ITP International Training Program



のど許過ぎればすべて忘れる、あるいは良薬は口に苦し:第二回東アジア・コンフェレンスの舞台裏

高橋 沙奈美

(北海道大学大学院文学研究科博士課程)



  このエッセイを書いている今、ソウルでの第二回スラブ・ユーラシア研究東アジア・コンフェレンスからすでに半年が経とうとしている。月日を経ても色あせることなく印象に強く残っているのは、2010年から開催の初日までの、韓国のオーガナイザーとの濃密なメールのやり取りである。韓国の東アジア・コンフェレンスの舞台裏のドタバタは、ある意味、大変貴重な経験であった。これほどまでプログラムやパネルをめぐって開催直前までもめる学会も、めったにはありえないのではないだろうか?


  コンフェレンスが始まってみれば、自分の専門分野と関係の深い研究者と個人的にお話する機会もあり、また日本から参加された先生・先輩方とさまざまに語り合う時間をたくさん持て、楽しい思い出もたくさんできた。学会自体の詳細は他の方のエッセイに委ねることにして、今後の参考になるかどうかはわからないが、ここでは開催までの舞台裏の顛末を書き記してみたい。




  ちょうど1年前の夏、松里先生から韓国での第二回東アジア学会に向けて、宗教をテーマとしてパネルを組まないか、というお話をいただいた。その前の札幌での東アジア学会で、パネルとしても個人の報告としても満足できる成果を収めていた私は、少し調子に乗っていたのかもしれない。パネルのテーマ設定や、声をかけるべき人について具体的な考えは何も浮かばなかったが、「とりあえず」機会と可能性を生かそうと承った。


  松里先生から、宗教関係で報告しそうな人のリストをいただき、私の方からも報告してくれそうな人にとりあえず声をかけて、人集めをしてから、どんなパネルができそうか考えてみよう、ということにした。


  集まった候補者の中でも、ジェンダーとイスラムに関してはスラ研院生の須田さんと韓国のパク・ヘギョン先生でまとまりそうだったので、須田さんがオーガナイザーを引き受けて、パネルとしてまとめてくださることになった。後日談だが、このパネルは内容の濃いいいパネルとしてまとまっていたとの話を伺った。


  私自身は、ポスト・ソヴィエトの宗教空間におけるソ連時代の遺産(無神論)に関して、ひとつパネルを組んでみることにした。報告者は東北大学の滝澤克彦さんと、国立民族博物館の藤原潤子さんにお願いした。この時点では、お二人ともまだお知り合いになる機会を得てから日が浅かった。しかし、お二人の論文を拝読して、このテーマへのお二人のご関心を伺ったところ、ご両人から賛同をいただいた。


  松里先生がスラ研のサイトに公式に掲載されていた募集期間は過ぎてしまっていたが、応募開始から締め切りまで2週間という短い期限だったこともあり、遅れての応募も大丈夫という松里先生からのお墨付きをいただいた。実際、2週間の間にパネルを組んで応募された方もたくさんいたわけで、遅れてしまったのは私自身の力不足と怠惰によるのだが、何はともあれ、メールでパネル・プロポーザルを送信した。


  しかし、待てど暮らせど返事が来ない。期限に遅れて提出したプロポーザルである。もし受け入れてもらえなかったらどうしよう、との思いがよぎる度冷や汗が背を伝った。同じく、韓国から返事を頂けなかった須田さんも不安だったようで、韓国側に2人で何度か確認メールを出したし、須田さんはファックスや電話でも確認しようと努めてくださったが、どうにも連絡が取れない。そのうち私はロシアへ1年間の留学へ出発してしまった。松里先生のパネルでの報告予定だったが、私からお声掛けしていた2人のロシア人研究者からも、「韓国の話はどうなった? 本当に開催されるなら、ビザを取る必要があるが、招待状はいつ送られてくるのか?」という催促があり、またまた冷や汗をかいた。


  しかし、本当に恐るべきは年が明けてからだった。3月に開催されるはずなのに、1月になっても連絡が全く取れない、ということは、開催は怪しいのじゃないかとロシア人研究者から指摘され、私自身もあきらめかけていたころ、驚くべきことに年明け早々韓国から招待メールが送られてきた! ここで慌てて、関係者に確認メールを送る。と、なぜか滝澤さんにはまったくメールがないことが判明した。さらに続く韓国からのメールでは、2月5日までに必要事項を記入して、学会参加の登録を行うこと、とある。この学会では、主催者側が宿泊費を負担することになっていたため、ホテルの部屋の確保に必ず必要とのことであった。この前後で、スラ研ITP担当の越野さんとやり取りを交わし、滝澤さんだけでなく、立教大学の井上まどかさんもメールを受け取っていなかったことが判明した。越野さんの話では、お二人のアドレスが松里先生のものになっていたということだが、どうしてそういうことになってしまったのかはいまだに謎である。


  さらにこの後、主催者から送られてきた仮プログラムをみてさらに驚愕することになる。なんと、私のパネルがない! 正確には、報告者がいくつかのパネルに分散されていて、私自身の名前はプログラム中になかった。正直なところ、1月まで学会の開催を疑い、報告準備をおざなりにしてきた私にとって、一瞬、「もう報告しなくていいってこと?」という不埒な考えが頭をよぎったが、そういうわけにもいくまい。一方プロポーザルの期限切れ提出という、脛に傷を持つ身であることも思い出される。ここで、越野さんに事情を伺うと、いくつかの他のパネルも解体されていること、井上さんもプログラムから外されていることが分かった。


