アウスグライヒ体制下のハンガリー陪審法制
Copyright (C) 2000 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
All rights reserved.


はじめに

 ハンガリーで刑事裁判に本格的に陪審制 (1) が導入されたのは、1896年法律33号(施行は1901年)の刑事訴訟法においてである(2)。全面的に改正された1951年法律3号の刑事訴訟法は、もはや陪審制を採用しておらず、今日も採用されてはいない。陪審制は、採用されていた間も紆余曲折を経ており、1908年と1914年に大規模な改正が実施されている。このうち本稿で扱うのは、陪審制に関する研究の導入部分として、成立当時の法制である。
 ヨーロッパ大陸諸国の中で、ハンガリーでの陪審制導入時期は遅い部類に属する。大陸諸国に近代的陪審制度が急速に普及していった最初の契機はフランス革命やナポレオンのヨーロッパ制覇である。フランス、フランス領となったライン左岸、イタリアに続いて1830年代にベルギー、ポルトガル、ギリシアで陪審制が導入されている。1848年革命前後にはドイツの諸邦で立法が相次ぎ、それらの集大成が1877年のドイツ帝国刑事訴訟法となった。オーストリアでは1850年の刑事訴訟法で陪審制が導入され、いわゆる新絶対主義の時代に停止された後、1873年の刑事訴訟法で再び復活する。ロシアでも、1864年の司法改革において陪審制は眼目の一つであったという (3) 。若干の例外を除けば、北欧諸国も含めて1880年代には大部分のヨーロッパ諸国において、陪審員が事実問題、職業裁判官が法律問題を判断するという陪審制の様式が整っていたとされる(4)
 これだけの勢いで陪審制度が普及する推進力となったのは、陪審制の合理性よりもむしろ、司法への民衆参加に対する期待という政治的動機に求められる(5)。絶対主義国家の支配形態に適合的であった官僚制的司法に対して、陪審制は、市民の自由や権利を擁護する砦として広く支持されたのである。だからこそ、とくに生命や身体の自由を著しく制限する重罪、政治的犯罪、出版物犯罪 (6) への適用が求められたのである。
 ハンガリーにおいても、こうした時代思潮に見合った陪審制導入の動きが1840年代に進められていた。1830年代からアメリカ、ドイツを筆頭に諸外国の立法例の研究や調査旅行の成果が報告されている(7)。 この時期の法典編纂活動全体を通して中心人物であったサライ(Szalay László・ 1813-1864)も、集団評議による判決発見手続を評価する論説を発表したり、英国から最新の刑事手続法案を持ち帰るなど、早くから英米法の陪審制に注目していたことがうかがえる(8)。こうした尽力の成果として、デアーク(Deák, Ferenc, 1803-1876) (9) が1841年から1843年にかけて委員長を務めた法典編纂委員会では、陪審制の導入のほかに執行猶予や死刑制度の廃止まで盛り込まれた進歩的な刑法および刑事訴訟草案が作成されていたのである。もっとも、あまりに斬新であったこの草案は、議会を通過できず、わずかに出版法(Sajtótörvény, 1848: 8 tc.)についてだけは、陪審制の導入が認められたにとどまっていた。
 独立戦争の鎮圧と1850年代の新絶対主義体制を経て、ハンガリーに陪審制の導入が実現した頃には、ヨーロッパ各地ではすでにその政治的情熱も冷め、実務上の諸問題がいたるところで顕在化した結果、参審制へと移行が始まっている最中であった (10) 。そのことについて、ハンガリーの為政者や法律家は充分情報を得ていたばかりか (11) 、出版法に関する裁判で導入されていた陪審制の成果が思わしくないことも承知していたはずである (12)
 では、このような時期に導入されたのは、いったいどのような内容の陪審制度だったのか。ハンガリー近代立法史の中で、および同時代のヨーロッパ諸国における陪審制度の中でどのように位置付けられるのか。本稿の目的は、これらの問いかけに可能な範囲で取り組みながら、二重体制下のハンガリー陪審制について基礎的な研究をまとめることにある (13)

1.近代ヨーロッパ法史におけるハンガリー陪審制の位置付け

(1) 先行研究の概観
 先に提起した視点のうち、19世紀ハンガリー法制史に関する研究について、ハンガリー国内ではチズマディア、コヴァーチ、アストロシュの共著による『ハンガリー国家と法の歴史』 (14) が法制史の基本書とされてきたほか、国外ではドイツのフランクフルトにあって「ヨーロッパ法史研究の中核的存在」と称されるマックス・プランク研究所の出版物が充実している (15)
 ヨーロッパ大陸諸国の陪審制度の歴史に関する先行研究は決して少なくなく、最近の日本でも、法学および隣接諸分野の学界、実務法曹の両側から研究が進められてきている (16)
 ハンガリーの陪審制度に関して国内の文献、アーカイヴや統計資料をもある程度そろえ、まとまった研究をしているのはチズマディアである (17) 。「自由主義的であるというにはきわめて控え目にとどまった」陪審制の性格について (18) 、社会学的アプローチを加えて立証しようとしている。陪審員の選出過程や陪審裁判の事物管轄に、富裕な知識階級の意向が働いていたこと、司法大臣の権限が強化され、裁判に政治的圧力が加えられたことなど、興味深い示唆が随所に認められる。本稿でも基本的な知識はこれに負うところが大きい。しかし、この制度を大陸諸国の近代的な陪審制度全体の中で位置付けるという視点は重視されていないようである。

