SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

民の声.詩人の眼差し
−O.マンデリシタームの戦争詩より−

斉  藤   毅

Copyright (c) 1997 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


− 注  釈 −


1   Аоллон, 1914,No.6-7,стр.5-13.
2   Г.Иванов, “Испытаниеогнем(Военныестихи)”Аоллон,1914, No. 8,Стр.52.
3  C. Brown, Mandelstam, Cambridge, Camdridge U. P., 1973, pp. 58-59.
4  О.Мандельштам,Сочця ε δεуχ mомαχ,т.2,Сост.П.М.Нерлела, Москва,Художественная литература,1990,стр.148-149.(以下 CI、IIと略記)
5   1914年から1916年にかけてマンデリシタームによって書かれた戦争詩は8篇である。それを執筆年代順に並べるならほぼ次のよ うになる(左は草稿に明記されている執筆の日付、右は初出の雑誌名、星印は詩集に収録された詩を示す)。
*  <<Европа>>: Сентябрь 1914./ Аоллон,1914,No. 6-7(август−сентябрь).
*  <<Перед войной>>:Аоллон 1914,No.6-7.
<<Реймс и Кельн>>:Сентябрь 1914./Пеmербурsскuе εечерα,1915, кн.4.
<<Немецкая каска>>:Бцржные εеδомосmц,1914,5 октября.
<<Роlасi!>>:Нuεα,1914,Ио. 43,25 октября.
<<В белом раю лежит богатырь...>>:Декабрь 1914.
*  <<Зверинец> >:11 января 1916./Ноεαя жсuзнь, 1917, 18 июня.
*  <<Собирались Эллины войною...>>:1916(декабрь?)/Вечернαя зεезδα,1918,16 февраля.
最後の1篇は「1914年に書かれた」戦争詩として考えることができる。草稿に「1916」の日付が明記されているこの詩は、詩人の生前、最後に刊行され た作品集である『詩集(стихотворения)』 (1928)において「石」の章に<<1914年>>というタイトルで 「1914」という偽りの日付とともに収録されているが、これは作者による意識的な操作であると思われる。
6  О.Мандельштам,Полное собрαнце сmεоренuu(Ноεαя бuблuоmекα nоЭmα),Сост.А.Меца,СПб.,Академический проект,1995,стр.121.(以下НБПと略記)
7   НБП,стр.340.  晩年、詩人は手元にあった1928年刊の『詩集』からこの詩を抹消してしまった。
8   以下で述べることは都市国家ローマや19世紀型のヨーロッパ国家の構造に関する歴史学的な裏付けを欠いている。しかしここではあく まで詩のテクストの中における「国家」のあり方だけを問題にしたい。たとえばこの詩における「カピトリウム(Капитолий)」という言葉は、歴史上 ローマの中心としての機能を果たしたカピトリウム神殿を指すのみならず、そのような国家の中心をなす次元を象徴するものとしてある。詩の言葉の歴史的なコ ンテクストを正確に決定することは必要であるが、詩を徹底して「歴史学的」に読もうとすることは、詩の言葉の働きを見失う危険があるだろう。
9   「都市(город)」 「城市(городище)」「市民(гражданин)」「城砦(стена)」「要塞 (кремль)」「保塁(укрепление)」「アクロポリス(акрополь)」いった都市をめぐる語彙体系は、マ ンデリシタームの詩論「言葉 の本性について(О природе слова)」(1922)における言葉に関する議論の中で一貫して現れている。マンデリシタームの創造において「都市」とは言葉を使用す る人間の共同性 の象徴であったと思われる。言葉そのものがすでに共同性を内包するものである。拙訳「言葉の本性について」および注釈、『ロシア文化研究論集エチュード』 3号、ロシア文化研究サークル(КРУК)、 1995年、122‐146頁を参照。
10  ローマ創建伝説およびその都市構造の祭祀との関係については、J. リクワート、前川道郎他訳『〈まち〉のイデア.ローマと古代世 界と都市の形の人間学』、みすず書房、1991年、P. グリマル、北野徹訳『ローマの古代都市』(文庫クセジュ767)、白水社、1995年に詳述され ている。
