SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

『聖グレゴリオス講話』伝承史のテキスト学的研究

三 浦 清 美

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テキストと試訳

その注釈に見いだされる聖グレゴリオスの説教

かつて諸民族が異教徒であり、偶像を崇拝し、

これに供物を捧げおりたるのみならず、

今もこれを行ないたること

 あの呪われ、穢れたる祭式を汝らは見るであろうか。穢れ、呪われたるヘラスの民びとが悪魔の教唆を得て偽りの捧げものを行なう儀式、闇の悪魔のあやかし によって催されるあの祭りを。邪悪なるでたらめごとに供物が捧げられる。邪悪な教えを奉ずるものたちが、嘘を真と偽って偶像に勤めを為し、跪拝し、悪魔の 思案をどのようなものでも実行に移す。

 皆の衆よ、私達はこのような汚らしい供犠から離れようではないか。悪魔に勤めを為し、生贄を捧げることから。クレタの呪われた教師、忌まわしいモ ハメッド即ちイスラムの祭司、ヘラスの色ごと、太鼓の連打笛の音、踊り、フリジアの吹奏楽、竪琴、詩の朗唱とザマラから。連中は鬼に憑かれたように乱痴気 騒ぎをして悪魔の母アフロディテに、コリュバントに、アルテミスに、忌まわしいディオミディアに生贄を捧げるのだ。腿からの誕生や月足らずの逆子、アンド ロギュノス、アテネの常軌を逸したばか騒ぎを神のように崇めることから。雷や稲妻に、ヴィールに、セメラの捧げものを供えることから離れようではないか。 予言者ダニールがヴァヴィロンで殺した蛇をヴィールと名付けている。ファロスや堅く張りつめたファロスを崇拝することから離れようではないか。人々は恥部 を崇め、それに跪拝し、供物を捧げている。恥部から流れ出る液を食することによって罪が清められると言いながら、この嘘の教えを信じて、彼らは恥部から流 れ出る液を食するのである。タブリスで偶像に捧げる子供の生贄。最初の子供から屠るのである。スパルタの血の供犠。切り裂いて流した血を女神エダキヤに塗 り付ける。このエダキヤは乙女であると考えられている。そして、モコシとマラキアを崇拝している。

補注:Фружъскыяに由来する語。Фрятはギリシア語のφραa'γκοζ、ラテン語のfrancusに由来(Словаръ  Современного Русского Литературного Языка,Т16)し、元来フランク人という意味であったが、ビザンツの例 に習い(p.211、ロシア史1、東京、1995)、イタリア人を指した。ことに、ジェノア人に用いられたが、後に西欧人一般をこう呼ぶようになる (Полный Церковно−славянский словарь,М.,1899)。本稿では、しかしながら、原典がφρυγων (φρυa'ξ)〓Phrygiansとなっているので、あえて「フリジアの」という訳をとった。写字生の取り違えによるテキストの変容の一例と言えよ う。

 「気性が荒い」と言ってキラを大変に深く崇拝している。罪深いペロプスの肉切り。神々が空腹だと言ってこの肉で神々の餓えを満たすのである。デル フォイの魔術の鼎、カスタリの泉を飲むこと、幻術、魔法の説法、けがらわしい邪視、カルディアの占星術、祖先崇拝、フリジアの夢占い、魔法、籤、オルフェ ウス運命占いとけがらわしいお喋りと作り事、ミトロファンの妖術を捨てなくてはいけない。オシリスを生んだ母親がちゃんといるのだからという理由で、呪わ れたオシリスの誕生を本当のことだと信じている。そして、オシリスを神と見做し、呪われた人々は大いに供物を捧げている。大昔カルディア人たちからギリシ ア人たちは習い覚えて、けがらわしく呪うべきオシリス神の誕生をまつり、ロードとロジャニツァに大いなる捧げ物をするようになったのである。このオシリス についてサラセンの本には次のように書かれている。汚いところを通ってくさい臭いがつく。そこからサラセン人は生まれてくるのでかれらは女性の陰部を洗う のだと。ボルガル人、トルクメン人、オブハジア人がまずこれにならい、ギリシア人が彼らからロードとロジャニツァに捧げ物をすることを学んだのである。そ れから、エジプト人、それから、ローマ人に伝わり、スロヴェネ人にも達した。スロヴェネ人はロードとロジャニツァに捧げ物をあげ始めた。また、彼らの神ペ ルーンにも捧げ物をあげた。それ以前にはウプイリやベレギニャに捧げ物を捧げていた。