 ここで、1896年に成立したハンガリーの刑事訴訟法および陪審制度の導入過程が、ハンガリーの歴史にとって特につながりの深い同時代のオーストリアやドイツの文献にしばしば登場している事実に注目したい。
 いうまでもなく法律の解説というなら、 理想的にはまず自国民にむけた自国語の注釈書をひもとくべきであると思う。 だから外国雑誌に掲載されたいくつかの雑誌論文をもって、ハンガリー刑事訴訟法の注釈書がわりにしようという意図は、筆者にはない。これらを参考とするについては、 確かに解釈の拠り所とする部分もあるが、 むしろ当時のハンガリーの法学者たちが、国際的な場で自国の法をどのように紹介したか、どのような点を強調したかったかを重視したい。
 それにしても、とくにオーストリア、ドイツとハンガリーの関係に注目するのかを明らかにするために、19世紀におけるハンガリーの刑事立法活動に両国がどのような関わりを持っていたか、敷衍しておく必要がある。

(2)オーストリア法との関わり
 オーストリアは周知のとおり、1867年から1918年にかけての二重君主国時代に、それ以前の「支配者」から、ハンガリー側の解釈によればパートナーとなった (19) 。司法分野は、直接には両国の共通事項に含まれていなかったが、互いの立法作業については、他の国以上に強い関心を寄せていたとしても不思議ではない。幾つかの代表的な専門雑誌のうち、本稿で扱うのは、二重体制下の1872年に創刊された、オーストリアではブリアン(Max Brian)とヨハンニ(Lothar Johanny)による『法律雑誌』(Juristische Bläter)である (20) 。そこでは広範囲の地域にわたる司法情報を多く掲載しているが、ことハンガリーの司法情報に関しては、主題別のまとまった寄稿文や「週刊情報」(Wochenschau)で登場する以外に、ブダペシュトからの「月間司法報告」(Monatlicher Justizbericht)が組まれ、立法作業の進行状況から司法省の人事にいたるまで、ハンガリーの法状況に関するさまざまな話題を知ることができる。報告者の名は明記されている場合とされていない場合とがあるが、明記されている場合から判断すると、ハンガリーの裁判官や弁護士といった実務法曹であることが多い。この中に、陪審制に関する話題も登場することがある。
 しかし、注意しておかねばならないのは、ハンガリーの立法者達がオーストリアの法制度や法学を素直に継受していたのではなかったことである。かといってオーストリアからの影響は決定的であったことも否めない。両者の法関係史は、微妙に複雑な経緯をたどってきていることがわかる。
 そもそもハンガリーでは、法一般について近代化が本格的に始まったのは19世紀になってからのことであって、それまでは慣習法が根強く支配していたことで知られる。法制史については、次のような言説さえ唱えられている。

 普通法(ius commune)が、オーストリアを含めたドイツ帝国の法であった限り、ハンガリー法学はこの法に背いていた。しかし、ドイツも含めたヨーロッパ法がオーストリア法と区別できるようになってから、これに従うこととなったのである (21)

この点が最も顕著に表れているのは私法史に属する分野である。すなわち3世紀ほどの間、ハンガリーで事実上の私法典として効力を有していたのは、ヴェルベーツィ(Werbőczy, István)の手による通称『三部法書』(正式名称は Tripartitum Opus Juris Consuetudinarii Regni Hungriae: Magyarorszag Szokasos Joganak Harmaskonyve)であり、封建的勢力の拠り所となっていた (22) 。 このため、立法者および実務家達は「外国法が土地の慣習に取って代わることがないよう」務めており、若干の学者たちによるローマ法継受の試みも、あるいは啓蒙専制君主ヨーゼフ二世によって試みられた自然法思想に基づく法典編纂も、依然として排除され続けてきた。大学の法学教育においても、国内の慣習法の講座がおかれたのはオーストリアよりも早かったほどである(23)。その一方で、法理論としてプーフェンドルフやヴォルフの自然法学がハンガリーに入ってきたのは、オーストリアのマルティニ(Karl Anton von Martini)を経由してのことであった。
 19世紀に入ってからも、両国の政治関係を反映した微妙な法の関係が続く。1820年代に始まり、1840年代で頂点に達するハンガリーの諸改革の項目には、近代的な法典編纂も含まれていた。その結果、今度はハンガリーを代表する知識人たちがフランス、ドイツ、中にはイギリスやアメリカにまで足をのばして諸外国に学び、その経験をもとに立法作業に取り組むことになる。ところが、この試みは1848年革命の挫折によって阻まれ、1850年代にはオーストリア法が強制的に適用されることとなる。1860年の10月勅令、それを受けて開かれた1861年の勅選裁判官会議(Országbírói Értekezlet, Judexcurialkonferenz)ではさらに一転して、オーストリア法適用以前の状態に戻すことが決められるが (24) 、それまでに法実務に定着したオーストリア法の影響は、簡単に拭い去ることができなかったようである。
 
