アウスグライヒ体制下のハンガリー陪審法制
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  1. 一般に、陪審とは司法に対する民衆参加という制度として理解され、 参審制が職業裁判官とともに合議体を構成する形態であるのに対して、 陪審員が裁判官から独立して判定を下す点に特徴がある。また、本稿で陪審という場合は、審理に立会い評決をする審理陪審(または公判陪審)を意味し、正式起訴を決定する起訴陪審とは区別している。
  2. 今日にいたるまで、ハンガリーの法令表記は、年、法律番号の順で特定できる。なお、本稿で用いるハンガリーの法令は、Corpus Juris Hungarici: Magyar T.övéytár, Budapest 1740-1947に依る。表記については、刑事訴訟法について "1893: XXXIII. t. cz." を「1893年法律33号」とする例に揃えることとする。
  3. John W. Atwell, "The Russian Jury," Slavonic and East European Review 53:130 (1975), 44.
  4. Viktor Liebscher, "Rechtsvergleichende Analyse der Geschwornengerichtsbarkeit," Österreichsche Juristen-Zeitung, 19. 5. 1970. ここで言及されている若干の例外の中には、オランダやスウェーデンが含まれているが、例えばハンガリーと同じ頃に成立したブルガリア刑事訴訟法(1897年)でも陪審制はとられていない。
  5. すでに19世紀前半には、フォイエルバッハが陪審の研究に、政治的な観点と刑法上の観点を厳格に区別することを要求している。Paul Johann Anselm von Feuerbach, Betrachtungen über das Geschwornengericht (Landshut, 1813).
  6. ハンガリー語の "nyomtatvány utján elkövetett bűntettek" 、ドイツ語の "Pressedelikte" 、フランス語の"dèlits de presse"という場合、出版行為に関する違法行為の処罰と、出版物の内容に関する違法行為の処罰に分けることができる。前者は発禁・差押処分を受けていたり、認可をうけていない出版物の頒布、注文に対する処罰を意味する。刑法典ではなく、別の出版法に規定されている処罰規定である。 後者は、出版物の内容が名誉毀損であったり、猥褻物であるなど、刑法上の犯罪に該当する場合を意味し、著者のみならず出版者ないし頒布者まで処罰される。
  7. N. H.Julius, "Ein Bericht über die Kodifikation in Australien," Kritische Zeitschrift für Rechtswissenschaft und Gesetzgebung des Auslandes 12 (1840); Idem, Die amerikanischen Besserungs-Systeme (Leipzig, 1837); Bölöni Sándor Farkas, Utazás Észak Amerikában (Kolozsvár, 1834)を参照すると、英米法への関心が高かったことが認められる。また、当時の立法準備作業をまとめたものとしてKatalin Gönczi, “Wissenstransfer bei den Kodifikationsarbeiten im ungarischen Vormärz,” Ius Commune 25 (1998), p.282ff.
  8. Szalay László,“Könyvbírálat, Livingston, A System of Penal Law for the State of Louisiana (Philadelphia 1833)," Themis 1(1837), p.53ff. 
  9. 本稿では、著者名として明記されていないかぎり、各国の慣例にならい、原則としてハンガリー人の名前は姓、名の順(欧文表記では、カンマをうつ)、他の欧文人名は名、姓の順とする。
  10. この過程について、邦語文献では例えば、熊谷弘「大陸法系諸国における陪審制の運命」『司法研究報告書』13(3)、1959年、3-11頁。ドイツの事例については Eberhard Schmidt, Einführung in die Geschichte der deutschen Strafrechtspflege, 3rd ed. (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1995), pp.413-418.
