利益代表と議会制民主主義
―世界恐慌下のチェコスロヴァキア連合政治―

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はじめに

 本稿は、チェコスロヴァキアにおける世界恐慌への初期の対応を考察し、その体制の特色を描くことを試みるものである。
 チェコスロヴァキアは第一次大戦後の中東欧の新興諸国の中で民主体制の安定化に成功した国の一つであった(1)。同様に戦後出発したハンガリーやポーランドは、1920年代のうちに民主主義とは異なる体制の安定化に至った(2)。20年代後半の短い相対的安定期を挟み、1929年に始まる世界恐慌は各国の民主体制に第一次大戦直後に続く二度目の危機をもたらすことになる。ドイツやオーストリアでは民主主義からの離脱が進行し、中東欧における民主主義の版図は急速に縮小していく。そのなかで唯一存続したのがチェコスロヴァキアの議会制民主主義であった。世界恐慌による経済、社会的圧力を同様に受けながら、ここではどのように議会制民主主義が維持され得たのかを考察することは、戦間期中東欧における民主主義存続の条件を解き明かすために重要であると思われる。
 本稿では、中でも1929年から1932年までの時期を中心に分析を行う。世界恐慌が広がり始めてから最初の数年間は、各国とも既存の体制の枠内での対応を試みていた。恐慌の長期化と国際状況の変化によって、社会経済体制、さらには政治体制そのものも見直しを迫られるようになっていくのは、その次の段階である。体制の見直し、変革は目を引きやすいテーマではあるが、既存体制内での対応の模索も、変革の前提としてはもとより、それ自体としても興味深い研究対象である。危機に対応しようとすることにより、それまでの体制の特質が、その強靭な部分も脆弱な部分も明白に現れよう。また、共通の経済圧力に対する各国の対応を比較の視座の中に置くことによって、その体制の特徴を浮かび上がらせることが出来るからである。
 ここでは具体的に世界恐慌の勃発とほぼ前後して成立したウドルジャル(Udržal)拡大連合政権期を中心に、1932年秋の同内閣の倒壊後ほぼ同じ連合のもとにマリペトル(Malypetr)が新政権を出発させるまでを対象とする。
この時期のチェコスロヴァキア政治を分析するために本稿では政権連合の政治的意思決定の方法と結果に注目する。中東欧諸国では政党間の安定的多数派連合形成の困難さから議会制民主主義への不信が拡大しつつあった。ドイツでミュラー(Müller)大連合政権が崩壊し、ブリューニング(Brüning)内閣が大統領令統治の比重を増加させていったのはまさにこの時期のことである。この状況下にチェコスロヴァキアではいかなる方法で政権連合が維持され、世界恐慌に対応する政策を実現できたのかを考察することは重要であろう。
 戦間期チェコスロヴァキア史の文脈からも、この時期を政権連合の政治的意思決定の方法に注目して考察することの重要性は明らかである。後に詳述するように、ウドルジャル拡大連合政権は民族と部分利益の両方の軸で主要政党を網羅し、20年代の2つの連合の欠落部を埋めた初めての内閣であった。部分利益ごとに分断された社会において、このような大連合内閣は体制の正統性を強化する可能性ももつが、同時に連合自体は合意形成が困難となり弱点をかかえることとなる。その問題に世界恐慌という圧力のもとでどのように対処したのであろうか。そして政治的意思決定の方法に注目することで、チェコスロヴァキアの「議会制民主主義」の「質」を明らかにすることもできよう。
 政治的意思決定の方法の成否は、各勢力によって要求される政策の内容とも深く関わっている。そこでここでは諸部分利益の要求の対立に注目し、とくに農業利益を代表する農業党と労働者利益を代表する社会民主党に焦点をあてたい。両政党は主要な大衆政党として、連合の中で重要な役割を果たしていた。
 最後に簡単に研究史に触れておく。戦後のチェコスロヴァキアにおける歴史研究では、恐慌期は農業党右派の勢力拡大とファシズム化の時期とされてきた(3)。パサーク(Pasák)は、1932年のウドルジャル政権の倒壊後、マリペトル政権の下で政治体制がブルジョワ民主主義から逸脱し、革命勢力への強硬姿勢にみられるような反動化が進んだ時期とした。これに対し1960年代後半には、オリヴォヴァー(Olivová)が、概略的通史のなかではあるが、マリペトルも大統領マサリク周辺の民主的な「城(フラト)」・グループに属すとし、32年以降の政策転換を国家資本主義的対応による恐慌対策として積極的に評価した(4)。1930年代政治のもう一つの担い手でありながら研究の欠落していた社会民主党に関してもようやく試論が現れ始めた。しかし、プラハの春以後の正常化体制期に入ると、チャダ(Čada)が農業党研究のなかで「ブルジョワ・チェコスロヴァキアの政治システムの問題は、1960年代末に党と社会に危機を引き起こした歴史学の領域に属する」と述べ、慎重に評価を避けているように、政治体制を論じること自体がタブー化してしまった(5)。多くの歴史家が研究を離れることを余儀なくされ、研究を続けた場合も成果の発表は1980年代の終わりになってからであった(6)
 その中で経済史や社会政策史の分野では多少の進展が見られた(7)。ラチナ(Lacina)の世界恐慌期の経済史研究では、1932年以降のマリペトル内閣はブルジョワ民主主義の政府形態からは右に逸脱している「強い手の政府」であるが、なお議会主義を維持し、経済的には工業や農業の領域における国家独占資本主義的政策への転換をおこなったとし、詳しい分析を行った。
 1989年の体制変革以降、ブロクロヴァー(Broklová)は「強い民主主義」による第一共和国のファシズム化という解釈を否定し、民主主義を擁護するための「執行力のある政府」とみなすべきであり、そのための政党指導者の努力を強調するべきであると指摘した(8)。また、農業党に関しては従来の解釈の問題性が指摘され始めている(9)。しかしラチナやブロクロヴァーの指摘を取り入れた具体的な歴史研究の成果は本国でも国外でもまだ現れていない(10)。以上の研究状況からも、政党指導者に注目して恐慌期の連合政治を実証的に跡付け、その特質を抽出することの重要性は明らかである。
 政党研究に関しては、政党固有の文書館史料が、ドイツの占領、第二次大戦の終結、1948年2月の政変をそれぞれ画期とする政治情勢のゆれの中で、破棄されるか隠蔽され、ほとんど現存していないことにより、一次史料を用いた研究の見通しは今後も乏しい。そこで本稿では新聞、理論誌を中心的史料として利用する。各政党が発行していた自党の日刊機関紙、理論誌は各党の立場、主張を理解するのに役立つ。さらに、独立系の日刊紙、理論誌も多数存在し、政党紙とは異なるある程度客観的な情報を提供している。また、外務省の新聞のテーマ別切り抜きは重要な当時の問題状況を知る貴重な手がかりとなる(11)。これらを相互に組み合わせることで実証的研究の端緒としたいと考えている。

1. 戦間期チェコスロヴァキアの政治構造の特質

 本節ではまず、世界恐慌期の政治過程の分析の前提として、戦間期のチェコスロヴァキアの政治構造の特徴を、1. 多党制政党システムと多党連合、2. 農業党の優位、3. 社会主義政党の分裂と政権指向の3点から分析する。

(1)二次元多党制政党システムと多党連合政治

 戦間期のチェコスロヴァキアの政治システムを特徴づける第一の特質は、15を超える政党と、5党から8党に及ぶ多数の政党からなる連合政権の存在である(12)
 政党の数の多さは第一に共和国の民族構成の複雑さから来ている。チェコ人とスロヴァキア人は公式イデオロギーでは、共和国の「国民国家形成民族」である一つの「チェコスロヴァキア人」の二つの枝とされたが、歴史的背景を異にし、両地域の社会経済構造も異なっていた。チェコ人とスロヴァキア人の両方から支持を受けたのは、農業党と社会民主党であるが、両党の中でもスロヴァキア部分は独立した組織となっていた。チェコ人選挙民の間ではこのほかに、国民民主党、人民党、商工中産党、国民社会党を加えた主要6党が支持を争っていた。スロヴァキアには、スロヴァキア自治運動と結びついたフリンカ・スロヴァキア人民党が存在し、社会経済利益によって結びついた農業党、社会民主党と異なる原理で支持を集めていた。
 さらに、共和国住民の4分の1を占める「少数民族」がドイツ人であった。ドイツ人社会には、ドイツ人国民党、ドイツ人キリスト教社会党、農業者同盟、ドイツ人商工中産党、ドイツ人国民社会主義労働者党、ドイツ人社会民主党といった、チェコ人社会とほぼ並行した政党配置が存在した(13)。加えて、ハンガリー人、ポーランド人らも独自の政党を持っていた。
 民族の境を越えた支持を受けていたのは、10%を超える得票率を誇るチェコスロヴァキア共産党のみであった。しかし、農業利益の2政党や社民系の2政党、カトリック系の3政党はそれぞれの部分利益の擁護のためには協力して共同歩調を取ることもあった。
 このように民族の軸と社会経済的部分利益の軸の二次元的構成が、チェコスロヴァキアの政党システムの特色であるといえよう。