 陪審制の導入過程についても、ライタ川以西と以東の間では、同調と反発が相半ばする関係を認めることができる。
 オーストリアでは1848年に、まずは出版物犯罪についてのみ陪審制が導入され (25) 、1850年の刑事訴訟法で重大犯罪と政治犯罪へと適用範囲が拡大されている。 「新絶対主義」の時代には、ハンガリーにも適用されることとなる1853年の刑事訴訟法(26)により陪審制は全面廃止となるが、1867年の12月憲法では特定の犯罪、政治犯罪および出版物違法行為に陪審制を導入することが明文化され(11条) (27) 、これを受けてユリウス・グラーザー(Julius Glaser, 1831-1885)の起草による1873年の刑事訴訟法 (28) では、陪審制が1850年当時と同じ規模で復活することになる。
 オーストリアで陪審制が成功しているとは、ハンガリー側は思っていなかったようである。1873年『法律雑誌』の月間報告では、「ペシュターロイド」(Pester Lloyd)紙の社説が引用されているが、それによれば、陪審制度など導入しようものなら「地域によっては決った人物の恣意を許し」かねず、「その効果を時折、逐次停止させるという陪審裁判制度の留保付き導入には全く気が進まない。そのような作品など、我々はうらやむこともなく、心安んじて見ておればよい。」 (29) と述べられている。
 陪審裁判を「逐次停止」させる「留保付き導入」とは、オーストリアで1873年、刑事訴訟法とともに公布された「陪審裁判所の一時停止に関する法律」(30)を意味している。この法律によれば、「判決が公正かつ中立であるという保障ができないような事態が生じた場合」、内閣は最高裁判所の聴聞を経て、「特定の犯罪についてまたは全面的に特定の地域について」陪審裁判の実施を、最高1年まで停止することができるとされていた(1条)。その間は第一審裁判所の裁判官すなわち職業裁判官が事件を担当することになる (31)
 このような停止法の導入に向けて、刑事訴訟法の起草者にして司法大臣であったグラーザーがくりかえし強調するのは、「陪審制度が政治手段に悪用される危険を防止するため」であった (32)
 この法律が最初に適用されたのは、1882年ダルマチア地方のカッタロ(Cattaro)巡回裁判所区においてである。陪審制停止の理由(33)によれば、陪審員の評決に基づいて裁判官が有罪判決を出した場合に「被告人およびその親類や友人が、不当な判決であるという感情にもとづき、血讐(Blutrache)をはかる」ため、陪審員を務めた者達は「放火と殺害の危険」にさらされる例が目立った結果、陪審裁判の半数が無罪評決に終ってしまった。さらに、陪審員の職務を忌避することによって受ける罰則(34)よりも血讐を恐れるあまり、ダルマチア地方では陪審員の職務から逃げ出す人々が増加している、という報告 (35) もなされていた。
 1880年代には、陪審制はオーストリアでほとんど機能していなかったといっても過言ではない。停止理由には主として、ヨハン・モスト(Johann Most, 1846-1906)の発行する「フライハイト」(Freiheit)紙(36)の扇動による労働運動の過激化と、それにもとづく陪審員たちへのテロ行為が挙げられている(37)。 1884年にはウィーンおよびその周辺のコアノイブルク、ヴィーナー・ノイシュタット裁判区で陪審制されたのみならず、「最高1年間」という停止期間が1886年6月まで延長されている (38) 。ところが、停止期限の1886年6月になると、今度はオーストリア全域について2年間、陪審制が停止されてしまう(39)。1888年8月1日の内閣令では、ウィーン、コアノイブルク、ヴィーナー・ノイシュタット、ウェルス、グラーツ、レオーベン、クラーゲンフルト、ベーメンおよびメーレンの工業地域、というオーストリアの主要地域で、停止期間がさらに一年間延長されてしまう (40)
 その後、次にこの一時停止法が適用されるのは1914年であるから(41)、それまでは再びオーストリアで陪審制が運用されていたことになる。ハンガリーで陪審制を含めた刑事訴訟法が成立するのは、ちょうどこの時期にあたる。ひとつには、かつてのハプスブルク帝国支配のように法制度を押し付けられるのでなく、自ら陪審制度の導入を選択することができれば、オーストリアの陪審制度は、最も参考としやすい存在であったとも考えられる。

