スラブ研究センターニュース 季刊2005年春号 No.101 index

戦争と原発事故とベラルーシ人の日常生活

越野 剛(学術振興会特別研究員)

 

 ミンスク市内のベラルーシ人家庭のもとにしばらくホームステイしていたことがある。そのときは日本の市民団体の通訳という肩書きで同国に滞在していたのだが、毎日仕事があるわけでもなく、暇な時間はベラルーシ語の勉強などにいそしんでいた。というより大部分の時間はごろごろと寝そべって生活していたのである。見かねた同家のセリョージャ少年がしばしば私の遊び相手になってくれなかったら、私は異国の地で日本の「引きこもり文化」をデモンストレートするだけだったろう。おかげさまで私の手元にはベラルーシの子供の遊びに関する貴重な研究ノート(と言っても5ページ程度だが)が残っている。
 「戦争ごっこ(ヴァイヌーシカ)」というゲームに私は強い興味を引かれた。紙の上に双方が陣地を書いて、鉛筆をはじき倒して相手を攻撃するというもので、日本にも似たような遊びがあったはずである。ただしベラルーシで見たものは抽象的なSFゲームのようなものではなく、明らかに「独ソ戦争」を真似たものだった。二人の対戦者は星マーク(ソ連軍)か十字マーク(ドイツ軍)のどちらかを陣地に描く。ただし十字マークを本物のナチスの印(カギ十字)にしてしまうと、その子供には不幸が訪れるという。

塹壕で遊ぶセリョージャ少年
 ベラルーシは第二次大戦の激戦地として知られている。人口の4分の1を奪ったとされる戦争の記憶は、今でも日常生活の中に息づいている。セリョージャ少年の家から近い森には塹壕の跡が残っていて、子供たちのかっこうの遊び場となっていた。塹壕の上に小枝で屋根を敷けば、即席の隠れ小屋(シャラーシ)のできあがりである。銃弾の切れはしもよく見つかるらしく、私も少年が収集したコレクションの一部(薬莢らしきもの)を土産に頂いた。
 ロシアやベラルーシの子供文化のひとつに、韻を踏んでえげつない話を表現した「残酷なポエム」というジャンルがある。ミンスクの本の市場でそのアンソロジーを見かけたのも同じ頃だった。たとえばこんなものである。

Девочка в поле граниту нашла. 女の子が野原で手榴弾を見つけた
"Что это, папа?", спросила она. 「なにかしら、パパ?」と女の子
"Дерни колечко!", ей папа сказал. 「リングを引いてごらん」とパパ
Долго над полем бантик летал. 長いあいだ、リボンが野原を舞っていた

  この手の作品には「地雷」とか「機関銃」とか「パルチザン」とか「野獣のようなゲシュタポ」などが頻繁に登場する。子供たちはもちろん戦争を体験したことはないが、おじいさんの昔話や、学校教育や、映画やテレビなどを通じて、大祖国戦争の物語は繰り返し聞かされているに違いない。戦争に関わる用語や決まり文句が、子供の遊びの文化に影響を与えるほどに日常生活の中で再生産されているのだ。


 それから数年後のこと、私はミンスクの日本大使館で働くことになった。スーツを着せられ、仕事部屋を与えられ、ずいぶんな給料も頂くようになったが、生活の本質はあまり変わらなかったようだ。文学研究者の精神的な作業は傍目からはごろごろ寝そべって過ごしているように見えるらしい。同僚の冷たい目線が気になったので、私は調査旅行に出かけることにした。

 ベラルーシ南東部のゴメリ州はチェルノブイリ原発事故による汚染が最もひどい地域である。人口50万人のゴメリ市ですら放射能を免れているわけではない。ゴメリ市に本拠を置くベラルーシ緑の党のグロムイコ党首に会うことができた。視察者の訪問にはさすが慣れているようで、病院、学校、農家、工場、観光名所等々、何も言わないうちから親切に案内してくれる。氏の話によると同じゴメリ市内でも汚染の多い地区と少ない地区があるという。かつては放射能値の高い通りには誰も住みたがらなかったが、今では気にする人がいないという話が私には気になる。

