●アンドレイ・セルゲーエフ Sergeev,Andrei
「切手帳」とその周辺
三浦 清美
アンドレイ・セルゲーエフは文学者として、二つの顔をもっている。
セルゲーエフは1933年、モスクワ生まれ。モスクワ外国語教育大学を卒業後、1950年代から英文学を中心として優れた訳業を行い、20世紀英国詩の代表的翻訳家として活動した。ことに、T.S.エリオットやロバート・フロストの訳詩は高い評価を得ているが、この作家が翻訳家として取り組んだ詩人、作家はこのほかにも、イェーツ、ジェイムス・ジョイス、アレン・ギンズブルグ、ロビンソン、サンドバーグ、ディラン・トマス、ジュディット・ライト、グレイヴズ、マスターズら、イギリス、アイルランド、アメリカの文学者、さらには、オカラ、ショインカといったナイジェリアの詩人や劇作家にまでおよび、英語圏文学の翻訳家としての彼の活動は非常に多彩であった。 (1) セルゲーエフの翻訳の仕事を「ロシア翻訳詩の古典」 (2) と評する者さえいる。
こうした表の顔をもつと同時に、セルゲーエフは検閲忌避文学 неподцензурная литература の流れの中で、ひそかに独創的な作品を書き綴っていた。彼の代表作となる『切手帖』はほとんど二十年にわたり、作家の孤独な文学的営みとして書きつづけられたものである。セルゲーエフ自身がこの孤独な創作活動について、きわめて痛切な思いを抱いていたことが伝えられている。「私が自分の詩や散文が出版される日まで生きのびることはないであろう」 (3) と。
しかし、ペレストロイカ以降の激しい時代の流れが、検閲忌避・アンダーグラウンドの作家たちに共通だった(ペトルシャフスカヤもテレビのインタビューで同じ思いを告白していた)このペシミスティックな見通しを裏切ってゆく。これらの作品群は、1990年、リガで刊行されていた伝説的な文学誌『』に『切手帖』の一部が載ったのを皮切りに、 <Юность> <Огонек> <Новый мир>といった雑誌に次々と掲載され、作家としてのセルゲーエフの名声を高めていった。1995年には、7月号と8月号に <Дружба народов> に、『切手帖』の主要部分(第二部「ユベルゼー」中の二つの作品、「七歳の少女」「ウジェーリナヤ」は単行本『オムニバス』ではじめて所収)が掲載されると、翌年、この作品でセルゲーエフはロシア・ブッカー賞長編小説部門を受賞した。
ビブリオグラフィーを見て気づくことは、『切手帖』や『悪魔払い(Изгнание бесов)』に見られるように、同じ作品がさまざまな雑誌に次々に転載されていることである。たとえば、『切手帖』の場合、『ロドニク』『アガニョーク』に一部が掲載されたのち、『ドゥルジュバ・ナロードフ』でその大部分が発表され、1997年の単行本『オムニバス』でその全貌が明らかになった。作品『悪魔払い』は、『ロドニク』『ノヴィ・ミール』他に掲載された。実際にすべての雑誌にあたってみることができたわけではないので、この作品がたんに分載されたのか、重複があるのかはわからない。が、セルゲーエフの作家としての出発点がリガの『ロドニク』にあり、やがて、モスクワの雑誌へと登場した経緯を、私たちはビブリオグラフィーから見て取ることができる。地味な作風ながらその実力が徐々に認められ、購読者の限られた周縁から読者の関心をより惹きつけやすい中心へと作家が進出を果たし、それにともなって、セルゲーエフの翻訳家から作家へのメタモルフォーゼが実現したのではないかと思う。ビブリオグラフィーから伝わってくるのは、セルゲーエフの文壇デビューのさいのこの雰囲気である。
