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ウクライナ情勢特集7
クリミア・タタール人
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研究員の仕事の前線
スラブ・ユーラシアの今を読む:ウクライナ情勢特集7
クリミア・タタール人
―安住の地を求めて―
クリミアとタタルスタン
「外科手術が行なわれていると考えてみてください。結果は同じでしょうが、タタルスタンの存在は麻酔のような働きをしています」。2014年7月末、バフチサライ郡長イリミ・ウメロフ(1957年生)は語った。クリミアのロシアへの編入過程でタタルスタンは、住民の21%をクリミア・タタール人が占めるバフチサライ郡の公共事業や産業振興に参入することになったのである。もっともウメロフは、占領政策への協力は自分の政治信条に反するという理由で、8月19日に辞職している1。
クリミアとヴォルガのタタール人は同じテュルク系とはいえ別系統であり、それぞれ相当異なった歴史を歩んできた。もちろん、両タタール人がロシア国家の中にあった間は、その軌跡が類似し交錯した局面もあった。しかし、2014年のロシアによるクリミア併合の最初の二、三ヵ月ほど交渉が活性化した時はなかった。タタルスタン大統領ルスタム・ミンニハノフは、ロシアへの編入を問う住民投票が行われた3月16日前後クリミアを三往復した。他方で、クリミア・タタール人の民族運動体メジュリスの前議長ムスタファ・ジェミレフ(1943年生)は住民投票の直前、前タタルスタン大統領ミンチメル・シャイミエフとモスクワで会見し、プーチン大統領との接触を試みた2。また現議長のレファト・チュバロフ(1957年生)は逡巡の末、タタルスタンの官製民族団体「全世界タタール会議」と5月末に協力関係を結んだ。その背後には、モスクワとの距離をめぐるクリミア・タタール人エリート内部の競合があったと推測される3。
これらの動きは、クリミア併合がロシア内部に新しい民族政治のダイナミズムを引き起こしていることを示している。本稿では、帝政期から現在に至るクリミア・タタール人と国家との関係史を概観することで、いま生起している政治の新しさと古いパターンを抽出してみたい。それは、現在ロシア統治下で暮らすクリミア・タタール人が直面している様々な課題を理解するための補助線を提供することになる4。
帝政期:揺れ動く忠誠
1783年のクリミア・ハン国併合後、ロシア政府はまず、宗教を法秩序と見る立場から、イスラーム指導者と協力関係を結ぶことに努めた。それを体現したのが、シンフェロポリに設置されたタヴリーダ・ムスリム宗務局である。クリミア・ハン国には、オスマン帝国に倣ったウラマー(イスラーム法官)の階層が存在した。政府は半島に既存の制度を温存しながら、同様の階層構造を帝国の他のムスリム社会にも導入すべく、1788年に南ウラルのウファにも宗務協議会を設置することにした。1794年にはムフティー(議長)と補佐6名に俸給を支払う宗務局の創設が宣言されたが、事実上の法制化はニコライ一世期の1831年に行われた。この時、欧露西部6県に住む少数のムスリムもタヴリーダ管区に入った5。この宗務局は、内務省とタヴリーダ県庁から直接の監督を受けた。1914年の資料によれば管轄下には、タヴリーダ県と西部9県の計229,365人のムスリム、845のモスク、981人の聖職者、558の学校を数えた6。
タヴリーダ管区ではウファ管区と異なりムフティーの選挙が行われたが、現実には県知事が投票結果をあからさまに覆した。こうして第三代ムフティーとなったセイト・ジェリル・エフェンディ(在1829-1849)は、地方当局の目に怪しい書物の焚書さえ実行して勲章まで得た。また県庁は、対岸のオスマン帝国との間を往来する宗教者やメッカ巡礼者がもたらす影響を過剰なまでに警戒した。宗務局に課せられた聖職者の資格試験自体が、候補者の政治的な信頼度を測る場と化し、オスマン帝国で学識を積んだ者は地方当局の猜疑心を駆り立てた7。