  11. 例えば国際刑事学協会の名簿を見ると、1880年代末以降刑法典の起草者であるチェメギ(Csemegi, Károly, 1826-1899)を筆頭にファイエル(Fayer, László, 1842-1906)ら、ハンガリー法曹界の代表者ら20名以上の会員が名前を連ねているが、後述する『全刑法学雑誌』付録として出版されている協会の報告集には、Der Verfasser von Die Verbrecherwelt von Berlin,"Gegen die Schwurgichte," Zeitschrift für die gesamte Strafrechtswissenschaft[以下 ZStWと略す](1887) など、陪審制度に批判的な論説も度々掲載されるようになる。また、当時のオーストリア側の法律専門誌『法律雑誌』(Juristische Blätter)に掲載されるブダペストからの月間報告でも1873年以来、陪審制を批判する意見が続く。
  12. 例えば、年によって事件数の差が大きいが、1891年から1895年の平均でみると、訴追件数195件、判決まで進んだ事件55件。そのうち47件が有罪となっているが、刑罰としては6ヵ月以下の軽懲役に相当する場合が半数以上を占める(Országos magyar kir. statisztikai hivatal / Kön. Ung. Statistische Central-Amt,Magyar Statisztikai Évkönyv / Ungarisches statistisches Jahrbuch, Budapest 1872-1900.)。後の立法過程では、「小さな地方紙の人事欄に関する些細な事件」をめぐって「大掛かりな陪審法廷」を編成していては、かえってこの制度の実効性を殺ぐという意見が多数派を占めることになるのも、自国の経験に由来していると思われる。 Ladislaus Fayer, "Die ungarische strafrechtliche Gesetzgebung und Litteratur [i.e. Literatur] seit 1893," (Mitteilungen der internationalen kriminalistischen Vereinigung) ZStW 17 (1897), p.329. なお、László Fayer とFayer, László は同一人物である。
  13. 本稿は、筆者が在外研究を始めるにあたっての基礎研究である。したがって、当時の議事録をはじめとする現地の資料については、間接的にしか検討できていない部分も多いことをおことわりしておく。むしろ、現段階で収集できた資料から問題点を提起し、今後の研究動向をつかむことに重点がおかれている。
  14. Csizmadia, Andor and Kovács, Kálmán and Asztalos, László, Magyar állam és jogtörténet (Budapest, 1972).
  15. Helmut Coing, ed., Handbuch der Quellen und Literatur der neueren europäischen Privatrechtsgeschichte  (München: 1973-1988) シリーズでJános Zlinszkyが担当しているハンガリーの章は、私法史の解説および史料収集の緻密さに定評がある。最近では、Katalin Gönczi, Ungarisches Stadtrecht aus europäischer Sicht (Frankfurt am Main: Vittorio Klostermann, 1997) が、都市法レベルの研究でこれを補完する役割を果たす。
  16. 例えば Erich Schwinge, Der Kampf um die Schwurgerichte bis zur Frankfurter Nationalversammlung (Breslau, 1926) は、ドイツの近代的陪審制度成立当時の争点、学説の対立を極めて詳細に論じている。英、独、仏の比較法史研究としては、Schioppa, ed., The Trial Jury in England, France, Germany 1700-1900 (Berlin, 1987) 参照。また、欧米諸国の陪審制について、最近の日本の研究動向を示すものとして、『法律時報』の特集「陪審裁判の歴史と理念」(1992年)、比較法学会シンポジウム「陪審制の比較法文化論」『比較法研究』56、1994年、2-108頁、法制史学会シンポジウム「司法への民衆参加の歴史―西洋―」『法制史研究』45、1995年、134-187頁がまとまった情報を提供してくれる。
  17. Csizmadia, Andor, “Az esküdtb´ róság Magyarországon a dualizmus korában,” in Csizmadia, ed., Jogtörteneti tanulmányok, 1 (Budapest, 1966), pp.131-146.
