●セヴェラ, エフライム Sevela, Efraim
『傷痍軍人横町の伝説』 Legendy Invalidnoi ulitsy.
解説 沼野充義
1.作家について
Efraim Evelevich Sevela 1928年3月8日ベラルーシのボブルイスク生まれ。1945ー48年ミンスク大学に学び、1956年までヴィリニュスでジャーナリストとして働く。1956年から映画の分野に移り、モスクワに出る。シナリオを執筆するほか、監督・俳優としても活動。1971年2月24日、ソ連の反ユダヤ主義に抗議し、ユダヤ系ソ連市民の出国の権利を主張する、ソ連で初めてのデモを組織。モスクワの最高会議の建物の一角を占拠し、「シット・イン」(座り込み)を敢行。同年5月に出国、パリに住む。同年秋、イスラエルに移住、9か月間の兵役、戦争にも参加。1971年にパリに出たころから、作家活動活発に。1975年にイスラエルを出るまでに6冊の本を執筆。1976年にアメリカ合衆国(ブライトン・ビーチ)に移住、1985年までにさらに10編の長・中編を執筆。1988年、ソ連に一時帰国、映画制作を企画。1986ー88年にはベルリンに住む。1992年ころからロシアでも著作が次々と出るようになり、1994年には出版部数(累計)が100万部を越える。この時点で、世界中で彼の著作出版点数は118を越える。現在はモスクワとニューヨークを行ったり来たりしている。(以上主にカザックの20世紀ロシア文学事典の新版による)
主な著作(より詳しくはカザックの文学事典などを参照)
Popugai, govoriashchii na idish. Izd-vo Stav, Ierusalim, 1982.
Ostanovite samolet, ia slezu!. Izd-vo Stav, Ierusalim,
Muzhskoi razgovor v russkoi bane. Grand, Tel'-Aviv, 1980.
Vse ne kak u liudei. New York, 1984.
Zub Mudrosti. Izd-vo Stav, Ierusalim,
Toita Korolla. New York, 1984.
Sobranie sochinenii v dvukh tomakh. Gramma, 1996.(発行地不明)
*参考文献
沼野充義「ロシアのユダヤ人──エフライム・セヴェラ、あるいは表層で耐えるユーモア」, 沼野著『永遠の一駅手前』(作品社、1989)pp. 83ー90.
2.作品について
単行本としてはLegendy Invalidnoi ulitsy. Izd-vo Stav, Ierusalim, 1997. 表題作と中編『幸福への道』(Droga do szczescia)の2作を収める。どちらも短いエピソードを積み重ねた独自の構成をとっている。
『幸福への道』(表題はポーランド語)は、1953年のリトアニアのヴィリニュスを舞台としている。ここに、戦争で家族を失い寂しい一人暮らしを送っている中年過ぎのユダヤ人が、日曜日ごとに溜まり場としている床屋がある。その入口には、まったく不似合いなことに、どういう由緒のものか、たいそう立派な大理石の階段があり、そこにポーランド語で「幸福への道」という銘が刻まれていることから、町の人々は床屋をその名で呼ぶようになった。
妻のために奮発していい毛皮を買おうとこの町にやってきた「私」は、たまたまこの床屋を知り、そこに溜まっているユダヤ人たちが、ロシア語、イディッシュ語、リトアニア語、ポーランド語などの入り乱れた「共通マカロニ語」を作って日曜日ごとに繰り広げる回想談の数々に聞きほれるようになる。それらの話が、この「幸福への道」という作品を織りなしており、その一つ一つが独立した巧みな語りの構造を持っているので、全体として荒筋で要約することはできない。
いくつかの具体的な挿話の例を挙げておくと──
(1) レブ・アルンという長老格の老人がなぜドイツ人を尊敬するかという話。大戦中彼らはドイツ軍に徴用されて強制労働に従事していたのだが、そんなある日、彼らの作業場に護送用のトラックがやってくる。もちろん、ガス室送りのためである。ユダヤ人たちは次々と積み込まれ、アルンにも終に乗り込む順番がやってきて、彼はトラックのステップに片足までかける。と、突然、ドイツ兵は「ああ、12時だ!昼食の時間だ!」と叫び、乗り込み口をばたんと閉めて走り去り、アルンは救われる。時間をきちんと守るドイツ人のこういった几帳面さゆえに、アルンはドイツ人を尊敬する、というのがオチ。
(2) 飲んだくれの鍛冶屋のモイシェとその妻トイバについての話。モイシェは札付きの乱暴者だったが、妻が急に発病して寝たきりになってからがらりと人が変わり、献身的に看病するようになる。そこへドイツ人が進駐してくる。まわりのユダヤ人は皆逃げてしまっているが、妻のトイバは全身が麻痺していて立ち上がることすらできないので、モイシェは断固として家に残る。いよいよドイツ軍が彼の家にはいってきて、彼を連行しようとすると──突然、3年間も寝たきりだったトイバの病気が跡形もなく消え失せる。彼女はすっくと立ち上がり、「私もいっしょにいきます」と微笑みながら宣言し、夫婦で手に手を取って死に向かうのである。