ロシア人貴族が定着するようになる1830年ごろまで旧ハン国の貴族(ミールザー)も積極的に行政に参加し、名門シリン家は郡ばかりか県レベルでも貴族団長を出した8。ロシア・ムスリム社会の啓蒙家として有名なイスマイル・ガスプリンスキー(1851-1914)も、彼の貴族としての地位を考えなければ、その活動を正確に捉えることはできない。彼の父はコーカサス戦争に従軍し1853年に中尉で退役して貴族になったし、母もまた軍功のあるカンタクジン家の出だった。イスマイルの教育が陸軍幼年学校だったのは偶然ではない。1870年に都市の自治が導入されると、彼はバフチサライ市会議員になり1879-84年には市長を務めた。1905年までロシアでほぼ唯一の民間のテュルク語紙『翻訳者(テルジュマン)』は、彼が市長在職時に迎えたクリミア併合100周年を機に出されたのだった9。
クリミア・タタール人は併合以来ロシア軍に勤務し、ナポレオン戦争、1828-29年の露土戦争、クリミア戦争にも参戦した。彼らが本格的に徴兵対象になったのは、1874年の国民皆兵導入時である。当初、5年の兵役を2年とし、クリミア駐屯の民族部隊で勤務できるなど特別扱いがあったが、1892年からは一般規則が適用された。1890年に参謀本部はクリミア・タタール人も兵役に慣れたと判断していたが、当のタタール人の代表は、併合100年を経ても自分たちの独特な世界観は変化しておらず、食事や儀礼の面で同信者のいない部隊に勤めることは、極めて過酷だとツァーリに訴えた。結果として、民族部隊が一部残され、それ以外の新兵は近隣の県で勤務することが認められた10。
しかしながら、ロシア統治から逃れクリミアを離れるタタール人は後を絶たなかった。帝政期最大の流出はクリミア戦争前後に発生し、クリミア・タタール人の実に三分の二がオスマン帝国に移住した。従来、ロシア政府はムスリムを組織的に追放したのだと考えられてきたが、ムスリムの移住は多宗派を許容する帝国の威信を傷つけるものだった点にも留意すべきだろう。近年では、移住の理由としては中央と前線との連絡不全、そして軍の行き過ぎが注目されている11。確かに、19世紀末までにクリミア・タタール人もユダヤ人やドイツ人入植者と同様に、ロシアを永久に去ることを条件に出国が認められるなど、地域のスラヴ系人口を高める政策の対象となった12。しかし現実には、オスマン国籍とロシア国籍を状況に応じて使い分けながら黒海の両岸を往復する者も多かった13。
クリミア・タタール人が大挙して移住すると、廃止されたモスクの寄進財(ワクフ)の管理問題が深刻化した。1884年に政府の査察で宗務局による乱脈が露になると、ワクフは翌年の勅令で、内務省に従属するワクフ特別委員会に移管された。実はこの委員会で書記を務めたバシキール人が、ウファの宗務協議会管轄下のワクフ行政を整備する先鞭をつけた14。1911年までにこの委員会の管理下には、約2万660ヘクタールの土地と約20万9500ルーブルの資金があった。ワクフの収益からは、宗務局の運営費や宗教施設への補助金の他、日露戦争と第一次世界大戦時には、病院の設営や傷痍軍人の救援のための資金も拠出された15。
ソ連期:故郷をめぐる戦い
1917年の二月革命後、シンフェロポリでクルルタイ(議会)が招集され、臨時ムスリム執行委員会が選出され、宗務局の指導部は解散した。そして十月革命後に開催されたクルルタイでは、ロシアの中で人民共和国になることが宣言され、憲法も採択され、民族党(ミッリ・フィルカ)党首ヌマン・チェレビー・ジハン(1885-1918)をムフティーかつ首班とする政権が成立した。宗教権威が行政を主導するこの体制は、帝政の宗教行政がナショナリズムの礎となったことを示唆している。しかしこの政権は1918年1月22日にボリシェヴィキの手で解散させられ、チェレビー・ジハンは1ヵ月後殺害された。その後半島では、ドイツ軍やデニーキンとヴランゲリの白軍も入り乱れた内戦が1920年末まで続いた16。
勝利したボリシェヴィキは民族党の延命を望まなかった。とはいえ、民族党から多くの者が1921年10月に生まれたクリミア自治共和国の国家機関に勤務し、とりわけ教育事業で活躍した。20年代にはワクフが国有化され、イスラーム教育には厳格な制限が設けられたが、それでも聖職者の努力でソヴィエト学校との共存が維持された。しかし、1927年末ごろからイスラームへの攻勢が強まり、30年代には集団化の中で聖職者は富農の味方とみなされた。37年には国外の反ソ活動組織との関係を疑われて多くの者が処刑された。1941年までにクリミアには22のモスクしか残らなかった17。
