●ワシレンコ, スヴェトラーナ Vasilenko, Svetlana
「鳴り響く名前」 Zvonkoe Imia. Iunost', No.11, 1988.
「シャマーラ」 Shamara.<Nepomniashchaia zla>. 1990. 他
解説 沼野恭子
1. 作家について
Svetlana Vladimirovna Vasilenko:1956年カプスチン・ヤールというヴォルガ河畔の町(ヴォルゴグラードから約100キロ)で生まれ、17歳までそこで育つ。この町は軍事秘密都市で、ごく最近まで地図にもその存在は記されていなかった。
父親 乞?* は核ミサイルのボタンを押すことのできる地位にいた将校だったが、キューバ危機のあと退職して町を離れ、スヴェトラーナは母親と残った(ワシレンコは母親の姓)。彼女の作品に、どこか醒めた、ふとあきらめたような雰囲気が漂っているのは、つねに死と隣り合わせに生きているという意識を幼い頃から身につけていたせいかもしれない。彼女は、核戦争が起こったら自分たちが真先に世界中のミサイルの標的になるということに、誇りすら感じていたという。「故意に死に向かっていくカミカゼや自ら腹を切るサムライのエクスタシーが、私には少し理解できる。私たちの内には死への愛がはぐくまれていたのだ」S. Vasilenko. O sebe. v Zvonkoe imia. Moscow, Molodaia gvardiia, 1991.。その後、近くの都市の繊維工場で1年、モスクワの郵便局で1年働いてから文学大学に入学し、「人生で最も幸せな時期」を迎える。ニーナ・サドゥールは同級。
1982年、短編<<Za saigakami>>でデビュー(<<Literaturnaia ucheba>>)したが、2作目の短編<<Zvonkoe imia>>が<<Iunost'>>に掲載されるまで6年も待たなければならなかった。この間が辛かったという。「仕事には就けない、小説は発表させてもらえない。私たちの頭はゆっくりとおかしくなっていった。もしペレストロイカがなかったら、たぶん本当におかしくなっていただろう」
第一作品集Zvonkoe imiaが出たのは1991年で、この年は、彼女が編者をつとめた女性作家アンソロジーNovye Amazonki (Moscow, Moskovskii rabochii, 1991)も出版されたから、彼女にとっては当たり年だったと言えるかもしれない。
自分の小説についてワシレンコは次のように語っている。「宗教や哲学といった高度に精神的な膜が皮のようにはぎとられ、イデオロギーにとってかわられた社会」「すべてが許されているような社会」の中に生きる「私の主人公は、何も持っていない──死んだらあとには何も残らず、きれいさっぱり消えてしまうことを知っている。だからこそ、今ここを生きているのだ。/でも私が書くのは、その主人公がどんなふうに愛するか、各自の心にどんなふうに不死の萌芽があらわれるか、洞窟に住む人からどんなふうに普通の人間が生まれるかということ──そういうことを書いているのだ」。
現在、モスクワ在住。
2. 作品について
・「鳴り響く名前」 Zvonkoe imia. Iunost', No. 11, 1988 初出
暑い夏のモスクワ。郵便局に勤める主人公ナートカのアパートに、親友ユーリャの夫サーシャが電話してくる。サーシャを迎えに行ってくれとユーリャに頼まれていたのを忘れていたのだ。彼は、ナートカの両親から預かったというおみやげを持って、彼女のところにやってくる。その間に鶏肉を解凍し、部屋をきれいにしておくナートカ。ふたりは、酒を飲みながらローストチキンを食べ、幼なじみの噂話をしているうちに、酔って肉体関係を結んでしまう。そしてナートカは「ユーリャ」という言葉を口にするたびに、きまりの悪い思いをする。この名前は響きがよすぎる。「ユーリャ」と言っただけで耳鳴りがするほどだ。