 聖なるキリスト教の洗礼を受けたのち、ペルーンは放逐され、人々は神キリストを信じはじめたが、しかし今に至るまで辺境では呪われたる神ペルー ン、ホルス、モコシ、ヴィーラどもに祈りを捧げている。しかも、これを密かに行なうのである。同じようにロードとロジャニツァに第二祭壇を設けることをや めようとせず、敬虔なキリスト教徒を大ペテンにかけ、聖なる洗礼に侮辱を与え、神の怒りをかき立てている。ウプイリを信じ、赤子が(生きているのに)死ん だというふりをしてみたり、七人姉妹と名前を付けてベレギニャを信じている。また、スヴァロジッチを信じるもの、アルテミドとアルテミジアを信じるものが いる。アルテミドとアルテミジアに人々は小声で祈りを唱えたり、鶏を潰したり、血迷ったものは自分が食べたりしている。おお、かわいそうな鶏よ、汝は聖者 たちの御ために生まれたのでもなく、敬虔なる人々のために生まれたのでもない。おお、かわいそうな鶏よ、偶像への贄となるため汝は切り殺される。水の中に 沈められてしまう鶏もいる。井戸端に引っ張って来て祈りを捧げた後、鶏を水中にほうり込む輩もいる。ヴェレアルに生贄を捧げるものもいる。穀物小屋や家畜 小屋の軒下で異教徒のように祈りをあげるものもいる。血迷っていやらしい供物を捧げるものがいる。葱の塊や汁を飲むものがいる。

 クトン、ベリャ、ヤドレイ、オビルハ、家畜の神、道祖神、森の神、スポルイニやスペフに祈りを捧げるものもいる。無法なギリシア人やカルディア人 たちのようにたくさんの神々に祈っているのだが、それは彼らがただ御一方なる神を知らないがゆえにそうするのである。しかし、この人たちはその神を知って いるばかりか自分たちをキリスト教徒だと名乗っている。これは異教徒よりひどいことをしているのである。だから、そのことによって異教徒よりもひどい苦し みを受けることになろう。火や石や川や泉に祈るものもいる。異教時代にそうしていたばかりではなく、今に至るまで多くの人がそのようなことをしてキリスト 教徒だと名乗っている。悪魔の所業を行なっている。死者のために橋を作る。プロスヴェト、ブデリニク、ビリチ、将棋、レイキ、さいころ遊びをして遊ぶ。雷 が鳴るときに火を飛び越える。故人に捧げる蜜飯に添えて水を卓に捧げる。木曜大祭の日に「この火にあたって、やってきた魂が暖を取るのだ」と言って門のか たわらで屑を燃やす。キリスト教徒だと思い込んでいるが、異教徒の振る舞いをしている。死者のために風呂をたく。真ん中に灰を振り掛け、肉や牛乳や油や 卵、鬼が必要とするすべてのものの在りかを教える。

 暖炉に鬼たちを洗い清めるのだと言って水を流し込む。手洗い器のわきに布や手拭いをかける。手を洗いながら、その布の切れ端に接吻をし、跪拝す る。悪魔たちは彼らの悪巧みに大喜びし、灰の中で転げ回り、彼らを嬉しがらせるためにその痕を見せてやる。これを見て、人々は互いにお喋りをしながら立ち 去り、先に(鬼に)在りかを教えたものを食べたり、飲んだりするが、そのようなものは犬も食うほどの値打ちがない。何という悪魔の誘惑であろうか。異教徒 でさえそんなことをしはしない。しかもキリスト教徒がそれをやっているのだ。ストリーボグやダージボグ、ペレプルトを信じる者がいる。ペレプルトのために くるくる回りながら角の杯で酒を飲むのである。夢占い、運命、辻占、命数、魔法、卜占を信じる者、守り帯を締める者、それを子供に結び付ける者、切った爪 をしまっておく者、桶にいれる者、足の爪を頭に置く者などがいる。そして、ビールを煮て釜に塩を振りかける。炭を投げる。天と地、海と川そして泉を創った 神を忘れているのである。「太陽の光は正しい者の上にも、罪深い者の上にも、降り注ぐ。雨は正しい者の上にも、罪深い者の上にも、降り注ぐ。」と言われて いる言葉を忘れて、自分の所業に大喜びしているのである。

 まだこんなことがある。エジプト人たちは「ナイルよ、汝産みの神にして穀物の育て主」と言ってけがらわしい供物をヴィールと炎に捧げる。一方、穀 物が実ったときに炎を灯してスポルイニャに同じく捧げ物をする。このために呪われた者たちは南を敬い、南を向いて跪拝するのである。ナイフでパンに十字を 切ったり、ビールを飲むとき杯やその他の物で十字を切るが、それは異教徒の振る舞いなのだ。ちゅうちゅう音を立ててビールを飲んだり、蜜を吸ったりする が、これは異教式の供犠なのだ。何か落としたり、こぼしたりすると、犬のように這いつくばって水だろうと何だろうと飲んでしまうが、異教の振る舞いであ る。嫁にやるとき花嫁を水のあるところに連れてゆき、鬼の為に杯を開け、指輪を水の中に投げ込む。


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