(3)ドイツ法学の影響
 ハンガリーの陪審制は自国の投稿者達によって、相互に対抗的な傾向を強めつつあったドイツの代表的な刑法雑誌である『全刑法学雑誌』(Zeitschrift für die gesamte Strafrechtswissenschaft (42) や『法廷』(Der Gerichtssaal: Zeitschrift für Strafrecht, Strafprozeß, Gerichtliche Medicin, Gef´änißkunde und die gesammte Strafrechtsliteratur (43) にも紹介されている。とくに前者は、創刊当初から外国記事欄が充実し (44) 、読者層も世界各地に広がっていたため、自国の制度を国際的に発表する場としては理想的であったと思われる。
 しかし、ハンガリーの法律家がドイツの雑誌に自国の制度を紹介する場合、国際的知名度を得る以上の意味があったと考えられる。なぜなら、他の法分野同様、陪審制についてもドイツ法の影響が決定的であり、ハンガリーの立法者たちとドイツ法学者との交流が深かったからである。
 そもそも、1840年代に陪審制を含む刑法典及び刑事訴訟法典の編纂が試みられた時、この立法作業に決定的な影響力を及ぼしたのは、当時から「ドイツで最大の刑事法学者」と称賛されていたミッターマイアー(Carl Joseph Anton Mittermaier, 1787-1867)を筆頭とするドイツ法学者の意見であった(45)。『全刑法雑誌』への執筆者で新制度の確立に意欲的な姿勢をとっているファイエル (46) の紹介によれば、とりわけミッターマイアーと主だった改革推進者たち、すなわちデアーク、サライ(Szalay, László, 1813-1864)、プルスキー(Pulszky, Ferenc, 1814-1897)らとの交流が重視されている (47) 。1840年代の法案が陽の目を見ないままに終わっても、法曹界での交流が途切れるわけではなかったから、ハンガリーの立法者たちにとって、ドイツの法学界は常に指導者であり、いの一番に報告しなければならない存在であったと考えられる。

 『法廷』の投稿者であるドレシャル(Doleschall, Alfréd, 1864-1931)は、自身も反対者であることを表明しているとおり、出版法の経験等を省みながら陪審制度に批判的な意見を表明している (48) 。また、刑事法学者として新刑事訴訟制度に詳細な解説を試みていたこと、旧派の代表者にして陪審制度の反対者でもあったビンディング(Karl Binding, 1841-1920)に傾倒していた。反対の意見表明も、ドイツの法学界でなされなければ、いわば市民権を獲得できなかったように推測される。
 『法廷』では、ほかに弁護士のグルベルという人物も、ハンガリーの陪審裁判制度を紹介している (49) 。 解釈や論評を差し挟まず、簡単な概要紹介に終始しているが、ドイツ帝国刑法の該当条文が挙げてある。これは、ドイツの読者への配慮からであると考えられるが、整合的に条文が対応する様子からも、ドイツ法が重視されていたことがわかる。

2.陪審法制の内容

(1)陪審制の法源
 ハンガリーの陪審制度は三種類の法令から構成されている。 法廷での手続は刑事訴訟法(1896年法律33号)に定めてあり、 陪審となる資格や名簿の作成など、公判以前の準備手続は陪審法(1897年法律33号)に規定されている。このほかに、刑事裁判所ごとの事物管轄、すなわちどのような刑事事件がどの刑事裁判所で裁かれなければならないかについては刑事訴訟法施行法(1897年法律34号)の中に条文があるが、陪審裁判についてもその中で規定されている。当時のハンガリーの刑事裁判所には、今日の簡易裁判所に相当する、農村部の郡裁判所(járásbíróság)および都市部の単独判事裁判所(egyesbíróság)があり、国王裁判所の合議部(királyi törvényszég, királyi ügyészség)および陪審裁判所(esküdtbiróság)が予定されていた (50) 。上訴機関には、郡裁判所ならびに単独判事裁判所に対して国王裁判所、国王裁判所に対して控訴院(király ítélőtábla) (51) がある。この上に破棄院としての国王裁判所 (királyi Curia)があった。
 1897年法律33号の1条には、すべての刑事裁判所に3名の職業裁判官と12名の陪審員から成る陪審裁判を開く原則が掲げられている。陪審裁判所を構成する場合、裁判長を任命するのは控訴院長であった(2条)。

