●ソローキン,ウラジーミル Sorokin, Vladimir
「ロマン」 Roman. Obscuri Viri, 1994.
解説 亀山郁夫
1.作家について
ウラジーミル・ソローキン:1955年生まれ。コンセプトゥアリズム派の一人。超ポストモダンの異端作家として知られ、美術デザインも手がける。
<主著> 『マリーナの13の恋』『4人の心』『ダッハウの月』『ノルマ』
『ロマン』
<評価>「現代ロシア文学のモンスター」(エロフェーエフ)と表され、未発表の長編『4人の心』で第1回ロシア・ブッカー賞候補にノミネートされた。しかしその異常なまでの「反モラル」的姿勢、死体愛好癖、あるいは物語をグロテスクに脱臼させる異化の手法ゆえに、グラスノスチ以降のソ連でもなかなか活字にならず、欧米での人気がいわば先行する形になっていた。ところがこの2年、上にあげた作品が次々と刊行され、ソローキンはいまや最も根元的な現代性をはらむ現代作家の一人とみなされるにいたった。ウラジーモフ『将軍とその軍隊』が栄冠をかちえた昨年1995年のロシア・ブッカー賞にもノミネートされ、選後にひとしきり話題となった論争でも、ポストモダン派の批評家の間で今回取り上げる『ロマン』を高く推す声があった。ソローキンはこれまで、ウラジーミル・ナボコフを例にあげて、「もっとも退屈な作家は健全な作家だ」と書いたり、「読者の問題は永遠に取り去っている」、「文学とは死んだマチエール、たんに紙であり、印刷用のインクでしかない」など挑発的な言辞を弄し、テキスト、文字の絶対的自由と無限のアナーキズムを要求してきた。今日紹介する最新作『ロマン』はいわば、その総決算ともいえる作品で、テキストに過剰にあふれる死のイメージがテキストそのものを屍に変えるという奇妙に倒錯したプロセスを言語化する。
なお、日本ではすでに沼野充義氏による先駆的なソローキン紹介があるのでこれもあわせて参照されたい(『スラブの真空』所収、自由国民社)。
2.作品について
『ロマン』 Roman. Moscow, 1994.
物語の舞台は19世紀末のロシア。32歳の若い弁護士ロマン・アレクセーヴィチが3年ぶりで故郷の村クルトイ・ヤールに戻ってくる。ロマンはブロンドの髪をした長身の美男子。幼くして父母と死別し、刻苦して弁護士となったが、1年余り前にその職を離れ、画家として一人だちしようと決心する。今回の旅は、伯父や伯母の住む村で、ゆっくり絵に励もうというのが主な目的だった。駅に出迎えに来た従僕のアキムから村のさまざまな噂話を聞くロマン。アダムという新しい森番が住みついたこと、3年前に別れたクラスノフスキー家の娘ゾーヤの消息など。伯父の家にたどりついたロマンは、村人たちから大歓迎を受ける。「ここに来れて嬉しい。もうここからどこへも出ていきはしない」。ゾーヤとの再会を果たすが、奔放で独立心の強い彼女との結婚は望めないとロマンは思う。
ロマンは、絵の勉強を中断し、狩りや魚釣りや蒸し風呂やキノコ狩りや刈り入れなどの村の生活を存分に楽しむ。ある日、釣りに出た彼は、漁師との会話で「自由のみが死の恐怖を克服できる」と感じる。やがて物語は急展開する。ある日、森にキノコ狩りに出たロマンは迷子になり、奥へ奥へと入り込むうちに、鹿の子を殺した狼と出会う。ロマンはナイフを振りかざして、狼を襲い、格闘の挙げ句、狼をしとめる。狼をしとめたというしびれるような快感に涙を流し、傷の痛みを堪えながら、森をさまよっていると、噂で聞いた森番の家に這々のていでたどり着く。翌日、長い眠りから目覚めたロマンはかいがいしく自分の世話を焼いてくれる森番の娘タチヤーナに恋をする(「ぼくはその朝に再び生まれ変わったみたいだ」)。タチヤーナもまた、ロマンの荒々しい魅力のとりことなり、二人は恋仲となるが、じつは森番の父親アダムは継父で、娘のタチヤーナを溺愛していることがわかる。それと知らず、タチヤーナに会いに来たロマンは、森番アダムからロシアン・ルーレットを申し込まれる。それぞれが一回目の賭を無事ことなきに終えた後、部屋にタチヤーナが入ってきて二人は和解する。ロマンは手紙でタチヤーナに愛を告白する。
やがて村で火事が起こり、ロマンは焼け落ちようとする農家からイコンを救い出し、人々からその英雄的な振る舞いを称えられる。それとほぼ時を同じくして、タチヤーナから愛の告白をつづった手紙が返ってくる。森番アダムの許しもあり、無事結婚を許された二人は、涙ながらに抱き合う。やがて二人は教会で結婚式をあげ、贅をつくした披露宴で村人たちは陽気に浮かれ騒ぐ。驚くばかりに豪華な料理。次々と繰り出される乾杯や民謡。アコーディオンに合わせてのカマリンスカヤ踊り。
二人きりになり、部屋に戻った若い夫婦は、村人たちからの贈り物を開く。するとそこには斧と鈴があった(「それにしても鈴と斧というのはじつにおかしなプレゼントだね。なんだかそのプレゼントがぼくの心をとっても気持ちよくするんだ」「私もよ」)。長い樫の柄のついた斧を手にしたロマンは喜ばしげにいう。「ええとね、ぼくはすべてのことが分かったような気がするんだ」。ロマンは階下の客間でカードに興じる伯父や森番アダム、ゾーヤの父クラスノフスキー、他の客人たちを二階のビリヤード室に呼び出し、タチヤーナの鈴の音にあわせて殺害を開始する。やがて二人は村人たち全員の虐殺に乗り出し、彼らの死体の一部を村の教会に運び、ついには教会のなかで新妻のタチヤーナも殺し、自らも死にはてる。
3.コメント
(1)構成と問題点
冒頭に短い序章を置く400ページ近い長編。第1部が12章、第2部は8章からなる。教会での結婚式から、村人の殺りく、ロマンの死とつづく最終章だけで約150頁。
