●ジチンスキー, アレクサンドル Zhitinskii, Aleksandr
「失われた家、もしくはスターン卿との対話」 Poteriannyi dom, ili razgovory s milordom. Neva, No.8-12, 1987.
解説 望月哲男
1. 作家について
Aleksandr Nikolaevich Zhitinskii:1941年シンフェローポリ生まれ。レニングラード工業大学卒。詩人、小説家。1970年に最初の短編が発表される。
著作:
Lestnitsa(『階段』)Neva, No. 9, 1980. 中編
Tusia(『トゥーシャ』)Neva, No. 4, 1986. 短編
V svoem dome(『わが家にて』)Neva, No. 5, 1987. エッセイ
Poteriannyi dom...(本作)
Prednaznachenie. Povesti' o Liudvike Varyn'skom.(『使命』)Moscow, Politizdat, 1987. 長編
Sed'moe izmerenie.(『第7次元』)SMART, 1990. 70年代の短編集
Iaponskii bog.(『日本の神』)Neva, No. 1, 1991. 短編
Prakh.(『灰』)Neva, No. 1, 1991. 短編
Utrennii sneg. Poeticheskii sbornik. 未確認
Golosa. Prozaicheskaia kniga. 〃
Ot pervogo litsa. Prozaicheskaia kniga. 〃
関連文献:
E. Efremova. Poteriannyi dom. (書評) Novyi mir, No. 2, 1988.
2. 作品について
モスクワオリンピックの年(1980年)4月のある金曜日の深夜(土曜朝の3時15分)、レニングラード北部のヴィボルグ区にある9階建て(287所帯)の大コーペラチヴ・アパート(住民の醵金で建てられた集合住宅)が、突然土台を離れて浮遊し、同市ペトログラードスカヤ・ストラナーのトゥチコフ橋に近い住宅地に着地する。物語はこのファンタスチックな事件の顛末を、4月から12月までのスパンで、約400頁に及ぶ長編小説として描いている。
叙述は、語り手自身が「パッチワーク的」と評しているように、概して3つの異なった位相(視野)に属する物語を断片的に組み合わせたものとなっている。すなわち・アパートとともに「飛行した」住民たちとその周囲の物語、・置き去りにされた者の物語、・作者自身の物語である。・と・は、主人公デミレ/ネステロヴァ夫妻の運命の物語として互いに関連し、さらに住民の一人である作者の物語(・)とも、単なる作者と作品との関係を越えた幻想的な形で結びついてゆく。
2-・ 飛行者たちの物語
飛んだアパートの人々の物語は、コーペラチヴ集団の経験談と、そこに属する何人かの個人の物語とに分かれる。
事件のショックも醒めやらぬ日曜日に開かれた住民集会では、まず事件への様々な解釈が提示される。出来事を所与の事態と受けとめて、30年代や戦争時代の精神での団結による克服を主張するソ連的精神論、本来の住所に代替住宅を建てることを要求する市民権派の意見、事件を堕落した生活への天罰と見なし、意識改革の必要を唱える倫理的解釈、新しい市街の歴史を紹介しながら父祖の伝統の継承を訴えかける近隣住人の声などが表明される。
新しい住宅管理の理事会が編成され、警察の対策本部長としてアパートに住み込んだルィスカリ少佐の指導の下で、生活環境の復旧をはじめとした事後処理が着手される。一方事件当事者の確定に際して、住民は「飛行者」(アパートとともに飛んだ人々)と「逃亡者」(何かの事情で外部にいた人々)に分類され、それぞれがさらに「登録者」(住民登録のある定住者)と「非登録者」(それ以外)に下位分類される。本編の主人公となる建築士・学者デミレ(末尾にアクセント)は、浮気生活の結果朝帰りし、しかもあいそをつかした妻イリーナが彼を非定住者として申告してしまうせいで、「非登録逃亡者」に分類され、自宅の所在も知らされない「放蕩夫」となってしまう。