  しばらくして、これらの点のいくつかが改善されたプログラム第二案が送られてきた。ここで私たちのパネルは復活し、この時点で人文科学系パネルの責任者というキム・ションジン先生が現れた。松里先生が指摘されたことだが、それまでの一切のメールはすべてKASS(Korean Association of Slavic Studies)から送られてきていて、一体誰が学会のイニシアチブをとっているのか、責任者は誰で、誰にメールを送るべきなのか、ということが全く分からなかったのだ。


  幸いにして、キムさんはメールにすぐに対応してくださるきちんとした方だった。しかし、それで問題が解決されたわけではない。井上まどかさんが依然としてプログラムから排除されたままで、韓国側は井上さんの登録を2月5日まで受け取らなかった、プログラムに今更付け加えるわけにはいかない、と主張する。井上さんは2月5日以前に登録を送っており、送信記録も残っている、とおっしゃる。ここはなんとか組み込んでもらえないかということで、キムさん、越野さん、井上さんと一緒に、連日メールがやり取りされた。それからスラ研の望月哲男先生や埼玉大学の野中進先生からもご相談に乗っていただいて、キムさんから、日本側の熱意はよくわかりました、なんとかしましょうというお返事をいただき、2月27日、ようやく井上さんをプログラムに組み込んでいただけることとなった。しかし、最終プログラムでは、松里先生が企画した黒海に関するパネルが解体されてしまった。この一連のパネル解体と報告者削減騒ぎは、予想以上に報告者が集まったことと、押さえておいた会場数が足りないという事態から起こったということである。


  私のパネルはというと、新しく中国からの報告者ギュオ・シャオリー先生が加わった。テーマはロシアのメシアニズムである。さらに、コメンテーターをお願いしていたロシア人研究者が参加不可能になり、私から急きょ井上さんにお願いすることにした。その直後、キムさんから中国の歴史家のチャン・ジャンフア先生を推薦していただいた。メールの記録によれば、2月28日のことである。中国人はお二人ともロシア語でお話されるということである。本来われわれのパネルはすべて英語で行われる予定で、ロシア語話者でない専門家も加わっていたため、ある部分での意思の疎通が不可能になるわけだが、ここまで来てはもう仕方がない。そうこうするうちに、キムさんから、あなたたちが英語で報告されるなら、チャン先生はコメンテーターにならないというメールが来て、ほぼ同時にチャン先生からあなたたちのコメンテーターを務めることは大変光栄だ、ぜひ報告を送ってほしい、と連絡があり、わけがわからなくなってしまった。結局、当日の朝もキムさんからはチャン先生は来ない、ということで説明があったが、開始後チャン先生がちょっと遅れてやってきて、われわれが報告している間に、井上さんがチャン先生と相談して、それぞれの担当を割り振って、チャン先生に御登壇頂くことになった。こんな調子で、われわれのパネルの舞台裏は最後の最後までなんだかドタバタ悲喜劇だったのである。




  最後に、学会に参加して注意を惹かれたことをいくつか記しておく。まず驚いたのは、圧倒的にロシア語の使用率が高かったことである。そもそもオープニングからロシア語で始まり、基調講演もすべてロシア語、最後のバンケットまで使用言語の大半はロシア語であった。ロシア語話者ではない中東欧・ユーラシア地域の研究者は必然的に排除される形となってしまったのが、非常に残念である。韓国の研究者が圧倒的に英語を得意とするのに対して、中国の研究者は英語を話せない人も少なくない。この言語状況には政治的な背景があるため、一朝一夕には到底変わりそうもない。東アジア・コンフェレンスとまったく対照的だったのが、2010年7月にストックホルムで行われたICCEESである。こちらは英語報告が圧倒的で、ロシア語で報告した私は肩身の狭い思いをした。2015年の幕張でのICCEESに向けて、スラ研では英語での研究成果の報告にますます力を入れている。ICCEESを日本に招致する以上、スラブ・ユーラシア研究者の未来は英語使用能力に大きく依存することを、ストックホルムで痛感した。また、自分の意識だけではなく、広くスラブ・ユーラシア関係組織にこのことを知っていただくことも必要だと感じている。例えば、私が今日露青年交流センターから受けている支援(最大一年間)では、ロシア国外での学会研究を含む研究旅行は3週間に限られてしまう。この制限のためにフェローがロシア国外に出て自分の成果を報告するということに、関心を向けにくくなっているように思われる。私自身のお粗末な英語能力を伸ばすことの重要性を日々感じさせられるが、その際ITPのような組織から受ける刺激は大変に大きい。英語での研究活動を支援する機会や組織が増えれば増えるほど、研究者全体の意識も高まっていくことは間違いないだろう。


  それからもうひとつ。自分自身のオーガナイザーとしての仕事ぶりについても、よくよく考えさせられた。私たちのパネルは朝一番だったのだが、それにしても、他のパネルと比較して、聴衆が大変少なかった。しかも、聴きに来てくださった主だった顔触れは恩師の先生方である。人の入りが多いパネルがいいパネルというわけではもちろんないが、有益な議論のためには、やはり多くの人に聴いていただくに越したことはない。ふたを開けてみて、教室が閑散としているのは、パネルのアブストラクトや題名で他の参加者の関心を十分に引き付けられなかったということだ。これまで私は、自分の報告をどうするかということにばかり気を取られ、パネルをオーガナイズするということに、十分な注意を払っていなかったのだ、ということを遅ればせながら痛感した。周りを見渡せば、博士課程の学生でも、熟考の上に意義あるパネルを組織される方がちゃんといる。パネル参加者の関心の接点はどこにあるのか、最新の研究の関心との関係はどうか、どういうテーマがこれらの関心の先を行けるのか、ということを意識しながらパネルを組織すること重要さを改めて学んだ。一足跳びには行かないだろうが少しずつ階段を上がるように、これらの問題を解決していきたいという思いを強くした。

[Update 10.09.21]




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