(2)陪審裁判の事物管轄
 施行法によれば、陪審裁判に付すべき事件とされるのは、まず15条1項で、5年以上の自由刑より重い刑罰の対象となっている重罪の大部分と公共に対するこれらの犯罪への扇動、2項で出版物犯罪の場合となっている。対象となる重罪には、国王および王家に対する反逆罪および反逆罪に至らない程度の侮辱ないし暴行罪、国家に対する反逆罪、暴動および叛乱のうちの重罪、公職者の職権濫用について加重事由のある場合、殺人、保護責任を負っている者に対する遺棄致死罪、重傷害および傷害致死、公衆衛生に対する罪、未成年者略取誘拐罪、拘禁と傷害、強盗、放火、水害をもたらした罪、往来妨害罪で死傷者を出した場合、収賄罪が挙げられる。このうち一部の政治犯罪すなわち、国王ないし国家に対する反逆罪や暴行罪、暴動や叛乱、背任罪およびその扇動については控訴院のある裁判区の陪審裁判所にだけ管轄権が認められていた(52)
 続く16条によれば、誹謗・中傷および名誉毀損罪について裁判する場合、通常の第一審裁判所すなわち国王裁判所で裁かれることになっているが、刑法262条および461条に列挙されている人物が対象となっている場合には陪審裁判所が担当する事件となる。 ここでいう人物とは、例えば国や地方の議会、行政府、司法機関に所属する者や、公立の病院其の他公共施設に勤める人物など、公的性格を有する者を指している。
 他の立法例と比較した場合、 事物管轄に関する特徴は次のようにまとめられる。まず、陪審裁判の対象とされる罪の範囲がかなり制限されている。5年以上の自由刑を科せられる可能性を含む犯罪であっても、陪審裁判に付されない犯罪もある。例えば、通貨偽造罪(第11章)、偽証罪(第12章)、文書偽造罪(第32章)などである。この点につき、ドレシャルの説明によれば、これらの犯罪行為の基礎となる要件(構成要件)が非常に複雑であるため素人の判断になじまない、と起草者が判断したそうである。しかし、いずれもオーストリア法やドイツ法では陪審裁判に付されるとされている。
 またドイツやオーストリアに入っている窃盗、横領、詐欺罪は、ハンガリー刑法はいずれも5年以下の刑罰しか予定していないため、陪審裁判には付されないこととなる。この点について、金額のとくに大きい場合には最高10年までの自由刑にする予定があることがファイエル報告では伝えられている (53) 。 これは「諸外国並みの」陪審裁判を導入したい姿勢ではないかと思われる。実際には、これが実現するには1908年の法改正まで待たなければならなかったのである。
 施行後、全国規模でみると、陪審裁判は、少なくとも施行後10年間にわたって持続的にハンガリー王国内の全公判件数の1割から2割近くを占めていることまでは推測がつくが (54) 、それ以上のことは見当がつかない。わずかに推測できるのは、地域差が相当にあったということだけであり、散在する統計資料の整理が求められる。陪審裁判で裁かれていたのは政治犯罪よりも、多くは個人の法益に関する犯罪であって、1904年から1908年の間に陪審事件の半数近くは殺人罪、次に傷害罪、強盗および恐喝と続く(55)。もっとも、ブダペシュトでは出版物犯罪が相当な割合を占めていた (56)

(3)1897年法律33号
(3-1)陪審員となる資格
 陪審員となる要件については、4条から7条にかけて定められている。まず大前提として、満26歳以上70歳未満のハンガリー国籍を有し、ハンガリー語(フィウメにおいてはイタリア語)を理解し、読み書きできる男子の中から、財産か学歴条件のうちいずれか一方を満たさなくてはならない(4条)。すなわち、年額20クローネ以上の直接国税納税者または(免税措置を受けている場合は)その納税年額に相当するだけの財産を所有すること(4条1号)、あるいは所定の高等教育を受けていること(4条1号)が規定されている (57)
26歳以上というのは、ドイツ帝国裁判所構成法、フランス治罪法、オーストリアの名簿作成法で定められた30歳から比べてかなり低い。ドレシャルによると、これは「陪審裁判に多大な信頼が寄せられている」証拠だそうであるが (58) 、必ずしもそうとは断言できない。 そもそも、イギリスでは民事上の成年と同じとされ、1864年ロシアの法では25歳以上とされている (59) 。 1848年前後に相次いだドイツ諸邦の立法例ではさまざまではあるが、プロイセン(30歳以上)をはじめ、年齢を高目に設定している例が多い。もっとも、これについては職務に対して刑事・民事責任を負わせるだけの能力があればよい、というグナイストの有力な批判があった (60)
 資格を男子に限ることも、大方の諸外国の立法例にならったと思われる (61) 。財産(62)や学歴による制限を付けることについても、当時のヨーロッパ大陸部分において、珍しい制度ではなかった (63)
 5条から7条にかけては、陪審員候補者名簿からの欠格事由と除外事由が規定されている。まず刑事責任を追及されているか民事上の行為無能力者であるため陪審員になる資格の無い者(5条)、職業の種類に基づく除外事由(6条)、そして任期が定まっているなど、特定の地位や職務に従事している者についての免除事由(7条)である。原則として、欠格事由は重罪について刑罰を受けている者、破産者、公務員としての身分を剥奪されている者、精神または身体上の欠陥によって陪審員の職務が遂行できない者など、陪審員無資格者であると判断する根拠と解される。除外事由は、陪審員としての資格は認めつつも、職業上または身分上の関係から陪審の職務から除外する事由と考えられる。
 この条文構成について チズマディアの説明によれば、ドイツやオーストリアの立法例では欠格事由と除外事由(チズマディアの言い方によれば絶対的除外事由と相対的除外事由)を区別しているが、ハンガリー法の立法者たちはこれらを区別していない、それというのも陪審員になれない点では実務上の効果にかわりがないから、という(64)。しかし欠格事由か除外事由かの区別は、裁判が有効に成立するか否かと関わってくるため重要である。すなわち欠格事由に該当する陪審員の参加した裁判は、刑訴法426条および427条で認められているように、裁判の無効の根拠となりうるのに対して、除外事由に相当する陪審員が参加した裁判については、そもそも陪審員としての資格は備えていることから、それだけで裁判の無効を主張する根拠とはならないとも考えられるのである。