アパート住民の9ヶ月の歴史は、家族的共同体意識の消長の歴史である。住民は当初新しい環境と共通の困難の前に、一種の高揚感と団結心を共有する。それは下水処理用の地下槽を掘るための勤労奉仕(スボートニク)として現実化し、作家志望の掃除人たちが作った壁新聞『空中浮遊者』によって鼓舞され、ついにメーデーの行進とその後の余興コンサートで頂点に達する。しかし夏期休暇にかけての長い時間の間に、住民の高揚感は居住条件への様々な不満に変わり、連帯は崩れる。そして不在世帯の増加にともなって、アパートは汚れさびれてゆく。8月の拡大理事会では、住民の精神教育の必要が叫ばれると同時に、自警団の結成が決定され、階段や空き部屋にたむろする浮浪分子が一掃される。(その中に、以前この場所から宇宙へ飛び立ったビール売店のおかみがアル中にしてしまった宇宙人も混じっている)。
警察を代表していたルィスカリ少佐(自らのことを後回しにして職務に励むソ連的公務員の理想像)は、退職を決意して、あらたに一住民として民主的な選挙によりコーペラチヴ・アパート理事長に選出される。こうして住民たちは「権力担当者不変のままの軍政から民政への転換」を成し遂げる。総じてこの集団の物語は、社会主義(全体主義)社会の興亡・転生のモデルをユーモラスに描いている。
集団のストーリーと並行して、住民たち個々の人生が断片的に描かれる。ユーモラスなのは、物体移動の超能力を持つためアパートの飛行の犯人と疑われる元サーカス芸人ザヴァドフスキー、出張のふりをして同じアパートのモデルの部屋にいたため奇妙な立場に立たされる産学共同体の副所長ゼレンツォフの物語である。アパートが飛来する直前に宇宙に飛び立ち、白鳥座の宇宙人と奇妙な接触をするビール屋の女主人の話も、このエピソード集に入る。しかし中心となるのは、主人公デミレの姓の異なる妻イリーナ・ネステロヴァと息子エゴールの物語である。
イリーナはロシア革命と同年齢(17年10月25日生まれ)の母──ドン地方の農家の娘から溶接技術関係の大研究所長となったソ連版立志伝中の人物──から、一度決心したことを必ず実行する気性を受け継いでいる。現在家族は、母親の部下との不倫を咎められてノイローゼに陥ったイリーナの姉とともに、セヴァストーポリに去り、イリーナのみがコーペラチヴ・アパートで14年目の冷めきった結婚生活をおくっている。
家の飛行をきっかけに夫との交渉を絶ったイリーナの前に、新たに間近に窓をつきあわせることになった隣のアパートの住人、65才の退役軍人ニコライ(姓)が出現する(「どこからいらしたんで?お名前は?私の言葉が分かりますか?ロシアの方ですか?」──これが彼の窓越しの最初のあいさつである)。ニコライはイリーナの息子エゴールの窓越しの遊び相手となるのを皮切りに母子の面倒をみはじめ、アパート住民の活動にも参加するようになる。イリーナは彼の軍人的な男気と楽天性に親しみをおぼえながら、年齢にそぐわぬ愛情のほのめかしに戸惑う。夏までの彼女の生活は、この不思議な老人への対応、彼のアル中の娘との確執、夫へのアンビヴァレントな思い、周囲の目への気遣いにかき乱される。
夏休みに老ニコライは母子を別荘に招き、彼女に求愛するが、イリーナはそれを拒否する。9月のはじめに、ニコライは「スイス」と名付けられた別荘の庭園を母子に残すことを遺言し、心臓発作で急死する。ニコライの死後9日目の供養を一人でするはめになったイリーナは、深夜に向いの家の窓に泥酔した夫デミレの姿を見てパニックに陥る(アル中の娘マーシャが飲み友達とともに連れ込んだもの)。
その後彼女は、物語のメタ・レベルから現実に侵入して彼女の部屋の正面に住みついたローレンス・スターン(ロシア名ラヴレンチー・ロジオノヴィチ)と出会い、彼の口から夫デミレの遍歴ぶりを聞かされる。「愛なき家庭」の悲劇を反省したイリーナは、夫の実家との交渉を再開し、警察の協力を要請して夫の行方を捜しはじめる。
2-・ 置き去りにされた夫の物語