クリミア・タタール人の歴史で最大の悲劇が、第二次大戦中の1944年5月18日に遂行された強制移住であることは論を俟たない18。戦時中の最高決定機関である国家防衛委員会は、1941-43年にドイツ軍が半島を占領した時に、クリミア・タタール人が利敵協力者となり反ソ活動を働いたことを疑ったのだ。1944年11月時点で193,865人が移送され、うち最大の151,136人がウズベク共和国に、残りはロシア共和国とカザフ共和国に分散させられた。ウズベク共和国では、強制移住から半年で一割の16,052名が死亡したという。2014年で悲劇から70周年を迎えたが、民族活動家の目には自分たちの祖先を追放したのと同じ国家が再び故郷を蹂躙しているように映っている。果たしてクリミアのロシア当局は記念行事を許可せず、クリミア・タタール人は自発的に集会を開いた。
クリミア・タタール人はドイツ人や北カフカス諸民族と同様、敵性民族として特別入植という厳格な監視下にあったが、1956年4月28日の最高会議幹部会令で解除された。しかし同年11月24日の党中央委員会幹部会決定は、北カフカス諸民族に自治領復活を認めながら、クリミア・タタール人には認めなかった。その理屈は理不尽なものだった。まず、かつてのクリミア自治共和国は多民族で構成され、クリミア・タタール人は人口の5分の1にも満たなかったこと、第二にロシア共和国内にタタール自治共和国があるのでそこに移住が可能なこと、第三に自治共和国は1946年にクリミア州となり54年にウクライナに移管されたので、すでに新しい住民が居住していることだった。
1950年代後半に党幹部への投書や幹部との面会を主導したのは、旧自治共和国のエリート、退役軍人、戦争英雄であり、「クリミア・タタール人の民族問題で党と政府に協力するイニシアチヴ・グループ」を組織した。この頃はまだクリミアへの違法帰郷の規模は散発的だったとはいえ、クリミア・タタール人の活動家は、1957年夏の全世界青年祭に際してタシュケントを訪問したインドや日本の代表団に文書を手渡し、問題の国際化も図った。他方でモスクワは、クリミア・タタール人を中央アジアに定着させるべく努めた。
イニシアチヴ・グループはその正式名称にも表れるように、ソ連の権力とイデオロギーに従順だった。しかし1960年代には、中央アジアで育ち国家機関での職歴のない若者が運動を急進化し始める。当時、クリミア・タタール人の間には歴史や文化への関心が高まり、若者たちは自分探し、年配の世代は自分たちが裏切り者でも敵でもないことを証明する願望に駆られていた。1965年頃からは請願運動に加えて、路上での大規模デモが行われるようになる。モスクワの人権活動家との緊密な関係ができるのもこの頃である。
1967年9月5日の最高会議幹部会令は、クリミア・タタール人に対する国家機関の不当な決定を撤回すると同時に、彼らがウズベク共和国等に定着したことを確認するものだったが、これを契機にクリミアへの帰郷が始まった。クリミア当局は、住民登録を拒み、購入した家を取り壊し、就業拒否や裁判などあらゆる手段を尽くして帰郷者の定住化を妨害した。にもかかわらず、1977年はじめまでに約1万人が定住に成功した。他方、アンドレイ・サハロフが1975年12月のノーベル賞受賞講演で、クリミア・タタール人に言及したように、人権団体の働きでクリミア・タタール人の境遇が世界の関心を集めるようにもなった。このような時代に頭角を現したのが、現在もカリスマ性を保つムスタファ・ジェミレフである。
ペレストロイカ期の1989年、クリミア・タタール民族運動組織が結成され、ジェミレフは初代議長に選ばれた。1991-1993年に議長になったのがレファト・チュバロフである。1989年6月にフェルガナ盆地でメスヘティヤ・トルコ人とクリミア・タタール人に対する襲撃が発生すると、避難民がシンフェロポリで住居と職の保障を求めるデモを行ない、バフチサライ郡ではクリミア・タタール人が占拠した土地にテントを設営し始めた。こうして11月にはソ連邦最高会議がクリミア・タタール人を完全に名誉回復し、帰郷の権利を認め、多民族構成のクリミアの自治を回復することを可決した。1990年5月までにクリミアへの帰郷者は83,116人を数え、うち82,283名が住民登録した。
ウクライナからロシアへ
1991年2月21日、ソ連のウクライナ共和国最高会議はクリミア自治共和国の復活を可決したが、クリミア・タタール人はあくまでも自分たちを名称民族とすることを要求した。6月末、1917年の再現を念頭にクリミア・タタール人はクルルタイを開いた。この時に執行部として選出されたのがメジュリスである。ジェミレフはこの議長を2013年10月まで務め、その跡をチュバロフが継いで今に至る。