(2)農業党の優位

 第二の特色は、組織化された農業利益が固有の政党を持っており、しかもこの政党が、最大与党として、政権の中心に位置し、首相ポストを握っていたことである。
 農業政党の存在は、北欧から中東欧諸国に広くみられるが、大きく分けた場合2つの類型がある(14)。協同組合網などを足場とし、農業経営上の利益の擁護を目的とする北欧型と、農業の道徳的賞揚や農村住民の連帯などのアグラリズム・イデオロギーを唱道するバルカン型である。前者においても、19世紀には都市対農村の価値観の対立も顕著であり、農業政党は民主化に大きな役割を果たしたが、戦間期にはその側面を失い、利益代表政党としての性格が前面に出されていた。後者においては、農業の構造上、農民の大多数が零細農や小作農であるため、農業経営上の利益による組織化は困難であり、ポピュリスティックなアピールが中心となった。
 チェコスロヴァキアの農業党は、農業の組織利益を代表している点で、北欧型と共通している。しかし、工業化の進んだチェコ部分で党勢の拡大に限界をもつ農業党は、農業中心のスロヴァキアやポトカルパツカー・ルス(現在のカルパト・ウクライナ)での得票の拡大を目指し、土地改革、協同組合網拡大を通して自営中小農の育成と取り込みに努力する一方で、アグラリズム・イデオロギーによる動員をも図った(15)。国際的にもアグラリズム・イデオロギーを核にブルガリアのスタンボリスキと協力して各国の農業政党を集め、「緑のインターナショナル」を作り、スタンボリスキ亡き後はその中心となっている。ここに集まったのはバルカン、バルト諸国、スイスなどの農業政党であった。
 このように農業党は、チェコ地域における農業組織利益代表の政党として出発しながら、スロヴァキアなど農業地域の支持を取り込むことによって、北欧の農業政党のような小政党に転落することなく、社会主義政党の分裂にも助けられ最大政党として強力な立場を占めた(16)。さらに、1926年からはドイツ人陣営内の農業政党である農業者同盟も入閣し、農業党の力を強化する役割を果たしていた。農業党は二次元的政党システムの中心に位置する政党として政権連合に常に参加し、1922年以降共和国の崩壊に至るまでほとんどの時期にわたって連合政権を率いる首相を輩出するのである。1929年の拡大連合を率いることになったのも、同党出身のウドルジャルであった。
農業党のように社会経済的部分利益を代表することを正面から掲げる政党が最大政党であったことは、戦間期チェコスロヴァキアの政治システムの特徴を現している。チェコスロヴァキアでは、職能身分を表すstavという言葉で社会経済的な部分利益集団を指し、このstavを代表する職能身分政党stavovská stranaが多数存在した。農業党の他、ドイツの農業者同盟や、2つの商工中産党がそうである。このことは、後に述べるように連合政治に大きな影響を与えた。

(3)社会主義政党の分裂と政権指向

 農業党の優位に対し、もう一つの主要な大衆政治運動である労働者の政党は複雑に分裂しており、個々の政党の勢力は農業党のそれを凌駕することは出来なかった。カトリック政党である人民党による労働者の動員はモラヴィアを除いてさしたる成功を収めなかったものの、10%前後のヨーロッパでも最も高いレヴェルに属する得票率を誇る共産党の存在は労働者ミリューを分断した。社会民主主義政党もチェコスロヴァキア社民党とドイツ人社民党に分かれていた。さらにチェコ人社会においては、マルクス主義の階級対立の思想を拒否し、社会主義とナショナリズムの調和を目指す19世紀以来の国民社会党が労働者から社会民主党に並ぶ支持を得ていた。同党はリベラリズム左派の流れも含み、漸進的社会主義を掲げる穏健な共和国支持の政党であったが、ドイツ人の国民社会労働者党はドイツ本国のナチ党の源流の一つであり、ナショナリズムの方に力点を置く反体制的政党であった。
 このように、労働者を代表する政党が様々な要素で分裂していたが、共和国に対して敵対的な共産党とドイツ人国民社会労働者党を除く、3つの社会主義政党が政権参加に対して積極的であった点は当時の他のヨーロッパ諸国の社会主義政党と比べ著しい特徴をなしている。チェコスロヴァキア社民党と国民社会党は共和国建国当初から政権に参加していた(17)。1926年から29年までは野党となったものの、その間にチェコスロヴァキア社民党と、ドイツ人社民党の接近が実現した。1929年の議会選挙後の連合交渉では、チェコスロヴァキア社民党がドイツ人社民党の連合参加を自らの連合参加の条件としたので、両党と国民社会党の3党の社会主義政党の連合参加が実現した。ドイツ本国の社民党が大連合を去り、多くのヨーロッパ諸国の社会主義政党が、「ブルジョワ民主体制」に対して野党戦術を選択していたことに比べ、チェコスロヴァキアの社民党のプラグマティックな姿勢は際立っているといえよう(18)。本論ではこのような社会主義政党の存在がチェコスロヴァキアの連合政治に果たした役割にも注目していく。

2. ウドルジャル拡大連合内閣の出発

2-1. ウドルジャル拡大連合内閣の成立

(1)1920年代の連合政治--ピェトカと8党委員会

 1929年10月、ニューヨーク株式市場の暴落とほぼ同時に行われた総選挙の結果、12月初頭ウドルジャル拡大連合内閣が成立した。次第にチェコスロヴァキアにも波及する世界恐慌のもとでのこの政権連合の成立を検討する前に、まず、1920年代のチェコスロヴァキアにおける連合政治を振り返っておこう。
 共和国初期には、ドイツ人諸政党やスロヴァキア人民党、後の共産党につながる社民党左派が体制そのものに批判的な姿勢を示したため、商工中産党を除くチェコ人の5政党が利益対立を超えて「全チェコ人政党連合」を形成し、政権を支えた(19)。その際、政党間交渉・妥協の場として、5党の代表各1名からなるピェトカ(Pětka:数字の5を指し、5党委員会の意)が設けられ、事実上の政治的意思決定機関として機能した。
 しかし反体制野党勢力の体制内野党化が進行し、連合の可能性が拡大すると、1926年には、選挙で劣勢に立った社会主義諸政党を外し、農業党とドイツ系の農業者同盟、人民党とフリンカ・スロヴァキア人民党、ドイツ人キリスト教社会党の3カトリック政党、国民民主党、商工中産党の7政党からなる「ブルジョワ連合」が形成された。これは前連合を、チェコ人政党と他民族の対応政党の協力関係を利用して民族軸方向に拡大し、社会経済的利益の幅を狭めた連合であった。この連合でもピェトカに倣って、8党委員会(Osma, Osmička)が設けられた。
 ピェトカや8党委員会は、非憲法的機関であるにもかかわらず事実上の政治的意思決定を行い、議会制民主主義の中心的機関であるべき議会や内閣を空洞化するものと批判されたが、異なる部分利益を代表する多数派政党連合に実効性を担保するために必要な機関でもあった。部分利益集団の要求は性質上、連合の他のメンバーの要求とのバーゲニング、抱き合わせで実現されることになり、その舞台が政党の有力な指導者が非公式にプラグマティックに交渉を行うピェトカや8党委員会であった。ピェトカ的手法の定着には、農業党党首シュヴェフラ(Švehla)が重要な役割を果たした。1923年から1928年まで首相も務めたシュヴェフラを中心に、各党の戦前からのリーダーが交渉を担った。
 この手法では、連合から最初はドイツ人諸政党やスロヴァキア人民党が、次には社会主義諸政党が除外され、統合の点で問題を含んでいた。さらに非憲法的機関での各党の有力指導者の非公式な合意が連合の政策決定となり正統性に疑問が残った。チェコスロヴァキアではこのような形で、「議会制民主主義」が機能していたのである。しかし、1920年代前期に穏健な権威主義体制での安定化に「成功」したハンガリーや、1926年に権威主義体制に移行したポーランドなどと比較すると、安定した政党連合が継続し議会制民主主義が「機能している」こと自体に意義があった。

(2)1929年の拡大連合

 1929年10月の選挙の後、農業党のウドルジャルが首相候補として組閣した内閣は、これまで以上に広範囲の政党を結集した連合であった。選挙では、フリンカ・スロヴァキア人民党を除いたブルジョワ連合は過半数を得られなかったため、農業党や国民民主党、人民党も再び社会主義政党と連合することを受け入れた。社民党が選挙で得票を伸ばしたことも社民党の入閣が必要だとみなされる一因となった。
 新連合は、チェコスロヴァキア社民党、国民社会党にドイツ人社民党を加えた3社会主義政党を新たに加え、チェコとドイツ人の農業党とその他チェコ人の人民党、国民民主党、商工中産党、ドイツ人のリベラル小会派の9政党・会派から構成された。
 フリンカ・スロヴァキア人民党は、同党副党首のトゥカが反「チェコスロヴァキア国家」活動で有罪判決を受けたことからブルジョワ連合を離脱し、新連合にも参加しなかった。そのため民族軸上に多少幅を狭めたが、ドイツ人の最大政党であるドイツ人社民党が政権連合に初めて参加したことは共和国の民族問題上重要な意義をもった。さらにこの連合は3年ぶりにすべての社会経済利益の代表を含み、社会経済軸上にも大きく拡大した。下院議会では、1929年の出発時点では300議席中、209議席を占め、小会派、政党の連合離脱後も連合7与党だけで193議席を保有していた(20)。そのためこの連合は、「拡大連合」(Široká koalice)と呼ばれることになる。
 民族と組織化された部分利益によって分断されたチェコスロヴァキアのような社会において、20年代の2つの連合の欠落部を埋め両方の軸で主要政党を網羅したこのような大連合は体制の安定を担保する上では有効な連合形態であると考えられる。分断された社会では、多数決原理に基づいた連合形成では、少数派となる社会の一部分が恒常的に連合から排除される危険も大きい。社会の広範な部分利益が政権連合内に代表され、政策決定過程に参加したことは、連合政権、さらには議会制民主主義体制そのものの正統性を高める役割を果たした。広範な政党が政権責任も担うことで、体制の安定性に寄与する可能性も含んでいた。世界恐慌の波及と共に、拡大連合は経済危機に諸政党が結集して当たるという意味で、「経済結集連合」(hospodářká koncentrační koalice)とも呼ばれるようになった。
 しかし他方で、このような過大規模連合においては内部の合意形成が困難を極め、それが連合の弱さともなることが予想される。1930年3月のワイマール・ドイツにおける大連合崩壊はその端的な例であった。
 多党連合で政策協調を円滑に行う方法としては、連合の行動プログラムを作り政策の基本路線に関してあらかじめ合意しておくことが考えられる。ところが、拡大連合形成時には連合構成とポスト配分の話合いが5週間にも及び、ウドルジャル内閣には1929年12月7日の成立までに連合の行動プログラムを合意する時間的余裕は残されていなかった。新連合政権は人民党党首のシュラーメク(Šrámek)が「我々は合意することに合意する」といみじくも述べたように、「よき意思」をプログラムの代わりに出発することになった。
 もっともこれまでの政権連合でも、あらかじめ行動プログラムが合意されることはまれであった。政策の方向性に関する合意の不在は、ピェトカや8党委員会のような連合諸政党間の妥協の場の存在によってカバーされていたのである。20年代の連合は、民族的、あるいはイデオロギー的に拡大連合に比べて凝集性が高かったため、この方法で対処可能であったとも考えられる。
 非公式な合意形成の中核となっていた農業党のシュヴェフラは1928年以降、健康状態の悪化から政治の舞台から退いていた。また、社会主義諸政党は、ブルジョワ連合期に8党委員会で事実上の政策決定が行われ、野党の社会主義政党には議会で政策に影響を及ぼす余地がなかったことから、拡大連合の形成に際し、ピェトカに類する「非憲法的」な「第二政府」の設置に反対し、内閣と議会を中心に政治的意思決定を進めるべきであると強く主張した。それが受け入れられ、今回の連合においては連合諸政党間の合意形成は直接閣議に委ねられることとなった(21)
 拡大連合の成立によって、 チェコスロヴァキアの連合政治はその連合構成政党を広げた。世界恐慌の到来と共に高まっていく各部分利益の要求が、政党を通じて政治的意思決定の場に導かれたとき、それへの対応の成否が、この過大規模連合が体制の安定要素となるか、それとも脆弱な連合として不安定要素となるかを左右することになる。拡大連合は行動プログラムも、従来のような固有の政治的意思決定機関も持たないまま、恐慌の嵐が近づく海へ船出したのである。