ナートカは夢を見て、ふたりが愛し合っていることを確信し、ぬくもりを感じるが、翌朝目覚めるとそのぬくもりは消えいりそうになる。やっとの思いで「わたし、あなたの恋人になったのね」と言ってみるが、予想に反して、部屋中のものが飛び散ったりはしなかった。
公園に行く途中、地下鉄で気のふれた老婆と乗り合わせる。老婆が降りたあと、まわりの乗客たちと一緒に大笑いしているサーシャを目にして、ナートカは体が冷たくなる。彼女の手をひっぱって公園まで駆けていくサーシャ。食事をしたりメリーゴーラウンドや観覧車に乗っている間も、彼女は興奮したり不安になったりと、気持ちが不安定だ。やがてユーリャにそっくりな女の子が、ナートカに意地悪くつきまとってくる。
以前、仕事仲間のワーリカに悪口を言われた時、憎悪に燃えたユーリャがワーリカを殺しかねないほど殴りつけたのを思い出し、ナートカは「ユーリャに殺される」と恐怖にかられる。ダンスホールでは聾唖者が踊っている。サーシャはユーリャと離婚してナートカと結婚すると言いだすが、ナートカはひとりよがりな彼に対して憎しみを抱く。
サーシャはタクシーでむりやりナートカを自分のアパートに連れていくが、部屋中にユーリャの存在を感じるナートカは、彼の体臭や自分自身の肉体に嫌気がさし、自分のうちに帰ってしまうのだった。
・「シャマーラ」 Shamara. Videopoema. Moscow, Nepomniashchaia zla, 1990.
アフトゥラという川のほとり。工場の寮に住んでいるシャマーラは、ハンサムな夫ウスチンを熱愛しているが、邪険に扱われてばかりいる。寮の同じ部屋に新しく住むことになったナターシャがウスチンと愛し合うようになるのを見て嫉妬した彼女は、ナターシャに嫌がらせをする(工場のコンベアの滑車をナターシャにぶつけようとしたり、彼女の持ち物をごみ捨てで燃やしたり)。ウスチンに愛されていないことをようやく認めたシャマーラをレーラが慰め、結婚しようと言ってくれるが、レーラはいつも七匹の犬を連れ歩いている両性具有(秋に手術をして「男」になるという)。じつはシャマーラは、以前、雪の中で八人の男に輪姦されたことがあり、ウスチンはその中のひとりだった。彼はその後シャマーラと結婚したのだが、今は漁師小屋にひとりで住んでいて、なぜかモスクワから派遣されてきたKGBの男マクスに目の敵にされている。
あるときウスチンとナターシャのあとをつけて駅に行ったシャマーラは、飛び乗った列車の中で、精神病院を脱走してきた男に殺されそうになり、からくも逃げだす。その後マクスに呼び出された彼女は、駆け引きをし、ウスチンから手を引くことを条件に体を与える。そして身ごもり、寮の浴室でみずから堕胎する。彼女は、ウスチンとふたりで町を出ていく決心をして切符まで手に入れたが、彼にこっぴどく殴られ、とうとうひとりで町を去っていった、レーラに見送られて。
・「ばかげた話」 Duratskie raskazy. Moscow, Nobye Amazonki, 1991.
ここには前書きがついているが、なぜ「ばかげた」話を書こうと思ったのか、その理由(?)がふるっている。飼っている犬がとても愛情深くて、拾った子猫には乳を出してやるわ、気持ちのすさんでいる作者には人間の声をかけるようになるわで、作者は「犬や猫にもわかるような話を書こうと思いついた」という。
中身は、ハルムスを思わせるナンセンスな掌編群。視覚的な実験を試みているもの、「大きなかぶ」をパロディにしたもの、掛け合い漫才のようなものなどがある。たとえば
「自分のせい」
自分の左耳を切りとって煮て食べた。それから右耳も切りとって食べた。それから左足を切りとって煮て食べた。それから右足も切りとって食べた。それから右手で左手を切りとって煮て食べた。それから右手で最後の右手を切りとって食べた。それから舌を飲みこんだ。
だしぬけに自分自身をまるごと食べてしまった。
自分のせいね──こんなに美味しいんじゃしょうがないわ。
・「総主教池の人魚」 Rusalka s Patriarshikh prudov. LG, No. 9, 5. V. 1997.
