主張が込められている。しかし国際社会に対する宣伝効果はほとんどなかった。改憲直後の03年5月に欧州復興開発銀行(EBRD)の年次集会がタシケントで開かれ、ウズベキスタンは国際的な認知度をアピールしようとしたが、逆にEBRDから政権の非民主性を批判されてしまう。「対テロ戦争」での協力などによりアメリカとの関係は良好だったが、同年11月のグルジア政変(「バラの革命」)にアメリカの影を見たカリモフ政権が警戒感を強めたことにより、急速に冷却していく。
 それでもウズベキスタンは「民主化」路線の継続を宣伝し、2004年秋には選挙の問題を話し合う国際会議を7つ、立て続けに開催した。「われわれは諸外国の経験を学んでいる」というアピールと言えよう。新しい下院選挙制度の目玉は3つある。第一に、政党からの立候補を基本とした。ただし有権者の「イニシアティヴ・グループ」の推薦で個人が立候補することも可とされた。第二に、各政党からの立候補者の30%以上を女性とすることが義務づけられた。第三に、政党および選挙運動への国家助成が定められた。全体として、政党政治の体裁を整えようという志向が見られる。実際に選挙に参加したのは次の5党である。

ウズベキスタン人民民主党
企業家・ビジネスマン運動:ウズベキスタン自由民主党
国民民主党「フィダカルラル」
社会民主党「アダラト」
ウズベキスタン民主党「ミッリ・ティクラニシュ」

 いずれも翼賛政党であることは言うまでもない。旧国会での第一党は人民民主党だが、今回の選挙で最も(唯一、と言うべきかも知れない)活発に選挙運動を展開したのは、新党の自由民主党である。自由民主党が企業家の利益を代表するのに対し、人民民主党は11月の党大会で勤労者・社会的弱者の党であることを明確化させ、ある種の分担ができたようだ。他方「ビルリク」、「エルク」、自由農民党といった反対派のグループは、政党としての登録を法務省に許されていないので、選挙に参加できない。
 さて、日本からの「監視員」9人は、12月24日に成田空港を出発した。ウズベキスタン大使館から、大使をはじめ何人もの館員が見送りに来てくれていた。監視員の中には、ウズベキスタンでも有名な中山恭子前内閣官房参与・元在ウズベキスタン大使がいる。
 タシケント空港では税関を通らず、VIPルームから入国した。ここで、各人2人ずつの付き添いが出迎えてくれ、以後全日程を共にすることになる。私の付き添いは、タシケント国立文化大学の副学長と、世界経済外交大学の学生である。2人ともフェルガナ盆地の出身で、とても気のよい人たちだった。
 空港から市内のメリディアン・ホテルまで、パトカーの先導でノンストップで進む。ただし最後尾の私の車は、ホテルの敷地に入る時、どさくさに紛れてついてきた車だと思われたらしく、ボンネットの上に遮断機をカタンと下ろされるというおまけつきであった。ホテルの部屋でテレビをつけると、国内チャンネルは選挙一色である。各党のコマーシャルはやや陳腐なイメージ宣伝が多かったが、フィダカルラル党の宣伝で、ウズベキスタンの美空ひばりともいえる国民的歌手、ユルドゥズ・ウスマノヴァ(旧国会の議員でもある)が歌っていたのが印象的だった。秋の一連の国際会議についても詳しい特集が組まれ、出席した日本人研究者や参議院事務局員の姿が映っていた。政党間の大変行儀のよい討論番組では出席者の約3分の1が女性で、候補者の女性枠と対応させる律儀さがいかにもウズベキスタンらしい。政見放送のうち人民民主党の放送では、タジク語、カザフ語などでの演説もなされた。非ウズベク人にも配慮していますというこれまた律儀な演出である。
 翌25日、各監視員は別行動となり、それぞれに特別プログラムが用意された。私は博物館、外務省、戦略研究所などに案内された。外務省では次官と会うというので、日本人がまとまって会うのかと思っていたら、これも私だけのプログラムであった。次官が私に、クルグズスタン(キルギス)で「バラの革命」のようなものが起きる可能性について聞いてきたのは、実に意味深長であった。戦略研究所では研究員たちと話をした後でテレビのインタビューを受けた。ウズベキスタンの選挙が国際基準に則っていて、二院制の導入は民主化の進展を意味するということをしきりに言わせようとする。私は、「先進国の二院制はどちらかといえば身分制のなごりで、日本では廃止しようという議論もある。ただウズベキスタンのような国では地域代表として上院が意味を持つかも知れない」という答をしておいた。このインタビューがどう編集されたのか知りたいところだったが、残念ながら実際の放送は見逃した。
 夕方、中央選挙管理委員会で副委員長から監視員証をもらい、委員長らの会見に出席した。外国人監視員は全部で約200人いるという。夜、飛行機で、私の監視担当地区であるアフガニスタン国境の町、テルメズに向かう。テルメズでは、地元の企業家同盟の役員(建設業)がさらに1人付き添いとして加わった。後で聞いたところでは、この町での宿泊、移動、食事、見学の費用は、民間団体であるはずの企業家同盟が負担したそうである。タシケントでの費用は、文化大学が所属する文化省が負担したようだ。
 テルメズを割り当てられたのは、私にとって幸いだった。テルメズを含むスルハンダリヤ州は、国境地帯というだけでなく、歴史的・文化的にも大変興味深い地域である。古くから定住民文化が栄えた地域で、加藤九祚氏らが発掘する仏教遺跡が多いことで知られる。しかし同時に豊かな草原も多く、20世紀前半まで半遊牧的な生活が残り、叙事詩「アルパミシュ」などの口承文芸もよく伝えられてきた。現在ここに住むウズベク人は、どちらかといえば草原の民の系統を引いており、タシケントなどのウズベク人とは違って、部族的な帰属意識を保つ(大半はコングラト族)。顔立ちもタシケントやフェルガナの人々とは異なる。精悍な感じと言ってよいだろうか。名物料理がタンディル(タンドリー)・ケバブであるあたりは、南アジアとのつながりも感じさせる。