2-2.政治閣僚委員会の設置

(1)ウドルジャル新内閣

 この大連合政権の舵をとることになったウドルジャル首相は、シュヴェフラの後任として、ブルジョワ連合の首相を1928年から務め、そのまま選挙後も首相候補となった。1890年代から青年チェコ党のハプスブルク帝国議会議員として活躍し、1906年に農業党に移った後、第一次大戦中には帝国議会副議長をつとめた農業党の長老政治家であり、シュヴェフラよりも7歳年上で拡大連合政権成立時には63歳であった(22)。大統領マサリク周辺のフラト・グループの一員として知られ、後述するように内部対立が顕在化し始めた農業党内では他政党と協調的な穏健派に属していた。しかし、連合形成交渉の迷走にも現れたように、明確な目的をもって創造的なリーダーシップを発揮するタイプの政治家とはいえなかった(23)
 9つの政党、会派からなる連合内で大きな発言力をもっていたのは、最大政党チェコスロヴァキア農業党と、チェコスロヴァキア社民党であった。農業党は4閣僚ポストを押さえ、社民党が3ポスト、国民社会党と人民党が各2ポスト、その他の政党が各1ポストを占めた(24)。社会経済利益別にみると農業党と農業者同盟の農業利益勢力と社会主義3政党の閣僚数が5対6、その他の「ブルジョワ政党」が4閣僚となった。
 12月13日に行われたウドルジャル首相の施政方針演説は、近づきつつある世界恐慌への対応を内閣を待ち受ける課題として真っ先に掲げていた。
 連合内部の勢力比を反映し、農民と労働者の利益には相対的に大きな配慮がなされていた。農業恐慌は既にチェコスロヴァキアにも及んでいるという現状認識のもとに、農村の購買力の不足は他の経済分野にも波及するとし、「農業の危機は国家全体の問題であるとみなし、国家の介入を含めたすべての手法を用いて農業恐慌を解決し、その結果を緩和しなければならない」と述べ、農業恐慌対策の実行を約した。また、労働者に対しても社会政策立法によって、来るべき経済状況の悪化にたいして、労働者の雇用と社会的水準を擁護すると述べた。
 しかし、これらと並んで政策目標には農業者、労働者とならんで、商工業者、国家公務員、年金生活者への支援、スロヴァキアやポトカルパツカー・ルスの開発が総花的にあげられた。つまり、拡大連合に関わるすべての部分利益への支援を一通り並べたに過ぎなかった。財政上は、現在の均衡財政の維持が目標として掲げられており、それらの支援も財政の許す範囲でとの条件がつけられた。
 このように施政方針演説は、連合内の諸部分利益集団の要求が相互に対立するときの指針を何ら含んでいなかった。しかし、恐慌の波及と共に要求の先鋭化、対立の激化はまぬがれず、特に早く突出していったのは農業恐慌に直面した農業者の要求であった。

(2)農業党の要求と政治閣僚委員会の設置

 ウドルジャル内閣の成立は、世界恐慌の開始とほぼ同時であったが、その恐慌が工業部門にも及び始めるのはチェコスロヴァキアでは1930年の後半になってからであった。しかし、農業部門ではすでに小麦の世界市場での価格の33%下落に見られる穀物危機が波及していた(25)。1929年の豊作も価格の下落を勢いづけた。チェコスロヴァキアの代表的な輸出農作物であった甜菜砂糖は、既に1926年ごろから国際競争力を失っていたが、1928年秋の砂糖の世界市場価格の下落によって、生産高は恐慌前の最大値の7分の1に縮小を余儀なくされた(26)。農業収入は急速に減少し、1ヘクタールあたりの純利益はチェコ地域で1929年の1081コルナから1932年には185コルナへと減少した(27)
 首相の出身政党である農業党の議員クラブは、1930年1月9日、農産物関税の引き上げと外国との通商関係の見直しを求める決議を両院に提出した(28)。しかし社民党は、都市の消費者の負担増加につながるためこの要求に否定的な見解を示し、「この問題は独立に解決されるのではなく、(連合政権の)全体的な経済社会プログラムの中で解決されるべきである」と主張した(29)
 そこで、この問題は「連合小プログラム」と呼ばれる連合政権の当面の活動方針の論議の中で議論されることになった。その際閣議での連合諸政党の交渉は困難を極め、具体的な政策協議のためには、やはり連合諸政党の合意形成のための別の場が必要であるとの認識が広がった(30)。人民党や国民民主党は閣僚ポストが少ないことから、各連合政党が同等の発言権を持ち閣議より小政党に有利なピェトカや8党委員会と同様の機関を設けることを主張した。人民党は、ピェトカ的機関が設置されると見込み、日刊機関紙『人民新聞』で、社会主義政党の反対にもかかわらず連合政権にはピェトカは必要であると歓迎した(31)
 しかし、社民党を始めとする社会主義政党は、ブルジョワ政権期に野党として8党委員会を非憲法的権力機関と非難しており、ピェトカ的機関の再生には断固として反対した。また、社会主義3政党は閣僚ポストの配分が多く閣議での決定の方が有利であった。
 協議の結果、2月初頭に内閣に政治閣僚委員会と経済閣僚委員会が設置されることになった。前者では政治関連の、後者では経済関連の重要省庁の閣僚が各連合政党を代表して政治問題、経済問題に関する交渉が行われることになった。国民民主党と人民党はこれに不満であり、小政党の意向が反映されやすい新たなピェトカの設置をこの後も繰り返し要求したが、その度に社会主義諸政党が強く反対し、その実現を妨げた(32)
 両閣僚委員会、特に政治閣僚委員会は連合諸政党の代表が対立する政策問題について交渉し、妥協点を探るという点で、ピェトカ、8党委員会と共通する側面を持つ。しかし、大きな相違点は、政治閣僚委員会は内閣内の公式の委員会と位置づけられ、各党を代表するのが閣僚である点であった。ピェトカは内閣や議会とは正式な関係をもたず、各党の実力者の非公式の集まりであり、その党代表が閣僚ポストに就いていないケースもしばしば見られた。また、ピェトカの決定は事実上の最終決定であったのに対し、政治閣僚委員会はあくまで事務的、予備的な交渉機関に止まり、最終的な決定権は内閣に留保された。ピェトカが内閣や議会などの公式の機関の陰で各党実力者が交渉妥協を行う場であったのに対し、閣僚委員会は内閣を中心に連合諸政党の合意形成を行うための補助機関であった。
 こうして、連合政党の合議機関として新たに設置された政治閣僚委員会は、内閣の枠内に止まり、1920年代の政治的意思決定手法からの変化の可能性を示した(33)。シュヴェフラの政界からの退場に象徴されるように、建国期を率いた実力ある指導者は各党から徐々に退き、ピェトカのような非公式の場での合意を自党に遵守させることができる政党指導者が減っていたこともこの変化の背景にあったと考えられる。
 建国の非常時に生まれたピェトカに対し、10年の歳月を経て憲法体制により即した形での連合諸政党の合意方式が生み出され、議院内閣制の観点からは平常化、成熟ということが出来よう。しかし、その誕生が世界恐慌という第二の危機の最中であったことはこの新たな合意形成手法に影を投げかけることになり、その評価は実際にこの方法で合意形成が可能であるかどうかを待つことになる。