私は、夫と別れるために 鈞胝 の行列に並んでいて、やはり離婚するためにここに来ていたニーナと知り合った。ふたりでワインを買って二本飲み、総主教池のクルィロフ像の下に腰をおろして話す。やがてニーナは台座にのぼり、空に向かって「ユージンを愛してる」と号泣しはじめる。彼女の体は光を放っている。三人の警官がやって来てやめさせようとするが、魔法にかけられたように池の中におびき寄せられ、ひとりずつ彼女と口づけしながら水の中に消え、浮かんでこない。「すっかり冷えきっちゃったわ」何事もなかったかのように、ニーナは私を家に誘うのだった。
3. コメント
ワシレンコは意図的にさまざまなスタイルを模索している最中である。・オーソドックスな恋愛(不倫)小説「鳴り響く名前」、・おそらく映像化を前提としているのだろう「ビデオ叙事詩」である「シャマーラ」(会話は多いが、シナリオとは呼びにくい散文である)、・ナンセンスなアネクドート「ばかげた話」、・現代版おとぎ話「総主教池の人魚」といった具合に。しかし、さしあたり最も成功しているのは、恐怖や嫉妬にかられた女たちの微妙な心理や意識のゆれを巧みに描きだしたリアリスティックな作品だろう。
たとえば、・で、ユーリャにそっくりの「モンゴル系の顔だち」をした女の子が公園にあらわれると、それまでくすぶっていた主人公ナートカの恐怖が顕在化し、以後ゲーム機の画面に次々と繰り出されるゲーム指示のコメントが、彼女の恐怖を煽り立てる(「着陸を誤ったり着陸時にスピードを出しすぎていると、ヘリコプターは事故を起こします」「よく狙いを定めて撃ってください。命中すると、傷ついた野鳥が鳴き声をあげて隠れます」等)。それは、かつて陰口をたたいた同僚を打ちすえたときユーリャが一打ごとに歌詞のようなものを差し挟んだ場面を主人公に思い出させ、ユーリャが自分に銃を向けて笑っているところを想像させられることになる。さかのぼって、ナートカの恐怖を暗示する伏線となっているのが、妙ちくりんな恰好をした頭のおかしい老婆と地下鉄に乗り合わせる場面である。老婆はそのぎらぎら燃える狂人の目と深みのある歌うようなきれいな声で、脈絡もなく「痛ましい原因から痛ましい結果が出てくるものなんだ」などと言うが、主人公は、醜く顔を歪めて老婆のことを笑う「正常な」乗客たちにむしろぞっとする。このあたりの恐怖の表出の展開は秀逸だ。
・では、主人公シャマーラの強烈な個性が印象的。自分勝手で乱暴で抜け目ないだけのように見えて、じつは正義感の強いところもあれば、ひたすら愛に生きるけなげさも持ち合わせている。すさまじさの中にある種の潔さまで感じられる、このどこまでも現世的な形象、自らの欲望と自分流の倫理に忠実で原始的な「自然」状態に近い、このシャマーラという形象こそ、たぶん作者が言うところの「洞窟に住む人」なのだろう。
この作品に出てくるもうひとりの興味深い人物は両性具有のレーラ。ある女の子が男たちに取り囲まれてもみくちゃにされる場面で、彼は「ぼく自身、半分女だから、女の心がわかるんだ。傷つけられた気持ちがね」と言うが、七匹の犬と彼は、シャマーラをレイプした八人の男の欲望をもメタフォリックにあらわしている(実際、森の中で彼女がウスチンとセックスするところを、レーラは「四つんばいになって」犬たちと覗き見ている)。レーラのシャマーラに対する複雑な愛情は、ヘテロな愛を相対化するとともに、ウスチンに対するシャマーラの盲愛に対比させられている。
場面の切り替えが早く、ストーリーの展開は読者を引きこむものがある。