つまり、文学者セルゲーエフは二つの出発点を持っていたことになる。一つは翻訳家として、もう一つは詩人、作家としてのそれである。彼は、1950年代、スターリン時代の終焉に際して翻訳家として出発したが、十分に文学的キャリアを積んだのち、1990年代、ソ連邦の崩壊とともに作家として認められるようになった。が、セルゲーエフ自身は、自分が二つの肩書きをもつにいたったこの経緯に、アンビヴァレントな思いを抑えられなかったらしい。昨年11月に不慮の事故で世を去ったこの作家を、雑誌 <Вавирон> は次のような記事で悼んだ。「セルゲーエフはその晩年、自らの訳業を思い出すことさえ嫌った。翻訳は、ソビエトの出版物に自らの作品を掲載することが不可能であった状況のなかで、誠実な文学の仕事をするために許された唯一の可能性に過ぎず、妥協の産物にほかならなかった。」 (4)
セルゲーエフはブッカー賞受賞後、新たな文学活動の展開を期待され、また自らも、文学のほかに幼少の頃から情熱を傾けた古銭学に関する著作に意欲的に取り組んでいたが、1997年11月27日、ウラジーミル・トゥチコフの夕べから帰宅する途中、交通事故に遭い、この世を去った。雑誌『クロリク』はその追悼記事において、この不慮の事故から受けた衝撃と驚愕を隠そうとしなかった。「『自由』紙が伝え、『文学新聞』に追悼記事が載った。が、私たちは信じない。私たちみんなが信じていない。みんなが信じられないのだ。アンドレイ・セルゲーフにはあんなに生命力があふれていたのに。『いた』という言葉が彼の名前とならんで記されることを夢にも考えてみることさえできないほど、みずみずしく」 (5) と。
作品理解のヒントになるキーワードは、筆者によれば、四つ「収集癖」「掌篇」「自由な連想」「回想」である。
まず第一に、「収集癖」であるが、これはアンドレイ・セルゲーエフの、いってみれば、精神的体質を最も端的に表す言葉であると考えられる。実は、セルゲーエフは前述の文学者としての二つの顔のほかに、三つ目の顔を持っていた(というより、文学者である前に収集家だったといったほうがふさわしいかもしれない)。収集家としてのそれである。彼は、切手の収集家であると同時に、あるいはそれ以上に、古銭の収集家であって、そのレベルは優に玄人の域に達していた。セルゲーエフへのかなり長いインタビューが二つ残されているが、そのいずれもが文学そっちのけで古銭学への情熱と薀蓄のみを語るものである (6) ことは、いかにもこの作家らしい。アレクアサンドル・レーヴィンとのインタビューにおいてセルゲーエフは、ブッカー賞受賞後の彼の早過ぎた晩年に、『旧ロシア帝国および旧ソビエト連邦領域における蛮族鋳造の貨幣』 (7) と題する本格的な古銭学の著作を準備していたと語っている(上梓されたかどうかは不明)。「私はある日突然、自分が他の追従を許さない知識の持ち主であると感じ始めたのです。」ここでは、この控えめな表現者にしては珍しく、人をしておやっと思わしめるほどの確固とした自信を覗かせている。『切手』と題されたアレクサンドル・レーヴィンとのインタビューでセルゲーエフは、自分は学問嫌いの人間だが、唯一自分が認める学問があるとすれば、それは古銭学にほかならないと述べている。
「私は決して学問好きの人間ではないのですが、もしも学問のなかで私が認めているものがたったひとつあるとすれば、それが古銭学なんです。.....皆さんご存知のように、人間の収集癖というものは決して根絶やしにはできないものです。ソビエト政権時代、ことに、20年代終わりと37年には、古銭収集家が鉄格子向こうに放り込まれましたが、それでも古銭収集家は存在していました。学者である古銭収集家は博物館を代表していた、ということは、間接的な方法でソビエト国家を代表していた存在であって、それは『ふつうの収集家』にとって常に恐怖を呼び起こすものでした。ふつうの収集家は学者には決して何も見せませんでした。ですが、私が権力と何のかかわりもない人間として、何かの用で田舎に行くと、私にはいろいろなものを見せてくれたり、語ってくれたものです。それは、学者収集家たちが思いもよらぬものばかりでした。」 (8)