2-3.農業党の要求の拡大と連合内対立

(1)農業党の要求の拡大

 政治、経済閣僚委員会の設置後、連合政治は順調に機能し始めたかに見えた。社会民主党が推進する失業手当の改善との取り引きで、1930年6月農業党の要求する農作物関税の引き上げが実現した(34)。連合諸政党間の利害対立の妥協に従来から用いられてきた政策間の抱き合わせが可能となったことで、拡大連合内閣がようやく動き出したと考えられたのである。
 ところが、深化する農業不況を背景に農業党議員クラブと農業党の要求は拡大の一途をたどった。農作物関税引き上げに加えて、農業党の要求に沿って輸入リスト法の修正、パン製造法、小麦の化学的調整禁止法などが立法されていたのにもかかわらず(35)、1930年10月に農業党執行委員会は声明を発表し、農作物の輸入の見直し、農業への低利信用、税負担の軽減、借家人保護の廃止、農作物と工業生産品価格の格差是正、自然災害保険などの要求を強い調子で提示した(36)
 社会主義政党や人民党は農業党のこれらの広範な要求に対し一斉に反対の論陣を張った。1930年に入り工業労働者の失業も急増を始め、社会主義諸政党は失業手当の改善のほかに、8月には失業者の食料配給活動の実施を連合政権のなかで実現した。これは労働組合に組織化された失業者に対し、10-20コルナの食料品クーポン、あるいはジャガイモ、パン、牛乳の現物を配給するものであった(37)。その状況下で、都市消費者を更に圧迫する農作物価格の引き上げにつながる農業党の要求は容認できないものであった。
 しかし農業党は12月、他政党の反対を押しきって農産物輸出国ハンガリーとの通商協定の更新を拒否し、協定不在状況に持ち込んでしまう38。この農業党の突出に対し、社会主義諸政党は内閣総辞職による対抗も検討したが、結局連合維持を優先することが確認された。

(2)通商政策をめぐる連合内の対立

 1931年に入ると、独墺関税同盟の試みをめぐって、共和国の通商政策をめぐる対立がさらに顕在化した。3月に発表された独墺関税同盟計画に対しては、外相ベネシュがまず外交政策上反対し、外交的には即座に反対意思表示がなされた。
 しかし、社民党やドイツ人社民党はこれをきっかけに中東欧諸国全体の関税関係を改善する必要性を唱え、関税同盟計画を肯定的に評価した(39)。工業国と農業国のバランスの取れた経済圏の形成は、急落しつつあるチェコスロヴァキアの工業生産の再生のためにも急務と考えたからである。ハンガリーとの通商協定廃止に見られる農業党の通商政策は、共和国の工業国としての側面を無視するものであるとして批判された。工業団体では、ドイツ人地域に多い繊維産業が独墺関税同盟へのチェコスロヴァキアの参加に賛成した。最大の工業団体である工業家連盟は沈黙を守ったが、商工会議所は関税同盟への参加には反対したものの、今までの農業優位の通商政策も見直す必要があると表明した。
 他方、農業党は独墺関税同盟計画への社会民主党の賛成に対し、これをドイツ人ナショナリズムであるとし、連合内のドイツ人社民党を攻撃した。独墺関税同盟計画が潰えた後も、通商政策をめぐる農業党と社民党の対立は続くことになる。

(3)ウドルジャルの政治指導への批判

 1931年には農業関連では、水利国家基金法、自然災害時国家補助法、農村電化財政補助法など周辺的な要求が実現したのみであった(40)。農業党の内部では、党出身の首相ウドルジャルが、同党の要求を実現できないことへの苛立ちが高まっていった。特に、党のモラヴィア地方組織や農業党青年組織ドロストDorost(青少年)を足場に、党内でスタニェク(Staněk)下院議員を中心とした反ウドルジャル派が勢力を伸ばしていった(41)。イフラバにおける10月10日のドロストの集会で、スタニェクは「現在の経済政治配置は農業を恐慌から守るのに適切ではない」と述べ、政府と連合への反意を表明した。
 さらに農業党内の反対派は上院を足場に農業党出身閣僚が内閣で同意した法案の採択を拒否し、ウドルジャル首相を始めとする農業党出身閣僚の党内指導力の失墜は深刻な事態を招くことになった。内閣では、農業党出身閣僚は小麦混合法と石油に蒸留アルコールの混合を義務付ける法律と引き換えに、社会主義諸政党が要求する道路基金法と鉱石油税に賛成していた(42)。対立する諸利益を含む拡大連合にとって法案の抱き合わせは何らかの政策を行っていくための唯一の方法であり、その失敗はウドルジャル政権の実効性への疑念を深めさせるものとなった。
 従来のピェトカによる合意形成では、政党内の実力者が合意主体であり、政党間合意が議会で覆されることはなかった。拡大連合内閣で採用された政治閣僚委員会と閣議を中心とする方法で、このように閣僚と出身政党の議員団に乖離が生じたとき、連合合意の実現は保障されない。そのため合意そのものもさらに困難になってしまったのである。
 他の連合諸政党は、首相であるウドルジャルが自分の出身政党である農業党を統御できず、連合政権の機能を損なっていることへの不満を隠さなかった。政権全体の方向性に関しても、社民党の若手の理論誌『新しい自由』は、ウドルジャル首相の議会開催前の新聞記者との会見での発言に関して、経済危機の中核にほとんど触れていないことを批判し、ブリューニングの声明の方がずっと具体的であると述べた(43)。そしてウドルジャル首相に関して、家父長的政治家であり、調和を求める余り声明も非常に退屈で、状況の前進をもたらすことは期待できないと批判した。
 ウドルジャルは党内と連合与党との双方からの批判にさらされ、厳しい立場に立たされた。10月27日には予算委員会で、「我々は非常に困難な時局にある。緊急措置を強いられるような状況に至らないとは限らない。十分理性的に国家が必要とするすべを与えなければ、非常授権措置をとらざるを得なくなるであろう」と述べ圧力をかけねばならないほどであった(44)。この発言はドイツでのブリューニングの大統領令統治を想起させ、チェコスロヴァキアでも執行権の強化を意識させることによって、連合諸政党と特に農業党の議員団に圧力をかける狙いであったと考えられる。しかし、チェコスロヴァキアではこの後も執行権の強化ではなく、政党を主体に連合政治を打開する道が模索されることになる。

3. ウドルジャル政権の停滞

3-1.財政危機と農業党の新たな要求

 1932年1月23日、議会会期の初めにあたり、農業党執行委員会は新たな決議を行い、農業部門と工業部門の構成、特に農作物と工業製品の価格差の是正を求めた(45)
 具体的には、まず、農業生産物の保護関税による擁護、自給可能な農作物、家畜の輸入の禁止の要求に加え、「支払いの保障のない国々との通商には関心がない」という強い言葉でハンガリーとの通商協定への反対を続けることを宣言し、農業保護主義の一層の強化を求めた。また、農作物の輸入専売制と国内最低価格の保持を求め、小麦やライ麦の輸入は国内在庫がある限り許可してはならないとした。さらに甜菜農家への輸出補助金、ジャガイモから作る蒸留アルコールを石油に混ぜて燃料とすることを要求した。このように、農業党の要求は従来通り世界市場からの保護や補助金の要求が中心であったが、輸入専売制や国内市場の統制が新たな要求として加わり始めていた点が注目に値する。
 もう一つの興味深い点は農業利益と無関係な、失業手当システム全体の見直しと借家人保護の廃止がやや唐突にこの要求事項に含まれていたことである。農業党はこのころから機関紙『田園Venkov』などを通じて失業手当の不正給付が財政を圧迫しているというキャンペーンを展開し、ドイツ人社民党出身の社会保障相チェフの責任を追及していた(46)。 この要求に対し、社会主義政党側は農業党の要求を財政的に実現不可能と断じ、農業党は農業利益以外への考慮も含んだ生産的な要求が出来ないと非難した(47)。失業手当への攻撃に対しては、農業党こそ補助金を通して国家支出を圧迫していると反論した。失業者数は1931年の夏期の微減以降再び上昇を続け、1932年3月には一年前のほぼ倍の63万人となり、失業率は25.3%に達していた。失業手当を受ける組合員数は全組合員数の14.6%に上った(48)。失業手当への国庫扶助の維持は社会主義政党にとって最重要の課題であった。
 さらに社民党は、この農業党執行委員会では右派が主導権を握り、スタニェクやストウパル(Stoupal)が台頭したため、ウドルジャル首相の立場が党内で困難なものとなったと報じ(49)、その右派が社民党抜きの政府形成に熱意を傾けだしたと非難した(50)。一方農業党の『田園』は、社民党や人民党が農業党を排除した「赤黒連合」を模索しているが、現在全ヨーロッパ的に退潮しつつある社会主義者には実質的多数は形成できないと応戦した(51)
 連合枠組みの見直しまでが応酬される対立に至った背後には、政府財政の急激な悪化があった。1929年には10億コルナ余りの入超であった国家財政が、1930年には4億2570万、1931年には12億9500万コルナの歳出超過に転じていたのである(52)。財政赤字は1929年に金本位制に復帰したばかりのチェコスロヴァキア・コルナの信頼を損ない、景気の回復を遅らせるものとみなされ、財政緊縮が至上命題となった。そのため、削減対象や優先的に財政による支援を受ける分野をめぐって、連合与党間の対立が強まったのである。

