●トルスタヤ, タチヤーナ Tolstaia, Tat'iana
短編集「金色の玄関にすわっていたのは…」 Na zolotom kryl'tse sideli. Molodaia Gvardiia, 1987.
解説 沼野恭子
1. 作家について
1951年レニングラード生まれ。レニングラード大学文学部を卒業し、ナウカ出版(東洋文学部門)に勤める。東洋の文学に関心を持っていることは、1984年『文学の諸問題』2号に、「ウタモノガタリ」'UTA-MONOGATARI(Peresmeshnik dlia perevodchikov)'という、和歌のパロディを載せていることからも推し量ることができる。そこには日本語が開音節だということや、〔l〕の音がないことなどが説明されているが、オリジナルとされる「日本語」のタンカは、日本語としてはまったく意味をなさない「音の遊び」となっている。
作家としては、『オーロラ』誌1983年8号に短編集の表題作である「金色の玄関にすわっていたのは…」を発表したのが最初だが、広く注目を集めるようになったのは、「ペテルス」が『新世界』1986年1号に掲載されてからである。当時のインタビューでトルスタヤは、「ブルガーコフやナボコフ、グリーンの伝統を継いでいる、と言われて驚いている」と話しているが、1920年代文学との関係は否定していない('Ten' na zakate'. Literaturnaia gazeta, No. 30, 1986.)。
あまりに密度の濃い文体のためか、これまでに発表された作品はいずれも短編。1987年に出版された処女作品集"Na zolotom kryl'tse sideli..."に13編、1991年に英語版のみ出版された作品集『霧のなかの夢遊病者』Sleepwalker In a Fog, trns. by Jamey Gambrell. New York : Alfred A. Knopf, 1992.)に8編おさめられているが、最近は新作をあまり目にしない。
1988年よりアメリカに住み、ときどきアメリカの書評誌に評論を寄せている。
2. 作品について
13編のなかから恣意的にいくつか選んで紹介する。
《Reka Okkervil'》 「オッケルヴィル川」
主人公シメオーノフは、往年の歌手ヴェーラ・ワシーリエヴナのレコードを聴くのを何よりの楽しみにしている、孤独な独身男。ヴェーラ・ワシーリエヴナの歌声に酔いながら、頭のなかで、彼女がオッケルヴィル川のほとりを歩いているところを夢見たりしている。何くれとなく世話を焼きたがる恋人のタマーラは、少し煙たい存在だ。
ある時、レコード屋の店員から、ヴェーラ・ワシーリエヴナが生きていると聞かされたシメオーノフは、さんざん迷ったあげく会いに行くことにする。貧しい暮らしをしている寂しい老婆だろうという彼の想像とは裏腹に、実際のヴェーラ・ワシーリエヴナは、自らの誕生パーティでげらげら笑う、まるまると太った俗物だった。空想のオッケルヴィル河畔の光景は、すっかり様変わりしてしまった。「ヴェーラ・ワシーリエヴナは死んだ。もうはるか昔に死んだんだ。この婆さんに殺され、バラバラにされ、食べられ、骨までしゃぶり尽くされてしまったんだ」
彼女がシメオーノフの家にある風呂を借りにくる。レコードから流れる彼女の声は、以前と変わらずすばらしく、あらゆるものの上に舞い上がっていくのだった。
《Milaia Shura》 「可愛いシューラ」
語り手が偶然知り合ったアレクサンドラ・エルネストヴナは、今でこそ風変わりな老婆だが、かつては相当魅力のある美貌の女性だった。これまでの長い生涯で3回も結婚したが、どうしても忘れられないのは、3人の夫たちではなく、恋人のイワン・ニコラエヴィチだ。彼はアレクサンドラ・エルネストヴナのことを「可愛いシューラ」と呼び、何もかも捨てて自分のいるクリミアに来るようにと、矢のように催促の手紙を書いてきた。可愛いシューラは、汽車の切符まで買っておきながら、結局、恋人のもとへは行かなかった。
語り手が避暑に行くと、南国のプラットホームでは、いまだに幻のイワン・ニコラエヴィチが可愛いシューラのやって来るのを待っていた。しかし、モスクワに戻ってきてそのことを伝えようと訪ねた語り手は、彼女が死んでしまったことを知るのだった。
《"Na zolotom kryl'tse sideli..."》 「『金色の玄関にすわっていたのは…』」
子供時代は庭。少女の時に楽しく夏を過ごした別荘地では、隣にパーシャおじさんが住んでいた。小柄ではにかみ屋のパーシャおじさんは、レニングラードで経理の仕事をしている。彼は、美人で大柄の奥さんヴェロニカが死ぬと、その妹マルガリータを家に入れた。
憧れていたおじさんの部屋には、ビロードやレースやガラスの、こまごまとした素敵なものがたくさんあった。騎士と貴婦人のついた金色の時計。おじさんは、魔法をかけられた王子様のようだ。
ところが時が流れ、ふたたびパーシャおじさんの部屋を訪ねると、以前はすばらしく思えた品々が、じつは安物や粗悪品ばかりだったことに気づくのだった。玄関先で倒れるパーシャおじさん。年をとったマルガリータ、「まるで押し黙った小道で見失ってしまった足跡を探しているよう」に庭を歩きまわっている。
3.コメント
個々の作品は、当然のことながら、それぞれに異なった感触や色合いを持っているが、多くの作品で繰り返されているモチーフを取り出すとすれば、人間の外見と内面の齟齬、人間存在の相対性、美しくも傲慢に広がる空想や追憶の世界、夢想と醜い現実との衝突などといったところになるだろう。トルスタヤがよく子供時代を扱うのは、子供のもつ、純粋でときに残酷な想像力こそ、彼女が最も信頼しているものだからだと思われる(「愛してる、愛してない」「『金色の玄関にすわっていたのは…』」「鳥に会ったとき」が子供を主人公にしている)。
また、空想のうちに思い描いていた光景が、現実の姿とあまりにかけ離れていることを知ったときに味わう絶望感と、それにもかかわらず、かなえられない夢を持ち続けようとする人間のしたたかさは、トルスタヤのほとんどの作品に流れる通奏低音のようなものである。空想と現実の二元的な世界観。彼女の作品では、夢想の世界が現実に拮抗するだけの「リアルな」輝きを持っているのである。
一見なんということもなさそうな日常的な風景のなかで、どこにでもいるような「普通の」人々が、ひとりひとり独自の、何ものにも代えがたい夢の世界を抱えて生きている、ということを、トルスタヤの筆は、その美しいところも嫌らしいところも合わせて浮き彫りにしていく。その「詩的言語」は、華麗で抒情的、ときにユーモラスで大胆。斬新な比喩を散りばめ、韻、類音、誇張法、アレゴリー、アイロニー、文学テクストの引用や挿入など、様々な修辞学的意匠を凝らした「ポリフォニック」な語りとなっている。