●シチェルバコーワ, ガリーナ Shcherbakova, Galina
解説 沼野恭子
1. 作家について
1932年ジェルジンスク生まれ。本名はRzhabek, G. N. ロストフ大学文学部を卒業後、しばらく教師をしてからジャーナリズムに転じる。70年代より小説を書き始め、80年代には映画シナリオも書くようになる。中編 《Vam i ne snilos'》は映画化された。最近とみに『新世界』誌での活躍ぶりが目立つ。現在モスクワ在住。
■主要作品
Sprava ostavalsia gorodok. Povesti. Moscow, 1979.
Roman i Iul'ka: P'esa-razmyshleniia. Moscow, 1982.
Vam i ne snilos'. Moscow, 1983.
Otchaiannaia osen'. Povesti. Moscow, 1985.
Dver' v chuzhuiu zhizn'. Moscow, 1985.
Sneg k dobru. Moscow, 1988.
Krushenie. Moscow, 1990.
Anatomiia razvoda. Moscow, 1990.
Tri 'liubvi' Mashi Peredreevoi. 《Chistye prudy》, Moscow, 1990.
(これはのち《Glaz》, No. 3, 1992. にも収録されている)
Emigratsiia po-russki. Ogonek, No. 9, 1991.
Dochki, Materi, ptitsy i ostrova. Soglasie, No. 6, 1991.
Puteshestviia. Ogonek, No. 20,21, 1992.
Radosti zhizni. Novyi mir, NO. 3, 1995.
Kostochka avokado. Novyi mir, No. 11, 1995.
Love-storiia. Novyi mir, No. 11, 1995.
(Ogonek, No. 44, 1995. にこの一部が掲載されたときは"Grekh"と題された)
U nog lezhachikh zhenshchin. Novyi mir, No. 1, 1996.(この号では巻頭小説!)
2.作品について
「マーシャ・ペレドレーエワの三つの『恋』」
モスクワでは「あれ」1回で100ルーブル稼げる──そんな新聞記事を読んで主人公のマーシャが驚くところから物語は始まる。「あれ」とは売春のこと。母親とふたり暮らしのマーシャは教育大学の学生。金持ちになってバルト海沿岸に住むことを夢見ている。党地方執行委員会の文化官をしている母は貧しい家の出身で、ワイロも取らず清貧に甘んじている。離婚して夫もおらず、金もなく、健康を害している母。あるものと言えばアパートだけ。そんな母親に対するマーシャの気持ちは、同情と軽蔑の間でゆれている。
さて昔の同級生ヴィーチャは、マーシャに「結婚しよう」と言いつづけていたのに「あれ」をしてしまうと結婚なんておくびにも出さなくなった。徴兵され、アフガニスタンに送られたが、手紙は1通もよこさない。
ある日マーシャは州都に住んでいるおばを言いくるめてアパートを借り、公園で話しかけてきた3人目の男を連れ込んで売春行為をする。ところが相手の男は金をくれないばかりか、彼女を殴って行ってしまう。
やがてマーシャは医者に「妊娠4カ月」と告げられる。ヴィーチャにしては1カ月おそいし公園の男にしては1カ月早いので、父親はどちらかわからないのだが、堕胎は健康によくないと考えているマーシャはヴィーチャが父親だと主張し、ヴィーチャの留守宅にまで乗り込んでいく。当然、彼の家族は激怒する。マーシャの母はヴィーチャの子ではないと確信しているにもかかわらず、マーシャの肩を持つ。娘が結婚して家を出ていけば、自分の恋人といっしょに住める、と考えているのだ(母は単純素朴で、スターリン時代のほうがよかったと考えるような人)。
マーシャは出産のために母の田舎に行く(祖父母の貧しい田舎の生活の対する嫌悪)。ヴィーチャからの手紙は、「事があった」という事実は認めているものの懐疑的だった。マーシャが女の子を生んでしばらくしたころ、突然ヴィーチャがアフガニスタンで戦死したとの知らせが舞い込む。それまで門を閉ざしていた彼の母は女の子を孫として認め、いっしょに暮らすことになる(ヴィーチャからもよくしてやってくれという手紙が届いていた)。平穏な学生生活が戻ってくるが、これでは金持ちになるという夢にはほど遠い。
ヴィーチャに勲章が与えられることになり、彼の母親の代わりにマーシャがモスクワに出かける。例の新聞に書いてあったことがほんとうかどうか確かめたくなるマーシャ。彼女はひとりの少佐に体を与えるが、少佐はそのまま消えてしまう。くやしい思いを抱いて、インツーリストのほうへ行く。私がうんと金持ちになったら、ひとり残らず息の根を止めてやる……。
「寝たきり妻たちの足元で」
毎晩顔を合わせてはたわいない会話をしている三人の男ソローカ、シュプレヒト、パーニン。三人そろって寝たきりの妻を抱えている。それぞれジーナ(女飛行士)、ワーリャ(タイピスト)、リューダ(教師)だ。作品の冒頭にはメニャーエフという男の死をめぐる男たちの会話からなる「序」のようなものが置かれているが、その後「女飛行士」「タイピスト」「教師」という小見出しがこの順で三回繰り返される。つまり九つに分かれた語りが、この六人の男女の、縒り合わされた糸のような人生を次第に明らかにしていくという構成である。
・飛行クラブにはいっていたジーナは孤児のソローカと結婚した。彼の放蕩にも寛大な妻だったが、今では「ムムム」とうなることしかできない。ジーナのたくましい腕にキスして眠るソローカは、彼女なしでは生きられないと思っている。彼は党の地区委員。