3-2.課題別連合委員会の試み

 ウドルジャル首相の指導の下、1932年の初頭には連合政府の経済、社会問題への対策の遅さと優柔不断さがさらに際立っていた。銀行法案の制定はすでに1931年の12月初頭には終了している予定であったのにもかかわらず、内閣で連合諸政党間の合意を形成することが出来ず、決定は繰り返し延期された(53)
 窮余の策として、銀行法案の作成は下院に任されることとなった。下院は予想外に早期に政府法案を修正して草案をまとめ、1932年4月に法律が成立した。これまでは政府法案を議会審議で変更することは例外であり、修正なしに採択されるのが常であった。それに対し銀行法の制定は議員に合意形成を担わせるという選択肢を示すものとなった(54)
 同時期、連合諸党間の利害がより正面から対立している問題に関しても、連合与党の議員団間に交渉を委ねる試みとして、課題領域ごとに与党議院クラブの代表を集めた委員会の設置が検討された。
 既に1931年7月に独立系新聞の『リドヴェー・ノヴィニ』で、このような作業委員会の設置が提案されていた(55)。国民民主党が再びピェトカ的機関の再生を求めたのに対し、同紙は、それは非憲法的で責任を持たない機関に決定権を委ねるものであり、議会の活動を単なる機械的なものにしてしまうと批判した。また、ピェトカ的機関がなくなったことで、議会が活性化し、各党の議院クラブも批判や立法提案に大幅な自由を得ることが出来たと、拡大連合政権下の合意形成方式が議会に与えた影響を積極的に評価した。しかし同時に、政治閣僚委員会と閣議に連合間の合意形成が委ねられている現在の方式では、閣僚は大量の仕事に加え、個々の争点について討議し、さらに議会で法案が採択されるように考慮しなくてはならず、負担が大き過ぎるため政策形成の遅滞を招いていると、その欠点を指摘した。
 そこで、同紙が提案したのが、議会に課題別の連合委員会を設置することである。この委員会は連合与党の議院クラブから各一名づつ代表を出し、課題ごとにアドホックに形成され、問題の技術的、専門的側面に関して話し合うものとされた。この委員会が政府案の形成、修正に関与し、さらに法案の議会委員会、本会議通過を助けることによって、政策の実施を早め、同時に責任と決定権は政府に残すことが出来るというのが、同紙の主張であった。
 実際にこのような課題別連合委員会が設置された背景には、既に述べたように、連合与党、特に農業党の閣僚と議員団の乖離が内閣における連合合意の実現に深刻な問題を引き起こしていたことがあると思われる。ここで議員団を連合交渉の当事者とし、内閣における合意形成を補完させる利点は大きい。与党議員団間の合意が成立していれば、議会での法案成立にも支障が生じないと考えられるからである。内閣や議会の外にあって連合与党間の合意形成を行ったピェトカに代わり、内閣では閣僚が政治閣僚委員会で、議会では議員団の代表が課題別の連合委員会でそれぞれの段階の連合与党間の合意形成を行う方法が編み出されていったのである。
 1932年1月には具体的に8与党の議院クラブからの代表を集めて、蒸留アルコール石油混合法(蒸留アルコールを石油に混合して燃料とすることを義務づける法律)を検討する蒸留アルコール8党委員会、住宅法のための住宅8党委員会、砂糖8党委員会、そして、失業対策のための緊急基金、労働義務を伴う職業安定所の設置、失業手当の監視、団体協約の拘束制、週40時間労働について話しあう社会政策8党委員会が設置されることになった。
 しかし、これらの課題別8党委員会でも、交渉は困難を極めた。
 社会政策8党委員会では、農業党が、社民党攻撃、特にドイツ人社民党のチェフ(Czech)社会保障相管轄の失業手当が不正に使用されているという攻撃を行い、国民民主党、人民党もこれに同調したため、失業対策のための緊急基金の問題が頓挫してしまった(56)。3党は、農業、工業に関わらず雇用者が失業対策の基金のために支出することに否定的であり、労働者は既に失業手当への権利を得るために労働組合に組合費を支払っているのにもかかわらず、労働者に緊急基金の費用を支払うよう求めた。職業安定所の設置、週40時間労働、さらに住宅8党委員会で行われている住宅法も含め、社会政策法案はすべて停滞した。
 売上税の導入に反対して商工中産党が連合を去ったのち、各委員会は7党委員会(Sedma:数字の7の意)となったが、交渉の困難に変化はなかった。
 農業信用問題連合7党委員会の交渉は、信用供与の条件について意見が分かれた(57)。社民党代表は小中規模農に限定するべきだと主張したのに対し、農業党、人民党、農業者同盟は規模にかかわらずすべての農業者に供与すべきだと主張した。住宅問題についての話し合いは住宅問題連合7党委員会で行われたが、既存の住宅法の期限切れの6月30日までに決着がつかず、臨時に短期間延期することになった。
 それでも、売上税、ビール税の成立は、この方式の大きな成果であった。6月には農業党の要求してきた、ジャガイモ、甜菜から作られる蒸留アルコールの使用を拡大する蒸留アルコール石油混合法が成立した(58)。課題別連合委員会方法の導入によって、内閣中心の連合交渉では解決できなかった政策に合意が達成できたのである。
 但し、課題別7党委員会は、一つの問題にすべての問題が結びつくことを避けることも目的としていたが、結局各政党は、委員会の境を越えて、ある問題についての自党の主張を通すために別の委員会での妥協を留保する行動様式を変えることはなかった。社民党は国防7党委員会で兵役期間の削減を討議することを、売上税、蒸留アルコール石油混合法賛成の条件にした(59)
 そして、農業党は、6月、農業保護措置の合意と結びつけられない場合には、失業者緊急基金や年金税等財政対策関連の話し合いに応じないという強い姿勢を示し、議会の委員会や下院本会議は暗礁に乗り上げ、一時活動を停止してしまった(60)。議会の夏期休暇を前にして、連合政権は焦点の諸立法を実現できるかどうか危ぶまれる状況に陥ってしまった。

3-3.農業党の「反乱」

 7月に入っても、農業党は強硬な態度を崩さず、13日の下院社会政策委員会も上院の本会議も結論を出すことが出来ないままに終わった(61)。しかし、15日の午前中の農業党幹部会は、収穫の保障、畜産酪農シンジケート、農業信用の要求を確認し、穀物シンジケートについてはすぐ活動を始めるようにと譲らなかったが、今のところ畜産酪農シンジケートと農業信用の導入が連合に保証されれば他の問題に関しても譲歩するとした(62)。そして、農業党上院議員が午後の集会で年金税と酵母税について賛成するように決定したため、事態の打開が期待された。連合内には穀物シンジケートに関しては対立は無く、畜産酪農シンジケートと農業信用については秋に話し合う条件で合意が出来る見通しがつき、農業党の要求の中では穀物シンジケートの設置、社民党の要求の中では失業者緊急基金の設置の立法が夏期休暇前に実施される可能性が出てきた。
 ところが、7月15日の上院本会議で農業党議員は、党幹部会の決定に逆らって、連合政府の提出した年金税と酵母税の法案の採決の際議場を退席してしまい、ドイツ人農業者同盟の上院議員の一部もそれに続いた(63)。翌日の農業党の機関紙『田園』では、農業党上院議員が農業関連政策について発言を続けようとしていたにもかかわらず、遮られて無理矢理裁決されたことを退場の理由に挙げ、「何ヵ月もの間、われわれは農産物輸入シンジケートの設立を要求してきたが無駄であった。社会主義政党の誠実な協力を要請してきたが無駄であった」と強い調子で批難し、「100万の農民は事態の進展に備えている」と対立姿勢を示した(64)。 一方、社民党機関紙『人民の権利』は、「首相の出身政党にこれほど規律も秩序も無く、そこで国家への配慮の無い人々が発言力を持っていることは、我が国の内政の悲劇である」と述べ、この農業党上院議員の「反乱」を厳しく批難した(65)
 一時は、ウドルジャルが既にプラハ郊外ラーニの大統領のもとに向かったという知らせも流れ、内閣総辞職の可能性が噂されたが、最終的に連合政権は,上院での農業党議員の反連合的行動は、上院の内部問題であると結論づけ、予定通り7月21日には下院本会議を招集し、失業者緊急基金と、緊縮委員会の設立に関する立法、農産物の輸入に関する授権法の採択に臨むことになった。
 ところが7月20日の農業党幹部会は15日の農業党上院議員の行動を支持する決定を下した(66)。この決定は政府だけでなく、特に農業党出身閣僚に向けられた反対の示威行為であり、幹部会ではスタニェク、ヴラニー(Vrany)、ドナート(Donat)ら反対派の勢力が強いことがあきらかになった。
 21日には予定通り下院本会議が開催された(67)。しかし、同日の農業党の『田園』で、上院議員の行動を支持する幹部会の決定が全会一致であったと報道されたことで、農業党の閣僚の完全な敗北が明白になった。しかも幹部会では、農業党閣僚は社会主義者の人質であり、農業者の利益を実現できないという激しい非難がなされ、総選挙が求められたことから、連合内での農業党との協働はもはや不可能と考えられた。これ以上明白な連合内の対立を避けるために、本会議は急遽中断され、失業者、財政関係の重要な法案を残したまま議会は事実上の夏季休会に入ってしまった。
 政党間のプラグマティックな利益妥協はチェコスロヴァキアの「議会制民主主義」の要であった。政党間妥協の成立には、連合パートナーとの関係と、党内規律の二つの側面がある。20年代のピェトカや8党委員会では各党の実力者が合意形成をしたために、非公式な場で自由に争点を連結して妥協を行うことが出来、また党規律で問題が起こることは少なかった。それに対して、ウドルジャル内閣では内閣と議会の公式の場での合意形成が目指された。課題別連合委員会は、議員団の代表を政策合意形成過程に参加させることで党内規律の確保に寄与し、一定の成功を収めた。しかし最終的には、政党間妥協には争点連結が不可欠であり、課題別委員会ではなく閣議での調整が必要となった。夏期休暇前という時間的制約をも利用して閣議では連合政党間の妥協が実現したが、今度は党派利益を優先する農業党議員団を前に党内規律が確保できず、合意形成は座礁を余儀なくされてしまった。この袋小路から抜け出すためには、農業党党内対立の克服、政党間合意形成と党内規律を共に実行できるリーダーシップ、そして、ますます先鋭化する利益対立の解決をアドホックな争点連結にのみ頼る政治手法そのものの打開が不可欠であった。