全体の3分の2は非常に平易な文体で書かれており、19世紀ロシア小説の百科事典ともいうべき体裁をなしている。プーシキン『オネーギン』、トゥルゲーネフ『猟人日記』、トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『罪と罰』、チェーホフ『黒衣の僧』『桜の園』からのアリュージョン。また、19世紀のロシアの小説に現れるモチーフを混ぜ合わせた一種のカタログ的な側面がある。ソローキンの作品の根底に流れているのは、コンセプトゥアリズムの詩人ルービンシテインに『図書館』という詩にあるが、すべての小説はすでに書かれてしまった、という観念ではないか。もっとも、最終章についてはまったく別のアプローチが必要であり、それ以前の章との有機的関連性をどう探るか、という問題が『ロマン』を考える上でとくに重要となるだろう。そこでいくつかの問題提起を試みよう。
(2)主題について
A アルカディアと死
*ソローキンは19世紀末のロシア農村を一種のアルカディアとして徹底して理想化して描きだし、終わりの3分の1でその崩壊の物語を語ろうとしたように思える。すなわちアルカディアにおける死のシンボルは、冒頭における墓碑のイメージにはっきりと現れているが、物語全体の展開としては、森の中でのロマンと狼との格闘によって初めて明らかにされる。狩猟のモチーフはアルカディア主題と抵触しない。アルカディアにおける死のモチーフを介在させた前半と後半の結びつきは、フィナーレで森番アダムからプレゼントされた狼の剥製によって再び再現される。
B 物語空間の変容あるいはシニフィエの時空からシニフィアンの平面へ
*三次元的ボリュームをもった物語空間が、二次元的平面へと変容していくプロセスが言語化されている、という印象を受ける。同時にそれは、シニフィエの物語から、シニフィアンの物語への移行を暗示する。物語とはそもそも言語はシニフィエ的機能によって成り立っているが、言語学的分析にたよらず、率直な印象としてこれを捉え直すなら、現実を写しとる手段として機能している言語が、現実を創造する手段へと移り変わっていることが分かる。ソローキン独自の詩法はまさにこの点にある。『ロマン』では、同じ小説の中で、同じ登場人物が三次元的ボリュームから二次元的イメージへと変貌するという驚くべき現象が生じている。それがもっとも端的に現れるのは、タチヤーナである。ロマンとの愛にあれだけ細やかな喜びを表現してみせたタチヤーナだが、鈴を鳴らし、殺害に乗り出した瞬間から、一個の事物、ものいわぬ機械、一幅の絵と化してしまう。殺害される村人たちも全く同様である。ここにも、三次元空間の二次元平面への変容のプロセスがくっきりとした痕跡を残している。いうなればトーキーからサイレントへの逆行。
文体のレベルでもそのプロセスははっきりと跡づけることができる。タチヤーナの死の後のロマンの行動は、単文の果てしない羅列反復によって表現される。つまり最後のロマンの死は、三次元ボリュームとしての小説空間の死でもある、同時に、別の意味での小説の死を意味するだろう、ということだ。思えば、ここに露な形で浮き彫りにされているのは、まさにコンセプトゥアリズムのもつバロック的世界観である。そこにおいてはすべてが文字と紙の上での出来事でしかない。
C 愛と死のエクスタース
物語の前半部分は一種の神話的な完結性をもち、人間同士の葛藤や屈折は極力抑えられ、細かい心理描写も省略されている。とくに印象的なのは、狼との決闘で傷を負ったロマンと彼を看病するタチヤーナのはげしい恋の表現である。彼ら二人による村人殺害は、まさに彼らの愛の絶対性の証として意味づけられている。そのプラトニックかつ神話的なエクスタースに満ちた愛と、スプラッターまがいの無差別殺人をどう結びつけることができるか。
斧を手にしたロマンは天命のごとく何かを悟り、無差別殺人に及ぶが、その後彼は、死者たちの臓物を教会に運び込み、それらと戯れる。さらに愛する妻タチヤーナの死体を切り刻み、そこに排泄し、それらを食べ、臓物の海に体を浸しながら自慰にふける。グロテスクという言葉を突き抜けたこれらの行為が意味するものとは何か。
『ロマン』全体に底流する主題とは、人間の自由とは何か、という存在論的な問いかけである。釣り人との会話で、自由のみが死の恐怖を克服しえる、と語った言葉はまさに、最後のフィナーレでその極限的なイメージ化をみる。死体と恍惚。死体と自由。しかし、さらなる自由とは死体をばらばらに刻み、諸器官の有機的意味を奪うことにあるのではないか。すなわち、有機的連関性を失ったいわば<臓物としての人間>と自由に戯れることによって、人間はより完全な自由に到達することができる。これは、サドの世界観に近い。
身体的オルガニズムのもつ時間的秩序をばらばらに解体することによってしか、結局、人間は死を克服できない。食べ、消化し、排泄するという時間の連鎖を断ち切り、排泄物や自慰による精液と吐しゃ物をこねあわせて同時に食べる、といった行為による絶対的自由の獲得。そしてそれは同時に、作家の文学想像力の絶対性の証でもあるだろう。未来派、オベリウーに淵源をもつコンセプトゥアリズムの詩法を全面的に駆使した小説。さしあたり、言えることはこれぐらいか。最後にソローキンのインタビューを資料として添えておきたい。
4 資料 ソローキン・インタビュー(『首都』94年)
──あなたはご自分の作品をテキストと呼んでいますが、この点に関して質問があります。あなたはそもそもご自分を作家とお考えですか?