 実際に、ハンガリー法の規定を目にするならば、少なくとも欠格事由が5条、除外事由は6条、免除事由が7条と、それなりに区別されているようにみえる。
 ただ、個別に項目をみていくと、分類の理由がわかりにくいものもある。例えば、同じ条文中に、大臣や知事、軍人、休暇中の船員および軍人、現職の裁判官、検察官、警察や税務局の職員、それに日雇労働者や雇用期限つきの用務員も加えられている。いずれも公務や職務内容の都合を考慮したと、ひとまずは考えられる。日雇労働者や召使についても、陪審義務を負わされればその間に移動・移転の自由を奪われ(召使は主人の移転についていけなくなり)、職を失う危険にさらされてしまうとも考えられる。
 小学校教師(65)の除外もその一つである。補助者のいない薬剤師らを除外するのと同じように、代替勤務要員が容易に確保できないと考えられて除外されることになったという説明も可能である。教育法が教師に副業を禁じていることとのつじつまも、確かに合う。それでも、小学校教師も国会や地方議会の議員にはなれたという。しかも近い職業、すなわち中等教育機関(中学校、ギムナジウムなど)の教師は除外事由に入っていない。実は、この部分の規定の仕方は、オーストリア法に酷似している。例えば、ドイツ帝国裁判所構成法では、最初に陪審員が名誉職であり、「ドイツ人」を予定している旨の原則的な条文があり(ドイツ裁判所構成法31条)、最初に刑事責任による欠格事由(32条)、未成年者を含めた民事責任上の無能力者(33条)、公職者および聖職者の除外(34条)、高齢者や医師を含めて健康上や職業上の理由から陪審員の資格を拒否できる者(35条)の順に各条文に小見出しがつけられるほど、一目見ただけでも内容が整理されているのに、ハンガリーが敢えてオーストリア法に足並みをそろえていることについては、オーストリア側の事情とあわせて検討することが求められる。

(3-2)陪審員名簿作成手続き
 陪審員選出のための名簿は、基礎名簿から年次名簿、さらに職務名簿の三段階に分けて作成される。まず、各村や都市、首都ブダペシュトにおいては区毎の単位で、それぞれの長と各行政庁の職員2名(村の場合はこのうち、1名は公証人でなければならない)によって、陪審員となり得る男子住民全員の基礎名簿(alaplajstrom)が作成されなければならない(陪審法9条) (66) 。名簿には、氏名、年齢、学歴、職業、住所、納税額、使用言語、他の候補者との親族関係の有無が必要的記載事項とされている。
 作成された基礎名簿は、毎年6月1日から2週間にわたって、「それぞれの地域の慣例に従った方法で」公示されねばならない(同法10条)。異議申立および訂正のための公示期間を経た後、 9月1日までに国王裁判所長に提出される(同法12条)。 この基礎名簿をもとに、併せて届けられた異議申立を考慮しながら年次名簿(évi lajstrom)が国王裁判所で作成される。作成にあたるのは裁判長、他1名の裁判官、3名の陪席委員(bizalmi férfi) (67) から成る委員会である。1808年のフランス治罪法では名簿の作成を県知事に一任していたことから(387条)、地方の行政権力による司法権への介入が生じた例に鑑み、ドイツ諸邦での立法以降とりいれられた制度が、この陪席委員の制度である。陪席委員は名誉職とされ、地方自治体の議会構成員から選出されることになっているが、通常は裕福な地主あるいは弁護士をはじめとする知識階級の中から選ばれていたらしい (68)
 年次名簿は陪審員候補者を選ぶ主名簿と補助陪審員を選ぶ補助名簿から成る。補助陪審員は、開廷期間中に陪審員団に欠員が生じた場合に補充されるための要員である。このため、陪審法廷の開かれる国王裁判所所在地に居住する者でなくてはならない(17条)(69)。年次名簿に掲載される人数は、補助陪審員候補者も含めて180名から360名といったように地区によってかなり差があった。
 最後に作成される職務名簿には、陪審裁判所の開廷期ごとに召集される30名の陪審員と10名の補助陪審員の名前が記載してある。これらの者の選出方法は、裁判長と2名の裁判官、検察官、弁護士会の代表立会いのもとでの籤引である(21条)。選出された候補者は、最高15日の陪審裁判開廷期間 (70) の間、裁判所に出頭していなければならない。また、補助陪審員は、召喚に応じられるよう、自宅を離れてはならない。
 陪審員の旅費と食費については裁判長が支給を決定するが、それは陪審員から開廷期中に要求された場合に限られる(22条)。この条文もオーストリアの名簿作成法25条と類似しているが、期間の限定を明記している点で、より厳格になっていると思われる。ドイツでは、費用の範囲をより広く捉えていたようであり、旅費、場合によっては宿泊費まで支給されることになっている(帝国裁判所構成法55条)。