『幸福への道』が床屋を舞台とした作品であるのに対して、『傷痍軍人の横町の伝説』は落語の長屋の世界に似ている。場所はセヴェラの故郷とおぼしき町のユダヤ人街。時は1930年代。ここには色々なタイプの愉快な人たちが登場する。シナゴーグでいい座席を確保するためにいつも有り金をはたき、家族に貧乏させる見栄っ張りの大工。家庭をほったらかしにしてあちこちに首を突っ込んで歩く「社会事業家女性」第1号。美貌ゆえに若いころロシア帝国軍隊の将校にさらわれそうになったリヴァおばさん。やることなすこと失敗ばかり、何をやっても必ず最悪の結果に突き当たってしまう「ぼく」(ユダヤのフォークロアにはこういう「どじ」な奴が登場し、イディッシュ語で「シュリマゼル」と呼ばれる)。
このような風俗のなかで、「横町」の伝説が次々に語られていく。語りは軽く風俗的なものだが、ときおり通時的(歴史的)な視点が導入され、言わば悲劇的な歴史のなかに呑み込まれず、その表層をすべっていくようにして、語り手がソビエト史を浮き彫りにすることもある。
例えば、熱烈な共産主義者で、曲がったことが大嫌い、自分が飢え死にしても国家財産には手をつけないシムハおじさんの一生。あるいは、豪快なスカトロジー話をまじえながら、強健な横町の住人たちがいかにスターリン時代の政治に巻き込まれていったかを語る「世界チャンピオンはいったい誰か?」。
また特に美しいのは「地上に楽園がなぜないのか?」という挿話で、ここではベレレ・マツという茶目っ気たっぷりのトリックスター的少年が登場し、その早世を悼む語り手の声は、セヴェラにしては珍しく悲痛に響く。「だが、ベレレ・マツはあまりにも早く逝ってしまった。だからこの地上には楽園がないんだ。」
3. コメント
「語り」は読み手(聞き手)に与える効果を計算したうえで、巧みに構成されている。それはエンターテインメント的要素が強いということでもあり、大衆的・通俗的な手法に流れる危険もはらんでいる。『幸福への道』のレブ・アルンの挿話について言えば、主人公がトラックに乗り込む直前に12時が鳴り、ドアが目の前でばたんと閉まるのは、あまりにも御都合主義的というか、通俗映画的効果を狙ったプロットである。モイシェとトイバの話の場合も、ここで起こる「愛の奇跡」はある意味では月並みの極致である。しかし、セヴェラの作品を貫く感性の立場からすれば、そういった判断自体が、重厚な19世紀ロシア文学の重力圏内の思考の慣性によるものであって、セヴェラを読むとき(楽しむとき)はおそらくまったく別の基準をあてはめなければならないだろう。
セヴェラが軽薄そうに見える滑稽な語りを通じて目指しているのはおそらく、現実の表面を正しく描写することでもなければ、その奥にひそむ悲劇的な深淵を抉りだすことでもない。自分の足元に途方もなく悲劇的な深淵が広がっていることを十分に自覚しながらも、そしてレブ・アルンのようにその深淵のなかに片足をほとんど突っ込みながらも、その引力にあらがい、軽そうに見える「語り」の力によってあえて表層に踏みとどまり、表層で物語を滑らせていくこと──ここに類稀な「語り」の妙手、セヴェラの芸がある。
以下、セヴェラをめぐって考えるべきいくつかの話題を箇条書きで挙げておくと──
・ 大衆作家としてのセヴェラ
セヴェラは非常に広く読まれているにもかかわらず、いまだにほとんど「研究」されていない。語りの妙、ユーモア、大衆性といった点では、ドヴラートフに近いものがあるが、ドヴラートフに比べるとセヴェラのほうがさらに「低い」大衆的なジャンルの作家と見なされているためだろうか。
しかし、現代ロシアの「大衆文学」へのアプローチのためには、非常に重要な作家である。とくにこの種のエンターテインメントがソ連国内にも、亡命地にもまだほとんどなかった時代に、セヴェラはいちはやく、大衆的な語りのジャンルを発見し、亡命ロシア人の間でちょっとしたベストセラー作家になった。その意味では「先駆者」である。
・ ユダヤ性
セヴェラ独特の語り口や、プロットにはユダヤ的なユーモアやフォークロアの影響が感じられる。また「幸福への道」に典型的に現れる多言語的状況・クレオール的状況は、東欧ユダヤ人の宿命のようなものと考えられる。このような出自が、亡命後の適応を容易にし、亡命地での作家としての活躍を可能にしたと考えられる。
・ 語りの「構造」
物語を「語る」みごとさ。通俗的なものであれ、文体的・ナラトロジー的分析に値する。アメリカを舞台とした短編集『イディッシュ語を話すオウム』や、モスクワからニューヨークに移住してきた13歳のユダヤ人少女の皮肉でませた目を通して語った長編『智恵歯』など、とくに語りの技を感じさせる。
・ アメリカ生活の「異化」とソ連の過去の回想(亡命作家の2重の視点)
セヴェラにはソ連の過去に題材をとった作品群と、ソ連からの亡命者の目を通じてみた亡命生活(特にアメリカ)を描いた作品群の、2系列がある。その両者の関係を通じて、「はざま」に生きる亡命作家の位置が浮かび上がってくる。