引用が長くなったが、上記の発言で私たちが関心を払うべきポイントのひとつは、収集癖を人間に必要欠くべからざる欲求と捉えているということである。「収集癖」を指向するこうした精神体質は、彼の作家活動とも無縁のものではなかった。その精神体質の見事な具現化として、ブッカー賞受賞作『切手帖』がある。このことを端的に示すのは、その副題、「1936年から1956年までの人々、事物、人づきあい、言葉のコレクション」であろう。このコレクションという言葉は、『切手帖』ばかりではなく、セルゲーエフの作品全般を考える上で非常に重要である。 (9) 作品『切手帖』においてセルゲーエフは、切手の収集家が苦労して手に入れた珍しい切手を、どんな小さな傷、どんな細かい埃をも見のがさず細心の注意を重ねて、凝った豪奢な台紙にピンセットで一枚一枚しまって行くのと同じように、収集に値する「思い出」をもとめて自らの記憶の中を訪ね歩き、長年かけて探しあてた思い出を、端正で無駄のない文体の中にひとつひとつ大切にしまったのである。そうして収集された、幼少年時代から青年時代にかけて(3歳から23歳までの)の自身の回想のコレクションこそ、『切手帖』という作品に他ならない。切手がせいぜい親指ほどの大きさでしかないように、作品『切手帖』に記された回想も長いものでほんの2~3ページに過ぎず、大部分の階層がせいぜい半ページくらいの分量に極めてコンパクトにまとめられている。これをひとつの粒としてこの粒が無数に集まった集合体が『切手帖』の作品全体を構成するといっても過言ではないのである。
作家への好意と、ブッカー賞選考者たちへはいくぶんの皮肉を込めながら、『クロリク』誌の紹介記事がこの作品を次のように評したこともゆえのないことではない。「面白い本が出た。この本のおかげで、セルゲーエフは1996年度のブッカー賞だかなんだかを取ることになった。連中(選考者たちー訳注)はこの本が長編小説であるかのように演技する羽目になった。この本は長編小説などでは毛頭なく、よい本であるというだけなのに。ブッカー賞という代物は、よい本にあたえる賞なんかではなく、長編小説にあげることになっている賞だからだ。」 (10)
たしかに、『切手帖』は一見すると、互いにあまり連関のなさそうな小さな断章を並べ合わせたモザイクであり、いわゆる長編小説に必要なテーマの一貫性はまったくないように思われる。『切手帖』のこの構造的特徴が、次の二つのキーワード「掌篇」「自由な連想」と直につながってゆくのである。
ビブリオグラフィーを見ると、彼の作家活動とごく初期から、рассказики(とりあえず、掌篇という訳語を当ててみた)という耳慣れないジャンルの作品が多く登場し、単行本『オムニバス』にも、およそ70篇がおさめられ、その全体の分量は全体の4分の1にも及ぶ。「掌篇」は、もっとも長いもので3ページ、ほとんどがせいぜい1ページほどのごく短い作品であり、セルゲーエフのそれの場合は、スピーディな展開で動的な印象をあたえるハルムスの場合とは少し違い、むしろ、細部の揺れのないスタティックな断片的エピソードにほかならない。つまり、『切手帖』を構成する回想の一単位と構造上はまったく同じなのである。つまり、この断片的な文章の粒がこの作家の文学的発想の基本単位であると思われる。この文章の粒は、しかしながら、実は無造作に並べられているのではないのである。作者はこの収集品のレイアウトに関しても一定のポリシーをもっているように思われる。しかしながら、それはがっちりとした構造的な骨組みをもっているということではない。むしろそれは、気取らないことを洒落ているような、頓着しないことにこだわりを抱いているような、きわめて柔軟な一貫性を感じさせる性質のものである。
個々の回想をつなぐものがもしあるとするならば、それは自由な連想であろう。作家は、花から花へと蝶が気まぐれな飛行を行うように、自由な連想を楽しみながら、エピソードからエピソードへと飛び回っているように思われる。このことに関しては、『切手帖』の作品の一部を具体的に取り上げる次章において、具体的に論じたいと考えている。
筆者はこれまでの部分で、セルゲーエフの文章は基本的に「掌篇」を文学的発想の基本単位としていると述べた。それらを連合するものは自由な連想であり、粒子同士の結びつきは緩やかであるが、にもかかわらず、一つ一つの粒子から受ける印象はきわめて硬質のものである。この堅固さ、硬質性の拠って来るところは何なのだろうか。