主人公エヴゲーニー・デミレは1940年生まれの研究所勤めの上級建築士。その姓は「3%強」彼の血に混ざっているフランス人移民ミレーからきている。幼時からのレニングラード散策を通して建築のセンスを体得した彼は、10代半ばで近くに住む退役軍人の中二階の家で「形式は民族的、内容は共産主義的」な文化宮殿のモデルをマッチ棒で作る才能を見せる。長じて設計技術研究所に入り将来を嘱望されるが、そのセンスの特異性から彼の図面はほとんど実現されない。物語の現在で40才となった彼は、仕事への情熱と理想を喪失し、束の間の情事に熱中しては失望する「きりもみ降下」状態にある。
家の紛失を目の前にしたデミレは家と家族の捜索にかかるが、「非登録」の身となったために何の情報も得られない。こうして宿なしの主人公は偶然のつてをたどって数ヶ月間ペテルブルグを放浪することになる。すなわち同じヴィボルグの母の家を皮切りに、幼稚園の夜警を勤める宇宙物理学者のアパート、バクーとタシケントから来た大学院生の寮(彼らは彼のために女性つきの大炒飯パーティを催す)、学生時代のガールフレンドナタリヤのアパート(数週間住みついて飼い猫扱いされる)、迫害された芸術家たちの保護者ベズィチの家(家の飛行をモスクワオリンピックを前にした当局の浄化作戦と捉え、人権保護組織への提訴を主人公にすすめる)、時代遅れとなったアンダーグラウンド詩人クラフチュクの郊外の棲家(デミレを連れて地下の文学サークルを回ったあげく、自らの才能をはかなんで自殺。デミレは荷物を残して逃げ出し、パスポートもない身分となる)、セヴァストーポリの妻イリーナの実家(出張の名目で滞在、当時死んだ詩人ヴィソツキーの評価をめぐって義母と大喧嘩して出てゆく)、アルメニヤ人の経営するディスコ・バー(はじめインテリア・デザイナーとして、後にウェイターとして働くが、チップも取らない愚直さが災いして追い出される)、そして最後に酔っ払った彼を轢き殺しそうになった市電の運転手ニコライのアパート──彼のこうした遍歴は、80年代版レニングラード散歩、とくにその下層・地下世界の探訪記となっている。受身で臆病で絶望癖のしみついた彼は、環境の変化に応じて様々な認識の型を体得するが、その反省は根本的な変化と結びつかない。現代版冒険小説の主人公である。
最後に彼を拾ったニコライは、実は少年デミレが作ったマッチ棒の文化宮殿を賞賛した退役軍人の遺子であり、彼の作品は家宝のようにそのアパートに残されている。天才の落魄ぶりに気付いたニコライは、アル中の治療のために彼を集合住宅の別室に監禁し(後の展開では、この建物がどうやら飛んでいった主人公のアパートそのものらしい)、その娘で産院看護婦をしているアーリャは、昔彼が作ったマッチ棒の宮殿の完成を彼に命ずる。
アーリャとのつきあいを通じてデミレは再び新しい生活への希望と自己への絶望の波を経験する。彼は同時に妻が警察を通じて彼の行方を追っていることを知らされる。一日、彼はアーリャとニコライに歴史を学んでいる少年たちとともに、アレクサンドル2世の暗殺者たちの足跡再現のエクスカーションを体験、その途路に「恐がらずにかえっておいで」という息子の書いたビラを眼にする。その後肺炎にかかって生死の境をさまよう彼のもとを、妹一家と彼の家族、アパートの住人たちが訪れるが、家族への彼の対応ははっきりしない。深夜に彼を訪れたアーリャたちの前で、彼は奇妙な形にできあがったマッチ棒の宮殿を焼いてしまう。
しかし彼の物語は、このレベルでは完結しない。
2-・ 作者の物語
数多くの登場人物を擁した小説のメタ・レベルに、作者の物語が展開される。当初それは、作者が自分の共作者と呼ぶローレンス・スターンとの対話という形で、物語からの絶え間ない逸脱として現れる。すなわち事件の叙述と並行して、「長い」物語を書こうという作者の意図について、「リアリズム」や「コーペラチヴ」という概念について、逸脱という手法について、「酒を飲む」という意味のロシア語の78通りのバリエーションについて、ソ連で家なし人が夜を過ごす3つの方法について、内的システム、外的システム、抽象的システムという概念についてなどなど、無数の愉快な議論がちりばめられる。その途中で作者と事件の関わり──彼自身も飛んだ家の住人であり、事件の直後に逃げ出して後日談をレポートしている──も明らかにされる。