  18. Csizmadiaらの前掲書(注14)、536-537頁。
  19. 1867年にオーストリア帝国とハンガリー王国間で結ばれた協定は、ドイツ語でアウスグライヒ(Ausgleich)、ハンガリー語でキエジェゼーシュ(kiegyez市)と称され、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねること、外交、軍事、財政を共通事項とすること等が定められている。Gesetz vom 24. Dezember 1867: Reichsgesetzblatt für die im Reichsrate vertretenen Königreiche und Länder [以下RGBl. と略す]. 1868/2. 邦訳として、「妥協」(パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史』恒文社、1980年の田代・鹿島訳他)、「アウスグライヒ」(矢田俊隆『ハプスブルク帝国史研究』岩波書店、1977年;南塚信吾『東欧経済史の研究』ミネルヴァ書房、1979年;大津留厚『ハプスブルクの実験』中央公論社、1995年)、「『アウスグライヒ』」(家田修「ハンガリー「近代」における「農業危機」と農業政策 (1) - (5)」『広島大学経済論叢』10/2、3、1986年;11/1、2・3、1987年)、「和協」(ボグダン『東欧の歴史』中央公論社、1991年の高井訳)等がある。筆者は、本協定が当時のオーストリアとハンガリー間で一応の和議ないし和解の役割を果たした点に鑑みて、かつて「和協」という訳語を採用していた(拙稿「19世紀ハンガリーにおける商法典編纂」『一橋論叢』115/1、1996年)。しかし、オーストリア側ではその後チェコ人との間にもこうした協定の試みがあったことからもわかるように、単一不可分な帝国の中で諸民族の「均衡」を作り出そうとしていたようにも受け取れること、またハンガリー側ではこの協定をもって対等な二国の連合国家が成立したと解していたという諸事情を反映するに適切でないと判断するに至った。そこで、本稿では「アウスグライヒ」としておく。また二重君主国時代についていうオーストリアとは、「ライタ川以西地域」(Cisleithanien)、正式名称として「帝国議会に代表される諸王国・諸州」(die im Reichsrathe vertretenen Konigreiche und Länder)とよばれる部分を指すこととする。ハンガリーという場合は、ハンガリー王国領を指し、この時期に独自の法制度を有していたクロアティア・スラヴォニアを原則として除く。問題はトランシルヴァニアであって、ハンガリー王国に編入になってからもオーストリア一般民法典が適用されるなど、例外的な存在である。但し、刑事訴訟法および陪審制に関しては、刑事訴訟法施行法2条で「クロアチア・スラヴォニアを除く」としか明記されていないことからハンガリー法の適用範囲と考えることにした。
    二重制下のオーストリア=ハンガリーにおける民族関係について、最近の研究では月村太郎『オーストリア=ハンガリーと少数民族問題』東京大学出版会、1994年、でクロアティアの政治動向について詳述してあるほか、同「オーストリア=ハンガリー二重帝国の多文化主義」初瀬龍平編『エスニシティと多文化主義』同文館、1996年、179-203頁では帝国の民族関係全体について、「中心」と「周辺」という手法で整理してある。
  20. その巻頭言によれば、従来の理論重視型の法学雑誌に対して、現実の生活に根差した法のあり方を追求し、必要な法制度改革を要求していくという。また、直接には弁護士の立場を代表しているが、その職能集団にとらわれず、広く法律家の利益と権利を考え、彼らの交流の場となることも目指されている。創刊号から寄稿しているイェーリング(Rudolf von Jhering, 1818-1892)らの影響が多分にうかがわれる。
  21. János Zlinszky, Wissenschaft und Gerichtsbarkeit: Quellen und Literatur der Privatrechtsgeschichte Ungarns im 19. Jahrhundert (Frankfurt am Main, 1997), p.1.
  22. Mezey, Barna, ed., Magyar Jogtörténet (Budapest: Osiris Kiadó, 1997), pp.25-26, 28; János Zlinszky, "Ungarn" in Helmut Coing, ed., Handbuch der Quellen und Literatur der neueren europäischen Privatrechtsgeschichte, III/2 (München: C.H.Beck’sche Verlagsbuchhandlung, 1982), pp.2147-2149. 『三部法書』について邦語文献では、伊藤知義「ハンガリー民法史覚書」『札幌学院法学』12/2、1996年、で紹介されている。
  23. Zlinszkyの前掲書(注21)、131頁。 ここで紹介されているノジソンバト(Nagyszombat)大学法学部において、1667年の設立当時、教授数の内訳は教会法1名、ローマ法1名、慣習法2名(実体法、手続法1名ずつ)であったとされる。
  24. Csizmadiaらの前掲書(注14)、533頁。
  25. RGBl. 1848/Nr.67.
  26. RGBl. 1853/Nr.151.
  27. RGBl. 1867/Nr.141.
  28. RGBl. 1873/Nr.119.
  29. Wochenschau, Juristische Blätter[以下欧文表記JBl.と略す] 1873, p.221.
  30. Gesetz vom 23. 5. 1872, RGBl. 1873/Nr.120.
  31. 通常は4名、5年以上の禁錮刑(Kerkerstrafe)または死刑に相当する裁判には6名で合議することが規定されていた(3条)。
  32. Stenographische Protokolle des Herrenhauses, 7. Session 1873, 35 Sitzung, 18. 4. 1873, p.525ff. 「陪審制は司法制度でなく、純粋に政治的な制度であるという見解、[---] 陪審員となった以上はひたすら自らの政治的、民族的、宗教上の確信と、(志を同じくする者への)共感を表明することにあるという考えが根づいてしまったような地域」においては、陪審制を停止する以外に「方法はない」。(Stenographische Protokolle des Abgeordenetenhauses, 7. Session 1872, 14. Sitzung, 16. 2. 1872, p.180.)