票の記入所と2種類の投票箱、そしてカメラ目線の有権者
 選挙当日の26日午前6時、投票は全国一斉に始まった。しかしわれわれはあまり早起きせず、9時頃からテルメズ選挙区選挙管理委員会と各投票所を訪れた。どこでも、選管関係者はこちらの質問に丁寧に答えてくれる。有権者リストはマハッラ(地区共同体)委員会の資料をもとに、投票所の選挙管理委員が各家を回って50日前までに最終的なものを作ったという。下院選挙と同時に、スルハンダリヤ州議会とテルメズ市議会の選挙が行われ、有権者は3枚の投票用紙を受け取り、一つの投票箱に入れている。投票箱は前面が透明で、残りの部分は木製の、随分立派なものである。それとは別に青い小さな移動投票箱が用意され、投票に来られない病人のために、事前の申請に基づいて選挙管理委員が家庭に持って回る。
 投票所には有権者がひっきりなしにやってくる。10年ほど前、カザフスタンで選挙当日に投票所付近を観察した時には、公式に発表される高い投票率が明らかにデタラメだと分かるほど閑散としていたが、ここでは実際の投票率もそれなりに高そうだった。ただ、投票済み有権者のリストには、家族の代表者が一人で全員分のサインをした形跡が目立った。委員の説明では、サインは一人がしていても、投票は全員がしたとのことであり、実際、家族のパスポートや投票招待状を持ってきた人は、一人一票だとして家族分の投票を断られていたが、それは私の目の前だったからかも知れない。後日タシケントで会った人の中にも、家族に代わりに投票してもらったという人がおり、家族投票が横行しているのは恐らく事実である。また、カーテンで仕切られた票の記入所に、複数の人が無秩序に入っていくこともしばしばであった。
 投票用紙はロシア語やタジク語などでも用意されていると報道されていたが、この選挙区ではウズベク語の用紙しかなかった。住民構成は決してウズベク人一色ではなく、選挙区選管の委員長によればウズベク人60%、タジク人30%、トルクメン人10%、ロシア人5%だそうだが(合計が100%を越えるのはご愛嬌)、非ウズベク人住民でも大抵はウズベク語が分かるのだろう。ある投票所の責任者は若い女性で、付き添いの学生氏は「彼女はタジク人ですよ、彫りが深くて美人でしょう」と言っていたが、この女性もウズベク語で会話していた。
 午後は付き添いの副学長が疲れたと言うので、考古学博物館を見学したり、宿泊所で休んだりして怠惰に過ごす。夕方5時半に投票所回りを再開すると、既にどの投票所も人影はまばらになっていた。有権者の8割方は投票済みということらしい。ある投票所で私が責任者に誘導尋問をして、投票に来ない人にはペナルティがあるのかと聞くと、マハッラ委員会が注意するという答だった(ただし、副学長は「そんなことはあり得ない」と言っていた)。別の投票所では、入っていくと委員らが総立ちで迎えてくれ、記念写真やサインを求められた。監視に来たというよりは、田舎の家でもてなされているような雰囲気である。最後に訪れた投票所では停電というハプニングがあった。15分ほどで復旧したが、投票所の委員が電力管理部門と思われるところに電話して、「日本やタシケントからお客さんが来ているから」(投票時間中だから、ではなく)早く直してくれ、と言っていたのが面白かった。
 午後8時、投票所の責任者が投票終了を宣言し、開票が始まる。投票所で開票するというのは日本人には奇異に見えるかも知れないが、OSCEも投票所での開票を勧めており、恐らくヨーロッパ・旧ソ連ではこちらが標準なのだろう。まず下院、州議会、市議会の票を仕分けする。この作業だけで30分かかる。次に票を候補者ごとに分ける。反対する候補者にマークをつける従来の方式から、今回は支持する候補者にマークする方式に変わり、一部の有権者が戸惑ったこともあって、無効票がかなりある。私の付き添いが、これは有効、これは無効と口をはさむこともあった。私は、口をはさむのは監視員の職務違反だと考え、開票を注視し時々質問するにとどめた。実は投票所には、投票時間中も開票中も、私以外に5〜6人の監視員がいた。各政党の代表者たちである。しかし彼らは遠くに座っているだけで、何もしない。文字通り「お飾り」であることがよく分かる。
暇をもてあます政党代表の監視員たち