逸脱は逸脱を呼び、ある時話し相手のスターンは(作者の友人のへぼ文士が世界文学全集の61巻を持ち出してしまったせいで)彼のもとから姿を消してしまう。その後両者の対話は、文通の形で継続される(「貴兄の質問やコメントがなくてはやっていけない…」と筆者はスターンに書き綴る)。
その後スターンは、彼をもてあました友人文士の手で、完全に受肉した形で作者のもとへ戻るが、その時作者は主人公の喪失および物語の行き詰まりという二つの問題をかかえている。すなわち直前までの展開で、偶然にあがり込んだマーシャの家の窓から妻の姿を見てうろたえた主人公デミレを、彼は走ってくる市電の前に置き去りにしてしまっている。また彼は、時間の余裕を持って振り返りつつ書いていた小説の展開が徐々に速度を増し、執筆の現在に追いついてしまったため、いまや先の出来事が見えないという危機に陥っている。
スターンの絶妙なアイデアにより、両者は飼い猫フィラレートを連れて飛んだアパートに戻り、そこで事件を観察することになる。こうして共作者たちは、小説中の人物となる。スターンは作者の部屋(デミレの妻イリーナの向いの部屋)に移り、そこでイリーナにデミレの遍歴を語り聞かせる。作者は別の空き部屋に入って、そこで産院の看護婦・文学少女アレクサンドラ(サーシャ=アーリャ=シューラすなわちデミレを見守るニコライの娘と同一人物)と親しくなり、文学サークルをはじめる。
この時点から作者のイメージと主人公のイメージが重なりはじめ、作者の執筆作業は、マッチの文化宮殿を完成させようとするデミレの作業と二重写しになる。スターンがイリーナに言うように「すべてはわが弟子しだい」──つまりデミレの物語の結末は、彼と同じく愛を喪失しかけた作者の生き方の選択の問題と重なる。
作者と作品との複雑な関係は、彼が自分を励ましてくれる読者として創作した(そして主人公デミレのもとへも通わせた)サーシャ(アレクサンドラ=アーリャ)を、実在の者として愛してしまう経緯に表現される。愛を告白する作者に対し、サーシャは自分が平凡な、しかし心と肉体を持つ人間であると主張し、同時にフィクション作家には実在の対象を愛する能力はないと宣言する。
最終の一つ前の章では、世の作家たちに対する文学裁判の模様が描かれる。9階建てアパートに存在しない12階に法廷がしつらえられ、判事たち(スターン、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、ダンテ、セルバンテス、シェークスピア、ラブレー、ホフマン…)の前で、次々に作家たちの書が火にくべられる。テクストが燃えた者はそのまま地下に落とされ、作品が燃えぬ金文字として残った者には死後の生(25年〜100年)が与えられる。後者は作者の若き頃の恩師(一度も発表されなかった原稿)、「ギターを持った詩人」など、わずかしかいない。作者自身は作品を完成していないため、この裁判を一時的に保留される。
3つのレベルの物語はそれ自体としては完結していないが、エピローグでは3つが合流し、劇のような祝祭的な大団円が展開される。そこでは作者と主人公デミレは完全に一体化しており、回復したデミレの枕元には、燃えた宮殿の模型のかわりに小説が置かれている。彼(デミレ=作者)は、妻からも読者からも拒否され、誰にも必要のなくなった自分を感じ、そして自分の作りだした人々が作者のコントロールをすっかり脱して勝手に生きはじめていることを知る。
彼は自分の作品を出版社に持ち込むかわりに、サーシャだけを唯一の読者としたまま、じかに文学裁判の場に持ち込むことを決心する。しかし彼が再び上っていった12階は、すでに法廷ではなくアパートの屋上であり(彼はここで自分に屋根の上のシーンで作品を終える癖があることを告白する)、そこには年越しのモミの木を中心に、登場人物の全員が集まっている。息子が彼に駆け寄り、遠くに妻が見え、サーシャが灯を手に近づいてくる。人々の姿の中に、彼は生の意味や目的の追求行為よりも、ただ生きていることのすばらしさを感ずる。
子供たちが彼の原稿で鳥を折り、ツリーが燃やされ、原稿が風に舞ってゆく。彼は幸福感のうちに原稿の最後の頁の文字──konets(「おしまい」)を読む。
3. コメント