3-4.農業党と社民党の利益対立と政策上の接近の限界

 秋の政治日程は農業党の幹部会の開催を待って始まった(68)。ここで決定される農業党の秋の議会会期に対する要求と、農業党内のウドルジャル首相ら閣僚派とスタニェク議員ら右派の力関係に注目が集まった。
 9月6日の農業党最高幹部会(užší předsednictvo)と7日の幹部会(širší předsednictvo)に対し、独立系、社会主義系各紙は両派の引き分けに終わったとの評価を下した(69)。ウドルジャル率いる閣僚派は右派の攻撃をかわすことに成功し、農業党閣僚が政府から引き上げられる事態には至らなかったが、直接の信任も表明されなかった。10月に農業党全国党大会を開催することが正式に決定されたが、両派の対立はそれまで続くと予測された。
 与党連合にとって、より重要な意味を持ったのは、この際決議された農業党の要求リストであった(70)。農業保護に関しては、農作物の最低価格維持のためのシンジケート、金利の引き下げ、農業への安価な信用供与が要求された。これらは逼迫する財政にさらなる負担をかける要求であった。
 同時に、農業党幹部会は社会保障負担の軽減、失業手当の削減、社会保険の見直しを要求し、社会主義諸政党と正面から対立していた。しかし、独立系新聞『リドヴェー・ノヴィニ』の評価によれば、これは連合の協働可能性を排除するような極端な最後通告の性格を持つものではなかった(71)
 農業委員会の審議では、この農業党の主張と社民党の反論が衝突した。農業党出身閣僚の一人であるブラダーチ(Bradáč)農相は、9月23日の農業委員会で幹部会で決議された要求を繰り返し、連合与党の理解を求めた(72)。10月5日の委員会では、農業党のザヂナ(Zadina)がさらにトウモロコシとバターの輸入の完全禁止を求め、財政の立て直しに関しては、社会保障の重荷を見直すこと、犠牲を払っても予算の均衡を目指すことを主張した(73)。その一方で、農業党は選挙は望まず、連合協力の意思があると述べた。
 これに対して社民党の委員は、農業党は農業階層の利益だけを考え、他の階層の利益への理解を見せないと非難した。ビニョヴェツ(Binňovec)は、社民党は議会での農業党への協力に意欲的であり、今年も多くの農業関連法案が社民党の協力で可決されたのに対し、農業党は社会政策委員会でも例えば住宅問題に対してまったく否定的な態度をとったとし、政策を抱き合わせ相互に譲歩し合う連合のメカニズムを農業党が阻害していると批判した。
 さらに、社民党のスルバ(Srba)は、農業党の立場は自由貿易や資本主義など既存の経済秩序とは相容れないと指摘し、農業党の要求は国家の私的経営に対する広範な影響力と統制によってしか実現できず、そのためにも農民と並ぶ勤労階級の代表である社会主義政党との協力が必要であると述べた。ビニョヴェツも農業問題は単独では解決できず、全勤労階層を考慮した政府の経済計画が必要であると主張した。
 他方、チェコスロヴァキア社民党とドイツ人社民党は9月22日に合同会議を開いて両党の統一歩調を確認し、24日には共同マニフェストが両党執行委員会の名で発表された(74) 。『迫り来る厳冬に向けて我々が要求するのは何か!』と題するマニフェストでは、国民経済全体の計画的な変更と統制が求められた。個別には、金利の引き下げやカルテル法の立法、輸出信用に関する法律の改良、週40時間労働、職業安定法、投資計画(道路、水道、土地改良、電化)促進のための投資公債の発行を要求し、さらに、直接的な失業者対策として、7月に成立するはずであった失業者に対する生産的援助や食糧配給のための使用者負担による失業者緊急基金法案の審議を求めた。
 農業に関しては農業重視の保護貿易政策が工業品輸出に悪影響を与えていることを批判する一方で、農業生産物価格を利潤のある水準で安定化させることには理解を示し、そのためにも新しい農業政策の組織化が必要だとした。さらに、連合政治に関しては、最大与党である農業党が統一行動プログラムを守らず、そのために国民議会の活動の成功を阻害していると非難した。最後に国民議会の早期招集を要求し、後に詳述する公務員給与削減問題を意識して、非所有者階級にさらに負担を押し付けることへの強い反対を表明した。
 これに対して農業党の機関紙『田園』は本来失業問題は労働組合や消費者団体の内部で解決すべきなのに、社会主義政党はそれを全階層に押し付けていると批判し、農業党批判には強い反発を示した(75)。これに対し社民党の機関紙『人民の権利』は、 「農業党の機関紙は、社会主義者でない者にとっては失業者の運命はまったく関係なく、社民党とドイツ社民党だけの問題だというのか?」と反論した(76)
 ここで注目に値するのは社民党が農業党の政策を議論する際の理論構成である。農業党は農業保護のために財政出動を必要とする要求を出し、財政危機に関しては失業手当や社会保障の削減で対応するよう求めた。他方、社民党は、農業党の農業利益のみを考える態度を批判する一方で、政権連合の合意形成の方法の点からも、経済の国家統制、計画化を求める政策の点からも、農業党は社民党と協力すべきであるとの議論を展開した。そのため、社民党は基本的には農業をも含めた国民経済全体の組織的、計画的な変更を求め、その中で労働者の利益を守る立場を取った。しかし、この段階では国民経済の再組織、計画の恐慌対策としての具体化には至っておらず、求める政策も個別の対症療法に止まっていた。
 デフレ政策に限定された財政状況の下、両政党の利益はますます激しく衝突するようになった。農業党はもとより社民党も、それらの要求を具体的に計画化や再組織化のプログラムの中で調和させ、政策上の接近によって解決する道を探るには至っていなかった。そのため、連合政権の合意形成には、与党間交渉による要求の組み合わせと相互妥協が不可欠であると見られた。しかし、課題別連合7党委員会も停止し(77)、連合政権は7月の農業党右派の「反乱」以来陥った膠着状況から依然抜け出せないでいた。

4. マリペトル新連合政権の成立

4-1.マリペトル新連合政権の形成

(1)予算均衡問題とウドルジャルの辞任

 農業党内部のウドルジャルの立場は更に困難になり、10月末に予定された党大会にむけて各県(ジュパžupa)で代表者会議が行われ、そのなかでウドルジャルが表立って批判されるようになっていった(78)
 さらに、この秋に具体的な緊急課題となったのは、予算均衡のための公務員給与削減問題であった。イギリスが金本位制から離脱し、緩やかなインフレを許容する政策に転じた後も、チェコスロヴァキアでは、ドイツをモデルとする厳格なデフレ政策が支持されていた。蔵相や国民銀行総裁を歴任し、チェコスロヴァキアにおける国民経済の最大の理論家とみられていたエングリシュ(Engliš)の財政再建案に従い(79)、トラプル(Trapl)蔵相は1933年度予算では可能な限りの緊縮処置を取ることを主張した。その際削減の対象とされたのが人件費であり、9月15日、蔵相は政府に11月15日からの公務員給与一律15%引き下げを求めた(80)
 農業党の経済専門家ブルドリーク(Brdlík)は、国庫が失業給付で逼迫しきる前に出口を探す必要があり、一番反対が少ない道が国家公務員の給与削減であるとあけすけに主張した(81)
 国家公務員労働組合を重要な支持基盤とする社民党は、苦しい立場に追い込まれた。社民党はこの時点ではデフレ理論に理論的に反論する基礎を持たず、デフレ政策、均衡予算を支持していた。この時期のチェコスロヴァキアにも、需要の拡大による不況からの脱出を唱え、エングリシュのデフレ政策を批判する独立系理論誌『現在 Příomnost』のような意見も存在したが少数派であった。そのため社民党の反対は、他項目の緊縮や軍縮による財政緊縮を主張するに止まった。チェコスロヴァキア社民党とドイツ人社民党は既に9月22日の合同会議で公務員給与削減案への反対を決議し(82)、10月1日に開かれた社民党党代表者会議でも、マイスナー司法相は政治報告の中で財政の安定には努力するが、公務員給与の一括定率引き下げに反対するとした。
 連合内の対立と、ウドルジャルの指導力不足を解決する方法として、連合の組み替えや官僚内閣、授権法あるいは選挙までが論議されるようになった(83)
 10月6日政治閣僚委員会が連合各政党代表の同席の下、ウドルジャル首相が議長を務めて開かれた(84)。各与党は公務員給与削減問題について自党の意見をまとめてこの会談に臨んだが、同意は為し得ず、話合いは翌週に持ち越されることになった。7日には閣議も開かれたが、政治状況の打開には至らなかった。8日、ウドルジャル首相は日刊紙の代表に議会招集の準備は完成しつつあるとのやや楽観的な声明を発表したが、翌9日の朝、糖尿病の病気療養を名目に、政府の運営を首相代理の社民党のベヒネ(Bechyně)に委ね、温泉保養地のカルロヴィ・ヴァリへ去った(85)
 連合各党は、内閣改造とトラプル蔵相の公務員給与削減案に関して交渉を続けたが、18日にプラハに戻ったウドルジャルは農業党最高幹部会にて病状を説明し「全力を必要とするこの非常に困難な時局にあって、これ以上職務を執行することが出来ない」と首相辞任を表明した(86)

(2)マリペトル新連合内閣の形成

農業党幹部会は全員一致でマリペトル下院議長に他の政党と新たな政治情勢について交渉するよう委託した。こうして新たな政府形成のための交渉がマリペトルを中心に行われることになった。
 マリペトルが最大政党の農業党から首相候補に選ばれたのは、他の農業党の有力政治家に首相になるには不適切な事情があったために、比較的目立たない政治家であった彼に首相ポストがめぐってきたという側面が大きい(87)。彼は農業党の中でも地味な政治家であり、59歳で首相に就任するまで人柄や政治的傾向などほとんど知られていないほどであった。戦前ウィーンで帝国議会議員として活躍したウドルジャルと異なり、農場を持つプラハの北西50kmほどの故郷で農業自助会や農業党の活動を行い、1914年からはスラニーの群長を務めるなど、地方政治家としての経歴を重ねてきた(88)。建国後、国民議会議員となり、1922年から25年までシュヴェフラ内閣の内相になったが、その後は下院議長の座にあった。語られることが少なく、その人物像を描くことは容易ではないが、「鉄の神経の持ち主」、「仕事に厳しい人」といわれているように、冷静で勤勉な実務家肌の人物であったようである(89)
 しかし、国民経済の知識があり、実務家肌のマリペトルがこのとき農業党から首相に推挙された意義は大きい(90)。また、彼の選択にあたっては、例えば社会主義諸政党の連合パートナーに対する批判的見解ゆえに不適格とされたスタニェクなどとは異なり、社民党の支持を得られる人物であるという点も重要であった。農業党が下院議長マリペトルを首相に推挙すると、すぐ社民党指導部もそれを支持した。特にソウクップ(Soukup)は大統領秘書シャーマル(Šámal)に対し、マリペトルを能力のある、エネルギッシュな政治家であると推した(91)
 こうして選ばれたマリペトルを中心に、連合交渉が進行した。社会主義政党と人民党は、現連合の枠組みの維持を表明し、党の政府への代表を換える必要はないとしていた(92)。社民党のベヒネが大臣を務める食糧配給省の廃止は規定方針となっていたため、ベヒネはいままで官僚が占めていた鉄道相のポストにうつることとなった。
 農業党出身閣僚の決定が最大の問題であったが、ウドルジャル派と右派のどちらにも属さない、マリペトルとホジャが入閣し、右派のスタニェクは下院議長とすることで、農業党内の対立がようやく沈静化した(93)。しかし、右派のスタニェクを下院議長とすることには連合各党の完全な合意は得られず、議長選出の際には連合与党内からも37票の白票が投じられた(94)。新政府の人事問題がほぼ決着したのは10月21日になってからであった(95)