  33. Verordnung des Gesamtministeriums vom 20. 6. 1882, Gründe, 585 der Beilage zu den Stenographischen Protokollen des Abgeordnetenhauses, 9. Session, pp.1-4.
  34. 陪審の名簿作成に関する法律によると、陪審員に指名された者が召喚に応じなかった場合、1度目は最高50グルデン、2回目以降は最高100グルデンの罰金が科せられている(23条)。
  35. Stenographische Protokolle des Herrenhauses, 9. Session 1882, 68. Sitzung, 16. 12. 1882, p.1066. もっとも、発言者のグリュネック(Anton Joseph Freiherr Hye von Glunek, 1807-1894)は、オーストリアのいわゆる「新絶対主義」の時期に成立した刑事訴訟法(1853年)起草に加わっていたことからもわかるように、一貫して陪審制には強固な反対者であったこともふまえておかねばならない。
  36. モストについては田中ひかる「『フライハイト』紙の主張の変遷(1879-82)」『一橋論叢』112/2、1994年参照。
  37. 831 der Beilage zu den Stenographische Protokollen des Abgeordenetenhauses, 9. Session 1884, pp.1-3.
  38. 以上の過程につき、RGBl. Nr. 192/1884, Nr. 198/1884, Nr. 158/1885.
  39. RGBl. Nr. 98/1886.
  40. RGBl. Nr. 130/1888.
  41. この時の理由は、南スラヴ地域におけるセルビア人の反帝国運動にあって、陪審裁判も彼らの「テロ行為」の的とされたという(98 der Beilage zu den Stenographische Protokollen des Abgeordnetenhauses, 22. Session 1917, p.7)。1907年にベオグラードで組織された「セルビア民族組織」(Narodna odbrana)の活動を指していると思われる。
  42. Julius von Wlassics, "Der Gesetzentwurf einer Strafprozeァordnung in Ungarn" ZStW 9 (1889), pp.840-866.『全刑法学雑誌』は、新派刑法理論および刑事社会学派の指導者として名高いフランツ・フォン・リスト(Franz von Liszt, 1851-1919)らによって1881年発刊され、今日にいたる。
  43. 『法廷』は1849年にヤーゲマン(Ludwig von Jagemann)を編集主任としてシュトゥットガルトで発刊された。『全刑法学雑誌』が登場してくるようになると、新派の学者たちが「全ヨーロッパ的規模で刑法学の合理化と刑法改革運動に向けて推進した」のに対して、『法廷』はどちらかというと旧派の学者達が論陣をはる場となった。刑法理論における旧派と新派の対立、すなわち前者が18世紀末市民社会を基盤とする自由主義に基づき、犯罪行為を個人の自由意思の結果と結びつけ、応報刑主義をとり、後者が犯罪を行為者の悪性の結果と認めて刑罰の目的を改善・教育に求めたという対立は、その当初からドイツにとどまらず全ヨーロッパ的な論争となっていた。両方の雑誌についてみれば、学派の対立から情報の拡大ないし制度改革要求か、学術性ないし理論の整合性の重視かという方針上の対立へと拡大していったようである。
  44. ことに1889年ベルギーのプリンス(Adolphe Prins, 1845-1819)、オランダのハメル(Gerard Anton van Hamel, 1845-1919)らとともに創設した国際刑事学協会(Internationale Kriminalistische Vereinigung, Union internationale de droit p始al)の報告書が併せて載るようになってからは、刑事司法分野の国際的情報が大量かつ迅速に伝達されることとなる。
  45. 多数のハンガリーの法律家が足繁くハイデルベルクを訪れ、ハンガリーの法典編纂運動に強い関心を示したヴェルカー(Welcker)、ツァハリエ(Zachariä, Carl Salomo, 1765-1843)、ミッターマイアーと協議したそうである。この点につきGönczi 前掲論文(注7)、285頁。