 夜10時前、開票は終わった。仕分けした票をそれぞれ1人の委員が数えただけで、複数の委員による点検はしない。終わった終わった、という雰囲気の中で、予め投票所の全委員が署名した集計票に、書記が1人で数字を書き込んでいく。投票結果を見ているうちに私は2つ奇妙なことに気がついた。一つは、有権者は3種類の投票用紙を同時に投じたから、下院、州議会、市議会の各投票総数は同じになるはずなのに、一致しないのである。投票所責任者らに聞いても要領を得ない答えで、最後には「用紙が気に入って持って帰る人がいるからだろう」ということになってしまった。もう一つは、候補者の得票である。下院の投票結果では、イニシアティヴ・グループから立候補した人民民主党員の候補がトップ、自由民主党の候補が最下位であるのに対し、州議会では自由民主党の候補がトップである。明らかに、有権者は政党を基準にして投票しているのではない。
 こんな時間まで仕事をしている監視員は全国であなただけだろうという、副学長の賛辞兼皮肉を浴びながら選挙区選管にも行ってみたが、まだ国境警備軍の投票所以外からはデータが来ていなかった。翌朝出直すと、深夜に行われた集計の結果が出ていた。1位と2位の得票が近接しており、決選投票に回ることになった。投票所ごとの得票をいくつか見てみたが、投票所によって候補者の順位はまちまちである。これほどばらばらの結果になるのは、有権者がいい加減に投票しているため、マハッラの地縁が作用しているためなどさまざまな解釈が可能だが、少なくとも、ウズベキスタンの選挙は最初から当選者が決まっていて皆がそれに従って投票する出来レースだという、よく言われる説は当てはまらないように思える。もちろん、候補者は皆体制派であり、誰が当選しても不都合はないということが前提になっているのだが。