・孤児だった鉱山技師シュプレヒト(本名シュペコフ)は、連れ子のいる出戻りのワーリャと結婚した。ワーリャは浮気者、シュプレヒトはお人よしで頭はよくないが、ドイツ人の口真似をするのが得意。ふたりの間には息子ができた。息子はモスクワでいい生活をしている。中風で倒れたワーリャは寝たきりだが、話すことはできる。ときどきシュプレヒトめがけて物を投げる。それでも彼は自分のことを涙が出るほど幸福だと感じる。
・戦争とラーゲリを経験したきらわれ者の鉱山測量士パーニンは、バツイチの地理の教師リューダと結婚して、彼女が処女であることに驚いた。ふたりの間には息子が生まれ、立派な建築家になった。リューダは今でも細くてきれいだが、頭がおかしくなってしまった。
・ジーナはかつて中学校に経理部長として赴任したとき、インポだというリューダの夫をかわいそうに思って自分から誘い、妊娠してしまった。夫ソローカの子供として産んだ息子を、ソローカは自分の本当の子だと思っている(他に子供はできなかった)。神はジーナに罰として病気を与えたのか。
・ワーリャの娘は貧しいが、誇り高い。部屋にかけてある鏡は、ワーリャの内側の灰色の深淵をうつしだしているように思える。
・リューダが前夫イーゴリと結婚したのは、彼が孤児だったから。彼女は孤児ならだれでもいいから助けたかったのだ。写真を見ているうちにふと、ソローカの息子がイーゴリにそっくりだということに気がつく。ソローカは、学術博士で大学の副学長をしている息子が自慢でならない(ただし息子の妻がユダヤ人だという点は別)。
・ジーナはある年の夏休みに息子が帰ってきたとき、リューダに気づかれるのではないかとはらはらしたことを思い出す。でもそのときはだれも気づかなかった。
・ワーリャの心には手におえない動物のようなものが住みついており、まわりのものをめちゃくちゃにしてしまいたいという衝動にかられることがある。ワーリャはソローカの過去に秘密があることを知ったが、それをだれにも言わないとジーナに誓わせられた。一度、娘が問題を起こしたとき、ワーリャはこの秘密を利用してソローカの力を借りたことがある(ソローカはかつて自分の故郷も妻も捨てて逃げ、他人の身分証を拾ってその姓を名乗るようになったのだ)。
・パーニンは、リューダなくしては人生の意味などない、と考えている。かつてジーナがリューダのことを「あんたは男をつかまえていられないんだ」と侮辱してから十年間、互いにあいさつをしなかったが、やがて近所付き合いをするようになった。
シュプレヒトはワーリャが死んだら納屋に置いてある毒をのむという。ソローカは銃を用意してあるという。
運命の不思議な三角形に思いをはせるパーニン。今では「寝たきり妻」が地名にさえなっている。朝がやってくる、それはまだ最後の朝ではなかった。
3.コメント
文体はきわめて平易で、凝った意匠は見受けられない。幻想的な要素もほとんどなく、あくまでもリアリスティックである。「現実的」でかつ「わかりやすい」という特徴は、彼女のジャーナリストとしての経験が大きくものを言っているのかもしれない。あるいは上質の<literatura byta>であるととらえるなら、Natal'ia Baranskaia以来の「女性文学」の系譜に連なると言えなくもない。
戦争を題材にしたバランスカヤの作品(例えばDen' pominoveniia, 1989)には回想シーンが多いが、シチェルバコーワもまた回想という手法をたいへん効果的に用いている。"U nog lezhachikh zhenshchin"のように、登場人物たちの謎めいた過去を読者に伝えるという場合もあれば、「登場人物たちの現時点でのジレンマを解明する手がかりが過去の経験や選択にあるのではないかと探る」(Dictionary of Russian Women Writers, 1994)という場合もある。
さまざまな形の愛を扱ってその生理を解明しようとしているように見えるという意味ではanatomiia razvoda(1990) にならって彼女の作品を「愛の解剖学」と名づけてもいいかもしれない。たとえば "Tri 'liubvi' Mashi Peredreevoi" では、マーシャと男たちとの関係、つまり「恋」のほうは通常の愛とはほど遠い括弧つきのしろもの(と言うよりむしろ文脈から言えば単なる「性行為」)にすぎないが、母親に対する彼女の愛憎相半ばするアンビヴァレントな感情はかなり丁寧に描かれているし、"Love-storiia" では、最愛の親友の夫と肉体関係を持った「わたし」の長年にわたる愛の軌跡がテーマになっている(ちなみに、この作品は長編でないにもかかわらず今年度ブッカー賞候補51作品のひとつにノミネートされている)。
長い歳月を経て昇華された三組の夫婦の(とくに夫の側の)献身的な愛を扱った"U nog lezhachikh zhenshchin" は、ともすれば楽観的、保守的な、作り物くさい作品ともとられかねないが、シチェルバコーワの多彩な「愛の解剖学」の中に置いてみれば、ひとつの特殊なケースとしてそれなりの説得力があるように思う。
Alla Latynina は『文学新聞』(1996年2月7日)で、最近シチェルバコーワがたびたび『新世界』に登場することについて、次のように分析している。テレビをつければ子殺しだ、親殺しだといった話題で持ちきりのご時世にあって、世間の人は小説にまったく別の題材を求めている。シチェルバコーワは昔から一貫して、善が悪に打ち勝つような愛のドラマ・人生のドラマを書いてきた。暴露文学や<drugaia proza>時代に、こうした古風でセンチメンタルな小説は取るに足らないもののように思われそうだが、実はおばあちゃんの靴がまた流行しているように、多くの人々に求められているのだ。だからこそ、日常的・非英雄的な自己犠牲を描いた、この上なく感動的な物語が『新世界』の綱領となるのだろう、と。