 このように数多くの欠格事由や除外事由のふるいにかけられた後、どれくらいの人数が陪審員の候補者となりえたのか。例えばヘヴェシュ県についてみれば、陪審制施行開始の1901年で7924名が基礎名簿に登録された、とある (71) 。県全体の人口は255,345人というから、住民全体の3%に満たない割合でしか候補者が集まらなかったことになる。ヘヴェシュ県は、エゲルを中心都市とする、ワインで有名な農業地域で、人口については中ほどの位置を占めていた (72) 。都市部と農村部で格差が大きかったことを併せて考えても、全国的に見て、陪審員有資格者はきわめて少なかったと推測される。
 
(3-3)司法大臣の権限について
 ハンガリーの陪審法は、帝国のライタ川以西の部分では、陪審員名簿作成に関する法律(1873年)に相当する。但し、条文数はオーストリア法27条、ハンガリー法37条。この条文数の違いのうちには、司法大臣の権限に関する、きわめて重要な特徴が認められるものが含まれている。裁判区の調整権、陪審裁判の開廷時期、回数、陪審員の選出に関する決定権である。すべての刑事裁判所について陪審裁判を開く原則をとりながら(1条)、陪審裁判の廃止や一定の範囲内で裁判区の併合を司法大臣に認めている(34条)。期限に遅れた場合は、裁判所長から通知を受けた司法大臣が自らの権限で公式会議を開き、名簿をとりまとめることである(陪審法13条)。陪審裁判の開廷時期と回数を決めるのも司法大臣である(29条)。
 陪審制導入当時の司法大臣のエルデイは、司法大臣の裁判区調整の権限は、「民族、宗教、身分が陪審員の予断排除を阻むように作用するとすれば、そのような信用の無い地域は、他のより信頼に足る地域と併合してしまうことで対処」できる、と反対派説得の理由に用いていた節さえある (73)

(4)公判手続
 陪審裁判の公判手続は、前述の通り刑事訴訟法で定められている。
 陪審裁判が開かれるにあたって最初にしなければならないことは、12名の陪審員を選出することである。裁判長は、職務名簿に登録されている30名および補充要員の10名を召喚し、事件の当事者と関係のある人物など、絶対的忌避事由に相当する候補者を排除した後、弁護側や訴追側が交互に候補者を理由なしに忌避する。また、両者とも、忌避された中から7名ずつ呼び戻すことができる。忌避と呼び戻しによって、多く残る場合は最後にくじびきを加えて12名が残ったところで陪審員団が編成され、陪審員と補助陪審員は公開で宣誓をする(刑訴法349条)。
 宣誓の様式について原則では、はじめに裁判長が陪審員の職務にかんする宣誓の要求を唱える。事件について犯人に対する肩入れや恐れ等の個人的感情を交えずに良心と法に従い、中立性を保つこと、外部の人間との協議をしないこと、というようにかなり詳細に規定してある(同条)。これに対して陪審員は、右手を心臓の上におき「神かけて誓います」と答えることになっている。この方式が、陪審員の宗教に合致しない場合の取り扱いは、ドイツ法、オーストリア法、ハンガリー法で微妙に異なってきている。ドイツ法では、陪審員の宗教団体で通用する宣誓方式に従うことが、明文で規定されている(74)。オーストリア法では、宗教の別なく規定された方式に従うことが、まずは要求される。但し、陪審員が定められた方式に従いたくないと主張した場合には、拍手(Handschlag)を義務付けている。ハンガリー法では「名誉と良心にかけて誓います」という代替の文言を用意してある。
 この宣誓をもって公判が開始される (75) 。公判手続は起訴状の朗読にはじまって証拠調べへと進むが、補助陪審員も含めた陪審団は、判決の言い渡しまで、裁判の全日程にわたって出席している義務がある。
 オーストリア法には見当たらないが、ハンガリー法では陪審員が「被告人と向かい合って」着席することまで規定されている(350条)。英米でも大陸諸国でも、陪審員の席が被告人と正面から向き合う構造はあまり見当たらない。もっとも、例えば1890年当時の法廷を描いたオーストリアの絵画でも、被告や証人は法廷の中央に立たされ、周囲を検察官、裁判官や陪審員、傍聴人に取り巻かれるのだから、どこが正面でも圧迫感に変りはなかったかもしれない (76) 。しかし、席の位置までわざわざ明文で指定された意図が、職業裁判官と陪審員の資格の対等性にあったのか、それとも職業裁判官の統率下にまとめることにあったのかによっては、この何気ない条文の意味も陪審制の目的と大いにかかわってくる。
 証拠調べの方法は非陪審手続と共通であり、陪審員にも職業裁判官と同様に質問権が認められていること(315条)を指摘するにとどめておく。
 陪審手続に特徴的なのは、その後の裁判官による質問と説示、陪審員の評決、判決および上訴手続である。
 証拠調べの最後に訴追側と弁護側が最終弁論を終えた後、裁判長は陪審団に設問を為し、説示を与える。設問について、陪審員は評決を経て「然り」「否」で答えることになっている(354条)。主設問は、被告人自らが訴えられている犯罪行為について「有罪であるか?」否かを尋ねるもので、処罰するべき行為について法律上の標目が全て含まれていなければならない (77) 。被告人の訴えられている行為が、他のより軽い刑罰に相当する行為であるかどうか、といった予備の設問もなされる (78)
 補助設問では、刑罰の加減に関する法定事由(情状酌量や加重事由)の有無について問われる(79)
 両当事者は予め設問表をわたされており、事前に設問の変更を求めることもできる。設問表が陪審員に出されるにあたって、裁判長は犯罪行為に関する法律上の注意点、設問に含まれる法律用語の意味を説明し、評議と評決方法に関する一般的な説明をする。この裁判長の説示も記録にとられ、当事者の閲覧に供される。
 裁判官は設問表を、陪審員の中の最年長者に手渡し(369条)、陪審員は直ちに別室へと移り単純過半数主義で選ばれた議長のもとで評議に入る。票数が同じになった場合には年長者がなる(365条)。
 評決は、先に渡された設問表に従ってなされ、有罪評決あるいは被告人に不利にはたらく質問の評決には三分の二以上の同意、すなわち八名の同意を要する。その他の質問については過半数でよい。また、可否同数の評決となった場合には、被告人に有利な結果が選ばれることとされている。さらに、部分肯定や部分否定も認められている。1848年以来行われていた出版物犯罪に関する陪審裁判では、単純過半数のみがとられていたためか、「八名の同意」へと変更したことは、ファイエルで強調されている点の一つである (80)
 無罪評決が出た場合は、裁判長は被告人に無罪を言い渡さねばならない(373条)。フランス治罪法、ドイツ帝国刑事訴訟法、オーストリア刑訴法、またロシア刑訴法でもこの点は同様である。
 有罪評決が出ても、三人の職業裁判官が一致して無罪の心証を抱く場合、一回に限って新たな陪審員で審理をやり直すことができる(374条)。もっとも、再度有罪評決が出れば、裁判官はその評決に従わねばならない。しかし、その他の場合には、まず訴追側から求刑がなされ、弁護側の意見も述べられ、裁判官が量刑を決定する。このとき、陪審員が減軽または加重事由について評決を出している場合には、法律の定める範囲内でその評決に従った刑罰を科さねばならない。例えば、10年以上20年以下の重懲役または終身刑が予定されている場合には、3年以下の刑にはできない(338条第2項)。
 陪審裁判の判決について上訴の可能性は1度のみ、破棄院に対して認められている(378条)。