  46. László Fayer, "Der Ungarische Strafprozeァ," ZStW 19 (1899), pp.704-715.
  47. Fayer, László, Az 1843-iki bünteto jogi javaslatok anyaggyüteménye, 1 (1) (Budapest 1896), pp. 204-230; Kálmán Györgyi and Lajos Vékás, “Mittermaier und das ungarische Rechtsleben” in Wilfired Küper, ed., Carl Joseph Anton Mittermaier: Symposium 1987 in Heidelberg Vorträge und Materialien (Heidelberg: R.v.Decker & C.F.Müller,), pp.149-164. また、1840年当時ミッターマイアーがモール(Rovert von Mohl, 1799-1875)とともに発行していた『外国法学および立法評論雑誌』(Kritische Zeitschrift für Rechtswissenschaft und Gesetzgebung des Auslandes)の中でも、ハンガリーの立法活動は、数号にわたって詳細に報告されている。
  48. Friedrich Alfred von Doleschall, “Die ungarische Strafproceßordnung und ihre Nebengesetze,” Gerichtssaal 55 (1898), pp.350-422; Doleschall, “Die Entschädigung unschuldig Verurtheilter und Verhafteter im ungarischen Strafproceßentwurfe,” Gerichtssaal 53 (1897), pp.261-285.
  49. Ludwig Gruber, “Die Einführung der Schwurgerichte in Ungarn,” Gerichtssaal 55 (1898), pp.138-145. ドイツ語の雑誌論文であるため、名前の表記もドイツ流に変更しているが、おそらく著者はGruber, Lajosという名のハンガリー人であったと思われる。
  50. 各裁判所については、1871年法律31-33号、1881年59号第3条、さらに1897年34号7条で規定されている。
  51. 1890年法律25号によれば、ブダペシュト、ジェール、ペーチ、ソンバトヘイ、ポジョニ(現スロヴァキア領ブラティスラヴァ)、カッシャ、セゲド、ナジヴァーラド(Nagyvárad、現ルーマニア領オラデヤ)、テメシュヴァール(Temesvár、現ルーマニア領ティミショアラ)、コロシュヴァール(Koloszv㎎、現ルーマニア領クルージュ)、マロシュ-ヴァーシャールヘイ(Marosvásárhely)の11都市にこのような裁判所が設置されている。
  52. Csizmadiaの前掲論文(注17)、138頁。
  53. Fayerの前掲論文(注12)、328頁。

  54. 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908
    陪審法廷件数 954
    (37)
    1,305(35) 1,454(70) 1,372(133) 1,575(141) 1,656(154) 1,518(111) 1,633(265) 1,687(340)
    公判件数 8,915 8,624 8,843 9,097 9,459 9,285 9,204 9,109 9,133
    ( ) 内は出版物犯罪の事件数
    Országos magyar kir. statistikai hivatal, Magyar Statisztikai Évkönyv: Ungarisches statistisches Jahrbuch: Annuaire statistique hongrois, Budapest 1872-1900, 1893-1900, 1901-1941より作成。1908年の刑法改正までの状況。陪審裁判の件数に関する統計には、ほかにチズマディアが A magyar szentkorona országainak bu nügyi statisztikája az 1904-1908. évekrol (Budapest, 1910) より作成したものがある。1902年から1908年にかけて、裁判所で有罪判決を下された人数(最小人数が1902年22,271人、最多人数が1906年に29,741人)と、陪審裁判所の公判件数(最少1903年997件、最多1908年1133件)が併記されている。公判件数の数字が上述のものよりかなり少なくなっている理由については不明だが、上述の統計が再審や累積事件を含めていることも考えられる。
  55. チズマディアの作成した、1904年から1908年にかけての罪状別の陪審裁判件数による。1904年24件、1905年20件、1906年13件と続いた後、1907年には41件、1908年43件へと倍増している。Csizmadiaの前掲論文(注17)、140頁。もっとも、チズマディアの統計には出版物犯罪が明示されていない。
  56. 1900年から1904年の陪審裁判件数に関して以下のように報告されており、出版物犯罪が相当な割合を占めていたことがわかる。
    1900 1901 1902 1903 1904
    ブダペシュト陪審裁判件数 34 34 42 80 120
    出版物犯罪
    (うち政治家を対象)
    11(4) 12(1) 15(1) 51(20) 81(33)
  57. Jogtudományi Közlöny 1904, 434頁より作成。
  58. 公務員、聖職者、ハンガリー科学アカデミー会員、学識者、短大以上の高等教育を修了した者すなわち教師、弁護士、技師、建築家、船長、農業技師、薬剤師、化学者、林業技師、鉱山管理人、中等学校教師、外科医、獣医、このほか高度の技術あるいは芸術課程ないしその他の上級専門教育を受けた者(4条2号)。