セルゲーエフのほとんどすべての作品がセルゲーエフによる回想と結びつきをもつことは不思議でもある。ことに、翻訳以外で最初に発表されたセルゲーエフの作品が『ザボロツキーの思い出』(1977)であり、ほかにも、アフマートヴァ、チュコフスキー、ゼンケヴィッチ、ヴィノクーロフをはじめ、有名無名の多くの人の回想を残していることは示唆的であろう。しかも、こうして人物の回想を筆にのせるとき、印象的な断片を切り取る技に長けたすぐれた写真家のように、とくに会話と地の文のバランスにおいてこの作家がしばしば腕の冴えを見せることは、セルゲーエフのスタティックな文体の本領を示すものと考えてよいであろう。
こうしたスタティックな文体が示す作家セルゲーエフの安定性への傾きは、筆者には収集を純粋な喜びとする癖のある人の特徴のひとつであると思われる(物忘れ専門の筆者には驚き以外の何物でもない!収集品が突然ガラクタに思えてくることはなかったのだろうか!?)のだが、筆者が作品をさらりと呼んだときの第一印象は、しかしながら、プルーストやジョイスのいわゆる「意識の流れ」手法にどこか似ているな、というものであった。それと同時にどこか「意識の流れ」とは異なるものをも感じていた。結局、筆者はこの違和感に最後まで付き合わされることになったが、試みにこの違和感の拠って来るところを次のように考えてみた。「意識の流れ」手法が、思い出の湧き出づる現場に見出すものはみずみずしい力と危うさであり、そこではすべてが運動をはらんでいるのに対し、セルゲーエフが指向するのは安定であり、バランスであり、落ち着きである。セルゲーエフの作品は一貫して「静」である。このことは、中学生が卑猥な言葉で罵り合うシーンにさえ、落ち着きが感じられるところに端的にあらわれていよう。ある批評家はそれを「学校で子供たちが卑猥にも美しく罵り合」う様と描写した。野卑な言葉のやり取りさえ「美しい」のである。
セルゲーエフは、長い時間の経過のなかで回想という営みを繰り返し、不確定な記憶や新たな動きを懐胎する不安定な要因を周到に排除してゆき、その結果、細部にまでいたる驚くべき揺れのなさに到達したように筆者には思われる。この安定感こそがセルゲーエフの作品を規定し、その魅力になっている。が、その一方で、96年のブッカー賞受賞者を占うさいに一部の批評家から、「セルゲーエフのテキストは面白くない。この作品はブッカー賞は取らないだろうし、それは正しいことなのだ。だが、このアルバムを手に取ることは.....なんとも形容しがたい体験であることは間違いない」 (11) という下馬評さえ出る誘因となったことも確かであるが。
いずれにせよ、切手収集者の生真面目な確実性と安定性、プラス、蜜を求め、色に惹かれ、風のゆくえに身をゆだねる蝶の軽やかさ、相反する二つの特質の玄妙な組み合わせこそが、作家セルゲーエフの魅力であると筆者には思われるがどうであろうか。
「アンドレイ・ヤコヴレヴィッチ・セルゲーエフはあるとき、くだんの相当ぶ厚い本を書きあげた。つまり、この本を彼は30年かけて書き続け、あるとき書き終わったのである。」 (12)
『クロリク』誌上における作品『切手帖』の紹介記事は上のような書き出しではじまっている。作品『切手帖』が世に出た経緯は既述のとおりである。
繰り返しになるが、作品の全体像が曲がりなりにも捉えることができるようになったのは1995年7/8月号の『ドゥルジュバ・ナロードフ』誌上であり、この時点の作品の完成度において、『切手帖』は長編ブッカー賞を受賞したのだった。しかし、文学作品としての完成は、さらに先のことである。1997年に単行本『オムニバス』が刊行されると、雑誌発表の時点では収められていなかった二つの作品『七歳の少女』『ウジェーリナヤ』が加えられ、ことに、第二部『ユベルゼー(海の向こう)』においてすでに発表されていた作品(『新生活』『全ソ映画大学』『よりよき時代』)にも、段分けや加筆(筆者が異同を調べてみたところ、削除はまったくなかった)などによって若干の修正が行われていたからである。したがって、翻訳や紹介研究をする場合、『オムニバス』に拠り、必要に応じて、ДВ版を参照することが望ましい姿勢であろう。『クロリク』の紹介記事は次のように続いてゆく。
