オックスフォード派遣報告
加藤 美保子
(第4期ITPフェロー)[→プロフィール]
2011年8月から2012年7月まで、ITPの助成でオックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジに留学させていただいた。ヨーロッパの地域研究・国際関係研究の中心として多くのポスドクや若手研究者が切磋琢磨している環境のなかで、たくさんの出会いや機会に恵まれた一方、常に日本人である自分がロシア研究をする意味や、政治的トピックに対する自分の立場を問われる緊張感に満ちた日々でもあった。以下では、11か月間の研究生活を振り返ってみたい。
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● 出国から住居の確保まで
私がオックスフォードに到着したのは8月も終わりに近づいた頃であった。博士論文を提出して3月に退学した後、シンクタンクとの契約でカザフスタンの宇宙産業について調査する仕事をしていたため、そのプロジェクトの区切りがつくのを待っての出発となった。家田先生もエッセイ(スラ研ニュース128号 [click])に書かれていたが、受入機関のセント・アントニーズ・カレッジ ロシア・ユーラシア研究所(以下、RESC)は教員の世代交代の真最中である。前任者の中村さんの滞在中に、アレックス・プラウダ先生の後任として所長に抜擢されたポール・チェイスティ先生がITPフェローの新たな担当教員であった。六月に入ってからポールさんとやりとりを始め、ビザを取得できたのが7月半ばであった。その頃にはカレッジの事務方から大学のメンバー・カードを作るための申請書類などが届いており、8月下旬に到着した時点ですぐに図書館の入館に必要なメンバー・カードやメール・アカウントを発行してもらえた。街に到着したばかりの時、カレッジの建物のあまりの古さに一抹の不安を感じたのであるが、セント・アントニーズには一年中ひっきりなしに国内外からの訪問者があるため、新規滞在者の受入手続きは完全にシステム化されており、研究環境のセットアップは予想よりもスムーズに進んだ。しかし、留学生や外国人研究者との会話に慣れている教員と違い、アドミニ・スタッフやポーターの英語は早くて聞き取りにくい。毎日BBCを聞いて勉強してきたはずなのに、なぜか彼らの説明について行けず、初っ端から自信喪失を味わうことになった。セント・アントニーズは所属する者の半数以上が外国籍なので、意識しないと「イギリス人」と話す機会を見つけられない。アドミニ・スタッフは大抵、地元の人なので、彼らの言っていることが一語一句聞き取れるようになれば、耳が慣れたことの一つの目安になるだろう。
オックスフォードに赴任するにあたって最も難儀したのは住居の確保であった。最終的にコーパス・クリスティ・カレッジが所有する学生用の物件に落ち着いたのであるが、そこに決まるまでにかなりの時間を要した。私の場合、時期が悪かったのかエージェントを回っても条件の合う物件がほとんど見つからず、最初に住んでいた家のハウスメイトに手伝ってもらって、ようやくセント・アントニーズから歩いて7-8分の場所にある物件に入居することができた。この小さな街の住民のほとんどは、何らかの形でオックスフォード大学に関わりながら生計を立てているのだが、住み分けは割とはっきりしており、部屋探しをしているとすぐそれに気付く。大雑把に言うと、北部の方には有名な寄宿学校が多く富裕層が住んでおり、売り出されている物件の値もかなり高い。東部から南部にかけては労働者や移民が多く、歩いていると街の表情が多様になっていくのが分かってとても面白い。学生や短期滞在の研究者のための手頃な物件は、街の中心部周辺から南側に多いようである。このような物件は出入りも激しく、Daily infoというインターネット掲示板を通じて大家と直接契約を結ぶか、エージェントを通じて探すのが一般的なようだ。
Woodstock Road から撮影したセント・アントニーズ(2012年1月撮影)
● 研究生活 のなかで感じたこと
オックスフォードは3学期制になっており、各学期が終わると多くの学生や教員は帰省あるいはフィールドワークのために街を離れ、学期が始まる週にまた街に戻って来る。6月末から10月初頭にかけての長い夏季休暇の間は、セミナーやシンポジウムもほとんど行われないし、研究者とのコンタクトもなかなか取れない。学術イベントや研究者との面会が目的の場合は学期中に訪れて、様々なイベントやランチ、ハイ・テーブルを利用するのが効果的だと思われる。ある程度余裕を持って滞在できる場合は、セント・アントニーズから南に徒歩5分ほどの場所にある語学センターのプログラムに参加してみるのもいいかもしれない。外国語や英語のクラスの他に、アカデミック・ライティングのクラスも開講されており、学生だけでなく外国人研究者の間でも人気が高い。