本作は詩人・短編作家ジチンスキーが、はじめて長編に挑んだもの。70年代の一連の小品や、80年代の中編『階段』に特徴的な非日常的シチュエーション設定や、自ら『第7次元』と名付けた皮肉でユーモラスな、距離を置いた現実への視点と、一部の作品や評論に見られる、きわめて真面目な人生観といった要素が、長編という場でどのように折合うかが、ひとつの興味である。
作者は集合住宅という、いわば多様な人生のアンソロジーのような空間を素材として設定し、しかも建物の飛行という突飛な仕掛けでそれを非日常の中につき落とし、さらにメタ・レベルの自由な言論空間を設けることによって、複数の顔を持った長編を巧みに完成させている。愛についての真剣なテーマをめぐるストーリーと、世態風俗から派生する際限ない小話の類が、ここに一見自在に、しかし緊密な動機づけをともなって配列されている。ロシアの文脈で言えば、プーシキン、オドエフスキー、ベールイ、ブルガーコフ、ビートフなどの系列に属するメタ文学の快作と思われる。
ここでは単に3つの点に注目したい。
・家族のテーマ:愛について繰り返し語られながら、愛が何かは誰も分からない──それがこの作品の雰囲気のように感じられる。ともに暮らす家族も、別れた者たちも、愛が何かは知らない。家系をさかのぼっても、そこにはむしろ偶然、反目、残酷さや期待外れが顔を出す。しかし偶然で曖昧な関係として、家族はシステムとして(内的システム、外的システム、抽象的システムとして)存在し、そこで人々は子供や母親や先祖たちに無前提の関心を持つ。70年代のジチンスキーの作品は、どちらかと言えば子供の、あるいは永遠に子供のような大人たちの視点を描いていたように感じられるが、この作品では幼児的状況から父・母となろうとする精神が描かれているように思える。ただそのことも理屈や動機づけの彼岸に、あらゆる試行と絶望を経験した後に自ずと見出されるひとつのあり方として表現されている。社会集団というこの作品のもうひとつのテーマについても同じスタンスがとられている。デミレが息子への愛情を知るまでに放浪生活の果てまで行ったように、住民たちが真のコーペラチヴ意識に目覚めるためには、家がひとたび飛行しなくてはならなかったようである。
・ペテルブルグのテーマ:作品はその空間の隅々から歴史の奥に至るまで、99%ペテルブルグを素材として出来上がっている。家の飛行も、デミレの遍歴も、老人たちの昔話も、地図と年表にたどることができる。その意味でもこれはプーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイ、ビートフの系列に連なるロシア都市文学の成果である。現代版ペテルブルグストーリーの中では、インテリたちに辛い味付けがなされている。研究所の学者たち、技師、学生、管理職の者たちは、出世主義者か快楽主義者、もしくは絶望的アル中である。アンダーグラウンドの詩人たちも、その保護者も、同じ病を免れていない。誠実味を持って描かれるのは保母、看護婦、戦前を知る老人たち、ビール売りの女、警察や市電の運転手、さらに少年少女たちである。後者の地道で頑固なエネルギーと前者の(エントロピーと呼びたいような)とらえどころのなさの対照が、この作品のペテルブルグに立体感を与えている。
・文学についての小説:既述のようにメタ文学的要素が作品を貫いているが、それは文学の再生を願うような意志と結びついている。文学裁判の描写における、数少ない「燃えない文学」への讃歌がそれにつながる。同時に作者は、文学についての具体的考え方をも、作中に提示している。すなわち・文学は読者に作者の考えを伝えるためのコンタクトの場であり、人々を団結させ、様々な精神世界をひとつの共同の精神現象へと化すことが文学の第一目標である。・そのために文学はすぐれた遊び=演技(igra)でなくてはならない。すぐれた演技(演出)こそが、無数のシチュエーション、行為、情熱の追体験を読者に可能とする──という認識である。こうしたいわば演劇的文学観が、破天荒でユーモラスな仕掛けと生真面目な議論との結合を可能にしている。家の飛行─家族の分離─放浪─絶望─帰還という作品の構図は、現代ペテルブルグ社会の再生に関する寓話であると同時に、すぐれたshow─ドラマとしての文学の復興に関するメッセージのようにも見える。