おわりに

 
 以上、法規定の内容を検討してきた限りで最初の問題提起に答えようとするならば、ハンガリーの陪審法制の大部分は、19世紀前半から続いてきた大陸諸国、とくにドイツとオーストリアの法制に、それもすでに問題視されつつあった古い制度に倣っていたことがわかる。もしも、法制度の近代化のために陪審制を導入しようとしたのならば、すでに1877年の裁判所構成法にも導入され、ドイツで次第に優勢になりつつあった参審制への動きこそ取り込まれなければならなかったはずであるし、オーストリアの法制については、何度も停止法が適用されている事実こそ重視しなければならなかったのではないだろうか。
 現段階で指摘しておきたいのは、陪審制度の導入にきわめて政治的な動機が働いていたように思えることである。1878年にチェメギの起草による刑法典が成立してから、刑事訴訟法典の起草は再三にわたって繰り返されていた (81) 。 そのうち1886年の草案はほぼ順調に法案として成立し、制定法となる見込みであった。裁判の公開、口頭手続、あるいは犯罪の弾劾者と裁判官の分離を定めた公訴提起主義といったいわゆる近代的刑事訴訟法の諸原則は、大方採用されていることがわかる。
 これを白紙に戻した司法大臣シラージ (Szilágyi, Dezső, 1840-1901)が、1892年にまだ大学の私講師(magántanár)のバログ (Balogh, Jenő, 1864-1953)をして起草にあたらせたのが、1896年の刑事訴訟法であった。従来の草案と新法との最も大きな違いこそ、陪審制の有無にほかならなかったから、陪審制を導入することが司法大臣のねらいであったといっても過言ではない (82)
 以上の事情と実際の法規定で司法大臣の権限がかなり広範に認められていることとをあわせて考えると、チズマディアが繰り返し強調していた通り、適正な裁判に陪審制度が果たし得る役割への期待というよりも、ハンガリー語を母国語とし、財産と教養があるハンガリー人が、そうでない人々に対して優位となるための政策、という側面が前面に出てこざるをえない。
 だからといって、陪審制が一方的に政治の道具として、行政府から利用されてばかりいたという点だけを強調しすぎるのはどうであろうか。たとえ理念上に終始する面が強かったとしても、一方で司法府と行政府の分離や裁判官の身分保障といった制度が進められてきていたことも事実だからである (83) 。そこで、こうした歯止めがどの程度働いていたか、あるいは働いていなったかを、当時の学説と判例にあたりながら実証していく作業が求められる。

注釈
Summary in English