「彼は幼い頃どんな少年だったか、彼の祖母と父はどんなであったか、学校で子供たちが卑猥にも美しく罵り合っていた(彼のこの本には、言葉と表現の小辞典がまるまる載っている)様子とか、彼がだんだんと大人になってゆく様子とか、まあ大した奴じゃないがクロリクの非常に古い友人が何と言ったかとか、そんな内容が書かれている。」 (13)
基本的に『切手帖』は二部構成であり、第一部『ヨーロッパ』、第二部『ユベルゼー(海の向こう)』からなっており、それぞれ、第一部に『戦争前』(1977)『戦争』(1977)『家』(1977)『父』(1977)『ボリシャヤ・エカチェリンスカヤ』(1978)、第二部に『七歳の少女』(1980-84)『ウジェーリナヤ』(1981-91)『新生活』(1981-85)『全ソ国立映画大学』(?)『よりよい生活』(1983-92)の諸作が収められいる。
まずはじめに、この作品のトポロジーを紹介しておきたい。この作品には、作家が幼少年時代を送った土地が三つ登場する。もっとも頻繁に登場するのは、おそらく、ウジェーリナヤであり、それはモスクワ郊外の別荘地である。ここで一家は土日や休暇を過ごしたのだった(P.77)。筆者には、ウジェリナヤはこの家族にとって一番安定した生活を営むことのできる場所だったのように思われる。次に、モスクワ市内の住居、カペリスキーであり、若干影が薄い。それから、最後にボリシャヤ・エカチェリンスカヤであり、長めの一作品にその名前が冠されてさえいるが、ここには、セルゲーエフ親子に非常に強い影響を及ぼした母方の祖母が住んでいた。祖母と父のあいだには、抜きがたい確執があり、それが一家の平和をかき乱していたようである(作品『父』の個々のエピソードの底流には、セルゲーエフの作品としては珍しく、母系家族対父という対立のテーマが通奏低音として流れているように思われる)。祖母が住んでいたボリシャヤ・エカチェリンスカヤ通りの一角は、オリンピックのための建設工事のため、1976年に取り壊され、もはや人々の記憶のなかにしか存在していない(『オムニバス』P.170)
以上の三つの場所が、おもな作品の舞台となっているが、一方、基本的な登場人物は、本人のほかに、父、母、祖父母(とくに祖母)、奇妙な隣人たち、学校の友人たちなどである。登場人物たちの個性より、むしろ、エピソードの一コマ一コマの鮮明さにその魅力があることは先に述べたとおりであるが、おそらく少年であったセルゲーエフのもっとも心の痛めたであろう父と祖母の確執は若干くわしめに触れておいたほうがよいかもしれない。
裕福で優雅な母と母方の家族たち(ラネフスカヤ夫人のところみたい)と、働き者で実直な父(こちらはロパーヒンさん)とのあいだにあった確執のなかで、セルゲーエフは自然と、母への愛慕とともに父との距離を感じるようになる。
私はほとんどクセニヤおばあさん(15)
のところには泊まらなかった。その左の見えない目を見つめ、退屈な田舎くさい話を聞いた。一度、彼女が私のためにブイリーナを歌ってくれたことがある。「パシケーヴィッチ伯はいくさに出かけた/伯はいくさへと/軍勢が伯の後ろについてゆく/あとにゃ埃が舞い上がる」
私はバリモンとマスネーの味方で、大地も好きになれなかったし、クセニヤおばあさんも好きになれなかったし、父にはオチームという侮辱的なあだ名をつけた。アクセントはチの次にある。『王子と乞食』を読むと、自分は高貴な生まれなんだと思い込みたがるようになった。(16)
自分の両親が本物の両親ではないと考えたことのない者は、可能なものと不可能なものとの相関関係において何か重要な事柄に気づかなかったのだ。
私の両親は本物だった。.....