メジュリスは自治共和国の議会と並行するクリミア・タタール人の最高代表機関であるが、社会団体としての法人登録はしていない。この自立性は諸刃の剣だ。一方でメジュリスは、クチマ時代の1999年5月に大統領付属機関として設けられたクリミア・タタール代表会議に代表を独占的に送ることができた。他方でメジュリスは2010年の大統領選でヤヌコヴィチを支持しなかったので、メジュリスの反対派が過半数の代表権を握るようになった。また現在、メジュリスの自立性はロシア当局がこの団体を過激派として攻撃する格好の口実となっている。そこでメジュリスの中からは、ロシア帝国による併合後とボリシェヴィキ政権成立後と同様、新しい統治の現実に参加することで利益を得ようとする者が現れている。クリミア議会副議長レムズィ・イリヤソフとシンフェロポリ副市長テイフク・ガファロフはその典型である。ジェミレフとチュバロフはクリミア併合に断固反対する立場を堅持しクリミアに入ることがクリミア当局に禁じられている事態が続いているので、メジュリスの分裂は決定的だ。この秋にもイリヤソフがクリミアに残るメジュリスの議長に就任するのではないかとの観測もある。
とはいえ、独立ウクライナがクリミア・タタール人にとって居心地のよい場所だったわけではない。2004年までに25万人のクリミア・タタール人が帰還して人口の一割強を占めるに至ったが、失業や住宅・土地の問題は解決されなかった。ウクライナの主導で1992年10月に強制移住者の帰還を支援するためにCIS諸国間でビシュケク合意が結ばれたが、ウクライナでは土地の権利を回復するための法律が作られなかった。よってクリミア・タタール人は、不法占拠した土地の所有を徐々に合法化していくという困難な戦術を採らざるをえなかった19。2014年5月16日にソチでクリミア・タタール人の代表団と会談したプーチン大統領は、ロシアでは被抑圧諸民族の名誉回復に関する法律が1991年に出ていることに言及し、さらに今年4月21日に署名した大統領令でクリミア・タタール人の地位回復を全面的に遂行することを指示したと表明した。会談の中でプーチンは以下のようにも述べた。「タタルスタンの成長ぶりには見惚れている。(中略)クリミア・タタール人にもクリミアだけでなくロシアでリーダーになれる可能性が十分ある」20。
ソ連解体後クリミアでもイスラーム復興が著しいので、帝政期と同様、イスラーム権威の再編が苛烈な政治を生み出している。ここにもヴォルガ・ウラルのタタール人が深く関与している。クリミアには1991年にメジュリスの主導で宗務局が発足し、クルルタイ系の議員に票を集める役割も果たしてきた21。今年3月の住民投票後には、モスクワのムフティー、ラウィール・ガイヌッディンがクリミアを訪問、クリミアの第三代ムフティー、エミルアリ・アブラエフと緊密な連携を確認した。その一つの成果として今年は、昨年の2倍の150名がガイヌッディンの認可する旅行会社を通じてメッカ巡礼に出た。もちろん巡礼者はロシアのパスポートを所持している22。他方で、18世紀末から数えて第12代目のウファのムフティー、タルガト・タジュッディンも8月末、既存の宗務局に対抗するタヴリーダ・ムフティー庁の設置に肩入れしたといわれている。この新しい組織のムフティー、ルスラン・サイトヴァリエフは、キエフのウクライナ・ムスリム宗務局がメジュリスに近いクリミア宗務局に対抗するために2010年に作ったと言われる「クリミア・ムスリム宗教センター」の幹部の一人である23。
こうしたロシアの宗教指導者の介入は、「伝統的イスラーム」と「原理主義」を峻別する政治もクリミアに持ち込んでいる24。ウクライナ内部での自由を享受して、クリミアのイスラーム復興にはトルコやアラブ諸国が多大な貢献をしてきた。クリミアにはロシアで禁止されている解放党(ヒズブッタフリール)さえ活動している。しかし現在、解放党系の文献を数多く含むロシア連邦法務省の過激派資料一覧に基づく捜索が宗教施設で展開されている25。そしてそれは皮肉にも、外国のイスラーム組織の参入を目障りに思ってきた既存の宗務局の「伝統的な権威」を高めることにもなる26。同じく「伝統」を掲げる新しいムフティー庁は、メジュリスと両輪を成す宗務局を牽制する役割を担っているといえる。