カレッジで研究室をもらえるのは基本的に専任と任期付で雇用されているリサーチ・フェローだけであるので、まずは自分の「お気に入り」の勉強場所を見つけねばならない。私の場合、①セント・アントニーズの図書館と②RESCの図書館、③政治・国際関係学部に隣接している社会科学図書館、④ボーダリアン・ライブラリーの地下にあるグラッドストン・リンクの4か所に必要な文献が所蔵されていたので、一番静かな②を中心に、たまに気分転換に他の三か所に移動して勉強していた。ロシア現代政治に関する英語・ロシア語文献は①-③で大体揃う。また国際関係論に関するメジャーな文献は①と④で入手できる。学術雑誌や博士論文はオックスフォードのIDとパスを持っていればどこからでもオンラインで閲覧できるようになっていたのでとても便利であった。人文系のスラブ・ユーラシア研究者はSlavonic and Modern Greek Libraryによく足を運んでいるようであったが、そこではWiFiがほとんど使用できないので私はあまり行くことがなかった。
9月から2月の第一週までは、正直に言うと自分の組織するワークショップのことで頭が一杯であった。2月8日に行われたワークショップについてはすでにレポートに書いたので[click]、ここでは触れないことにする。最初の5カ月間は、ITPの課題の一つであるワークショップの準備とそこでの報告、そして個人で申し込んだBASEESの報告ペーパーの準備に多くの時間を割き、合間にセミナーに出たり語学センターの英語クラスに通ったりして過ごしていた。大学院生時代も、国際会議での報告を一年に一回はするよう心がけていたが、それらは日本で行われる学会であったり、海外でも非英語圏のシンポジウムだったりで、聴衆の半分はロシア人かアジア系の研究者であった。つまり、英語圏で教育を受けた人たちの前で英語報告をした経験はほとんど無かったのである。
査読誌に投稿することを想定して論文を書く場合、いくら博士論文を書き終えたばかりでネタがあるとは言え、そのまま英文に置き換えれば論文になるというものではない。国際関係論と一口に言っても、国によって異なる国際条件を背景にして発達してきた学問である。秋学期が始まってRESCだけでなくアジア研究所や政治・国際関係学部のセミナーに出席するうちに、ワークショップのテーマである多国間主義についても、ロシアの対中国・東南アジア政策研究にしても、イギリスの先行研究をかなり勉強し直し、東アジアの地域情勢についての説明も増やさなければならないことに気付いた。また、RESCは地域研究センターであるが、研究方法はディシプリンが重視されている。それは大学院教育プログラムにも顕著に現れている。大学HPのコース・ガイドによると、ロシア・東欧研究は社会科学-地域研究に分類され、修士課程の入学審査では、ロシア語あるいは東欧の言語能力を有していることが望ましいとされるが、必須ではない。取得する学位の種類にもよるが、修士課程では、カレッジの指導教官によるチュートリアルの他に、学部でリサーチ・デザインやディシプリン系の講義・セミナーを受講することになる。このようなことを知るにつれて、情報量は多いが理論面が弱い自分の研究がワークショップでどう評価されるのかだんだん不安になっていった。
結果的に、自分が組織したワークショップでは、課題が多く残ったものの、後日の反響が大きくロンドンやスコットランドで同じ分野の研究者を開拓するきっかけとなった。一方で4月1日に報告をさせていただいたBASEESでは、イギリスのスラブ・ユーラシア研究動向と自分の関心との「ズレ」を痛感することになった。アジアと言えばせいぜい中央アジア諸国が限度であるこの学会で、1990年代のロシアのアジア太平洋政策の再考というテーマ設定をした自分が悪いのだが、地域も時代設定もミスマッチであった。ただ、キャンセルが出て偶然同じパネルに「ロシア外交における宗教(ロシア正教会)ファクター」についての報告者が入ったため、たくさんの聴衆が集まった。その中にいらしたミハイル・スースロフさんのパネルを翌日聞きに行ってみたのだが、政教関係やロシアの対外関係における宗教や文化の影響力に関心を持っている人の多さに驚いた。日本からロシアを眺めているとエネルギーや軍事、領土問題ばかりに気をとられるが、西側からロシアを観察してみると係争だけでなくもっと深いつながりが見えてくる。なんとなく、よく知っていると思っていた人の違う顔を見た気分であった。BASEESでの研究動向や、オックスフォードでのルースキー・ミールの活動に刺激を受けて、帰国後に参加したスラ研の研究員によるミニ・カンファレンスでは、人権の尊重や死刑制度の廃止という欧州諸国が共有している国際規範に対するロシアの態度を報告のテーマに選んだ。この方向の勉強は今後も続けていきたいと思っている。
ケム川から眺めたケンブリッジの街(2012年4月撮影)
11か月の留学のなかで、最も充実していたのは5-7月であったように思う。RESCでは学期中、毎週月曜日の17時からセミナーが行われている。学期ごとにセミナーの担当者とテーマが変わるのだが、ちょうど三学期(Trinity term)の担当者がロイ・アリソン先生で、2000年に始まった第一次プーチン政権以降のロシア外交をテーマに8人の研究者が毎週1時間の講演を行い、その後45分間の討論をすることになっていた。このセミナーを通じて、講演者の一人であったロシアの対中国、日本政策の専門家ナターシャ・クールト先生(キングス・カレッジ)と知り合い、その後ロンドンやエジンバラの学会に出向くきっかけを得ることができた。彼女は今春号のEurope-Asia Studiesのロシア外交特集の編集を担当しており、ご自身も「ロシアのアジア政策におけるロシア極東地域の意義」と言うテーマで論文を書かれている。