 次の日、グロムイコ氏はもっと汚染のひどいヴェトカ市に連れて行ってくれた。ここはリトアニア大公国時代にモスクワから逃れた古儀式派教徒が作った町で、独特な民俗文化の存在で知られている。市庁舎前の何もない広場が「赤の広場」と呼ばれているのが御愛嬌である。今では1平方キロあたりセシウム汚染度40キュリー以上の高度汚染ゾーンが周辺に広がる「なるべくなら住まないことが奨励される」地域であるが、なんと1万弱の人口があるという。こうした汚染地域の都市における一番の問題は高等教育を受けた人材の不足であるはず。ところが市執行委員会議長の話では、国が半ば強制的に派遣してくる医者や教師は定められた期間が過ぎれば逃げ出してしまう。むしろ自由に公募した方が、若い意欲的な人材が集まるという。汚染地手当も出るし、大都市と違って住宅問題もない。むしろ最近の市の人口は微増傾向にあるというので驚いた(ベラルーシ全体の人口は減っているのに)。そういう議長の年齢も30歳くらいの若さである。

 グロムイコ氏が最後に案内してくれたのはヴェトカ市近郊のグロムイコ村である。名称から分かるとおり氏の故郷でもあるこの村は、今では人の住めない「居住禁止ゾーン」になってしまっている。それでも村の墓地には訪れる人があるらしく、手入れはきちんとされている。そしてさすがはグロムイコ村、墓標を見ると埋葬されている人の名字はグロムイコばかりだった。ソ連の外務大臣アンドレイ・グロムイコも何を隠そうこの村の出身だという。寂しい墓地の風景だったが、先祖の霊を供養する招魂祭(ラドゥニツァ)には国中から集まるグロムイコさんたちで賑やかになるそうだ。忙しい中、素晴らしい訪問プログラムを用意してくれたヴラジミル・グロムイコ氏に感謝したい。

 市場でおばあさんがキノコを売っている。「チェルノブイリ産のキノコはいらんかね」。驚いた通行人が尋ねる。「そんなキノコを誰が買うんだい」。「姑さんや職場の上司向けに人気がありますよ」。ベラルーシにはチェルノブイリ事故に関する不謹慎なアネクドートがたくさんあって、私もいくつか集めたことがある。ゴメリ州のナロヴリャ市からミンスクに移住してきた男性は、「ザポロジェツは車じゃない(ザポロジェツ・ニェ・マシーナ)。ナロヴリャ人は男じゃない(ナロヴリャニェツ・ニェ・ムシーナ)」という俗謡(チャストゥーシカ)を教えてくれた。ナロヴリャ出身の男は被爆のせいで生殖能力がないのだという強烈な皮肉である。「面白いだろう」と感想を求められたが、さすがに何とも返答に困った。

 ベラルーシでは人口の5分の1が放射能汚染地域で暮らしている。村々の消滅、強制的な疎開等々、人口の4分の1を奪った独ソ戦争とチェルノブイリ原発事故はしばしば並べて語られる。2002年(大統領選挙のあった年でもある)の戦勝記念日でも、ルカシェンコ大統領は「我々にとってチェルノブイリは第二の戦争であった」と叫んだ(ちなみに「第三の戦争」はソ連崩壊、「第四の戦争」は西側諜報機関によるルカシェンコ政権転覆計画だという)。戦争も原発事故も非日常の出来事ではあるが、いつまでも非日常として引き受け続けるのは難しいのだろう。とんでもないものでも悲しいことにいつか人は慣れてしまうものである。不案内な外国人旅行者の方が日常生活の中にちょっとした違和感を発見できるのかもしれない。


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