  59. Doleschall 前掲論文(注48) Gerichtssaal 55 (1898), p.397.
  60. Учреждение судебных установлений (以下、裁判所構成法と称す)81条。1864年ロシア法の条文はВиленский Б.В. (ред.) Российское законодательство X-XX веков. Том 8. Судебная реформа. Москва, 1991 を参照。
  61. Rudolf von Gneist, Die Bildung der Geschworenengerichte in Deutschland (Berlin 1849), p.162.
  62. この点、1864年のロシア法(裁判所構成法81条)のように、「男子」と特に記されていない方が例外的といえる。もっとも、だからといって女性の陪審員が当時のロシアに存在しえた、という証拠にはならない。イギリスで1919年に法制化されたのが初めとされている(Fr. Doerr, “Weibliche Schöffen und Geschworene,” ZStW 43, 1922, pp.448-450)。
  63. 1848年前後のドイツで民主的な陪審制推進者の代表者グナイストは「成年に達し」て「行為能力」のある者(浪費家、心神喪失者、心神耗弱者で無い者)ならば、すべての「公民」に陪審員たる資格を認めるのが原則であると主張している(Gneist, Die Bildung der Geschworenengerichte in Deutschland (Berlin, 1849), p.165)。現実には、ヴュルテンベルク、ナッサウ等、いくつかの州で財産制限をつけない立法例もみられたが、プロイセンをはじめ大部分の州では財産制限が加えられている。但し、金額の基準はさまざまである。
  64. この点につき、 陪審制度は選挙制度と並行して議論されることが多いことを指摘しておく。
  65. Csizmadia の前掲論文(注17)、134頁。
  66. 筆者は "nép" という語が法規定に載る場合は、対象をハンガリー国籍保持者と想定していたのではないかと考えて「小学校教師」としてみたが、ハンガリー語の "néptaníto" (オーストリアの "Volksschullehrer" に相当)の訳出については、1998年度スラブ研究センター冬期シンポジウムにおける渡辺昭子氏の報告でも指摘された通り、「民衆学校教師」か「国民学校教師」か、あるいは「小学校教師」でよいのか争いのあるところである(最後の訳を採用すると、 nép の解釈を回避したことになる)。
  67. ひとまず名簿作成責任者については地方自治体の「長」としておくが、村の場合に規定されている村長(biró)は、「裁判官」と同じ語が使われている。実際に村で紛争が起こった場合には、調停者ないし裁判官の役割を果たしていたようである。
  68. 直訳すれば、「信任者」となるだろうか。オーストリア法でも同じ意味の語 "Vertrauensmänner" が用いられている。
  69. ヘヴェシュ県(コミタート)では1901年のうちに合計12名の陪席委員が選出されており、その内訳は高額納税者の地主6名、弁護士4名、新聞社の編集長1名、教会の所有地管理人1名となっている。ペーチ裁判区では、1901年から1910年にかけての陪席委員の出身階層は、大地主、弁護士、商工業に携わる人々ないしその他知識階級に属する人々、という三種類のグループに分けることができる。ヴォシュ県でも同様で、「小地主」はわずかに1名しか見つからなかった、とされている。以上につき Csizmadia の前掲論文(注17)、136頁参照。
  70. 主名簿と補助名簿を作成するにあたって、1864年のロシア法では、裁判区人口数によって年次名簿登録者数を詳細に規定している(裁判所構成法 101条)。
  71. ブダペシュトでは、1900年7月から9月を除く9ヶ月の間、毎月15日間の開廷期があり、年間の陪審裁判件数は34件であったという。Jogtudományi Közlöny (1904), 434-435.
  72. Csizmadiaの前掲論文(注17)、136頁。ここに挙げられた数字は、ヘヴェシュ県の副知事(alispán)であった人物の手によるヘヴェシュ県記録書(Majzik Victor Heves vármegye alispájának jelentése Heves vármegye 1901, Eger 1902)から引用されている。全国規模の統計書では見当たらず、最近のハンガリー法制史教科書でも、これと全く同じ数字しか挙げられていないことから、各県別の陪審員の候補者数については、県別に資料を揃えていく作業が必要となる。
  73. 1901年の県別人口によると、ヘヴェシュ県は、71県のうち28番目に人口が多いことになっている。Statisztikai Hivatal, Magyar Statisztikai Évkönyv: Annuaire statistique hongrois, 1901.