テルメズ選挙区の第1回投票結果
有権者数:10万4070人  投票総数:7万5302票  投票所数:75
候補者名 全体 投票所A 投票所B 投票所C 投票所D 投票所E
ババヤロフ(フィダカルラル党) 23,811 275 741 293 59 170
アブドゥッラエヴァ(人民民主党員) 23,432 492 398 816 280 813
トゥラエフ(アダラト党) 12,541 164 89 143 188 181
ガニエフ(自由民主党) 9,293 54 88 102 33 231
無効票 6,225 47 92 115 63 169
(決選投票ではアブドゥッラエヴァが当選)


 27日は、飛行機の出発までの時間を利用して国境の橋に行こうとしたが、許可が下りず断念した。そこで仏教遺跡のファヤズ・テパに行こうとし、国境警備軍の兵営やアンテナが並ぶ一帯をぐるぐる走り回ったが、結局、日本隊による発掘の途中段階だということで見せてもらえなかった。国境警備軍の存在感は圧倒的である。しかしそれだけに、人や物の交流の場としての国境都市の雰囲気は、テルメズにはない。国境貿易は皆無で、アフガニスタンに行ったことのある人も少ないようだ。いずれ頃合いを見て国境を開けなければ、テルメズは単なる地方都市のままで発展しないのではないだろうか。
 私はこの後すぐ帰国したが、テルメズを含め全体の半数近く(120のうち58)の選挙区では05年1月9日に下院の決選投票が行われた。最終的に、自由民主党41人、人民民主党33人、フィダカルラル党18人、ミッリ・ティクラニシュ党11人、アダラト党10人が議席を得た(党員でありながらイニシアティヴ・グループから立候補した者や、非党員でありながら政党から立候補した者も、各党の数に入れてある)。
 21人の限定的な監視団を派遣したOSCEは、第1回の投票終了直後から選挙を厳しく批判した。最大の批判点は投票そのものよりも選挙の前提にあり、反対派政党や多くの個人立候補者が排除され、選挙に参加した党が互いに似ていることから、有権者が有意義な選択ができないというのであった。これに対しカリモフ大統領は、普遍的な民主主義は存在しないといういつもの反論を行った。そして、アメリカも自国の選挙の際OSCEに無関心だった、ウズベキスタンの選挙監視にはアジアの民主主義国が多く参加しており、OSCE監視団は中心的意義を持たないと述べた。日本からの監視員の存在も、暗にだしに使われたようだ。
 結局のところ、憲法改正から外国人監視員のもてなしまで大変な手間をかけたにもかかわらず、国際社会にウズベキスタンの「民主性」をアピールすることにはあまり成功しなかったと言うべきだろう。それならば、なぜこのような手のかかることをやったのだろうか。「外国からも注目される中で皆で一生懸命選挙をやった」という内向きの演出・満足感としてはそれなりの意味があるのだろうか。中央選管委員長を務めたムスタファエフが2月に法務大臣に栄転したことは、政権側はこの選挙を成功と考えていることを示唆しているように思える。
 だが、3月に史料調査のためタシケントを再訪した時、選挙の「民主性」を誇らしく語る人にはついぞ出会わなかった(皆、投票はしたと言っていたが)。市民の口をついて出るのは、カザフスタンやロシアに差をつけられるばかりの経済状態への不満と、さまざまな規制や不可解な政策への批判であった。以前から病気の噂があるカリモフは、テレビでは老けて弱々しく見えた。町の雰囲気はのどかであり、反対派に合法的な活動の場がほとんどない以上、クルグズスタンで3月に起きたような形での「革命」がウズベキスタンで起きるとは考えにくい。しかし、底流では変化に向けての動きが始まっているのかもしれない。


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