こうしたロシア的土着性から距離をとる気質が、『切手帖』に『ヨーロッパ』とか『海の向こう』といった題名をつけさせているのかも知れない。
この作品はこの通奏低音の上を、父が残した身分証明書、成績証明書、婚姻届など各種の書類、いく枚もの写真などが引用され、それを作者が解説するかたちで、父の人となり、その周辺の事情が語られ、父が地味ではあるが、能力のある農業技術者であることが、当時の日常生活の細部とともに明らかになってゆく。父は外国語を知らなかったため不遇であったが、その不遇に不平を言うこともなく耐えた。
父はみんなと同じに見えるように、また、そうあるように努めていた。大事なことは突出しないこと、背景と一つになってしまうことだ。口ひげはいつもしっかり剃っておく。頭には帽子。つかれたルバーシカ。着古した背広。
スターリンが権力の頂点にいた困難な時代を生き抜いてゆくための知恵だったのかもしれない。こうしたぱっとしない姿の中に、芯の強い人間を見出してゆくことが作者の人間としての成長であったように思われる。やがて、祖母が死ぬと、父と母の夫婦関係にある変化が訪れる。
言葉にするのは恥ずかしいのだが、祖母の死後、パパとママは円満に仲良く暮らしはじめた。春になると、ウジェリナーヤに出かけていって、そこで『昔かたぎの地主たち』のように暮らした。天気や月、四季の移りゆきを話し合っていたものである。
「ペテロ・パウロの日には、牧草の取り入れしないと。」
「預言者イリヤの日には、草取りしなきゃなあ。」
「なんて、早く日が暮れるようになったこと....。」
そして、父はある夜不意に病を発して倒れ、そのまま最期を迎える。この作品の最後の部分で、父の死を心から悼む同僚一同からの手紙が引用される。手紙の引用のあと、「父」は次のように締めくくられる。
私はニコラ・アルハンゲリスキイ墓地にゆき、わざわざ一人になって骨壷を埋葬した。私には、骨壷が暖かいように思われた。私が骨壷を抱き寄せていたようでもあり、自分自身が骨壷にわが身を押しつけていたようでもあった。
この作品には、「1936年から1956年までの人々、事物、人づきあい、言葉のコレクション」という副題がつけられていることは先に述べたとおりであり、セルゲーエフの作風を規定するものとして、私たちは「コレクション」という言葉に立ち止まってみたのだった。しかしながら、一般には、この作品は前半の「1936年から1956年」という部分に注意が惹きつけられる傾向がつよいのである。それは時代の記録としてこの作品をとらえる視点であり、作品自体が時代の雰囲気の着実な再現を指向している以上、それはそれできわめて自然である。 1939年9月1日、ヒットラーは急遽国会を召集し、その前夜独ポ国境付近で14の国境侵犯事件が発生し、ドイツ軍は今朝5時45分から反撃を展開している、との事態説明を行った。宣戦布告なきドイツ軍のポーランド侵攻に対して、9月3日、英仏両国は対独宣戦布告をおこなう。一方、ソ連はさる8月23日にドイツと結ばれた秘密条約にもとづいて支配領域の拡大を図り、ポーランドを分割して領土を拡大したばかりか、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、フィンランド、ベッサラビアを勢力圏とした。第二次世界大戦の勃発である。
この誰もが知る歴史的事件は、同時代のモスクワの下町、カペリスキイからはどう見えていたのだろうか。セルゲーエフの記憶は次のように語っている。
中庭で社会活動家のおばちゃんが、ファシストと呼んで罵りあってはいけないとたしなめていたとき、この世界では、すでに大戦争が始まっていたのだった。カペリスキー通りからこの戦争を見ると、二階席から見物しているかのようだった。面白い。だけど、映画ほどではない。だって、私たちには関係ないんだから。ベクとルイジ・スミグルイがルーマニアに逃げだしたといって、台所いっぱいに笑いがあふれていた。イギリス人がはじめて捕虜になったという話を読んで、面白がっていた。この男は前線で眠りこみ、目がさめるとびっくり仰天した。ドイツ人もびっくりした。彼らもイギリス人を見たことがなかったからだ。記事は「勇敢なるトミーよ、おまえたちはどこにいる?」