  74. Monatlicher Justizbericht vom 31. 10. 1895, JBl. 1895.
  75. 事例としては、メノー派(再洗礼派)教徒の「我が洗礼共同体(Taufbund)に誓う」という誓いの言葉を認めている。G. Löwe and Werner Rosenberg, Die Strafprozesordnung für das Deutsche Reich nebst dem Gerichtsverfassungsgesetz und den das Strafverfahren betrefenden Bestimmungen der übrigen Reichsgesetze: Kommentar (Berlin - Leipzig, 1922), p.181.
  76. 公判の開始時期は、手続法との関わりで重要な意義をもつ。英米法ならば、同一犯罪について二重の刑事手続きによる処罰の危険を禁止するために、この「二重の危険」の開始時期を「陪審の宣誓」の時点に求めている例もあるほどである。すなわち、この宣誓が同じ事件について二度行われた時点ですでに二重の刑事手続きが始まり、違法であるとされることになる。大陸法の一事不再理原則は、確定判決の効果を意味するため、ハンガリー法でもこの論点は考えなくてもよいだろうが、証拠の提出期限や証人の出廷時期との関係から考えても、やはり公判の開始時期を明確にしておかねばならなかったはずである。
  77. ここにいう絵画については 200 Jahre Rechtsleben in Wien: Historisches Museum der Stadt Wien 96. Sonderausstellung (Wien: Eigenverlag der Museen der Stadt Wien, 1986), p.177 参照。 なお、法廷の構造に注目することが重要さについては、例えば木佐茂男『人間の尊厳と司法権』日本評論社、1990年、55頁以下でも指摘されている。
  78. 例えば、一口に殺人罪といっても1878年刑法によれば「事前に熟考された故意」(278条)、「事前に計画されていなかった故意」(279条)が区別され、さらには「(その場の)感情の興奮に基づく故意」(281条)とも区別して規定されている。これらのうち、まず問題とされるのは先の二つであるため、まず「被告人Aは、X年X月X日、Bに対する故意をもってする殺害について罪を犯したか、そしてそれは計画してなされていたことか」、という設問がなされることになる。
  79. 前の例でいえば、第1の「殺人罪」が否定された場合に第2については「有罪」かどうか、という設問。反対に、より重い刑罰に相当する行為であるかを尋ねる設問を出すには、被告人の同意が必要とされている(355条)。
  80. ハンガリー法359条第1項では、刑の加減を「別個の設問」とすることが定められ、第2項では、「そのような事由が存在しているということについて」質問してはならない、とされているので、主設問と違って、「減軽事由が存在するか」といったように包括的な設問でよかったのではないかと解される。補助設問に関する諸規定は、オーストリア法よりも詳細に規定されている例の一つである。
  81. Fayer の前掲論文(注46)、 709頁。
  82. 刑法典と同年に「刑法典草案および二つの刑事訴訟法草案。理由書付き」(Az 1878. évi bünteto törvénykönyv tervezete és a bünteto eljárás két tervezete indokolással)というかたちで、チェメギによって草案が作成されていた。1882年には再度チェメギの新案「ハンガリー刑事訴訟手続 公判手続」(Magyar bünvádi eljárás a törvényszék elott)が作成されている。チェメギ自身が草案修正を辞退したため、当時の司法大臣ファビニ(Fabiny, Teofil, 1822-1908)はこれをもとに、ヴラッシチ(Wlassics, Julius, 1852-1937)、シェディウシュ(Schedius, Ludwig)、タルナイ(Tarnay, Johann, 1843-1930)の3名から成る委員会に修正を命じ、刑事訴訟法第二草案が1886年に公刊されている。以上の事実につき Kovács, Kálmán, A magyar bu nteto jogés bünteto eljárási jog története 1848-tól 1944-ig (Budapest,1971), p.56; Salomon Mayer, Zur Reform des ungarischen 1848-t様 1944-ig (Budapest,1971), p.56; Salomon Mayer, Zur Reform des ungarischen Strafprocesses (Wien, 1885).
  83. この見解を支持するものに Kov㌘s の前掲書(注81)、56頁。また新法について、『法律雑誌』は、「司法大臣から提出された刑事訴訟法案は、新しい法案ではなく、前々司法大臣ファビニによって作成された草案のうち若干の点だけを修正したものである」としている。Monatlicher Justizbericht, 30. Juni 1895, JBl. 1895, p.329.
  84. すでに1869年法律4号では、司法と行政の分離、裁判官の独立を規定している。