(3)行動プログラムの合意

 マリペトルの実務家的、調整的指導力は、この連合交渉の際に緊縮予算をめぐる政党間対立の調整に発揮された。彼は、首相就任の条件として政権連合に参加する諸政党によって、均衡予算、特に国家公務員の予算削減が、蔵相トラプルの案にしたがって行われることの保障を首相就任の条件にすることで、新政府の財政計画への保障を取り付けようとしたのである。
 憲法では10月中に議会の秋会期を始めるよう規定されていた。また、住宅臨時政府法案の期限切れが10月末に迫っていたこともあり、議会は政党間交渉の結論を待たず、20日に招集された(96)。政府総辞職の際には議会の開催は中断される慣行であったが、21日にウドルジャル内閣が正式に辞任を決めた後も開かれ続けた(97)。この正常でない状況を打開するため、一日も早い組閣が望まれていたのにもかかわらず、22日マリペトルは各連合政党に対して、25日の夕刻までに必要な緊縮案、つまり公務員給与削減措置への態度を明らかにするように要請した(98)。そして、もし諸政党が前もって12億コルナと見積もられる赤字を解消するこの削減案を受け入れることで一致しないならば、農業党によって委託された新政府形成の任務を返上すると宣言した。
 連合政権の形成にあたり、行動プログラムに合意をすることはチェコスロヴァキアでは前例を見ないことであり、マリペトルのこの試みは驚きを持って迎えられた。これまでは最低でも5政党以上の連合各党のポスト配分と入閣メンバーの決定が連合交渉のすべてである場合がほとんどであった。リベラル左派の『リドヴェー・ノヴィニ』もウドルジャル政権を回顧する20日の記事で、ウドルジャル政権は行動プログラムなしに出発し、先の見通しなく事態の進行に押される形で問題ごとに連合間で交渉を行っていたことを指摘して、今回はこれに学んでプログラムが必要なのにもかかわらず、前政権以上に連合交渉が人事問題に終始していることを批判したばかりであった(99)
 23日の農業党機関紙『田園』には、マリペトルによって指示されたと見られる社説が掲載された(100)。社説はまず、幾つかの新聞で組閣終了が報道されたのは間違いであるとし、人事問題は組閣にとって二次的なものでしかないと述べた。続けて社説は「前政権、連合の経験から、マリペトル議員は我が党の賛成の下、まず政府と与党多数派の順調な仕事のための第一の条件を解決することにし」、諸政党と今後の協働のための第一条件である均衡予算について話し合っていると述べた。さらに、1929年のウドルジャル政権成立の際、「我々は合意することに合意する」とのスローガンに頼った時の失望を想起し、連合政権設立の前に合意が必要であると強調し、「マリペトルが大統領の新政府樹立の委任を受け入れるかどうかは諸政党の答えにかかっている」と警告した。
 交渉が失敗した場合には議院内閣の設立は困難となり、官僚内閣が任命されることが予想された。公務員給与問題にもっとも利害を持たない人民党は既に削減に賛意を表明していた。官僚層を支持者に持つ国民民主党は給与削減に反対していた。さらに、同党は議院内閣の設立を絶対視しておらず、官僚内閣支持に傾きはじめたため、マリペトルは国民民主党なしでも連合政権は可能であり、代わりに商工中産党と入閣交渉をすると圧力をかけた(101)。結局国民民主党は、給与削減を受け入れた。
 最後まで残ったのは公務員組合を抱える社民党であった。連合交渉の初期、社民党は農業党の内部対立によって首相交代に至ったことに冷ややかな態度を示し、連合にそのまま残留することを当然視していた。しかし、公務員給与削減問題への態度表明を連合参加の条件とされたことで、にわかに苦しい立場に追い込まれた。マリペトルと社民党の間では厳しい、見込み薄とすら思われる交渉が続けられた。農民党の機関紙『田園』は連日連合形成の条件は予算均衡問題についての合意であることを確認して圧力をかけた(102)。28日には具体的合意があまりに困難であったために、悲観的観測が広がるほどであった(103)。大統領マサリクは連合形成の努力を放棄しないように繰り返し両党の政治指導者に呼びかけた。
 最終的に社民党は27日の党幹部会の会合の後、急遽電報で中央執行委員会を29日に招集した(104)。党首ハンプルと党出身閣僚の説明後、中央執行委員会は、社民党が議院内閣の形成を支持し、それが一刻も早く形成されるよう貢献することを決定した。また、予算均衡の合意のために全力を挙げ、その際その負担が一方的なものとならないよう努力することを確認した。社民党内の国家公務員労働組合代表は、年金基礎給与が12600コルナまでの公務員を削減対象から除くよう要求したが、それが原則的条件だとまではこだわらなかった。指導部は、議会制が危機に瀕しており、このように重大な状況では、党の他の要素の利益、つまり労働者や私企業被用者の利益も考えなくてはならないとし、もし社会主義者が直接政府に代表されないならより反社会主義的な統治が予想されることから、連合への参加が不可欠であると主張した。
 社民党の中央執行委員会が指導部に更なる話し合いのための全権を与えたことで政権連合の協議が可能となり、29日の午後、再びマリペトルと各党の代表が交渉を続けた(105)。蔵相トラプルを含めて、公務員給与削減について具体的な合意案が作られた。結局、給与が年金基礎9000コルナまでの国家公務員は削減対象から除外され、それ以上の給与額の公務員に関しても、一律定率引き下げにではなく、段階ごとに引き下げ率を定める妥協がなされた(106)。引き下げ率もトラプル案より緩やかにされた。この合意で達成される緊縮額はトラプル案の元来の要請には達しないため、他項目の削減と増税について早急に合意するなど、全政党は予算均衡のために努力し、11月末までに予算案を下院に提出することを約した。
 これらの基本合意についてマリペトルは電話で大統領に伝え、その日の夕刻のうちにマサリク大統領はウドルジャル政権の辞表を受理し、マリペトル新内閣を任命した。

4-2.マリペトル新内閣:政権主導型連合政治の始動

10月29日に発表されたマリペトル新内閣の構成は、ほぼ前内閣と共通していた(107)。農業党、国民社会党、社会民主党、人民党、国民民主党に、二つのドイツ人政党(ドイツ人農業党とドイツ人社会民主党)を加えた連合構成は前政権の最後の連合形態と同じであり、下院では194議席、上院では100議席の多数を占めた。中産商工党とスロヴァキア人民党は連合交渉を行なったものの結局閣外にとどまった(108)
 閣僚も12人が前内閣から留任し、しかもそのうち10人は同一ポストを占めた。主要な変更は農業党出身閣僚が、ウドルジャル、ヴィシュコフスキー(Viškovský)、スラーヴィク(Slávik)から、マリペトル、ホジャ、それに農業党に近い内務官僚であるチェルニーに交代した点である(109)
 このように内閣の構成からは前内閣との違いはほとんど存在しないかにみえるが、実質的変化は大きかった。それには、農業党内部の安定化、農業党と社民党の政策の若干の接近による関係の改善、それに、新首相マリペトルの新しい政治指導が重要な役割を果たしていた。

(1)農業党の安定化

 連合交渉が大詰めを迎えていた10月29日から翌30日にかけて、プラハの市公会堂に1400人の代表を集め農業党の党大会が開催された。農業党内の分裂から大荒れになるのではとの見方に反して、大会は整然と進行し、他政党の機関紙からも農業党内の団結を示すものと受止められた(110)。 党首シュヴェフラは依然病床にあり、党大会に出席することは出来なかったが、29日の午後には大会から60人の代表が、プラハ郊外のホスティヴァーシュの彼の農場を訪れ、シュヴェフラの挨拶を受けた。民主主義における指導者と責任の問題についてのこの挨拶は、社民党機関紙の『人民の権利』からも民主主義の議論に寄与するものと評価された。29日の党総書記ベランの政治報告では、農業党は他党との協力に賛成であるとし、他政党にも農業の必要性の観点を理解するよう求めた。
 30日には、スタニェクが29日夕方のマリペトル新内閣の任命を党大会に報告した。その際スタニェクは新内閣の設立に際し、均衡予算の合意形成が最も困難で、かつ必要不可欠であったことを述べ、マリペトルが国家財政の建て直しに努力し、「その際の負担をこの国の住民の各要素に公平に配分する」よう働く際には、農業党は「一人の人間のように」団結して支援することを約束した。さらに、このように均衡予算を重視する理由としては、「国家予算の安定化は我々の農業の要求が実現される可能性が生まれるための条件である」と述べた。そして、反体制派を除く「全要素の信頼によって強化された強い政府が、我々をカオス、混乱、経済的崩壊状態からひき出してくれるよう心から願う」とマリペトル内閣への期待を表明した。
 ウドルジャル首相を含む農業党出身閣僚の交代によって、農業党内の亀裂が閣僚対議員団の対立に直結しなくなったことで、最大政党の農業党が安定化し、連合政党間の合意形成の大きな混乱要素が除去された。このことは、連合合意形成のための閣僚政治委員会や、議会の課題別連合委員会が再び機能し始めることを意味していた。