『アガニョーク』には、ロンドンの廃墟、路上に投げ出されたフランス人避難民、パリの凱旋門に立つドイツ人兵士の姿。
ボリス・エフィーモフのポンチ絵には、フランス人、イギリス人、アメリカ人の資本家がシルクハットで金を掬っていた。「金、金、金が天から降ってくる!」
ポケット地図にはソ連邦の西に、黄土色に塗られたドイツの国家権益地域があった。
新しい切手帖には、それぞれの国のために割り当てられたページがあった。ウルグアイのページ。パラグアイのページ。そんなページには、何もなかったけれど。オーストリア、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニアのためのページはなかった。切手はいっぱいあったのだけれど。チェコススロヴァキアのかわりにスロヴァキアがあった。
ドイツとの友好のために、店には、メーメリ・キクニガナをあしらった深紅の紙の筒(?-訳者)があった。
中庭では、みなが口癖のように言っていた。
「ちょっとよく聞けよ。ドイツが何とかと言っているぞ。」
戦争に対する陽気な無関心。大衆のあいだに溢れる、反英仏、親独の気分。収集家の卵の子供部屋に忍び込んだ国際情勢の変化。インタビューからも知られるとおり、セルゲーエフが権力と無縁の、個人的思考という牙城に立てこもる収集家だったことを、ここで思い起こしてみるのも面白い。
平穏な日常がやがて一変する。
1941年6月22日、日曜日、モスクワ時間の午前3時15分、周到に準備されたバルバロッサ計画が発動され、550万人を数えるドイツ同盟軍が三つに分かれてソ連に襲いかかった。いわゆる大祖国戦争、独ソ戦のはじまりである。
新聞は一度ならず友好関係を裏書する記事を掲載していた。6月22日正午、モロトフが何によってこの友好関係が終わったのかを知らせた。パパ、ママ、お隣さん、別荘の住人たちは通りの大きなラジオまで駆け出していった。
みんながあまりの思いがけなさに呆然としていた。記憶に値するようなことを言うものは誰一人いなかった。ただヴァジクがこう言っただけ。
「前線に行くぜ。殺されたってかまうものか。ガヴローシャみたいにな。」
第二次世界大戦の惨禍をファシスト、ナチスの残虐と狂暴に求める歴史的通念(ロシアでは猛烈に強い.....)は、むろん的外れではないにしても、このような日常生活の点景を前にすると、ある見直しを迫られるのではないだろうか。教科書に載っている歴史事件とそれへの一般的評価が日常性を徹底させることを通じて異化されているのを、私たちは『切手帖』において見ないであろうか。逆に、まったく平穏な日常生活のなかにごく自然に危機が潜みうるさまを差し出されて、私たちは周りの景色が少し違って見えてくることがないであろうか。
こうした異化作用を支えるのが、作者が根深く降りて決して離れることのない「ふつうの人」の視座である。
カペリスキイのわが家には、一人の叙勲者もいなかった。
一人の党員もいなかった。
一人の軍人もいなかった。
一人の技師もいなかった。
誰ひとり、あらゆる時を通して、投獄されたものもいなかった。
誰ひとり、疎開しなかった。
誰ひとり、前線に行かなかった。ボリス・フョードロヴィッチとパパは年だったから、アレクセイ・セミョーノヴィッチは予備役で、アリンピイは地域防空で(私は、彼の健康状態が優れなかったためだと思う)。
私は従軍にあたらなかった。年端もいかなかったので。
大人はみんな一定の特徴(家族という特徴を除いて)によって分類された。
ロシア人=パパとママ。
ウクライナ人=アレクセイ・セミョーノヴィッチとエカチェリーナ・ドミートリエヴナ。
ほかのスラヴ人ー=ボリス・フョードロヴィッチとトニカ。
裕福ならざる緩衝国人=ボリス・フョドロヴィッチとクララ・イワノヴナ。
ユダヤ人=ベルナリハとアリンピイ。
かつての外国市民=同上。
かつての売春婦=ベルナリハとクララ・イワノヴナ
零落した人=ボリス・フョードロヴィッチとベルナリハ。
博士=パパとエカチェリーナ・ドミトリエヴナ。
インテリ=ボリス・フョードロヴィッチとアレクセイ・セミョーノヴィッチ。
勤め人=ボリス・フョードロヴィッチとトニカ。