ロシアはヴォルガ・ウラルのタタール人を仲介に様々な領域に統治を浸透させている。しかしそれは、過去20年で著しく自立性を喪失したと感じているタタルスタンから相応の見返りを求められるだろう。そして今やクリミアとヴォルガ・ウラルのタタール人は相互の状況を参照しながらモスクワを批判する可能性を得た。両タタール人は、ロシアが多様性を包摂する国民を作り出していく際の試金石となる。
長縄 宣博(ながなわ・のりひろ)
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター准教授
東京大学文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は中央ユーラシア近現代史。編著にVolgo-Ural'skii region v imperskom prostranstve: XVIII-XX vv. (Moscow: Vostochnaia Literatura, 2011)、論文に“Holidays in Kazan: The Public Sphere and the Politics of Religious Authority among Tatars in 1914,” Slavic Review 71, no. 1 (2012)などがある。
*本稿の内容は、スラブ・ユーラシア研究センターなど、いかなる組織を代表するものでもなく、執筆者個人の見解です。 なお、『ユーラシア研究』51号、2014年、12-16頁にも掲載されています。
1“Il’mi Umerov, Bakhchisarai: ‘Ia, kak posledovatel’nyi politik, dolzhen byl uiti’” http://www.business-gazeta.ru/text/112111; Mustafa Chaush, “Il’mi Umerov: Kogda nado budet prinimat’ rossiiskuiu prisiagu – uidu” http://ru.krymr.com/articleprintview/25473036.html 以下、URLは2014年9月23日現在有効。
2“Shaimiev stroit most mezhdu Krymom i Moskvoi” http://www.business-gazeta.ru/text/99294
3“‘Chelnochnaia diplomatiia’ komandy Rustama Minnikhanova kak sekretnoe oruzhie Vladimira Putina” http://www.business-gazeta.ru/text/105265
4 ソ連解体後から2014年3月の住民投票に至るクリミアの政治については、松里公孝「クリミアの内政と政変(2009-2014)」『現代思想』42巻10号(7月号)、2014年、87-101頁。本稿の現状分析は、3月から半年間のロシア編入過程に集中する。なお本稿を執筆するにあたり、宇山智彦、小松久男、松里公孝から貴重な助言を得た。記して謝意を示したい。
5 D. Iu. Arapov, Sistema gosudarstvennogo regulirovaniia islama v Rossiiskoi imperii (posledniaia tret’ XVIII-nachalo XX vv.) (Moscow, 2004), 53, 86-89.
6 Rossiiskii gosudarstvennyi istoricheskii arkhiv (RGIA), f. 821, op. 133, d. 576, ll. 156ob.-157.
7 Arslan Krichinskii, Ocherki russkoi politiki na okrainakh, chast’ 1, k istorii religioznykh pritesnenii krymskikh tatar (Baku, 1919), 1-50.
8 Kelly Ann O’Neill, “Between Subversion and Submission: The Integration of the Crimean Khanate into the Russian Empire, 1783-1853” (PhD diss., Harvard University, 2006), chapter 2.