11  E. バンヴェニスト、蔵持不三也他訳『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集.T.経済・親族・社会』言叢社、1988年、359頁。 プシブィルスキは同様のことを次のような言葉で述べている。「ローマの持続とは本質的には、カピトリウムが絶えず攻撃に晒されていること(the continual vulneravility of the Capitol)を意味した。パックス・ロマーナとは永遠の戦争状態のことだったのだ」 (R. Przyblski, God's Grateful Guest: An essay on the poetry of Osip Mandelstam, Trans. by M. G. Lovine, Ann Arbor, Ardis, 1987, p. 30)。
12 Przybylski, God's Grateful Guest, pp. 30-31. o. Mandelstam, Stone, Trans. and introduced by R. Tracy, Princeton, Princeton U. P., 1981, p. 234. この7−8行目には“rostra”という語のアナグラムが見られる(<<...ОСТРый клюв>>)
13  このことはとりわけ第三連を考える際、重要であると思われる。たとえば11行目の「月足らずの子(недоносок)」はどのよ うに読めばよいのだろうか。トレイシーは、カエサルを暗示すると述べているが、根拠は示されていない(Mandelstam, Stone,, p. 234)。プシブィルスキは、ヴェルギリウスの『牧歌』第四歌における、鉄の種族(<<железные>>)に 続く黄 金の種族の到来を告げる幼子を指すというが(Przybylski, God's Grateful Guest, pp. 31-32)、それでは「月足らず」である必要はないし、詩の構成そのものにそぐわない。ハルジエフは、背丈が低いことで際立っていた当時のイタリア王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世であるとの考えを示している(О. Мандельштам,Сmuхоmεορенuя(Бuблuоmекα nоЭmα.Большαя.2−е uзδ.),Сост.и прим.Н.Харджиева,М.,Советский писатель,1978,стр.309)。この詩全体が世界大戦への参戦を躊躇していたイタリアのことを物語っているのだとすれば (S. Broyde, Osip Mandel'stam and His Age, Cambridge, Massachusetts and London, Harvard U. P., 1975, pp.21-22)、この考えはある読解への道を開くかもしれない。しかしその際 にも<<1913年>>というタイトルは考慮されなければならない。最終行の「ローマの鍵(ключи Рима)」はペテロを初代司教とするローマ教会を指し示しているとも考えられる。「わたしはあなたに言う。あなたはペテロである。そして わたしはこの岩 の上に教会を建てよう。[……]わたしは、あなたに天国のかぎ(ключи Царства Небесного)を授けよう」(マタイ、16、8‐19)(日本聖書教会版、および`_895版による)。イタリア王国内の教皇領への 暗示である。し かし以上を踏まえた上での一貫した読解はここでは行うことができなかった。
14 НБП.стр 341.
15  「ポーランド」がロシア領、「ポズナニ」がドイツ領を指すと思われるが、この詩におけるポーランド、この分割された国家(< <...и...>>)の位置づけについては他の戦争詩(<<ヨーロッパ>><< Polaci! >><<動物小屋(Зверинец) >>など)とともに別に考察されるべきものである。マンデリシタームの戦争詩 においてポーランドは小さからぬ位置を占めているからである。
16  たとえばフランス語の“cap”は「兜」をも「舳先」(“rostra”)をも意味しうる。
17  もちろん「銅」は「青銅の種族」への暗示として一般に武具の提喩でありうる(たとえばヘロドトス『仕事と日々』142‐154 行)。
18  マンデリシターム「言葉の本性について」より次の一節を参照。「ヘレニズム − それはどうでもよい[=差異のない]対象 (безразличные предметы)によってではなく、道具(утварь)に よって意識的に人間を囲むことであり、そうしたどうでもよい対象を道具に変えることであり、 身の回りの世界を人間化すること[……]である。[……]ヘレニズム的な理解によれば、シンボルとは道具のことであり、それゆえ人間の聖なる (священный)圏内に引き込まれたあらゆる対象は 道具になりうるのであり、したがってシンボルにもなりうるのである」 (CII,стр.  182.  強調は引用者)。以下の議論はジョルジュ・バタイユ、湯浅博雄訳『宗教の理論』、人文書院、1985.「ヘーゲル、死と供 犠」「ヘーゲル、人間 と歴史」(酒井建訳『純然たる幸福』、人文書院、1994.所収)に負うところが大きい。『宗教の理論』におけるバタイユの議論を要約するなら次のように なる。