先生=パパとアレクセイ・セミョーノヴィチ。
ギムナジウムに通ったことのある人=ママとアリンピイ。
学校に行かなかった人=クララ・イワノヴナとトニカ。
もんちゃく惹起人=同上。
しゃくに障る人=ベルナリハとアレクセイ・セミョーノヴィチ。
脅かす人=アリンピイとアレクセイ・セミョーノヴィチ
この一節にも、作者の収集者気質が如実に現れている。子供の視点から大人の世界がどう色分けされているのかが見て取れる。単純な列挙であるところがユーモアをさそう。
また、「私は従軍にあたらなかった。年端もいかなかったので。」の行を境に、以前とより後の部分が内容的に若干違う。その両者を結んでいるものが自由な連想なのである。
最後に「自由な連想」によって、文章が発展してゆく典型的な例を引きたい。
私はふたたび、ウジェーリナヤで二年生をはじめた。
避難者たちがあらわれた。レニングラードの人たちが戦争前から荒れていた、かつての赤軍懲役人の居住区に分かれて住みはじめた。ある疎開者は、クロチキスというまったく思いもよらない苗字で私を驚かせた。
レニングラードの人たちは、ボールペンを差し込み(フスターボチカ)と呼んでいた。封鎖のことを話すなどということを彼らは夢にも思わなかったし、私たちも決して尋ねようと思わなかった。
モスクワ郊外からの避難者は好き勝手なところに住んでいた。彼らのうちの一人が、ヒットラーの牧童という野蛮で危険なあだ名を持っていた。きっと、ドイツ人のもとで放牧でも営んでいたのだろう。
あだ名つけは、ウジェーリナヤでもモスクワでもいたるところで等しく、横行していた。
白髪=金髪(尊敬をこめて)
ねずみ=金髪(背が小さい)
サルビア=色黒(たいていタタール人)
モーラ=ジプシーに似たやつ(おいらは合唱隊のモーラ)
ヒネーザ=モンゴル人に似たやつ(学校ではいつもドイツ語をやっていた)
回虫=ひょろ長いやつ
カラペット=短いやつ
1ルーピ40=びっこ(1ルーピ40、2ルーブリ半、3ルーブリ)
一フント=めちゃめちゃ目方の軽い奴。
ファーチャ=太ったやつ(喜劇役者ファッティから)
コトフスキイ=はげ、丸坊主。
名前からのあだ名。 |
ヴォヴォチキン=ごますりの形態。 カリャー=いなせな形態。 |
苗字の短縮でつくったあだ名。 |
ジャン、パンフィル、バルカン、ソット、 ファジェイ。 |
説明できないあだ名。 |
プリトゥイク、 ミルザク、 パテカ。 |
本稿は、1999年1月30日に行われた現代ロシア文学研究会報告会の発表原稿です。基本的には、発表時の原稿をそのまま用いていますが、その際に受けた示唆や指摘に基づいて若干加筆訂正をほどこしたところがあることを、おことわりしておきたいと思います。
筆者の研究の足場は、ロシアを中心としたスラヴ圏の中世学にあります。ロシア現代文学に対して一貫した関心をもってその動向を追跡しているわけではありません。にもかかわらず、蛮勇を発揮して畑違いの分野に敢えて足を踏み入れたのは、翻ってこのハンディを逆手に取り、予備的な知識なしに素手のままで作品の読みの手応えを確かめようとすることが、文学を好む一読者としてまことに魅惑的なことだったからにほかなりません。見て見ぬ振りをしてご馳走の前を通り過ぎる手はありません。まして、報告地が雪祭りを目前にひかえた雪景色の札幌となれば.....。そうした読みの手応えの報告が何かの刺激になってくれれば!などと頭に浮かぶことが全くなかったわけではありませんが、これは僭越にすぎる後知恵にすぎません。発表のときは、とても揚がってしまいましたが、準備から発表までとても楽しませていただきました。お誘いをかけてくださった方々、いろいろと相談に乗っていただいた方々、惜しみなく有益な情報と指摘を下さった方々、諸先輩、諸同輩、諸後輩に深謝します。私の蛮勇が、ほかの専門分野を持ちながら同じような志をもつほかの人たちの妨げにならなかったとすれば、これに勝る喜びはありません。
「セルゲーエフ:ジャンルを定義することに、私は困難を覚えるのです。『切手帖』という名前ですが。コレクションなんです。 クラコフ:といういことは、コレクションというジャンル? セルゲーエフ:ええ。それ以上正確な定義づけは出来ないでしょうね。」