(2)社民党と農業党の政策接近

 一方社民党は,新政権の成立に対して、10月31日にプラハで公開人民集会を開き、再び連合政権参加に至った状況を党首ハンプルが説明した。その中でハンプルは、広範な勤労階層は目下のところ政府への代表なしに止まることは出来ないという原則に立って連合交渉に臨んだとし、政権参加によって議席を減らすことは許容できても、確固たる政治路線を守る義務を放棄することは出来ないと述べた。官僚内閣の危険を避けるために妥協はやむを得ず、公務員給与削減は、被用者の解雇を避けるためのより小さな悪であると主張し、議員閣僚給与削減や、カルテル法の制定などの緊縮措置に取り組むことを約した(111)
 農業党の『田園』も新内閣は社会主義政党も右派政党も相互の忠誠を確認し、新内閣は今までにない全般的忠誠を誓われていると述べて歓迎の意を表した。
 このような政党間関係の改善の背後には、緩やかな政策的接近があった。
 農業党は、7月に実現した穀物シンジケートが十分な成果を上げられなかったことから、党大会の直前10月26日には、新たに穀物専売制の要求を議会に提出した。農業党党大会の決議に対し、国民社会党の『チェコの言葉』は、農業党が穀物、畜産の専売、低利信用の供与など国家の義務を呼びかける一方で、健全な私的経営を主張する矛盾について指摘した。そして、農業党の要求のうち大半は社会主義者の要求とみなせるとし、農業党が誇る土地改革と同様の社会経済改革が工業経営でも行われるべきことに、農業党が気がつくことを求めた(112)
 元来社会主義諸政党は、穀物輸入シンジケートでは不徹底であるとし、直接国家が統制を行うべきであると主張していた(113)。社民党の『人民の権利』は、農業党の要求は社民党の1930年の提案をようやく取り入れたものであるとし、ただし、社民党は穀物専売制を非常事態打開のためだけの手段とは考えておらず、農業生産物の生産と分配を根本的に変革する必要があると述べた(114)
 既に、農業党の立場は自由貿易や既存の資本主義経済秩序とは相容れないことを指摘していた社会主義政党は、農業党の要求が国家の経済統制へと向かい始めたことに注目し、そこに社会主義の目的との共通性を見出し始めていたのである。但し、両党の連合関係にこの要素が影響を与えるには、農業党、社民党双方の経済計画の立案、政策決定の手法、デフレ政策を始めとする正統的経済路線との関係などいくつもの課題が残されることになる。

(3)マリペトルの政治指導

 そして見逃してはならないのは、新首相マリペトルの役割である。彼は前述のように地味な政治家であり、首相に選ばれたのも他の選択肢が消去された結果という側面が強い。しかし、彼はウドルジャルと異なり農業党の党内対立のなかで中立の立場であったことを生かし党内をまとめ、政党間合意形成を再び可能にした。さらに連合交渉とのカップリングによる均衡予算への合意取り付けに見られるように、彼にはウドルジャルには欠けていた創造的リーダーシップの能力が期待できた。
 更に重要なのは、彼が政策主導型の妥協、調整を目指した点である。1920年代の連合の調整役であったシュヴェフラは、党の実力者でもあり、ピェトカを舞台に連合パートナーとの勢力バランスを巧みに操り、非公式の場での争点連結による取り引きを得意とした。しかし、恐慌の深化に伴い利益対立はますます先鋭化し、相互に矛盾する要求の解決を争点連結にのみ頼ることには限界が見え始めていた。上述のように、社民党には農業党との政策上の接近を合意の基礎としようとする動きが始まる。また、合意形成の場が非公式の場から内閣や議会に移ったことも、争点連結に替わる新しい合意形成の基礎が必要となってくる一因であった。マリペトルの政策主導型のリーダーシップはこの転換期に適合的であったといえよう。
 彼のリーダーシップの特色は、連合交渉とのカップリングによる均衡予算への合意取り付けに既に現れていた。また、1932年11月3日に召集された下院議会で行われた施政方針演説の大半が具体的な国民経済問題に向けられたことにも現れている(115)
 演説では、第一に国家財政の均衡回復が政府の最大の義務であることが強調され、そのためには歳出のうち人件費の削減が必要であることが数字を挙げて説明された。またその具体化のためには議会緊縮委員会が既に活動を始めていることが指摘された。第二に金融政策に関しては、通貨価値擁護を前提とし、金融市場の活性化のために、公共事業、農業、工業、商業への金利の引き下げのための処置を約束した。第三に失業問題に関しては、輸出増の見込みのない現在、農業者と労働者の購買力が失業問題解決のために重要であるとし、その際農産物と工業製品の価格の均衡化の必要性を強調した。また、景気の回復が失業者数の削減に寄与することを期待するが、それが望めない場合には、国家や公的団体の効果的投資によって失業者に仕事を与えることも考慮すると述べた。当面の失業者の困窮を救うためには、各自治体での自主的な慈善活動を呼びかけた。
 このように、大半を経済問題に費やしたあと、外交政策についてはこれまでの路線を堅持することを約した。最後に議会に対し、「我々は一つの船の上にいる。この船の上に困難なときも喜びのときも政府と立法府は共にあるのだ」と述べ、 困難ではあるがより責任ある仕事を受け止め、政府への信頼と協力を呼びかけた。マリペトルは更に1933年1月12日には下院予算委員会での膨大な演説で経済状況の分析と経済問題解決のための政府の政策を繰り返した(116)
 連合政治が再び動き出したことを象徴したのは、予算7党委員会の活動であった。11月2日に行われた初めての閣議で、政府は下院予算委員会の与党メンバーから、政府と協力して1933年度予算の準備をする予算7党委員会を作るよう要請することを決めた(117)。政府の要請にしたがって、下院予算委員長の農業党のチェルニーは4日、連合7党の代表を招集し、歳出削減と予算均衡のための会議を開始した。予算7党委員会はほぼ一ヶ月に渡り、詳細に一般予算の各項目を検討し、9億コルナ以上の予算削減を行った。連合成立に際し、公務員給与削減と共に予算均衡への努力が連合諸党から約束されていたため、予算7党委員会の活動は順調に進み、農業党も社民党も機関紙でその成果を高く評価していた(118)

終わりに

 本稿で見てきたように、チェコスロヴァキアでは、世界恐慌以降先鋭化する経済、社会的利益対立を、拡大連合の与党間の合意形成を通じてまとめる努力を続けてきた。その中で、ピェトカのような党指導者の非公式な「ボス交」ではなく、内閣の政治閣僚委員会、議会内の課題別連合委員会に基礎を置く合意形成方式が編み出されたことは、チェコスロヴァキアの議会制民主主義の一つの成熟といえよう。
 この合意形成方式は農業党の党内対立を直接的な原因として一旦行き詰まるが、事態はマリペトル連合内閣の登場によって打開された。マリペトルはウドルジャル政権期の合意形成の場やメンバーの工夫に加え、政策内容への合意を連合政権の柱とした。連合の行動プログラムが初めて連合形成前に準備されたことはそれを象徴している。マリペトル内閣の成立は「合意することに合意する」連合政治から、政策主導の連合政治への転換を意味したのである。社民党が経済の国家統制の必要性という点で農業党の政策との間に共通性を見出しつつあり、両党の政策的接近はマリペトルの新しい政治指導と共振して、新しい連合政治の可能性を開きつつあった。1920年代初期に安定化したチェコスロヴァキアの「議会制民主主義」が、組織利益政党間の妥協という本質を維持しつつ、状況の変化に状況の変化に対応して、適応、変化していったのである。
 政党、政党指導者が中心の政治が生存能力を示し、大統領や君主の執行権に依存する政治が目指されなかったことは、当時の中東欧の状況を考慮したとき注目に値する。連合政党間の合意形成が困難に陥ったときも、大統領マサリクに依存することはなく、あくまで連合政党間の調整が目指された。マサリクやフラト・グループは、政党間の合意形成に間接的影響を与えるに止まったのである。その意味で、チェコスロヴァキアの民主主義の帰趨をマサリク、ベネシュ、フラト・グループにのみ委ねる見解は再考の必要があろう。チェコスロヴァキアの「議会制民主主義」の手綱は政党、政党指導者に委ねられており、様々な試み、努力によってその生存能力を証明したのもまた彼らであった。
 本稿では、内政の中心であった、社会、経済的利益を組織した政党間の妥協に焦点を当て、世界恐慌下の状況の変化に対するその適応可能性を考察してきた。しかし、拡大連合の外ではフリンカ・スロヴァキア人民党やドイツ人の国民社会労働者党、さらにはチェコ人のナショナリスト政党が勢力を拡大しつつあった。利益妥協の政治の枠内で要求を貫徹できないことに不満を持つ人々が、現状の様々な問題点を民族問題として解釈するこれらの政党の訴えに引き付けられていったのである。 マリペトル政権成立後まもない1933年1月、ドイツでナチスが政権を掌握し、さらに3月にはオーストラリアで議会が閉鎖されてしまう。これら隣国の体制転換を一つのきっかけとして、拡大連合の外側からはチェコスロヴァキアの「議会制民主主義」体制そのものを疑問視する声が上がるようになっていく。また一方で、世界恐慌による諸問題を打開するために、拡大連合内部の諸政党からも経済、社会への国家介入の要請が更に高まっていった。 そのなかで、部分利益間の妥協による決定の遅延が「弱さ」とみなされ、より「強い民主主義」が求められるようになる。また、部分利益代表政党の党派的利益の妥協は国民、国家の利益とは異なるという主張がなされるようになり、利益妥協による議会制民主主義が疑問視されるようになっていく(119)。そのなかで、本論における連合政治の主要な担い手であった農業党と社民党がどのように対応していくのかについては次稿に譲ることとする。(本稿は平成11年度文部省科学研究費補助金(日本学術振興会特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。)


Summary in English