動物は差異(diffea'rence)のない自然の中に内在性としてあり、たとえ肉食動物が獲物を捕らえるときにも、その獲物は客体=対象 (objet)として与えられることがない。道具を使用する主体(sujet)としての人間のみが、その道具を連続的な自然から切り離し、みずからの目的 に従属させることで(超越性としての)客体=物を定置する。さらに主体は、道具の客体性をみずからのうえに投影することで、みずからを客体として認識す る。こうした一連の作用を言語の作用(langage)と呼ぶこともできる −。上に挙げたバタイユの著作はアレクサンドル・コジェーヴ(コジェーヴニコ フ)によるヘーゲル『精神現象学』の解釈を展開させたものといえるが、思想史的にみるならマンデリシタームの「言葉の本性について」にもゲルツェンやソロ ヴィヨフを介してヘーゲル的なものが入り込んでいる可能性がある(この詩論に対するゲルツェンの影響に関しては拙訳「言葉の本性について」注釈、 137‐138頁参照)。この点でコジェーヴの思想の出発点にソロヴィヨフ研究があったという事実は示唆的である。ついでに付け加えておくと、マンデリシ タームとフォルマリズムの言語論の間に影響関係を見いだそうとする試みが時おり見受けられるが、それは部分的には妥当するとはいえ、「言葉の本性につい て」においては死、禁忌、共同体といったことをめぐって「言葉の本性」が考察されているのであり、この点でフォルマリズムの言語論とは一線を画すものであ る。
19  E. バンヴェニスト、蔵持不三也他訳『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集.U.王権・法・宗教』言叢社、1990年、 138‐146頁。
20  マンデリシターム「言葉の本性について」より次の一節を参照。「……「人間(永遠のフィロロジスト)が、このことのために< <死>>という言葉を見いだしたのは何という恐怖だろう。一体、このことを何とかして名づけることができるのだろうか? 一体、それは 名前を持っているのだろうか? 名前とはすでに一つの定義であり、すでに<<何かを知っていること>>なのだ」[ローザノフ『落 葉(Опавшие листья)』からの一 節]。このようにローザノフは自分のノミナリズムの本質を定義している」(CII,стр.179)
21  バンヴェニスト『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集.U.王権・法・宗教』、180頁。バタイユにあっては、「聖なるもの」が出現す るのは、主体―客体の超越性から動物の内在性への回帰においてである(たとえば『宗教の理論』第一部、U.5「聖なるもの」、42‐44頁を参照)。
22  マンデリシタームの詩論「言葉と文化(Слово и культура)」(1921)より次の一節を参照。「もし可能なら、もしできることなら、形象のない詩を書いてみるがいい。盲人はもの みる指で愛しい 顔にかすかに触れるや、それを認識し、そして喜びの、認識の本当の喜びの涙が、長い別離の後で彼の眼から迸ることだろう。詩は内的形象 (внутреннй образ)に よって、書かれた詩に先行する、鳴り響く形式の型(звучащий слепок формы)によって生きているのだ」(CII, стр.171)。言葉の形式性とは、ここで言われる「内的形象」と同じものであるといってよいと思う。
23  正確にはこの語自体、スペイン語(“casco”)か らの借用語である。
24  とりわけ<<ヨーロッパ>><<動物小屋>><<かつてギリシア人 は戦に集った……(Собирались Эллины войною...)>>(後に<<1914年>>と改題)において。
25  1915年にゲオルギイ・イワーノフが「アポロン」誌で行った戦争詩の概観で、ヴャチェスラフ・イワーノフ、ソログープ、クズミー ンによるものが紹介されている(Г.Иванов, “Военные стихи”,Аnоллон, 1915,No.4-5, стр.82-84)
26  マンデリシタームにおけるこうした普遍文化への志向は、1914年初めから1915年秋にかけて書かれた11篇に及ぶ「ローマ詩 篇」(世界文化の中心としての都市ローマあるいはローマ・カトリックを主題とした詩)にも現れている(<<1913年>>をここ に含めることも可能である)。これらの詩の執筆時期は戦争詩のそれと一致する。これまでマンデリシタームの「ローマ詩篇」はチャアダーエフとソロヴィヨフ の影響によるものとされてきたが、プシブィルスキも指摘するように世界大戦に触発されたところも大きかったと思われる( Przyblski, God's Grateful Guest, p. 43)。ただし普遍文化の「中心」と国家の「頭」との差異については検討が必要だろう。
27  CII,стр.195. この文章の結びは1922年に書かれた詩<<柔らかな唇に薔薇色なす疲れの泡をためて…… (Срозовой пеной усталалости у мягких губ...)>>を散文にパラフレーズしたものである。


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