話してみると私たちの関心が非常に近いことが分かった。その後、Chatham houseのセミナーで再会した時に、6月末にエジンバラで行われるBISA(英国国際政治学会)-ISAの合同大会で、勉強会と2つのパネルを企画しているから来ないかと誘って下さった。これにはもちろん二つ返事で参加を決めた。特に大会の前日に行われた、「ロシア・ユーラシアの安全保障に関するBISAワーキング・グループ」の勉強会には、ヨーロッパ各地から20名程の若手研究者・院生が参加しており、私のワークショップに駆けつけてくれた人にも再会することができた。この勉強会の主な議題は中央アジアにおけるロシアの役割やアイデンティティーに関するものであったが、米国の覇権後の世界におけるBRICsの役割、NATO-ロシアパートナーシップにおける中国ファクター、東アジアの地域主義とロシアなどの報告もあり、大会のパネルよりも勉強になったし議論も盛り上がっていた。滞在の最後にきてやっと関心の合うコミュニティにたどり着いた、という気がした。イギリスや大陸ヨーロッパ諸国では、ロシアとユーラシア、ロシアとアジア・太平洋諸国の関係を専門にしても就職が無いため、好まれるテーマではないという話を聞いていたが、中国の台頭とロシアの極東開発が進むにつれ、このようなテーマに取り組む若手研究者が増えてきているようである。
BISA-ISA合同大会での一枚(2012年6月撮影)
● 語学のことなど
ワークショップとBASEESが終わると少し肩の荷が降りて、後半の半年は他のことを考える余裕が出てきた。3月までは、大学の語学センターで客員研究員用に開講されている英会話上級クラス(60分×週2回)とアカデミック・ライティング(1週間に15時間の集中講義)のクラスに通っていたのだが、会話のクラスの方はイギリスの文化や風習を学ぶという感じで少し物足りなさを感じていた。そこで、私より先に帰国したある日本人の先生を通じて知った、パブリック・スピーキングのクラスに通ってみることにした。これは、外国人の語学学習ではなく、人前でのスピーチに苦手意識を持つ社会人向けのサークルのようなもので(有料)、プレゼンを上達させたいサラリーマンや娘の結婚式のスピーチを控えたお父さんなどが参加していた。専門の資格を持っている、この道20年の老婦人の自宅で行われている良心的な料金のクラスなのだが、これがとてもためになった。毎回、その場で出されたお題について5分~10分のスピーチをして、お互いに良い点と改善点をコメントし合う。司会は毎回入れ替わる。5分のスピーチは意外と長いものであるが、考える時間も同じくらいでメモもほとんど作れないのでアドリブで話さなくてはならない。語学学校ではないので英語の間違いは指摘してもらえないが、自分の話し方の癖を直し、外国語でも人を惹きつけるスピーチの技術を学ぶという意味ではなかなか良い経験であった。
RESCのマンデイ・セミナーが典型的であるが、留学中に参加した研究会の多くは報告時間が長く、パワーポイントはあったり無かったりで、レジュメが配布されることはまず無い。にもかかわらず、聴衆は辛抱強く講演中の出入りは少ない。このような場では話の内容もさることながら、報告者のスピーチの技術が問われる。ITPの英語合宿でグレッグ講師がメモを見ない、パワーポイントやマイクなどの道具に頼らないということに拘っていらしたが、今になってあれは本当に正しかったのだと納得している。
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遅ればせながら初めての英語圏への留学の日々は、自分のなかの弱さや曖昧さに向き合う毎日であった。それに気付かせてくれたり、励ましてくれたりしたのがカレッジのポスドク仲間であった。私の滞在した年は偶然、専門が近い同世代のポスドクが多く、自然とカレッジに顔を出しランチや空いた週末を彼らと一緒に過ごすことが多くなり、研究内容から研究者としての生き方や悩みまで色々なことを語り合った。とくにお世話になったのがRESCの同僚であったマリーナ・フメルニツカヤとスビトラーナ・チェルニフである。それぞれモスクワ郊外、ウクライナのリヴィウ出身で、二人とも奨学金を獲得して英語圏で学位をとり、セント・アントニーズのフェローに採用されている。彼女たちの能力の高さと根性の入り方には並々ならぬものがあった。この世代は10代前半でソ連崩壊を迎えているので80年代後半の記憶もしっかりしている。セミナーでアーチー・ブラウンやロバート・サービスと堂々と議論している彼らの姿を見ていると、日本人である自分はどうすればロシア研究に貢献できるのかと真剣に考えさせられた。
このように沢山の気付きや新しい出会いのチャンスを下さったITPの松里先生、家田先生、望月先生、ウルフ先生、そして派遣中にきめ細やかなバックアップしてくださった阿部さんと越野さん、そしてチェイスティ先生を始めとするRESCのメンバーの皆さんに、この場を借りて心から感謝申し上げたい。この経験をもとに、研究を発展させて国内外に発信し続けることで恩返ししていきたいと思っています。
RESCのポスドク仲間と(2011年のBonfire Nightに撮影)
(Update:2012.09.13)
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