V・S「いいえ、考えていません」
──あなたにとって読者の問題、すなわちテキストがどう理解されているかという問題は存在しますか。
V・S「私は読者の問題を断固として切り離しています。だいたい私は文学をあまり過大評価しておらず、文学とは紙であり、紙の上の印刷された文字であり、この文字の組み合わせから何かしら強い印象が生まれるものなのです。結局、たとえば、アフリカのどこかでは、人々はバッジやらタブーが原因で人を殺すかもしれない。それはこの記号のもつ力を論証するものではなく、人間の野蛮さ、アルカイックな本質の証なのです。私はエチカ(倫理)とエステチカ(美学)を区別しており、文学はけっして倫理や道徳の領域にあるものではなく、絵画や粘土の食器と同じように、純粋に美的な世界であり、それは死んだもの、物質であり、たんに紙であり、印刷用のインクなのです。 人々が文学に持ち込んでいるのは、私たちの古代性を立証するものであって、私たちが今日にいたるもなお19世紀に生きており、文学をかたくなに過大評価し、作家という人物像を神話化していることを物語っているのです。
読書とは私にとっては滑稽なプロセスであり、末梢神経を刺激し、快感を与えるものです。同じものを私は映画や絵画や女性や、またお茶を飲むときにも得ています。私は、大文字ではじまる作家とか文学とかいう恐ろしい神話の世界がどうなっているかは分かっています。こういう神話は少しずつ無に帰していきます。作家にとってそれはむろん不幸です。というのも、彼らは予言者とは見なされず、誰一人、彼に助言を求めるものもいない。なぜなら、作家は何もいうことができないからです。たとえ助言することがあってもそれらに耳を傾けてはいけません。作家たちが生きているのは、文学空間、端的新居ウォッカなら、自分の心理的嗜好の世界であって、彼らはみずからの「心身症的、文学的ロシア」をどう作り出すかは分かっていても、現実のロシアをどうするかなどなに一つ分かっていません…
私にはむろんきわめて個人的な基準があります。文学で私の興味をそそるのは、まさに狂気であり、奇怪であればあるほどよい。もっとも退屈なのは健全な作家、文化的に中庸の作家たちです」
──たとえば?
V・S「ナボコフ。私はまったく彼を読み返すことができません」
──あなたは多くの論文で、「才能あるアヴァンギャルド作家」というふうに評価されていますが、あなたはアヴァンギャルディストですか?
V・S「アヴァンギャルドのなんたるか、私にはそもそも分かりません」
──では、コンセプトゥアリストですか?
V・S「私にキーを与えてくれたポップアートに私はいちばん感謝しており、これまで無意識のうちにまったく似たようなことをやってきたのだ、ということを初めて悟りました。初期の作品には、悪趣味がたくさんありましたが、すでに当時私が用いてきたのは、文学的常套表現はソビエト流のものではなく、ポスト・ナボコフ流のものでした。しかし、エリック・ブラートフのおかげで(彼はむろんどんなコンセプトゥアリストではなく、かりにソビエト流ポップ・アーティストがありうるとすれば、典型的なポップ・アーティストです)私は突然公式をみつけたのです。つまり、文化ではすべてをポップアート化できるということですね。素材としては、プラウダ紙でも、ジョイスでも、ナボコフでもなりうるのです。紙面で述べられているものがすでに物質であり、好きなように複雑なトリップを施せる。私にとってこのことは原始エネルギーの発見のようなものでした」
──あなたが積極的に文章を書き始めた時、それは発行部数が決められ、多くの読者が現れると予測できましたか。
V・S「いいえ、そんなふうに思ったことは一度もありません」