9 V. Iu. Gankevich, Na sluzhbe pravde i prosveshcheniiu: kratkii biograficheskii ocherk Ismaila Gasprinskogo (1851-1914) (Simferopol’, 2000), 18-22, 67-81. この著名なクリミアの歴史家は、2014年4月30日に死去した。
10 Rossiiskii gosudarstvennyi voenno-istoricheskii arkhiv, f. 400, op. 14, d. 16265, ll. 25-32, 49-52, 61-62; I. M. Muftiizade, Ocherk stoletnei voennoi sluzhby krymskikh tatar s 1784-1904 g. (Simferopol’, 1905).
11 Mara Kozelsky, “Casualties of Conflict: Crimean Tatars during the Crimean War,” Slavic Review 67, no. 4 (2008): 866-891.
12 Eric Lohr, Russian Citizenship: From Empire to Soviet Union (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2012), 91-92, 106-108.
13 James H. Meyer, “Immigration, Return, and the Politics of Citizenship: Russian Muslims in the Ottoman Empire, 1860-1914.” International Journal of Middle East Studies 39 (2007): 15-32.
14 拙稿「帝政ロシア末期のワクフ:ヴォルガ・ウラル地域と西シベリアを中心に」『イスラム世界』73号、2009年、8頁。
15 RGIA, f. 821, op. 133, d. 561, ll. 1ob.-2, 19-20; d. 598, ll. 111, 113.
16 この段落は基本的に以下を参照。S. M. Iskhakov, Rossiiskie musul’mane i revoliutsiia (vesna 1917 g. – leto 1918 g.) (Moscow, 2004), 153-154, 410-413, 454-455.
17 この段落は基本的に以下を参照。Alexander Bogomolov et al, “Islamic Education in Ukraine” in Michael Kemper et al., eds., Islamic Education in the Soviet Union and its Successor States (London: Routledge, 2010), 77-88.
18 強制移住と帰還運動については、Gul’nara Bekirova, Krym i krymskie tatary v XIX-XX vekakh: sbornik statei (Moscow, 2005), 164-191. また、1950年代後半については以下も参照。半谷史郎「フルシチョフ秘密報告と民族強制移住:クリミア・タタール人、ドイツ人、朝鮮人の問題積み残し」『ロシア史研究』75号、2004年、85-100頁。
19 “Krymskie tatary v plenu u obstoiatel’stv” http://www.svoboda.org/articleprintview/24973851.html
20 “Vladimir Putin – krymskim tataram: Posmotrite, ia liubuius’ tem, kak Tatarstan razvivaetsia” http://www.business-gazeta.ru/text/104406
21 Swietłana Czerwonnaja, “The Islamic Factor in the Crimean Tatar National Movement in the Late Twentieth and Early Twenty-First Centuries,” Religion, State and Society 35, no. 3 (2007): 209-213.
22 “Krymskie musul’mane smogut sovershit’ khadzh v 2014 godu” http://dumrf.ru/regions/82/event/8511
23 Emir Dostim, “Komu ponadobilos’ sozdanie eshche odnogo muftiiata v Krymu?” http://ru.krymr.com/articleprintview/26545650.html もっともタジュッディン本人は後日、関与を否定している。“Tadzhuddin oproverg svoe uchastie v sozdanii Tavricheskogo muftiiata” http://ria.ru/religion/20140911/1023654990.html キエフのムフティー、アフマド・タミムはレバノン系で、エチオピアのイスラーム神秘主義教団の道統を継いでいる。1992年8月にタジュッディンの代理人(ムフタシブ)としてウクライナの管轄を任されたが、翌年4月にウファから独立したムフティーとなった。Czerwonnaja, “The Islamic Factor,” 209-210. そもそもアフマド・タミムがどのようにタジュッディンと接近したのかは今後調査しなければならない。
24 この政治のタタルスタンにおける近年の表れについては、拙稿「 7月19日のカザンにおけるテロの背景に関する一考察」http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/essay/PDF/20120803naganawa.pdf
25 “Federal’nyi spisok ekstremistskikh materialov” http://minjust.ru/ru/extremist-materials?search=&page=8
26 “Missiia i perspektivy DUM Kryma” http://www.muslim.ru/articles/116/5548/?sphrase_id=8745
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